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こういう話ぶりに自分も感じ入る年齢になったのかも。「ブラック・アングル」連載終了かあ。
『昭和よ,』『山藤章二の四行大学 (朝日新書)』山藤章二 氏[スポーツ報知](82歳時)
「ブラック・アングル」45年の歴史に幕 通算2260回に
朝日デジタル(2021年11月8日)
『昭和よ、』は、82歳になった著者が、今思うことを、一人語り調文体で綴ったエッセイ集で、これまでの著者のエッセイ集同様、世相・文化・芸術・社会ち幅広く論じています。
普通なら「昭和よ、さらば」とか「昭和よ、ありがとう」というタイトルになるところを「昭和よ」としたのは、昭和を過ごした読者にはそれぞれの思いがあるだろうから、あえて外して、読者にバトンを託す形にしたとのことで、それほどに昭和は多彩えだったということのようです。
ちょうど、1976年から「週刊朝日」で連載してきた「ブラック・アングル」と、1981年から続く「似顔絵塾」が、今月['21年11月]22日発売の12月3日号で終了しており(通算2260回、読者が投稿する「似顔絵塾」は1990回となっている)、「長年の孤軍奮闘の疲れもあり、連載終了を決めた」とのこと。そっかあ、本書が出てからまた2年が経っており、今84歳だから、ここまで連載を続けてきたこと自体がスゴイことだと思います。
「ブラック・アングル」は以前に比べて(70年代、80年代に比べてといことにまるが)やや毒が弱まった気もしますが、こうしたエッセイは、自分が年齢が高くなったせいか、意外とすんなり入ってきます。
最後、2018年12月4日に駅名が発表された「高輪ゲートウェイ駅」のネーミングにケチをつけていますが、これって駅名撤回を求める署名運動にまで発展したのではなかったかなあ。別に年寄りが独りよがりで変なことを言っている(笑)のではないということの証しでしょう。
2018 〈平成30年〉7月2日に81歳で亡くなった落語家の桂歌丸を取り上げ、落語家気質というもの考察し、2018〈平成30〉年8月15日に53歳で亡くなった漫画家のさくらももこを取り上げ、「サザエさん」の長谷川町子と対比させているなど、ただ、人が亡くなって哀悼や惜別の意を表するだけでなく、そこでまた一つ考察しており、こういう人ってボケないのだろなあ。
同学年の和田誠を自分と対比させ、「和田と山藤」として一つ高い視点から論じた上で、最後に「和田さん百歳になったら一度対談しましょう」とエールを送っていますが、その和田誠も2019〈令和元〉年10月7日に83歳で亡くなっているのが寂しいです。
森繁久彌を取り上げたところで、森繁が語った「灯台守」の話を書き起こしていて、そこでは男の仕事とはどういうものかを説いており、仕事は単調で、狭い空間で一家の生活は終始し、気晴らしの機会もない単調な毎日で、夏休みも休日もないが、皆さんはこういう職場に耐えられるかと。毎日単純なことの繰り返しで責任は重い。男の仕事とはこういうものだと。
戦後すぐに「俺(おい)ら岬の 灯台守は 妻と二人で 沖行く船の 無事を祈って 灯(ひ)をかざす」という歌が流行り、佐田啓二と高峰秀子主演で映画にもなったとし(「喜びも悲しみも幾歳月」('57年/松竹)のこと)、佐田啓二も高峰秀子も芸能界にはめずらしくストイックな感じの人で、ぴったりだったと(この辺り、森繁の言葉なのか著者の感想なのかよく分からないけれど、まあいいか)。著者はこういう人生に弱いと。
著者のこういう話ぶりに自分も感じ入る年齢になったのでしょうか(苦笑)。
もう一冊、『山藤章二の四行大学』の方は、同様に著者の感じること、思うこと、喜びや怒りが、全て4行のエッセイとして書かれているのものです。
例えば「知らないけど老子は好きだ、と決めてかかる。何しろ孔子や孟子がたくさんの道を説いていた時代の人である。同業の賢人たちの隙間を主張しなければ世に出られない。よほど天邪鬼的な発想をした人だ」とあり、へんに知ったかぶりせず、老子を知らないとしながらも、一方で老子は好きだとして、自らの哲学を追求する意欲を見せています。
「しみじみとそういうことに気がつくのは、老境に入ってからである。若いうちは競争するのが当たり前という頭になっていた。若者じゃなくてバカ者だ。柿の実に学ぶがいい。ポトリと落ちる寸前が味わい深い」なんて、これぞ"老境"という感じのものもあります。
さっと読めてしまうのでちょっと物足りない印象もありますが、本当はもっと噛みしめて読まなきゃならんのだろなあ。