2025年11月 Archives

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アニメ映画化のメリットが大きい。監督は長崎に住む親戚を原爆で亡くしている日系アメリカ人。
風が吹くとき 1986.jpg 風が吹くとき1.jpg 風が吹くとき2.jpg 風が吹くとき 絵本.jpg
風が吹くとき デジタルリマスター版 [DVD]」/『風が吹くとき』['98年](さくま ゆみこ:訳)(上)/『風が吹くとき』['82年](小林忠夫:訳)(下右)
風が吹くとき 絵本1.jpg風が吹くとき 2.jpg イギリスの片田舎で平穏に暮らすジムとヒルダの夫婦は、二度の世界大戦をくぐり抜け、子どもも育て上げ、いまは老境に差し掛かっている。そんなある日、2人は近く新たな世界大戦が起こり、核爆弾が落ちてくるという知らせを聞く。ジムは政府が配ったパンフレットに従ってシェルターを作り備えるが、ほどなくして凄まじい爆風に襲われる。周囲が瓦礫になった中で生き延びた2人は、政府の教えに従ってシェルターでの生活を始めるが―。

ジェームズ・T・ムラカミ
風が吹くとき 1.jpg風が吹くとき 監督.jpg 1986年のジェームズ・T・ムラカミ監督作。原作は、「スノーマン」「さむがりやのサンタ」で知られるイギリスの作家・イラストレーターのレイモンド・ブリッグズが1982年に発表した、核戦争に際した初老の夫婦ブロッグス夫妻を主人公にした絵本で(原題:When the Wind Blows)、彼らが参考にする政府が発行したパンフレットは、イギリス政府が実際に刊行した手引書 "Protect and Survive" (『防護と生存(英語版)』)の内容を踏まえているとのことです。日本語版は1982年に小林忠夫の訳で篠崎書林から出版され、1998年にはさくまゆみこの訳であすなろ書房から出版されています(小林忠夫はあとがきで、作者は本書を現代のエリートたちへの警告の書として描いたとしている)。

風が吹くとき 3.jpg イギリス映画ですが、監督のジェームズ・T・ムラカミは、長崎に住む親戚を原爆で亡くしているという日系アメリカ人。音楽はロジャー・ウォーターズで、主題歌はデビッド・ボウイの英国人コンビ。日本語吹替え版は大島渚が監修し、ジムとヒルダの声を森繁久彌と加藤治子が担当。1987年7月に日本初公開。2008年7月、デジタルリマスター版が公開。2024年8月にも吹き替え版でリバイバル公開されましたが、個人的には字幕版で観ました。

風が吹くとき 4.jpg 夫婦が孤立の中、マニュアルを参照しながらも、時に無知や思い込みからくる誤った行動をとってしまうことなどから(日光浴をしたり、雨水を飲んだり...)、次第に"被曝死"への道を辿っていく様は恐ろしいものであり、夫婦が最後まで政府の助けが来ることを信じているのも、それが心情的には"救い"であると言うよりは、むしろ見ていて歯がゆくなる思いがします。でも、実際に身近に核爆弾が落ちたら、中途半端な知識なんか役に立たないんだろなあ。政府も何かしてくれるわけでもないし、そもそも何もできないでしょう。

ペーパーバック(1986)/ハードカバー(1987)
風が吹くとき 洋書.jpg風が吹くとき 本2.jpg 原作の絵本は、そうした会話部分は細かく区切られたコマ漫画になっていて、それがほとんどを占め、それだけ夫婦間で交わされる会話が重要であるということでしょう。ただし、必ずしも読みやすいというものではありません(小林忠夫は「大人が子どもに読んで聞かせる絵本」としている)。それをアニメ映画にすることで、会話と情景描写を同時に味わえるため、誰もが鑑賞しやすくなっており、映画化のメリットは大きいと思いました(原作者レイモンド・ブリッグズが脚本を担当))。

サクリファイス ニーチェ.jpg 因みに、核戦争が起きたと想定した映画では、この映画と同じ年に公開されたアンドレイ・タルコフスキー監督の「サクリファイス」('86年/スウェーデン・英・仏)があります。ハンガリーのタル・ベーラ監督の「ニーチェの馬」('11年ハンガリー・仏・スイス・独)もそうでした。ただ、いずれも、この「風が吹くとき」と同じく、核爆発や核攻撃の直接的な場面はありません(ただし、この「風が吹くとき」では、タイトル通り夫婦の家を凄まじい爆風が襲う場面はある)。

 「サクリファイス」では、世界の終りの危機が核戦争勃発によってもたらされたことが、登場人物がテレビでそのニュースを聴く場面があることから具体的に示されているのに対し(したがって「風が吹くとき」に近い形)、「ニーチェの馬」では、風吹きすさぶ中、父と娘が暮らす一軒家に立ち寄った男が、町は風で駄目になった」と言うだけです。ただし、2人きりで孤立して死を待つほかないとう状況は、「風が吹くとき」に似ているとも言えます。これらを見比べてみるのもよいかと思います。

風が吹くとき 本1.jpg風が吹くとき d.jpg「風が吹くとき」●原題:WHEN THE WIND BLOWS●制作年:1986年●制作国:イギリス●監督:ジェームズ・T・ムラカミ(日本語吹き替え版監督:大島渚)●製作:ジョン・コーツ●脚本:レイモンド・ブリッグズ●絵コンテ:ジミー・T・ムラカミ●音楽:ロジャー・ウォーターズ(主題歌:デビッド・ボウイ)●原作:レイモンド・ブリッグズ●時間:85分●出演:ジョン・ミルズ/ペギー・アシュクロフト/(日本語版)森繁久彌/加藤治子/田中秀幸●日本公開:1987/07●配給:ヘラルド・エース=日本ヘラルド映画(評価:★★★★)

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南北戦争、スペクタクルシーンもあったが、やや冗長。それを一気に締めるラストの三つ巴決闘。

続・夕陽のガンマン b.jpg続・夕陽のガンマンp.jpg続・夕陽のガンマン0.jpg
クリント・イーストウッド/リー・ヴァン・クリーフ/イーライ・ウォラック

続・夕陽のガンマン/地獄の決斗 [Blu-ray]
続・夕陽のガンマン 特別版 [DVD]
続・夕陽のガンマンdvd.jpg 3人の賞金稼ぎが酒場に入った途端に銃撃戦となり、一人の男が店の窓を破って飛び出してきた。そして店内には3人の死体が。悪事を積み重ね2000ドルの賞金が懸かったその男の名前はテュコ<卑劣漢>(イーライ・ウォラック)。不敵な笑みを浮かべた一人の殺し屋の男が荒野の一家を訪れた。殺し屋はある兵士を追っており、その名前が知りたいという。名前を告げた一家の主は、金は倍額出すから依頼を破棄して代わりにその雇い主を殺してくれと頼むが、雇い主からの依頼は反故にできないが、追加で依頼を受ける分には構わないと言う。殺し屋は一家の父子を射殺し、別の雇い主に依頼を遂げたと告げ、雇い主も葬る。その男の名前はエンジェル<悪玉>(リー・ヴァン・クリーフ)。賞金稼ぎの待ち伏せに遭い包囲されるテュコ、とその場に金髪で長身のガンマンが現れ、3人の賞金稼ぎを早撃ちで斃す。金髪の男は賞金首のお尋ね者であるテュコ本人を売って賞金を受け取り、縛り首される寸前の縛り縄を長距離から狙撃で切断してテュコを逃走させては後で賞金を山分けする商売を繰り返していたが、テュコの賞金首の額が上限に達したため、商売に見切りをつけ荒野の真ん中でテュコを置き去りにして去る、その金髪の男の名前はブロンディ<善玉>(クリント・イーストウッド)。野垂れ死に寸前で町に到着したテュコは報復のためブロンディを嬲り殺しにしようとする。その砂漠の道中、死にかけた兵士を乗せた馬車に遭遇、その兵士こそエンジェルが追っている兵士だったが既に致命傷を負い、息も絶え絶えの中ブロンディに大金の在り処を伝えて事切れる。南北戦争の戦場を横目に3人の男達は、裏切り、痛めつけ、時には共闘し、時には互いに出し抜こうとし、隠された20万ドル相当の硬貨の在り処を目指す。大金が眠る墓場に到着した3人は、大金を総取りできる決闘で決着をつけようとする―。

続・夕陽のガンマンp3.jpg 1966年のセルジオ・レオーネ監督作で、「荒野の用心棒」('64年)と「夕陽のガンマン」('65年)に続く所謂「ドル箱三部作」(正確にはドル三部作)の第3作目であるとされている作品(ただし、年代的には一番古いとされている)。原題の Il buono, il brutto, il cattivo を直訳すると「善玉、卑劣漢、悪玉」ですが、英題(The Good, the Bad and the Ugly)では順番が変わって「善玉、悪玉、卑劣漢」となっています(前2作の英題がA Fistful of Dollars(荒野の用心棒)、For a Few Dollars More(夕陽のガンマン)なのに対し、この作品だけタイトルに「ドル」が無い)。日本で初めて劇場公開されたときには、「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗」でしたが、ビデオ販売時に「続・夕陽のガンマン」になったようです。

 南北戦争が背景で、1500人の地方兵をエキストラに使い、60トンの爆薬を使用し、160万ドルで製作されていて(ただし、当時のハリウッド映画としてはむしろ低予算だそうだ)、橋の爆破シーンなど、壮大なスペクタクルシーンもあります。南北戦争を舞台にした映画には「風と共に去りぬ」などがありますが、戦闘の模様を描いた作品はあまり観る機会がないかもしれません。実際には、戦争映画ではないのですが、イーストウッド演じるブロンディが戦争の虚しさを示唆するような場面もあります(彼は橋を爆破して無駄な戦いを回避することで多くの人命を救ったことになり、その意味で確かに<善玉>と言えるかも)。

 ただ、南北戦争という舞台背景に、3人の主人公の金を巡る駆け引きを織り交ぜて描いているのが、却ってテンポを悪くして大味になっている印象もあります。戦争映画と言うより、前2作の続編として観ているということもあり、その流れで観てしまうと、3時間のは長さはやや冗長の感がありました(一方で、リー・ヴァン・クリーフ演じるエンジェルがいつも唐突に現れるなど、ストーリーが飛ぶような箇所もあった)。

続・夕陽のガンマン三つ巴.jpg それが、ラストの三つ巴の決闘で、それまでの「減点」を一気に取り戻した感じがします。ここまで来るとある種「様式美」です。映画撮影用に造られたスペインのサッドヒル(墓地)は、5000基の墓標が円形に配置された巨大オープンセットで、撮影の49年後にこの映画のファンの有志の人たちが、草や土に埋もれたままのサッドヒルを掘り返して2000基を復元し、このプロジェクトは「サッドヒルを掘り返せ」('17年/スペイン)という記録映画になっています。

 「ドル箱三部作」は後の方になればなるほどいいとの評価があります。例えばIMDbの評価を見ると、「荒野の用心棒」('64年)[7.9]<「夕陽のガンマン」('65年)[8.2]<「続・夕陽のガンマン」('66年)[8.8]とだんだん高い評価になっています。続編の方が本編より評価が高い映画というのは時々ありますが、第3作が最も高い評価であるケースというのは少ないかもしれません。特に、米国ではこの「続・夕陽のガンマン」の評価が高いようですが、日本でも3部作ではこれが一番という人が最近は多数派ではないでしょうか(公開当初はそうでもなかった)。

続・夕陽のガンマン り.jpg続・夕陽のガンマン9.jpg 個人的には、前2作と質的にやや異なる映画になっているため比べるのは難しいですが、先に述べた通り、後半"挽回"しているので(シリーズの流れに"回帰"しているとも言える)、前2作と同じく★★★★の評価です。リー・ヴァン・クリーフは前作「夕陽のガンマン」の方が好みだったかも(悪そうに見えて実はワケアリ)。「夕陽のガンマン」は、クリント・イーストウッドではなくリー・ヴァン・クリーフの映画でしたが、こっちはイーライ・ウォラックの映画になっているという印象です(3人の内、セリフが圧倒的に多いのがこの人)。

 因みに、IMDbではセルジオ・レオーネが生涯に監督した7作品のうち、「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」「ウエスタン」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の5作品が2015年7月現在のユーザーの選んだTop250のリストにランクインしています。特にこの「続・夕陽のガンマン」は黒澤明監督の「七人の侍」などを凌ぎ、ハリウッド以外で製作された映画の中で最高の順位を獲得(当時)、根強い人気があることを窺わせます。

音楽:エンニオ・モリコーネ

続・夕陽のガンマp.jpg続・夕陽のガンマン09.jpg「続・夕陽のガンマン(続・夕陽のガンマン/地獄の決斗)」●原題: Il BUONO, Il BRUTTO, Il CATTIVO(英:THE GOOD, THE BAD AND THE UGLY●制作年:1966年●制作国:イタリア・西ドイツ・スぺイン・アメリカ●監督:セルジオ・レオーネ●製作:アルベルト・グリマルディ●脚本:フリオ・スカルペッリ/セルジオ・レオーネ/ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ●撮影:トニーノ・デリ・コリ●音楽:エンニオ・モリコーネ新文芸坐241011.jpg●時間:178分(完全版)・162分(国際版)●出演:クリント・イーストウッド/リー・ヴァン・クリーフ/イーライ・ウォラック/マリオ・ブレガ/ルイジ・ピスティッリ/アルド・ジュフレ/アントニオ・カサール/クラウディオ・スカラチリ/サンドロ・スカラチリ/リヴィオ・ロレンゾン/ラダ・ラシモフ●日本公開:1967/12●配給:ユナイテッド・アーティスツ●最初に観た場所(再見):池袋・新文芸坐(24-10-11)(評価:★★★★)

新文芸坐で無料配布されていた「続・夕陽のガンマン」ポストカード
続・夕陽のガンマンpc.jpg

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暴力と弱さの間で葛藤する人間。ハーベイ・カイテルが怪演。宗教的テーマか。

「バッド・ルーテナント」000.jpg
バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト 無修正 HDリマスター版
「バッド・ルーテナント」2.jpg 1988年、ニューヨークのブロンクス。警部補LT(ハーヴェイ・カイテル)は今朝も車中から二人の息子を見送りながら、目覚めのコカインを吸う。今日最初の事件は被害者二名の殺人事件。現場を離れコーヒーを買いに行くと、駐車場泥棒を見かけるが無視。次の事件は薬物売人グループの追跡。LTは売人をアパートの上階に追い詰めるふりをして、別の事件で入手した薬物を与え、自分のために取っておいた薬物を吸う。売人は数日内に薬物を売却し、売上金の一部をLTに渡すことを約束する。その頃、修道女(フランキー・ソーン)が教会で二人の若い不良からレイプされる事件があり、犯人逮捕の賞金は5万ドルとされる。LTは病院で医師の診断を受ける修道女を覗き見るが、彼女は犯人を恨まないとし、事件により神のご加護を受ける機会を得たと語る。翌朝、LTはテレビでメッツvs.ドジャースのリーグチャンピオンシップシリバッド・ルーテナント01.jpgーズで、自分が賭けていたドジャースが負けたのを見てがっくりするが、次の試合で掛金を倍にして取り戻そうとする。メッツは最初三連敗し、彼はドジャースの勝利を確信していのだ。今度の掛金は持ち金以上の3万ドル。彼の薬物使用および飲酒はさらにひどくなり、行動は制御不能に。他の事件現場で薬物を見つけてスーツのポケットに隠す。しかし注意力減退により薬物を路上に落とし、同僚は訝るが、彼は証拠として提出するつもりだったと嘘をつく。彼は掛金をさらに倍の6万ドルにする。ノミ屋は忠告するが、LTはこれまで三連敗したチームが優勝したことはないと言う。彼の犯罪行為は悪化し、親の車でクラブに行こうとした若い女性二人を路肩停車させ、猥褻行為を強要する。メッツが勝ち、彼は掛金をさらに倍にしようするが、ノミ屋はLTが胴元から殺害される恐れがあるとし、12万ドルの掛金は自殺行為だとして拒否、LTは胴元に掛金を告げる。飲酒運転をしながら試合結果を聴バッド・ルーテナント03.jpgくが、ドジャースが負け、カーラジオを銃で撃つ。やがて、売人から売上金のうち3万ドルを回収する。彼は修道女がレイプされた教会へ行くと、彼女が祭壇の前で跪いて祈っていた。彼は、もし彼女が犯人が誰か知っているのであれば、代わりに彼らを殺すと言うが、彼女はもう忘れたと繰り返し、祭壇の前に跪く、LTを残して去り、、LTは精神的に不安定になる。彼は祭壇の十字架に貼られたキリストを見て涙しながら罵声を浴びせ、最終的に自分の弱さを懺悔して罪の許しを請う。キリストの足元に這っていき、血まみれの足にキスをして顔を上げると、それはキリストではなく聖杯を持った近所の黒人女性だった。彼女は、LTに、夫の質店に二人のレイプ犯が聖杯を質入れしたのだと語る。LTはレイプ犯二人を追跡して発見し、二人を手錠で繋ぐ。彼らに銃口を向けつつ、メッツが歴史的大逆転をし優勝するところをテレビで見ながら三人で次々とコカインを吸う。そして、彼らをバスターミナルに連れて行き、二度とニューヨークに戻ってくるなと語り、3万ドルが入ったシガーボックスを持たせてバスに乗せる。二人をバスで逃がした後、泣きながら車を走らせ、道路で止まると、別の車が横づけし「おい、警官」と声を掛け、雑踏の中に銃声が二発響く。LTの車の周りに人が群がっていく―。

「バッド・ルーテナント」3.jpg アメリカ・インディーズ映画界の鬼才と言われるアベル・フェラーラの1992年公開作で、ニューヨークを舞台に、暴力と弱さのあいだで葛藤する人間と都市の暗部を描いた人間ドラマです。1992年のカンヌ国際映画祭で上映されるも、ショッキングな描写や内容から賛否を呼んだそうです。2024年に本邦でリバイバル上映されました。

バッド・ルーテナント03.gif 「ルーテナント(Lieutenant)」=「副官」「補佐官」はここでは警部補の意味であり、「バッド・ルーテナント」は悪徳刑事ということですが、そえを絵に描いたような堕落した主人公LTを、「ピアノ・レッスン」(墺・ニュージーランド・仏)、「スモーク」('95年/米)のハーベイ・カイテルが怪演しており、特に素っ裸でラリっているシーンは強烈な印象を残しました。

 しかしながら、内容的には哲学的とも言える問い掛けがあるものになっています。ハーベイ・カイテル演じる主人公が、酒とドラッグの日常に溺れながらも、最後に信仰らしきものを持つ(犯罪者に"赦し"を与える)のは、それなりに説得力があったように思います(主人公は、自分がカトリックであることを認めており、子供たちもカトリック系の学校 に通わせていた。ただし、今は信仰とは程遠い生活ぶりだった)。主人公は存在となる最後の信仰に辿り着いたことでキリスト者になり得たのか。でも、あっさり殺されてしまう。それが、彼の贖罪だったのか。

 公式リーフレットによると、そもそもこの映画は1982年にスパニッシュ・ハーレムで起きた尼僧強姦事件と、その事件解決のために教会だけでなく一般市民からも懸賞金の寄付が募られ、犯人がすぐ捕まったという出来事からインスパイアされたもので、共にカトリック教徒であるアベル・フェラーラ監督と女優のゾーイ・ルンドの共同脚本です(実質彼女が脚本の殆どを書き、撮影現場でもリライトをしながら出演していたようだ)。

 アベル・フェラーラ監督はその後仏教徒になったそうですが、それを聞くと、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉がこの映画から思い出されます。

ゾーイ・ルンド.jpgバッド・ルーテナント02.jpg 一方のゾーイ・ルンドは、ミュージシャン、モデル、女優、作家、脚本家、政治活動家、プロデューサーと多彩な活動をしながらも、1999年にパリで麻薬中毒による心不全で37歳で死去しています。この映画でハーベイ・カイテルがラリっているシーンが強烈な印象を残すのは、脚本家にそうしたバックグラウンドがあったからというのもあるかもしれません。

「レザボア・ドッグス」早稲田松竹.jpg
「バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト」●原題:BAD LIEUTENANT●制作年:1992年●制作国:アメリカ●監督:アベル・フェラーラ●製作:エドワード・R・プレスマン/マリー・ケイン●脚本:ジゾーイ・ルンド/アベル・フェラーラ●撮影:ケン・ケルシュ●音楽:ジョー・デリア●時間:96分●出演:ハーヴェイ・カイテル/ゾーイ・ルンド/フランキー・ソーン/ヴィクター・アルゴ/ポール・カルデロン/ レナード・トーマス/ロビン・バロウズ /ヴィクトリア・バステル●日本公開:1994/06●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:早稲田松竹(24-05-28)((評価:★★★☆)併映:「レザボア・ドッグス」(クエンティン・タランティーノ)
 
 
 

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最初は「取り引き」の関係だったのが、途中から本当の恋愛関係になっていく。

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ピアノ・レッスン DVD HDリマスター版」ホリー・ハンター/ハーヴェイ・カイテル
ピアノ・レッスン01.jpg 1800年代半ば、主人公エイダ(ホリー・ハンター)は娘フローラ(アンナ・パキン)とピアノを伴い、スコットランドから未開の地ニュージーランドへ旅立った。現地では彼女の結婚相手スチュアート(サム・ニール)が迎えたが、彼は重いピアノを自宅へ運ぶことを拒み、ピアノを浜辺に置き去りにした。話すことができないエイダにとって、ピアノはかけがえのないものであり、エイダは娘を連れて何度も浜辺にピアノを弾きに訪れた。その姿とピアノに惹きつけられピアノ・レッスン02.jpgたベインズ(ハーヴェイ・カイテル)はピアノをスチュアートから自分の土地と交換して手に入れる。エイダに「黒鍵の数だけ自分にレッスンをしてくれたら、ピアノを返す」と約束すピアノ・レッスン04.jpgる。初めはベインズを嫌ったエイダだったが、レッスンを重ねるごとに気持ちが傾く。2人の秘密のレッスンを知ったスチュアートはエイダにベインズと会うことを禁じる。彼女は鍵盤にメッセージを書き、フローラにベインズへ届けるように託すが、情事を覗き見していたフローラは、スチュアートに鍵盤を渡して密告。スチュアートは逆上し、エイダの人指し指を切り落とす。だが、彼女の瞳にベインズへの思慕を読み取り、ベインズに2人で島を去るがいいと言う―。

ピアノ・レッスン03.jpgピアノ・レッスン 1993.jpgピアノ・レッスン v.jpg 1993年に公開されたジェーン・カンピオン監督作で(原題:The Piano)、ジェーン・カンピオン監督のオリジナル脚本であり、ノベライズ版が新潮文庫にもあります(ノーベル文学賞作家のアリス・マンローに「ピアノ・レッスン」という短編があるが(原題:Dance of the Happy Shades(幸せな木陰たちのダンス?))、あれはまったくの別作品)。「ピアノ・レッスン」は個人的には90年代のレンタルビデオ全盛期にビデオで観て、ああ、これ劇場で観てもよかったかなと思った作品の1本でしたが、「TOHOシネマズシャンテ」で4K版でリバイバル上映されることになり、最近そうした昔の作品を劇場で4K版で観る機会がよくあるのはありがたいです。

ピアノ・レッスン カイテル1.jpgピアノ・レッスン kaiteru 2.jpg ハーヴェイ・カイテル演じるマオリ族の男ベインズとホリー・ハンター演じる女エイダの関係は、最初は「取り引き」の関係であったのが、途中から本当の恋愛関係になっていく、その描き方が巧みです。果たしてエイダの行為は、純粋にピアノを取り戻すためだけのものだったのか。おそらく最初はそうだっただろうが...。今回観直してみて、エイダがベインズとの愛と官能の炎を燃え上がらせていく、そこに至るまでの過程を再確認するような感覚がありました。

 女性監督として初、またニュージーランド出身の映画監督として初となる「カンヌ国際映画祭パルム・ドール」を受賞した作品で、米アカデミー賞でも主演女優賞(ジェーン・カンピオン)、助演女優賞(アンナ・パキン)などを受賞しています(因みに、「オーストラリア映画協会賞」では、作品賞、監督賞、主演女優賞、主演男優賞、撮影賞、衣装デザイン賞、編集賞、作曲賞、美術賞、脚本賞、音響賞の11部門を受賞)。

 「アカデミー主演女優賞」のホリー・ハンターは(「カンヌ国際映画祭女優賞」「ゴールデングローブ賞主演女優賞(ドラマ部門)」なども受賞)、エイダ役に惚れこんでジェーン・カンピオン監督に熱心に売り込み、当初シガニー・ウィーバーをイメージしていたカンピオン監督を翻意させ、エイダ役を得たとのこと。ピアノ演奏の重要なシーンは本人が演奏しています。

ピアノ・レッスン07.jpg また、エイダの娘フローラを演じて「アカデミー助演女優賞」を受賞したアンナ・パキンは、当時11歳での受賞で、これは「ペーパー・ムーン」('73年)でのテータム・オニール(当時10歳)に次ぐ史上2番目の若さだとのことです。スチュアートが海岸に置き去りにしたピアノをエイダが弾き、フローラがバレイを踊るシーンは有名になりましたが、ニュージーランド北島の西海岸、ムリワイビーチ(カツオドリの群生地として有名)でロケされたそうです(ロジャー・ドナルドソン監督、アンソニー・ホプキンス主演の「世界最速のインディアン」('05年/ニュージーランド・米)もこのビーチをロケ地にしている)。

 マオリ族の男ベインズを演じたハーヴェイ・カイテルは、ギャング役などのイメージがある俳優ですが、マーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー」('76年)で売春宿のポン引き役を演じて注目され、フランシス・フォード・コッポラ監督の「地獄の黙示録」('79年)の主役ウィラード大尉役に抜擢されましたが、監督のフランシス・フォード・コッポラとの意見の相違と契約書の文面を巡って撮影開始わずか2週間後に降板(代役はマーティン・シーン)し、これが映画会社との間で「俳優の都合による契約違反」とされたためにハリウッドにおいて敬遠されるようになり、以後徐々に端役しか与えられなくなりました。そのため、活動の拠点をヨーロッパの映画に移し、リドリー・スコット監督らの作品に出演を重ねて復活のチャンスを地道に待ち(この頃もギャング役が多かったようだ)、同監督の「テルマ&ルイーズ」('91年)で義理人情に厚い刑事を演じて復活、同年公開の「バグジー」でアカデミー助演男優賞にノミネートされています。「ピアノ・レッスン」は完全復活を証明しただけでなく、演技の幅を見せた作品でもあったように思います。

 19世紀の半ば、英国は開拓者として1万人以上の労働者をニュージーランドに送り込みましたが、その時代は入植者とマオリ族間で土地問題や人種差別問題で争いが絶えなかったようです。この作品にも入植者とマオリ族の諍いは描かれており、ヨーロッパ女性とマオリ男性との道ならぬ恋は、いといろな意味で話題となる背景だったのだろうと思われます。

 因みに、マオリ族はタヒチ島周辺を父祖とするポリネシア系民族で「ハワイキ」(マオリ語で故郷)からカヌーで来たとの伝説があり「ハワイ」を含む単語が物語るように、ハワイ原住民と同民族になります(ポリネシアンは数千キロをカヌーで移動している)。一方、古代の木造住居や入れ墨、お歯黒などの習慣は日本との共通性もある民族です。

ピアノ・レッスン05.jpg「ピアノ・レッスン」●原題:THE PIANO●制作年:1993年●制作国:オーストラリア/ニュージーランド/仏●監督・脚本:ジェーン・カンピオン●製作:ジェーン・チャップマン●撮影:スチュアート・ドライバーグ●音楽:マイケル・ナイマン●時間:121分●出演:ホリー・ハンター/ハーヴェイ・カイテル/サム・ニール/アンナ・パキン/ケリー・ウォーカー/ジュヌヴィエーヴ・レモン/トゥンギア・ベイカー/イアン・ミューン●日本公開:1994/02●配給:フランス映画社●最初に観た場所(再見):TOHOシネマズシャンテ(24-04-08)((評価:★★★★)


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原作者のポール・オースターらしさが活かされた映画。

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スモーク デジタルリマスター版 [Blu-ray]
ハーヴェイ・カイテル/ウィリアム・ハート(1950-2022)
スモーク 4.jpg ブルックリンの街角で小さな煙草店を営むオーギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)は、10年以上毎日同じ時刻の同じ場所で写真を撮影していた。煙草屋の常連で、オーギーの親友でもあるポール・ベンジャミン(ウィリアム・ハート)は、作家であるが数年前に銀行強盗の流れ弾で妻を亡くして以来、仕事が手につかず悩んでいた。閉店間際の店に駆け込んだポールは、見せてもらったオーギーの写真集から亡き妻のありし姿を見つけ号泣する。ポールはボンヤリとして自動車に轢かれそうになったのを助けられ、ラシード(ハロルド・ペリノー・ジュニア)と出会う。その怪しい少年に感謝し、ポールは彼を自分の家に泊めてやる。2晩泊まった後にラシードは家を出て行ったが、その数日後にラシードの叔母を名乗る女性が現れた。ラシードの本名はトーマス・コールといい、偽名を使って各地を転々としていたのだ。その頃トーマスは生き別れた父親のサイラス(フォレスト・ウィテカー)に会いに、サイラスが営む小さなガレージを訪れた。トーマスはサイラスのガレージのスケッチをしているが、追い払われても退かず、そこでトーマスは以前世話になったポールの名前を偽名として用い、無理やり雇わせる。後日、トーマスはポールの元を再訪。ポールは先日トーマスの叔母が自分の元を訪れた経緯を述べ、本名を問い詰める。トーマスを追うギャングに押し入られ、ポールはトーマスのヤバさを知る。ルビー(ストッカード・チャニング)は戦争中、オーギーを裏切り他の男と結婚したが、娘がピンチだと金の工面に訪れる。ポールはトーマスの隠した6000ドルを自宅で見つけるが、その金はトーマスがタバコ屋のバイトでドジした賠償に当てられ、さらにルビーに渡される。トーマスはサイラスに本当の名を名乗り、息子であることを伝えるが、混乱から乱闘になる。オーギーは作家に昼食をとりながら過去にあったクリスマスの話をする。昔、万引き犯を追いかけるが逃げられ、落としていった財布には写真だけがあった。家を訪ねるとそこには盲目のおばあさんが一人で住んでいて、自分のことを孫だと思い込んだ。だから話を合わせて一緒にクリスマスを過ごしてきたという。それにポールは「本当にいいことをしたな。人を幸せにした。生きていることの価値だ」と言う。オーギーはその言葉に心から満足する。ポールはその話の原稿を書き始める―。

ポール・オースター.jpgウェイン・ワン.jpg 香港出身のウェイン・ワン監督の1995年公開作で、同年・第45回 「ベルリン国際映画祭」の銀熊賞(審査員特別賞)受賞作。原作は今年['24年]4月30日に77歳で没したポール・オースターが、ニューヨーク・タイムズ紙から依頼されて書いた短編小説。ポール・オースターは、事実を載せるはずの新聞に虚構を書けというアイデアが気に入って引き受けたそうで、そのタイムズ紙を読んでウェイン・ワン監督が感激して映画化をポール・オースターに持ちかけたということだったようです。ポール・オースターはウェイン・ワン監督と親交を深め、映画「スモーク」の脚本を書き下ろし、ハーヴェイ・カイテルやフォレスト・ウィテカーなどのキャストの選定もポール・オースターが行ったそうです。

スモーク p.jpg オーギーがポールにクリスマス・ストーリー(盲目のおばあさんとの話)を語る店は実在する惣菜屋で、この店での撮影に3日間もかかり、ポール・オースターはハーヴェイ・カイテルにセリフの一字一句変えることを禁じたとのこと。結果、このクリスマス・ストーリーを語るシーンが、ハーヴェイ・カイテルの演技の見せ処となったように思います。

 ラストで回想でそのオーギーの最後の話が演じられますが、実はおばあさんは声を聞いてすぐに別人だと分かっていたことは、オーギーの話の中で明かされていて、要するに、二人は互いに演技し合っていたということになります。また、オーギーがタバコ屋の前で撮影しているカメラは、そのとき去り際に盗んだものだった(箱に「キヤノンAE-1」とあった)という、ちょっと「オチ」っぽい終わり方で、このあたりはオースターらしいです。映画全体を通しても、原作者のポール・オースターらしさが活かされた映画と言えるかもしれません。

映画パンフレット(タバコ店の店名は「Brooklin CIGAR CO.」とある)

 「スモーク」を撮り終えた頃、余ったフィルムでスピンオフ作「ブルー・イン・ザ・フェイス」が即興で撮られ、6日間で撮り終えられたこの作品には、「スモーク」に出演したハーヴェイ・カイテル(同じく煙草屋の役)はもとより数多くの俳優が集まり、その中にはルー・リード、マイケル・J・フォックス、マドンナなどがいます(ポール・オースターはこの作品の脚本執筆&副監督を務めている)。

オーギー・レンのクリスマス・ストーリー00.jpg また、ポール・オースターが1987年の『ニューヨーク三部作』(City of Glass, Ghosts, The Locked Room)の発表から5年後の1992年に発表した原作(Auggie Wren's Christmas Story)は、柴田元幸訳、タダジュン絵で『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』('21年/スイッチパブリッシング)としオーギー・レンのクリスマス・ストーリー2.jpgて翻訳されています(絵本だが、原文は全部生かしている)。タダジュン氏のモノクロの絵がいい感じです。原作はポールの視点で描かれており、ニューヨーク・タイムズからクリスマスの朝刊に載せる短編を書かないかといわれ引き受けたものの、「クリスマス・スートリー」なんて書けないと悩んでいたという、作家ポール・オースター自身の経験を裏返しにして活かしています。「銀行強盗の流れ弾で妻を亡くした」とかはもちろん"脚本家ポール・オースター"としての創作ですが。原作では「銀行強盗の流れ弾で妻を亡くした」という話そのものが無く、これは映画のオリジナルです(ラシード少年の話なども原作には無い話で、原作では少年そのものが登場しない)。

オーギー・レンのクリスマス・ストーリー3.jpg 物語の中で、最後は、ポールはオーギーの盲目のおばあさんとの話は全部でっち上げではないかとも思いますが、彼の話を信じることにし、「誰か一人でも信じる人間がいる限り、本当でないない物語などありはしないのだ」として、小説のネタをくれたオーギーに感謝します。ある意味、「虚構」が入れ子構造になっているとも言え、「虚構の中にこそ真実がある」という作家のメッセージのように思いました。

翻訳夜話.jpg村上柴田.jpg 因みに、村上春樹氏・柴田元幸氏の共著の『翻訳夜話』('00年/文春新書)に、訳者によって翻訳がどう変わってくるかという見本として、両者それぞれの翻訳による「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」の抜粋とその原文が収録されているので、村上春樹訳と比べてみるのもいいかと思います。

村上春樹氏・柴田元幸氏

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「スモーク」●原題:SMOKE●制作年:1995年●制作国:アメリカ・日本・ドイツ●監督:ウェイン・ワン(王穎)●製作:ピーター・ニューマン/グレッグ・ジョンソン/黒岩久美/堀越謙三●脚本:ポール・オースター●撮影:アダム・ホレンダー●音楽:レイチェル・ポートマン●原作:ポール・オースター『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』●時間:113分●出演:ハーヴェイ・カイテル/ウィリアム・ハート/ハロルド・ペリノー・ジュニア/スモーク 2.jpgフォレスト・ウィテカー/ストッカード・チャニング/アシュレイ・ジャッド/エリカ・ギンペル/ジャレッド・ハリス/ヴィクター・アルゴ●日本公開:1995/10●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:新宿武蔵野館(24-06-05)((評価:★★★★)

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出てくる人が皆 "過剰"で、予想のつかないことが次から次へと起きる。テーマ的には家族の絆か。

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ルナ・パパ [DVD]」チュルパン・ハマートヴァ
「ルナ・パパ」0.jpg 満月の夜、女優を夢見るマムラカット(チュルパン・ハマートヴァ)は森で舞台俳優と名乗る男に声をかけられて互いに結ばれ「ルナ・パパ」1.jpgる。その後体の変調に気づいたマムラカットは村の医師を訪ねたものの、医師は流れ弾に当たって死ぬ。仕方なく父親(アト・ムハメドシャノフ)に妊娠を打ち明けるが、激怒した父親は戦争で精神を病んだ息子ナスレディン(モーリッツ・ブライプトロイ「ルナ・パパ」64.jpg)と彼女を引き連れて相手の男捜しに東奔西走。道中、困窮した状況を察したマムラカットは、売血を試みるが、ひょんなことから何もせずに金を貰えることに。村に帰ると、父親がわからない子を妊娠した彼女への村人からの罵倒が絶えず、一人村を出て列車に乗り込むマムラカットは、車内で売血の際に会った男と再会する。将来を悲観したマムラカットにその男は結婚を申し「ルナ・パパ」6.jpg出る。そして結婚式。だが晴れの舞台は一転し、新郎と父親の頭上に何故か空から牛が降ってきて直「ルナ・パパ」7.jpg撃、二人は湖にら落下して溺死するという悲劇に。後に月夜の男が判明。しかし、その男は、飛行機から牛を突き落とした男でもあった。怒ったマムラカットがその男に銃口を向けると、男は恐怖のあまり昏睡状態になる。兄ナスレディンは村人たちの怒号に追い詰められた妹のマムラカットを石垣の上に建つ家に逃す。するとその家の天井についた扇風機がプロペラとなり―。

「ルナ・パパ」監督.jpg 「ルナ・パパ」は、バフティヤル・フドイナザーロフ監督による1999年公開のファンタジックなドラマ。1999年の東京国際映画祭で上映され、「最優秀芸術貢献賞」を受賞した作品です。キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンの三か国の国境が接する地域(グーグルマップで見ると、この辺りは国境が入り組んでいて、確かに作品に出てきた大きな湖もある)に3.5キロメートルにも及ぶ広大なセット建てて撮られた作品そうで、吹きさらしの荒野、西部劇みたいな舞台は、無声映画時代の(「グリード」('24年/米)に出てくるような)ハリウッドの砂漠のようでもあります。

バフティヤル・フドイナザーロフ監督(1965-2015/49歳没)

「ルナ・パパ」4.jpg「ルナ・パパ」2.jpg 出てくる人びとが皆何かにつけて"過剰"で、予想だにつかないことが次から次へと起き、まったく先が読めない展開で飽きさせませんでした。終盤は、風刺の色合いを強めるとともに、一気にファンタジスティックな展開へ。でも、一方で、そ「ルナ・パパ」668.jpgこまでにリアリズムを積み上げているから、それだけファンタジーの効果があるのでしょう。ラスト、「心の狭い人たちよ、さようなら」と語り手の「(母親の胎内にいる)ボク」は言い残して、「家」は、「天空の城 ラピュタ」の如く舞い上がります。

 今まで観たことのないタイプの作風の映画でしたが(テーマ的には家族の絆の要素が濃いか)、強いて言えばユーゴスラビアのサラエヴォ(現在はボスニア・ヘルツェゴビナの首都)出身のエミール・クリトリッツァ監督の「アンダーグラウンド」('95年/仏・独・ハンガリー・ユーゴスラビア・ブルガリア)や「黒猫・白猫」('98年/仏・独・ユーゴスラビア)などに通じるものがあるかなと勝手に思ったりもしました(ユーゴスラビアとタジキスタン、地理的には少し遠いが)。ネットで見たら、同じ印象を持った人がいたようです。

「ルナ・パパ」66.jpg「ルナ・パパ」42.jpg 真摯なヒロインのマムラカット(「大地」「祖国」という意味らしい)を演じたソビエト連邦生まれのロシアの女「ルナ・パパ」67.jpgチュルパン・ハマートヴァが良く、彼女はその後、ヴォルフガング・ベッカー監督の「グッバイ、レーニン!」('03年/独)や、2021年のカンヌ国際映画祭に出品されたキリル・セレブレニコフ監督の「インフル病みのペトロフ家」(露・仏・スイス・独)などにも出演。2022年2月にロシアがウクライナに侵攻した際にはラトビアに滞在しており、戦争に反対する請願に署名。その後ロシアへの帰国を断念し、3月20日に亡命を決断したことを公表しています。

「ルナ・パパ」s.jpg「ルナ・パパ」●原題:LUNA PAPA●制作年:1999年●制作国:ドイツ・オーストリア・日本●監督:バフティヤル・フドイナザーロフ●製作:カール・バウムガートナー/ ヘインツ・ストゥサック/ イーゴリ・トルストノフ/トマス・コーファー/フィリップ・アブリル●脚本:バフティヤル・フドイナザーロフ/イラー・クリナザーロフ●撮影:マーティン・グシュラハト/ドゥシャン・ヨクシモビッチ/ロスチスラフ・ピルーモフ●「ルナ・パパ」sb.jpg音楽:ダーレル・ナザーロフ●時間:108分●出演:チュルパン・ハマートヴァ/モーリッツ・ブラウプトロイ/アト・ムハメドシャノフ/ポリーナ・ライキナ/メラーブ・ミニッゼ●日本公開:200/07●配給:ユーロスペース●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(24-04-04)((評価:★★★★)
 

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タジキスタン内戦下での恋愛。ロープウェイでのデート。"愛は時や場所を選ばず"。

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「コシュ・バ・コシュ」パウリーナ・ガルベス/ダレル・マジダフ
「コシュ・バ・コシュ」1.jpg 内戦状態にある中央アジア・タジキスタンの首都ドゥシャンベで、ロープウェイの操縦士として働く青年ダレル(ダレル・マジダフ)。一方、モスクワから久々にドゥシャンベに帰ってきた女性ミラ(パウリーナ・ガルベス)は、父が「コシュ・バ・コシュ」3.jpg賭博で作った借金のかたにされてしまう。街で銃声が鳴り響く中、都会的なミラに一目惚れしたダレルは彼女の愛を獲得するべく突き進むが―。

バフティヤル・フドイナザーロフ.jpg 1993年公開のタジキスタンのバフティヤル・フドイナザーロフ監督(1965-2015/49歳没)作で、長編デビュー作「少年、機関車に乗る」('91年/タジキスタン・ソ連)で国際的に注目された同監督の長編第2作であり、内戦下のタジキスタンを舞台に若い男女の不器用な恋の行方を綴ったラブストーリー。1993年・第50回「ヴェネツィア国際映画祭」で銀獅子賞を受賞しています。

バフティヤル・フドイナザーロフ監督(1965-2015/49歳没)

「コシュ・バ・コシュ」v.jpg 因みにタジキスタンは、1991年のソ連の崩壊でタジキスタン共和国として独立したのですが、独立直後から共産党勢力とイスラム勢力の内戦状態が長く続き、最終和平合意が成立したのは1997年6月で、この間、内戦により約6万人が死亡したと言われています。

「コシュ・バ・コシュ」6.jpg タイトルの「コシュ・バ・コシュ」は、タジクの賭博用語で"勝ち負けなし"という意味だそうで、ここでは主人公の青年の恋模様を象徴していると思われます。一方の、主人公の女性は「コシュ・バ・コシュ」7.jpg、最後に「父の死」という哀しい思いをすることになりますが、気づいてみれば、そうした辛いことばかりではなかったことが示唆されています(彼女にとっても"勝ち負けなし"か)。ということで、一応はアンハッピーエンドな面もありながら、ハッピーエンドでもあると言えるのですが、実態としては結局父親の負債は、それを肩代わりした青年に引き継がれているだけなので、これから先も二人は大変だなあと(この青年もギャンブルで取り返そうと考えているところからすると依存症? かつての賭博仲間が誰も相手にしてくれないのは、誰もがトラブルに巻き込まれたくないからか)。

「コシュ・バ・コシュ」4.jpg 冒頭の女性の父親らが賭けをやる場面が迫真の演技で、この監督の演出力にただならぬものを感じました。青年の飄々とした雰囲気も良かったです。でも、将来がちょっと心配(笑)。砲火の音が響く一方で(実際に撮影の後半は内戦が激化した時期だったとのこと)、淡々と続く人々の生活を牧歌的なムードの中に描き、戦時下での恋、ロープウェイでのデートと、"愛は時や場所を選ばず"という主題を上手く浮き彫りにしていたように思います。

「コシュ・バ・コシュ」2.jpg 撮影に使われたロープウェイは、グーグルマップで検索すると今もあるみたいですが、観光用で使われているのかどうかはよくわかりません(そう言えば、この映画では、ロープウェイで干し草とか運んでいたけれど、観光客らしきはまったく出てこなかった)。個人的には、前エントリーで取り上げた「ある一生」('23年/独・墺)と併せて「ロープウェイが出てくる映画(アクション映画を除く)」のベスト5に入れておきたい作品です。
 
「コシュ・バ・コシュ」5.jpg「コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って」●原題:KOSH BA KOSH●制作年:1993年●制作国:タジキスタン●監督:バフティヤル・フドイナザーロフ●脚本:バフティヤル・フドイナザーロフ/レオニード・マフカーモフ●撮影:ゲオルギー・ザラーエフ●音楽:アフマド・バカエフ●時間:96分●出演:パウリーナ・ガルベス/ダレル・マジダフ/ボホドゥル・ジュラバエフ/アルバルジ・バヒロワ/ナビ・ベグムロドフ/ラジャブ・フセイノフ/ズィーズィデン・ヌーロフ●日本公開:1994/08●配給:ユーロスペース●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(24-04-02)((評価:★★★★)

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自分の人生の重要シーンを10挙げるとすれば何と何が来るか考えさせられた。

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「ある一生」ポスター/シュテファン・ゴルスキー/『ある一生 (Shinchosha CREST BOOKS)』['19年]
ある一生 子供時代.jpg 1900年頃のオーストリア・アルプス。孤児の少年アンドレアス・エッガー(イヴァン・グスタフィク)は渓谷に住む、遠い親戚クランツシュトッカー(アンドレアス・ルスト)の農場にやってきた。しかし、農場主にとって、孤児は安価な働き手に過ぎず、虐げられた彼にとってのある一生2.jpg心の支えは老婆のアーンル(マリアンヌ・ゼーゲブレヒト)だけだった。彼女が亡くなると、成長したエッガー(シュテファン・ゴルスキー)を引き留めるものは何もなく、農場を出て、日雇い労働者として生計を立てる。その後、渓谷に電気ある一生3.jpgと観光客をもたらすロープウェーの建設作業員になると、最愛の人マリー(ユリア・フランツ・リヒター)と出会い、山奥の木造小屋で充実した結婚生活を送り始める。しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。第二次世界大戦が勃発し、エッガーも戦地に召集されたもののソ連軍の捕虜となり、何年も経ってから、ようやく谷に戻ることができた。そして、時代は過ぎ、観光客で溢れた渓谷で、人生の終焉を迎えたエッガー(アウグスト・ツィルナー)は過去の出来事がフラッシュバックし、アルプスを目の前に立ち尽くす―。

ある一生5.jpg 「アンネの日記」('16年/独)のハンス・シュタインビッヒラー監督の2023年作。原作であるオーストリアの作家ローベルト・ゼーターラーの同名小説は、2014年に刊行されるや読書界の話題をさらい、世界40カ国以上で翻訳され160万部以上発行、ブッカー賞最終候補にもなった作品だそうです。この原作を美しい情景と共に映画化し、激動の時代に翻弄されながら過酷な人生を歩んだ男の一生を描いたヒューマンドラマになっています(主人公の8歳の時をイヴァン・グスタフィク、18歳から47歳をシュテファン・ゴルスキー、60歳から80歳をアウグスト・ツィルナーが演じている)。

 「週刊文春」の映画評で、芝山幹郎氏(翻訳家)などはこの作品を褒めているのではないかと思ったら、「苦手な臭いを感じた」とのことで5つ星満点評価で★★★と抑えめの評価で(「過大評価したくない」とまで言っている)、中野翠氏(コラムニスト)の方がむしろ「一見淡々とした評価だが、胸の奥深くに滲みる」として★★★★とより高い評価だったのが意外でした。でも、言われてみれば、確かにあまりにストレートな造型で、芝山幹郎氏の気持ちも分からなくないです。

 戦争に行った以外は、山で生き、山で死んでいった無名の男エッガーの人生。個人的には、ラスト近くで、バスから降りた老エッガーに、それまでの人生の思い出がフラッシュバックして甦ってくるシーンが、彼の人生を集約しているようで良かったです。記憶の"結晶化"作用ではないですが、苦難に満ちたかに思えた彼の人生は、愛と幸福に満ちた人生でもあったのだなあと思ったのと、人生って集約すると、10前後の主だったシーンに纏まってしまうのかもしれないなあと思いました(自分の人生の重要シーンを10挙げるとすれば何と何が来るだろうかと考えさせられた)。

新湯 ある一生.jpg 原作はどんな大河小説なのかと思って手にしてみたら、150ページほどのやや長めの中編といった感じの本でした。映画は原作に忠実に作られているのを感じましたが、映画はエッガーの一生を時系列で追っているのに対し、原作の方は人生を俯瞰するような描き方で、時に時系列が入れ替わったりします。

ローベルト・ゼーターラー 『ある一生 (Shinchosha CREST BOOKS) 』['19年]2025.6.7 蓼科親湯温泉にて

 例えば、映画の中盤にある、エッガーが山小屋で見つけた瀕死のヤギ飼い〈ヤギハネス〉を背負って山を下ろうとするも、エッガーは片脚が不自由なうえ、折りからの吹雪に足を滑らせて身動きが取れないでいると、ヤギハネスは、死は氷の女が魂を奪っていくのだと語り、雪の中へ駆けて消えていく―というシーンは、原作では冒頭に来ています(そして、マリーとの出会いがその次に来る)。

ある一生老.jpg また、映画では、エッガーが亡くなるシーンがラストで、その前に、前述のそれまでの人生の思い出がフラッシュバックするシーンがありますが、原作では、順番が逆転し、エッガーが亡くなったという記述の後に、彼がバスに乗り、さらにバスから降るシーンがあります。映画におけるフラッシュバックシーンは、原作では「ひとつひとつの記憶が蘇ってきた」となっています。そして「まだそのときじゃない」とエッガーは小声で言います(つまり、今はまだ死なないと)。原作は最も重要な場面を最初と最後に持ってきているとも言えます。主人公は哲学者でも何でもなく、山に生きる無骨な男ですが、映画には常に「生」と密接した「死」の雰囲気があります。そうしたことが作品テーマであることは、原作の構成が、生と死を巡る重要シーンを冒頭と最後に持ってきていることからも窺えるように思いました。単に無名の男の生涯を描いた"感動作"ということではなく、観る側に人生とは何かを考えさせる作品ともとれます(「評価する」か、芝山幹郎氏が言うところの「過大評価しない」かの分かれ目はこの点だろう)。

『バグダッド・カフェ』(1987)2.jpg 中野翠氏が「親代わりの老婆と、妻という救い」があったとしていますが、虐げられた少年にとっての心の支えとなった老婆アーンルを演じたのはマリアンヌ・ゼーゲブレヒト。パーシー・アドロン監督の「バグダッド・カフェ」 ('87年/西独)で、ジャック・パランス演じる老画家が恋心を抱くおデブの女性ジャスミンを演じていた女優で、あまり喋らないですが、存在感があってその印象は強烈でした。あれから36年、まだ現役なのだなあ(痩せた?)。

「バグダッド・カフェ」 ('87年/西独)
マリアンヌ・ゼーゲブレヒト/ジャック・パランス


ある一生4.jpg「ある一生」●原題:EIN GANZES LEBEN●制作年:2023年●制作国:ドイツ・オーストリア●監督:ハンス・シュタインビッヒラー●製作:ヤーコプ・ポホラトコ/ディエター・ポホラトコ/ティム・オーバーベラント /テオドール・グリンゲル/トビアス・アレクサンダー・サイファート/スカディ・リス●脚本:ウルリッヒ・リマー●撮影:アルミン・フランゼン●音楽:マシアス・ウェバー●原作:ローベルト・ゼーターラー●時間:115分●出演:シュテファン・ゴルスキー/アウグスト・ツィルナー/イバン・グスタフィク/アンドレアス・ルスト/ユリア・フランツ・リヒター/ロバート・スタッドローバー/トーマス・シューベルト/ルーカス・ウォルヒャー/マリアンネ・ゼーゲブレヒト/マリア・ホーフステッター/ペーター・ミッタールッツナー●日本公開:2024/07●配給:アットエンタテインメント●最初に観た場所:新宿武蔵野館(24-08-25)(評価:★★★★)
新宿武蔵野館
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文学的・哲学的色合いの濃いエッセイ集。三島作品をちゃんと読み込んでいる。

三島由紀夫の死 ミラー.jpgヘンリー・ミラー・コレクション(16).jpgヘンリー・ミラー.jpg 三島由紀夫自決.jpg
ヘンリー・ミラー(1891-1980) 三島由紀夫(1925-1975)
ヘンリー・ミラー・コレクション15 三島由紀夫の死』['17年]『ヘンリー・ミラー・コレクション16 対話/インタヴュー集成』['16年]
ヘンリー・ミラー1-10.jpg ヘンリー・ミラー(1891-1980)によるエッセイ集。白水社の2010年に完結した《ヘンリー・ミラー・コレクション全10巻》の、2013年12月から刊行が始まった第2シリーズ(2019年完結)の内の1冊で、通巻で第15巻になります(最終第16巻は対談・インタビュー集)。ヘンリー・ミラーが三島由紀夫自決の翌年1971年に発表したのが表題作「三島由紀夫の死」で、その他に、映画監督ブニュエルを称賛する「黄金時代」、写真家ブラッサイを語る「パリの眼」をはじめ10編のエッセイや書簡などを収録、テーマごとに5つにジャンルに分けています。
ヘンリーミラーコレクション 10冊 水声社 』[第1シリーズ]

 まず最初の「自己を語る」の章に収められた「自伝的覚書」が、自身の出自や来歴を語っていて興味深いです。「自分にとって作品を書く目的は、大いなる現実を打ち立てることにある」とし、「自分は写実主義や自然主義の作家ではない。人生を捉えようとしており、文学において、それは夢や象徴の使用によってはじめて達成できるように思われるのだ」としています(深い!)。

 この「自伝的覚書」を初め、以下に続くエッセイにも、エッセイでありながら哲学的であったり、或いは文学的な表現が多く見られ、彼の小説のようにシュールレアリズムっぽい表現もありますが、先に挙げたその言葉によれば作家自身は「現実」を希求しており、その結果がこの作家の場合はそうした表現になるものと思われました。

 「映像の領域」の章の「黄金時代」で、このルイス・ブニュエ監督の1930年作を絶賛しており、また、その他に自分が素晴らしいと思った作品を挙げているのが興味深いですが(かなり古い映画が多い)、その中で「「三本の日本の映画」(それぞれ古代、中世、近代の日本を扱ったもの)」としながら、「タイトルは忘れてしまった」というのが残念です。

ヘンリー・ミラー ブラッサイ.jpg 「パリの眼」で写真家のブラッサイとの出会いのことを語っていますが、ブラッサイにも『作家の誕生ヘンリー・ミラー』('79年/みすず書房)という、作家ではない人物が書いたとは思えない著書があります(ブラッサイの写真集『夜のパリ』('88年/みすず書房)でヘンリー・ミラーは被写体になっている。個人的には『ブラッサイ写真集成』('00年原著刊行、'05年/岩波書店)で見た)。

作家の誕生ヘンリー・ミラー (1979年)』『ブラッサイ著/ヘンリー・ミラーとの対話(Henry Miller, Happy Rock)』表紙:ヘンリー・ミラー、撮影:ブラッサイ


ヘンリー・ミラー、ホキ徳田.jpg ずっと文学的・哲学的なエッセイが続いて、それが最後の「三島由紀夫の死」だけがオーソドックスな評論スタイルであるので、逆に意外に思ってしまいました。「週刊ポスト」に1971年10月29日号から5週に渡って連載されたものですが(当時ヘンリー・ミラーの知名度はどれぐらいだったのか)、日本人に向けてこうした文章を書くのは、作家の当時の妻が日本人のホキ徳田(1937- 、ヘンリー・ミラーの8人目の妻として知られる)であることも関係していると、自らも書いています。

 ただし、『太陽と鉄』『金閣寺』など三島のカギとなる作品をちゃんと見込んでいるようで、その上で、所謂"三島事件"(三島が東京・市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で、憲法改正と自衛隊の決起を訴えた演説(呼びかけ)を行い、その直後に割腹自殺を遂げた出来事)について、こう語っています。

「三島は高度の知性に恵まれていた。その三島ともあろう人が、大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか」

「かつて大衆の意識変革に成功した人はひとりもいない。アレクサンドロス大王も、ナポレオンも、仏陀も、イエスも、ソクラテスも、マルキオンも、その他ぼくの知るかぎりだれひとりとして、それには成功しなかった。人類の大多数は惰眠を貪っている。あらゆる歴史を通じて眠ってきたし、おそらく原子爆弾が人類を全滅させるときにもまだ眠ったままだろう」

「彼らを目ざめさせることはできない。大衆にむかって、知的に、平和的に、美しく生きよと命じても、無駄に終るだけだ」

 三島の文学を評価しながらも、その死に対してネガティブな評価をしているのは、川端康成などに通じるものがあるように思いました(その川端もまた、三島の死から2年後に自ら命を絶った)。

 この「三島由紀夫の死」はパートⅠとパートⅡに分かれていて、後半にいけばいくほど文学的・哲学的になっていきます。個人的には全編を通して、ヘンリー・ミラーの小説が持つ独特の文学的・哲学的世界観を、これらのエッセイを通しても感じることができて(久しぶりにヘンリー・ミラーの文章に触れて嬉しかったというだけのことかもしれないが)良かったです。

《読書MEMO》
三島由紀夫の死 ミラー 大.jpg●目次
自己を語る
自伝的覚書(1939)/ブルックリン橋(1936)
生の哲学
心の知恵(1939)
映像の領域
黄金時代(1938)/パリの眼(1937)
友人との対話
ハムレット―ある書簡(1935--38)/若きベトナム詩人への手紙(1972)
同時代の文学・芸術運動との対決
いたるところにいるシュルレアリストへの公開状(1938)
アラブ・極東への眼差し
アルベール・コスリーの小説(1945)/三島由紀夫の死(1971)
解題
ヘンリー・ミラーのエッセイについて 松田憲次郎


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出版後40年を経て自身が作者であることを認めた才女ドミニク・オーリー。

『完訳Oの物語』.jpgO嬢の物語 講談社.jpg O嬢の物語 角川.jpg
完訳Oの物語』['09年]『O嬢の物語 (講談社文庫 れ 2-1)』(鈴木 豊:訳)['74年]『O嬢の物語 ポーリーヌ・レアージュ 澁澤龍彦/訳 (角川文庫)』['75年]『O嬢の物語 (角川文庫)』[Kindle版]
O嬢の物語 河出.jpg  O嬢の物語 旧訳.jpg
『O嬢の物語』(澁澤龍彦:訳/金子國義:挿画/河出書房新社)['76年]『O嬢の物語 (河出文庫 レ 1-1)』['10年] 『O嬢の物語』(清水正二郎(胡桃沢耕史):訳/浪速書房)['64年]/(清水正二郎:訳/戸山書房)['72年]

 女流ファッション写真家のOは、ある日恋人ルネにとある城館へ連れて来られ、複数の男の共有性的玩弄物となるよう、鞭打やその他肉体を蹂躙する手段をもって心身共に調教される。一ヶ月ほど後、城館を後にしたOは、ルネからステファン卿なる人物を紹介され、卿の求めに従ってルネから卿に譲り渡される。ステファン卿の持ち物となったOは凌辱と鞭打とを繰り返され、さらに卿の持ち物である証として尻に烙印を押され、性器に鉄の輪と鎖を付けられる。そしてある夜会で、梟の仮面を被せられ、陰部を脱毛されたOは衆目に晒されることになる―。

 1954年6月にジャン=ジャック・ポーヴェール書店より刊行された作品で、1955年にはフランスの前衛的な文学賞「ドゥー・マゴ賞」を受賞。本邦では、鈴木豊訳『O嬢の物語』が'74年に講談社文庫から(2015年Kindle版)、澁澤龍彦訳(矢川澄子が下訳)『O嬢の物語』が'75年に角川文庫から(2012年Kindle版)、'92年に河出O嬢の物語 漫画.jpg書房から(2010年河出文庫所収)刊行されていますが(そのほかにも、清水正二郎(胡桃沢耕史)訳『O嬢の物語』('61年新流社)などがある)、個人的には、高遠弘美訳『完訳Oの物語』('09年/学研プラス)で読みました(解説で澁澤龍彦訳、鈴木豊訳と自身の訳を比較したりしている)。グイド・クレパックス作画、巖谷國士訳のコミック版『O嬢の物語(全2巻)』('96年/リブロポート、'07年/エディシオン・トレヴィル)というのもあります。
O嬢の物語 1』['96年]

「O嬢の物語」vjsヌ.jpg「O嬢の物語」 .jpg 「エマニエル夫人」('74年/仏)のジュスト・ジャカン監督により、コリンヌ・クレリー、ウド・キア出演「O嬢の物語」('75年/仏)として映画化されていますが('78年に三鷹東映で、「ラストタンゴ・イン・パリ」(ベルナルド・ベルトリッチ)、「スキャンダル」(サルバトーレ・サ)との3本立てで観た)、焼きゴテが熱そうで、あまり文学の香りはしなかった(笑)。コリンヌ・クレリーはその後「ホテル」('77年/伊・西独)などへの出演を経て、「007 ムーンレイカー」('79年/英)に出ますが、歴代で最もセクシーなボンド・ガールだったとの声も一部にあるようです。

ジャン・ポーラン
ジャン・ポーラン1.jpgジャン・ポーラン2.gif 話を小説の方に戻して、作者のポーリーヌ・レアージュ(Pauline Réage)は女性名ですが、匿名で、発表当時から世界中で本当の作者は誰か話題が沸騰しました。書き手は男で(アルベール・カミュなどはそう確信していた)、本作に長い序文を寄せている言語学者で作家で文芸評論家であるジャン・ポーラン(1884-1968/83歳没)自身ではないかと言われ、一方で彼自身は序文で、「作者が女であるということには、ほとんど疑問の余地はあるまい」と書いていますが、この言は信用がならないと言われていました。

ドミニク・オーリー
ドミニク・オーリー.jpg ところが1994年、フランスの著名な女性編集者のドミニク・オーリー(1907-1998/90歳没)が自身が作者であることを認めたとの報道がありました(当時86歳)。彼女は以前から創作に関与しているのではないかと言われていたものの、それを否定し続けていましたが、40年を経て自分が作者であることを認めたことになります。彼女はソルボンヌ大学を卒業後ジャーナリストとして働き、ガリマール社に編集者として参加したりもしていました。

ジャン=ジャック・ポーヴェール
ジャン=ジャック・ポーヴェール.jpg 因みに、この作品は当初、ガリマール社に出版を断られた後、ジャン・ポーランが、1950年代初頭にマルキ・ド・サドの作品を出版したことで有名で、後に自身の作品『生きているサド』で「ドゥー・マゴ賞」を受賞するジャン・ジャック・ポーヴェールが経営するポーヴェール出版社に話を持ち掛けて出版に漕ぎつけています。ただし、オーリーが作者であることは、ポーラン、ポーヴェールとオーリー本人の3人だけの秘密であったようです。

 ドミニク・オーリーにとってジャン・ポーランは雇い主である同時に恋人であり、女性は性愛文学を書くことができないというポーランの考えが間違っているということを証明するために、この作品を書いたとのことです。また、ポーランより23歳年下ではあるものの、もう若くなく(当時ポーラン70歳、彼女は47歳ぐらいか)、ポーランを失うことを恐れていたオーリーは、彼の気を引くために「恋文として」この物語を書いたとも述べています(「若くもなくかわいくもない自分には、他の武器が必要であった」と説明している)。

 そうした前提でこの物語を読むと、延々たる性描写(ただし、卑猥な言葉は一切使われていない)なども何となく納得がいく気がし、確かに、彼女がポーランに宛てた膨大かつ蠱惑的なラブレターのようにも思えなくありません。ただし、第二部については、ドミニク・オーリーが書いたという説と、ジャン・ポーランが書いたという説があります(ジャン・ポーランが書いたとすれば、ラブレターの返し文みたいなものか)。

 以前、このブログで沼正三の『家畜人ヤプー』を"評価不能"としましたが、雑誌「奇譚クラブ」に掲載された作者の「沼正三」は正体不明の作家で、当時現職エリート判事だったK氏が作者だという説が有力です。個人の性的嗜好をそのまま表現したものが、文学表現的に優れていても「文学」としてはどうかなというのもあり、評価に迷ったというのがあります。

 この『Oの物語』の作者ドミニク・オーリーもたいへんな才女であり、社会的地位も高い点で少し似ているようなところがあるように思いました。"出版後40年を経て自身が作者であることを認めた才女"って、ちょっと劇的であるし、名乗らなかったのは、現代とは異なる当時の時代背景もあったことは想像に難くないでしょう。ただ、書いた動機はさることながら、女性の性の解放を謳っているともとれ(という言い方をするとまたフェミニストから批判があるが)、星4つ評価としました。でも、『家畜人ヤプー』同様、評価するのが難しいというのが本音です。

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「O嬢の物語」1975.jpg「O嬢の物語」コリンヌ.jpg「O嬢の物語」●原題:HISTOIRE D'O●制作年:1975年●制作国:フランス●監督:ジュスト・ジャカン●製作:エリック・ローシャ●脚本:セバスチャン・ジャプリゾ●撮影:ロベール・フレース●音楽:ピエール・バシュレ●原作:ポーリーヌ・レアージュ●時間:105分●出演:コリンヌ・クレリー/ウド・キア/アンソニー・スティール/ジャン・ギャバン/クリスチアーヌ・ミナッツォリ/マルティーヌ・ケリー/リ・セルグリーン/アラン・ヌーリー●日本公開:1976/03●配給:東宝東和●最初に観た場所:三鷹東映(78-02-04)(評価:★★)●併映:「ラストタンゴ・イン・パリ」(ベルナルド・ベルトリッチ)/「スキャンダル」(サルバトーレ・サンペリ)

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前半の「プール小説」の部分が面白かった(かなり)。人称の切り替わりが巧妙。

The Swimmers.jpg スイマーズ (Shinchosha CREST BOOKS)2.jpg ジュリー・オオツカ
The Swimmers: A novel』['22年]『スイマーズ (新潮クレスト・ブックス) 』['24年]

【第1章】「地下のプール」の語り手は、ある都市の安価な会員制公共地下プールに通い詰める私たち。描かれるのはプールでの水泳が生き甲斐の個性的なスイマーたち。地上の「現実生活」の装飾を外した裸の平等な付き合いに魅せられ、ここを「涅槃」と呼ぶ者もいる。その中には元検査技師のアリスという女性もいる。【第2章】「ひび」はプールの排水溝近くにできた細いひびがスイマーたちに及ぼす不安の波紋を描く。暫く何事もなく忘れかけた頃、ひびは複雑に広がり始め、同様の現象が、アメリカ中だけでなく、東京(ホテルニューオータニ)、ドバイ、フランス等でも起きていると報じられる。定期点検補修期間が何度か延長され、最後にプールの閉鎖が決定。常連たちはスイミング抜きの新生活設計に頭を悩ます。【第3章】「Diem Perdidi(ディエム・ペルディディ)」は三人称で、登場人物は彼女(アリス)とあなた(40代後半のアリスの娘)。アリスと娘の共通の思い出(娘の生まれる前を含めて)について、アリスが何を覚えていて、何を覚えていないかが、美しい言葉で綴られていく。【第4章】「ベラヴィスタ」は、営利型メモリー・レジデンス(認知症高齢者介護施設)(その施設名が「ベラヴェスタ」)の担当者が、入所してきた「あなた」(アリス)に施設の内容や生活、注意点など説明する内容で構成されている。【第5章】「ユーロニューロ」では、2人称の「あなた」で綴られ(「あなた」はアリスではなく、アリスの娘に変わっている)、彼女の夫が現れる―。

 2002年発表の『天皇が神だった頃』(邦訳2002年)と2011年発表の『屋根裏の仏様』(邦訳2016年)で評価を得た作者の2022年発表作。米カーネギー文学賞を受賞しています。

 冒頭の第1章、第2章だけでもプール小説(そんなジャンルがあるのか?)として楽しく読めましたが(黙々とプールに通う常連を一種のコミュニティとして捉えている)、第3章で話はがらっと変わり、「彼女」と呼ばれる老齢女性が「あなた」と呼ぶ娘に語る回想記になっていて、この彼女が、どうやら、第1章でプールに通っていた元検査技師のアリスの今現在の姿らしいです。老女は認知症が進行して昔のことは覚えているが最近の記憶は不確かで、ただし、35年以上前に通ったスイミングクラブの記憶はあるのです。

 彼女は50年前に女児を産んだが直ぐ亡くなり、その後に妹(あなた)と二人の弟を授かった。「あなた」が小学5年の時、一家は日本人強制収容所に送られたらしい。戦後父母は離婚、母娘は白人家庭のメイドで生活費を稼いだ。「あなた」は性的虐待を受けたらしい。母は独身で通し、娘は初婚に失敗し現在に至る。すっと弟たちとは疎遠―といろいろ苦難の道を経た家族のようです。

 第4章で、老人介護施設に入ることになった彼女は、入所日に施設側の入居説明を聞きますが、語られるのは「あなたは回復の望みはなく症状が進むだけ、退所はかなわない」ということで、つまり、ここで「生を終える」ということであり、日本の老人ホームの入居説明などと随分違うなあと。

 そして最後の第5章で、彼女の夫が登場(再婚していたのだ!)。夫は「研鑽の積んだエンジニア」で現在は退職した数学教授と明かされ、そう言えば、彼女も元検査技師でした(結婚後に夫の影響で検査技師になったのだろう)。娘である「あなた」は大学を出て作家になったようだ(コレ、作者だろう)。夫の献身と優しさに守られ、彼女の後半生は幸せだったようで、典型的な認知症の経過を辿って静かに亡くなると、毎日病院を訪れていた夫は、妻の脳を解剖に付すことを了解する(理系男子だから?)。そして妻を失った彼も静かに老いてゆく―。

 全体としては、親切で世話好きで前向きな母の一代記であり、娘から見た母の記録ですが(ノンフィクションっぽい)、読み始めた時には、まさか構成的にこんな展開になるとは思いませんでした。内容的にはやはり、前半の「プール小説」の部分が面白かったです(かなり)。地下プールでは、地上の世界では画家になれない人や、人員削減の憂き目に遭った広告マンや、仕事にあぶれた俳優たちが、見事にエネルギッシュな泳ぎを見せ、68往復泳ぐのがノルマという人もいたりします。「わたしたち」はスイミング愛によって結ばれていて、この地下プールは、心の癒しと尊厳の場であり(マインドフルネスの場とも言える)、一時の避難所であり、連帯感の在り処でもあるということです。自分、も毎月プールで15㎞泳ぎますが、このタイプの小説に初めて出会いました。

 テクニカルな部分で言えば、3章のうちの第1章、第2章が「わたしたち」という一人称複数で書かれていて、それが第3章で、主語が一人称複数から三人称単数の「彼女」に切り替わり、第4章では「わたしたち」は営利目的の介護施設の職員になっていて、第5章で「あなた」という二人称単数主語にスイッチしますが、この「あなた」とはアリスの娘(第3章の「あなた」と同じ)のことになります。こうしたテクニックが巧妙で、作品の完成度に寄与しているのは確か。昨年['24年]のノーベル文学書を受賞した韓江(ハンガン)の『すべての、白いものたちの』に通じるものを少しだけ感じました(こういうの、流行っているのか)。

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パレスチナの女性作家が描いたイスラエル兵の女性に対する「物(もの)化」。

とるに足りない細部.jpgとるに足りない細部2.jpg アダニーヤ・シブリー.jpg
とるに足りない細部』['24年]アダニーヤ・シブリー
とるに足りない細部3.jpg
【第一部】1949年8月13日。イスラエル独立戦争の翌年、戦闘で破壊されたキブツの跡地にイスラエル軍が駐屯を始める。駐屯軍の任務は、エジプトとの国境の策定と付近の安全確保だ。焼けつくネゲブ砂漠をパトロール中に藪の中に動きを発見。掃射後に見たのは死んだ6頭のラクダと黒い衣装の中で震えている少女だけ、男も武器もなかった。ベドウインの少女がラクダを連れ散歩していたのだったが、パトロール隊は少女を連行する―。

【第二部】25年後、語り手の女性は25年前のベドウイン少女レイプ虐殺事件を歴史の一頁として回顧したイスラエル記者の記事を読む。少女が殺された日付、1949年8月13日が自分の誕生日と同じと知って記者に連絡を取る。当惑気味の彼から現場付近の記念博物館などを聞き出す。レイプや虐殺はこの国では日常茶飯事に起きる「取るにたりない細部」に過ぎない。何故これほどまでに血が騒ぐのか彼女自身にも解らない―。

 1974年生まれのパレスチナ人の女性作家による作品で、2017年にアラビア語で発表されたのち各国語に翻訳され、全米図書賞翻訳部門最終候補(2020年)、国際ブッカー賞候補(20121年)になるなど高く評価されたたほか、2023年にはドイツの文学賞であるリベラトゥール賞を受賞。しかし同年10月、イスラエルによるガザへの攻撃が激化するなか、フランクフルト・ブックフェアで開催予定だった授賞式は同賞の主催団体によって中止され、ブックフェアは「イスラエル側に完全に連帯する」との声明を出し、この決定に対しては、作家や出版関係者を中心に世界中から抗議の声が上がったとのことです。

 上記のように、イスラエル駐屯軍の士官が語り手の第一部と、作者の分身とも思われる女性が語り手のに第二部に分れ、その間に25年の経過があって、第一部のイスラエル兵に集団レイプされ殺されたベドウイン少女の死亡日と、第二部の女性の語り手の誕生日が同日というだけの「取るにたりない」繋がりがあるとう構成です。

 第一部の少女が連行されてからの描写が凄まじいです。士官自身はもともと、ベドウインは植物を植えることを知らず、羊やラクダを連れて草の根まで食べさせて土地を荒らし、後は移動するだけなのに、自分たちはこの約束の地に家を建て、井戸を掘り砂漠を農地や牧場に変え、やがては工場や商店を呼び込んで繁栄するだろうと、自負心と差別意識が相俟っているような人物。毒雲に噛まれた傷跡が悪化し化膿して幻覚症状に陥りますが、彼にとっては蜘蛛もベドウインも排除すべき生き物ということでは同じです。

 連行した少女をベドウインの部落に戻すか、指令本部に連れて行くべきか士官は考えますが、結局、泣きわめくだけの、垢と悪臭まみれの娘を広場に連れ出し、服を脱がせ、体を洗わせ、乳房や陰部を見物の兵に晒した後、少女を飯炊き女として使うか、慰めものにするかと提案。隊長は次の日の朝まで少女への接触を禁じる命令を出し、少女を自分の小屋で犯した後、三日間兵士に与え、さらにその後、少女を撃ち、砂漠に予め用意した穴に埋める。本部には完全隠蔽。兵士に「極く些細な気晴らし」を与えたのだった―。

 第二部で、少女が殺された事情を探ろうとする語り手(パレスチナ人)は、ガザに住む友人に頼んで通行証を、男友達に頼んでレンタカーを借り、搭乗者に名前を追加してもらって検問所を突破。しかし、道に迷い、新たに出来た高速道路や入植地のアパート群に、この地の変わりように驚く。やっと事件の現場らしき場所へ行き着くと、博物館の人のいい管理人が、昔井戸に投げ込まれたベドウイン人の少女の死体を見たと話すが、アラブ人は挙動が怪しい人間を井戸に投げ込むことがあるという、史実と違う話になっている―。

 翌朝、廃墟の近くで、当時司令官が住み少女がレイプされた小屋に似ている小屋を見つけ近づくが「そこを動くな」の声で我に返る。彼女は知らないうちに軍事施設の中に入り込んでいたのだ。銃口が狙っているのが判り、何気なくポケットに手を入れた瞬間―。

 ストーリーは登場人物の内面に入り込むのを避け、出来事を淡々と述べるスタイルで進行していきますが、作者自身、余計な想念を働かせずに物語として読んでほしいと言っており、また、この物語を政治情勢と絡めて論じられることを忌避しているようです。個人的にも読んでいて、字も読めないベドウイン少女ともう一人の作者を想起させる知識人女性は、女性という「弱者としての性」で繋がっているように思いました。

 イスラエル兵によるその女性に対する「物(もの)化」は、イスラム社会における「男尊女卑」を超えているとも捉えることができます。その意味で、普遍性のある作品であると同時に、(史実と異なる伝承がされていることなども含め)政治的な読まれ方をされることがある程度避けられない作品でもあるように思いました。それでも佳作だと思います。

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黄色い雨0.jpg黄色い雨.jpg フリオ・リャマサーレス.jpg
黄色い雨』['05年]『黄色い雨 (河出文庫 リ 5-1)』['17年]フリオ・リャマサーレス(1955年生まれ)

 舞台はピレネー山脈麓の過疎村アイニェーリェ村。主人公の私の語りで物語は進む。村の住民が次々に離村していった。私の娘はたった四歳の時に病気で苦しみ抜いた末に死んだ。私の息子も一人はスペイン内戦の時に徴兵されて消息不明となり、もう一人の息子も家族を捨てて出て行ったきりである。結局、私と妻のサビーナ、そして飼っている雌犬のみが村に残された。そして、妻もやがて寂しさに耐えきれなくなって、首を括って死んだ。私は廃村になった村で雌犬と共に細々と命を繋いだが、ただ死を待ち受けているだけにも思えた。私はある日、毒蛇に噛まれて生死の境を彷徨った。そして、その頃から、私の前の死者たちが現れるようになった。まずは母親、そして親族。そしてある日、唯一かけがえのない友である雌犬に、死の象徴であるポプラの枯れ葉色の影が落ちていることに気づいた。いずれこの時が来ると覚悟していた私は、そのためにとっておいた銃弾で犬を撃ち殺して死者たちのもとへ送り出し、自分もベッドに横人って死の訪れを待った―。

La Lluvia Amarilla.jpg スペインの小説家、詩人フリオ・リャマサーレス(1955年生まれ)が1988年に発表した小説で(原題:La lluvia amarilla)、リャマサーレスはマドリッド大学の法学部に入学し、卒業後は弁護士を経てジャーナリストとして働く傍らで詩を書き続けていましたが、この作品で(法律やジャーナリズムとは対極にあるような幻想的な作品だが)世界的に知られるようになり、小説の執筆に活動の重点を移したとのことです。

La Lluvia Amarilla』(スペイン語版ペーパーバック)

 小説の舞台のアイニェーリェ村は実在することが小説の冒頭に書かれています。1970年に廃村になったものの、家々は徐々に崩れながらもまだ建っていると。そして主人公の「私」も、次々に崩壊していく家屋を眺めながら、過去の思い出について語り出す。村であった出来事、村を離れていく息子や近所の人々。村と共に生き、今は村と共に死に絶えようとしている「私」は決して死から目をそらすことなく、最後まで冷静に観察を続け、或いは見方によっては、もうすでに死んでいて、死者の世界から語り掛けているようにもとれます。

 ちょっと、ラテンアメリカ文学におけるマジックリアリズム的雰囲気も感じました。そう言えば、『百年の孤独』ガブリエル・ガルシア=マルケスも、ジャーナリスト兼小説家(ジャーナリストが先で小説家が後から)でした。ただし、個人的に最も想起させられたのは、同じくラテンアメリカ文学で、1955年にメキシコの作家フアン・ルルフォが発表した『ペドロ・パラモ』(1979年/岩波現代選書)でした。

 『ペドロ・パラモ』の主人公「おれ」は、母親が亡くなる際に言い遺した、自分たちを見捨てた父親に会って償いをさせろという言葉に従い、顔も知らない父親ペドロ・パラモを捜しに、ある町に辿り着きますが、町には生きている者はなく、ただ、死者ばかりが過去を懐かしんで、蠢いているだけだった―というもの。この小説のスゴイところは、何と主人公も実は死んでいたということで(途中でそのことがわかるが。それまで自分が死んでいることに気づかない)、シュールなところが似ているように思いました。

 『黄色い雨』は、200ページ弱と中編と長編の間ぐらいの長さですが、物語の最初の方で妻が首を吊って死んでしまい、あとは傍にいるのは雌犬ただ一匹という孤独な〈私〉が、迫りくる死と向き合い、それを見つめ続けるという重苦しい描写が続きます。ただし、一方で、失われた多くのものへの美しいレクイエム的な感情も描かれています。

 結局、最期、人間は一人で死んでいくのだということでしょう。失われたものたちへの深い哀惜の念を抱きながら、やがて自分もいつかその一員となるという、死に対する怖れと、死を受け入れることによる安心。そうした思いを読む側に抱かせる不思議な作品でした。

【2017年文庫化[河出文庫]】

《読書MEMO》
●2025年11月29日(土)付の「朝日新聞」朝刊の読書面「気になる本 読みかえす本」で、ロックバンド「クリープハイプ」のボーカル&ギターの(小説家でもある)尾崎世界観氏がこのフリオ・リャマサーレスの小説『黄色い雨』を紹介していた。コロナ禍の時の読んだとのこと。この記事は、朝日新聞社の関連サイト「好書好日」でも読める(「他者の存在から自分が見える 尾崎世界観」)。


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「賢く考えていながら愚かに行動するのが、人間の性」。やるせない話だった。

神々は渇く f.jpg
神々は渇く.jpg アナトール・フランス1921.jpg アナトール・フランス(1921)
神々は渇く (岩波文庫 赤 543-3)』['77年]

Les Dieux ont soi』['93年]

Les Dieux ont Soif, 19121.jpg 貧しくも正義感あふれる愛国的な青年画家エヴァリスト・ガムランは、あるきっかけで革命裁判所の陪審員になって権力を持ち、ジャコバン派の影響を受けたことで、「残虐非道な化物」と化して、元貴族、亡命を試みた者、無神論者、娼婦等を悉く死刑にするようになる。元貴族で今は屋根裏部屋で暮らす老人ブロトは、ルクレティウスを信奉する無神論者で、聡明な彼は、人命を脅かす革命裁判所を長く続かないとし、「革命裁判所には低劣な正義感と平板な平等意識とが支配しています。これがやがて革命裁判所を憎むべきもの嗤うべきものにし、万人に嫌悪を催させることになるでしょう」と予言する。そして、その思想ゆえに逮捕される―。

Les Dieux ont soif』['18年]ペーパーバック

 アナトール・フランスの、フランス革命期の恐怖政治とそれに巻き込まれる人々を描いた歴史小説で、1911年11月から1912年1月にかけて「パリ評論」誌に掲載され、1912年6月に単行本として刊行されました(原題:Les Dieux ont Soif)。多くの資料に基づいて組まれたそのプロットは老練で、緻密な風俗描写は、読む者を18世紀末の騒乱の体験者にしてしまうようなリアリティがあります。

Les Dieux ont Soif, 19122.jpg 主人公のエヴァリストは、恋人エロディが過去に付き合っていた男に嫉妬しており、それらしき貴族が逮捕されると、こいつに違いないと思い込み、エロディが否定するにもかかわらず、人違いで死刑を宣告してしまいます。また、革命裁判所の判事ルノダンに至っては、逮捕された貴族シャサーニュの愛人であるジュリ(エヴァリストの妹)からシャサーニュを救ってほしいと頼まれると、肉体交渉を迫り、その後で約束を破ります(藤沢周平原作、山田洋次監督の「隠し剣 鬼の爪」('04年/松竹)に出てくる悪徳家老みたい)。

 そして、ブロトが予言したように、民衆から「もうたくさんだ!」という声が上がり始め、所謂「テルミドールのクーデター」によってロベスピエールが失脚すると、エヴァリストたちはかつて貴族たちを罵っていた民衆に罵倒されながら革命広場の処刑場へと送られますが、彼は自分がしたことを悔やみはせず、もっと多くの人間を死刑にできなかった己の寛容さを悔みつつ断頭台の露と消えていく―という、もともと繊細な精神の画家で、母親思いの優しい男だったのが、どういう運命のいやずらでこうなったしまうのかという、スゴイと言うかやるせない話でした(ブロト老人のような人物の存在が唯一の救いか)。

Les Dieux ont Soif, 19123.jpg 作者は、老人ブロトにシンパシーを寄せていますが、エヴァリストを突き放しているわけではなく、この美貌の怪物は、飢えた母子にパンを恵み、農夫が小麦を刈るのを見て涙し、見知らぬ少年に銀貨を与え、初めて陪審員席に座った時は、騎兵隊の馬糧でひと儲けしようとした悪党を「証拠がない」と無罪にしたりもして、寛容さも見せています。そんな彼が「残虐非道な化物」になってからは、常に悪夢にうなされ、「自分は忌まわしい者とされて死ぬだろう」と自覚しており、それでも冷酷に徹するのは、王や貴族や彼らに与する者など「祖国の敵どものけがれた血」を流す大役を引き受けようとするヒロイックな愛国心ゆえです。

 しかしながら、例えば、「国王万歳!」と叫んで逮捕される娼婦には愛国心が無いとしてエヴァリストが彼女たちを憎むのは、実は個人的な感情に起因していて、「官能と精神との快楽を享受し、生きることが愉しかった時代に生きていた」者を嫌悪していためで、ただし、本人にはその自覚は無く、革命の混乱時において、誰かがやらねばならぬ仕事を愛国者として全うし、公安に寄与していると思い込んでいる一方で、自身の性生活はタガが外れたようになり、狂った男の血の匂いに興奮する恋人エロディの激しい愛撫によって快楽と癒しを得ているという、快楽を否定しながら、自身が快楽に嵌る矛盾に陥っています。

 エヴァリストのような人間を人でなしの化物として攻撃するのは簡単ですが、いざ狂熱の時代に投げ込まれ、同じ立場に身を置く羽目に陥った時、彼のようにならないと誰もが断言できるでしょうか。作者は「主人公ガムランは、ほとんど化物のような人物だ。しかし人間は徳の名において正義を行使するにはあまりにも不完全であること、されば人生の掟は寛容と仁慈とでなければならないことを、私は示したかったのだ」と語っています。

 人間の不完全さについては、エピクロスも『わが友の書』で「賢く考えていながら愚かに行動するのが、人間の性だ」と記しており、また、アナトール・フランスによる『エピクロスの園』に記された、「快楽は恐怖が混じっていてこそ人を陶酔させる」や「人間が真に人間としてとどまるのは憐れみによってである」という言葉は、『神々は渇く』にも貫かれています。

 エヴァリストは貧しい芸術家で、純粋で、弱き者に同情的で、無神論者に共感することもあったのが、ジャコバン派の集会に通い詰めるうちに、「清廉潔白の人」ロベスピエールの教えに染まり、その分身たらんとしたのですが。こういうタイプの人間はいつの時代にもいて、彼らは往々にして、新たに生まれ変わった自分をむやみに徹底させ、極端に走りたがるので、こうした人間が権力を持つとロクなことにならないということでしょう。その周囲にいて巻き添えを食らう人は堪らないし、結局は本人も破滅への道を歩むことになるのでしょう。

神々は渇く い.jpg 『神々は渇く』は歴史小説であるため面白く、革命裁判の様子は、臨場感満点です。史実がベースとなっているので、ストーリーの展開は周知のものですが、先にも述べた通り、その時代の目撃者になっている気持ちにさせられ、大河ドラマを観ているような印象もあり、その時代をくぐり抜けてきたような疑似体験ができます。

 結局、「人間は本能と感情とによって導かれる」ため、いざという時、自分の行動にそれを上手く生かすには、普段から自分を見つめ、統制し、訓練しておくことが必要なのでしょう。自分自身の哲学を持っておくことも必要でしょう。それでも、いざとなったらどうなるか、保証の限りではないですが(心許ないね)。

【1932年単行本[春陽堂(『血に飢えた神々』)]/1950年全集本[白水社(『アナトオル・フランス長篇小説全集』)]/1961年文庫化[角川文庫(根津憲三:訳)]/1977年再文庫化[岩波文庫(大塚幸男:訳)]】

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心温まる作品。「情けは人の為ならず」ということか。

シルヴェストル・ボナールの罪2.jpgシルヴェストル・ボナールの罪.jpg アナトール・フランス.jpg アナトール・フランス
シルヴェストル・ボナールの罪 (岩波文庫 赤 543-4) 』['75年]

Le Crime De Sylvestre Bonnard (Folio classique)』['91年]
第一部「薪」
 主人公シルヴェストル・ボナールはパリ在住の文献学者であり、セーヌ河畔の家で、婆やと一匹の老猫とともに暮らしている。ボナールはある貴重な写本の行方を追ってシチリア島まで旅する。しかし、写本はすでに売り払われた後だった。彼は、パリのオークション会場で目当ての写本を競り落とそうと奮闘するが、競り値は高騰し、写本は落札できなかった。ところが彼は、かつて恩を施したことのある貧しかった女性から思わぬ贈り物を受けることになる―。

シルヴェストル・ボナールの罪2bu.jpg第二部「ジャンヌ・アレクサンドル」
 ボナールは、若いころの悲恋の相手だった女性の孫娘ジャンヌが孤児となって不幸な生活を送っていることを知り、その待遇改善を働きかけるが、ついには彼女を引き取ってその後見人となる。その後、ボナールの教えを受けていた学生とジャンヌが惹かれ合い、二人は結婚することになる。ジャンヌの持参金作りのため、ボナールは蔵書を売り払うことに決めるが、愛着があってどうしても手放し難い書物を夜中に抜き取って自分の元に留めてしまう(これが表題の「罪」を意味している)―。

フェルナン・シメオン(フランス語版)の挿絵による第二部の一場面

 1921年にノーベル文学賞を受賞したアナトール・フランス(1844-1924)が1881年、37歳のときに発表した作品(原題:Le Crime de Sylvestre Bonnard)であり、その年齢にして54歳から70歳までの主人公を描いていることになりますが、この作品はアカデミー・フランセーズから文学賞を授賞され、彼は作家として一般的な名声を得ることになったとされています。

 第一部は80ページ、第二部は180ページで、分量的に不均衡がある構成ですが、仏文学者の辰野隆(1888-1964)は、「この小説には構成が欠けている。組み立てに無頓着で、ただ二つの長い挿話があまり緊密でなく繋がれているに過ぎない」と指摘し、構成の組織を欠くことと、未来に向かって新しい扉を拓く趣のきわめて少ないことは、この作品に限らずアナトール・フランスのすべての小説を貫く欠点だと指摘しています。

 確かに、第二部で、ボナールが愛着があって売れなかった本がまさに第一部の写本であり、そこでしか第一部と第二部が繋がっていません。でも、何となく心温まる作品です(彼の「罪」は、彼だけが「罪」と感じているものであって、むしろ彼の真面目な人柄を感じさせる)。この「心温まる」という要素も、昔からある物語のパターンであり、その辺りも批判の対象になっているのでしょう。それでも、翻訳者である大塚幸男(1909-199)などはやはり、「愛書家アナトール・フランスの面目躍如たる、心あたたまる小説である」と述べています。

 ストーリー的には第一部の方が面白かったでしょうか。同じ建物の屋根裏部屋に住んでいた、貧しく若い子連れの女がねえ。再会した時、ボナール先生は最後まで分からなかったみたいだなあ。相手は気づいていたけれど。「薪」の差し入れがこんな形で返ってくるとは。「情けは人の為ならず」って誤用されがちな言い回しですが、もともとはこんな話のことを言うのだろなあ。

 文庫解説によれば、アナトール・フランスは70歳のときにロワール河畔のラ・ベシェルリーに別荘を購入したが、その2年後、かつての恋人でいまは亡きカイヤヴェ夫人の孫娘がこの別荘に滞在することになり、これは、35年前に書かれた『シルヴェストル・ボナールの罪』において、ボナールの昔の恋人の孫娘ジャンヌがセーヌ河畔のボナールの家を訪れる場面に偶然にも重なるとのこと。なかなか興味深いエピソードです。

シルヴェストル・ボナールの犯.jpgシルヴェストル・ボナールの罪m.jpg 因みに、1929年にフランスでアンドレ・ベルトミュー監督により無声映画化されていますが、現在ではあまり知られていません。また、カナダの映画監督のグザヴィエ・ドランが、この小説の一節を引用して映画製作への情熱を語るなど、文学作品として、また引用元として言及されることはあるようです。

映画ポスター

【1922年単行本[冬夏社『シルヴエストル・ボナール博士の罪』]/1947年全集本[白水社(『アナトオル・フランス長篇小説全集〈第1巻〉シルヴェストル・ボナールの罪』)]/1975年文庫化[岩波文庫]】


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