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ストーリーの面白さでぐいぐい読み進むことができた。ヒロインのキャラが立っている。

吸血鬼ドラキュラ (角川文庫).jpg 『吸血鬼ドラキュラ』 昔の創元推理文庫の表紙.jpg 吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫).jpg Bram_Stocker_1847-1912.jpg
吸血鬼ドラキュラ (角川文庫)』['14年](カバー:山中ヒコ)/『吸血鬼ドラキュラ (1963年) (創元推理文庫)』['63年](カバー:石垣栄蔵)/『吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)』['71年]/Bram Stocker(1847-1912)
『吸血鬼ドラキュラ』 角川文庫.jpg『吸血鬼ドラキュラ』 創元推理文庫o.jpg 事務弁護士のジョナサン・ハーカーは、ロンドンに屋敷を購入したいというドラキュラ伯爵との交渉のためトンラシルヴァニア山中の古城まで旅する。到着した城では、黒ずくめで長身のドラキュラ伯爵に迎えられる。伯爵の唇は毒々しい赤、その端からは尖った白い犬歯が出ており、息は生臭い。伯爵と英語で話す日が3日すぎた朝、持参の小鏡でヒゲ剃りを始めると、「おはよう」と伯爵が肩に手をやるが、鏡に伯爵の姿が映っていないことに驚く。手が滑り、頬から出血すると、伯爵が彼の喉笛に飛びかかる。身を引いた拍子に手が首の十字架にふれると、伯爵はとたんに「手当を」と言って、窓から鏡を外へ投げ捨てる。囚われの身であることに気づいた彼は、脱出方法を探しながら2ヵ月近くを過ごす。ある日、納骨所の木箱の一つに伯爵が死んだように横たわっているのを発見、2日後にまた行ってみると、若々しく膨らんだ伯爵の口のまわりが血だらけだった。魔女のような3人の怪女も現れて彼を苦しめる。ロンドンでは、ジョナサンからの連絡が途絶え、婚約者のミーナが気を揉む。ミーナの友達のルーシーは、3人の男性から求婚され、アーサー・ホルムウッド(ゴダルミング卿)を選んで幸福の絶頂にいた。しかし、近ごろ奇怪な夢遊病にかかり、夜中に外を歩き回って朝になるとその記憶がなく、体は衰弱していく。ルーシーの求婚者の一人でもあった精神病院の院長のジョン・セワードが診察するものの良くならず、恩師ヴァン・ヘルシング教授に救援を依頼する。駆けつけたヘルシング教授がルーシーの体に血液が足りないと診て輸血の手配をすると、彼女の首に2つの穴を発見する。教授は、ルーシーにニンニクの花輪を渡し、いつも身に着けているように指示する。どんどん血がなくなっていくルーシーに、もう一人の求婚者だったテキサスの大地主クインシー・モリスも駆けつけて輸血を申し出するが快方には向かわず、むき出しになってきた白い歯が尖り出す。やがてルーシーは亡くなって葬られるが、死に顔には元の美貌が戻り、首の穴も消えている。新聞は、人攫いの女に誘拐された子供が首にかみ傷をつけて戻るという怪事件の続発を報道、教授は、事件は実はルーシーの所業であるという。またセワード院長の奇妙な精神病患者レンフィールドは蝿、蜘蛛、鳥などを食べ、妙な説を唱え続けていたが、この男も伯爵の支配下にあるのだと。一方、ジョナサンはなんとか城を脱出して帰国し、ミーナと結婚していたが、伯爵は彼女に目をつけ、つけねらうようになる。レンフィールドを操ってセワードの病院に潜入した伯爵は、何万匹ものネズミの魔物を使ってパニックを引き起こす。ミーナを捉えると首を噛み、自分の爪であけた胸の傷口に彼女の口を押しつけて血を飲ませる。教授の用意した「聖餅」の効力で伯爵は退散するが、ミーナは「汚されてしまった」と嘆き、額に「聖餅」を当てると悲鳴を上げ、赤い痣ができる。ミーナの心に伯爵が入り込んだのだ。伯爵は自分の城へ帰ったらしいが、教授は、大都会で自分と同じ「不死者」を増殖させるのが伯爵の計画で、放置すればミーナも死後は彼と同じ「不死」の怪物になるという。事態を食い止めるには、ドラキュラ城まで追撃して彼を撲滅するしかないと、セワード、ゴダルミング卿、クインシーとジョナサンで計画を練る。ミーナからは催眠術でドラキュラの思考を引き出せるようになっていたので、彼女も加えたグループで東へと出発、城へ着くと、かつてジョナサンに迫った3人の魔女から攻撃を受ける。戦闘中、クインシーは深手を負うものの、彼らを撃退して、ついに納骨所の例の木箱に伯爵を発見。ジョナサンの大刀が伯爵の喉元を貫き、クインシーの匕首が胸に深く突き刺さると、その体は粉々の塵となって影も形なくなる。最期の瞬間の伯爵の顔には「平和の色」が浮かび、ミーナの額からは痣が消え、深手を負っていたクインシーもそれを見てにっこり笑って死ぬ―。

女吸血鬼カーミラ.jpg 1897年5月26日に刊行されたアイルランド人作家ブラム・ストーカー(1847-1912/64歳没)のゴシック・ホラー小説。ドラキュラ以前に書かれた同じアイルランド人作家でトリニティ・カレッジの先輩であるシェリダン・レ・ファニュの『カーミラ』(1872年)の影響が強く見られ(実際、ドラキュラの初稿では舞台はトランシルヴァニアではなくカーミラと同じオーストリアだった)、棺で眠るなどもカーミラと共通で、以降の吸血鬼作品のモデルになっています。

 アイルランドの吸血鬼伝説の影響も受けていて、「吸血鬼小説」としては『吸血鬼』(1819年)や『吸血鬼ヴァーニー』(1847年)などこれら以前にあり、前者については、イギリスの詩人バイロン、パーシー・シェリーと、バイロンの愛人(後に妻)メアリー・ゴドウィンの3人に、バイロンの主治医であるジョン・ポリドーリを加えた4人で、レマン湖畔の別荘に滞在した時、それぞれ怪奇小説を書いてみよう、ということになり、その時に、メアリーが書いたのがあの有名な『フランケンシュタイン』(1818年)ですが、バイロンが吸血鬼ものの物語の出だしとなる『断片』を書いており、これをジョン・ポリドーリが完成させたのが『吸血鬼』でした。

『ドラキュラ』水声社.jpg この小説を読むのは個人的には何十年ぶりかですが、かなりの部分が手紙や日記形式になっていて、角川文庫で660ページとページ数もあり、最初は読み進むのにやや時間を要しますが、読み慣れてくるとストーリーの面白さもあってぐいぐい読み進むことができます。

 久しぶりに読み返してみて、4人の若者が力を合わせ、教授(この人も結構若そうな感じ)の知恵を借りてドラキュラ伯爵を倒したのだなあと改めて思い出しました(複数ヒーロースタイルだったことを忘れてしまっていた)。ヒロインたるミーナが、いったんはドラキュラに侵されながらも、逆にそれを利用して、自分に催眠術をかけ、ドラキュラ探索の羅針盤としてほしいと申し出るなど、ヒロインとしてのキャラがぐっと立っていて、その分、4人に分散されたヒーロー一人一人のキャラクターの印象が弱いのかもしれません。

 角川文庫のための訳し下ろしである田内志文氏の新訳は読み易かったですが、表紙イラストは何とかならなかったものか。自分が昔読んだのは、平井呈一訳『世界大ロマン全集〈第3巻〉魔人ドラキュラ』(1956)を創元推理文庫に移植したものではなかったかと思いますが、こちらも、今読んでも、読みつけてしまえば(活字が小さいことを除いて)そう読みにくくはないです。また、単行本『ドラキュラ』('14年/水声社)という完訳詳注版もあり、こちらは140ページにも及ぶ注釈が充実しています。

 この物語をベースにした映画などの話になると、原作の最初の正規の映画化作品であるトッド・ブラウニング監督の「魔人ドラキュラ」('31年/米)をはじめいくらでもありそうですが、また別の機会にします。

【1963年文庫化・1971年新装版[創元推理文庫(平井呈一:訳)]/2004年再文庫化[講談社文庫(菊地秀行:訳)]/2014年再文庫化[角川文庫(田内志文:訳)]】

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元祖ドラキュラ小説のそのまた元祖は女ドラキュラ。ゴシックホラー&レズビアンの香り。

I女吸血鬼カーミラ.jpg女吸血鬼カーミラ.jpg 『女吸血鬼カーミラ』創元推理.jpg  シェリダン・レ・ファニュ.png
長井那智子訳『女吸血鬼カーミラ』['15年]/平井呈一訳『吸血鬼カーミラ (創元推理文庫 506-1)』['70年] ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ(1814- 1873)
『女吸血鬼カーミラ』挿画(にしざかひろみ)
『女吸血鬼カーミラ』 2.jpg 早くに母を亡くし、父と城暮らししていたローラは、幼い頃のある晩、一人きりで目を覚ました。泣いていると、美しい女性がやさしくローラを撫でながらそばで横になり、抱き寄せてくれた。ローラが眠り込んだところ、胸にずぶりと刺されたような感じがした。女中たちが調べてくれたが、刺された後は無かった―。ある夏、スピールドルフ男爵から娘が亡くなったとの知らせがローラの父に届く。ローラは男爵の娘と夏を一緒に過ごす予定だったのだ。手紙には、怪物を捜索し退治するという要領を得ない決意が書かれていた。そんな折、ローラの住む城の近くで馬車の事故が起こる。助け出された母親は「急ぎの旅なので娘は置いていかなければ」と言い、ローラの父は、事故に遭った娘の身柄を引き受けることに。母親は「3ヶ月たてば娘を迎えに来る」「身分も住まいも明かせない」と言う。娘はカーミラといい、ローラが会ってみると子供の頃の体験に出てきた少女とそっくりなので驚く。カーミラもまた、自分も子供の頃夢の中でローラを見たと告げる。すぐにうちとけた二人だったが、カーミラが自分の身元を話さないことにローラは焦れる。御料林の監守の娘の葬儀があったとき、カーミラは賛美歌に怯える。そして、監守の娘と同じ症状で衰弱死する娘があちこちに出る。ローラ自身も、夢の中で胸を刺されたような痛みを覚え、飛び起きると傍らに女性が立っていたようだった。以降ローラは日増しに具合が悪くなっていく。一方のカーミラは、夜中に部屋から消え、翌日の午後、いつの間にか部屋に戻っているようだ。ローラが医者の診察を受けると、医者は何か気がついた様子。ローラ、父と家庭教師とともにカルンスタインの古城へ向かうことになる。その折、スピールドルフ男爵に会う。男爵の話では、ミラーカという娘を預かってまもなく、娘は具合が悪くなり死んでしまったのだが、娘が死ぬ前にミラーカが娘を襲っているのを見たと言う。一行はカルンスタインの礼拝堂がある城跡に到着し、そこでスピールドルフ男爵は1世紀以上前に亡くなっているはずのカルンスタイン伯爵夫人マーカラに会ったことを明かす。スピールドルフ男爵は、彼女は死んでおらず、自分は娘の仇に復讐しなければならないと言う。〈カルスタイン伯爵夫人マーカラ〉=〈ミラーカ〉=〈カーミラ〉」だったのだ―。

初出誌「ダーク・ブルー」の挿絵(1872年)
カーミラ 1872.jpg256px-Carmilla.jpg アイルランド人作家ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ(1814- 1873/58歳没)による1872年刊行の小説であり、レ・ファニュは怪奇小説とミステリーを得意としたゴシック小説作家ですが、とりわけ、この「女吸血鬼カーミラ」は、ドラキュラのイメージを決定づけた作品として知られています。と言っても、「女のドラキュラ」ではないか、との声もあるかと思いますが、男性版ドラキュラの元祖とされる、同じくアイルランド人作家のブラム・ストーカー(1847-1912/64歳没)の『吸血鬼ドラキュラ』が刊行されたのが1897年で、この作品の35年後であり、しかも、ブラム・ストーカーはこの作品から多くのヒントを得ていることを考えると、やはり、この「女吸血鬼カーミラ」は、元祖的と言うか、元祖ドラキュラのそのまた元祖という感じがします(因みに、「吸血鬼小説」としては『吸血鬼』(1819年)や『吸血鬼ヴァーニー』(1847年)などが本作以前にあるため、あくまでも「ドラキュラ小説」の元祖ということになる)。

 因みに、ローラと暮らしたカーミラの特徴は、
 ・寝る時は部屋に鍵をかけ、部屋に他人が居たまま寝ることを拒絶する。
 ・度々ローラに愛撫のような過剰なスキンシップをしながら愛を語る。
 ・ただし、その文言は生死に関わるものばかりである。
 ・起きてくるのは毎日正午を過ぎた昼日中で、食事はチョコレートを1杯飲むだけ。
 ・葬列に伴う賛美歌に異常な嫌悪感を表し、気絶しないようにするのが精一杯でいる。
 ・城へ来た旅芸人から錐や針に例えられるほど、異常に鋭く細長い犬歯をしている。
 と言ったもので、もう吸血鬼風がぷんぷん漂います。

新訳 吸血鬼ドラキュラ 女吸血鬼カーミラ.jpg カーミラが「度々ローラに愛撫のような過剰なスキンシップをしながら愛を語る」ことから、レズビアン小説の色合いも濃くて、当時の時代背景からすれば発禁本になるところですが、作者は、「吸血鬼には性別が無いのでレズビアンには当たらない」として発禁を免れたようです。今ならば、ゴシックホラー小説(訳者の長井那智子氏は幻想小説としている)であると同時にレズビアン小説という評価になってもおかしくないかも。

 平井呈一訳『吸血鬼カーミラ』('70年/創元推理文庫)が完訳版として古く、その後、ジュニア版の翻訳は多く出ていますが完訳版が無かったのが、長井那智子氏の訳による本書『女吸血鬼カーミラ』('15年/亜紀書房)が45年ぶりの完訳版として刊行され、それに続いてKindle版の完訳版が複数出ています。

 また、ジュニア版ということでは、長井那智子氏も、本書の前年に『新訳 吸血鬼ドラキュラ 女吸血鬼カーミラ』('15年/集英社みらい文庫)を出しており、1冊でブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」(要約版)と併せて愉しめるようになっています。

新訳 吸血鬼ドラキュラ 女吸血鬼カーミラ (集英社みらい文庫)』(ジュニア版)
長井那智子:訳

カール・テオドア・ドライヤー監督「吸血鬼(ヴァンパイア)」 ('30年/仏・独)
吸血鬼 (1932)04.jpg 因みに、カール・テオドア・ドライヤー監督の古典的映画「吸血鬼(ヴァンパイア)」 ('30年/仏・独)は、このレ・ファニュの『女吸血鬼カーミラ』を原作としていますが、映画に出てくる女吸血鬼は老婆であり、映画にレズビアン的な表現はありません。ただし、その後の時代において、『女吸血鬼カーミラ』を原作とするロジェ・ヴァディム監督の「血とバラ」('60年/仏・伊)、ロイ・ウォード・ベイカー監督の「バンパイア・ラヴァーズ」('70年/英)や、或いは「バンパイア・ラヴァーズ」の後継でこの小説を下敷きとする「恐怖の吸血美女」('71年/英)、「ドラキュラ血のしたたり」('72年/英)などといった作品が作られていて、さらにはそこから派生するかのように女性吸血鬼が出てくる映画が数多く作られていていますが、その多くはエロチックな女性が出てくるレズビアン的な映画となっています(こういうの、好きな人は好きなんだろなあ)。

「血とバラ」('60年/仏・伊)/「バンパイア・ラヴァーズ」('70年/英)/
血とバラ(1961年).jpg 「バンパイア・ラヴァーズ」(1970年).jpg
「恐怖の吸血美女」('71年/英)/「ドラキュラ血のしたたり」('72年/英)
恐怖の吸血美女(1971年).jpg ドラキュラ血のしたたり(1972年).jpg
「催淫吸血鬼」('70年/仏)/「鮮血の花嫁」('72年/スペイン)
催淫吸血鬼(1970年).jpg 鮮血の花嫁(1972年).jpg

【1970年文庫化[創元推理文庫]】
  

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後の怪物のイメージとかなり違う話。終盤、加速的に面白くなる。

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)2010.jpg フランケンシュタイン (新潮文庫)2014.jpg フランケンシュタイン 角川.jpg  幻の城/バイロンとシェリー.jpg
フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)』『フランケンシュタイン(新潮文庫)』『新訳 フランケンシュタイン (角川文庫)』「幻の城/バイロンとシェリー」ヒュー・グラント

 小説は、イギリス人の北極探検隊の隊長ロバート・ウォルトンが姉マーガレットに向けて書いた手紙という形式になっている。ウォルトンはロシアのアルハンゲリスクから北極点に向かう途中、北極海で衰弱した男性を見つけ、彼を助ける。彼こそがヴィクター・フランケンシュタインであり、彼がウォルトンに自らの体験を語り始める枠物語である。
 スイスの名家出身でナポリ生まれの青年フランケンシュタインは、父母と弟ウィリアムとジュネーヴに住む。父母はイタリア旅行中に貧しい家で養女のエリザベスを見て自分たちの養女にし、ヴィクターたちと一緒に育てる。科学者を志し、故郷を離れてドイツ・バイエルンの名門のインゴルシュタット大学で自然科学を学んでいた。だが、ある時を境にフランケンシュタインは、生命の謎を解き明かし自在に操ろうという野心にとりつかれる。そして、狂気すらはらんだ研究の末、「理想の人間」の設計図を完成させ、それが神に背く行為であると自覚しながらも計画を実行に移す。自ら墓を暴き人間の死体を手に入れ、それをつなぎ合わせることで11月のわびしい夜に怪物の創造に成功した。
 誕生した怪物は、優れた体力と人間の心、そして知性を持ち合わせていたが、細部までには再生できておらずに、筆舌に尽くしがたいほど容貌が醜いものとなった。そのあまりのおぞましさにフランケンシュタインは絶望し、怪物を残したまま故郷のジュネーヴへと逃亡する。しかし、怪物は強靭な肉体のために生き延び、野山を越え、途中「神の業(Godlike science)」 である言語も習得して雄弁になる。やがて遠く離れたフランケンシュタインの元へたどり着くが、自分の醜さゆえ人間たちからは忌み嫌われ迫害されたので、ついに弟のウィリアムを怪物が殺し、その殺人犯として家政婦のジュスティーヌも絞首刑になる。
 孤独のなか自己の存在に悩む怪物は、フランケンシュタインに対して、自分の伴侶となり得る異性の怪物を一人造るように要求する。怪物はこの願いを叶えてくれれば二度と人前に現れないと約束する。フランケンシュタインはストラスブルクやマインツを経て、友人のクラ―ヴァルに付き添われてイギリスを旅行し、ロンドンを経てスコットランドのオークニー諸島の人里離れた小屋で、もうひとりの人造人間を作る機器を備えて作り出す作業に取りかかる。
 しかし、さらなる怪物の増加を恐れたフランケンシュタインはもう一人作るのを辞めて、怪物の要求を拒否し(フランケンシュタイン・コンプレックス)、機器を海へ投げ出す。怪物は同伴者の友人クラーヴァルを殺し、海からアイルランド人の村に漂着したフランケンシュタインはその殺人犯と間違われて、牢獄に入れられる。
 この殺人罪が晴れて、彼は故郷のジュネーヴに戻り、父の配慮で養女として一緒に育てられたエリザベスと結婚するが、その夜、怪物が現れて彼女は殺される。創造主たる人間に絶望した怪物は、復讐のためフランケンシュタインの友人や妻を次々と殺害したことになる。憎悪に駆られるフランケンシュタインは怪物を追跡し、北極海まで到達するが行く手を阻まれ、そこでウォルトンの船に拾われたのだった。
 全てを語り終えたフランケンシュタインは、怪物を殺すようにとウォルトンに頼み、船上で息を引き取る。また、ウォルトンは船員たちの安全を考慮し、北極点到達を諦め、帰路につく。そして、創造主から名も与えられなかった怪物は、創造主の遺体の前に現れ、フランケンシュタインの死を嘆く。そこに現れたウォルトンに自分の心情を語った後、北極点で自らを焼いて死ぬために北極海へと消える。怪物のその後は誰も知らない―。(Wikipediaより)

 イギリスの詩人パーシー・ビッシュ・シェリーの夫人メアリー・シェリー(1797-1851)原作の『フランケンシュタイン』(1816年頃に執筆開始、1818年3月に匿名で出版した)は、文学史上でも最もよく知られた作品でありながら、原作は殆ど読まれていないということでも有名な作品ですが、以上見てきたように、「フランケンシュタイン」は怪物(クリーチャー)の名前ではなく、怪物を生み出した人物の名前です(怪物には名がない)。

 『フランケンシュタイン』の文庫で主なものは以下の通り。
 森下 弓子:訳『フランケンシュタイン』 (1984 創元推理文庫)
 山本 政喜:訳『フランケンシュタイン』 (1994 角川文庫)
 小林 章夫:訳『フランケンシュタイン』 (2010 光文社古典新訳文庫)
 芹澤 恵:訳 『フランケンシュタイン』 (2014 新潮文庫)
 田内 志文:訳『新訳 フランケンシュタイン』(2015 角川文庫)
 このうち何冊か当たりましたが、光文社古典新訳文庫(小林章夫:訳)が読み易そうだったので、それで読みました。新潮文庫版なども同様ですが、作者メアリーと夫シェリーの序文があり、本書が書かれた経緯がわかります。

 1816年5月、メアリーは後に夫となるシェリーと駆け落ちし、バイロンやその専属医のジョン・ポリドリらと、スイス・ジュネーヴ近郊のレマン湖畔にあるディオダティ荘に滞在していて、長く降り続く雨のため屋内に閉じこめられていた折、バイロンが「皆でひとつずつ怪奇譚を書こうと提案したのが、この物語の誕生のきっかけであることは、後に取り上げる映画「幻の城/バイロンとシェリー」('88年/スペイン)でも描かれています。

 小説の枠組みは〈三重構造〉になっていて、ウォルトン隊長が姉に宛てた手紙が最も外側の円を成し、その中にフランケンシュタインの回想が組み込まれ、さらにその内側に怪物の告白があるというもので、冒頭はウォルトンの手紙が50ページほ続きます。その部分はプロローグ的位置づけで、本文に入ってからフランケンシュタインの回想になりますが、23章から成る本文の内、第11章から第16章までの6章は、怪物自身の語りになります。そして、フランケンシュタインの回想に戻って第23章でそれが終わり、その後またウォルトン隊長が姉に宛てた手紙になるという構成です。読み始めた時は、この構成がまどろっこしかったですが、怪物自身の語りに入ってから面白くなり、あとはエンタメ活劇(笑)みたいになっていくので引き込まれます。

 何よりも世間の怪物のイメージと異なるのは、怪物の語りに入ってから、怪物が『失楽園』『プルターク英雄伝』そして『若きウェルテルの悩み』を論評するなどしていることです。つまり、知識ゼロからスタートして人間の言葉を短時間で覚え、あっという間に高度の知性を身につけてしまった、いわばSF的天才のような存在となっています。

 また、自らの醜悪な容貌のため、生みの親であるビクター・フランケンシュタインからも見放され、彼のことを憎むようになりますが、それは、創造主としての彼への敬愛の気持ちのアンビバレントとともとれ、人間全体を憎みながら、人間からの愛情と理解を常に求めているというような、たいへん複雑な心性を有する存在でもあります。

 その醜いと言う容貌については、継ぎはぎ状であることが示唆されていますが、具体的な描写は無く、また、どうやって誕生したかについても、電気(雷?)が関与していることは示唆されていますが、ビクター・フランケンシュタインの研究室の様子や怪物誕生の具体的な描写はありません。

フランケンシュタイン 1931 01.jpgフランケンシュタイン 1931 ポスター.png やはり、今の怪物(こっちがフランケンシュタインと呼ばれるようになった)のイメージを作ったのは、ボリス図説ホラー・シネマ.jpg・カーロフが怪物を演じたジェイムズ・ホエール監督の「フランケンシュタイン」('31年/米)でしょう(石田一著『図説 ホラー・シネマ―銀幕の怪奇と幻想 (ふくろうの本)YOUNG FRANKENSTEIN.jpg('01年/河出書房新社)でも、一番最初に紹介されているフランケンシュタイン映画はコレ)。だから、墓地から盗み出した死体を接合し、恩師である教授の研究室から人間の脳を盗んだけれども、それが狂人の脳だったというのも、原作にはない、映画のオリジナルということになります。フランケンシュタインのパロディ映画で、メル・ブルックス監督の「ヤング・フランケンシュタイン」('74年/米)なども、通好みのコメディですが、この古典映画がベースになっています。

フランケンシュタイン (1994年).jpgフランケンシュタイン (1994年) dvd.jpg その他にも多くのフランケンシュタイン映画が作られていますが、フランシス・フォード・コッポラが製作し、ケネス・ブラナー監督が撮った「フランケンシュタイン」('94年/英・日・米)などもあり、ロバート・デ・ニーロが演じたクリーチャー(被造物)は、見かけは醜怪だけれど心性的には子どものようであるという設定でした。

ケネス・ブラナー監督「フランケンシュタイン」('94年/英・日・米)ロバート・デ・ニーロ

 ケヴィン・コナー監督「フランケンシュタイン」('04年/米・スロバキア)は、スロバキアのテレビ・ミニシリーズ。後にテレビ映画として再編もので、個人的に未見ですが、ドナルド・サザーランドやウィリアム・ハートなど俳優陣が豪華。予告を観ると、怪物が自分で自分の"花嫁"を創ろうとする場面があったような。

ケヴィン・コナー監督「フランケンシュタイン」('04年/米・スロバキア)
   
 原作は、怪物の哀しみが伝わってくるものとなっているように思いますが、自らが怪物であったり人工物であったりしたために人間世界から物理的に迫害されたり、精神的に疎外されるというモチーフは、フランケンシュタイン映画に限らず、その後の多くのSF作品、SF映画に影響を与えたように思います。「ブレードランナー」('82年/米)が)そうであるし、「ターミネーター2」('91年/米)のラストもそうだと言う人もいます。この辺りは、小野俊太郎著『フランケンシュタインの精神史: シェリーから『屍者の帝国』へ (フィギュール彩)』に詳しいです。

 そう言えば、「フランケンシュタイン・コンプレックス」という言葉もあります。創造主に成り代わって人造人間やロボットといった被造物(=生命)を創造することへの憧れと、さらにはその被造物によって創造主である人間が滅ぼされるのではないかという恐れが入り混じった複雑な感情・心理のことで、SF作家アイザック・アシモフが名付けたものです。

「幻の城/バイロンとシェリー」0.jpg「幻の城/バイロンとシェリー」1.jpg「幻の城/バイロンとシェリー」3.jpg また、作者メアリーを軸に、シェリーとバイロンの関係を描いた「幻の城/バイロンとシェリー」('88年/スペイン・英)という映画もありました(メアリーをリジー・マキナニー、バイロンをヒュー・グラント、その恋人クレアをエリザベス・ハーレイが演じている。ヒュー・グラントとエリザベス・ハーレイはこの共演がロマンスのきっかけとなり13年間にわたって交際したが、結局別れた)。途中までは『フランケンシュタイン』誕生のエピソードが描かれていますが、途中から、彼女の想像が生み出した怪物が一人歩きし始め、彼女の周囲の人々が次々死ぬ度に姿を現すことになり、シェリーはヨットの遭難で水死し、時を経ずしてバイロンもギリシア独立戦争に身を投じようとして死んだ後、メアリーは、北極の海で怪物(怪人)と訣別する―という、メアリーがビクター・フランケンシュタインに置き換わったようなゴチック・ホラーっぽい作りになっていました(「伝記映画」と呼ぶには飛躍しすぎ)。

エリザベス・ハーレイ、元恋人.jpg エリザベス・ハーレイと元恋人のヒュー・グラント

ハイファ・アル=マンスール監督「メアリーの総て」(2018)作者の伝記映画
メアリーの総て1.jpg メアリーの伝記映画としては、サウジアラビア初の女性監督で「少女は自転車にのって」 ('12年/サウジアラビア・独)などの作品により「女性映画の旗手」とされるハイファ・アル=マンスールが監督した「メアリーの総て」('18年/アイルランド・ルクセンブルク・米)がありますが、個人的には未見です(主演は「バベル」('06念/米)でリチャードとジョーンズ(ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェット)の娘デビーを演じたエル・ファニング)。


FRANKENSTEIN 1931 poster.jpg「フランケンシュタイン」●原題:FRANKENSTEIN●制作年:1931年●制作国:アメリカ●監督:ジェイムズ・ホエール●製作:カール・レームル・Jr●脚本:ギャレット・フォート/ロバート・フローリー/フランシス・エドワード・ファラゴー●撮影:アーサー・エジソン●音楽:バーンハルド・カウン●原作:メアリー・シェリーFRANKENSTEIN 1931.jpg●時間:71分●出演:コリン・クライヴ/ボリス・カーロフ/メイ・クラークメイ・クラーク.jpgエドワード・ヴァン・スローン/ドワイト・フライ/ジョン・ポールズ/フレデリック・カー/ライオネル・ベルモア●日本公開:1932/04●配給:ユニヴァーサル映画●最初に観た場所:渋谷ユーロ・スペース (84-07-21)(評価:★★★☆)●併映:「フランケンシュタインの花嫁」(ジェイムズ・ホエール)

「ヤング・フランケンシュタイン」2.jpgヤング・フランケンシュタイン.gif「ヤング・フランケンシュタイン」●原題:YOUNG FRANKENSTEN●制作年:1975年●制作国:アメリカ●監督:メル・ブルックス●製作:マイケル・グラスコフ●脚本:ジーン・ワイルダー/メル・ブルックス●撮影:ジェラルド・ハーシュフェルド●音楽:ジョン・モリス●原作:メアリー・シェリイ●時間:108分●出演:ジーン・ワイルダー/ピーター・ボイル/マーティ・フェルドマン/テリー・ガー/マデリーン・カーン/ジーン・ハックマン●日本公開:1975/10●配給:20世紀フォックス●最初に観た場所:飯田橋ギンレイホール (78-12-14) (評価:★★★★)●併映:「サイレントムービー」(メル・ブルックス)

FRANKENSTEIN 1994 2.jpgFRANKENSTEIN 1994.jpg「フランケンシュタイン」●原題:FRANKENSTEIN●制作年:1994年●制作国:イギリス・日本・アメリカ●監督:ケネス・ブラナー●製作:フランシス・フォード・コッポラ/ジェームズ・V・ハート/ジョン・ヴィーチ/ケネス・ブラナー/デビッド・パーフィット●脚本:ステフ・レイディ/フランク・ダラボン●撮影:ロジャー・プラット●音楽パトリック・ドイル●原作:メアリー・シェリー●時間:123分●出演:ロバート・デ・ニーロ/ケネス・ブラナー/トム・ハルス/ヘレナ・ボナム=カーター/エイダン・クイン/イアン・ホルム/ジョン・クリーズ/シェリー・ルンギ/リチャード・ブライアーズ/アレックス・ロー●日本公開:1995/01●配給:トライスター・ピクチャーズ(評価:★★★)

幻の城/バイロンとシェリー1.jpg幻の城/バイロンとシェリー2.jpg「幻の城/バイロンとシェリー」●原題:ROWING WITH THE WIND(REMANDO AL VIENTO)●制作年:1988年●制作国:スペイン・イギリス●監督・脚本:ゴンザロ・スアレス●撮影:カルロス・スアレス●音楽:アレハンドロ・マッソ●時間:96分●幻の城/バイロンとシェリー.jpg出演:ヒュー・グラント(バイロン)/リジー・マキナニー/ヴァレンタイン・ペルカ/エリザベス・ハーレイ(バイロンの恋人・クレア)/ホセ・ルイス・ゴメス/ヴァージニア・マタイス//ホセ・カルロス・リヴァス●日本公開:1989/07●配給:俳優座シネマテン●最初に観た場所:六本木・俳優座シネマテン(89-09-14)(評価:★★★)
エリザベス・ハーレイ(2020年・55歳)
エリザベス・ハーレイ(55).jpgエリザベス・ハーレイ.jpg

《読書MEMO》
●舞台「フランケンシュタイン-cry for the moon-」
2022年1月7日(金)~1月16日(日) 東京・紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA
演出:錦織一清 脚本:岡本貴也
出演:七海ひろき 岐洲匠 彩凪翔/蒼木陣 佐藤信長 横山結衣(AKB48) 北村由海/永田耕一

光文社古典新訳文庫 フランケンシュタイン.jpg

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ジュリアン・ソレルは、カミュ『異邦人』のムルソーのルーツか。

赤と黒 上 新潮文庫.jpg 赤と黒下 新潮文庫.jpg スタンダール.jpg     異邦人 1984.jpg
赤と黒(上) (新潮文庫)』『赤と黒(下)(新潮文庫)』スタンダール(1783-1842)カミュ『異邦人 (新潮文庫)

赤と黒 上下 新潮文庫.jpg 貧しい製材屋の末息子ジュリアン・ソレルは、才気と美しさを兼ね備えた、立身出世の野心を抱く青年。初めは崇拝するナポレオンのように軍人としての栄達を目指していたが、王政復古の世の中となったため、聖職者として出世せんと、家の仕事の合間に勉強している。そんなある日、ジュリアンはその頭脳の明晰さを買われ、町長・レーナル家の子供たちの家庭教師に雇われる。レーナル夫人に恋されたジュリアンは、最初は夫人との不倫関係を、世に出るための手習いくらいに思っていたが、やがて真剣に夫人を愛するようになる。しかし二人の関係は嫉妬者の密告などにより、町の誰もが知るところとなり、ジュリアンは神父の薦めにより、神学校に入ることとなる。そこでジュリアンは、校長のピラール神父に聖職者には向いてないと判断されるものの、類稀な才を買われ、パリの大貴族Le Rouge et Le Noir.jpgラ・モール侯爵の秘書に推薦される。ラ・モール侯爵家令嬢のマチルドに見下されたジュリアンは、マチルドを征服しようと心に誓う。マチルドもまた取り巻きたちの貴族たちにはないジュリアンの情熱と才能に惹かれるようになり、やがて二人は激しく愛し合うようになる。マチルドはジュリアンの子を妊娠し、二人の関係はラ・モール侯爵の知るところとなる。侯爵は二人の結婚に反対するが、マチルドが家出も辞さない覚悟をみせたため、やむなくジュリアンをある貴族のご落胤ということにし、陸軍騎兵中尉にとりたてた上で、レーナル夫人のところにジュリアンの身元照会を要求する手紙を送る。しかし、ジュリアンとの不倫の関係を反省し、贖罪の日々を送っていたレーナル夫人は、聴罪司祭に言われるまま「ジュリアン・ソレルは良家の妻や娘を誘惑しては出世の踏み台にしている」と書いて送り返してきたため、侯爵は激怒し、ジュリアンとマチルドの結婚を取り消す。レーナル夫人の裏切りに怒ったジュリアンは、彼女を射殺しようとするが―。
Le Rouge et Le Noir (Classiques Garnier) Paperback(表紙:レーナル家に家庭教師として訪れたジュリアン・ソレルはレーナル夫人と初めて対面する)


 スタンダール(本名マリ=アンリ・ベール、1783-1842/59歳没)の1830年11月刊行の作品で、実際に起きた事件などに題材をとった長編小説です。海外文学というと取っつきにくい印象がありますが、この『赤と黒』や、ヴィクトル・ユゴー(1802-1885)の『レ・ミゼラブル』などは、こんなに面白くていいのかなというくらい面白いです。ただ、この『赤と黒』を『レ・ミゼラブル』と比べると、ストーリー的にはヴィクトル・ユゴーの方にストーリーテラー的な分があるように思われ、『赤と黒』の方は、ストーリーはそれほど凝ってはなく、心理描写の優れた作品であるように思います。

篠沢秀夫.jpg スタンダールとユーゴーについては、学習院大学名誉教授だったフランス文学者の篠沢秀夫(1933-2017)がその違いを論じていました(篠沢秀夫というと「クイズダービーの豪快な笑いの印象が強いが、時折見せる陰のある表情も個人的には印象にある。彼は、最初の妻を自動車事故で、息子を水難事故で失っている。クイズダービー出演の話を引き受けた理由として、長男を亡くしたのがその2年前の1975年で、当時悶々とした日々を過ごしていたことで、気分転換したかったことがあったからという。晩年の篠沢 ALS.jpgALS(筋萎縮性側索硬化症)闘病は壮絶だった)。その篠沢教授によれば(クイズダービーでも"教授"って呼ばれていた)、「スタンダールの小説は筋ははっきりしています。筋を書くだけだったらそれは簡単なんです。ところが、スタンダールの小説はいずれも政治小説という面があるんですね。この面を我々が今日読むと読み飛ばしてしまうんです」(『篠沢フランス文学講義 (1)』('79年/大修館書店))とのこと。なるほど。この小説の中にも、ジュリアン・ソレルが書記を務めたあるサロンの討議で、文学にとって政治とは何かという議論があり、「政治なんて文学の首にくくりつけた石ころみたいなもので、半年もたたぬうちに文学を沈めてしまいますよ」とサロンのメンバーに言わせていますが、これ、わざとだったのかあ。

 そのジュリアン・ソレルですが、レーナル夫人殺害計画は相手に傷を負わせただけで失敗し、捕らえられて裁判で死刑を宣告され、マチルドはジュリアンを救うため奔走するものの、彼は死刑を受け容れます。裁判では、ジュリアン・ソレル自身が、自分は犯罪によってではなく,支配階級への挑戦的態度によって裁かれているという裁判の欺瞞を主張しながら、しかも、レーナル夫人が実はいまだ自分を愛していることを知って生への執着も時に抱きながら、それでも彼女らの上告の勧めを断り続け、断頭台に向かうジュリアン・ソレル。どこかにこんな主人公がいたなあと思ったら、アルベール・カミュの『異邦人』の主人公ムルソーがそうでした。

異邦人 (新潮文庫)』Albert Camus
異邦人 新潮文庫 1.jpgAlbert Camus.jpg 『異邦人』を最初に読んだ時、これまでのどの小説にも無かった人物造形であることが『異邦人』という小説が注目されることになった最大の要因ではないかと思ったのですが、いま改めて『赤と黒』を読み返してみると、『異邦人』のムルソーのルーツは『赤と黒』のジュリアン・ソレルでないかと思った次第です。そこで、そうした両者が類似していることを論じた人はいないかと調べたところ、海外ではごろごろいるみたい(笑)。日本の研究者にもいて、フランス文学者でカミュ研究者の松本陽正・広島大学教授の「カミュとスタンダール―『異邦人』と『赤と黒』をめぐって」というストレートな論文があり、松本教授はそうした海外の研究者の研究を総括し、自身の見解も述べておられました(松本氏によればカミュが生涯にわたってスタンダールを愛読していたのは間違いないようである)。

クロード・オータン=ララ監督「赤と黒」('54年/仏)のジュリアン・ソレル(ジェラール・フィリップ)/ルキノ・ヴィスコンティ監督「異邦人」('67年/伊・仏・アルジェリア)のムルソー(マルチェロ・マストロヤンニ)
「赤と黒」ジェラール・フィリップ.jpgThe Stranger 1967  0.jpg 『赤と黒』も『異邦人』も物語の終盤は裁判になりますが(スタンダールの父はグルノーブル高等法院の弁護士だった)、ジュリアン・ソレルもムルソーは共に死刑を宣告されます。以下、松本教授の指摘を参照しながらそこに至るまでを振り返ると、犯行においては二人ともある種の錯乱状態に陥ってピストルを発射するという点が共通し、ジュリアン・ソレルの場合、殺意はあったにせよ、レナール夫人が軽症ですんだことや彼自身の悔恨、また、レナール夫人の奔走やマチルドの画策、世間の同情を考えあわせれば、死刑にはなりえなかったはずで、一方、ムルソーの場合も、植民地下のアルジエリアで武装したアラブ人を殺したからといって、死刑にはなりえなかったはずで、光に対する過敏な感覚を訴え、正当防衛を主張すれば、無罪とまではいかないまでも死刑は免れえたはずであり、そうした両者の置かれた微妙な状況がひどく似たものであると言えるかと思います。

 なぜ二人とも自らが死刑になることを受け容れるのかということについては様々な解釈や議論があり、安易に一緒くたに出来ないのかもしれませんが、ジュリアン・ソレルもムルソーも、自身の裁判から"疎外"されているというのは共通するのではないでしょうか(松岡正剛氏はルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「異邦人」を観て、ヴィスコンティはムルソーを「ゲームに参加しない男」として描ききったなという感想を持ったそうだ)。また、裁判を通してある種の高みに至るのも同じであり、ムルソーにしても最初から、サルトルが言うところの「実存主義的人間」を絵に描いたようなキャラクターではなかったように思います(サルトル自身がそれゆえの『異邦人』の文学性を自身の作品『嘔吐』と比べて高く評価している)。ジュリアン・ソレルも、死刑判決が出された後でレーナル夫人の真意(愛)を知って煩悶します。この両者の置かれている状況が似ているという事実と、両者とも変容を経て俗人の及びのつかない高みに達したように見える点は、やはりその類似に注目していいかと思いました。

クロード・オータン=ララ監督「赤と黒」('54年/仏)出演:ジェラール・フィリップ/ダニエル・ダリュー(192分)
赤と黒 4mai.jpg

ジャン=ダニエル・ヴェラーグ監督「赤と黒(TV-M)」('97年/仏・伊・独)出演:キャロル・ブーケ/キム・ロッシ・スチュアート(200分)
Le Rouge et Le Noir 1997.jpg 赤と黒Y445_.jpg 

【1957年文庫化[新潮文庫(上・下)(小林正:訳)]/1958年再文庫化[岩波文庫(上・下)(桑原武夫他:訳)]/2007年再文庫化[光文社古典新訳文庫(上・下)(野崎歓:訳)]】

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面白かったが、原作を読んだ人からは原作の方がいいと言われ、読後にもう一度皆で鑑賞会を...。

パフューム ある人殺しの物語 2007.jpg パヒューム ある人殺しの物語01.jpg パヒューム ある人殺しの物語02.jpg
パフューム ある人殺しの物語 [DVD]」ベン・ウィショー/ダスティン・ホフマン
ある人殺しの物語 香水 (文春文庫)
ある人殺しの物語 香水 (文春文庫).jpgパフューム 01.jpg 18世紀のフランス・パリ。悪臭漂う魚市場で、一人の赤子が産み落とされた。やがて孤児院で育てられたその男児の名はジャン=バティスト・グルヌイユといい、生まれながらにして数キロ先の匂いをも感じ取れるほどの超人的な嗅覚を持っていた。成長したグルヌイユ(ベン・ウィショー)はある日、街で素晴らしい香りに出合う。その香りを辿っていくとそこには一人の赤毛の少女がいた。少女の体臭パフューム ある人殺しの物語es.jpgにこの上ない心地よさを覚えるグルヌイユであったが、誤ってその少女を殺害してしまう。少女の香りは永遠に失われてしまった。しかしその香りを忘れられないグルヌイユは、少女の香りを再現しようと考え、橋の上に店を構えるイタリア人のかつて売れっ子だった調香師ジュゼッペ・パフューム 02.jpgバルディーニ(ダスティン・ホフマン)に弟子入りし、香水の製法を学ぶ。同時にその天才的な嗅覚を生かして新たな香水を考え、バルディーニの店に客を呼び戻す。さらなる調香技術を学ぶパフューム ある人殺しの物語 09.jpgため、香水の街・グラースへ旅に出るグルヌイユはその道中、なぜか自分だけ体臭が一切ないことに気づく。グラースで彼は、裕福な商人リシ(アラン・リックマン)の娘ローラ(レイチェル・ハード=ウッド)を見つける。以前街角で殺してしパフューム ある人殺しの物語08.jpgまった赤毛の少女にそっくりなローラから漂う体臭は、まさにあの運命的な香りそのものだった。これを香水にしたい、という究極の欲望に駆られたグルヌイユは、脂に匂いを移す高度な調香法である「冷浸法」を習得する。 そして時同じくして、若い美少女が次々と殺される事件が起こり、グラースの街を恐怖に陥れる。髪を短く刈り上げられ、全裸で見つかる美少女たち。グルヌイユは既に禁断の香水作りに着手していたのだった―。

香水 文庫.jpg 2006年公開のトム・ティクヴァ監督によるドイツ・フランス・スペイン合作映画で、原作は世界中で1500万部を売り上げているパトリック・ジュースキントの1985年発表の小説『パフューム ある人殺しの物語』(ジュースキントはスタンリー・キューブリックとミロス・フォアマンのみが正しく映画化できると考えており、他の者による映画化をを拒否していたという)。

 面白かったですが、原作を読んだ人からは原作の方がいいと言われて、原作を読んでみたら確かにそうでした。その後、4人くらいで新ためてPrime Videoで鑑賞会をしたのですが、原作を先に読んだ人が、映画の方はちょっともの足りないというのも分かったように思いました。

 この作品の翻訳者の池内紀氏が、文庫版の解説で(2003年に映画化の噂を聞いた段階で)「主役にあたる"匂い"をどうやって表現するのだろう。匂いをたどっていくのがおおかたの演技というのは、前代未聞のことではあるまいか。とどのつまりは、あとかたもなく消え失せる男。やはり映像よりも、活字を通してこそふさわしい」と述べていますが、この"予言"は的中したとも言えるかも。

パフューム 06.jpg そもそもスタンリー・キューブリックが映画化に意欲を示しながらも断念しているし、私財を投げ打って映画化権を得た映画プロデューサーのベルント・アイヒンガー(脚本も担当)も、最大の問題は「主人公は自分自身を表現していない。小説家はこれを補うために物語を使用することができる。それは映画ではできない」として苦心し、3人の脚本家による脚本は最終的な撮影台本となるまでに20以上の段階を経たとのことです。

 ただし、それだけの苦労もあり、また、元々ドラマ性を持つ話であるため、結果的には良く出来た(面白い)映画になっていたと思います。このストーリーは、ラスト近くで一気に寓話性を帯びてますが、そこに至るまでをリアリズムにこだわって作っている分、終盤の展開が効いているように思いました(個人的評価としては一応★★★★)。

パフューム ある人殺しの物語07.jpg 映画を観直してみて、ストーリー的にも概ね原作に忠実であったと思いました。それでは、原作との違い(違和感とも言っていい)をどこで感じたかというと、グルヌイユが少女に近づくとき、映画ではどうしても"香り"的なものと性的なものが混然としているように見えてしまう点です。原作ではその点がはっきり峻別されていました。

 結局、グルヌイユは、女性を性的な意味合いも含め人として愛することができない特殊な人物であるということなのでしょう。でも、映像化すると、若干"変態"性欲者っぽく(つまり普通のストーカーっぽく)見えてしまうのは、まさに「主人公は自分自身を表現していない」ことによるかと思います。

 全体を通して、ナレーションによる"ト書き"的表現が多いのも、また、そのナレーションにジョン・ハートという名優を起用しているのも、そうしたことと無関係ではないように思います。

パフューム ある人殺しの物語 ho.jpg ダスティン・ホフマンが調香師バルディーニ役で出演しています。そう言えば、昔から、ヨーロッパの監督の撮る文芸映画に、ハリウッドで活躍するスター俳優が出演するということがあったと思います。ルキノ・ヴィスコンティ(伊)監督の「家族の肖像」('74年/伊・仏)のバート・ランカスター、フェデリコ・フェリーニ(伊)監督の「カサノバ」('76年/伊・米)のドナルド・サザーランドなどがそう。もっと後では、マイケル・ラドフォード(英)監督の「ヴェニスの商人」('04年/米・伊・英)にアル・パチーノがシャイロック役で出ていました。当時、ダスティン・ホフマンのシャイロックを見たいと思ったのですが、ユダヤ系であるダスティン・ホフマンがシャイロックを演じるのは、何か差し障りがあったのでしょうか(調香師バルディーニの方が名前からイタリア系で、アル・パチーノ向きという気がしなくもないが)。

ベン・ウィショー/アラン・リックマン/レイチェル・ハード=ウッド
パフューム 05.gifパフューム 04.jpgパフューム 03.jpg「パフューム ある人殺しの物語」●原題:PERFUME: THE STORY OF A MURDERER●制作年:2006年●制作国:ドイツ・フランス・スペイン●監督:トム・ティクヴァ●製作:ベルント・アイヒンガー●脚本:トム・ティクヴァ/アンドリュー・バーキン/ベルント・アイヒンガー●撮影:フランク・グリーベ●音楽:アトム・ティクヴァ●原作:パトリック・ジュースキント『香水 ある人殺しの物語』●時間:147分●出演:ベン・ウィショー/ダスティン・ホフマン/アラン・リックマン/レイチェル・ハード=ウッド/(ナレーション)ジョン・ハート●日本公開:2007/03●配給:ギャガ・コミュニケーションズ●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(19-04-09)(評価:★★★★)

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映画と異なる結末。小説は小説的に書かれ、映画は映画的に作られているが、軍配は映画か。

Modern Classics a Clockwork Orange.jpg時計じかけのオレンジ 完全版.jpg アントニイ・バージェス.jpg  時計じかけのオレンジ dvd.jpg スタンリー・キューブリック2.jpg
Modern Classics a Clockwork Orange (Penguin Modern Classics)』『時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)』Anthony Burgess「時計じかけのオレンジ [WB COLLECTION][AmazonDVDコレクション] [DVD]」Stanley Kubrick
『時計じかけのオレンジ(ハヤカワ・ノベルズ)』['71年]表紙イラスト:真鍋博/『時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)』['08年]/『時計じかけのオレンジ (ハヤカワ文庫 NV 142) 』['77年]
ハヤカワ・ノヴェルズ 『時計じかけのオレンジ』.jpg時計じかけのオレンジ100.jpg『時計じかけのオレンジ』hn.jpg 近未来の高度管理社会。15歳の少年アレックスは、平凡で機械的な毎日にうんざりしていた。そこで彼が見つけた唯一の気晴らしは「超暴力」。仲間とともに夜の街を彷徨い、盗み、破壊、暴行、殺人をけたたましく笑いながら繰り返す。だがやがて、国家の手がアレックスに迫る―。

時計じかけのオレンジ002.jpg 『時計じかけのオレンジ』は、アンソニー・バージェス(1917-1993/76歳没、翻訳出版物ではアントニイ・バージェスと表記される)が1962年に発表したディストピア小説で、スタンリー・キューブリック(1928-1999/70歳没)によって映画化された「時計じかけのオレンジ」('71年/英・米)は、第37回「ニューヨーク映画批評家協会賞」の作品賞や監督賞を受賞しています。

時計じかけのオレンジ 09.jpg 小説にも映画にも、少年たちが作家の家に押し入り、妻を暴行する場面がありますが、原作者アンソニー・バージェスが兵役でジブラルタルに駐在中、ロンドンに残っていた身重の妻が市内が停電中に4人の若い米軍脱走兵に襲われ、金を強奪され、結局赤ん坊を流産したという出来事があったとのことです。さらに、それから何年か後、バージェスは手術不可能な脳腫瘍があるという告知を受け、自分が死んだ後に妻が困らないようにと猛スピードで原稿を書き、『時計じかけのオレンジ』の元稿ができたそうです(脳腫瘍は後に誤診と判明した)。

時計じかけのオレンジ 004.jpg しかしながら、出来上がった原稿を作者自身が読み返してみて、ただの少年犯罪の小説であって新鮮味も無いことに気がつき、たまたま60年代初頭のソ連に旅行をした時、ソ連にも不良少年がいて英国の不良少年ともなんら違いがなかったことから、主人公の少年が、英語とロシア語を組み合わせて作った「ナツァト言葉」を操るという設定にしたとのことです。

 作品が発表された時の評判はイマイチで、「タチが悪く、取るに足らない扇情小説」と言われ、原罪と自由意志がテーマだとは気づかれずにいましたが、若者の間ではアンダーグラウンド的に支持を得ました。そして、時代や価値観の急激な変化や、映画界でも暴力や性の描写に寛大になってく中で、時代に乗り遅れないテーマを模索していたスタンリー・キューブリック監督の目にこの作品がとまって映画化されることになり、そのことによって一気に注目されるようになったとのことです。

 ストーリーと設定については原作と映画に大きな違いはないのですが、設定で1つ異なるのは、映画では成人男性である主人公のアレックスが、原作では15歳で設定されている点です。これはさすがに15歳のままの設定では映像化しにくかったということでしょう。

時計じかけのオレンジ003.jpg それと、それ以上に大きく異なるのは結末です。映画の衝撃的かつ皮肉ともとれる結末は、原作の第3部の6章で、アレックスが「ルドビコ療法」による「治療」を施されたにもかかわらず、結局「すっかり元通り」になった(要するに"ワル"に戻った)と宣言するところに該当します。しかし、原作は第1部から第3部までそれぞれ7章ずつで構成されており、この第3部の第7章が映画では割愛されています。

 なぜこうしことが起きたかというと、原作が米国で最初に出版された際、バージェスの意図に反し最終章である第21章(第3部の第7章)が削除されて出版され、キューブリックによる映画も本来の最終章を削除された版を元に作られたためです。

 その第3部の第7章を収めているゆえに、「ハヤカワepi文庫」版は「完全版」と謳っているわけです。本版は、'80年刊行の〈アンソニー・バージェス選集(早川書房)に準拠していますが、それ以前に刊行('77年)の「ハヤカワ文庫」版にはこの最終章がありません。

時計じかけのオレンジes.jpg 最終の第3部の第7章はどういった内容かというと、アレックスは21歳になっていて、新しい仲間たちと集い再び暴れ回る日々に戻るも、そんな生活に対してどこか倦怠感を覚えるようになって、そんなある日、かつての仲間ピートと再会し、妻を伴う彼の口から子どもが生まれたことを聞いて、そろそろ自分も落ち着こうと考え、暴力からの卒業を決意し、かつて犯した犯罪は若気の至りだったと総括するのです。

 文庫解説の映画評論家の柳下毅一郎氏(自称「特殊翻訳家」)によると、キューブリックは、「この版(第3部の第7章がある版)は、ほとんど脚本を書き上げるまで、読まなかった。けれども、私に関する限り、それは納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している」と言っていたとのことです(キューブリックは、出版社がバージェスを説き伏せて、彼の"正しい判断"に反して付け足しの章を加えさせたと思い違いしていたようだ。第3部の第7章はいわばハッピーエンドであるため、そうした"作為"があった思うのも無理ない)。

時計じかけのオレンジ dh.jpg 米国刊行時に最終章のカットを求めたのは実は米国出版社であり、キューブリックや出版社は、最終章をとってつけたハッピーエンドに過ぎないと考え、一方のバージェスはむしろ「主人公か主要登場人物の道徳的変容、あるいは英知が増す可能性を示せないのならば、小説を書く意味などない」とし、第6章で「すべて元通り」のままで終わったのでは、ただの寓話にしかならないと反発したそうです(バージェスはカソリック作家でもある)。

時計じかけのオレンジch.jpg この両者の言い分をどうとるかで「映画派」と「小説派」に分かれるかもしれません(バージェスは映画版を嫌っていたという)。バージェスの側に与したいところですが、そうなると、「ルドビコ療法」によるアレックスの「治療」というのは結果的にうまくいったことになり、「拷問を通じた再教育」を是認するともとられかねない恐れもあるように思われます。映画では、そうした自己矛盾に陥るのを回避し、原作が自由意志の小説であることがインパクトをもって伝わることの方を重視したように思います(キューブリックは「シャイニング」('80年/英)の結末も原作と変えていて、原作者のスティーヴン・キングと喧嘩になっている)。

 「映画派」に立っても「小説派」に立っても、人間の自由意志は尊重されるべきであるというテーマは変わりないと思います。小説は小説的に書かれ、映画は映画的に作られているように思います。ただし、小説の結末をキューブリックが、「納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している」としているのは単に"いちいちゃもん"をつけているとは言い難く、まさに小説の方の弱点とも言え、個人的にはこの勝負、映画の方に軍配を上げたいと思います(「シャイニング」は、自分は原作の方に軍配を上げるのだが)。

 因みに、先に取り上げた同じくディストピア小説であるジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んでいる時に、いつも想起させれていたのがこの作品でした。そして、バージェスはオーウェルの『一九八四年』を意識して『1985年』という未来小説を書いていますが、そこでは、オーウェルが描いた管理社とはまた違った社会が描かれているようです。


【2836】 尾形 誠規 (編) 『観ずに死ねるか!傑作絶望シネマ88
』 (2015/06 鉄人社)
IMG_7882.JPG「時計じかけのオレンジ」●原題:A CLOCKWORK ORANGE●制作年:1971年●制作国:イギリス・アメリカ●監督・製作・脚本:スタンリー・キューブリック●撮影:ジョン・オルコット●音楽:ウォルター・カーロス●原作:アンソニー・バージェス●時間:137分●出演:マルコム・マクダウェル/ウォーレン・クラーク/ジェームズ・マーカス/ポール・ファレル/リチャード・コンノート/パトリック・マギー/エイドリアン・コリ/ミリアム・カーリン/オーブリー・モリス/スティーヴン・バーコフ/イケル・ベイツ/ゴッドフリー・クイグリー/マッジ・ライアン/フィリップ・ストーン/アンソニー・シャープ/ポーリーン・テイラー●日本公開:1972/04●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:三鷹オスカー(80-02-09)●2回目:吉祥寺セントラル(83-12-04)(評価:★★★★☆)●併映(1回目):「非情の罠」(スタンリー・キューブリック)
『時計じかけのオレンジ(ハヤカワ・ノベルズ)』['71年]表紙イラスト:真鍋博
ハヤカワ・ノヴェルズ  『時計じかけのオレンジ』.jpg

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○ノーベル文学賞受賞者(ジョゼ・サラマーゴ)「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

白の闇 2008-2.jpg白の闇 2008-3.jpg 白の闇 2001.jpg 白の闇 2020.jpg 
白の闇 新装版』['01年]『白の闇』['08年]『白の闇 (河出文庫)』['20年]

目が見えなくなることで見えてくるものがあるならば、今は我々は何を見ているのか。

 クルマを運転中の男が突然目の前が真っ白になり失明する。そこから、車泥棒、篤実な目医者、サングラスの娼婦の娘、子供、眼帯をした老人などへと、「ミルク色の海」が原因不明のまま次々と周囲に伝染していく。事態を重く見た政府は、感染患者らを、精神病院だった建物を収容所にしてそこへ隔離する。介助者のいない収容所の中で人々は秩序を失い、やがて汚辱の世界にまみれていく。しかし、そこにはたったひとりだけ目が見える女性が紛れ込んでいた―。

ジョゼ・サラマーゴ.jpg ポルトガルの作家(劇作家・ジャーナリストでもある)ジョゼ・サラマーゴ(1922-2010/87歳没)が1995年に発表した作品で(原題:Ensaio sobre a Cegueira)、サラマーゴは既に、その代表作『修道院回想録』('82年)、『リカルド・レイスの死の年』('84年)で数々の文学賞を受賞していましたが、本書はとりわけ世界各国で翻訳され、'98年にはポルトガル人として初のノーベル文学賞受賞者となっています。また、2002年にノルウェー・ブック・クラブが発表した「世界最高の文学100冊」(Bokkulubben World Library)では、一番古いものが『ギルガメシュ叙事詩』(紀元前18世紀~17世紀)で、最も最近のものがこの『白の闇』となっています。

 日本では、2001年に翻訳されて日本放送出版協会より刊行され、2008年には新装版も出ましたが、今回、河出文庫として刊行されました(英訳本を底本とし、原著を参照している)。本書における失明を引き起こす感染症が街中に蔓延していく状況は、まさに新型コロナウィルスによる感染が広まる2020年現在の状況に通じるところがあることからの文庫化と思われます。

 物語では人から人へと感染は広まり、目の見えない人は急増し、次々と収容所の建物に送られてきます。ベッドは足りず、食糧も足りなくなり、目が見えないのでトイレも一苦労で、至る場所が汚れていきます。さらには、あるグループが暴力で食糧を占拠し、他のグループに金目のものを要求、やがてその要求はエスカレートしていき、要求に従わなければ支配下に置かれた人間は餓死してしまう状況に―。

 閉鎖された空間で噴出する人間の醜さ・怖ろしさを描いた、ウィリアム・ゴールディングの『蠅の王』などにも比される、ディストピア小説であると言えます。文体は独特で、会話にカギ括弧がなく、初めはやや当惑させられますが、内容の凄まじさに引き込まれ、ぐいぐい読み進むことができました。特殊な出来事を描いていて、登場人物の名前も出てこないというのはある種の寓話ともとれますが、表現がリアルな分、「現実世界の縮図」感もありました。

 希望がまったく無いかと言えばそうではなく、世の中の皆が目が見えなくなっていく状況の中、目医者の妻1人だけが目が見えていて(この目医者の妻が物語の中心人物になる)、最初に収容所に隔離された、自分の夫を含む6人を、陰に日向に支えていくサーバントリーダーのような役割を果たします。ある意味、人間の理性の部分を象徴するような存在です。
ブラインドネス (2008) 監督:フェルナンド・メイレレス 主演:ジュリアン・ムーア
ブラインドネス (2008).jpgブラインドネス1.jpg 2008年にはフェルナンド・メイレレス監督、ジュリアン・ムーア主演で映画化もされ(「ブブラインドネス (2008) 木村 伊勢谷.jpgラインドネス」('08年/日本・ブラジル・カナダ))、第61回カンヌ国際映画祭のオープニング作品でした。日本からも最初に感染する夫婦役で伊勢谷友介、木村佳乃が出演していますが、当時はノーベル賞作家の作品が原作とは知らす、単なるパニック映画だと思ってスルーしてしまいました。でも、少人数の"身内"とその他大勢の"外敵"という原作の構図は、サバイバル系のパニック映画の典型的パターンであり(「バイオハザード」('02年)や「アイ・アム・レジェンド」('07年)など感染者がゾンビ化する映画なども大体このパターン)、意外と映画化し易かったのではないかという気もします。

 作品テーマとしては、目が見えなくなることで見えてくるものがあり、それは人間のエゴの醜さであったりするものの、真の理性もそうしたものの対極として同じように浮き彫りになるということでしょうか。となると、目が見えているときは一体我々は何を見ているのかという、ある種皮肉のようなものも込められているかと思います(意識的・無意識的に見ないようにしている部分が多々あるように思う)。個人的解釈ですが、「白い闇」とは、今まさに人々が置かれている(しかし気づいてはいない)状況でもあると言えるかもしれません。

 原題の意味は「見えないことの試み」で、作者は2004年には81歳で本書の続編『見えることの試み』を、2005年に82歳で『中絶する死』を発表しており、『見えることの試み』では、伝染性の"白い失明病"が終焉した4年後の世界の政治と社会、集団と個人、束縛と自由を描き、『中絶する死』では、ある国でその国境の内側では、どんなに死にかけている人も死ななくなる、つまり死者がいなくなる事態が勃発するという世界を描いているとのこと、そう言えば、2017年のノーベル文学賞受賞者となったカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』('05年)も、SFの形を借りて、わかりやすいドラマのスタイルで「死」というテーマを扱っていたことを思い出しました(SFの形を借りるのはノーベル文学賞受賞者の一つの傾向か?)。

【2008年新装版/2020年文庫化[河出文庫]】

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すべてを分かり易く撮っているヴィスコンティ。"注釈"的な場面さえある。

べ二スに死す ps.jpgヴェ二スに死す 文庫新潮.jpg ヴェ二スに死す 文庫岩波.jpg ヴェ二スに死す 文庫集英社.jpg トーマス・マン.jpg
ベニスに死す [DVD]」/『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す (新潮文庫)』['67年]/『ヴェニスに死す (岩波文庫)』['00年]/『ベニスに死す (集英社文庫)』['11年]/トーマス・マン(1875-1955)

ベニスに死す  .jpgベニスに死す 07.jpg 1911年、ドイツ有数の作曲家・指揮者であるグスタフ・アシェンバッハ(ダーク・ボガード)は静養のため訪れたベニスで、母親(シルヴァーナ・マンガーノ)と三人の娘と家庭教師と共に同地を訪れていたポーランド人少年タジオ(ビヨルン・アンデルセン)に理想の美を見出す。以来、彼は浜に続く回廊をタジオを求めて彷徨うようになる。ある日、ベニスの街中で消毒が始まり、疫病が流行しているのだという。白粉と口紅、白髪染めを施して若作りをし、タジオの姿を求めてベニスの町を徘徊ベニスに死す86cf.jpgベニスに死す last.jpgしていたあるとき、彼は力尽きて倒れ、自らも感染したことを知る。それでも彼はベニスを去らない。疲れきった体を海辺のデッキチェアに横たえ、波光がきらめく中、彼方を指さすタジオの姿を見つめながら死んでゆく―。
ルキノ・ヴィスコンティ監督/ビヨルン・アンデルセン
ベニスに死す ヴィスコンティ.jpg 1971年公開のルキノ・ヴィスコンティ監督作で、アメリカ資本のイタリア・フランス合作映画で第24回カンヌ国際映画祭25周年記念賞受賞作。同監督の「地獄に堕ちた勇者ども」「ルートヴィヒ」と並ぶ「ドイツ三部作」の第2作とされていますが、これだけ舞台はドイツではなくイタリアです。原作はドイツの作家トーマス・マン(1875-1955)が1912年に発表した中編小説で、原作では主人公グスタフ・アッシェンバッハは"著名な作家"となっていますが、映画では"作曲家・指揮者"になっています。ただし、主人公のファースト・ネームから窺えるように、トーマス・マンは主人公のモデルに。このDeath in Venice_243fa75d0e.jpg小説執筆の直前に死去した作曲家のグスタフ・マーラー(1860-1911)をイメージし、主人公の名前もそこから借りたとされており、主人公を作曲家にしたのはルキノ・ヴィスコンティ監督の恣意によるものとは必ずしも言い切れないようです。

Vintage cover of a German edition of Death in Venice

ベニスに死すges.jpg トーマス・マンは1911年に実際にヴェネツィアを旅行しており、そこで出会った上流ポーランド人の美少年に夢中になり、帰国後すぐにこの小説を書いたとのことで、作品の主人公は老人になっていまうが、トーマス・マンはこの時まだ30代だったことになります(トーマス・マンの死後、美少年のモデルになったポーランド貴族ヴワディスワフ・モエス男爵が名乗り出て、彼がヴェネツィアでトーマス・マンと遭遇したのは11歳の時で、当時ヴワージオ、アージオなどの愛称で呼ばれていたことが確認されている)。

 文学作品を映画化すると、ストーリーを追おうとするばかり、本質的なところが抜け落ちてしまうことがままありますが、この作品は、アルベール・カミュの原作を同監督が映画化した「異邦人」('67年/伊・仏・アルジェリア)よりはその"抜け落ち"の程度が抑えられているように思います。

ベニスに死す6b.jpg 成功の要因としては、監督がヨーロッパ中を探して見つけたという美少年ビョルン・アンドレセンの美しさ(映画における美少年ランキングの人気投票でほとんどいつもトップにくる)もさるこベニスに死す-07.jpgとながら、舞台となる20世紀初頭のホテルなど、ルキノ・ヴィスコンティ監督の背景への徹底したこだわりがあるかと思います。これは、オフシーズンの名門ホテルを借り切って19世風に改装したそうですが、ホテルのホールやレストラン、客室の調度、人々の衣裳などの華やかさは、ヴィスコンティ監督の十八番という感じでしょうか。

シルヴァーナ・マンガーノ/ビョルン・アンドレセン/ダーク・ボガード
べ二スに死すa.jpg さらにこの映画の特徴としては、すべてを分かり易く撮っているということが言えるかと思います。アシェンバッハが旅立とうしたら荷物の行先が間違えられて、彼は結局ホテルに戻らざるを得なくなりますが、それによってまたタジオと会うことができるようになる、その喜びをダーク・ボガードは堪えても堪えきれないといった満面の笑みで表現しています。アシェンバッハは、少年とその家族にペストの流行を伝え、この地を去るよう注意を促す自分を想像しますが、映画ではこの実現しなかった場面を実際に映像化して少年の髪の毛に手を触れるところまで描いています。さらに、終盤アシェンバッハが化粧して若作りする場面も、リアリティを欠くぐらい濃いメイクをダーク・ボガードに施してします。また、これは、主人公が原作の冒ベニスに死す kesyou.jpg頭で出会った、「若作りをしているが実はぎょっとするぐらい年寄りだったと分かった男」と対応していて、主人公自身がその男になってしまったといういわば"オチ"であるわけですが、その冒頭の"若作り男"もしっかり描かれています。アシェンバッハは疫病のためか体調不良で(心臓の具合が悪いようも見える)、さらに精神的にも疲弊しますが(少年への想いが激しくて自分自身が空洞化しているように見える)、そのことを強調するためか、ホテル内で行われた演奏会での彼の指揮が散々な出来だったという、原作には無い場面を入れています(原作は作家だから元々演奏会の指揮などしないわけだがベニスに死す67.png)。極めつけは、アシェンバッハの回想シーンに彼が娼館に女を買いに行く場面があることで、原作には無い場面のように思います。このシーンがあることによって、アシェンバッハが少年に恋い焦がれているのは事実ですが、彼を直接的に性愛の対象として見ているのではなく、あくまでも絶対的な美の対象としてみていることが示唆されており、ある種"注釈"的な印象を受けました。
    
トーニオ・クレーガー 他一篇 (河出文庫)
トーニオ・クレーガー.jpg そもそも原作のテーマは何なのか。ドイツ文学者の高橋義孝(1913-1995)は、この作品を、同じく作者の代表作の中編小説で1903年発表の「トーニオ・クレーゲル」と対比させています。「トーニオ・クレーゲル」は自分が文学者としてどうあるべきか真摯に思い悩んでいたトーマス・マン自身の告白的な作品で、主人公のトニオはギムナジウムの時代にハンスという美少年とインゲという美少女の両方に憧れを抱き、芸術家(詩人)を目指しながらも彼の思いはその両者の間を彷徨いますが(それを自身は自らの市民気質(かたぎ)によるものと捉え、年上の女性からもあなたは"俗人"だと言われる)、年齢を経て旅行などでの経験を通して、最後は自分はあくまで市民気質を保ちながらより良い作品を書いていく決心をするに至るというものです。高橋義孝は、トーマス・マンにおいて芸術家、特に文士、作家とは、「生」と「精神」、「市民気質」と「芸術家気質」、感情と思想(「ヴェニスに死す」の中の表現)、感性と理性、美と倫理、陶酔と良心、享受と認識という相反する2つのものの板挟みになっている存在であり、「トーニオ・クレーゲル」では、主人公はこれら対立概念の後者にすがってかろうじて自己の文士としての生活を支えるが、「ヴェニスに死す」では、これら対立概念の前者のために敗北し、死んでいくとしており、この解説は分かり易かったです。

 つまり、トーニオ・クレーゲルは踏みとどまったというかバランスを保ち得たわけで(この作品は三島由紀夫や北杜夫などの作家に大きな影響を与えたと言われている)、一方のアシェンバッハは向こう側にイッて(行って/逝って)しまったという感じでしょうか。小説としては、"イッて(行って/逝って)しまった"話の方が面白いような気がするし、また怖いような気もしますが、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画は、その面白さ、怖さをわれわれにその通り伝えてくれているような気がします。この作品は第45回(1971年度)キネマ旬報の外国映画ベスト・テン第1位となりましたが、ルキノ・ヴィスコンティ監督は「家族の肖像」('74年/伊・仏)でも第52回(1978年度)キネマ旬報の外国映画ベスト・テン第1位となっており、"滅びの美学"は感性的に日本人に受け容れられやすいのかもしれません。

ベニスに死すs.jpg「ベニスに死す」●原題:DEATH IN VENICE(英)/MORTE A VENEZIA(伊)/MORT A VENISE(仏)●制作年:1971年●制作国:イタリア・フランス●監督・製作:『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』.JPGルキノ・ヴィスコンティ●脚本:ルキノ・ヴィスコンティ/ニコラ・バダルッコ●撮影:パスクワーレ・デ・サンティス●音楽:グスタフ・マーラー●原作:トーマス・マン●時間:131分●出演:ダーク・ボガード/ビョルン・アンドレセン/シルヴァーナ・マンガーノ/ロモロ・ヴァリ/マーク・バーンズ/マリサ・ベレンソン/ノラ・リッチ/キャロル・アンドレ/レスリー・フレンチ/フランコ・ファブリッツィ/セルジオ・ガラファノーロ/ドミニク・ダレル/マーシャ・ブレディット/エヴァ・アクセン/マルコ・トゥーリ●日本公開:1971/10●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:大塚名画座(79-02-07)(評価:★★★★)●併映:「地獄に堕ちた勇者ども」(ルキノ・ヴィスコンティ)

シルヴァーナ・マンガーノ in 「ベニスに死す」('71年)/「ルートヴィヒ」('72年)/「家族の肖像」('74年)
シルヴァーナ・マンガーノ.jpg

大塚駅付近.jpg大塚名画座 予定表.jpg大塚名画座4.jpg大塚名画座.jpg大塚名画座(鈴本キネマ)(大塚名画座のあった上階は現在は居酒屋「さくら水産」) 1987(昭和62)年6月14日閉館


【1939年文庫化・1960年改版・2000年改版[岩波文庫『ヴェニスに死す』(実吉捷郎:訳)]/1967年再文庫化[新潮文庫『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』(高橋義孝:訳)]/2011年再文庫化[角川文庫『ベニスに死す』(浅井真男:訳)]/2007年再文庫化[光文社古典新訳文庫『ヴェネツィアに死す』(岸美光:訳)]/2011年再文庫化[集英社文庫『ベニスに死す』(圓子修平 :訳)]】
 
《読書MEMO》
●ヴェニス(ヴェネツィア)を舞台にした映画
ジョゼフ・ロージー監督「エヴァの匂い」('62年/仏)/ルキノ・ヴィスコンティ監督「ベニスに死す」('71年/伊・仏)/ニーノ・マンフレディ監督「ヌードの女」('81年/伊・仏)/テレンス・ヤング監督「007 ロシアより愛をこめて」('63年/英)
イタリア・ベネチア●エヴァの匂いes.jpgイタリア ベニスに死す .jpgイタリア。ヴェネチア●ヌードの女.jpg 007 ロシアより愛をこめて  ヴェネチア (2).jpg

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アン・リー監督2度目の金獅子賞。原作短編を「長編に展開」し、女性映画として秀逸な「ラスト、コーション」。
ラスト、コーション チラシ.jpgラスト、コーション .jpg ラスト、コーション 集英社文庫.jpg ブロークバック・マウンテン dvd.jpg
ラスト、コーション [DVD]」(トニー・レオン(梁朝偉)/タン・ウェイ(湯唯))『ラスト、コーション 色・戒 (集英社文庫)』「ブロークバック・マウンテン [DVD]」(ヒース・レジャー/ジェイク・ギレンホール)
ラスト、コーション 03.jpg 1938年、日中戦争の激化によって混乱する中国本土から香港に逃れていた女子大学生・王佳芝(ワン・チアチー)(タン・ウェイ)は、学ラスト、コーション04.jpg友・鄺祐民(クァン・ユイミン)(ワン・リーホン)の勧誘で抗日運動を掲げる学生劇団に入団し、やがて劇団は実践を伴う抗日活動へと傾斜していく。翌1939年、佳芝も抗ラスト、コーション09.jpg日地下工作員(スパイ)として活動することを決意し、特務機関の易(イー)(トニー・レオン)暗殺の機を窺うため麦(マイ)夫人として易夫人(ジョアン・チェン)に麻雀・買い物友達として接近、易を誘惑したが、学生工作員の未熟さと厳しい警戒でラスト、コーション37.jpg暗殺は未遂に終わる。3年後、日中戦争開戦から6年目の1942年、特務機関の中心人物に昇進していた易暗殺計画の工作員として上海の国民党抗日組織から再度抜擢された佳芝は、特訓を受けて易に接触したが、度々激しい性愛を交わすうち、特務機関員という職務から孤独の苦悩を抱える易にいつしか魅かれていく。工作員としての使命を持ちながら、暗殺対象の易に心を寄せてしまった佳芝は―。

ラスト、コーション99.jpg 「ブロークバック・マウンテン」('05年/米)で2005年・第62回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞や2005年度アカデミー監督賞を受賞したアン・リー(李安)監督の2007年公開作で、1942年日本軍占領下の中国・上海を舞台に、日本の傀儡政権である汪兆銘政権の下で、抗日組織の弾圧を任務とする特務機関員の暗殺計画を巡って、抗日運動の女性工作員ワン(タン・ウェイ)と、彼女が命を狙う日本軍傀儡政府の顔役イー(トニー・レオン)による死と隣り合わせの危険な逢瀬とその愛の顛末を描いたもので、2007年・第64回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞と撮影賞をW受賞し、アン・リー監督はルイ・マルや張藝謀(チャン・イーモウ)と並んで、金獅子賞を2度獲った歴代4人目の監督となりました。

世界文学全集 第3集.jpgZhang_Ailing_1954.jpg 原作は、ドミニク・チャン南カリフォルニア大学教授によれば、「国民党と共産党の政治的分裂がなければノーベル賞を受賞していたはずだ」という作家・張愛玲(ちょう あいれい、アイリーン・チャン、1920-1995)による小説『惘然記』(1983)に収められた短編小説「色、戒」で、1939年に実際にあった暗殺事件にヒントを得て書かれたものです。1955年に作者は米国に移り住むことになりますが、その頃から既に構想されていたもののようです(1977年初出)。映画公開に併せて『ラスト、コーション 色・戒』('07年/集英社文庫)など訳書が刊行され、『短編コレクションⅠ(池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 Ⅲ‐05)』('10年/河出書房新社)にも収められていますが、池澤夏樹氏は、「『色、戒』はぼくには圧縮された長編小説と読める」としています。
短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

ラスト、コーション 0.jpg 原作は女性工作員・王佳芝(ワン・チアチー)の数日を描いていますが(それは劇的な結末で終わる)、映画も、その形をきっちり踏襲した上で、回想の部分に肉付けして2時間38分の作品にしています。そして、その肉付けの仕方が、ぎゅっと詰まった高密度の原作を分かりやすく展開して"長編小説"に戻したような形になっています。ジェーン・オースティン原作の「いつか晴れた日に」('95年/米・英)のように英国小説が原作の映画を撮れば英国の監督が撮ったように撮り、「ブロークバック・マウンテン」のように米国小説が原作の映画を撮れば米国の監督が撮ったように撮るアン・リー監督ですが、やはりこの中国を舞台とした小説の映画化で一番力を発揮したように個人的には思います。

ラスト、コーション 99.jpg ヒロインの王佳芝を演じた湯唯(タン・ウェイ)は、オーディションで約1万人の中から主演に選ばれたそうですが、当時28歳ながら学生を演じれば学生らしく見え、男を誘惑する女スパイを演じればそれなりに魅力的な女性に見えました(タン・ウェイは第44回台湾金馬奨最優秀新人賞受賞)。原作とイメージが若干違うのは、原作では「ねずみ顔の中年の小男」とされている特務機関の易(イー)をトニー・レオンが演じているため、"いい男"過ぎる点でしょうか(笑)(トニー・レオンはアジア・フィルム・アワード主演男優賞、台湾金馬奨最優秀主演男優賞受賞)。

鄭蘋茹(Zheng Pingru)/丁黙邨(てい もくそん)
Zheng_Pingru_02.jpg丁黙邨.jpg 因みに、「色、戒」の王佳芝のモデルは、父親が中国人、母親が日本人の女スパイ・鄭蘋茹(テン・ピンルー、1918 -1940/享年22)で、易のモデルは、汪兆銘政権傘下の特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者・丁黙邨(ていもくそん、1903-1947)です。鄭は丁に近づき、1939年12月、丁の暗殺計画を実行するも失敗、特工総部に出頭して捕らえられ、1940年2月に銃殺されますが、後に中華民国より殉職烈士に認定されています。一方の丁は、戦後も蒋介石の国民政府に再任用されるなどしましたが、結局は漢奸として逮捕され、1947年に死刑判決を受け、南京で処刑されています(享年45)。

ラストコーション8735_l.jpg この映画は所謂「漢奸問題」を引き起こしました。佳芝を演じたタン・ウェイは、トニー・レオンが演じる戦時中日本の協力者と見なされた漢奸を愛するようになる役柄であることから、漢奸を美化し「愛国烈士」を侮辱する象徴として中国国内のネット上では批判された時期があったようです。張愛玲の原作では愛欲描写は殆ど無いものの、佳芝が易を逃がすのは原作も同じです。原作者の張愛玲は人生半ばで渡米して今は故人、そうなるとこの作品を選んだアン・リー監督に矛先が行きそうですが、当のアン・リーは台湾出身で米国国籍も有し普段は中国にはいないので、トニー・レオンと大胆なラブシーンを演じたタン・ウェイに批判の矛先が向けられたのかもしれません(タン・ウェイは2008年に香港の市民権を得て、その後は主に香港映画に出演、ハリウッドにも進出した)。

ラスト、コーション92.jpg 原作では、佳芝が易にどのような理由で愛情を抱くようになったかは明確に描かれていません。また、佳芝が易を逃がしたことが、同時に彼女が仲間を裏切ったことになり、そのため彼女だけでなく仲間が皆捕まって処刑されたということも、原作ではさらっと触れているだけで、この佳芝の言わば"裏切り"行為は、原作よりも映画の方がより前面に押し出されていると言えます。敢えてそうした上で(つまり批判を見越した上で)、それでもヒロインとして観る者を惹きつける佳芝の描きっぷりに、アン・リー監督による"原作超え"を感じました。3年も経ってからやっと佳芝に口づけをしたかつての学友に、「3年前にしてくれていれば...」と佳芝が言う場面で、「ああ、これは"女性映画"なのだなあと」とも思いました(アン・リー監督は女性映画の名手として定評がある)。

51eLWoDzrkL._SL250_.jpgアニー・プルー.jpg この作品の2年前にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲った「ブロークバック・マウンテン」は、ワイオミング州ブロークバック・マウンテンの雄大な風景をバックに、2人のカウボーイの1963年から1983年までの20年間にわたる秘められた禁断の愛を綴った物語で、原作は『シッピング・ニュース』でピューリッツァー賞を受賞した女流作家E・アニー・プルーの同名中編で、1997年に雑誌「ニューヨーカー」に掲載され、1998年の全米雑誌賞とO・ヘンリー賞を受賞した作品です(これも佳作だった。彼女は「ブロークバック・マウンテン」がアカデミー作品賞にノミネートされるも受賞を逃したことで、代わりにアカデミー作品賞を受賞した「クラッシュ」を酷評した)。

"Brokeback Mountain"ペーパーバック

ブロークバック・マウンテンa5.jpg 1963年、ワイオミング。ブロークバック・マウンテンの農牧場に季節労働者として雇われ、運命の出逢いを果たした2人の青年、イニス・デル・マー(ヒース・レジャー)とジャック・ツイスト(ジェイク・ギレンホール)。彼らは山でキャンプをしながら羊の放牧の管理を任される。寡黙なイニスと天衣無縫なジャック。対照的な2人は大自然の中で一緒の時間を過ごすうちに深い友情を築いていく。そしていつしか2人の感情は、彼ら自身気づかぬうちに、友情を超えたものへと変わっていくのだったが―。

 2005年のアカデミー賞で8部門にノミネートされましたが、監督賞、脚色賞、作曲賞の3部門の受賞にとどまりました(保守的な傾向があるアカデミー賞では作品賞は難しいのではないかという事前予想はあった)。ただし、ゴールデングローブ賞作品賞、英国アカデミー賞作品賞、インディペンデント・スピリット賞作品賞ほか、ニューヨーク、ロサンゼルスブロークバック・マウンテン_c1.jpgブロークバック・マウンテン_c2.jpg、ロンドンなどの各映画批評家協会賞作品賞を受賞し、ゲイ・ムービーにはスティーヴン・フリアーズ監督の「マイ・ビューティフル・ランドレット」('85年)やウォン・カーウァイ監督の「ブエノスアイレス」('97年)など先行する作品が結構ありましたが、多くの賞を受賞したという点では画期的な作品でした。2000年代中盤以降LGBT映画がますますその数を増していく契機にもなり、最近では、バリー・ジェンキンス監督の「ムーンライト」('16年)がアカデミー作品賞を受賞し、ルカ・グァダニーノ監督の「君の名前で僕を呼んで」('17年)がアカデミー脚色賞を受賞するなどしています(「君の名前で僕を呼んで」の脚本は「モーリス」('87年)のジェームズ・アイヴォリー監督)。

ブロークバック・マウンテンes.jpg この映画の場合、主人公の2人の男性は共に家庭も持っていて、しかも時代設定が60年代から80年代にかけてということで、ゲイに対する偏見が今よりもずっと強かった時代の話であり、それだけ"禁断の愛"的な色合いが強く出ブロークバック・マウンテン4.jpgているように思います。一方で、その"禁断の愛"をブロークバック・マウンテンの美しい自然を背景に描いており、山の焚火%E3%80%80チラシ.jpgドロドロした印象はさほどなく、自然の美しさが浄化作用のように効いているという点で、アルプスの自然を背景に姉弟の近親相姦を描いたフレディ・M・ムーラー監督のロカルノ国際映画祭「金豹賞」受賞作「山の焚火」('85年/スイス)を想起したりしました。
     
ブロークバック・マウンテン ヒース.jpg イニスとジャックを演じた、故ヒース・レジャー(1979-2008/享年28)とジェイク・ギレンホールの演技も良かったです。この作ヒース・レジャー.jpg品のイニス役でニューヨーク映画批評家協会賞主演男優賞などを受賞し、アカデミー主演男優賞にもノミネートされたヒース・レジャーは、映画の中でイニスと結婚したアルマを演じたミシェル・ウィリアムズと実生活において婚約しましたが、両者の間に女の子が産まれたものの婚約を解消しています。

ダークナイト.jpg その後ヒース・レジャーは、クリストファー・ノーラン監督のバットマン映画「ダークナイト」('08年/米・英)にバットマンの宿敵ジョーカ役で出演、バットマン役のクリスチャン・ベールを喰ってしまうほどの演技でジャック・ニコルソンのとはまた違ったジョーカー像を創造することに成功し、アカデミー助演男優賞、ゴールデングローブ賞助演男優賞、英国アカデミー賞助演男優賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞助演男優賞など主要映画賞を総なめにしたものの、2008年1月に薬物摂取による急性中毒でニューヨークの自宅で亡くなっています。アカデミー助演男優賞の受賞は亡くなった後の決定であり、故人の受賞は「ネットワーク」('76年/米)のピーター・フィンチ以来32年ぶり2例目でした(因みに、共演のクリスチャン・ベールも2年後の「ザ・ファイター」('10年/米)でアカデミー助演男優賞を受賞している)。

ブロークバック・マウンテン 85.JPG 「ブロークバック・マウンテン」においてイニスがジャックの事故死を彼のジャックの妻ラリーン(アン・ハサウェイ)から聞かされた時に、リンチを受けるジャックの姿をイメージしたのは、単にイニスのトラウマからくる思い込みというより、実際にリンチ死だったということだったのでしょう。原作では、イニスは最初はジャックがリンチ死だったのか本当に事故死だったのか分からないでいますが、後になってジャックはリンチ死したと確信するようになります。

ブロークバック・マウンテン (集英社文庫(海外))

 「ブロークバック・マウンテン」「ラスト、コーション」とも傑作映画です。原作に比較的忠実に作られている「ブロークバック・マウンテン」もいいですが、個人的には、原作からの"展開度"という点で(しかも"正しく"肉付けされている)「ラスト、コーション」の方がやや上でしょうか。

ジョアン・チェン(易夫人)/ワン・リーホン(鄺祐民(クァン・ユイミン))
ラスト、コーション ジョアン・チェン.jpgラスト、コーション ワン・リーホン.jpg「ラスト、コーション」●原題:色,戒/LUST, CAUTION●制作年:2007年●制作国:アメリカ・中国・台湾・香港●監督:アン・リー(李安)●製作:アン・リー/ビル・コン/ジェームズ・シェイマス●脚本:ワン・ホイリン/ジェームズ・シェイマス●撮影:ロドリゴ・プリエト●音楽:アレクサンドル・デスプラ●原作:張愛玲(ちょう あいれい、アイリーン・チャン)「色、戒」●時間:158分●出演:トニー・レラスト、コーション36.jpgオン(梁朝偉)/タン・ウェイ(湯唯)/ジョアン・チェン(陳冲)/ワン・リーホン(王力宏)/トゥオ・ツォンファ/チュウ・チーイン/ガァオ・インシュアン/クー・ユールン/ジョンソン・イェン/チェン・ガーロウ/スー・イエン/ホー・ツァイフェイ/ファン・グワンヤオ/アヌパム・カー●日本公開:2008/02●配給:ワイズポリシー)(評価:★★★★☆)

トニー・レオン(梁朝偉)/タン・ウェイ(湯唯)/アン・リー(李安)監督/ワン・リーホン(王力宏)/ジョアン・チェン(陳冲)〔2007年・第64回ヴェネツィア国際映画祭〕

アン・ハサウェイ(ジャックの妻ラリーン)/ミシェル・ウィリアムズ(イニスの妻アルマ)
ブロークバック・マウンテン アン・ハサウェイ.jpgブロークバック・マウンテン ミシェル・ウィリアムズ.jpg「ブロークバック・マウンテン」●原題:BROKEBACK MOUNTAIN●制作年:2005年●制作国:アメリカ●監督:アン・リー(李安)●製作:ブロークバック・マウンテンe2.jpgダイアナ・オサナ/ジェームズ・シェイマス●脚本:ワダイアナ・オサナ/ジェームズ・シェイマス●撮影:ロドリゴ・プリエト●音楽:グスターボ・サンタオラヤ●原作:E・アニー・プルー「ブロークバック・マウンテン」●時間:134分●出演:ヒース・レジャー/ジェイク・ギレンホール/アン・ハサウェイミシェル・ウィリアムズ/ランディ・クエイド/リンダ・カーデリーニ/アンナ・ファリス/ケイト・マーラ●日本公開:2006/03●配給:ワイズポリシー(評価:★★★★)

ダークナイト dvd.jpgダークナイト2.jpg「ダークナイト」●原題:THE DARK KNIGHT●制作年:2008年●制作国:アメリカ・イギリス●監督:クリストファー・ノーラン●製作:クリストファー・ノーラン/チャールズ・ローヴェン/エマ・トーマス●脚本:クリストファー・ノーラン/ジダークナイト ヒースレジャー.jpgョナサン・ノーラン●撮影:ウォーリー・フィスター●音楽:ハンス・ジマー/ジェームズ・ニュートン・ハワード●原作:ボブ・ケイン/ビル・フィンガー「バットマン」●時間:152分●出演:クリスチャン・ベールヒース・レジャー/アーロン・エッカート/マギー・ジレンホール/マイケル・ケイン/ゲイリー・オールドマン/モーガン・フリーマン/メリンダ・マックグロウ/ネイサン・ギャンブル/ネスター・カーボネル●日本公開:2008/08●配給:ワーナー・ブラザース(評価:★★★☆)

モーガン・フリーマン(バットマンのテクノロジーをサポートするルーシャス・フォックス)/マイケル・ケイン(ウェイン家の執事・アルフレッド・ペニーワース)
the dark knight 2008 morgan freeman michael caine.jpg

「ラスト、コーション」...【2007年文庫化[集英社文庫(『ラスト、コーション 色・戒』)]】
「ブロークバック・マウンテン」...【2006年文庫化[集英社文庫(『ブロークバック・マウンテン』)]】

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主人公が "彼女の秘密"に気づく場面はミステリの謎が明かされるようで白眉。

愛を読むひとdvd 2008.jpg 愛を読むひと .jpg 朗読者 新潮文庫.jpg タイタニック bvd.jpg
愛を読むひと<完全無修正版> [DVD]」ケイト・ウィンスレット ベルンハルト・シュリンク『朗読者 (新潮文庫)』「タイタニック(2枚組) [AmazonDVDコレクション]
愛を読むひと 01.jpg 第二次世界大戦後のドイツ。15歳のマイケル(ダフィット・クロス)は、体調が優れず気分が悪かった自分を偶然助けてくれた21歳も年上の女性ハンナ(ケイト・ウィンスレット)と知り合う。猩紅熱にかかったマイケルは、回復後に毎日のように彼女のアパートに通い、いつしか彼女と男女の関係になる。ハンナはマイケ愛を読むひと 03 2.jpgルが本を沢山読む子だと知り、本の朗読を頼むようになる。彼はハンナのために『オデュッセイア』や『犬を連れた奥さん』などを朗読する。ある日、ハンナは働いていた市鉄での働きぶりを評価され、事務職への昇進を言い渡されると、マイケルの前から姿を消愛を読むひと80.jpgしてしまう。理由がわからずにハンナに捨てられて8年が経ったある日、ハイデルベルク大学法学部生となったマイケルは、ロール教授(ブルーノ・ガンツ)のゼミ研究のためにナチスの戦犯を裁くアウシュビッツ裁判を傍聴し、被告席の一つにハンナの姿を見つける。彼女は第二次世界大戦中に強制収容所で看守をしていたのである。裁判はハンナに不利に進み、彼女は無期懲役の判決を受ける―。
 
Der Vorleser(ドイツ語paperback)/Bernhard Schlink
Der Vorleser.jpgベルンハルト・シュリンク.jpg 2008年のアメリカ・ドイツ合作映画で、監督は英国人のスティーブン・ダルドリー、原作は1995年に出版されたベルンハルト・シュリンク(Bernhard Schlink)の長編小説『朗読者』('00年/新潮社、原題:Der Vorleser/The Reader)です。映画は(終盤に主人公がニューヨークへ行く場面を除き)ドイツで撮影されていますが、英語による製作であるため、主人公の名前も、原作のミヒャエルからマイケルになっています。但し、少年時代のマイケルを演じたダフィット・クロスはドイツの俳優、母親を演じたズザンネ・ロータもドイツ人女優、法学部のロール教授はスイス出身のブルーノ・ガンツが演じていてます。ハンナ役のケイト・ウィンスレットは英国人女優、成人してからのマイケルを演じたレイフ・ファインズも英国人俳優、アウシュヴィッツの生存者母子ローゼ・マーターとイラーナ・マーターの二役を演じたレナ・オリンはスウェーデン出身、若き日のイラーナを演じたアレクサンドラ・マリア・ララはルーマニア人、成人したマイケルの娘を演じたハンナー・ヘルツシュプルングは、これまたドイツ人女優です(アメリカ人、いないね)。

愛を読むひとes.jpg 先に原作を読みましたが、かつて齋藤美奈子氏が「包茎小説」と呼んでいたのを思い出しました。15歳のミヒャエルと21歳年上のハンナが出会い、男女の関係を持って別れるまでを描いた第1章だけならば、確かに"筆おろし"小説と言えなくもなく、元判事で法学部教授である作者がこういうの書くのが興味深いと思いました。しかし、第2章の裁判の場面はまさにキャリアに裏打ちされたもので、作品に深みを与えることにも繋がっているように思いました。小説はこれに、裁判以降の主人公とハンナの話を描いた第3章を加えた3つの章から成ります。

レイフ・ファインズ(現在のマイケル)/ダフィット・クロス(少年時代のマイケル)
愛を読むひとralph_fiennes_in_the_reader.jpg愛を読むひと kurosu.jpg 一方の映画の方は、1995年の主人公マイケルの「現在」を軸に、1958年の15歳の時にハンナと出会った少年期、1966年のハンナの裁判を偶然傍聴することになった法学部生愛をよむ人 s.jpg時代、1976年のマイケルが本を朗読しテープに録音して、それを獄中のハンナに送ることを思いついた時期、1980年のハンナから届いた短い文章の礼状にマイケルが感動した出来事、1988年の20年の刑に減刑されたハンナが釈放されることが決まった時などとの愛を読むひと ブルーノ・ガンツ.jpg間を行き来する形をとっていますが、概ね原作に忠実であるといっていいでしょう(マイケルが離婚して娘となかなか会えないでいるといった現況は映画のオリジナル。あとは、ブルーノ・ガンツ演じる教授のウェイトが原作より大きくなって、主人公に精神的に導き支えるという点で、原作における主人公の父親である哲学教授の役割を一部代替していたりする)。

ブルーノ・ガンツ(後ろ)

愛を読む人aioyomu.jpg 原作でも言えるのは、ハンナが幾つか謎を抱えている女性であるという点であり、①なぜマイケルと交わるようになったのか?(単なる気まぐれ?)、②なぜ裁判で不利になることを承知で自らの"秘密"を明かさなかったのか?(主人公がその"秘密"に気づく場面は、ミステリの謎が明かされるようで、原作でも映画でも白眉)、③そして最後に彼女がとった行動の理由は?―等々。映画を観て、①の理由は、マイケルが彼女にとっての癒しとなる"朗読者"であり、自らを成長させるパートナーであったことが窺えましたが心と響き合う読書案内2.jpg新潮文庫 20世紀の100冊.jpg、②については、映画を観てもまだ解らない部分が残りました。小川洋子氏は、「彼女は疲れ切っていたに違いない。彼女は裁判で闘っていただけではなかった。彼女は常に闘っていたのだ。何ができるかを見せるためではなく、何ができないかを隠すために」としています(『心に響き合う読書案内』('09年/PHP新書)。この原作は、関川夏央氏の『新潮文庫20世紀の100冊』('09年/新潮新書)にも取り上げられている)。

愛を読む人 ウィンスレット.jpg こうした"秘密"を持つ女性を演じるのは難しいだろうなあと思いますが、それだけ魅力的でもあり、ケイト・ウィンスレット(1975年生まれ)はそこに上手く嵌ったように思います(ニコール・キッドマンが妊娠で降板し、当初の候補だったケイト・ウィンスレットが結局演じることになった)。ケイト・ウィンスレットは、この作品で「タイタニック」('97年)以来4度目のアカデミー賞主演女優賞ノミネート(「助演賞」ノミネートを含むと6度目)にして、初の受賞を果たしています。「タイタニック」で共演したレオナルド・ディカプリオ(1974年生まれ)も、「レヴェナント:蘇えりし者」('15年)で4度目のアカデミー賞主演男優賞ノミネート(「助演賞」ノミネートを含むと5度目)にして初受賞していますが、若い頃から演技の天才などと呼ばれたレオナルド・デカプリオよりもケイト・ウィンスレットの方が受賞は7年早かったことになります。

タイタニック vhs.jpg 「タイタニック」の興行収入は、全米で6.6億ドル、日本で262.0億円(配給収入160.0億円)、全世界で21.9億ドルに達し、「ジュラシック・パーク」('93年)を抜いて当時の世界最高興行収入を記録し、この記録は同じジェームズ・キャメロン監督作品の「アバター」('09年)に抜かれるまで保持され、日本でも「もののけ姫」('97年)を抜いて日本歴代興行収入記録を更新し、「千と千尋の神隠し」('01年)に抜かれるまで記録を保持していました。逆に、これほどヒットすると劇場に観に行かなかったりして、結局ビデオで観てしまいましたが、「アビス」('89年)の監督によるCG映画だと思って軽く見ていてのが、結構ドラマ部分もしっかりしていて、事前の予想よりも良かったです。

 ケイト・ウィンスレット演じるローズは1等客室の客、レオナルド・ディカプリオ演じるジャックは3等客室の客。「船」って階層社会の縮図だなあ。階級差を超えた恋という定番の設定ですが、意外と感情移入できたのは、振り返ってみれば二人の演技がしっかりしていたのかも。個人的には、昔、八戸と苫小牧間のフェリーで1等の個室部屋がとれなくて2等の部屋に雑魚寝部屋にいったん入ったのを思い出しました。すぐに1等のキャンセル待ちに並んで、窓ありの個室部屋に移りましたが、やはり天と地の差があったなあ(笑)。学生時代は、雑魚寝部屋で伊豆大島に行ったりしていましたが、その頃は全然抵抗なかったけれど...。

ケイト・ウィンスレット in「いつか晴れた日に」('95年)/「タイタニック」('97年)
いつか晴れた日に ケイト・ウィンスレット2.jpg 「タイタニック」デカプリオ・ウィンスレット.jpg
ブルーノ・ガンツ in「ヒトラー~最期の12日間~」('04年)
「ヒトラー」ガンツ.gif

愛を読むひig.jpg「愛を読むひと」●原題:THE READER●制作年:2008年●制作国:アメリカ・ドイツ●監督:スティーブン・ダルドリー●製作:アンソニー・ミンゲラ/シドニー・ポラック/ドナ・ジグリオッティ/レッドモンド・モリス●脚本:デヴィッド・ヘアー●撮影:クリス・メンゲス●音楽:ニコ・マーリー●原作:ベルンハルト・シュリンク「朗読者」●時間:124分●出演:ケイト・ウィンスレット/レイフ・ファインズ/ダフィット・クロス/ブルーノ・ガンツ/レナ・オリン/アレクサンドラ・マリア・ララ/ハンナー・ヘルツシュプルング/ズザンネ・ロータ●日本公開:2009/06●配給:ショウゲート●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(17-09-19)(評価★★★★)

タイタニック (1997年3.jpgタイタニック (1997年0.jpg「タイタニック」●原題:TITANIC●制作年:1997年●制作国:アメリカ●監督・脚本:ジェームズ・キャメロン●製作:ジェームズ・キャメロン/ジョン・ランドー●撮影:ラッセタイタニック (1997年2.jpgル・カーペンター●音楽:ジェームズ・ホーナー(主題歌:セリーヌ・ディオン「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」●時間:194分●出演:レオナルド・ディカプリオ/ケイト・ウィンスレット/ビリー・ゼイン /デビッド・ワーナー/フランシス・フィッシャー/ダニー・ヌッチ/ジェイソン・ベリー/エイミー・ガイバ/ビル・パクストン/グロリア・スチュアート/スタイタニック (1997年1.jpgージー・エイミス/ルイス・アバナシー/キャシー・ベイツ/バーナード・ヒル /ジョナサン・ハイド/ヴィクター・ガーバー/マーク・リンゼイ・チャップマン/ヨアン・グリフィズ/エドワード・フレッチャー /エリック・ブレーデン/マイケル・エンサイン/バーナード・フォックス/●日本公開:1997/12●配給:20世紀フォックス(評価★★★★)

 

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神は自分を褒めたたえてくれる人だけを天国に集める? 最後の一文をどう訳すか。

幸福な王子―ワイルド童話全集 (新潮文庫).jpg 幸福の王子 バジリコ.jpg 幸せな王子 金原1.jpg 幸福の王子 原.jpg  Oscar Wilde.jpg
幸福な王子―ワイルド童話全集 (新潮文庫)』(西村孝次:訳/表紙絵:南桂子)/『幸福の王子』['06年/曽野綾子:訳(建石修志:画)]/『幸せな王子』['06年/清川 あさみ(絵) (金原瑞人:訳)]/『幸福の王子』['10年/原マスミ(抄訳・絵)]/Oscar Wilde
『幸福な王子』.JPGThe Happy Princeby AnyaStone.jpg 1888年、アイルランド出身の当時33歳の詩人だったオスカー・ワイルド(1854-1900)の最初の童話集『幸福な王子ほか』は、「幸福な王子」「ナイチンゲールとばらの花」「わがままな大男」「忠実な友達」「すばらしいロケット」の5編から成り、1891年刊行の第2童話集『ざくろの家』は、「若い王」「王女尾の誕生日」「漁師とその魂」「星の子」の4編から成るもので("ざくろ"は各編の共通モチーフとして出てくる)、西村孝次訳の新潮文庫版はこれら9編を網羅して所収いるため、ワイルドの童話集といえば「定番」ということになるかと思います。
The Happy Prince by AnyaStone

 訳者は当初から童話集という言い方をしていて、新潮文庫の改版版もカバータイトルは『幸福な王子』ですが、扉をめくると括弧して「ワイルド童話全集」とあります。童話集という呼び方に異を唱えるわけではないですが、イコール児童文学というイメージが付き纏いがちで、そうなるとどうかなあと。作者のワイルド自身、幅広い年齢層に向けて書いたものであることを後に公言しており、一篇一篇に込められた寓意からみても、「大人の童話」という色合いが濃いように思います。

 読み手によってそれぞれ好みの違いはあるかと思われ、「ナイチンゲールとばらの花」なども知られている方の話だと思ひますが、やはり一番有名なのは表題作の「幸福な王子」であり、その出来栄えにおいても他から抜きんでているように思います。これ読むと、ワイルドはいろいろあった人生でしたが、純粋なキリスト者であったような気がします(テクニックだけでこうした作品はそう書けないのでは。因みに、第2童話集『ざくろの家』発表年は『ドリアン・グレイの肖像』と同年)。

 この作品のラストで、神さまから「町じゅうでいちばん貴いものをふたつ持ってきなさい」と言われた天使が、王子像の鉛の心臓と死んだツバメを神のもとへ届けると、「おまえの選択は正しかった」と神さまは言って、更に神の、「天国のわたしの庭で、この小鳥が永遠に歌いつづけるようにし、わたしの黄金の町で幸福な王子がわたしを賞めたたえるようにするつもりだから」(西村孝次訳)という言葉で物語は終わっていますが、「幸福な王子がわたしを賞めたたえるようにする」というのが何となく違和感がありました。しかしながら原文(下記)はそうなっている...。

 "You have rightly chosen," said God, "for in my garden of Paradise
 this little bird shall sing for evermore, and in my city of gold
 the Happy Prince shall praise me."

 これは、1993年に偕成社から刊行された、今村葦子訳、南塚直子絵の、児童向けにルビが振られている『幸せの王子』でも、「幸せの王子は、黄金の都で、我が名をたたえることになるだろう」となっています。

「幸福の王子」 曽野綾子訳 バジリコ.jpg 2006年バジリコから曽野綾子訳、建石修志挿画のものが刊行され、比較的オーソドックな訳調で、挿画についてもそれは言えるなあ(ヴィム・ヴェンダース監督の「ベルリン 天使の詩」という映画を思い出させる)と思って読んでいたら、最後の最後で、「私の天国の庭では、このつばめは永遠に歌い続けるだろうし、私の黄金の町で『幸福の王子』は、ずっと私と共にいるだろう」となっていました。

 この部分について曽野氏はあとがきで、天国において神を賛美するということは、必ず神とともに永遠に生きることが前提となっており、「そこをはっきりさせないと、神は自分を褒めたたえてくれる人だけを天国に集めるのか、と思われてしまう。それゆえ、そこだけ本来の意味に重きをおくことにした」とのことです。

 なるほどね、童話1つにしても、いろいろな訳者のものを読んでみるものだなあと。

幸せな王子 2.jpg 因みに、同じ2006年にリトルモアより刊行された、気鋭の翻訳家の金原瑞人氏がコラージュ造形作家の清川あさみ氏と組んで作った絵本版の『幸せな王子』では、「つばめはこの天国の楽園にいてもらおう。ここで、いつまでもさえずってほしい。そして幸せな王子はこの黄金の街にいてもらおう。ここで、いつまでもわたしをたたえてほしい」となっており、曽野氏ほど"意訳"の領域には踏み込んでいないものの、「幸せな王子はこの黄金の街にいて」という部分で王子が神と共にいることを補足しており、しかも翻訳に原文と同じリズム感があって、この辺りはさすが金原氏という感じです(因みに、曽野綾子訳は2006年12月刊行で、金原瑞人訳はその少し前の2006年3月刊行)。

原マスミ.png幸福の王子 原1.jpg また、絵本化された抄訳版では、イラストレーターでミュージシャンでもある原マスミ氏が絵を描き自身で抄訳もしている2010年刊行の『幸福の王子』(ブロンズ新社)があります。原氏としては絵本も抄訳も初挑戦だったとのことですが、王子が泣き落としでツバメにいろいろお願いし、ツバメが"べらんめえ口調"それに返答幸福の王子 絵本 原.jpgするなど、親しみやすいものとなっています(原氏はそれまでの学級委員長的な王子像からの脱却を図った?)。また、原作では神様の命により天使(の一人)がそのもとに届けたのは炉に入れても溶けなかった王子の鉛の心臓であるのに対し、こちらは、バラバラになった王子の体全体を天使(たち)が神様のもとへ届け、神様は王子とツバメに新たな命を授け、「この永遠の楽園で、いつまでも、なかよくくらすがよい」と言ったとするなど、若干改変されています(但し、原作の趣旨を損なわない範囲内でのオリジナリティの発露―といったところか)。

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「ロボット」という言葉を生み出しただけでなく、SFの一定のモチーフを確立させた作品。

カレル・チャペック 『ロボット』岩波.jpgカレル・チャペック 『ロボット』2.jpg チャペック戯曲全集.jpg カレル・チャペック戯曲集.jpg 2001年宇宙の旅 特別版.jpg
ロボット (岩波文庫)』['89年('03年版)]/『R.U.R.ロボット (カレル・チャペック戯曲集 (1))』['92年](表紙絵:ヨゼフ・チャペック)/『チャペック戯曲全集』['06年]/『カル・チャペック戯曲集〈1〉ロボット/虫の生活より』['12年](装丁・挿絵:和田誠) 「2001年宇宙の旅 特別版【ワイド版】 [DVD]

『ロボット (R.U.R.)』.JPGカレル・チャペック 『ロボット』 2.jpg 舞台はヨーロッパ旧世界を遠く離れた海の孤島、そこに建てられたロボット=人造人間の製造・販売会社、R.U.R.(エル・ウー・エル=ロッスムのユニバーサル(万能)ロボット)社。ここで作られるロボットは、生殖能力はなく、寿命は最長で約20年で、不良品や寿命を迎えた物は粉砕装置で処分される。そのロボット製造会社R.U.R.のオフィスで執務するドミン社長を、「人権連盟」の代表で、R.U.R.社会長の娘ヘレナが訪問する。ロボット製造の起源、ロボットの性質、そしてロボットによる人類社会変革の理想を語るドミンと、おのおのの担当部門の観点からそれを説明・擁護する役員達を相手に、ヘレナは労働者として酷使されているロボット達が人道的扱いを受けられるよう申し入れるが―。

1920年版表紙
rur 1920.jpgカレル・チャペック 『ロボット』 原著.jpg 『山椒魚戦争』(1936)などでも知られているカレル・チャペック(1890-1938)は、大戦間のチェコスロバキアで最も人気のあった作家で、1920年刊行の戯曲『ロボット (R.U.R.)』は「ロボット」という言葉を生んだことでも知られています(本邦初訳は1923年『人造人間』(宇賀伊津緒:訳))。作者によれば、「ロボット」という言葉そのものは、カレル・チャペックの兄で画家・漫画家のヨゼフ・チャペックの発案から生まれたものだそうで、チェコ語のrobota(もともとは古代教会スラブ語での「隷属」の意)に由来しているとのこと。ストーリーは労働用に作られたロボットが人間に対して反乱を起こすというものです。
  
カレル・チャペック 『ロボット』 3.jpgフランケンシュタイン dvd.jpg 人間が自ら作ったものに襲われるというのは、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818)以来ずっとあるモチーフと言えるでしょう(映画「フランケンシュタイン」('31年/米)では怪物の呼び名はFrankenstein 博士による"creator"(創造物)となっている)。アイザック・アシモフ(1920-1992)がいわゆる「ロボット工学3原則」を提唱したのは、短編集『ロボットの時代』(1964)で自ら語っているところによれば、『フランケンシュタイン』や『R.U.R.』から延々と繰り返されてきた「ロボットが創造主を破滅させる」というプロットと一線を画すためであったようですが、アシモフの作品にも、創造主である人間に抵抗し滅ぼそうとするロボットが登場します。このチャペックの『ロボット』では、人間は最後アルクピストという建築士だけが生き残り、ロボット同士の結婚を認めるという(生殖機能を有している?)、ロボットにとってのハッピーエンドとなっています。
アルクピスト建築士 in 『ロボット (R.U.R.)』

人間ども集まれ!.jpg あの「鉄腕アトム」の生みの親である手塚治虫も、『人間ども集まれ!』(1967)で、奴隷や兵士として消耗されていたロボットが一斉に立ち上がって人間に抵抗する話を描いていますが、丁度その頃読んだチャペックの『山椒魚戦争』に触発されたのではなかったかと後に述懐しています。
人間ども集まれ!
 『山椒魚戦争』に出てくるサンショウウオと人間の中間みたいな奇妙な生物たちも、労働力として人間に使役されるうちに反乱を起こすわけですが、この『R.U.R.』のロボットは、脳・内臓・骨といった各器官は攪拌槽で原料を混合して造られる人工の原形質の培養で、神経や血管は紡績機で作られ、それらを部品として組み上げたもので、プログラムで動く点は機械であると言えますが、外観は人間と同じになっています。これは、本作が戯曲であることも関係しているかと思います。

『ブレードランナー』3.jpg もともと感情を持たず、20年くらいで消耗し破壊されるが、「死」を怖れるといったこともない―そうしたものだったはずのロボットが、開発者グループの博士の一人が密かに高次元のプログラムを組み入れたために自ら思考するようになり人間に近くなってしまったという設定で、こ『ブレードランナー』4.jpgれは所謂「自律型ロボット」と呼ばれるものであり、彼らの哀しみからは、個人的には、フィリップ・K・ディック(1928-1982)の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)の映画化作品「ブレードランナー」('82/米)年の「レプリカント」を想起させられました(「レプリカント」はクローン技術の細胞複製(レプリケーション)からとった造語)。                       

 当時のチェコは労働者と富裕層との階級対立が深刻化していて、貴族階級の没落や社会主義革命への脅威といった世相がこの作品には反映されているとされていますが、政治的背景を除いて純粋にSFとしてみると、「ブレードランナー」とちょっとモチーフやテーマが重なるのではないでしょうか。「ブレードランナー」に限らず、この「人間 vs. 人間の創造物」というモチーフは様々な作品で2001年宇宙の旅1.jpg2001年宇宙の旅 haru.png青豆とうふ.jpg繰り返されているように思われ、イラストレーターで今年('14年)亡くなった安西水丸氏と同じくイラストレーターの和田誠氏のリレーエッセイ『青豆とうふ』('03年/講談社)を読んでると、和田誠氏がこの作品に触れて、「ロボット」と「コンピュータ」の区別が曖昧になっている気がするとし、拡げて解釈すれば、「ハル」と呼ばれるコンピュータが反乱を起こすスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」('68年/米)などもこの範疇、系譜に入るような捉え方をしていました(和田氏は『カル・チャペック戯曲集』の装丁・挿絵を手掛けている。安西氏はプラハでチャペックのこの小説に出てくるロボットの置物を土産に買ったとか)。

2001 space odyssey2.jpg 「2001年宇宙の旅」は、雑誌「ぴあ」の読者が選ぶ「もう一度観たい映画No.1」の座を長年に渡って占めていた作品で、最初2001年宇宙の旅 2.jpg観た時は、哲学的な示唆が感じられる内容にやや驚き、他の人は皆が解ったのかなとも思ったりしましたが、脚本を書いたキューブリックとアーサー・C・クラークは「この映画は観客がどう解釈してもよい」と言い残2001年宇宙の旅 1968年.jpg2001年宇宙の旅 1978年リバイバル.jpgしています(キューブリックとアーサー・C・クラークがアイデアを出し合い、先ずアーサー・C・クラークが小説としてアイデアを纏め、その後キューブリックが脚本を執筆し、映画の公開の後に「小説」は発表されているが、その「小説」にはアーサー・C・クラーク独自の解釈がかなり取り入れられていることから、厳密に言えば、映画の原作であるともノベライゼーションであるとも言えないものとなっている。因みにコンピュータ「HAL9000」のHALは、IBMをアルファベット順で一文字ずつずらしたネーミング)。

1968年/1978年(リバイバル)各チラシ

2001年宇宙の旅 last.jpg 完璧な映像構成からキューブリック2001 space odyssey.jpgがカメラマン出身であることを強く感じさせる作品でしたが、ジョン・レノンも讃えたというラストのSFXは今日観るとそれほどでもないかも(もともと、このラスト及び映画自体は毀誉褒貶があり、小松左京、筒井康隆氏といった人たちはあまり買っていなかった記憶がある)。むしろ、ツァラトゥストラはかく語りき」や「美しく青きドナウ」などの曲が映像とマッチさせて上手く使われているのを感じました(宇宙飛行士が宇宙船外に放り出される場面は怖かった)。

 チャペックの『R.U.R.』は、単に「ロボット」という言葉を生み出したというだけでなく、それまであった一定のモチーフをSFとして確立させたという点でも、後に及ぼした影響力は大きいのではないでしょうか。「ブレードランナー」や「2001年宇宙の旅」に限らず、多くの映画や小説がこのモチーフを引き継いでいることを思うと、19世紀初頭の『フランケンシュタイン』と並んで、20世紀におけるエポック・メイキングな作品であると言えるかと思います。

珈琲屋チャペック2.jpg 因みに、北陸の金沢に行った時、金沢城の城跡付近に「チャペック」というコヒー・ショップがありましたが、この作品の作者の名前からとったようです。ネットで確認すると、確かに兄ヨゼフ・チャペックの絵を使っている...。行った時には前を通っただけでしたが、店内にはチャペック関連の趣向も施されているようで、あの時店の中に入ればよかったと後でやや後悔しました。


ブレードランナー チラシ.jpgブレードランナー.jpg「ブレードランナー」●原題:BLADE RUNNER●制作年:1982年●制作国:アメリカ●監督:リドリー・スコット●製作:マイケル・ディーリー ●脚本:ハンプトン・フィンチャー/デイヴィッド・ピープルズ●撮影:ジョーダブレードランナー4.jpgン・クローネンウェス●音楽: ヴァンゲリス●時間:117分●出演:ハリソン・フォード/ルトガー・ハウアー/ショーン・ヤング/ダリル・ハンナ/ブライオン・ジェイムズ/エドワード・ジェイムズ・オルモス/M・エメット・ウォルシュ/ウィリアム・ サンダーソン/ジョセフ・ターケル/ジョアンナ・キャシディ/ジェームズ・ホン●日本公開:1982/07●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:二子東急(83-06-05)●2回目:三軒茶屋東映(84-07-22)●3回目:三軒茶屋東映(84-12-22)(評価:★★★★☆)二子東急.jpg二子東急.gif●併映(2回目):「エイリアン」(リドリー・スコット)/「遊星からの物体x」(ジョン・カーペンター)●併映(3回目):「遊星からの物体x」(ジョン・カーペンター)
 


2001 nen: Uchuu no Tabi(1968)
2001 nen Uchuu no Tabi(1968).jpg『2001年宇宙の旅』y02.jpg「2001年宇宙の旅」●原題:2001:A SPACE ODYSSEY●制作年:1968年●制作国:アメリカ●監督・製作:スタンリー・キューブリック●脚本:スタンリー・キューブリック/アーサー・C・クラーク●撮影:ジェフリー・アンスワース/ジョン・オルコット●音楽:リヒャルト・シュトラウス《ツァラトゥストラはかく語りき》/ヨハン・シュトラウス2世《美しく青きドナウ》/他●時間:152分●出演:キア・デュリア/ゲイリー・ロックウッド/ウィリアム・シルベスター/ダニエル・リクター/ダグラス・レイン(HAL 9000(声))/ダニエル・リクター/レナード・ロシター/マーガレット・タイザック/ロバート・ビーティ/ショーン・サリヴァン/フランク・ミラー/エド・ビショップ/アラン・ギフォード/アン・ギリス/(以下、ノンクレジット)ビビアン・キューブリック/ケヴィン・スコット/ビル・ウェストン●日本公開:1968/04●配給:MGM●最初に観た場所:日比谷・有楽座(78-12-10)(評価:★★★★)  有楽座(旧)1.bmp右写真:有楽座[1984(昭和59)年9月]「ぼくの近代建築コレクション」より
旧有楽座内.jpg有楽座.jpg
旧・有楽座 1935(昭和10)年6月に演劇劇場として開館。1949(昭和24)年8月~ロードショー館(席数1,572)。1984年10月31日閉館。 

1978年リバイバル上映時新聞広告(前年公開の「スター・ウォーズ」第一作の大ヒットがきっかけでSF映画が盛り上がりリバイバル上映されたという経緯もあり、ジョージ・ルーカスのコメントが付されている)
「2001年宇宙の旅」78リバイバル.jpg
 
「RUR」hukamati.jpg【1924年単行本[金星堂(『ロボット』鈴木善太郎:訳)]/1968年単行本[平凡社『現代人の思想22 機械と人間との共生』収録(『ロボット製造会社R.U.R.』鎮目泰夫:訳)]/1977年文庫化『華麗なる幻想-海外SF傑作選』収録[講談社文庫(『R.U.R.』深町眞理子:訳)]/1989年再文庫化[岩波文庫(『ロボット (R.U.R.)』千野栄一:訳)]/1992年単行本[十月社(『R.U.R.ロボット』栗栖継:訳)]/2006年単行本[八月舎『チャペック戯曲全集』収録(『RUR』田才益夫:訳)]/2012年[単行本(『カル・チャペック戯曲集〈1〉ロボット/虫の生活より』栗栖継:訳)]】

RUR...ロッサム万能ロボット会社」電子版(深町眞理子:訳)

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ポーランド現代文学の中では珍しく「徹底的に非政治的で官能的な小説」という見方に共感。

尼僧ヨアンナ―他 (東欧の文学)2.jpg尼僧ヨアンナ (岩波文庫).jpg イヴァシュキェヴィッチ.jpg 尼僧ヨアンナ [DVD].jpg 尼僧ヨアンナ ps デザイナー大島弘義.jpg
尼僧ヨアンナ (岩波文庫)』Jarosław Iwaszkiewicz(1894-1980)
尼僧ヨアンナ [DVD]」/「尼僧ヨアンナ」ポスター(デザイン:大島弘義)
尼僧ヨアンナ―他 (東欧の文学)』福岡 星児:訳(1967/07 恒文社)

尼僧ヨアンナ 格子03.jpg『尼僧ヨアンナ』.JPG 中世末期、ポーランドの辺境の町ルーディンで、修道院の若き尼僧長ヨアンナに悪魔がつき、悪魔祓いに派遣された若き神父スーリンはあれこれ手を尽くすが万策尽きる―。

 ウクライナ出身のポーランド人作家ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ(1894-1980)が、1943年、作者49歳の時に執筆した作品で(1946年に中短編集の中で発表された)、フランスの小都市ルーダンで実際に行われた悪魔裁判を素材とした作品ですが、それを、中世末期のポーランドの辺境の町「ルーディン」に舞台を置き換えています。その他は、驚愕の結末を除いてはほぼ史実に忠実だそうです。

ルーダンの悪魔.jpg 実際に起きた事件は、1632年からフランスの小都市ルーダンで、ウルスラ会の修道女たちが悪魔憑きの症状を示し、神を冒涜する言葉、痙攣と硬直、淫らでショッキングな振舞い等が人々に衝撃を与えたため、悪魔祓いと原因究明の審査が行われ、ルーダンの教会の司祭であり、教養と魅力的な物腰で街の女を次々にものにし(その結果、多くの敵も作っていた)ウルバン・グランディエが、悪魔と契約を結んだとの罪状で生きながら火刑に処されれたいうもので、この事件を素材とした小説には、この作品のほかにイヴァシュキェヴィッチと同年生まれの英国の作家オルダス・ハックスリー(1894-1963)の『ルーダンの悪魔』(The Devils of Loudun 、1952)などがあります。

ルーダンの悪魔
尼僧ヨアンナ パティオ.jpg
 この作品の原題は『尼僧長"天使たちの"ヨアンナ』(Matka Joanna od Aniołów)ですが、1961年にポーランドの映画監督イェジー・カヴァレロヴィッチ(1922-2007)によって「尼僧ヨアンナ」(英文タイトル:Mother Joanna of the Angels)として映画化され、カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞するなどして世界的に有名になったことから、岩波文庫版('96年)関口時正氏の訳でもこれをタイトルにしています。本邦初訳は『「東欧文学全集」第8巻‐イヴァシュキェヴィッチ集』(恒文社)の福岡星児訳('67年)でこれも映画化の後の刊行であり、映画が本邦公開された時点('62年)では原作の邦訳は無かったことになります。

イェジー・カヴァレロヴィチ.jpg 個人的にもイェジー・カヴァレロヴィッチの映画の方を先に観て(1962年に発足した日本アート・シアター・ギルド(ATG)の配給第1作でもある)、やや内容を忘れかけた頃に原作を読みましたが、そのことにより改めて映画のシーンが甦ってきました。映画を観た際は、ストーリー面で、ラストでスリン神父(ミエチスワフ・ウォイト)がヨアンナ(ルチーナ・ヴィニエツカ)を悪魔から守ることと引き換えに自らが悪魔を引きうけ殺戮を行うというのは、やや映画的な作り方をしているのではないかとも思いましたが、読んでみたら原作もその通りでした。
Jerzy Kawalerowicz(1922-2007)

ツイン・ピークス1.jpgツイン・ピークス3.jpg まるで、デイヴィッド・リンチが監督して90年代初頭に人気を博したTVドラマ「ツイン・ピークス」の、主人公のFBI捜査官が少女を守るために悪魔に魂を売り渡してしまうラストみたいです。デイヴィッド・リンチによると、あのラストはあくまでも第2シーズンの最終話に過ぎないとのことですが、その続きは作られていません。

尼僧ヨアンナ 08.jpg 個人的には「原作が映画と同じ展開だった」のがやや意外であり、岩波文庫版の翻訳者・関口時正氏の解説でも、スーリンに重罪を犯させる結末ではなく、"小説的筋書きとしての効果の成否"についてはともかく、自殺させることでも足りたのではないか尼僧ヨアンナ 05.jpg(自殺も罪ではあるが)と書いているのは、文学作品を読んだつもりが結構"ホラー"だったかもしれないという自分の読後感をある部分代弁してくれているようにも思えました(ヨアンナが突然表情を変え、悪魔の語り口で話し始めるのはまるで映画「エクソシスト」みたい)。

 但し、"ホラー"と言っても作者の筆致は冷静であり、むしろ、憑依現象を冷静に解析した情動力学的な"心理劇"ともとれるように思います。読んでいて、修道院で起きていることは、戒律による性的抑圧に起因する集団ヒステリーに類するものであることの察しがつくようになっています。また、ヨアンナの体の中に複数の悪魔がいて、それらが交互に姿を現すというのは、ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』を想起させます(「複数の悪魔」は複数人格を呈す解離性障害として説明可能ではないか)。

尼僧ヨアンナ 07.jpg 因みに、小説は前任者の司祭が火刑に処せられ、若き神父スーリンが悪魔祓いのため派遣されるところから始まりますが、ヨアンナにはジャンヌという実在のモデルがいる一方、このスーリンにもスュランという実在のモデルがいて、1634年、34歳の時に悪魔祓いのため修道院に派遣されて、ジャンヌの悪魔をわが身に引き受けた結果としてボロボロになり、殺人を犯したり自殺したりするまでには至らなかったけれど(自殺未遂はあった)、20年近く闘病・治療生活を送って、60歳を過ぎてやっとジャンヌと過ごした濃密な時間を書き記したものを完成させたようです(内容は、宗教的な矩を超えない範囲で、神秘主義的色合いの濃いものらしい)。

ルチーナ・ヴィニエツカ (カヴァレロヴィッチ監督夫人)

尼僧ヨアンナ パティオ02.jpg 1961年に作られた映画「尼僧ヨアンナ」は、スターリン主義の抑圧を受けていた当時のポーランド情勢を、戒律下に置かれた修道尼らの性的抑圧として表したと解されることが多いようですが、イエジー・カヴァレロヴィッチ監督には、社会派サスペンス映画「影」('56年)など、ポーランドの政治情勢を反映させながらも娯楽性を含んだ作品も撮っており(この作品と「夜行列車」('59年)、「尼僧ヨアンナ」の3本が最高傑作とされている)、また、「尼僧ヨアンナ」において修道尼たちが一斉に地面に倒れ込むのを俯瞰で撮るなど、カメラワークにも非常に洗練されたものがあって、芸術的完成度は高いように思います(その分、"政治"が後退する? 少なくとも個人的にはあまりプロパガンダ性を感じなかった)。

尼僧ヨアンナ 04.jpg また、イヴァシュキェヴィッチの原作の方も、1943年という、ポーランドのユダヤ人や知識層が厳しい弾圧を受けていた時期に書かれたものですが(イヴァシュキェヴィッチは既にポーランドを代表する文人であったとともにレジスタンス運動を指揮していた)、岩波文庫版解説で関口時正氏は、「尼僧ヨアンナ」にしてもその他の作品にしても、彼の作品はポーランド現代文学の中では珍しく「徹底的に非政治的で、官能的な小説」であるとしています。

尼僧ヨアンナ_2.jpg この関口時正氏の本作に対する見方には痛く共感しました。イヴァシュキェヴィッチという人は政治と文学を分けて考えていたのではないか。そうして考えると、映画「尼僧ヨアンナ」も、いろいろと背景はあるのかもしれませんが、先ずは、観たままの通り感じればよい作品なのかもしれません。 
 
尼僧ヨアンナ0.jpg「尼僧ヨアンナ」●原題:MATKA JOANNA OD ANIOLOW(MOTHER JOAN OF THE ANGELS)●制作年:1960年●制作国:アメリカ●監督:イェジー・カヴァレロヴィッチ●脚本:タデウシュ・コンビッキ/イェジー・カヴァレロヴィッチ●撮影:イェジー・ウォイチック●音楽:アダム・ワラチニュスキー●原作:ヤロスワフ・イヴァシュキェヴィッチ●時間:110分●出演:ルチーナ・ウィンニッカ/ミエチスワフ・ウォイト/ミエチスワフ・ウォイト/アンナ・チェピェレフスカ/マリア・フヴァリブク/スタニスラフ・ヤシュキェヴィッチ●日本公開:1962/04●配給:東和/ATG(共同配給)●最初に観た場所:カトル・ド・シネマ上映会(79-04-18)●2回目:北千住・シネマブルースタジオ(10-07-03)(評価:★★★★)●併映:「パサジェルカ」(アンジェイ・ムンク)

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戦争の悲劇を描いたマルグリット・デュラス原作(脚本)の映画化作。DVD化されていない名作。

かくも長き不在 ポスター.jpgかくも長き不在 vhs.jpg かくも長き不在 01.jpg かくも長き不在 ちくま.jpg
輸入版ポスター/「かくも長き不在」VHS/『かくも長き不在 (ちくま文庫)

UNE AUSSI LONGUE ABSENCE.jpg パリ郊外でカフェを営むテレーズ(アリダ・ヴァリ)はある日、店の前を通る浮浪者に目を止める。その男(ジョルジュ・ウィルソン)は16年前に行方不明になった彼女の夫アルベールにそっくりであった。テレーズはその男とコンタクトをとるが、その男は記憶喪失だった―。

 アンリ・コルピ(1921-2006/享年84)監督の1961年公開の作品で、この人は映画監督の他に雑誌編集者、脚本家、音楽家、編集技師として幅広く活動した人ですが、逆に単独監督した作品として有名なのはこの一作くらいではないでしょうか。但し、この作品でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞しています。

 この作品もある種"企画"的側面があり、原作者のマルグリット・デュラス(1914-1996/享年81)は1960年にこの物語を、同じくデュラスマルグリット・デュラス.jpgの小説『モデラートカンタービレ』(原題:Moderato Cantabile, 1958年)を原作としジャンヌ・モロー、ジャン=ポール・ベルモンドが主演した「雨のしのび逢い」('60年/仏・伊)の脚本家ジェラール・ジャルロと共同でいきなり脚本から書き起こしていて、それは「ちくま文庫」に所収されています。
Marguerite Duras(1914 - 1996)
かくも長き不在 02.jpg
 戦争の悲劇を描いた感動作ですが、マルグリット・デュラスの作品の中でも分かり易く、また、件(くだん)の浮浪者は果たしてテレーズの夫であるのかどうかという関心から引き込まれます。そして、事実は結末で意外な形で示唆されますが(テレーズの呼んだ夫の名を街の人が次々と伝えていき、それに反応する形で浮浪者が降参するかのように両手を上げるのが悲しい)、その前のテレーズと浮浪者のダンスシーンなども、ぎこちなく二人が抱き合うところなどは逆にリアルで感動させられ、定番的な作り物にしてしまわない脚本と演出の上手さが感じられました。

UNE AUSSI LONGUE ABSENCE aridabari.jpg アリダ・ヴァリはキャロル・リード監督の「第三の男」('49年/英)が有名ですが、この作品を観ると、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「さすらい」('57年/伊)で夫と別れて暮らすことになった妻を演じていたのを思い出します。「さすらい」において、夫は疲弊して妻の元に戻りますが、アリダ・ヴァリ演じる妻は既に新たな生活を築いており、夫は妻の目の前で自死を遂げます。

UNE AUSSI LONGUE ABSENCE 1.jpg この「かくも長き不在」においても、アリダ・ヴァリ演じるテレーズには日常においては暗さは無く、16年前にゲシュタポに捕えられたまま消息を絶った夫の帰りを待ちながらも店を営んで逞しく生活しており、若い恋人までいるような様子であって、そこへ抜け殻のようになって現れた"夫かもしれない男"との対比が、逆に男の心的外傷によるトラウマの闇の深さを際立たせています。テレーズが男とぎこちないダンスをした際に、男の頭部の傷に気づく場面はぞっとさせられますが、一方で、そのことにより"夫かもしれない男"に憐れみと慈しみを覚えるテレーズの表情は、まさにアリダ・ヴァリにしか出来ないような演技であり、この作品の白眉と言えます。

 因みに、この映画を観て、いくら心的外傷を負ったとは言え、自分の夫と他人の区別がつかないものだろうかという慰問を抱く人がいますが、心的外傷だけでなく記憶中枢である海馬を損傷するなど脳に器質的障害を負った場合、その人の顔つきまでも全く変わってしまうことが見受けられるようで、個人的にもそうしたケースに接したことがあります。

「二十四時間の情事」1.jpg マルグリット・デュラスは多くの作品を残しながら自身も監督業を手掛けていますが、どちらかと言うと原作や脚本を書いたものを別の映画監督が映画化したものの方が知られており、有名なものでは原作・脚本を書き、アラン・レネが監督してカンヌ国際映画祭FIPRESCI(国際映画批評家連盟)賞を受賞した「二十四時間の情事」('59年/仏・日)がありますが、こちらもモチーフとしてナチの収容所体験を持つ女性が出てきます。ヌーヴェル・ヴァーグの色合いを感じる作品で、観念的な原作の文脈でそのまま映像化するとこんな感じかなという作品ですが、これもオリジナルよりは分かり易くなっています。同じアラン・レネ監督の、後にノーベル文学賞を受去年マリエンバートで 01.jpg賞する作家アラン・ロブ=グリエ(1922-2008/享年85)原作の「去年マリエンバートで」('61年/仏)ほどには前衛的ではなく、デュラスの小説の映画化作品は、小説より分かり易くなる傾向にあるように思います(それでもまだ難解な面もあるが、「去年マリエンバートで」のように観ていて眠くなる(?)ことはない)。デュラスの小説『ジブラルタルから来た水夫』を原作とするトニー・リチャードソン監督の「ジブラルタルの追想」('67年/英)なども、えーっ、原作ってこんなラブロマンスなの、というようなハーレクイン風の仕上がりで、ここまで噛み砕いてしまうとどうかなというのはありますが、さすがにこの作品は自身で脚本までは書いていないようです。

UNE AUSSI LONGUE ABSENCE 7.jpg 「かくも長き不在」のちくま文庫版の原作脚本を読むと、自身で監督したものに有名な作品は無いけれど、(脚本家の協力・示唆はあったにせよ)小説的効果と映画的効果の違いはわかっていた人ではないかという気がします。特に、この映画のラストの男を呼ぶ声が伝言のように街中を伝わっていく場面は、映画的シチュエーションの極致と言ってよいかと思います。

 しかし、この「かくも長き不在」、以前はビデオとLD(レーザーディスク)で発売されていたけれど、2014年現在DVD化はされていないようです。どうして?(2015年完成の4Kスキャン→2K修復画質により2018年に初めてDVD&Blu-ray化された)

かくも長き不在 シアターアプル.jpgUNE AUSSI LONGUE ABSENCE 3.jpg「かくも長き不在」●原題:UNE AUSSI LONGUE ABSENCE●制作年:1960年●制作国:フランス●監督:アンリ・コルピ●脚本:マルグリット・デュラス/ジェラール・ジャルロ●撮影:マルセル・ウェイス●音楽:ジョルジュ・ドルリュー●時間:98分●出演:アリダ・ヴァリ/ジョルジュ・ウィルソン/シャルル・ブラヴェット/ジャック・アルダン/アナ・レペグリエ●日本公開:1964/08●配給:東和●最初に観た場所:新宿シアターアプル(85-04-21)(評価:★★★★)
ポスター(イラスト:和田 誠

二十四時間の情事 02.jpg「二十四時間の情事」●原題:HIROSHIMA 二十四時間の情事_.jpgMON AMOUR●制作年:1959年●制作国:フランス・日本●監督:アラン・レネ●脚本:マルグリット・デュラス●撮影:サッシャ・ヴィエルニ/高橋通夫●音楽:ジョヴァンニ・フスコ(イタリア語版)/ジョルジュ・ドルリュー●時間:90分●出演:エマニュエル・リヴァ/岡田英次/ステラ・ダサス/ピエール・バルボー/ベルナール・フレッソン●日本公開:1959/06●配給:大映●最初に観た場所:京橋・フィルムセンター(80-07-15)(評価:★★★★)
二十四時間の情事 [DVD]

去年マリエンバートで  チラシ.jpg去年マリエンバートでes.jpg「去年マリエンバートで」●原題:L'ANNEE DERNIERE A MARIENBAT●制作年:1961年●制作国:フランス・イタリア●監督:アラン・レネ●製作:ピエール・クーロー/レイモン・フロマン●脚本:アラン・ロブ=グリエ●撮影:サッシャ・ヴィエルニ●音楽:フランシス・セイリグ●時間:94分●出演:デルフィー去年マリエンバートで ce.jpgヌ・セイリグ/ ジョルジュ・アルベルタッツィ(ジョルジョ・アルベルタッツィ)/ サッシャ・ピトエフ/(淑女たち)フランソワーズ・ベルタン/ルーチェ・ガルシア=ヴィレ/エレナ・コルネル/フランソワーズ・スピラ/カリン・トゥーシュ=ミトラー/(紳士たち)ピエール・バルボー/ヴィルヘルム・フォン・デーク/ジャン・ラニエ/ジェラール・ロラン/ダビデ・モンテムーリ/ジル・ケアン/ガブリエル・ヴェルナー/アルフレッド・ヒッチコック●日本公開:1964/05●配給:東和●最初に観た場所:カトル・ド・シネマ上映会(81-05-23)(評価★★★?)●併映:「アンダルシアの犬」(ルイス・ブニュエル)

THE SAILOR FROM GIBRALTAR PERFORMER.jpg「ジブラルタルの追想」●原題:THE SAILOR FROM GIBRALTAR PERFORMER●制作年:1967年●制作国:イギリス●監督:トニー・リチャードソン●製作:オスカー・リュウェンスティン●脚本:クリストファー・イシャーウッド/ドン・マグナー/ジブラルタルの水夫.jpgトニー・リチャードソン●撮影:ラウール・クタール●音楽:アントワーヌ・デュアメル●原作:マルグリット・デュラス「ジブラルタルから来た水夫(ジブラルタルの水夫)」●時間:90分●出演:ジャンヌ・モロー/イアン・バネン/オーソン・ウェルズ/ヴァネッサ・レッドグレーヴ●日本公開:1967/11●配給:ユナイテッド・アーチスツ●最初に観た場所:大塚名画座(78-12-12)(評価:★★☆)●併映:「悪魔のような恋人」(トニー・リチャードソン)(原作:ウラジミール・ナボコフ)
ジブラルタルの水夫

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育てようとした対象を自ら押し潰してしまう―感性で捉える不条理劇「授業」。

イヨネスコ 授業・犀.jpg ウジェーヌ・イヨネスコ.jpg   授業1.jpg 「授業」中村まり子.jpg   死の教室 中古vhs.jpg
授業・犀 (ベスト・オブ・イヨネスコ)』['93年/白水社]ウジェーヌ・イヨネスコ/中村伸郎「授業」/アンジェイ・ワイダ「死の教室」VHS(絶版)
授業・犀 (ベスト・オブ・イヨネスコ).jpg ある教授の自宅に、女生徒が個別講義を受けに来るが、教授は女中に止められるのもかまわず講義を始める。数学そして比較言語学と講義を進めていくにつれ、最初は穏やかだった教授は夢中になり、しだいに凶暴になっていく。凶暴化した教授は我を忘れて、講義に集中できなくなった女生徒をナイフで刺殺する―。

 ルーマニア生まれのフランスの劇作家ウジェーヌ・イヨネスコ(1909-94/享年84)が1951年に発表した戯曲で、サミュエル・ベケット(1906-89)などと共に20世紀のヌーヴォー・テアトルの代表格にあたる人ですが、文学界にデビューしたのは40歳を過ぎてからであり、結構遅咲きだった人です(デビュー時に、新世代の劇作家の台頭を歓迎する出版社の意向で、年齢を3歳若くサバ読み公表させられた)。

 イヨネスコの作風は「平凡な日常を滑稽に描きつつ、人間の孤独性や存在の無意味さを鮮やかに描き出した」(ウィキペディア)ものということになるらしいですが、昔から言われている言葉で一言で言えば、「不条理劇」であり、実際、カミュやサルトルの不条理の文学に通じるとされています(但し、個人的には、戯曲という表現を通して理論よりも観客の感性に働きかけている分、哲学っぽくないという点で、カフカなどに近いように感じる)。

山手教会地下「ジァン・ジァン」.jpg渋谷ジァン・ジァン 高橋竹山.bmp渋谷ジァン・ジァン 中村伸郎.bmp 演劇としての「授業」は、俳優の中村伸郎(1908-1991/享年82)が、'72年より11年間にわたって、毎週金曜日に渋谷・公園通りの山手教会地下「ジァン・ジ渋谷ジャンジャンr-1s.jpgァン」で演じていたことで知られていますが(「ジャンジャン」は1969年7月オープン。ここへは「高橋竹山の津軽三味線」や「おすぎのシネマトーク」も聞きに行った。「イッセー尾形の一人芝居」もこのジァン・ジァンで始められた。「美輪明宏の世界」とか「松岡計井子渋谷ジャンジャン75年8月.jpgビートルズをうたう」などといったものもあり、荒井由実(後の松任谷由実)、中島みゆき、吉田拓郎、井上陽水など、ここでライブをやった著名アーティストは数知れない。'00年4月25日閉館)、自分自身のメモを見ると、'79年の5月4日の金曜日に「ジァン・ジァン」に「授業」を観に行っていました(ゴールデンウィーク中渋谷ジャンジャン 授業.jpg中村伸郎 授業.pngもやっていた)。小劇場であるため、役者と観客の距離が近くて緊迫感があり、結構インパクトを受けました(その時の女性徒役は、演出も兼ねていた大間知靖子。歴代の女性徒役の中でも名演とされている)。
   
「授業」中村まり子.jpg 女性徒の覚えの悪さ(「ナイフ」という言葉を何度やっても正確に発音できない)に教授はキレてしまい、発作的にナイフによる凶行に及んだともとれるのですが、実はこの教授は今までも同じ殺人を何度も繰り返していることが暗示されています(中村伸郎の娘で女優の中村まり子がこの"出来の悪い"女生徒役で出ていた時期もあった(当時19歳))。

 育てようとした対象を自ら押し潰してしまう―家庭教師をやっていたりした時のことを思い出しそうな設定ですが、もし今観れば、会社における部下指導の在り方などを考えてしまうかも(余りにストレートに教訓的な解釈?)。

渋谷ジァンジァン閉館 2000/04/25(インタビュー:中村伸郎・中村まり子・別役実・宇崎竜童・イッセー尾形・美輪明宏)

 中村伸郎の後を受けて、中山仁、勝部演之、仲谷昇といった俳優がこの教授役を演じ、また最近では「劇団東京乾電池」の綾田俊樹やベンガルが演じていますが、今年('11年)7月には、柄本明が「東京乾電池」の公演として自身の演出のもとで演じています。それらを実際に観てはいないけれども、中村伸郎.jpgいかにもひと癖ありそうな柄本明よりも、教授然とした中村伸郎の方が、この作品の中村伸郎2.jpg場合"意外性"の効果はあるのではないかなあ。中村伸郎は「宇宙大怪獣ドゴラ」('64年/東宝)や「サンダ対ガイラ」('66年/東宝)、或いはTV版「白い巨塔[左]('67年)でも博士や教授の役でした。この人、「天国と地獄」('63年/東宝)など黒澤明監督作品にも出ているほか、映画会社ではなく劇団(文学座)所属だったので、「彼岸花」('58年/松竹)、「秋日和」('60年/松竹)、「秋刀魚の味[右](62年/松竹)など小津安二郎監督の後期作品にも常連のように出ています。

 "感性に訴える"作品ではありますが、政治的意図(反ナチズム)もあるようで(家庭教師や会社の上司に置き換えるだけでは"読み"が浅い?)、更に、教室という1場面のみで話が進行するため、アンジェイ・ワイダが監督した「劇団クリコット2」による「死の教室」('76年/ポーランド)を観た際に、この芝居を想起したりもしました。

死の教室の一場面.jpg 「死の教室」は、廃墟(倉庫?)のような教室に、自らの子供の頃の分身である人形を持ってやって来た老人(死者)たちが、脈絡のない不可思議な行動をとりながら、ユダヤの歴史に由来する言葉や、意味不明な単語を発演するという、これもまた「不条理劇」で、舞台劇(演出はタデウシュ・カントール)をそのまま撮った記録映画です。オーケストラ・リハーサル dvd2.jpg"統制の喪失"という意味では、個人的にはフェデリコ・フェリーニの「オーケストラ・リハーサル」(′79年/伊)と少し似ているように思えたました。「オーケストラ・リハーサル」は、「フェリーニの道化師」などと同じくTV用映画として撮られたもので、あるオーケストラのリハーサル風景をTV局が取材するという形で物語が進み、「道化師」と同じくドキュメンタリーかと思って観ていると、実はフィクションだった...。「オーケストラ・リハーサル [DVD]

死の教室 [THE DEAD CLASS] ポスター.jpg アンジェ蜷川幸雄.jpgイ・ワイダはこの「死の教室」という作品を、やはりTV用作品として撮影しましたが、ポーランド国内ではTV放映も劇場公開もされていないとのこと、かつて「劇団クリコット2」が再来日して('82年に一度来日して公演、蜷川幸雄(1936-2016)氏ら日本の演劇人に衝撃を与えたとのこと)、この芝居を舞台公演するという話がありましたが、「クリコット2」のメンバーが全員高齢であるため、長旅に耐えられないという理由で中止になったという顛末がありました。出演者らは"老け役"ではなく、ホントに老人だったのだ...。

「死の教室」●原題:THE DEAD CLASS●制作年:1976年●制作国:ポーランド●監督:アンジェイ・ワイダ●製作:バルバラ・ペツ・シレシツカ●脚本・演出・作曲:タデウシュ・カントール●時間:90分●出演:劇団クリコット2(マリア・グレツカ/パルコ劇場.jpgparco劇場 .jpgボフダン・グリボヴィッチ/ミーラ・リフリツカ/ズビグニエフ・ベトナルチック/ロマン・シヴラック)●日本公開:1988/01●配給:パルコ●最初に観た場所:渋谷・PARCO劇場(88-01-16)(評価:★★★☆)
PARCO劇場 1973年5月23日「西武劇場」として渋谷PARCO PART1の9Fにオープン、主に演劇公演に利用される。1985年~「PARCO劇場」。2016(平成28)年8月7日閉館。2019年に再オープン予定。

「オーケストラ・リハーサル」チラシ/「オーケストラ・リハーサル [DVD]
オーケストラ・リハーサル  チラシ.jpgオーケストラ・リハーサル dvd.jpgオーケストラ・リハーサル 3.jpg「オーケストラ・リハーサル」●原題:PROVA D'ORCHESTRA(ORCHESTRA REHEARSAL)●制作年:1979年●制作国:イタリア・西ドイツ●監督:フェデリコ・フェリーニ●製作:ファビオ・ストレッリ●脚本:フェデリコ・フェリーニ/ブルネッロ・ロンディ●撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ●音楽:ニーノ・ロータ●時間:72分●出演:ボールドウィン・バース/クララ・ユロシーモ/チェーザレ・マルティニョニ/ハインツ・クロイガー/クラウディオ・チョッカ/エリザベス・ラビ ●日本公開:1980/08●配給:フランス映画社●最初に観た場所:三鷹オスカー(81-10-10)(評価:★★★☆)●併映:「フェリーニのアマルコルド」「フェリーニのローマ」

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よくまあ18歳でこんなの書いたなあという感じはする。新訳は朝吹訳のトーンを継承?

悲しみよこんにちは 新潮文庫.jpg 悲しみよこんにちは 新潮文庫 河野.jpg悲しみよこんにちは 映画0.bmp フランソワーズ・サガン 1.jpg
悲しみよこんにちは (新潮文庫)』(朝吹登水子:訳)『悲しみよこんにちは (新潮文庫)』(河野万里子:訳)/映画「悲しみよこんにちは」(1957)/Françoise Sagan (photographed above by Sabine Weiss, 1954)

悲しみよこんにちはbonjour-tristesse.jpg 主人公のセシルは、寡(やもめ)の父レーモンとコート・ダジュールの別荘で17歳の夏を過ごしていたが、その別荘に亡き母の友人のアンヌがやって来る。セシルも最初は聡明で美しいアンヌを慕うが、アンヌが父と結婚する気配を見せ始め、母親然としてセシルに勉強のことやボーイフレンドとのことを厳しく言い始めると、父との気楽な生活が続かなくなり、父をアンヌに取られるのではないかという懸念から、彼女はアンヌに反感を抱くようになる。やがて彼女は父とアンヌの再婚を阻止する計画を思いつく―。

 フランソワーズ・サガン(1935-2004)が1954年、18歳で発表したデビュー作で、父親と聡明で魅力的な女性との再婚を、父の愛人と自分の恋人を使って妨害し、最後はその相手の女性を死に追いやってしまうという、何だか陰湿な話であるようにも思えますが、ドロドロした恋愛小説と言うより、しゃれた青春小説のように読めた印象があります。

 新潮文庫の朝吹登水子(1917‐2005)の名訳で知られますが、2009年に河野万里子氏(1959- )の新訳が新潮文庫に加わり、これを読むと確かに現代的で読み易く、やはり朝吹訳はやや古風な感じがすることは否めないものの、それでも45年もの時間差はあまり感じられず、それだけ朝吹訳が当時としては"今風"にこなれていたということでしょうか(河野訳自体が朝吹訳のトーンを意識して継承しているようにも思えた)。

 今回読み直してみて、よくまあ18歳でこんなの書けるなあと改めて感心しました。大人の世界の出来事が子供から大人になりかけている少女に与える影響を描いているわけですが、大人たちの心理の内面には直接踏み込んでいないのが成功している理由かも。それにしても、18歳にして17歳の少女をここまで対象化して描いているのはやはり並の資質ではなかった...。

悲しみよこんにちは 映画 1957.jpg悲しみよこんにちは ちらし.jpg サスペンスフルであるとも言えるストーリーは、オットー・プレミンジャー監督の「天使の顔」(' 52年/仏)と似ているという話がありますが、そのオットー・プレミンジャー監督によって1957年にアメリカ映画化されています。
 映画は、現在の部分がモノクロで回想部分がカラーという作りなっていますが、南仏ニースの風景がたいん美しい(まるで観光映画)。監督が見出した新人ジーン・セバーグが主演、映画もヒットし、"セシルカット"と呼ばれるボーイッシュな髪形が流行したりもしました(その後ゴダール作品などで活躍したJ・セバーグだったが、1979年に自殺とみられる死を遂げている)。

「悲しみよこんにちは」1976年リバイバル公開時チラシ
Bonjour Tristesse [VHS] [Import]

ミレーヌ・ドモンジョ.jpg 映画では、恋多き父親をデイヴィッド・ニーヴン(戦争映画などとは違ったいい味出している。1983年に筋萎縮性側索硬化症で亡くなった)、前の愛人をミレーヌ・ドモンジョ(右写真:アメリカ映画にはこれが初出演)、新しい恋人をデボラ・カー(物語の結末上、個人的には、1982年にコート・ダジュールで自動車事故死したグレイス・ケリーと何となくダブる)が演じていますが、う~ん、役者は皆いいのですが、何となく原作悲しみよこんにちは r.jpgの雰囲気と違うような...(フランソワ・トリュフォーは、「映画がサガンを裏切っているかどうかなんて問題じゃない。プレミンジャーやセバーグにサガンが値するかどうかが問題なのだ」として、一方的に映画の方の肩を持っているが)。
デビッド・ニーブン/ミレーヌ・ドモンジョ/ジーン・セバーグ/デボラ・カー

フランソワーズ・サガン 2.jpg サガン自身はその後も佳作を産み出すものの、セレブとのパーティ三昧、生死を彷徨うスポーツカー事故、ドラッグ所持での有罪判決、ミッテラン元大統領との親密な交際、晩年の貧困の原因となったギャンブル等々、むしろゴシップ・メーカーとして目立った存在でした。

 そのサガンの人生を描いた「サガン―悲しみよこんにちは」('08年/仏)がディアーヌ・キュリス監督によって撮られ、個人的には観ていませんが、主演のシルヴィー・テステューは、サガンに雰囲気が似ていると評判のようです。

映画「悲しみよこんにちは」(1957)より
悲しみよこんにちは 映画10.bmp悲しみよこんにちは 映画3.jpg悲しみよこんにちは 映画4.jpg悲しみよこんにちは 映画5.jpg悲しみよこんにちは 映画6.jpg悲しみよこんにちは 映画7.jpg悲しみよこんにちは 映画8.jpg悲しみよこんにちは 映画2.jpg悲しみよこんにちは 映画1.jpg

悲しみよこんにちは 海外版ポスター.jpg悲しみよこんにちは 映画 1957 dvd.jpg「悲しみよこんにちは」●原題:BONJOUR TRISTESSE●制作年:1957年●制作国:アメリカ●監督・製作:オットー・プレミンジャー●脚本:アーサー・ローレンツ●撮影:ジョルジュ・ペリナール●音楽:ジョルジュ・オーリック●原作:フランソワーズ・サガン●時間:90分●出演:デボラ・カー/デイヴィッド・ニーヴン/ジーン・セバーグ/ミレーヌ・ドモンジョ/ジェフリー・ホーン/ジュリエット・グレコ/ワルター・キアーリ/ジーン・ケント●日本公開:1958/04●配給:コロムビア●最初に観た場所:有楽町・スバル座(80-06-06)(評価:★★★)●併映:「シベールの日曜日」(セルジュ・ブールギニョン)悲しみよこんにちは [DVD]

サガン 悲しみよこんにちは.jpg 「サガン―悲しみよこんにちは」(2008)

【2008年再文庫化(新潮文庫)】

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「外套・鼻」ともに先駆的。「外套」はロシアでは映画やアニメに。「鼻」もアニメやオペラに。

外套・鼻 岩波文庫.gif外套 岩波文庫 2.jpg 外套 ポスター.png 外套 バターロフ 1シーン.jpg アレクセイエフ 鼻.jpg 
外套・鼻 (岩波文庫)』/ソ連映画アレクセイ・バターロフ「外套」チラシ・1シーン/アレクサンドル・アレクセイエフ「鼻」

 下級官吏アカーキイ・アカーキエヴィッチ・バシマチキンは、出世栄達に無関係の世界で、周囲から蔑まれながらも役所仕事(文書の清書)に精を出す男で、傍から見れば冴えないその服装や外見も自身は気にとめていない。そんな彼がある日、着古した外套を新調せざるを得なくなり、最初は面倒に思った彼だったが、一念発起して新しい外套を手に入れた時からその人生観は変わり、それまで関心のなかった役所以外のニコラーイ・ヴァシーリヴィチ・ゴーゴリ(Nikolai Gogol).jpg世界も、外套と同様にきらきら輝いたものに見えてきたのだった。ところがその矢先―。

 「外套」はニコライ・ゴーゴリ(1809- 1852)の中編小説で、1840年に書かれ1842年に発表された作品。ある種"怪奇譚"でもあるこの作品の結末を知る人は多いと思います。

ニコラーイ・ヴァシーリヴィチ・ゴーゴリ(Nikolai Gogol)

 うだつの上がらない九等書記官を主人公に、疎外された人間の哀しみをペーソスたっぷりに、時にユーモアと怪奇を交えて描いていますが、やはり、それまで貴族社会を舞台にした小説が多かったロシアで、既存の小説の主人公のイメージとは程遠い、平々凡々たる下級官吏を主人公に据えたところが画期的だと思います(官吏を主人公とした作品としては、先行して同じ作者が1934年に発表した「狂人日記」があるが)。

●官吏を主人公とした作品
・ゴーゴリ「狂人日記」[1834年発表]主人公:アクセンチイ・ イワーノヴィッチ・ ポプリシチン(九等官)
・ゴーゴリ「外套」[1842年発表]主人公:アカーキイ・アカーキエウィッチ(九等官)
・ゴーゴリ「鼻」[1846年発表]主人公:コワリョーフ(八等官)
・ドストエフスキー「貧しき人びと」[1846年発表]主人公:マカール・ジェーヴシキン(九等官)
・ドストエフスキー「二重人格(分身)」[1846年発表]主人公:ゴリャートキン(九等官)
・トルストイ「イワン・イリッチの死」[1846年発表]主人公:イワン・イリッチ(九等官)

 ドストエフスキーがこの作品に大きな影響を受けたとされており、処女作「貧しき人々」の発表は1846年、主人公のマカールは同じく九等書記官の小役人ですが、「外套」発表時、ドストエフスキーは既に「貧しき人々」に着手しており、「貧しき人々」の直後に発表した「二重人格」(「分身」)の方が、より強くゴーゴリの「外套」の影響を受けているように思えます(「二重人格」の主人公は九等文官、人間疎外から狂気に陥る)。

 また、トルストイも影響を受けているように思います。黒澤明監督が映画「生きる」の着想を得たとされている「イワン・イリッチの死」の主人公は、比較的裕福な出自のロシアの裁判官で、順調に出世していた中で突然の病に臥すという、設定はやや異なりますが、アカーキイと同じく公務員であることには違いありません。

 この「イワン・イリッチ」という名前は、「イワン・イリイチ」と呼ぶのが原語の発音に近いらしく(光文社古典新訳文庫の望月哲男氏の訳はそうなっている)、韻を踏んでいるのは役人のルーティン・ワークを象徴しているとされていますが、ならば、同じようなことを先にやったのは、この作品の主人公に「アカーキイ・アカーキエヴィッチ」と名付けたゴーゴリではなかったかと思われます。

 併録の「鼻」(1833年から1835年にかけて執筆されて1836年に発表)のシュール且つナンセンスな感覚も面白く、今で言えば安部公房(「壁―S・カルマ氏の犯罪」など)や筒井康隆がやっていたようなことを、150年も前にやってしまっているというのは、考えてみればスゴイことかも。

外套 輸入盤dvd.jpg外套 02.png 「外套」の方は、本国で何度か映画化されていて、「小犬を連れた貴婦人」('59年/ソ連)に俳優として出演していたアレクセイ・バターロフ(1928年生まれ)監督の作品('60年/ソ連)を観ましたが、原作に沿ってきっちり作られていて、作品全体としては悪くない出来だと思いました。但し、一方で、バシマチキン(アカーキイ)の人物造型はやや"戯画的"に描かれ過ぎていてるようにも思いました(一番劇画チックなのは、彼が幽霊になってからだが)。

「外套」輸入盤DVD

外套01.jpg まあ、原作がそもそも"戯画的"な性格を持っているというのはあるのですが、ペーソスより滑稽と怪奇の方が勝ち過ぎている気もしました。主演のロラン・ブイコフの演技の評価は高[外套.jpgいですが、「名演技」であることには違いないですが、個人的印象としては「怪演」であるとも言えるように思います。ベタなウェット感を拭い去ることによって、最終的には逆にペーソスを引き出そうというのが狙いだったのかもしれませんが。

「外套」(実写版)●原題:Шинель(SHINELI)●制作年:1959年(公開:1960年)●制作国:ソ連●監督:アレクセイ・バターロフ●脚本:L・ソロヴィヨフ●撮影:ゲンリフ・マランジャン●音楽:ニコライ・シレリニコフ●原作:ニコライ・ゴーゴリ「外套」●時間:75分●出演:ロラン・ブイコフ/ユーリー・トルベーエフ/A・エジキナ●日本公開:1974/03●配給:日本海映画●最初に観た場所:池袋・文芸坐 (79-11-14)(評価:★★★☆)●併映:「開かれた処女地」(アレクサンドル・イワノフ)

外套(制作中)2.jpg外套(制作中)1.jpg外套 ノルシュテイン 作業風景.jpg この作品はまた、「霧の中のハリネズミ」「話の話」などで知られ、アレクセイ・バターロフとも親交のあるアニメーション作家ユーリー・ノルシュテイン(Yuriy Norshteyn、1941年生まれ)によってアニメ化もされています。
外套 ノルシュテイン 原画展ポスター 2009年10月 .jpg ユーリー・ノルシュテインは「老人と海」のアニメーションでアカデミー賞を受賞したアレクサンドル・ペトロフ(Alexander Petrov 、1957年生まれ)とは師弟関係にあり、気が遠くなるような手作業で原画を描くことで両者は共通しています(「外套」は30年かけて未だ制作中!)。

 ユーリー・ノルシュテインのアニメ「外套 (YouTube)」もアレクサンドル・ペトロフのアニメ「老人の海 (YouTube)」も共にウェブで視聴可能です。ノルシュテインの「外套」は出来上がっているところまでですが、日本語字幕がついています。アカーキイが文書を清書するところを、書いている文字まで丹念に描いており、これを手作りでやっていれば確かに時間がかかるのも無理ないと思います(他の作品の制作の合間をぬっての作業のようであるし)。

ユーリー・ノルシュテイン「外套」原画展ポスター(2009年10月)

アレクサンドル・アレクセイエフ「鼻」(ゴーリキー原作).jpg 「鼻」の方は、「禿山の一夜」「展覧会の絵」で知られるアニメーション界の巨人アレクサンドル・アレクセイエフ(Alexandre Alexeieff、1901-1982)が短編アニメ映画化していて(「鼻」(1963))、この人の作品はピンスクリーンという手法で知られています(これまた、ボードに立てた「25万本の針」を出したり引っ込めたりして光を当てながら1コマ1コマ撮っていくという、気の遠くなるような時間のかかかる技法)。このアレクセイエフの「鼻」もウェブで視聴可能、音楽のみでセリフは無く、最後はややブラックなオチになっています。

 アレクサンドル・アレクセイエフは17歳でロシアを離れ、二度と戻ることがなかったロシアに対する憧憬や情念を抱えながらアメリカやフランスで制作活動を続けた人で、実際、制作した作品のうち3作品がムソルグスキーの音楽を題材にしたものであり、1作品がゴーゴリの小説を題材にしたこの作品となっています。この作品はまず、メトロノームの速度に合わせて映像を制作し、次に、映像に合うように音楽を制作したそうで、冒頭の太陽の光の変化により時間の流れを表現したり、空間や場面が変化していく様子など、ピンスクリーンでなければ描けない、独特のシュールな映像世界を作り上げています。

アレクサンドル・アレクセイエフ「鼻」(ゴーリキー原作)2.jpgアレクサンドル・アレクセイエフ作品集.jpg鼻 アニメ アレクセイエフ2.jpg「鼻」(アニメ版)●原題:Le Nez (The Nose)●制作年:1963年●制作国:フランス●監督:アレクサンドル・アレクセイエフ●共同監督:クレア・パーカー●原作:ニコライ・ゴーゴリ「鼻」●時間:11分●DVD発売:2006/03●発売元:ジェネオン エンタテインメント(評価:★★★★)
ニュー・アニメーション・アニメーションシリーズ アレクサンドル・アレクセイエフ作品集 [DVD]
(33年制作「禿山の一夜」、63年制作「鼻」、72年制作「展覧会の絵」ほか全5編)

 実写版でも映画化されているのかなあ。教会で"鼻"が何食わぬ様子でお祈りしていたり、その鼻に向かって持主が自分の顔に戻るよう説得するというぶっ飛んだ場面などは(アレクセイエフのアニメは、その時ですら主人公が鼻の無い顔を隠しているのが可笑しい)、少なくとも実写では無理だと思うけれど...と思っていたら、ショスタコーヴィチが作曲家自身及びエヴゲーニイ・ザミャーチン、ゲオルギー・イヨーニン、アレクサンドル・プレイスの台本でオペラにしていることを知りました(タイトルはそのものずばり「鼻」)。これまでにロシアやヨーロッパのオペラハウスでは何度も上演されているようです(初演は1930年1月18日、レニングラード、マールイ劇場) 。

オペラ「鼻」(チューリッヒ歌劇場の公式サイトより)
ショスタコーヴィチのオペラ「鼻」2.jpg オペラ「鼻」.jpg

外套・鼻 岩波 .jpg外套・鼻 (講談社文芸文庫).jpg外套・鼻 (講談社文芸文庫)
(「外套」「鼻」「狂人日記」「ヴィイ」)

【1933年文庫化[岩波文庫(『外套―他二篇』)]/1938年再文庫化・1965年・2006年改版[岩波文庫(平井肇:訳)]/1999年再文庫化[講談社文芸文庫(吉川宏人:訳)]/2006年再文庫化[光文社古典新訳文庫(『鼻/外套/検察官』浦雅春:訳)]】

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もともとはアナーキズムの作品で、その表現手法がシュルレアリズムだったということか。

ユビュ王1.jpg       アルフレッド・ジャリ 戯曲ユビュ王.jpg  ユビュ王.jpg  アルフレッド・ジャリ.jpg Alfred Jarry
ユビュ王―Comic』('98年/青土社)/『ユビュ王―戯曲 (1965年)』/『ユビュ王 (1970年)

ubu.gif ユビュ親父はユビュおっ母に唆され、ボルデュール大尉と結託し王を暗殺、王冠を手に入れたユビュ親父は、貴族たちを次々と処刑して、桁外れな税金を徴収し、ボルデュール大尉を投獄するが、ボルデュールは脱獄、亡き王の従兄ロシア皇帝と共に、ブーグルラス王子(王家の生き残り)即位のために挙兵する。すぐさまユビュ親父も兵を挙げ戦場へ向かった思いきや、一人そそくさと戦場から逃げ出し、洞窟へ逃れる。ユビュおっ母も後を追って洞窟へ。そこへ兵を連れたブーグルラスが襲いかかり、ユビュ親父は、また逃げていく―。
King Ubu by Alfred Jarry, Marionetteatern 1964 Direction: Michael Meschke(Germany)

 1896年12月にパリ「制作座」で初演された、アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry、1873-1907/享年34)の戯曲で(原題:Ubu-Roi)、もともとは政治劇などによく見られる人形劇だったとのことですが、「制作座」では人間(ちゃんとした役者)が演じて、観客の間にも批評家の間にも混乱と賛否両論の渦を引き起こしたとのことです(その後も今に至るまで、役者が着ぐるみを着て演技するパターンが続いている)。

悪魔の涎・追い求める男.jpgユビュ王2.jpg 個人的には、最近読んで面白かったアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル(1914-1984)が、最も影響を受けた作家がジャリであるとのことで、久しぶりの再読(但し、今回はコミック版)。 
 最初に読んだのは学生時代で、竹内健訳の現代思潮社版('65年初版、'70年新装版、2013年改版)、'70年版の装丁は赤瀬川原平氏。ジャリ自身の描いたイラストもありましたが、本書は、フランツィシュカ・テマソン(1907-1988)という、生涯にわたってこの作品に関わり続けた英国の女流画家によるコミック版です。ちょっとピカソ風の画風で(ピカソ自身もこの戯曲をモチーフとしたイラストを残している)、この戯曲のシュールな雰囲気をよく伝えています。

 この作品のラストシーンは、船の甲板の上で、そこには、次の目的地へ向かうユビュ夫妻とその一味の姿があり、「もしもポーランドがなければポーランド人があるまい!」というユビュ親父の言葉に象徴されるように、アナーキズムが作品の根底にあるわけですが、20世紀になってアンドレ・ブルトン(1896-1966)らによって再評価されたように、シュルレアリズムの先駆と看做されている面の方が強いのではないでしょうか。

 コミック版の訳者・宮川明子氏による解説は、こうした経緯並びにジャリの生涯について詳しく書かれていて、ジャリ自身が自らをユビュ親父と(裏返し的に)同一視していたことが(又は、そう振舞っていたことが)わかり、興味深いものでした。

ジャリ.jpg ジャリは、自然と自転車とフェンシングを愛した野生児であったものの、貧困とアルコール中毒のため34歳で亡くなっていますが、宮川氏の解説では、後段はジャリ自身のことを「ユビュ親父」と呼んでいます。

 この作品そのものは、ストーリーは複雑と言えば複雑、単純と言えば単純、ユビュ親父やユビュおっ母の奇怪な行動と、合間に挿入される強烈にギャク的な台詞などから、ドタバタ劇という印象を受けなくもありません。

 最近の上演に関しては、役者が観客席に入り込み、効果音のための小道具を配ったり、ユビュ王が貴族を放逐する場面では、観客を場外へ追い出したりして(そこで休憩になる)、「ロッキー・ホラー・ショー」的な、観客参加型の演劇として上演されているようです。

 もともとはアナーキズムの作品で、その表現手法が(後世に言うところの)シュルレアリズムだったということなのでしょうが、う~ん、シュルレアリズムって解らない、解らないからシュルレアリズムなのか。 

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裕福な家庭の人々の「罪」を暴いた「警部」は、「超自然の存在」という解釈が妥当では。

夜の来訪者 1952.jpg夜の訪問者 三笠書房.jpg夜の来訪者.jpg An Inspector Calls (2015/09 BBC).jpg
夜の来訪者 (岩波文庫)』['07年]「夜の来訪者」('15年/2015/09 BBC)デヴィッド・シューリス主演
夜の来訪者 (1952年)
夜の来訪者 (1955年) (三笠新書)』「夜の来訪者」('54年製作・'55年公開/ガイ・ハミルトン監督)
夜の来訪者 (1955年) (三笠新書)_.jpg夜の訪問者 映画.jpg 裕福な実業家の家庭で、娘の婚約を祝う晩餐会の夜に警部を名乗る男が訪れて、ある貧しく若い女性が自殺したことを告げ、その家の人々(主人夫妻、娘、息子、娘の婚約者)全員が自殺した女性との接点を持っており、彼女に少なからず打撃を与えたことを暴いていく―。
John Boynton Priestley
John Boynton Priestley.jpg 1946年10月初演の、英国のジャーナリスト・小説家・劇作家・批評家ジョン・ボイントン・プリーストリー(John Boynton Priestley "J. B." Priestley、1894-1984)の戯曲で(原題は"An Inspector Calls")、文庫で160ページほどであるうえに、安藤貞雄氏の新訳であり、たいへん読みやすかったです。初訳は1952年の内村直也訳の三笠書房版で、1951年10月の俳優座による三越劇場での日本初演(警部役は東野英治郎(1907‐94)に合わせて訳出されました(古本市場で入手可能)。

I夜の来訪者」.jpg 娘の死に自分たちは関与していないという実業家の家族たちの言い分を、「警部」が1人1人論破していく様は実に手際よく、娘や息子が自らの「罪」が招いた悲劇であることを認めたのに対し、それでも抗う主人夫婦などに、上流(中産)階級のエゴイズムや傲慢、他罰的な姿勢が窺えるのが興味深いです(最初は自罰的な態度をとっていた娘が、親に対して今度は他罰的な態度をとり始めるのも、やや皮肉っぽくもとれ、作者は家族ひっくるめて、風刺の俎上に上げているのでは)。

 作品の時代背景は1912年ということですが、人間心理を突いた文学的作品であると同時に、1946年の英国にまだ残る旧社会的な考え方を照射した、社会批評的な要素もあるのではないかと思います。プリーストリーは当時、「左翼的ジャーナリスト」と見做されていたようだし、キリスト教精神の影響もみられるようです。

 但し、このお話、それだけで終わるのではなく、終盤、大いなる「謎」が家族の間に生じる―つまり、家族の団欒を台無しにして帰っていったあの訪問者は、本当に警部だったのかという...。

 その疑念に自分らなりの解釈を加えて、また一喜一憂する実業家夫婦。そして、何も無かったことにしようといった雰囲気になる中、ラストにシュールな「どんでん返し」―と、結末までの持って行き方が鮮やかで、「推理劇」ではありませんが(どこかで「推理小説」のジャンルに入っていたのを見た記憶があるが)確かにスリラー的な楽しみがあり、最後には読者(観客)に対しても、大いなる「謎(ミステリ)」を残しています(作品自体は、"サスペンス"とでも言うべきものか)。

夜の来訪者 演劇.jpg その「謎」、つまり「警部」とは何者だったのかについては、2度の映画化作品での描かれ方においても、「超自然の存在」という解釈と、"予知夢"などで「先に事件を知った別の人間」という解釈とに分かれているそうですが、やはり男の存在自体を「超自然の存在」とみるのが妥当だろうなあ。

 ガイ・ハミルトン監督による映画化作品('57年)はそのような解釈らしいけれど、シス・カンパニーの舞台版(演出:段田安則)はどう扱ったのかなあ(解釈抜きでも演劇としては成立するが...)。

シス・カンパニー公演「夜の来訪者」 2009年2月14日~3月15日 新宿 紀伊國屋ホール
出演・演出:段田安則/出演:高橋克実、渡辺えり、八嶋智人、岡本健一、坂井真紀、梅沢昌代

BBCドラマ「夜の来訪者」.jpg(●2015年制作の英BBC版(本国放映'15年9月)が、'16年7月にAXNミステリーで放映され、DVDは輸入盤しかなかったが、'20年にアマゾンのPrime Videoで字幕版がリリースされた。グール役は「ハリー・ポッター」シリーズでルーピン教授BBCドラマ「夜の来訪者」1.jpg(狼人間)役を演じたデヴィッド・シューリス、母親役は同じく「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」('05年)でのフリーライターのスキーター役や「オペラ座の怪人」('04年)のマダム・ジリー役を演じたミランダ・リチャードソンで、そのほか、「ホビット」シリーズのケン・ ストット、TVシリーズ「ポルダーク」のカイル・ソラーなどキャストは豪華。室内劇だが、オリジナルが戯曲なので違和感がなく、俳優陣も演技力があり、原作の持ち味がよく出ていたように思った。)

BBCドラマ「夜の来訪者」3.jpgBBCドラマ「夜の来訪者」2.jpg「夜の来訪者」●原題:AN INSPECTOR CALLS●制作年:2015●制作国:イギリス●監督:アシュリング・ウォルシュ●製作:ジャクリーン・デービス●脚本:ジョン・B・プリーストリー/ヘレン・エドムンドソン●音楽ドミニク・シェラー●時間:87分●原作:ジョン・B・プリーストリー「夜の来訪者」●出演:ソフィー・ランドル/ルーシー・チャペル/ミランダ・リチャードソン/ケン・ストット/フィン・コール/クロエ・ピリー/カイル・ソラー/デヴィッド・シューリス/ゲイリー・デイヴィス●日本放送:2016/07●放送局:AXNミステリー(評価:★★★★)

 【1952年文庫化[三笠文庫]/1955年新書化[三笠新書]/2007年再文庫化[岩波文庫]】

《読書MEMO》
劇団かに座第105回公演「夜の来訪者」 2012年11月16日 関内ホール・小ホール

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○ノーベル文学賞受賞者(ソール・ベロー) 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

主人公よりも詐欺師の"タムキン博士"と父親の"アドラー博士"が印象に残った。

『この日をつかめ』.JPGこの日をつかめ.jpg Seize the Day2.jpg SeizeTheDay.jpg Saul Bellow.jpg
この日をつかめ (新潮文庫)』['71年]/First edition cover (1956) / Saul Bellow(1915-2005/享年89)

Seize the Day Saul Bellow1.jpgSeize the Day Saul Bellow3.jpgSeize the Day Saul Bellow2.jpgSeize the Day Saul Bellow4.jpg  44歳になるトミー・ウィルヘルムは、かつて役者志望の道を絶たれ、今は職も無く妻子とも別れ、名士の父親と同じホテルで生活しているが、部屋代の支払いにも窮し、投資につぎ込んだなけなしの金もどうなるかわからない―。

 1956年に米国の作家ソール・ベロー(Saul Bellow、1976年にノーベル文学賞受賞)が発表した小説で、主人公の危機的な一日を追いながら、人間存在の意味を問うた作品(原題は"Seize the Day")。1986年にロビン・ウィリアムズ主演で映画化されていますが("SEIZE THE DAY")、「ミッドナイト・ニューヨーカー」という邦題がありながらも本邦未公開です。

 やることなすこと全て裏目に出て踏んだり蹴ったりの主人公ですが、やっぱり中年で自活出来ないというのは、経済生活面だけでなく、精神面でキツイなあと思いつつも、あまり主人公に同情心が沸かないのは何故?

 社会(俗世間)からの疎外を感じる主人公が、最後には、「この日をつかめ」という言葉をキーワードに、過去に捉われることなく、また、未来に不安を抱くことなく、"今を生きる"ことの大切さを悟るのですが、ついつい、明日は大丈夫なの?と思ってしまうのは、自分が俗っぽいからでしょうか。

 主人公のラード等への投資を仲介する"タムキン博士"という人物が大変印象に残り、「この日をつかめ」も彼の言葉なのですが、彼は実は詐欺師であり(読者にはかなり早い段階でそれがわかると思うが、主人公は疑念を抱きながらも彼に振り回される)、いかにも資本主義社会に徘徊していそうなクセモノ。彼の言う「この日をつかめ」は"投機"上の意味合いなのですが、主人公は詐欺師の言葉から哲学を引き出し(確かにこの詐欺師は哲学者っぽい弁を垂れる)、一方で、現実面では結局のところ、この詐欺師になけなしの金を持っていかれたということか。

河合隼雄s.jpg 主人公の父親の"アドラー博士"というのも、息子を世の中の敗北者と決めつけ、全く構ってやらないという、ちょっと日本にはいないタイプの父親で、志賀直哉の父親との間での葛藤などとも違って、こちらは「和解」の余地すら無い。河合隼雄氏が、父性原理は「よい子だけがわが子」という規範で、母性原理は「わが子はすべてよい子」という規範であり、欧米は父原理の社会であり、日本は母性原理の社会であると言っていたのを思い出しました。

 この物語の父親はまさに欧米型の父性原理の具現化像であり、また同時に俗世間の代表格であるけども、アーサー・ミラー『セールスマンの死』に出てくる、アメリカンドリームを子供に託す期待過剰の父親とも全然違って、その個人主義は凄まじく、息子さえも早めに見切った後には(見込んでいた頃の描写は出てこないが)他人レベルと変わらない「一個人」に過ぎなくなってしまっているいう感じでしょうか(ユダヤ系ということも関係しているのか?)。

 小説として今一つ感動は出来なかったですが、"タムキン博士"と"アドラー博士"は印象に残りました(主人公よりも)。

 【1971年文庫化・1993年改版[新潮文庫]/1978年再文庫化[集英社文庫(『その日をつかめ』)]】

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原作は、マリリン・モンローと自分自身を念頭に置いて描いているように思える。

ティファニーで朝食を.jpg ティファニーで朝食を 文庫.jpg  ティファニーで朝食を パンフレット.jpg
ティファニーで朝食を』['08年]/『ティファニーで朝食を (新潮文庫)』['08年]/Breakfast at Tiffany's(1961) - Moon River
First edition cover (1958)
Breakfast at Tiffany's 1958.jpgティファニーで朝食を(カポーティ).jpg 1958年春に出版された米国の作家トルーマン・カポーティ(Truman Capote, 1924-1984/享年59)の34歳の時の作品(原題は"Breakfast at Tiffany's")ですが、村上春樹氏の翻訳は新潮文庫旧版('68年)の龍口直太郎訳と比べるとかなり読みやすいのではないかと思いました。

 カポーティが小説家として一番ピークにあった頃の作品であるというのがよくわかり、駆け出し作家である「僕」が、捉えどころの無い奔放さを持ったホリー・ゴライトリーという女性に引き摺られていく感じが絶妙のタッチで描かれていて、いよいよホリーが去っていくといったやや気の滅入る場面でも、「彼女の出発する土曜日には、街はスコール顔負けの激しい雨にみまわれた。鮫が空中を泳げそうなぐらいだったが、飛行機が同じことをするのは無理だろう」なんて面白い表現があったりして、都会的というか、才気煥発というか、この辺りも村上氏と波長が合う部分なのだろうなあという気がします。

「ティファニーで朝食を」1.jpg  '61年にブレイク・エドワーズ監督により、オードリー・ヘプバーン主演で映画化されたため、お洒落な都会劇というイメージが強いように思いますが(「麗しのサブリナ」ではまだ控えめだったジバンシーとの衣装提携が、この作品ではまさに"全開"という感じだったし)、そうしたファッション面でのお洒落というのと、この原作のセンスはちょっと違うような...。

Marilyn Monroe and Truman Capote
Marilyn Monroe and Truman Capote.jpg 映画化に際してトルーマン・カポーティは、主人公のホリーをマリリン・モンローが演じるのが理想と考え、またモンローを想定して脚本を書くように脚本家にも依頼したものの、モンローの起用は彼女の演技顧問だったポーラ・ストラスバーグに反対されて見送られ、結局、ヘプバーンがホリーを演じることになったというのはよく知られている話です。個人的印象としては、この小説を書き始めた段階からカポーティはモンローと自分自身を念頭に置いて書いているように思え、モンローの気質を想定して読むと、スッキリとホリーのキャラクターに嵌るような気がします。

「ティファニーで朝食を」 3.jpg「ティファニーで朝食を」2.jpg 実際、ヘップバーンがティファニーの前でパンを食べるという映画の冒頭シーンで(タイトルのままだなあ)、観ていたカポーティが思わず椅子からずり落ちてしまったという逸話があるぐらいですから、相当イメージ違ったのだろうなあ。トルーマン・カポーティは、ノーマン・メイラーと並んで、モンローに袖にされた"片思い組"で、彼は背が低くて、モンローの好みの対象外だったし、しかもバイ・セクシュアル、本質的にはゲイだったとも言われています。

 この作品でトルーマン・カポーティは、世間の常識に囚われない天真爛漫な女性(若干、双極性障害(躁うつ気質)気味?)を生き生きと描く一方、その相手をする作家である男(要するに自分自身)を、彼女に振り回されるばかりの情けない存在として、やや自嘲的、乃至は被虐的と思えるまでに描いていますが、この点も、村上春樹氏が指摘するように、映画でジョージ・ペパードが演じた作家が、しっかりとホリーを受け止めているのとは異なり、映画化において改変された点と言えます。

BREAKFAST AT TIFFANY'S.jpgティファニーで朝食を dvd.jpg 結局、小説のホリーは最後ブラジルかどこかへ行ってしまうのですが、この結末はむしろモンローに相応しく、映画では、名無しの飼い猫を一旦放してまた引き戻す点はほぼ同じですが、海外への高飛びは無く、それまで自我むき出しで尖がっていたホリーが、最後は人間の優しさを感じるちょっと普通の女性になったかなあという、オードリー・ヘプバーンに相応しい結末に改変されていたように思います。

映画『ティファニーで朝食を(POSTER)《PPC009》』ポスター/ヘップバーン主演(輸入版)/「ティファニーで朝食を [DVD]

 映画テーマ曲の「ムーン・リバー」はヘンリー・マンシーニの最大のヒット曲と言ってよく、映画としてもいい作品だと思いますが(ミッキー・ルーニー演じるユニオシなる奇妙な日本人大家はいただけないが)、もしかして、トルーマン・カポーティはモンローが、この映画のヘプバーンのように自分の懐へ飛び込んでくることを夢想していたのではないかとも思ったりしてしまいます。

ティファニーで朝食を52.JPG 村上氏も「映画は映画として面白かった」としながらも、新訳の刊行にあたって、表紙に映画のスチールだけは使わないで欲しいと要望したそうですが(新潮文庫旧版ではモロ、映画スチールを使っている)、映画と切り離して読んで欲しいというのはよくわかるし賛成ですが、だからといって"ティファニーブルー"のカバーにするというのもどうなのでしょうか(出版社側の意向だと思うが)。この、言わば"高級コールガール"を主人公にした小説及び映画が、"高級宝石店"ティファニーの知名度アップに大いに寄与したことは間違いないと思うのですが、それはもう過去の出来事でしょう。それとも、今回の場合も出版社側がタイアップ効果を狙っているということなのでしょうか(新潮文庫版ではうってかわって民野宏之氏のカバー挿画となり、"ティファニーブルー"は踏襲されなかった)。

ティファニーで朝食を 01.jpgティファニーで朝食を 00.jpg「ティファニーで朝食を」●原題:BREAKFAST AT TIFFANY'S●制作年:1961年●制作国:アメリカ●監督:ブレイク・エドワーズ●製作:マーティン・ジュロー/リチャード・シェパード●脚本:ジョージ・アクセルロッド●撮影:フランツ・プラナー●音楽:ヘンリー・マンシーニ●原作:トルーマン・カポーティ●時間:114分●出演:オードリー・ヘプバーン/ジョージ・ペパード/パトリシア・ニール/バディ・イブセン/マーティン・バルサム/ホゼ・ルイス・デ・ビラロニア/ミッキー・ルーニー●日本公開:1961/11●配給:パラマウント映画●最初に観た場所:高田馬場・ACTミニシアター(85-11-03) (評価:★★★☆)●併映:「めぐり逢い」(レオ・マッケリー)

fred.jpg cat.jpg

HIM: Holly (Jenovia), I'm in love with you.
ME: So what?
HIM: So WHAT? SO PLENTY! I love you. You belong to me.
ME: No. People don't belong to people.
HIM: Of course they do.
ME: Nobody is going to put me in a cage..
HIM: I want to love you.
ME: IT'S THE SAME THING.
HIM: No, it's not Holly! (Jenovia)
ME: I'm not Holly, I'm not Lulamae either. I don't know who I am.
I'm like cat here. A no name slob. We belong to nobody and nobody belongs to us. We don't even belong to each other.
Stop the cab.
What do you think?
This ought to be the right place.
For a tough guy like you--Garbage cans, rats galore.
(MEOW)
SCRAM!
I SAID TAKE OFF! BEAT IT!
Lets go.
(Thunder)
HIM: Driver, pull over here.
You know whats wrong with you, Miss Whoever-You-Are?
You're CHICKEN. YOU GOT NO GUTS. You're afraid to say "O.K. life's a fact."
People DO fall in love. PEOPLE DO BELONG TO EACH OTHER, BECAUSE THATS THE ONLY CHANCE ANYBODY'S GOT FOR REAL HAPPINESS.
You call yourself a free spirit, a wild thing.
You're terrified someone is going to stick you in a cage.
Well Baby, you're already in that cage.
You built it yourself.
And it's not bounded by Tulip, Texas or Somaliland.
It's wherever you go.
Because no matter where you run, you just end up running into yourself.
END SCENE.

【1968年文庫化[新潮文庫(龍口直太郎訳)]/2008年再文庫化[新潮文庫(村上春樹訳)]】

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初読では中だるみ感があったが、映画を観てもう一度読み返してみたら、無駄の無い傑作だった。
グレート・ギャツビー.jpg グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー) 和田誠.jpg グレート・ギャツビー 野崎訳.jpgグレート・ギャツビー 新潮文庫2.jpg 翻訳夜話.jpg
愛蔵版グレート・ギャツビー』 『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(新書)/『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(新書)(以上、装幀・カバーイラスト:和田 誠)/『グレート・ギャツビー (新潮文庫)』(野崎孝:訳)/村上 春樹・柴田 元幸『翻訳夜話 (文春新書)
First edition cover (1925)
The Great Gatsby.jpg 1920年代初頭、米国中西部出身のニック・キャラウェイは、戦争に従軍したのち故郷へ帰るも孤独感に苛まれ、証券会社でフランシス・スコット・フィッツジェラルド.jpg働くためにニューヨーク郊外ロング・アイランドにある高級住宅地ウェスト・エッグへと引っ越してくるが、隣の大邸宅では日々豪華なパーティが開かれていて、その庭園には華麗な装いの男女が夜毎に集まっており、彼は否応無くその屋敷の主ジェイ・ギャツビーという人物に興味を抱くが、ある日、そのギャツビー氏にパーティに招かれる。ニックがパーティに出てみると、参加者の殆どがギャツビーについて正確なことを知らず、ニックには主催者のギャツビーがパーティの場のどこにいるかさえわからない、しかし、たまたま自分の隣にいた青年が実は―。

The Great Gatsby: The Graphic Novel(2020)
The Great Gatsb The Graphic Novel.jpg 1925年に出版された米国の作家フランシス・スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Fitzgerald、1896‐1940/享年44)の超有名作品ですが(原題:The Great Gatsby)、上記のようなところから、ニックとギャツビーの交遊が始まるという初めの方の展開が単純に面白かったです。

 しかし、この小説、初読の際は中間部分は今一つ波に乗れなかったというか、自分が最初に読んだのは野崎孝(1917‐1995)訳『偉大なるギャツビー』でしたが、今回、翻訳のリズムがいいと評判の村上春樹氏の訳を読んで、それでもやや中だるみ感があったかなあと(金持ち同士の恋の鞘当てみたいな話が続き、その俗っぽさがこの作品の持つ1つの批判的テーマであると言えるのだが...)。ただし、ギャツビーという人物の来歴と、彼の自らの心の空洞を埋めようとするための壮大な計画が明かされていく過程は、やはり面白いなあと―。そしてラスト、畳み掛けるようなカタストロフィ―と、小説としての体裁もきっちりしていることはきっちりしていると思いました。更に、最近リアルタイムでは観られなかったジャック・クレイトン監督、ロバート・レッドフォー華麗なるギャツビー 1974 dvd.jpg華麗なるギャツビー 1974.jpgド主演の映画化作品「華麗なるギャツビー」('74年/米)をテレビで観る機会があって、その上でもう一度、野崎訳及び村上訳を読み返してみると、起きているごたごたの全部が終盤への伏線となっていたことが再認識でき、村上春樹氏が「過不足のない要を得た人物描写、ところどころに現れる深い内省、ヴィジュアルで生々しい動感、良質なセンチメンタリズムと、どれをとっても古典と呼ぶにふさわしい優れた作品となっている」と絶賛しているのが分かる気がしました。
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 ギャツビーにはモデルがいるそうですが、ニックとギャツビーのそれぞれがフィッツジェラルドの分身であり(ついでに言えば、妻に浮気されるトム・ブキャナンも)、そしてフィッツジェラルド自身が美人妻ゼルダ(後に発狂する)と高級住宅地に住まいを借りてパーティ漬けの派手な暮らしをしながら、やがて才能を枯渇させてしまうという、華々しさとその後の凋落ぶりも含めギャツビーと重なるのが興味深いですが、これはむしろ小説の外の話で、ニックの眼から見た"ギャツビー"の描写は、こうした実生活での作者自身との相似に反して極めて冷静な筆致で描かれていると言ってよいでしょう。

『グレート・ギャツビー』 (2006).JPG村上春樹 09.jpg 新訳というのは大体読みやすいものですが、村上訳は、ギャツビーがニックを呼ぶ際の「親友」という言葉を「オールド・スポート」とそのまま訳したりしていて(訳していることにならない?)、日本語でしっくりくる言葉がなければ、無理して訳さないということみたいです(柴田元幸氏との対談『翻訳夜話』('00年/文春新書)でもそうした"ポリシー"が語られていた)。ただし、個人的には、「オールド・スポート」を敢えて「親友」と訳さなかったことは、うまく作用しているように思いました(映画を観るとギャツビーは「オールド・スポート」と言う言葉を様々な局面で使っていて、その意味合いがそれぞれ違っていることが分かる。それらを日本語に訳してしまうと、同じ言葉を使い分けているということが今度は分からなくなる)。

『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(2006)(装幀・カバーイラスト:和田 誠

グレート・ギャツビー』1.JPG そうした意味では、タイトルを『グレート・ギャツビー』としたこともまた村上氏らしいと思いました。ただし、野崎孝訳も'89年の「新潮文庫」改訂時に『グレート・ギャツビー』に改題していて、故・野崎孝氏に言わせれば、フィッツジェラルドは、親から受け継いだ資産の上に安住している金持ち階級を嫌悪し(作中のブキャナン夫妻がその典型)、自らの才覚と努力によって財を成した金持ち(ギャツビーがこれに該当)には好意と尊敬の念を抱いていたとのこと('74年版「新潮文庫」解説)。だから、"グレート"という言葉には敬意も込められていると見るべきなのでしょう。
   
日はまた昇る.jpg 村上氏はこの作品を"生涯の1冊"に挙げており、同じ"ロスト・ジェネレーション"の作家ヘミングウェイ『日はまた昇る』(この作品とシチュエーションが似ている面がある)より上に置いていますが、個人的には『日はまた昇る』も傑作であると思翻訳夜話2.jpgっており、どちらが上かは決めかねます。 

 因みに、先に挙げた『翻訳夜話』は、柴田氏と村上氏が、東京大学の柴田教室と翻訳学校の生徒、さらに6人の中堅翻訳家という、それぞれ異なる聴衆に向けて行った3回のフォーラム対談の記録で、村上氏は翻訳に際して「大事なのは偏見のある愛情」であると言い、柴田氏は「召使のようにひたすら主人の声に耳を澄ます」と言っています。レイモンド・カーバーとポール・オースターの短編小説を二人がそれぞれ「競訳」したものが掲載されていて、カーバーの方は村上氏の方が訳文が長めになり、オースターの方は柴田氏の方が長めになっているのが、両者のそれぞれの作家に対する思い入れの度合いを反映しているようで興味深かったです。

「グレート・ギャツビー」人物相関.jpg

0華麗なるギャツビー レッドフォード.jpg(●2013年にバズ・ラーマン監督、レオナルド・ディカプリオ主演で再映画化された。1974年のジャック・クレイトン監督のロバート・レッドフォード、ミア・ファロー版は、当初はスティーブ・マックィーン、アリ・マックグロー主演で計画されていて、それがこの二人に落ち着いたのだが、村上春樹氏などは「落ち着きが悪い」としていた(ただし、フランシス・フォード・コッポラの脚本を評価していた)。個人的には、デイジー役のミア・ファローは登場するなり心身症的なイメージで、一方、ロバート・レッドフォードは健全すぎたのでアンバランスに感じた。レオナルド・ディカプリオ版におけるディカプリオの方が主人公のイメージに合っていたが(ディカプリオが家系0華麗なるギャツビー  ディカプリオ .jpg的に4分の3ドイツ系であるというのもあるか)、キャリー・マリガン演じるデイジーが、完全にギャツビーを取り巻く俗人たちの1人として埋没していた。セットや衣装はレッドフォード版の方がお金をかけていた。ディカプリオ版も金はかけていたが、CGできらびやかさを出そうとしたりしていて、それが華やかと言うより騒々しい感じがした。目まぐるしく移り変わる映像は、バズ・ラーマン監督の「ムーラン・ルージュ」('01年)あたりからの手法だろう。ディカプリオだから何とか持っているが、「ムーラン・ルージュ」ではユアン・マクレガーもニコール・キッドマンもセット(CG含む)の中に埋もれていた。)

華麗なるギャツビー r2.jpg 華麗なるギャツビー d2.jpg

華麗なるギャツビー dvd.jpg
   
グレート・ギャツビー (愛蔵版).jpgグレート・ギャツビー 村上春樹翻訳ライブラリー2.jpg【1957年文庫化[角川文庫(大貫三郎訳『華麗なるギャツビー』)]/1974年再文庫化[早川文庫(橋本福夫訳『華麗なるギャツビー』)]/1974年再文庫化[新潮文庫(野崎孝訳『偉大なるギャツビー』)・1989年改版(野崎孝訳『グレート・ギャツビー』)]/1978年再文庫化[旺文社文庫(橋本福夫訳『華麗なるギャツビー』)]/1978年再文庫化[集英社文庫(野崎孝訳『偉大なギャツビー』]/2006年新書化[中央公論新社・村上春樹翻訳ライブラリー(『グレート・ギャツビー』]/2009年再文庫化[光文社古典新訳文庫(小川高義訳『グレート・ギャツビー』)】[左]『愛蔵版グレート・ギャツビー』(2006/11 中央公論新社)/[右]『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(2006/11 中央公論新社)(共に装幀・カバーイラスト:和田 誠


新潮文庫(野崎孝訳)映画タイアップ・カバー(レッドフォード版)
グレート・ギャツビー 新潮文庫im.jpg華麗なるギャツビー 1974  .jpg「華麗なるギャツビー」●原題:THE GREAT GATSBY●制作年:1974年●制作国:アメリカ●監督:ジャック・クレイトン●製作:オデヴィッド・メリック●脚本:フランシス・フォード・コッポラ●撮影:ダグラス・スローカム●音楽:ネルソン・リドル●原作:スコット・フィッツジェラルド●時間:144分●出演:ロバート・レッドフォード/ミア・ファロー/ブルース・ダーン/ サム・ウォーターストン/スコット・ウィルソン/ カレン・ブラック/ロイス・チャイルズ/パッツィ・ケンジット/ハワード・ダ・シルバ/ロバーツ・ブロッサム/キャスリン・リー・スコット●日本公開:1974/08●配給:パラマウント映画(評価:★★★☆)

新潮文庫(野崎孝訳)映画タイアップ・カバー(ディカプリオ版)
グレート・ギャツビー 新潮文庫2.jpg華麗なるギャツビー d1.jpg「華麗なるギャツビー」●原題:THE GREAT GATSBY●制作年:2013年●制作国:アメリカ●監督:バズ・ラーマン●製作:ダグラス・ウィック/バズ・ラーマン/ルーシー・フィッシャー/キャサリン・ナップマン/キャサリン・マーティン●脚本:バズ・ラーマン/クレイグ・ピアース●撮影:サイモン・ダガン●音楽:クレイグ・アームストロング●原作:スコット・フィッツジェラルド●時間華麗なるギャツビー 2013 _1.jpg:143分●出演:レオナルド・ディカプリオ/トビー・マグワイア/キャリー・マリガン/ジョエル・エドガートン/アイラ・フィッシャー/ジェイソン・クラーク/エリザベス・デビッキ/ジャック・トンプソン/アミターブ・バッチャン●日本公開:2013/06●配給:ワーナー・ブラザース(評価:★★★)

「華麗なるギャツビー」d版.jpg
  

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文豪が大衆や子供たちに向けて贈ったクリスマス・ストーリー(寓話)。意外とコミカル。

A Christmas Carol (Bantam Classic).jpgクリスマス・カロル 新潮文庫.jpgクリスマス・カロル 新潮文庫.bmp A Christmas Carol.jpg チャールズ・ディケンズ.jpg
"A Christmas Carol (Bantam Classic)"『クリスマス・カロル (新潮文庫)』(村岡花子:訳)

 1843年12月17日に出版された英国の文豪チャールズ・ディケンズ(1812‐1970/享年58)の中編小説。ロンドンの下町近くに事務所を構える商人で、偏屈で人間嫌い、金の亡者であるスクルージは、クリスマス・イブの夜もクリスマスなど自分には関係ないとして、甥のパーティへの誘いも断り事務所にいたが、そこへかつての共同経営者であクリスマス・キャロル 新装版.jpgクリスマス・キャロル (角川文庫).jpgり7年前故人となっていたマーレイの亡霊が現れ、更に3晩続けて3人の幽霊が現れると告げる―。

 物語は吝嗇家のスクルージが3人の幽霊に導かれて自らの過去・現在・未来を見せられるという超自然的な体験を軸に展開し、その描写が、ディケンズらしい社会派リアリズムと、この寓話の特性としてのシュールさが相俟って面白かったです(もともと、マーレイの亡霊が現れるところからシュールであるとともに、時にリアルなホラーになっていて不気味だったりするのだが)。

クリスマス・キャロル (新潮文庫)』['11年/新装版](村岡花子:訳)クリスマス・キャロル (角川文庫)』['20年/越前敏弥:訳]

Scrooge & Scrooge
scrooge2.jpgSCROOGE.jpg また、スクルージと幽霊のやりとりはかなりコミカルであり、頑固で神経質なスクルージのキャラクターは、個人的には、ディズニーのドナルドダックの伯父さんであるスクルージのキャラクターとよく符合したように思います。

 超常体験を通してスクルージは改悛し、自らの価値観が誤っていたことを悟って貧者への思いやりに目覚めるというのも予定調和ですが、この結末から窺えるように、もともとスクルージは悪人ではないわけで、こうしたスクルージという人物の本質を突いたディズニーのキャラクター造型というのもなかなかのものだと思ったりもします(この作品に対しては、スクルージの描き方が漫画的であるという批判もあるようだが、もともと文学というより寓話に近いのでは)。

IMG_20201223_160122.jpg 文豪が大衆や子供たちに向けて贈ったクリスマス・ストーリーということになるのでしょうが(新潮文庫版の翻訳は『赤毛のアン』シリーズの翻訳で知られる村岡花子(1893-1968))、クリスマス・ストーリーの中では最も有名なもので、何度か映画化やミュージカル化もされていています(2020年に越前敏弥氏による新訳『クリスマス・キャロル』が角川文庫より出された。同氏の訳本では、エラリー・クイーンの『Ⅹの悲劇』('09年/角川文庫)『Yの悲劇』('10年/角川文庫)を読んで読みやすかった印象があったため、越前訳『クリスマス・キャロル』も読んでみたが、確かに読みやすかった。読みやすくて、且つ、原作の雰囲気も損なっていないのは立派。「敬体」(です・ます調)も検討したが、最終的には簡潔だと安定感を重視して従来の「常体」(だ・である調)にしたとのこと。「青い鳥文庫」のような児童文庫レーベルではないので、その選択は正しかったのではないか。)
クリスマス・キャロル (角川文庫)』['20年/越前敏弥:訳]

Scrooged (1988)
SCROOGED2.bmp3人のゴースト.jpg 自分が観たのは、話を現代に置き換えたリチャード・ドナー監督、ビル・マーレイ主演の「3人のゴースト」(Scrooged、'88年/米)で(ビル・マーレイは「ゴーストバスタゴーストバスターズ ビル・マーレイ.jpgーズ」('84 年/米)にも主演していて、幽霊繋がり?)、映画では主人公は"金の亡者"ならぬ"視聴率の亡者"であるテレビ局の若社長になっていて、登場する"ゴースト"がタクシー運転手だったり女妖精だったりとバラエティ豊かですが、一応、原作のストーリーは押さえている感じでした。

 但し、こうした古典的寓話を複雑な現代社会に置き換えても、なかなかヒューマンな部分は伝わりにくいという感じもし(主人公が最後に自分の局の番組の中で慈善演説をぶつのも、ややわざとらしい)、マイルス・ディヴィスなど有名人が顔見せ的に画面に登場するなどしていて、映画を作る側も感動させるというより、ひたすら楽しんで(やや開き直って?)作っている感じがしました。

3人のゴースト SCROOGED 1988.jpg「3人のゴースト」●原題:SCROOGED●制作年:1988年●制作国:アメリカ●監督:リチャード・ドナー●製作:アート・リンソン/リチャード・ドナー●製作総指揮:ステファン・J・ロス/●脚本:ミッチ・グレイザー/マイケル・オドノヒュー●撮影:マイケル・チャップマン●音楽:ダニー・エルフマン●原作3人のゴースト SCROOGED 1988 00.jpg:チャールス・ディッケンス「クリスマス・カロル」●時間:101分●出演:ビル・マーレイ/カレン・アレン/ジョン・フォーサイス/ボブキャット・ゴールスウェイト/デビッド・ヨハンセン/キャロル・ケイン/ロバート・ミッチャム/マイケル・J・ポラード/アルフレ・ウッダード/ジョン・グローバー●日本公開:1988/12●配給:パラマウント映画●最初に観た場所:名古屋毎日ホール(88-12-30)(評価:★★☆)●併映:「星の王子ニューヨークへ行く」(ジョン・ランディス)

Disney's クリスマス・キャロル1.jpgDisney's クリスマス・キャロル 56.jpgロバート・ゼメキス (原作:チャールズ・ディケンズ)「Disney's クリスマス・キャロル」 (09年/米) ★★★☆
「Disney's クリスマス・キャロル」●原題:A CHRISTMAS CAROL●制作年:2009年●制作国:アメリカ●監督・脚本:ロバート・ゼメキス●製作:ロバート・ゼメキス/スティーヴ・スターキー/ジャック・ラプケ●撮影:ロバート・プレDisney's クリスマス・キャロル  2009.jpgスリー●音楽:アラン・シルヴェストリ●原作:チャールズ・ディケンズ「クリスマス・キャロル」●時間:97分●出演:ジム・キャリー/ゲイリー・オールドマン/コリン・ファース/ボブ・ホスキンス/ロビン・ライト・ペン/ケイリー・エルウィズ/ダDisney's クリスマス・キャロル2 (1).jpgリル・サバラ/フェイ・マスターソン/レスリー・マンヴィル/モリー・C・クイン●日本公開:2009/11●配給:ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ・ジャパン(評価:★★★☆)

Disney's クリスマス・キャロル [DVD]
 
【1950年文庫化[岩波文庫〕/1950年再文庫化[角川文庫〕/1952年再文庫化・2011年新装版[新潮文庫〕/1969年再文庫化[旺文社文庫〕/1984年再文庫化[講談社青い鳥文庫(『クリスマス・キャロル』)〕/1991年再文庫化[集英社文庫(『クリスマス・キャロル』)〕/2001年再文庫化[岩波少年文庫(『クリスマス・キャロル』)〕/2006年再文庫化[光文社古典新訳文庫(『クリスマス・キャロル』)〕/2013年再文庫化[角川つばさ文庫(『クリスマス・キャロル』)〕/2020年再文庫化[角川文庫(『クリスマス・キャロル』)〕】

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"quick read but strong "。スタインベックに「文学の神様」が宿った時期の作品。

『ハツカネズミと人間』.JPGハツカネズミと人間.jpg 二十日鼠と人間 新潮文庫.jpg  二十日鼠と人間.jpg ジョン・スタインベック.jpg
ハツカネズミと人間 (新潮文庫)』['94年/'53年]/映画「二十日鼠と人間 [DVD]」ジョン・スタインベック(1902-1968)

Of Mice and Men.jpg 小さな家と農場を持ち、そこでウサギを飼い、土地のくれる一番いいものを食べて暮らすこと夢見るジョージとレニーは、共に農場を渡り歩く期間労働者で、ジョージは小柄ながら知恵者、一方のレニーは巨漢だがちょっと頭が鈍いという具合に対照的ながらも、いつも助け合って生きてきた―この2人がある日また新たな農場にたどり着くが、そこには思わぬ悲劇が待ち受けていた―。

 1937年に出版された米国人作家ジョン・スタインベック(John Steinbeck、1902‐1968/享年66)の中編小説で、以前読んだ大門一男訳に対し、入れ替わりで新潮文庫に入った大浦暁生訳は題名の「二十日鼠」の表記がカタカナになっているなどの違いはありますが、文庫で約150ページと再読するにも手頃で、それでいて、初読の際の時の衝撃が甦ってくるものでした(洋書の書評に"quick read but strong "とあったが、まさにその通り)。

『二十日鼠と人間』 .JPG 1930年代の大恐慌時代のカリフォルニア州が舞台なのですが、スタインベック自身の季節労働者として働いた際の経験がベースになっており、寓話的でありながらも細部にリアリティがあるし、ラマ使いの名人で農場労働者のリーダー格のスリムや厩に住む黒人クルックスなど、短い物語の中に極めて印象に残る人物が見事に配置されているように思いました(特にスリム、このキャラクターは渋い!)。

 ラストのジョージの苦渋の行動は、知恵遅れのレニーがいつも問題を起こすための2人で農場を転々としてきた過去の経緯があり、その上で、今度こそはもう手の打ちようがないという判断の末でのことでしょう。

 キャンディという老人が、自らが可愛がっていた老犬の処分を他人に委ね、後で「あの犬は自分で撃てばよかった」と悔いるエピソードが、伏線として効いています。
  
『怒りの葡萄』(1940).jpg怒りの葡萄 ポスター.jpg怒りの葡萄.gif スタインベックはこの作品でその名を知られるようなり、2年後に発表した、旱魃と耕作機械によって土地を奪われた農民たちのカリフォルニアへの旅を描いた『怒りの葡萄』('39年)でピューリツァー賞を受賞しますが、「二十日鼠と人間」「怒りの葡萄」の両方とも映画化されており、「二十日鼠と人間」は'39年と'92年に映画化されていますが、ゲイリー・シニーズが監督・主演した「二十日鼠と人間」('92年)をビデオで観ました。ジョン・フォード監督の「怒りの葡萄」('40年/米)は吉祥寺の「ジャヴ50」で深夜に観ましたが、電車の座席みたいな長椅子の客席に集った客の半分が外国人でした(同劇場でその少し前に「わが谷は緑なりき」('41年/米)を観た時もそうだった)。

 「怒りの葡萄」は、刑務所帰りの貧農の息子をヘンリー・フォンダが好演しており(彼はこの作品で"もの静かに不正に向かって闘う男"というイメージを確立)、母親とまた別れなければならないという結末のやるせなさが「Red River Valley」のテーマと共に心に残りましたが、アメリカ人は、こうした作品に日本人以上に郷愁を感じるのでしょう(個人的には、小津安二郎や山田洋次の家族モノに通じるものを感じたりもしたのだが)。

EAST OF EDEN 1955 dvd.bmpエデンの東ポスター.jpgEast of Eden.jpg ジェームズ・ディーンがその演技への評価を確立したとされるエリア・カザン監督の「エデンの東」('55年)も、スタインベックの『エデンの東』('50年)がベースになっているのですが、原作が南北戦争から第1次世界大戦までの60年間の2つの家族の3代にわたる歴史を綴った4巻56章から成る膨大な物語であるのに対し、映画の中で描かれているのは最後のほんの一時期のみで1家族2世代の話に圧縮されており、実質的には、父に好かれたいがそれが叶わないケイレブ(キャル)・トラスク (ジェームズ・ディーン)の苦悩の物語となっています。「エデンの東」の原作は読んでいませんが、スタインベックは後期作品ほど大味の嫌いがあるらしく(エリア・カザンの翻案は当然の選択だったのだろう)、そうした意味では『二十日鼠と人間』は、スタインベックに「文学の神様」が宿った時期の作品であると言えるかと思います。

二十日鼠と人間(1992)es.jpg「二十日鼠と人間」●原題:OF MICE AND MEN●制作年:1992年●制作国:アメリカ●監督:ゲイリー・シニーズ●製作:ゲイリー・シニーズ /ラス・スミス●脚本:ホートン・フート●撮影:ケネス・マクミラン●音楽:マーク・アイシャム●原作:ジョン・スタインベック●時間:115分●出演:ゲイリー・シニーズ/ジョン・マルコヴィッチ/レイ・ウォルストン/シェリリン・フェン/ジョー・モートン/アレクシス・アークエット/ジョン・テリー/モイラ・ハリス●日本公開:1992/12●配給:MGM映画=UIP(評価:★★★★)
【2608】 ○ ゲイリー・シニーズ 「二十日鼠と人間」 (92年/米) (1992/12 MGM映画=UIP) ★★★★

「怒りの葡萄」ポスター(和田 誠
THE GRAPES OF WRATH 1940.jpg怒りの葡萄 和田誠ポスター1.jpg「怒りの葡萄」●原題:THE GRAPES OF WRATH●制作年:1940年●制作国:アメリカ●監督:ジョン・フォード●製作:ダリル・F・ザナック●脚本:ナナリー・ジョンソン●撮影:グレッグ・トーランド●音楽:アルフレッド・ニューマン●原作:ジョン・スタインベック●時間:128分●出演:ヘンリー・フォンダ/ジェーン・ダーウェル/ジョン・キャラダイン/チャーリー・グレイプウィン/ドリス・ボードン/ラッセル・シンプソン/メエ・マーシュ/ウォード・ボンド●日本公開:1963/01●配給:昭映フィルム●最初に観た場所:吉祥寺ジャヴ50(84-07-14)(評価:★★★★)  
「エデンの東」 公開時ポスター/1977年公開時チラシ
east of eden  1955.jpg「エデンの東」ps.jpgエデンの東 1977年公開時チラシ.bmp「エデンの東」●原題:EAST OF EDEN●制作年:1955年●制作国:アメリカ●監督・製作:エリア・カザン●脚本:ポール・オスボーン●撮影:テッド・マッコード●音楽:レナード・ローゼンマン●原作:ジョン・スタインベック●時間:115分●出演:ジェームズ・ディーン/ジュリー・ハリス/レイモンド・マッセイ/バール・アイヴス/リチャード・ダヴァロス/ジュー・ヴェン・フリート/エデンの東<サントラ盤>.jpgEAST OF EDEN3.jpgアルバート・デッカー/ロイス・スミス/バール・アイヴス●日本公開:1955/10●配給:ワーナジュリー・ハリス_3.jpgー・ブラザース●最初に観た場所:池袋文芸坐(79-02-18)●2回目:テアトル吉祥寺(82-09-23)(評価:★★★★)●併映(1回目):「理由なき反抗」(ニコラス・レイ)●併映(2回目):「ウェストサイド物語」(ロバート・ワイズ)

Julie Harris(1925-2013)
           
"Of Mice and Men" from Iron Age Theatre(舞台劇「二十日鼠と人間」)
Of Mice and Men 1.jpgOf Mice and Men 3.jpg【1952年文庫化[三笠文庫(大門一男:訳)]/1953年文庫化[新潮文庫(大門一男:訳)]/1955年文庫化[河出文庫(石川信夫:訳)]/1960年文庫化[角川文庫(杉木喬:訳)]/1970年文庫化[旺文社文庫(繁尾久:訳)]/1994年再文庫化[新潮文庫(『ハツカネズミと人間』(大浦暁生;訳)]】

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従来の文学作品の類型の何れにも属さず、かつ小説的濃密さを持つムルソーの人物造型。

異邦人 単行本(1951).jpg 異邦人 1984.jpg 異邦人1.jpg 異邦人 1999.jpg   異邦人ポスター.jpg
異邦人 (新潮文庫)』['84年]['99年]/企画タイアップカバー['09年]映画「異邦人」(1967)ポスター
単行本['51年/新潮社]
異邦人 新潮文庫 1.jpgAlbert Camus.jpg 1942年6月に刊行されたアルベール・カミュ(Albert Camus、1913‐1960/享年46)の人間社会の不条理を描いたとされる作品で、「きょう、ママンが死んだ」で始まる窪田啓作訳(新潮文庫版)は読み易く、経年疲労しない名訳と言えるかも(新潮社が仏・ガリマール社の版権を独占しているため、他社から新訳が出ないという状況はあるが)。

Albert Camus
異邦人 (新潮文庫)』['54年]

 養老院に預けていた母の葬式に参加した主人公の「私」は、涙を流すことも特に感情を露わにすることもしなかった―そのことが、彼が後に起こす、殆ど出会い頭の事故のような殺人事件の裁判での彼の立場を悪くし、加えて、葬式の次の日の休みに、遊びに出た先で出会った旧知の女性と情事にふけるなどしたことが判事の心証を悪くして、彼は断頭台による死刑を宣告される―。

L'Etranger.png 仏・ガリマール社からの刊行時カミュは29歳でしたが、この小説が実際に執筆されたのは26歳から27歳にかけてであり(若い!)、アルジェリアで育ちパリ中央文壇から遠い所にいたために認知されるまでに若干タイムラグがあったということでしょうか。但し、この作品がフランスで刊行されるや大きな反響を呼び、確かに、自分の生死が懸かった裁判を他人事のように感じ、最後には、「私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけ」を望むようになるムルソーという人物の造型は、それまでの文学作品の登場人物の類型の何れにも属さないものだと言えるのでは。1957年、カミュが43歳の若さでノーベル文学賞を受賞したのは、この作品によるところが大きいと言われています。

Gallimard版(1982)

 カフカ的不条理とも異なり、第一ムルソーは自らの欲望に逆らわず行動する男であり(ムルソーにはモデルがいるそうだが、この小説の執筆期間中、カミュ自身が2人の女性と共同生活を送っていたというのは小説とやや似たシチュエーションか)、また、公判中に自分がインテリであると思われていることに彼自身は違和感を覚えており(カミュ自身、自らが実存主義者と見られることを拒んだ)、最後の自らの死に向けての"積極"姿勢などは、むしろカフカの"不安感"などとは真逆とも言えます。

サルトル .jpg サルトルは「不条理の光に照らしてみても、その光の及ばない固有の曖昧さをムルソーは保っている」とし、これがムルソーの人物造型において小説的濃密さを高めているとしていますが、このことは、『嘔吐』でマロニエの樹を見て気分が悪くなるロカンタンという主人公の"小説的濃密さ"の欠如を認めているようにも思えなくもないものの、『嘔吐』と比較をしないまでも、第1部の殺人事件が起きるまでと第2部の裁判場面の呼応関係など、小説としてよく出来ているように思いました。
 
The Stranger 1967.jpg異邦人QP.jpg ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti、1906‐1976/享年69)監督がマルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni、1924‐1996/享年72)を主演としてこの『異邦人』を映画にしていますが('67年)、テーマがテーマである上に、小説の殆どはムルソーの内的独白(それも、だらだらしたものでなく、ハードボイルドチックな)とでも言うべきもので占められていて、情景描写などはかなり削ぎ落とされており(アルジェリアの養老院ってどんなのだTHE STRANGER (LO STRANIERO)s.jpgろうか、殆ど情景描写がない)、映画にするのは難しい作品であるという気がしなくもありませんでした。それでもルキノ・ヴィスコンティ監督は果敢に映像化を試みており、当初映画化を拒み続けていたカミュ夫人が原作に忠実に作ることを条件として要求したこともありますが、文庫本に置き換異邦人パンフレット.jpgえるとほぼ1ページも飛ばすことなく映像化していると言えます。第2部の裁判描写はともかく、第1部での主人公とさまざまな登場人物とのやりとりが第2部の裁判場面の伏線となっている面もあり、その第1部のさまざまな場面状況が具体的に掴めるのが有難いです(そう言えばこの作品、かつて日本語吹き替え版がテレビ放映されたこともあるのに、なぜかDVD化されていないなあ)。

映画プレミアパンフレット 「異邦人(A4/紺背景版)」 監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ/アンナ・カリーナ/ベルナール・ブリエ/ジョルジュ・ウィルソン/ブルノ・クレメール/ピエール・バルタン/ジャック・エラン/マルク・ローラン/ジョルジュ・ジレー

The Stranger 1967  2.jpgルキノ・ヴィスコンティ監督の『異邦人』.jpg 松岡正剛氏はこの映画を観て、ヴィスコンティはムルソーを「ゲームに参加しない男」として描ききったなという感想を持ったそうで、これは言い得ているのではないかという気がします。原作にも、「被告席の腰掛の上でさえも、自分についての話を聞くのは、やっぱり興味深いものだ」という、主人公の冷めた心理描写があります。一方で、ラストのムルソーの司祭とのやりとりを通して感じられる彼の「抵抗」とその根拠みたいなものは映画ではやや伝わってきにくかったように思われ、映像化することで抜け落ちてしまう部分はどうしてもあるような気がしました。だだ、そのことを考慮しても、ルキノ・ヴィスコンティ監督の挑戦は一定の評価を得てもいいのではないかとも思いました。

映画異邦人2.jpg この世の全てのものを虚しく感じるムルソーは、自らが処刑されることにそうした虚しさからの自己の解放を見出したともとれますが、ああ、やっぱり死刑はイヤだなあとか単純に思ったりして...(小説は獄中での主人公の決意にも似た思いで終わっている)。ムルソーが母親の葬儀の翌日に女友達と海へ水遊びに行ったのは、彼が養老院の遺体安置所の「死」の雰囲気から抜け出し、自らの心身に「生」の息吹を獲り込もうとした所為であるという見方があるようです。映画を観ると、その見方がすんなり受け入れられるように思いました。

映画「異邦人(Lo straniero)」より

lo_straniero1.jpg ママンの出棺を見るムルソー(マルチェロ・マストロヤンニ)
lo_straniero2.jpg 葬儀の翌日、海辺で女友達(アンナ・カリーナ)に声をかける
lo_straniero3.jpg アラブ人達と共同房にて(死刑確定後は独房に移される)

映画 異邦人.jpg映画 「異邦人」.jpg異邦人 .jpg「異邦人」●原題:THE STRANGER (LO STRANIERO/L'ÉTRANGER)●制作年:1967年●制作国:イタリア・フランス・アルジェリア●監督:ルキノ・ヴィスコンティ●製作:ディノ・デ・ラウレンティス●脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ/エマニュエル・ロブレー/ジョルジュ・コンション●撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ●音楽:ピエロ・ピッチオーニ●原作:アルベール・カミュ「異邦人」●時間:104分●出演:マルチェロ・マストロヤンニ(ムルソー)/アンナ・カリーナ(マリー・カルドナ)/映画チラシ 「異邦人」 岩波シネサロン 8.jpg映画チラシ 「異邦人」 岩波シネサロン 1.jpgジョルジュ・ウイルソン(予審判事)/ベルナール・ブリエ(弁護人)/ジャック・エルラン(養老院の院長)/ジョルジェ・ジュレ(レイモン)/ジャン・ピエール・ゾラ(事務所の所長)/ブリュノ・クレメール(神父)/アルフレード・アダン(検事)/アンジェラ・ルーチェ(マッソン夫人)/ミンモ・パルマラ(マッソン)/ヴィットリオ・ドォーゼ(弁護士)●日本公開:1968/09●配給:岩波ホールビル.jpgパラマウント●最初に観た場所:岩波シネサロン(80-07-13)●2回目:池袋文芸座ル・ピリエ(81-06-06)(評価:★★★★)●併映(2回目):「処女の泉」(イングマル・ベルイマン)
岩波シネサロン(岩波ホール9F)

「岩波ホール」閉館(2022.7.29)
「岩波ホール」閉館.jpg

Ihôjin (1967)
Ihôjin (1967).jpg
IMG_4920.JPG異邦人 新潮文庫.jpg   
    
新潮文庫 旧版・新装版
 
 【1954年文庫化[新潮文庫〕】

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何時か確実に訪れる自らの「死」を想起させる。黒澤明に「生きる」を着想させた作品。

イワン・イリッチの死4.jpgイワン・イリッチの死_iwan.jpg イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ.jpg  Ikiru(1952).jpg Ikiru(1952)   
イワン・イリッチの死 (岩波文庫)』 米川正夫:訳 ['34年/'73年改版] 『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ (光文社古典新訳文庫)』 望月哲男:訳 ['06年] 

The Death of Ivan Ilyich.jpgレフ・ニコライビッチ・トルストイ.jpg レフ・ニコライビッチ・トルストイ(1828‐1910/享年82IMG_3146.JPGの中篇小説。45歳の裁判官が不治の病に罹り、肉体的にも精神的にも耐え難い苦痛を味わいながら着実に「死」に向かっていく、その3カ月間の心理的葛藤を、今まで世俗的な価値に固執し一定の栄達を得た自らの人生に対する、それがいかに無意味なものであったかという価値観の転倒からくる混乱と絶望、周囲から哀れみの眼差しを浴びながらも、あたかも自分の死が「予定調和」乃至は「ちょっとした不意の出来事」のように受け取られていることへの苛立ち、そして死の直前の苦悶と周囲への思いやりにも似た「回心」に至るまでを、まさに描き難いものを描き切ったと言える作品です。
                         
生きる 映画.jpg「生きる」1952.jpg生きる 志村喬 伊藤雄之助.jpg 1886年3月、文豪57歳の時に完成した作品ですが、1881年に実在のある裁判官の死に接して想を得たもので、主人公の葬儀とその世俗的な生涯の振り返りから始まるこの作品は、黒澤明監督の「生きる」生きるA.jpg主人公が役人である点が似ており、また映画「生きる」も、『イワン・イリッチの死』のように主人公の葬儀の場面から始まるわけではないですが、物語の後半はほとんど主人公の葬儀(通夜)の場面であり、役所の同僚たちが生前の主人公についてのエピソード語ったりしており(その都度回想シーンが挿入される)、黒澤はこの作品から「生きる」を着想したとされています。映画関連のデータベースでは、「生きる」の原作としてこの小説が記されているものがありましたが、実際のクレジットはどうだったでしょうか。最初観た時は評価★★★★でしたが、後にテレビなどで観直したりして★★★★☆に評価修正しました(2024年1月8日のなぜか「成人の日」にNHK総合で放映されたのを再々見。自分がこの作品が重くのしかかってくる年齢になったのかということを改めて実感させられた。)
「生きる」NHK.jpg                               
『生きる』.jpg 映画は映画で独立した傑作であり(第4回ベルリン国際映画祭「市政府特別賞」受賞、第26回キネマ旬報ベスト・テン第1位)、トルストイのイワン・イリッチの死』が「原作」であるというより、この作品を「翻案」したという感じに近いかもしれません(或いは、単にそこから着想を得たというだけとも言える。伊藤雄之助が演じた無頼派作家に該当しそうな人物なども『イワン・イリッチの死』には登場しないし)。

「生きる」(1952・東宝/出演:志村喬/伊藤雄之助)

 作品テーマから捉えても、「生きる」が残された時間をどう生きるかがテーマであったのに比べ(と言うと、たいへん重い映画のように思われがちだが、志村僑と小田切みきのやり取りなどにおいて意外とコミカルな場面が多かったりする)、このトルストイ作品は、自らの死をどう受け入れるかが大きなテーマになっているように思います。

   
iイワン・イリイチの死7.jpgThe Death of Ivan Ilyich6.jpg 『イワン・イリッチの死』の主人公イワン・イリッチは、「カイウスは人間である、人間は死すべきものである、従ってカイウスは死すべきものである」という命題の正しさを信じながらも、「自分はカイウスではない」とし、死を受け入れられないでいます。一見、バカバカしいように思われますが、一歩引いて考えると、ほとんどの人がこれに近い感覚を持ち合わせているような気もします。

 彼を最も苦しめるのは、「ただ病気しているだけで、死にかかっているわけではなく、落ち着いて養生していれば治る」という「(彼をとりまく家族など)一同に承認せられた嘘」であり、それは皮肉にも彼自身が生涯奉仕してきた「礼儀」というものからくるものですが、その「嘘」に自分も加担させられていることに彼は苛立つわけです。

『イワン・イリッチの死』.JPG この作品は読む者に、日常の雑事により隠蔽されている、但し何時か確実に訪れる自らの「死」を想い起こさせるものであり、ある意味、怖いと言うか、向き合うのが苦痛に感じる面もありますが、一方で、文庫で僅か100ページ、「メメント・モリ」をテーマとしたものとしては、比較的手に取り易い、ある種"テキスト"的作品であるようにも思います。

 周囲との断絶に苦しむ主人公は、死の直前、自分の今の存在こそが周囲を苦しめており、そこから周囲を解き放つことによって自分も楽になると感じる。その時、そこには「死は無かった」―。

 死は生の側にあり、死自体は無であるということを如実に示す実存的作品であり、訳者の米川正夫(1891‐1965)はドストエフスキー作品の翻訳でも知られた人、最近刊行された光文社古典新訳文庫でも、ドストエフスキーが"専門"である望月哲男氏が翻訳にあたっています。

 尚、望月氏もそうですが、『新潮世界文学20-トルストイ5』('71年)の中で本作品を訳している工藤精一郎氏も主人公の名前を「イワン・イリイチ」としており、通常ロシア人の名前を日本語で表す際の慣例に従えば「イリッチ」となるのかもしれませんが、韻を踏むことで主人公の規則的な「役人」人生を表象しているらしく、その点からすれば、この作品においては「イリッチ」より「イリイチ」の方が相応しいのかもしれません。
      
生きる2.jpg「生きる」●制作年:1952年●製作:本木莊二郎 ●監督:黒澤明●脚本:黒澤明/橋本忍小国英雄●撮影:中井朝一●音楽:早生きる パンフ.bmp坂文雄●原作:生きる 加東.jpgレフ・トルストイ「イワン・イリッチの死」●時間:143分●出演:ikiru03.jpgikiru04.jpgikiru05.jpg志村喬小田切みき/金子信雄/関京子/浦辺粂子/菅井きん宮口精二 生きる.jpgIMG_生きる 宮口.jpg/丹阿弥谷津子/田中春男/千秋実/左ト全/藤原釜足/中村伸郎/渡辺篤/木村功/伊藤雄之助/清水将夫/南美江/加東大介/山田巳之助/阿部九洲男宮口精二河崎堅男/勝本圭一郎/鈴木治夫/今井和雄/加藤茂雄/安芸津広/長濱藤夫/川越一平/津田光男/榊田敬二/熊谷二良/片桐常雄/田中春男/日守新一/(以下、特別出演)市村俊幸(ジャズバー・ピアニスト)/倉本春枝(ジャズバ「生きる」中村伸郎.jpg「生きる」阿部九洲男.jpgー・ダンサー)/ラサ・サヤ(ストリップ・ダンサー)●公開:1952/10●配給:東宝●最初に観た場所:大井武蔵野館 (85-02-24)(評価★★★★☆)●併映「隠し砦の三悪人」(黒澤明)

中村伸郎(市役所助役)/阿部九州男(市会議員)
  
菅井きん(1926-2018/享年92)(陳情の主婦)/小田切みき(1930-2006/享年76)(小田切とよ)
菅井きん(陳情の主婦).jpg 黒澤 生きる 小田切みき.jpg                                                                                                      
 
志村喬/ラサ・サヤ
生きる ラサ・サヤ.jpg
                                
大井武蔵野館 閉館日2.jpg大井武蔵野館 閉館日.jpg大井武蔵野館.jpg「大井武蔵野館」ぼうすの小部屋 - おでかけ写真展より(左写真)

大井武蔵野館 1999(平成11)年1月31日閉館(右写真・最終日の大井武蔵野館) 

大井武蔵野館・大井ロマン(1985年8月/佐藤 宗睦 氏)
大井武蔵野館・大井ロマン.jpg大井武蔵野館2.jpg

 【1934年文庫化・1973年改定[岩波文庫(米川正夫訳)〕/2006年再文庫化[光文社古典新訳文庫(望月哲男訳『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』)〕】

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下層社会に暮らす少年の鬱屈と抵抗を、自体験に近いところで描くリアリティ。

『長距離走者の孤独』  .JPG長距離走者の孤独.jpg  長距離ランナーの孤独.jpg Alan Sillitoe.jpg Alan Sillitoe
長距離走者の孤独 (新潮文庫)』/映画「長距ランナーの孤独」('62年)
カバー:池田満寿夫

「長距離走者の孤独」.jpg 新潮文庫版は、1958年に発表された「長距離走者の孤独」(The Loneliness of the Long Distance Runner)をはじめ、アラン・シリトー(Alan Sillitoe、1928‐2010の8編の中短編を収めていますが、貧しい家庭で育ち、盗みを働いて感化院に送られた少年の独白体で綴られた表題作が、内容的にも表現的にも群を抜いています。

 アラン・シリトーにはこの他にも、『土曜の夜と日曜の朝』といった代表作がありますが、それらと比べても印象に残LonelinessLongRunner.jpg長距離ランナーの孤独1.jpgっているし、トニー・リチャードソン(Tony Richardson、1928-1991)監督の映画化作品「長距離ランナーの孤独」('62年/英)も有名です。主人公を演じたのはトム・コートネイで、舞台出身ですが、映画はこの作品が実質初出演で初主演でした(後に、「魚が出てきた日」('67年)、「イワン・デニーソヴィチの一日」('74年)などで主演することになる)。

"Loneliness of Long Distance Runner" (1962/UK)/日本版VHS(絶版)

 もともと原作が手記形式なので、映画で主人公が長距離走において遅れてゴールした後ニヤリと笑うなど、映像での表現上やや説明的にならざるを得ないのはいたし方ないか(原作では、他人からは泣きそうになっているように見えるだろうが、実はこれ、"勝利の嬉し泣き"をこらえていたのだ、ということになっている。映画脚本はシリトー自身)。

ホテル・ニューハンプシャー 1.jpgホテル・ニューハンプシャー 0.jpg トニー・リチャードソンは、文芸作品の映画化の名手で、ジョン・アーヴィング原作の映画化作品「ホテル・ニューハンプシャー」('84年/米・英・カナダ) もこの監督によるものであり、これはホテルを経営する家族の物語ですが、ジョディーフォスター、ロブ・ロウ、ナスターシャ・キンスキーという取り合わせが今思ホテル・ニューハンプシャー 01.jpgえば豪華。少なくとも1人(J・フォスター演じるフラニー)乃至2人(N・キンスキー演じる"熊のスージー")の女性登場人物がレイプされて心の傷を負っており、また家族が次々と死んでいく話なのに、観終わった印象は暗くないという、不思議な映画でした(「ガープの世界」もそうだが、ジョン・アーヴィング作品の登場人物は、何かにつけてモーレツと言うか極端な人が多い)。

マドモアゼル [DVD]」Tony Richardson
マドモアゼル DVD2.jpgトニー・リチャードソン.jpg トニー・リチャードソンは、女優のヴァネッサ・レッドグレイヴと結婚し、2人の娘がいましたが、ジャン・ジュネ原案で、「二十四時間の情事」('59年/日・仏)、「かくも長き不在」('61年/仏)の原作者でもあるマルグリット・デュラス原作の「マドモアゼル」('66年/仏)の撮影でジャンヌ・モローと恋に落ち、1967年にレッドグレイヴと離婚しています。彼はバイセクシュアルで、1991年、エイズによる合併症のため亡くなっていますが、その死を看取ったのはジャンヌ・モローでした。シーラ・ディレーニーの『蜜の味』などの文芸作品も映画化していますが、「マドモアゼル」の翌年に撮られたマルグリット・デュラス原作の「ジブラルタルの追想」('67年/英)と、ウラジミール・ナボコフが原作の「悪魔のような恋人」('69年/英)を名画座ジブラルタルの追想2.pngで二本立てで観ました。

映画プレスシート/ジャンヌ・モロー「ジブラルタルの追想」

「ジブラルタルの追想」.jpgジャンヌ・モロー2.png マルグリット・デュラスTHE SAILOR FROM GIBRALTAR PERFORMER.jpg原作の「ジブラルタルの追想」は、イタリア旅行中の青年がジブラルタルででアンナ(ジャンヌ・モロー)という女性と出会い、アランの方は彼女を真剣に愛し始めるが、アンナは楽しさだけでアランに身を任せている印象で、そんなジブラルタルの追想o.jpg折、アンナの行方知らずとなっていた恋人が現われたというニュースが飛び込んでくる-というストーリー。一部ミュージカル仕立てで、唄っているジャンヌ・モローが綺麗ですが映画自体は凡庸で(あくまでも個人的印象であって、女性映画の傑作とする人もいる)、やはり文学作品を映画化してその本質を損なわないようにするのは往々にして難しいのかと思いました(因みにジブラルタルはヨーロッパ大陸で唯一今も残る英国植民地で、ここからアフリカ大陸が見渡せるが、自分が旅行した頃は軍事基地があるという理由で近づけなかった。但し、今は観光地化して旅行者に比較的オープンになっている。アフリカ大陸はジブラルタルの手前からでも見渡せた)。
映画プレスシート ジャンヌ・モロー「ジブラルタルの追想」」 ('67年/英)

映画プレスシート/アンナ・カリーナ「悪魔のような恋人」
悪魔のような恋人3.jpg悪魔のような恋人9.jpg「悪魔のような恋人」 vhs.png 一方、ナボコフ原作の「悪魔のような恋人」は、金持ちの画商が小悪のような少「悪魔のような恋人」 カリーナ.jpg 女に破滅させられていく話なのですが、アンナ・カリーナの蠱惑的魅力を十分に引き出して佳作に仕上げており(この作品のアンナ・カリーナが演じる女性はかなり残忍でもある)、「ホテル・ニューハンプシャー」の成功に繋がる"文芸監督"の素地がこの頃からあったと―。

Alan Sillitoe
Alan Sillitoe2.jpg アラン・シリトー原作の『長距離走者の孤独』のストーリー自体はシンプルで、書けば"ネタばれ"になってしまうのですが(もう一部書いてしまったが、と言っても、広く知られているラストだが)、ラスト以外でのこの作品の優れた点は、主人公の少年コリンが友人と共にパン屋に強盗に入ったために捕まる場面で、刑事が自宅に捜索に来た時の主人公の心理などは、作者の体験談ではないかと思われるぐらい目いっぱいの臨場感があります。

 アラン・シリトーは、50年代に登場し偽善的な体制や権力者を糾弾した《怒れる若者たち》と呼ばれる作家グループの1人ですが、このグループに属するとされる『怒りをこめてふりかえれ』のジョン・オズボーンや『急いで駆け降りよ』のジョン・ウェインなどは、概ね一流大学出身で大学に教職を得た知識人であるのに対し、シリトーは、工場労働者の家庭の出身で、自らも熟練工員でした。

 結局、《怒れる若者たち》の作家達の作品群で、今世紀になっても最も読み継がれている作品を1つ挙げるとすれば『長距離走者の孤独』になるわけで、その理由として、シンプルだが象徴的な結末と併せて、下層社会に暮らす少年の鬱屈と抵抗を、自らの体験に近いところで描いていることからくるリアリティが挙げられるのではないかと思います。

長距離ランナーの孤独  .jpg「長距離ランナーの孤独」.jpg「長距離ランナーの孤独」●原題:THE LONELINESS OF THE LONG DISTANCE RUNNER●制作年:1962年●制作国:イギリス●監督・製作:トニー・リチャードソン●脚本:スタンリー・ワイザー/アラン・シリトー●撮影:ウォルター・ラサリー●音楽:ジョン・アディソン●原作:アラン・シリトー●時間:104分●出演:トム・コートネイ/マイケル・レッドグレイヴ/ピーター・マッデン/ウィリアム・フォックス/トプシー・ジェーン/ジュリア・フォスター/フランク・フィンレイ●日本公開:1964/06●配給:昭映(評価:★★★)

イワン・デニーソヴィチの一日0.jpgイワン・デニーソヴィチの一日 チラシ.jpg「イワン・デニーソヴィチの一日」●原題:ONE DAY IN THE LIFE OF IWAN DENISOVICH●制作年:1971年●制作国:イギリス●製作・監督:キャスパー・リード●音楽:アーン・ノーディム●原作:アレクサンドル・ソルジェニーツィン●時間:100分●出演:トム・コートネイ/アルフレッド・バーク/ジェームズ・マックスウェル/エリック・トンプソン/エスペン・スクジョンバーグ●日本公開:1974/06●配給:NCC●最初に観た場所:池袋文芸坐(79-11-16) (評価★★★)●併映「エゴール・ブルイチョフ」(セルゲイ・ソロビヨフ)

「魚が出てきた日」●原題:THE DAY THE FISH COME OUT●制作年:1967年●制作国:アメリカ●監督・製作・脚本:マイケル・カコヤニス●撮影:ウォルター・ラサリー●音楽:ミキス・テオドラキス●時魚が出てきた日ps3.jpgTHE DAY THE FISH COME OUT 1967 .jpgキャンディス・バーゲンM23.jpg間:110分●出演:トム・コートネイキャンディス・バーゲン/サム・ワナメーカー/コリン・ブレークリー/アイヴァン・オグルヴィ/ディミトリス・ニコライデス/ニコラス・アレクション●日本公開:1968/06●配給:20世紀フォックス●最初に観た場所:中野武蔵野館(78-02-24)(評価:★★★☆)●併映:「地球に落ちてきた男」(ニコラス・ローグ)

ホテル・ニューハンプシャー dvd.jpgホテル・ニューハンプシャー02.jpg「ホテル・ニューハンプシャー」●原題:THE HOTEL NEW HAMPSHIRE●制作年:1984年●制作国:アメリカ・イギリス・カナダ●監督:トニー・リチャードソン●製作:ニール・ハートレイ/ピーター・クルーネンバーグ/デヴィッド・J・パターソン●脚本:トニー・リチャードソン●撮影:デイヴィッド・ワトキン●音楽:レイモンド・レッパード●原作:ジョン・アーヴィング「ホテル・ニューハンプシャー」●時間:109分●出演:ジョディーフォスタ/ロブ・ロウ/ボー・ブリッジス/ナスターシャ・キンスキー/フィルフォード・ブリムリー/ポール・マクレーン/マシュー・モディン●日本公開:1986/07●配給:松竹富士●最初に観た場所:三軒茶屋東映(87-01-25)(評価:★★★★)●併映:「プレンティ」(フレッド・スケピシ)ホテル・ニューハンプシャー [DVD]

ジブラルタルの追想ド.jpgジブラルタルの追想-orson-welles-ジブラルタルの追想.jpg「ジブラルタルの追想」●原題:THE SAILOR FROM GIBRALTAR●制作年:1967年●制作国:イギリス●監督:トニー・リチャードソン●製作:オスカー・リュウェンスティン●脚本:クリストファー・イシャーウッド/ドン・マグナー/トニー・リチャードソン●撮影:ラウール・クタール●音楽:アントワーヌ・デュアメル●原ジブラルタルの水夫 (ハヤカワ文庫 NV 16).jpgジブラルタルの水夫.jpg作:マルグリット・デュラス「ジブラルタルから来た水夫(ジブラルタルの水夫)」●時間:90分●出演:ジャンヌ・モロー/イアン・バネン/オーソン・ウェルズ/ヴァネッサ・レッドグレーヴ●日本公開:1967/11●配給:ユナイテッド・アーチスツ●最初に観た場所:大塚名画座(78-12-12)(評価:★★☆)●併映:「悪魔のような恋人」(トニー・リチャードソン)
    
ジブラルタルの水夫 (ハヤカワ文庫 NV 16)』『ジブラルタルの水夫』[Kindle版]

「悪魔のような恋人」●原題:LAUGHTER IN THE DARK●制作年:1969年●制作国:イギリス●監督:トニー・リチャードソン●製作:ニール・ハートリー/エリオット・カストナー●脚本:エドワード・ボンド●撮影:ディック・ブッシュ●音楽:レイモンド・レパード●原作:ウラジミール・ナボコフ「欲望」●時間:104分●出演:ニコル・ウィリアムソ悪魔のような恋人8.jpgLaughter in the Dark2.jpgン/アンナ・カリーナジャン=クロード・ドルオ/ピーター・ボウルズ/シアン・フィリップス/セバスチャン・ブレイク/ケイト・オトゥール/エドワード・ガードナー/シーラ・バーレル/ウィロビー・ゴダード/バジル・ディグナム/フィリッパ・ウルクハート(●日本公開:1969/05●配給:ユナイテッド・アーチスツ●最初に観た場所:大塚名画座(78-12-12)(評価:★★★★)●併映:「ジブラルタルの追想」(トニー・リチャードソ大塚駅付近.jpg大塚名画座 予定表.jpg大塚名画座4.jpg大塚名画座.jpgン)
大塚名画座(鈴本キネマ)(大塚名画座のあった上階は現在は居酒屋「さくら水産」) 1987(昭和62)年6月14日閉館


『長距離走者の孤独』.JPG【1973年文庫化[新潮文庫]/1978年再文庫化[集英社文庫]】

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死刑制度の非道・不合理を訴えた「序」の方が、ストレートに響いた気もする。

死刑囚最後の日』.jpg死刑囚最後の日.gif 「死刑囚最後の日」.jpg 死刑囚最後の日 (光文社古典新訳文庫 ).jpg Victor Hugo.jpg
死刑囚最後の日 (岩波文庫 赤 531-8)』['82年改版]/ 電子書籍版 (グーテンベルク21/斎藤正直:訳)/死刑囚最後の日 (光文社古典新訳文庫 Aユ 1-1)』['18年](小倉孝誠:訳)/Victor Hugo(1802-1885)

LE DERNIER JOUR D'UN CONDAMNE.jpg 1829年2月に"著者名無し"で刊行されたヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)の小説で、ある男が死刑判決を受け、それが執行されるまでの心境を、男の告白という形式でドキュメンタリー風に綴ったもの。文庫で170ページほどの薄い本ですが、内容はテーマ通りに重いものです。
 裁判の時は、男は弁護士が求めた終身刑になるぐらいなら死刑の方がマシだと考えていたのが、死刑執行が迫るにつれ終身刑でもいいからと赦免を望むようになり、ギロチン刑による処刑の直前には、僅か5分間の執行猶予さえ求めるようになる―。

 当時の監獄や徒刑囚、死刑執行の様子などがよくわかりますが、留置されている場所からパリ市中を通ってグレーブの刑場へ行き、そこで公開処刑されるというのは、日本の江戸時代の市中引き回しと似ていると思いました。

"Le dernier jour d'un condamné"

The Last Day of a Condemned Man.jpg 監獄で鎖に繋がれながらもインキと紙とペンを与えられ、それにより自らの精神的苦悶を記したという設定ですが、表題通り、処刑当日の朝から午後4時の執行までの男の心境が作品の大部を占め、この部分は「手記」としてではなく、小説としての「独白」でしか成立し得ないわけで、この点がちょっと引っ掛かりました。

 娘や家族との最後の別れに絶望したりしながらも、全体のトーンとしては、意外と男が冷静に周囲を観察し、また周囲の人と話しているような気がして、こんなに冷静でいられるものかなあとも(自分が、今日の夕方にはこの世からいなくなるということが実感できないでいる様子ともとれるが)。

 但し、この作品以前には、こうした死刑囚の心理に深く触れた文学というのは無かったわけで、ドストエフスキーなどもこの作品を自らの創作の参考にしたらしいです(尤も、ドストエフスキー自身が死刑宣告を受け、執行の直前までいった経験の持ち主だったわけだが)。

The Last Day of a Condemned Man

 ヴィクトル・ユーゴーはこの作品の執筆当時26歳で、この時既にロマン派の詩人・作家としての名声を得ていましたが、この作品には死刑廃止論(死刑慎重論)という彼の政治的・社会的思想が込められており、但し、その考え方が世論に受け入れられるかどうかを見るために、「文学」という形式をとり、且つ匿名で発表したとのこと。

 世評の支持を得たとして、本編刊行の3年後に、実名を公表して添えた長めの序文(本編の後に付されている)の方は、死刑執行の残虐さ・非道を事例でリアルに伝える一方で、「社会共同体からの排除」「社会的復讐」「見せしめ・訓育」などの死刑制度擁護論の論拠を理路整然と論破し、死刑制度の不合理を「切実」且つ「現実論的」に訴える政治・社会評論になっていて、こちらの方がむしろ個人的にはストレートに胸と頭に響きました。

 "現実論的"部分で興味深かったのは、「まず確信犯の死刑から廃止せよ」と段階的廃止を主張している点などです。現在の日本でも「連続企業爆破事件」「連合赤軍事件」「オウム真理教事件」の死刑囚は'08年現在、誰も死刑が執行されていないという実態はありますが...(日本政府はユーゴーの考え方に沿っているのか?)。(●「オウム真理教事件」の死刑囚は、2018(平成30)年7月6日に麻原元死刑囚をはじめ7人、26日に6人の計13人の刑が執行された。翌2019年5月1日、元号が平成から令和へと改元。)

宣告1.jpg 凶悪犯罪が目立つ昨今、死刑容認論が大勢を占めるようですが、このユーゴーの「序」と加賀乙彦『宣告』を読むと、かなりの人が死刑廃止論に傾くような気がするけれども、どうでしょうか。

加賀乙彦 『宣告 (上・中・下) (新潮文庫)』 


 【1950年文庫化・1982年改版[岩波文庫]/1971年再文庫化[潮文庫]/2018年再文庫化[光文社古典新訳文庫]】

《読書MEMO》
●「序」より
「死刑を廃止せよというのではなく、慎重に論議すべきである。すくなとも裁判官が陪審らに『被告は情熱によって行動したかまたは私欲によって行動したか』という問いかけをすることにし、『被告は情熱によって行動した』と陪審員らが答える場合には、死刑に処することのないようにしたい」

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ドストエフスキー夫妻の愛情の深さとドストエフスキーという人間が抱える闇の深さの対比。

バーデン・バーデンの夏ド.jpgバーデン・バーデンの夏.jpgバーデン・バーデンの夏』〔'08年〕Leonid Tsypkin.jpg Leonid Tsypkin (1926-1982/享年56)

Summer in Baden-Baden.gif 1982年に米国の雑誌にその冒頭部分が発表され、その後長く埋もれていた小説を、米国の女性作家(活動家としても知られる)スーザン・ソンタグ(1933‐2004)がロンドンの古書店で見つけて再発掘したもので、このドストエフスキーへのオマージュに満ちたこの小説の作者のレオニード・ツィプキン(1926-1982)は、ドストエフスキーが唾棄したところのユダヤ人であり、作家ではなく優れた病理学者でしたが、旧ソ連末期、息子夫婦が米国へ亡命したために要職を外され、自らは出国も認めらないという不遇の中でこの小説を書き、米国で発表された1週間後に亡くなっています。

leonid tsypkin summer in baden baden.jpg 物語は、ドストエフスキーの妻アンナの日記を携えた語り手の「私」が、冬のモスクワからレニングラードに汽車で旅する最中、アンナの日記にある、新婚のドストエフスキー夫妻のドレスデンからバーデン・バーデンへの旅を追慕するように再現する形で始まっており(国内と外国、冬と夏という対比になっている)、以後、主に「アンナ・グリゴーリエヴナ」の視点から、彼の地で借金を抱えた夫「フェージャ」が賭博熱に憑かれ、屈辱、怒り、後悔、懇願を繰り返す様が描かれていますが、どう仕様もないような夫に従順につき従うアンナの姿には、ドストエフスキー作品の登場人物を思わせるような慈愛が感じられました。

 章や段落(改行)が無く句点も極端に少ない文体で、しばしば作者の意識とアンナの意識が交錯し、時にドストエフスキーの意識に深く入り込むという凝った形式をとっていて、2人の愛情の深さとドストエフスキーという人間が抱える闇の深さ(彼が抱える矛盾の典型とも言えるが)を対比的に浮かび上がらせるとともに、ドストエフスキーへの作者の抗い難い想いと、全人類に愛を手向けた彼が、ユダヤ人だけは、まるでそれらの埒外にあるように無視し嫌ったということに対する作者の悩ましい感情が、相克的に奔出されています(ここにも、もう1つの"矛盾"がある)。

 小林秀雄『ドストエフスキーの生活』(角川文庫)の巻末のドストエフスキーの年譜によると、1867年夏、『罪と罰』を前年に完成させた46歳のドストエフスキーは、21歳の新妻アンナとバーデンに滞在しており、この旅はこの小説にあるように、2人の新婚旅行であるとともに借金からの逃避行でもあり、一発巻き返しを狙うドストエフスキーは、滞在先で賭博ルーレットに嵌まり込んだようです。

 小林秀雄は、バーデン・バーデンについては、この地でドストエフスキーがツルゲーネフと対立したこと以外はさほど注目していないようで、それは、この新婚旅行が結局4年間も続くドストエフスキーの海外生活の始まりであり、その後、ドイツ各地の滞在先で、同じような"愚行"を彼が繰り返しているからだと思われます。
 その間に『白痴』を書き上げ、『カラマーゾフの兄弟』の構想も得ているわけですが、この小説では、まだ書かれていない小説の登場人物を用いた描写が多くあるのが興味深かったです。

 ドストエフスキーはこの長期海外滞在を終えた後も何度かドイツに出かけていますが、ドイツで公開賭博が禁止になったため、やりようがなかったらしく(賭博業者は皆、賭博の独占市場となったモンテ・カルロへ移った)、彼の晩年の家庭生活の平安は、モナコの王様のお陰だと、小林秀雄は『ドストエフスキーの生活』の中でジョーク気味に書いています。

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かなり怖い心理小説であると同時に、何だか予言的な作品。

『コレクター』 (196609 白水社).jpgコレクター(収集狂).jpg コレクター 上.jpg コレクター下.jpg ウィリアム・ワイラー 「コレクター」.jpg
新しい世界の文学〈第40〉コレクター (1966年)』白水社『コレクター (上)(下)』白水Uブックス/映画「コレクター」(1956) 「カンヌ国際映画祭 男優賞(テレンス・スタンプ)」 カンヌ国際映画祭 女優賞(サマンサ・エッガー)

「フランス軍中尉の女」.bmpフランス軍中尉の女.jpgThe Collector John Fowles.jpg 1963年発表のイギリスの小説家ジョン・ファウルズ(1916‐2005)『コレクター』 (The Collector)は、映画化作品('65年、テレンス・スタンプ主演)でも有名ですが、イギリス人女性とフランス人男性の不倫を描いたカレル・ライス監督の「フランス軍中尉の女」('81年、メリル・ストリープ主演、メリル・ストリープはこの作品でゴールデングローブ賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞の各「主演女優賞」を受賞)の原作者もジョン・ファウルズであることを知り、サイコスリラーからメロドラマまで芸域が広い?という印象を持ちました。但し、映画「フランス軍中尉の女」は一昨年['05年]ノーベルハロルド・ピンター1.jpg文学賞を受賞した脚本家ハロルド・ピンターの脚色であり、現代の役者が19世紀を舞台とした『フランス軍中尉の女』という小説の映画化作品を撮影する間、小説と同じような事態が役者達の間で進行するという入れ子構造になっていることからもわかるように(そのため個人的にはやや入り込みにくかった)、映画はほぼハロルド・ピンターのオリジナル作品になっているとも言え、映画は映画として見るべきでしょう。
ハロルド・ピンター(1930-2008

the collector 1965.jpg 『コレクター』の方のストーリーは、蝶の採集が趣味の孤独な若い銀行員の男が、賭博で大金を得たのを機に仕事をやめて田舎に一軒家を買い、自分が崇拝的な思慕を寄せていた美術大学に通う女性を誘拐し、地下室にに監禁する―というもの。
"The Collector " ('65/UK)
The Collector.jpg 日本でも女児を9年も監禁していたという「新潟少女監禁事件」(1990年発生・2000年発覚)とかもあったりして、何だか今日の日本にとって予言的な作品ですが、原作は、独白と日記から成る心理小説と言ってよく、人とうまくコミュニケーション出来ない(当然女性を口説くなどという行為には至らない)社会的不適応の男が、自分の思念の中で自己の行為を正当化し、さらに一緒にいれば監禁女性は自分のことを好きになると思い込んでいるところがかなり怖い。

the collector 1965 2.jpg しかし、性的略奪が彼の目的でないことを知った女性が彼に抱いたのは「哀れみ」の感情で、彼女の日記からそのことを知った男はかえって混乱する―。
サマンサ・エッガー
サマンサ・エッガー_2.jpg 文芸・社会評論家の長山靖生氏は、この作品の主人公について「宮崎勤事件」との類似性を指摘し、共に「女性の正しいつかまえ方」を知らず、実犯行に及んだことで、正しくは"コレクター"とは言えないと書いてましたが、確かにビデオや蝶の「収集」はともかく、この主人公に関して言えば女性はまだ1人しか"集めて"いないわけです。しかし、作品のラストを読めば...。

「コレクター」7.jpg 映画化作品の方も、男が監禁女性を標本のように愛でるのは同じですが、彼女に対する感情がより恋愛感情に近いものとして描かれていて、結婚が目的となっているような感じがして、ちょっと原作と違うのではと...。

 テレンス・スタンプの代表作として知られているものの(カンヌ国際映画祭男優賞受賞)、ヒロインを演じたサマンサ・エッガーの演技も悪くなかったです(カンヌ国際映画祭女優賞受賞。ゴールデングローブ賞主演女優賞(ドラマ部門)も受賞している)。結構SMっぽい場面もあったりして、「ローマの休日」を撮ったウィリアム・ワイラーの監督作品だと思うと少し意外かもしれません。
    
萌える男.jpg 「萌え」評論家?の本田透氏は、「恋愛」を追い求めるという点で(レイプ犯とは異なり)主人公はストーカー的であると言っていて(『萌える男』('05年/ちくま新書))、これは原作ではなく映画を観ての感想のようですが、確かに「娼婦ならロンドンに行けばいくらでも買える」だけの大金を主人公が持っていたことは、本作品を読み解くうえで留意しておいた方がいいかもしれません。但し、映画での主人公が異常性愛者っぽいのに対し、原作での主人公は何かセックス・レスに近いとも言えるような気がしました。
      
「ソフィーの選択」1982.jpg.gif 因みに、冒頭に挙げた「フランス軍中尉の女」('81年)のメリル・ストリープは、前述の通りこの作品でゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞しましたが、アカデミー賞の主演女優賞はノミネート止まりで、翌年の「ソフィーの選択」('82年)で主演女優賞を、2年連続となるゴールデングローブ賞主演女優賞と併せて受賞しました(ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞、ニューヨーク映画批評家協会賞、全米映画批評家協会賞、ロサンゼルス映画批評家協会賞の各主演女優賞も受賞)。ただし、アカデミー賞の"助演"女優賞の方は、「ディア・ハンター」('78年)でノミネートされ、「クレイマー、クレイマー」('79年)ですでに受賞しており、この時にゴールデングローブ賞"助演"女優賞も受賞しているので、この頃はほとんど出る作品ごとに大きな賞を受賞していたことになります。

「ソフィーの選択」1.jpg「ソフィーの選択」2.jpg アラン・J・パクラの「ソフィーの選択」('82年)は、昨年['06年]亡くなったウィリアム・スタイロン(1925-2006)が1979年に発表しベストセラーとなった小説が原作です。駆け出し作家のスティンゴ( ピーター・マクニコル )が、ソフィー(メリル・ストリープ)というポーランド人女性と知り合うのですが、彼女には誰にも語ることの出来ない恐るべき過去があり、それは、彼女の人生を大きく左右する選択であった...という話で、ネ「ソフィーの選択」3.jpgタバレになりますが、自分の幼い娘と息子のどちらを生きながらえさせるか選択しろとドイツ将校に求められるシーンが壮絶でした。この作品でメリル・ストリープは役作りのためにロシア語訛りのポーランド語、ドイツ語及びポーランド語訛りのある英語を自在に操るなど、作品の背景や役柄に応じてアメリカ各地域のイントネーションを巧みに使い分けており、そのため「訛りの女王」と呼ばれてその才能は高く評価されることになります。「恋におちて」('84年)で共演したロバート・デ・ニーロは、メリル・ストリープのことを自分と最も息の合う女優と言っています。
 

the collector 1965 3.jpg「コレクター」●原題:THE COLLECTOR●制作年:1965年●制作国:イギリス・アメリカ●監督:ウィリアム・ワイラー●製作:ジョン・コーン/ジャド・キンバーグ●脚本:スタンリー・マン/ジョン・コーン/テリー・サザーン●撮影:ロバート・サーティース/ロバート・クラスカー●音楽:モーリス・ジャール●原作:ジョン・ファウルズ●時間:119分●出演:テレンス・スタンプ/サマンサ・エッガー/モナ・ウォッシュボーン/モーリス・ダリモア●日本公開:1965/08●配給:コロムビア映画(評価:★★★☆)

フランス軍中尉の女04.jpg「フランス軍中尉の女」●原題:THE FRENCH LIEUTENANT'S WOMAN●制作年:1981年●制作国:イギリス●監督:カレル・ライス●製作:レオン・クロア ●脚本:ハロルド・ピンター●撮影:フレディ・フランシス●音楽:カール・デイヴィス●原作:ジョン・ファウルズ●時間:123分●出演:メリル・ストリープ/ジェレミー・アイアンズ/レオ・マッカーン/リンジー・バクスター/ヒルトン・マクレー●日本公開:1982/02●配給:ユナイテッド・アーチスツ●最初に観た場所:六本木・俳優座シネマテン(82-05-06)●2回目:三鷹文化(82-11-06)(評価:★★☆)●併映(2回目):「情事」(ミケランジェロ・アントニオーニ)

ソフィーの選択 [DVD]
「ソフィーの選択」d1.jpg「ソフィーの選択」4.jpg「ソフィーの選択」●原題:SOPHIE'S CHOICE●制作年:1982年●制作国:アメリカ●監督・脚本:アラン・J・パクラ●製作:キース・バリッシュ/アラン・J・パクラ●撮影:ネストール・アルメンドロス●音楽:マーヴィン・ハムリッシュ●原作:ウィリアム・スタイロン●時間:150分●出演:メリル・ストリープ/ケヴィン・クライン/ピーター二子東急 1990.jpg・マクニコル/リタ・カリン/スティーヴン・D・ニューマン/グレタ・ターケン/ジョシュ・モステル/ロビン・バートレット/ギュンター・マリア・ハルマー/(ナレーター)ジョセフ・ソマー●日二子東急.gif本公開:1982/12●配給:ユニバーサル・ピクチャーズ●最初に観た場所:二子東急(86-07-05)(評価:★★★☆)●併映:「愛と追憶の日々」(ジェイムズ・L・ブルックス)

二子東急のミニチラシ.bmp二子東急 場所.jpg二子東急 1957年9月30日 開館(「二子玉川園」(1985年3月閉園)そば) 1991(平成3)年1月15日閉館

 
 【1984年新書化[白水Uブックス(上・下)]】

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カオス・シチリア物語2.jpg 村の掟を破った息子を銃殺する父。凄まじきかな、父性原理。

エトルリヤの壷2.JPG『エトルリヤの壷 他五編』.jpg Prosper Mérimée.jpg Prosper Mérimée(1803-1870)
岩波文庫改版版/『エトルリヤの壷―他五編 (1971年)』 パオロ&ビットリオ・タヴィアーニ 「カオス・シチリア物語 [DVD]

『エトルリヤの壷 他五編』.JPG 1829年発表のフランスの作家プロスペル・メリメ(1803‐1870/享年66)の作品。メリメは『カルメン』の作者として知られる作家で、考古学者・美術史家・言語学者でもあり、元老院議員にまで出世する一方、社交界で浮名を流すなどした人で、フランス人でありながら、スペインやイタリアを舞台にした小説が多いのは、実際にそうした方面に旅行したことと、多言語を解する語学力によるところが大きいようです。

 本書『エトルリヤの壷』(岩波文庫の改版前の初版刊行は昭和3年と旧い)は、そのメリメの短篇6篇を集めたもので、うわさ話に振り回されて自分で自分を滅ぼしてしまう男を描いた表題作など、人間の心理的葛藤や人生の皮肉を端的に描いたものが多いです。

コルシカ紀行.jpg その中でも「マテオ・ファルコーネ」は、やや異彩を放つもので、19世紀のコルシカ島の村での話ですが、この話に衝撃を受けた作家の大岡昇平は、そのルーツを探るためにコルシカ島を訪れ、『コルシカ紀行』('72年/中公新書)を著しています(但し、コルシカ島の県庁所在地バスティア市の博物館で、探していた「コルシカの悲劇的歴史」に纏わる文献が、金庫が錆びていて開かなかっため閲覧できず、館長から後で贈るという約束を取り付けるも、結局は送ってこなかったなど、結構"空振り"の多い旅行になっている)。

大岡 昇平『コルシカ紀行 (中公新書 307)』['72年/中公新書]

マテオ・ファルコーネ05.jpgMateo Falcone (1829).bmp 若い頃から射撃に優れ、村人の人望もあった羊飼いマテオ・ファルコーネは、妻と3人の娘、そして最後に生まれた男の子とともに自活的な農牧生活を送っていた―。そんなある日、マテオ一家が留守中に、憲兵に追われ村に逃れてきたお尋ね者が家にやって来て、1人留守を預かっていた10歳の息子は、一旦は彼を隠すのですが(伝統的にその村には、官憲などに追われている人をかくまう「掟」があった)、憲兵の「居場所を教えれば時計をやる」という言葉に負けて、お尋ね者を隠した場所を教えてしまい、彼は捕えられます。そのとき家に戻ってきたマテオに向かって男は「ここは裏切り者の家だ!」と叫び、すべてを察したマテオは、自分の息子を窪地へ連れて行き、大きな石のそばに立たせ、お祈りするよう命じ、終わるや否や、泣いて命乞いする本人や妻の制止を振り切って息子を銃殺するという話。

 簡潔な写実と会話を連ねた飾り気のない文章ゆえにかえって凄惨な印象を受け、この話を西洋的な父性原理の象徴と見るむきもあれば(それにしても凄まじい!)、運命的悲劇との捉え方もあり、また小説とは言えないという見方もあるようですが、確かに一種の「説話」のような感じがしました(小説的良し悪しを言うのが難しい)。文庫で20ページしかない短篇のほとんどのあらすじを紹介してしまったので、ラストの父親の"決めゼリフ"だけは書かないでおきます。

カオス・シチリア物語1.jpg 尚、この短編集の表題作「エトルリアの壺」は、パオロ&ビットリオ・タヴィアーニ監督のシチリアの説話を基にしたオムニバス映画「カオス・シチリア物語」('84年/伊)の中の一話「かめ(甕)」として映画化されています(翻案:ルイジ・ピランデッロ)。

カオス・シチリア物語 甕.jpg 欲しい物は全て手に入れたはずなのに、さらに多くを欲する大地主ドン・ロロがが購入した巨大なオリーブ油を入れる瓶-それは彼の権力の象徴であったが、そんな瓶が壊れてしまい、それをどうしても直したい彼は、瓶を修理することが出来る奇跡の技を持つ老職人を雇うが、職人は修理完了後に瓶の中から出られなくなる。ロロは瓶を壊すことを拒むが、職人は稼いだ金を使って村人達を集め、瓶を囲んでの宴会を繰り広げる。皆が職人を好いているように見えるのが気に入らないロロだったが、嫉妬が頂点に達した時、彼は遂に瓶を壊してしまう-。

「カオス・シチリア物語」.JPG ロロという人物にも、マテオ・ファルコーネに通じる男性原理が感じられる一方、人は所詮は全てを独占することなど出来ず、独占するのではなく共有することがいうことに価値があることを喩えとしてを教えているようにも思える作品であり(ここでは、男性原理のある種"限界性"が描かれているとも言える)、タヴィアーニ兄弟は、このメリメ原作の物語をはじめ、シチリアの"混沌"という意のカオス村(兄弟の生まれ故郷でもあるらしい)を舞台にした素朴な人間たちのドラマを、7つの挿話にわけて美しい映像のもと描いています。

ドン・ローロのつぼ02.jpgドン・ローロのつぼ01.jpg 因みに、この映画に触発されて、絵本作家の飯野和好氏が、この「壺」の寓話を、『ドン・ローロのつぼ』('99年/福音館書店(年少版 こどものとも)という絵本にしています。

              
                          

カオスシチリア物語.jpgカオス・シチリア物語KAOS 1984.jpg 「カオス・シチリア物語」●原題:KAOS●制作年:1984年●制作国:イタリア●監督・脚本:パオロ&ビットリオ・タヴィアーニ●製作:ジュリアーニ・G・デ・ネグリ●撮影:ジュゼッペ・ランチ●音楽:ニコラ・ピオヴァーニ●原作:ルイジ・ピランデッロ●時間:187分●出演:マルガリータ・ロサーノ/オメロ・アントヌッタヴィアーニ兄弟.jpgティ/ミコル・グイデッリ/ノルマ・マルテッリ/クラウディオ・ビガリ/ミリアム・グイデッリ/レナータ・ザメンゴ/マッシモ・ボネッティ●日本公開:1985/08●配給:フランス映画社●最初に観た場所:高田馬場東映パラス(87-10-03)(評価:★★★★)

タヴィアーニ兄弟
弟:パオロ・タヴィアーニ、1931年11月8日 - 2024年2月29日/92歳没
兄:ヴィットリオ 1929年9月20日 - 2018年4月15日/88歳没

高田馬場a.jpg高田馬場・稲門ビル.jpg
高田馬場東映パラス 入り口.jpg
高田馬場東映パラス 高田馬場・稲門ビル4階(現・居酒屋「土風炉」)1975年10月4日オープン、1997(平成9)年9月23日閉館

①②高田馬場東映/高田馬場東映パラス/③高田馬場パール座/④早稲田松竹


 【1928年文庫化・1971年改版[岩波文庫]/1960年再文庫化[角川文庫(『マテオ・ファルコーネ-他五編』)]】

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精神の自由と人生の快楽を求めた生き方の天才の自伝的処女長編。

IMG_3215.JPG北回帰線 文庫  .jpg
北回帰線.jpg
  ヘンリー・ミラー『愛と笑いの夜』.gif
北回帰線 (新潮文庫)』『愛と笑いの夜 (1968年)』河出書房 (吉行淳之介:訳/池田満寿夫:装幀)『愛と笑いの夜』角川文庫(吉行淳之介:訳)〔'76年〕
北回帰線 新潮社 1953.jpgHenry Miller.jpg 1934年パリにおいて発表された米国の作家ヘンリー・ミラー(1891‐1980)の自伝的処女長編『北回帰線』(Tropic of Cancer)は、30歳過ぎで渡仏しパリで送ったボヘミアンな生活が詩的に、ただし汚辱と猥雑さに満ち満ちて綴られていています。

Henry Miller (1891‐1980/享年88)

 主人公の30歳に近い「わたし」は、ニューヨークの電報会社で猛烈に働くサラリーマンだが(まったくミラー自身の経歴と同じ)、現代社会がもたらす人間疎外を痛感、芸術家になるために「自己の内面に突き進む」決心をする。女性との交わりもその試金石の1つだったが、彼がその中に聖性を見い出したかのように思った女性は、実は単なる見栄っ張りな俗物に過ぎなかった―。

ペーパーバック『北回帰線』.jpg パリでの生活は、言わばミラー版「巴里のアメリカ人」と言ったところで、ただし映画「巴里のアメリカ人」とは違って、淑女より娼婦の方がいっぱい出てきて、その他にも、明るいユダヤ系ロシア系とか、おかしなインド人とか様々な人物が登場し、ちょっとタガが外れたインターナショナルな雰囲気で、その中に自分がアメリカ人であることを意識しているミラーがいるような気がしました。
 
 社会のアウトローになることを恐れず(ただし彼は、友人を作るという処世術に長けていた)、自らの信念に沿って精神の自由と人生の快楽を求め、それを心から享受できる彼は、まさにオリジナルな生き方の天才!('60年代に"ヒッピー"の教祖みたいになったこともあった)。そして、アナイス・ニンなどのスポンサードでその希代の文学的才能を開花させ、アメリカ文学に今まで無かった地平を切り開いたのがこの作品です。

ペーパーバック『北回帰線』

Henry MILLER.jpg かつて新潮文庫では『北回帰線』『南回帰線』『セクサス』『ネクサス』までカバーしていて順番に読んだ記憶がありますが、今あるのは『北回帰線』と『南回帰線』だけで、この2作がやはり代表作であることは確か。
 完成度から言えば『南回帰線』の方が高いのかも知れませんが、『北回帰線』には荒削りでダダイスティックな魅力があり、"自動記述"などいろいろな文学的実験が自由奔放になされています(大久保康雄訳には、その辺りを訳出する苦心の跡が窺える)。

Henry MILLER, at home, photo by Henri Cartier-Bresson, 1946

『愛と笑いの夜』 角川文庫(吉行淳之介:訳〔'76年〕/福武文庫(吉行淳之介:訳)〔'86年〕
愛と笑いの夜.jpg愛と笑いの夜 福武文庫.jpg パリで発表された当時、『北回帰線』は米英では発禁処分になっていたので、『北回帰線』出版後も、パリから渡英する際にミラーが係官に自分の身分を証明するのに苦労して、「自分にはTropic of Cancer(北回帰線)という著書がある」と言ったところ癌(Cancer)に関する医学書と間違われたという話が、『愛と笑いの夜』(吉行淳之介訳・'68年/河出書房、'76年/角川文庫、'86年/福武文庫)所収の「ディエップ=ニューヘイヴン経由」という短編の中にありました。

 1955年発表のこの短篇集(原題:Nights of Love and Laughter)は、「ディエップ=ニューヘイヴン経由」のほかに、「マドモアゼル・クロード」「頭蓋骨が洗濯板のアル中の退役軍人」「占星料理の盛り合せ」「初恋」を所収していますが、ミラーの長編とは異なるオーソドックスな表現方式と、意外と純な性格面が窺えて(特に、自分の体験をモチーフにしたと思われる「初恋」)興味深いです。

『北回帰線』...【1969年文庫化〔新潮文庫〕/2004年単行本〔水声社〕】
『愛と笑いの夜』...【1976年文庫化[角川文庫]/1986年再文庫化[福武文庫]】
 

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自殺することが救いとなり得るかという究極の問いかけ。ブレッソンの映画化作品がいい。

少女ムーシェット 単行本.jpg少女ムーシェット.jpg 『少女ムーシエット (1971年)』晶文社 悪魔の陽のもとに.jpg悪魔の陽のもとに』春秋社〔'99年新装版〕

 1926年に発表されたフランスのカトリック作家ジョルジュ・ベルナノス(1888‐1948)の『悪魔の陽の下に』の第1部にあたる「少女ムーシェット」を元に、作者自身が単独の物語として翻案したもので、病気の母、乱暴な父のいる貧しい家庭で、同年代からも侮蔑され、身勝手な大人たちからは弄ばれ、生の暗闇の中で喘ぐ孤独な少女を描いたものです。

 すべてに絶望した少女は最後に自殺しますが、カトリックは自殺を容認しないはずで、カトリック作家がこうした作品を書いていること自体がある意味驚きと言えるかもしれません。
 しかし、その少女が死に至るまでの状況は、仮に自分がキリスト者であれば、果たして神はいるのかと問いたくなるような絶望的なもので、一方で彼女の自死の部分の描写には不思議な清澄感があり、救いとは何かという宗教的な問いかけを、キリスト者であるなしに関わらず読者に投げかけてくる作品です。

少女ムシェット2.jpg 本書を読んだきっかけは、ロベール・ブレッソン(1901‐1999)監督の映画化作品少女ムシェット」('67年)を観たためで、この映画化作品は、原作の本題である、「死」は14歳の少女にとって唯一の救いであったと言えるのでないかという問いを、観る者に切実に突きつけてきます。

ロベール・ブレッソン (原作:ジョルジュ・ベルナノス) 「少女ムシェット」 (67年/仏) (1974/09 エキプ・ド・シネマ) ★★★★★

 『少女ムーシェット』のベースになってる『悪魔の陽の下に』におけるムーシェットの人物像は、本書におけるそれよりも蠱惑的で、男をたぶらかしては逆に捨てられ、悪に手を染める16歳の少女として描かれていますが、最後は罪の意識に目覚めて自殺するといったもので、3部構成の第2部はまるでベルイマン映画のような神父と悪魔の闘いが、第3部ではまるでカール・テオドア・ドライヤーの映画のような奇跡が描かれています。
 因みにこの「悪魔の陽の下に」も映画化されていて('87年)、カンヌ映画祭のパルム・ドールを獲っています。

 ロベール・ブレッソンも凄い監督ですが、ジョルジュ・ベルナノスというのも凄い。但し、個人的には、先に映画を観てロベール・ブレッソンのに凄さに圧倒されてしまった面があります。

 【『少女ムーシェット』...1971年単行本〔昌文社〕/『悪魔の陽の下に』...1954年単行本〔新潮社〕(『現代フランス文学叢書』)・1981年単行本〔国書刊行会(『世界幻想文学大系11』)〕・1989年単行本・1999年新装版〔春秋社(『悪魔の陽のもとに』)〕/「新ムーシェット物語」...1977年全集〔春秋社(『ジョルジュ・ベルナノス著作集2』)〕】

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○ノーベル文学賞受賞者(ウィリアム・フォークナー)「○海外文学・随筆など【発表・刊行順】」の インデックッスへ

字縄を綯うが如き構成と強烈なキャラクター群。「第1の主人公」は〈ジョー・クリスマス〉か〈リーナ・グローヴ〉か?

Light in August William Faulkner.jpg八月の光.jpg 八月の光2.bmp  William Faulkner .jpg 加島祥造.jpg
八月の光』新潮文庫 〔旧版/新装版〕   W.Faulkner(1897-1962/享年64)/加島祥造(1923-2015/享年92
"Light in August: The Corrected Text (Vintage International)"

 1932年発表のアメリカの作家ウィリアム・フォークナー(1897‐1962)の代表作の1つで、彼がよく自らの作品に用いたアメリカ南部の架空の町ジェファスンを舞台に、その地で起きる1週間の出来事を、男女2人の主人公を交互に登場さLight in August.jpgせて字縄を綯うが如く繋いでいきますが、回想場面で時間が何回も戻るなど構成はかなり複雑で、ミステリ的要素もあります。

 〈ジョー・クリスマス〉という名の第1の主人公―、自らを"呪われた"黒人の血が混じった白人だと信じる殺人逃亡犯の男と、もう1人の主人公で、自分を妊娠させた男を探す旅の過程でこの町を通過する〈リーナ・グローヴ〉という楽天家でお腹の大きな娘は、最後まで交錯することがなく、その物語構成に、「えっ、ミステリとしての終らせ方はしないのだ」という新鮮味をまず感じました。
Light in August is a 1932 novel by William Faulkner.

フォークナー『八月の光』光文社古典新訳文庫.jpg しかし、そもそも〈ジョー・クリスマス〉がなぜ殺人を犯したのか、そのこと自体何の説明もされておらず、彼は雑誌を読んでいる間に殺人を思いたち、まぶしい太陽の光を目に受けてそれを決行する...。そして、そのために彼は住民に追い詰められリンチによって殺されることになる(これはカミュの『異邦人』か?と思ってしまう)。

 一方で、この〈ジョー・クリスマス〉という男が、差別と偏見の下で"救われることがない"ジャン・バルジャンみたいな描かれ方もされており、それでいてその心の闇には強く引き込まれるものがあり、個人的にはロベール・ブレッソン監督の映画「ラルジャン」の主人公などを想起しました(共に、自分の恩人を惨殺してしまうという点で共通している)。

 加えて〈ハイタワー〉という破戒牧師や〈バイロン・バンチ〉という中年男など強烈なキャラクターが登場し、これらの名前はしばらく忘れることができそうにありません。
八月の光 (光文社古典新訳文庫)(2018年再文庫化)
八月の光 光文社古典新訳文庫.jpg 個人的には〈ジョー・クリスマス〉を「第1の主人公」としましたが、これらに比べると、物語の半分を占める〈リーナ・グローヴ〉というのはインパクトが弱く、何故いるのかよく分りませんでした。ところが翻訳者の加島祥造氏は、〈リーナ・グローヴ〉こそ、この物語の「第1の主人公」と見ているようで、解説を読んで、今度は自分の中で文学的な新たなミステリが始まったという感じでした。

 今でも、自分の中では〈ジョー・クリスマス〉が「第1の主人公」なのですが、人間の心の闇を描いてアメリカ文学の中でも最高峰に位置する作品ではないかと思います。

【2016年再文庫化(諏訪部浩一:訳) [岩波文庫(上・下)]/2018年再文庫化(黒原敏行:訳) [光文社古典新訳文庫]】

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青春や人生を無駄に過ごした絶望感を描く。映画化作品の方もいい。

ワーニャ伯父さん(ポスター).jpg ワーニャ伯父さん2.jpg かもめ・ワーニャ伯父さん〔旧〕.jpg かもめ・ワーニャ伯父さん.jpg
映画 「ワーニャ伯父さん」 ポスター/「ワーニャ伯父さん」より/『かもめ・ワーニャ伯父さん (新潮文庫)』(旧版/新版)

『かもめ・ワーニャ伯父さん』.JPG 1896年発表の「かもめ」と1899年発表の「ワーニャ伯父さん」は、ともに19世紀末の帝政ロシアの田園を舞台としたアントン・チェーホフ(1860‐1904)の戯曲で、「かもめ」は演劇女優の夢を抱く娘ニーナがヒロイン、「ワーニャ伯父さん」は知的世界で活躍する義兄のために永く農園を守ってきた初老の男ワーニャが主人公です。

チェーホフ・魂の仕事.jpg 「かもめ」の女主人公ニーナは、自分を愛してくれる青年トレープレフ(この作品の悲劇的な男主人公)を諦めてまでも女優の道を選ぼうと有名な作家トリゴーリン(作者がモデルか?)の下に走りますが、作家の態度がはっきりせず夢破れて実家に帰ります。
 一方ワーニャ伯父さんは、大学教授を退官した義兄が都会生活の中で利己的な俗物になってしまったことを知り、教授の若い妻への思慕もはかなく破れ、絶望と憤怒にかられて彼を射殺しようとしますが―。

 両作品とも、貴重な青春、貴重な人生を無駄に過ごしたということに気づいたとき、人はどうなるかということが残酷なまでに描かれています。
 しかし、これらの作品の主人公たちは精神の極端な緊張状態に置かれるため、彼らの夢や希望が危機にさらされているのに、彼ら自身はまるで喜劇の人物に見え、そのため、チェーホフ自身もこれらの戯曲を喜劇と呼んでいます(「かもめ」には"四幕の喜劇"という副題がある)。

「チェーホフ・魂の仕事」('02年/国立劇場)ポスター

 この2作品はやはり外観的には悲劇だと思いますが、主人公の内面においてその結末は明暗を分けている感じで、若いニーナの方は、田園に戻ることで自分を見つめ直し、自身の再生と自由を確信しますが(女性宇宙飛行士テレシコワの「私はかもめ」は、この時のニーナの台詞)、初老のワーニャ伯父さんにはもう何も残されておらず、作品としてより深い虚無感に覆われています。医者への愛に同じく破れ農園に残ることになった姪ソーニャの、彼に対する優しさだけが救いでしょうか。

Фильм Чайка 1971.jpgかもめ2.jpg ともに'70年に旧ソ連で映画化されていて、監督は「「チェーホフのかもめ」('71年/ソ連)がユーリー・カラーシク、「ワーニャ伯父さん」('71年/ソ連)がアンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキー(ニキータ・ミハルコフ の兄)です。元が戯曲なので原作と映画の違和感が無く、しっとりとした情感が味わえます。映画「チェーホフのかもめ」でニーナДядя Ваня 1971.jpgインノケンティ・スモクトゥノフスキー.jpgを演じたリュドミラ・サベーリエワは、「戦争と平和」('67年/ソ連)の主演女優で、「ひまわり」('70年/伊・仏・ソ連)でソフィア・ローレンがマルチェロ・マストロヤンニを訪ねていったときに、マストロヤンニの傍にいた女性、映画「ワーニャ伯父さん」でワーニャ伯父さんを演じたインノケンティ・スモクトゥノフスキー(1925-1994)は「チャイコフスキー」('70年/ソ連)で主演し、「罪と罰」('70年/ソ連)でラスコーリニコフトと学論争する予審判事ポルフィーリを演じ、「」('80年/ソ連)でナレーターを務めていますが、2人の演技は、いずれもロシア映画史上に残る素晴らしいものでした。

   
岩波文庫創刊書目[復刻]全23冊.jpg 因みに『ワーニャ伯父さん』は、『伯父ワーニャ』のタイトルで1927(昭和2)年7月刊行の岩波文庫の創刊ラインアップに入っており(中村白葉:訳)、当時から名作の定番だったということになりますが、戯曲ということでの親しみ易さもあったのではないでしょうか(チェーホフ作品は『桜の園』も同じく創刊ラインアップにある)。この岩波の旧版も以前所持していたのですが、どこかへいってしまった...。'06年に『岩波文庫創刊書目23冊』として復刻刊行されていますが、"23冊セット販売"であるため、原則バラでは買えません。
岩波文庫創刊書目[復刻]全23冊['06年]「岩波文庫創刊書目 復刻―付 創刊広告(東京朝日新聞・昭和2年7月掲載)

ビデオ「かもめ」(Russia)主演:リュドミラ・サヴェーリエワ
かもめ 1971.jpgかもめ1971.jpg「チェーホフのかもめ」●原題:EHAIKA(Чайка)●制作年:1971年●制作国:ソ連●監督・脚本:ユーリー・カラシク●撮影:ミハイル・スースロ●音楽:アレクサンダー・シニートケ●原作:アントン・チェーホフ「かもめ」●時間:100分●かもめ.jpg出演:リュドミラ・サヴェーリエワ/ウラディーミル・チュトベリコフ/アッラ・デミートワ/ニコライ・プロートニコフ●日本かもめ .jpg公開:1974/11●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:池袋文芸坐(79-11-09) (評価 ★★★★☆)●併映:「ワーニャ伯父さん」(アンドレ・ミハルコフ=コンチャロフスキー)
 
「ワーニャ伯父さん」主演:インノケンティ・スモクトゥノフスキー
Wanya Ojisan (1971).jpgДядя Ваня 1971 poster.jpgUncle Vanya ( Dyadya Vanya) (1970).jpgワーニャ伯父さん3.jpg「ワーニャ伯父さん」●原題:DYADYA VANYA(Дядя Ваня)●制作年:1971年●制作国:ソ連●監督・脚本:アンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキー●撮影:ゲオルギー・レルベルグ●音楽:アルフレード・シニートケ●原作:アントン・チェーホフ「ワーニャ伯父さん」●時間:100分●出演:インノケンティ・スモクトゥノフスキー/イリーナ・ミロシニシェンコ/イリーナ・クプチェンコ/ウラジミール・ザリジン/セルゲイ・ボンダルチュク●日本公開:1972/09●配給:ATG●最初に観た場所:池袋文芸坐(79-11-09) (評価 ★★★★★)●併映:「チェホフのかもめ」(ユーリー・カラシク)
「ワーニャ伯父さん」輸入版ポスター/DVD(Russia)/VHS(日本・絶版)

文芸坐休館.jpg文芸坐.jpg池袋文芸坐 1956(昭和31)年3月20日オープン、1997(平成9)年3月6日閉館/2000(平成12)年12月12日〜「新文芸坐」

  
 
 
映画「ワーニャ伯父さん」

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反体制文学だが、「人間」と「労働」の関係を考えさせられた。
Один день Ивана Денисовича.jpgイワン・デニーソヴィチの一日〔旧〕.jpg イワン・デニーソヴィチの一日.jpg イワン・デニーソヴィチの一日 チラシ.jpg 『イワン・デニーソヴィチの一日』.jpg アレクサンドル・ソルジェニーツィン.jpg
"Ivan Denisovich"/『イワン・デニーソヴィチの一日』 新潮文庫〔旧版/新版〕/「イワン・デニーソヴィチの一日」チラシ・ビデオ/アレクサンドル・ソルジェニーツィン

ONE DAY IN THE LIFE OF IWAN DENISOVICH.jpg 1962年に発表されたロシアの作家アレクサンドル・ソルジェニーツィン(Александр Исаевич Солженицын)の処女作『イワン・デニーソヴィチの一日』(Оди́н день Ива́на Дени́совича Odin den' Ivana Denisovicha、英語 One Day in the Life of Ivan Denisovich)は、自らの収容所体験を基に、旧ソビエトのラーゲル(収容所)で強制労働に従事する主人公の1日を描いた作品で、世界的ベストセラーになりました。
"One Day in the Life of Ivan Denisovich"

 主人公は普通の農民でしたが、大戦中にドイツ軍のスパイと疑われて、10年の強制労働を命じられてラーゲル送りとなり、小説はその8年目のある日(と言っても特別な1日ではない)を描いています。

 妻子と離れ極寒の地で、名前ではなく番号で呼ばれ、有刺鉄線に囲まれ警察犬と看守に見張られながら、ひたすらブロック積みの作業に従事する―こうした端的な"使役される状況"の中で、主人公が、ブロック作業を効率的かつ完璧に行うことにいつしか没頭し、その出来ばえに達成感を感じる場面には、「人間」と「労働」の関係を考えさせられました。

 「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉がありますが、一方でこの小説には"パン"の有難さが滲み出ていて、主人公も、作業場のコックをごまかして昼食の雑炊を1人前多くせしめたことに、大いなる満足感を得ています。そして、営倉にも入れられずに済んだ、「ほとんど幸福とさえ言える一日」を終える―。

 反体制文学なのですが、この小説を21世紀に読むことがアナクロニズムだとは思いません。過酷な境遇を自分の中で"日常化"してしまうことで生き続ける「人間」を描いていて、それを"麻痺"として捉えるのではなく、人間の根源的な生命力として捉えている点に、普遍性(または普遍的な問題の提起)があるように思えます。

イワン・デニーソヴィチの一日0.jpgOne Day In The Life Of Ivan Denisovich.jpg '71年に英国で「長距離ランナーの孤独」('62/英)のトム・コートネイ主演で映画化されましたが、原作に忠実である分少し地味にならざるを得ず(劇的な変化がないことがテーマの1つ)、個人的に注目した「労働」に関する部分よりも、1日を終えた安らぎのようなものにウェイトが置かれて描かれていたような気がしました。文芸座の「ソビエト映画祭」のような企画で観ましたが、スタッフもキャストもほぼ全員イギリス人なので(当然、英語で喋っている)、本場モノに混じるとやはり見劣りがするような...(それを言うと、「ドクトル・ジバコ」なども「所詮アメリカ映画じゃないか」ということになってしまうのだが)。
One Day In The Life Of Ivan Denisovich (1971/UK)
「イワン・デニーソヴィチの一日」●原題:ONE DAY IN THE LIFE OF IWAN DENISOVICH●制作年:1971年●制作国:イギリス●製作・監督:キャスパー・リード●音楽:アーン・ノーディム●原作:アレクサンドル・ソルジェニーツィン●時間:100分●出演:トム・コートネイ/アルフレッド・バーク/ジェームズ・マックスウェル/エリック・トンプソン/エスペン・スクジョンバーグ●日本公開:1974/06●配給:NCC●最初に観た場所:池袋文芸坐(79-11-16) (評価★★★)●併映「エゴール・ブルイチョフ」(セルゲイ・ソロビヨフ)

1970年にノーベル文学賞を受賞し、報道陣に語るアレクサンドル・ソルジェニーツィン氏(AP通信).jpg

1970年にノーベル文学賞を受賞し、報道陣に語るアレクサンドル・ソルジェニーツィン氏。スウェーデン、ストックホルム。(AP通信)

 【1963年文庫化・2005年改訂版[新潮文庫]/1971年再文庫化[岩波文庫]】

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19世紀後半のフランス炭坑労働者の悲惨な実態を、一筋縄でなく描く。
「居酒屋」(1956).jpg ジェルミナール.gif 19801571_1.jpg ジェルミナルGerminal.jpg  「地下水道」 dvd.jpg
ルネ・クレマン映画「居酒屋 HDマスター DVD」(マリア・シェル)/『ジェルミナール 上 (岩波文庫 赤 544-7)』 岩波文庫 (全3冊)〔旧版/改版版〕/ 映画 「ジェルミナルGerminal」/アンジェイ・ワイダ映画「地下水道 [DVD]

世界の文学23 ゾラ ジェルミナール.jpgジェルミナールfolio版.jpgエミール・ゾラ.jpg 1885年の原著発表のフランスの作家エミール・ゾラ(Emile Zola、1840‐1902)による作品で、彼の膨大な小説群「ルーゴン・マッカール双書」の中では『居酒屋』(1877年発表)、『ナナ』(1879年発表)と並ぶ代表作。

ルーゴン・マッカール双書 folio版
世界の文学〈第23〉ゾラ (1964年)ジェルミナール

 舞台は1860年代の北フランスの炭鉱町で、主人公のエチエンヌは、元は機械工だったが職を失ってここに移り住み、そこで坑夫の娘で自身も炭坑で働くカトリーヌに恋をし、自分も坑夫として働くようになる。過酷な炭坑の労働、採鉱会社と労働者の対立、資本家の搾取、ロシアから亡命してきたアナーキストの影響などを通して彼は社会主義思想に目覚めるが、長期ストライキの末の反乱は軍隊によって制圧され、アナーキストの破壊工作で地下水脈が破裂して、エチエンヌはカトリーヌとともに坑内に閉じ込められてしまう―。

映画「居酒屋」パンフ.jpg映画「居酒屋」.jpg ゾラと言えば、『居酒屋』で知られる自然主義の作家ですが(ルネ・クレマン監督(1913-1996)の映画もいい)、『ジェルミナール』の主人公エチエンヌはジェルヴェーズの三男です(と言うことは『居酒屋』に出てくるジェルヴェーズの娘で将来の女優「ナナ」の弟にあたるということか)。

 「居酒屋」でマリア・シェルが演じた洗濯女ジェルヴェーズは、一度は夫に逃げられた女性ですが、今度は真面目な屋根職人と結婚します。しかし、その亭主である男はある日屋根から落ちて大ケガをし、彼はやがて酒びたりになる―、それでも彼女はダメ亭主にもめげず懸命に働き、なんとか自分の店を持つものの、更に重なる不運があって、やがて自身が酒に溺れ破滅するという、きつい話(マリア・シェルはkの作品の演技により1956年・第17回ヴェネツィア国際映画祭「女優賞」を受賞)。

GERVAISE maria schell.gif 美人でも男運の悪い女はいるもんだと、マリア・シェルに感情移入して同情し、またリアリズムに徹した佳作だと思いましたが、原作の背後には、ゾラの「運命決定論」のようなものがあったみたいです。

 『ジェルミナール』は出世作の『居酒屋』よりも社会派的色彩が強く、労働者リーダーとして成長していくエチエンヌを描いていますが、一方で、酒を飲むと人を殺したくなるという遺伝的(?)性格の持ち主としても描いているところが一筋縄でないところ、つまりは社会的・生物学的環境で人生は決定づけられているというのがゾラの考え方のようです。

 労働者のストライキや反乱などのクライマックスもさることながら、物語の半分は炭坑の中での描写なので(炭坑の中で殺人も起きれば愛の成就もある)、自分も坑内にいるような気分になり、重苦しい緊張感があります(閉所恐怖症の人は最後まで読めないかも)。

わが谷は緑なりき」('41年/米).jpgHOW GREEN WAS MY VALLEY2.jpgわが谷は緑なりき2.gif 映画において、英国ウェールズの、やはり炭坑労働者のストライキを描いたジョン・フォード監督(1894-1973)の「わが谷は緑なりき」('41年/米)という1941 年にアカデミー作品賞を受賞している作品がありましたが、そこには影の部分もあれば(悲惨な炭鉱事故の場面)、また光の部分もありわが谷は緑なりき.jpg(家族愛がテーマだとも言える)、ノスタルジーにより美化された部分もありました(全体が当時少年だった語り手の想い出として設定されている。モーリーン・オハラって、昔のアメリカ映画にみる典型的な美人だなあ)。

「地下水道」 Kanal(1957).jpg地下水道.png しかしゾラのこの小説は、労働運動の萌芽を象徴する「芽生えの月(ジェルミナール)」という題ながらも、炭坑労働者の悲惨な実態を描いた"影"の部分の重苦しさが全体を圧倒していて、エチエンヌとカトリーヌが坑内に閉じ込められて絶望となるところは、背景は異なりますが、アンジェイ・ワイダ監督の「地下水道」('56年/「地下水道」 vhs.jpgポーランド)において、ナチスドイツに対して勝ち目のない戦いを挑むポーランドの地下組織の男女が地下水道に追い込まれ、やっと見つけた出口が鉄格子で閉ざされていた―という、これもまた絶望的な場面を想起したりもしました(どちらも「閉所恐怖症」の人にはお薦めできない)。「ジェルミナール」も'93年にクロード・ベリ監督、 ジェラール・ドパルデュー、ミウ・ミウ主演で映画化もされているようなので、そちらも機会があれば観たいと思います。
地下水道 [VHS]」(カバーイラスト:安西水丸


GERVAISE 1956.jpg「居酒屋」●原題:GERVAISE●制作年:1956年●制作国:フランス●監督・:ルネ・クレマン●製作:アニー・ドルフマン●脚本:ジャン・オーランシュ/ピエール・ポスト●撮影:ロベール・ジュイヤール●音楽:ジョルジュ・オーリック居酒屋 HDマスター DVD.jpg●原作:エミール・ゾラ 「居酒屋」●時間:102分●出演:マリア・シェル/フランソワ・ペリエ/シュジ・ドレール/マチルド・カサドジュ/アルマン・メストラル●日本公開:1956/10●配給:東和●最初に観た場所:新宿アートビレッジ (79-04-15)●2回目:高田馬場ACTミニシアター(83-09-15) (評価:★★★★)●併映(1回目):「嘆きのテレーズ」(マルセル・カルネ)●併映(2回目):「禁じられた遊び」(ルネ・クレマン)
居酒屋 HDマスター DVD


わが谷は緑なりき45.jpg「わが谷は緑なりき」●原題:HOW GREEN WAS MY VALLEY●制作年:1941年●制作国:アメリカ●監督:ジHow Green Was My Valley.jpgHOW GREEN WAS MY VALLEY.gifョン・フォード●製作:ダリル・F・ザナック●脚本:フィリップ・ダン●撮影:アーサー・ミラー●音楽:アルフレッド・ニューマン●原作:リチャード・レウェリン(How Green Was My Valley)●時間:118分●出演:ウォルター・ピジョン/モーリーン・オハラ/ドナルド・クリスプ/アンナ・リー/ロディ・マクドウォール●日本公開:1950/12●配給:セントラル●最初に観た場所:吉祥寺ジャヴ50 (84-06-30)●2回目:自由が丘劇場 (85-02-17) (評価:★★★★)●併映(2回目)「いとしのクレメンタイン 荒野の決闘」(ジョン・フォード)
吉祥寺バウスシアター2(旧ジャヴ50)
じゃv50.jpgバウスシアター.jpg.png吉祥寺バウスシアター.jpg吉祥寺ジャヴ(JAⅤ)50 1951年~「ムサシノ映画劇場」、1984年3月~「吉祥寺バウスシアター」(現・シアター1/218席)と「ジャヴ50」(現・シアター2/50席)の2館体制でリニューアルオープン。2000年4月29日~シアター3を新設し3館体制に。 2014(平成26)年5月31日閉館。
じゃv 50.jpg


自由が丘劇場  .jpg自由ヶ丘劇場2.jpg自由が丘劇場5.jpgヒューマックスパビリオン自由が丘.jpg自由が丘劇場 自由が丘駅北口徒歩1分・ヒューマックスパビリオン自由が丘(現在1・2Fはパチンコ「プレゴ」)1986(昭和61)年6月閉館 ①自由ヶ丘武蔵野推理劇場 ②自由が丘劇場 ③自由ヶ丘ヒカリ座(1970年代~80年代) 


Chika suidou(1957)
Chika suidou(1957).jpg「地下水道」●原題:KANAL●制作年:1956年●制作国:ポーランド●監督:アンジェイ・ワイダ●製作:ダリル・F・ザナック●脚本:イェジー・ステファン・スタウィニュスキー●撮影:イェジー・リップマン●音楽:ヤン・クレンズ●原作:イェジー・ステファン・スタウィニュスキー●時地下水道(米国版DVD).jpg間:96分●出演:タデウシュ・ヤンツァー/テレサ・イジェフスカ地下水道.jpg/エミール・カレヴィッチ/ヴラデク・シェイバル/ヤン・エングレルト●日本公開:1958/01(1979/12(リバイバル))●配給:東映洋画●最初に観た場所:新宿アートビレッジ (79-04-10) (評価:★★★★☆) ●併映:「灰とダイヤモンド」(アンジェイ・ワイダ)「地下水道」の一場面/「Kanal [DVD] [Import] (2003)米国版DVD

灰とダイヤモンド  .jpg 「灰とダイヤモンド」(1958)

 
ジェルミナール (全3冊).jpg【1954年文庫化・1994年改版[岩波文庫(上・中・下)]/1994年再文庫化[中公文庫(上・下)]】

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暗黒文学が示す、きれいごとを突き抜けた真にヒューマンなもの。

夜の果ての旅 ≪世界の文学≫.jpg夜の果てへの旅 上0.jpg 夜の果てへの旅下.jpg 夜の果ての旅2.jpg
夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)』『夜の果てへの旅〈下〉 (中公文庫)』['03年改版版] 『セリーヌの作品〈第1巻〉夜の果てへの旅』国書刊行会 版
世界の文学〈第42〉セリーヌ (1964年) 夜の果ての旅

Louis-Ferdinand Céline (1894-1961).gif 1932年に原著が出版されたフランスの作家ルイ=フェルディナン・セリーヌ (1894‐1961)『夜の果てへの旅』は、中央公論社刊「世界の文学」の第42巻として1964年に刊行されていて(生田耕作(1924-1994)訳)、この全集の面子が、前3巻(第39〜41巻)がカフカ、モーム、マルロー、後3巻(第39〜41巻)がフォークナー、へミングウェイ、トルストイなので、「おいおい、こんな処にいていいの?」という感じもします。

Louis-Ferdinand Céline (1894-1961/享年67) 

 それは、居並ぶ文豪たちと比べて力量が劣るように感じられるためではなく、才脳でもパワーではそれらを上回っている、しかし、昭和30年代の文学少女や読書少年のいる家庭に置かれる「文学全集」のイメージからすると、その中の1冊とするには、あまりに規格外のような印象さえ受けるためです。

 ここに描かれている壮大な『旅』は、主人公の医師バルダミュにとって決して清々しい旅などではなく、汚物と一緒に濁流に流されて街の場末から地の果てに至るような旅で、ところどころシニカルなユーモアも見られるものの、全頁が人間の醜さと人生への嫌悪に溢れた、徹底した「負の文学」ととれるかと思います。

 著者のセリーヌ(本名デトゥシュ)は、第1次世界大戦では名誉負傷で英雄となり、その後パリで開業医となり、この間に本書を発表して新人でフランス最高の文学賞を受賞しますが、第二次世界大戦中は反ユダヤ主義を標榜し、戦後亡命するも捉まり、戦犯宣告を受けて投獄されています。しかし彼の才能を惜しむ人はやはりいて、彼の減刑運動にアメリカ人作家のヘンリー・ミラーなど多くの作家が関わりました。

 この小説のダダイスティックかつアナーキーなムードや実験的な手法を多々用いている点はミラーに通じる部分がありますが、主人公が最後にアメリカへ行くというのも、ミラーと行き違いで面白い(小説の後半でバルダミュはアフリカからアメリカに渡るが、"手漕ぎのガリー船"でいくというのが何ともシュール)。  

ルイ=フェルディナン・セリーヌ.jpg またセリーヌは、サルトルやカミュよりもいち早く人間の不条理性、猥雑性を白日のもとに晒した実存主義の先駆的作家とも見做されていますが、サルトルは、彼を「暗黒文学の先駆者」と言っており、セリーヌは結局、その後も「灰色の文体」の作品を発表しながら、孤独と経済苦のうちに死んで行きます。この作品に見られる強烈な「反ヒューマニズム」は、魂の叫びとも言えるもので、多くの読者が感動するのは、そこにきれいごとを突き抜けた真にヒューマンなものを認めざるを得ないからではないでしょうか。

STUDIO LIPNITSKI Louis Ferdinand Céline et ses chiens, c.1955

『夜の果てへの旅―世界の文学42 セリーヌ』
『夜の果てへの旅―世界の文学42 セリーヌ』.jpg

 【1978年文庫化・2003年改版[中公文庫(上・下)]/1995年単行本〔国書刊行会(『セリーヌの作品 第1巻』)〕】

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○ノーベル文学賞受賞者(ミハエル・ショーロホフ) 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●は行の外国映画の監督②」の インデックスへ 「●「モスクワ国際映画祭 最優秀作品賞」受賞作」の インデックッスへ 「○外国映画【制作年順】」のインデックスへ

親子に思えたが実は...。技巧を超えた深みがある文庫で約50ページの中篇「人間の運命」。

『人間の運命』.JPG人間の運命.jpg  人間の運命 09.jpg ミハイル・ショーロホフ.png
人間の運命 (角川文庫)』(2008年改版版)『人間の運命 (1960年)(角川文庫)』角川文庫/映画「人間の運命」より/ミハイル・ショーロホフ(1905-1984)

 「人間の運命」は1956年の発表のロシア出身で、トルストイにつながるロシア文学の伝統を受け継ぎ、ソビエト文学を代表する作家とされるミハエル・アレクサンドロヴィチ・ショーロホフ(1905‐1984)の後期作品。角川文庫版では表題作のほかに、1925年に処女短編集「ドン物語」としてまとめられた彼の初期作品「夫の二人いる女」「子持ちの男」「るり色のステップ」「他人の血」の4編を所収。

静かなドン 世界の文学 中央公論.jpg静かなドン 全8巻.jpg ショーロホフの『静かなドン』は、今まで読んだ海外文学作品の中でもかなり長い部類の小説で(岩波文庫で全8巻、3,000ページ近くある)、読んでいるうちに誰が皇帝軍で誰が革命軍かわからなくなってきて、途中やや革命の英雄列伝っぽいような書き方もあり、少し退屈もさせられましたが、でもラストだけは、「武器よさらば」とはこの小説につけるべきタイトルではないかと思わせるような印象深いものでした。但し、ノーベル文学賞受賞作家ショーロホフのこの作品が純粋に彼一人の創作によるものではないという話はすでに定説のようです。 
『静かなドン―世界の文学31・32・33 ショーロホフ』(中央公論社)/『静かなドン 全8巻』(岩波文庫)

 『開かれた処女地』(こちらの方も全4巻と長い。アレクサンドル・イワノフ監督の映画化作品も観たがやはり長かった)とともに、大長編作家のイメージがありますが、本書はそんな"大長編作家"ショーロホフの中短編集で、「人間の運命」が100枚弱(文庫で約50ページ)の中篇で、あとは短編です。

「人間の運命」... 旅人が船着場で見かけた背の高い猫背男と少年の2人連れは、一見親子のように思えたが実はそうではなく、船が着くまでの2時間、一緒に煙草でも吸いながら船を待ちましょうという男の誘いで始まった彼の身の上話は、第二次世界大戦での重苦しく哀しい思い出であり、また驚くべきものでもあった―。戦場の砲火、敵将の尋問、捕虜生活などすべての苦難に敢然と耐えた、その拠り所であったものをすべて失った(正確には"失っていた")男にとって、予期せぬ"救い"となったのが自らの心から発する愛であり、それはそうした運命に翻弄された者しか持ち得ない再生の契機でもあったことを思い知らされます。

 物語のツボを押さえているという感じですが、技巧を超えた深みがあり、人が何によって生きるかを、普遍性をもって示している作品だと思います。長編以外は退屈な社会主義レアリズム小説しか書いていない作家だなどの批評もありますが、そんなことないでしょう(多分、盗作疑惑に加えて、この作家が途中から体制側のスポークスマンのような立場になってしまったこともあり、評価が厳しくなるのでは)。初期の所謂「ドン物語」群に属する「夫の二人いる女」「子持ちの男」「るり色のステップ」「他人の血」の何れもスゴイ話でした。解説の米川正夫(1891-1965)は、その中でも「るり色のステップ」「子持ちの男」が"一頭地を抜いて好個の短編"であるとしていますが、その通りだと思いました(「人間の運命」以上に"激しい"話と言えるかも)。

人間の運命 1959.jpgロシア映画DVDコレクション 人間の運命L.jpg「人間の運命」.jpg 尚、「人間の運命」は、「戦争と平和」のセルゲイ・ボンダルチュク監督によって'59年に映画化され、セルゲイ・ボンダルチュク自身が製作・主演も兼ねており、同年度の第1回モスクワ映画祭でグランプリを受賞しています。リアリズムに徹した描き方になっており、ストーリー的にも原作に比較的忠実に作られていたように思います。

ロシア映画DVDコレクション 人間の運命」 Sudba cheloveka (1959)

Sudba cheloveka (1959).jpg「人間の運命」●原題:SUDBA CHELOVEKA/A MAN'S DESTINY●制作年:1959年●制作国:ソ連●監督・製作:セルゲイ・ボンダルチュク●脚本:ユーリー・ルキン/フョードル・サヤフマゴノフ●撮影:ウラジミール・モナコフ●音楽:ベンヤミン・バスナー●原作:ミハエル・ショーロホフ●時間:100分●出演:セルゲイ・ボンダルチュク/ジナイダ・キリエンコ/パヴリク・ボリスキン/パーヴェル・ヴォルコフ/ユーリー・アヴェリン/キリル・アレクセエフ●日本公開:1960/11●配給:松竹セレクト(評価:★★★★)

人間の運命1.jpg 人間の運命2.jpg
映画 「人間の運命」 (SUDBA CHELOVEKA MAN'S DESTINY/'59年・ソ連/セルゲイ・ボンダルチュク監督・主演)

 【1960年文庫化・2008年改版[角川文庫]】

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「幸せになりたい症候群」が横溢する時代にあっては、逆に読者を惹きつける。

『狭き門』3c.jpg狭き門.jpg 『狭き門』岩波2.jpg『狭き門』岩波1.jpg
狭き門 (新潮文庫)』 『狭き門 (岩波文庫)
André Paul Guillaume Gide.jpgPAULETTE HUMBERT「LA PORTE ETROITE」挿画本1.jpgAndré Gide
 1909年に公にされたフランスの作家アンドレ・ジッド(1869‐1951/享年81)の作品。(原題:LA PORTE ETROITE)[右:ポーレット・ハンバート挿画(エッチング)本(1946)]

 物語の語り手、主人公ジェロームは、2歳年上の従姉アリサに恋心を抱き、彼女もまたジェロームを愛しているにも関わらず、神の国に憧れを持つアリサは彼の求婚を受諾することなく、最終的に地上での幸福を放棄し、ついには命を落とすというもの。

PAULETTE HUMBERT「LA PORTE ETROITE」挿画本2.jpg ジッド35歳から39歳にかけての作品で、少年期に父を亡くし、母と家庭教師とで暮らしていたことや、伯母の不義に悩む年上の従妹に恋し求婚したことなどは、彼の実人生と重なります(ジッドは26歳の年にこの従妹マドレーヌに求婚し、最初拒否されるが、結局彼女は彼の妻となる)。

 この〈物語〉(ジッドはこれは小説ではなく物語だとしている)では、アリサの自己犠牲の精神が、完成度の高い文体で美しく描かれてて、アリサの妹がジェロームを好いていたということもありますが、それ以上に、自分がジェロームの傍にいると、彼は、聖書に「力を尽くして狭き門より入れ」とある、その「狭き門」に至ることが出来ないという判断が働いていることがあります。

 キリスト教徒でない者から見れば理解の範疇を超えている面もあり、また、読み返してみて改めて気づいたのですが、前半部分からすでにアリサの「死への愛」(タナトス)とも思われる箇所も見られます。
 ではアリサの犠牲によって誰かが救われたかと言うと、アリサ自身も含め誰も救われておらず、一般的にも、ジッドはこの作品を通して、プロテスタンティズム的な「自己犠牲」に対する批判を行ったと解されているようです。

 プロテスタンティズムの「世俗内禁欲」や「隣人愛」が「資本主義の精神」となり、利潤を生じる資本主義の発展を支えたと分析したのはマックス・ヴェーバーでしたが、厳格なプロテスタンティズム社会に育った多感な少年ジッドは、プロテスタンティズムの禁欲主義、克己主義の重圧から自身を解き放つことに苦悶したと考えられ、アリサの「世俗内禁欲」や「隣人愛」を、ジェロームを通してある種の"理不尽"として描いているような気もします。

狭き門  ジイド.jpg しかし、それにしても、最後のアリサの日記に記された彼女の揺れ動く魂の軌跡などは人間的で、伯母の不義に対する反動から穢れのない恋愛を希求しているともとれますが、同時に青春文学に通じる恋愛の美化要素を満たしており、また、恋愛を通して幸せになるのではなく、徳を積み神の世界に近づこうとするその内面向上の姿勢は、一見アナクロ風でありながらも、「幸せになりたい症候群」が横溢する時代にあっては、逆に読者を惹きつけるものがあるのではないかと思いました。

狭き門 (旺文社文庫 508-1)』 

 【1954年文庫化・1975年改版[新潮文庫]/1954年再文庫化[角川文庫]/1967年再文庫化[岩波文庫]/1970年再文庫化[旺文社文庫]/1971年再文庫化[講談社文庫]/2015再文庫化[光文社古典新訳文庫]】

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難解ながらもスリリング。実存哲学的な文学作家評伝。

聖ジュネ  09.jpg聖ジュネ.jpg 聖ジュネ(文庫)上.jpg 聖ジュネ(文庫)下.jpg Jean-Paul Sartre (1905-1980).jpgジャン・ジュネ.jpg
英訳版/ガリマール社版/『聖ジュネ〈上巻〉―殉教と反抗 (1971年)』『聖ジュネ〈下巻〉―殉教と反抗 (1971年)』新潮文庫 Jean-Paul Sartre/Jean Genet

聖ジュネ〈上巻〉.jpg聖ジュネ〈下巻〉.jpg 1952年の原著発表。フランスの実存主義哲学者ジャン=ポール・サルトル(1905‐1980)は、「嘔吐」「水入らず」など一連の小説でノーベル文学賞を受賞していますが(結果的には辞退)、本書は小説ではなく、泥棒から作家になったジャン・ジュネに関する哲学的な文学評伝です。

 本書によれば私生児だったジュネは、拾われた農夫の家で10歳のときに盗みを見咎められ、「お前は泥棒だ」と"宣告"されるのですが、その"事件"により社会から疎外された彼は、むしろ「貼られたレッテルどおりに進む」ことを決意し、本物の泥棒になり、さらには「女役の男色」にまでなります。

 しかしその結果、今度は、自分は「対他存在」(他人から規定された仮象を生きる存在)にしか過ぎないと感じるようになり、そのことは彼に自己疎外を引き起こします。ジュネがそれをどう克服するかが本書の1つの大きなテーマなのですが(ジュネ自身のテーマというよりサルトルが設定したテーマだが)、彼は徹底して他者から卑下されることで〈仮象〉を自分のものとします。つまり、人から軽蔑されるように努力するのです。

 サルトルの言う「実存」(対自存在)は、理由もなく偶然にある状況に投げ込まれて存在する無根拠な存在者であり(それはまさに我々のことを指している)、それはまた、"投企"によって自己を創出できる自由な存在者でもあって、つまり人間はモノ(即自存在)ではないということですが、ジュネを蔑む〈まっとうな人々〉こそ、既成価値観に囚われた〈仮象〉に生き、それらを剥ぎ取ればモノ(即自存在)に過ぎないのではないかというパラドックスがここに成り立ちます。

存在と無下.jpg存在と無 上.jpg 難解ながらもスリリングですが、「女役の男色」がどうして「対他存在」(他人から規定された仮象を生きる存在)なのでしょうか。本書より前に書かれた『存在と無(上・下)』('66年全集版・'05年新装版/人文書院)を読むと、サルトルは男性を「主体的」存在(=見る存在)、女性を「客体的」存在(=見られる存在)としています。これは、女性は〈他人から規定された仮象を生きる存在〉であるとしているともとれ、「女役の男色」もこれに当て嵌まるということのようです(因みに、サルトルの女性観にはフェニミストなどからの批判も多いようだが、そうした批判の中には「誤読」によるものも多いのではないかと思う)。

 サルトルの哲学は文学的な匂いがしますが、彼はそう思われるのを嫌っていて、それがノーベル「文学」賞の辞退理由だという話もあります。でも、日本でも一時期、文学作家の間で人気があったのでは。三島由紀夫などはジュネのファンであったと同時に、エッセイなどではサルトルの著作からよく引用しています。

 この評伝はあまりにサルトルの自身の哲学寄りに書かれていて、ジュネ自身は気に入らなかったようですが、それなりに衝撃を受けたらしく、ジュネは本書発表後しばらくは自分の作品を書くことを止めています。 

 【1958年単行本[新潮社(『殉教と反抗(上・下)』)]/1966年全集[人文書院サルトル全集34・35(『聖ジュネ-殉教者と演技者(上・下)』)]/1971年文庫化〔新潮文庫(上・下)〕】

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映画公開の5年後に出た翻訳。思弁的・実験的だが読みやすく、醸す雰囲気は好み。

存在の耐えられない軽さ(ポスター).jpg存在の耐えられない軽さ.jpg 存在の耐えられない軽さ2.jpg 存在の耐えられない軽さ 全集.jpg 存在の耐えられない軽さv.jpg 
映画 「存在の耐えられない軽さ」 ポスター(渋谷パンテオン)『存在の耐えられない軽さ』(単行本)『存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)』『存在の耐えられない軽さ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-3)』「存在の耐えられない軽さ [DVD]
Milan Kundera
Milan Kundera.jpg 1984年にフランスで出版された、まだノーベル文学賞を貰っていない最後の大物作家と言われているチェコ出身のミラン ・クンデラ(Milan Kundera)の作品で、発表時の政治的事情(フランスへの亡命状態だった)で、自身の母国語であるチェコ語ではなくフランス語で書かれました。

The Unbearable Lightness of Being1.jpg 冷戦下のチェコスロバキア、1968年のソ連軍侵攻・「プラハの春」前後の話で、運命に弄ばれ苦悩する男女を描いた小説ですが、政治的な問題(チェコスロバキアという国名が使われていないことからみてもその複雑さが窺える)のほかに哲学的問題(ニーチェの永劫回帰論を引いてのタイトルの「存在の耐えられない軽さ」ということの解題からこの小説は始まる)、母と娘の関係といった精神分析的問題、言葉とコミュニケーションの問題、心と身体(性)の疎外問題などの様々なテーマを作中で扱っています。
The Unbearable Lightness of Being (1988)
The Unbearable Lightness of Being (1988).jpgThe Unbearable Lightness of Being2.jpg 先にフィリップ・カウフマン監督の映画('87年/米)の方を観てそれほど悪くないと思ったのですが(原作の翻訳が出たのは映画公開より5年後)、映画ではイギリス人俳優のダニエル・デイ=ルイスが、天才脳外科医でありながらプラハ抵抗運動のシンパでもあり、女たらしのプレイボーイだけれども妻をもきっちり愛しているという、なかなか魅力的な主「存在の耐えられない軽さ」.jpg人公トマーシュをうまく演じていてました(ダニエル・デイ=ルイスは翌年、「マイ・レフトフット」('89年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞する)。やりたいことはすべてやりながら、最後にあっさり事故死してしまったトマーシュ存在の耐えられない軽さ1_2.jpgという男を通して、人間に備わった人格の複雑さと多面性、運命の前での人間の生の脆さなどを感じさせる佳作でした。

ジュリエット・ビノシュ/ダニエル・デイ=ルイス

(主人公の妻を演じたフランス人女優ジュリエット・ビノシュはその後、「トリジュリエット・ビノシュ   .jpgダニエル・デイ=ルイス .jpgコロール/青の愛」('93年)でヴェネツィア国際映画祭女優賞、「イングリッシュ・ペイシェント」('96年)でベルリン国際映画祭銀熊賞女優賞とアカデミー助演女優賞、「トスカーナの贋作」('10年)でカンヌ国際映画祭女優賞を受賞し、世界三大映画祭の女優賞をすべて受賞した最初の女優となっている。)(更に、主人公トマーシュを演じたダニエル・デイ=ルイスもその後、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」('07年)、「リンカーン」('12年)でもアカデミー賞主演男優賞を受賞し、アカデミー主演男優賞を3回受賞した唯一の俳優となった。)
「イングリッシュ・ペイシェント」('96年)でアカデミー賞助演女優賞を獲得したジュリエット・ビノシュ/「マイ・レフトフット」('89年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞したダニエル・デイ=ルイス
   
わが青春のフロレンス チラシ.jpg122_metelloわが青春のフロレン.jpg この映画を観たときにマウロ・ボロニーニ監督の「わが青春のフロレンス」('70年/伊)という古い映画を思い出しました。

METELLO 1970 2.jpgMETELLO 1970 1.jpg 無政府主義者の父親に育てられた主人公メテッロ(マッシモ・ラニエリ)は、水難事故で父を失ってから孤児として苦労する。ベルギーへの移住を拒否し、両親の故郷フィレンツェでレンガ職人として働き始めるが、次第に労働者の権利に目覚め、ストライキの中心人物となっていく。その間、メテッロとMetello 1970.jpg 未亡人ヴィオラ(ルチア・ボゼー)との恋、事故死した仲間の娘エルシリア(オッタヴィア・ピッコロ)との恋と結婚、隣家の婦人イディーナ(ティナ・オーモン)との浮気なども―。

マッシモ・ラニエリ/オッタビア・ピッコロ

わが青春のフロレンス 01.jpg 原作はヴァスコ・プラトリーニ。ルキノ・ヴァレリオ・ズルリーニ監督の「家族日誌」の脚本家、ヴィスコンティ監督の「若者のすべての」の共同原案者でもあり、20世紀初めのフィレンツェを舞台に、階級意識に目覚め労働運動のリーダーとなっていく男を描いたものですが、この主人公は、闘争のかたわら人妻と過ちを犯してしまうというもので、同じように人間の多面性をよく描いている映画でした。この作品でエルシリアを演じたオッタヴィア・ピッコロが、1970年のカンヌ国際映画祭女優賞を受賞しています。
  
 ミラン・クンデラの原作『存在の耐えられない軽さ』の方は、当時の政治状況やプラハ抵抗運動で起きた出来事が色濃く影を落とす一方で、トマーシュと彼のドン・ファンぶりに悩みながらも愛を貫こうとするテレザの複雑な愛の物語になっていて、トマーシュは画家のサビナを愛人とするなど一夫多妻生活を送っていて、サビナも大学教授フランツとも付き合い、さらにテレザも他の男と交わったり、サビナとも女同士の妖しい関係になるなど、登場人物は少ないが(みな知識人)、彼らはそれぞれに、心と身体の疎外やある種のコミュニケーション不全に悩んでいます(サビナとフランツの言葉の行き違いなどはディスコミュニケーションの問題を、テレザが男と寝る場面では身体の心に対する裏切りを、それぞれ深く抉っている)。
 
旅芸人の記録パンフ.gif そうした登場人物の会話や思惟が、時に作者の哲学的考察も交えて思弁的に展開されていて、更にそれを作者はカットバックを用いた実験的な方法で描いており、例えば、映画のラストで主人公が見舞われるアクシデントも、原作では中ほどで、しかも伝聞スタイルで出てきます(ミラン・クンデラに原作の感想を聞かれたダニエル・デイ=ルイスが「映画化は無理だと思った」と答えたところ、映画学校で教えたこともあるクンデラは「私もだよ」と笑いながら言ったという)。
 
 人物の置かれた状況や意識をコラージュのように貼り合わせ、歴史とそれに巻き込まれる男女の関係を描くという意味で、平面的なカウフマン監督の映画よりも、むしろ構成的にはテオ・アンゲロプロス監督の旅芸人の記録」('75年)を連想しました(クンデラの映画学校講師時代の生徒にはミロシュ・フォルマン(「カッコーの巣の上で」('75年)の監督)がいる)。 

 何れにせよかなりの力量が感じられ、部分的には修辞的に凝った記述もあり、またチェコの歴史についてもある程度の知識が求められるのかも。但し、全体的には決して読むこと自体に難儀する小説ではなく、むしろスラスラ読めてしまい、しかもこの小説が醸す雰囲気は何となく自分の好みなのですが、どこまで作者の意図を理解できたかは心もとないといったところです。
 
 政治的理由で人々が職場や祖国を追われるといったことが身近な体験としてないと、なかなかわからない面もあるのかも知れませんが、人生の偶然の出来事も個人の意思による選択も、すべて大きな歴史の流れの中でのそれに重なる個人史として位置づけてみるところに(この物語が作者の述懐の如く書かれているのが1つのミソではないか)、日本人の人生と歴史の関わりについての考え方との大きな違いを感じました。

「存在の耐えられない軽さ」渋谷パンテオン.jpg原題:THE UNBEARABLE LIGHTNESS OF BEING●制作年:1988年●制作国:アメリカ●監督:フィリップ・カウフマン●音楽:アラン・スプレット●原作:渋谷パンテオン 2.jpgミラン ・クンデラ●時間:171分●出演:ダニエル・デイ・ルイスジュリエット・ビノシュ/レナ・オリン/ダニエル・オルブリフスキー/デレク・デ・リント/エルランド・ヨゼフソン●日本公開:1988/10●配給:松竹富士●最初に観た場所:渋谷パンテオン (88-11-13) (評価★★★★)
渋谷パンテオン 東急文化会館1F、1956年12月1日オープン。2003(平成15)年6月30日閉館。

「わが青春のフロレンス」●原題:METELLO●制作年:1970年●制作国:イタリア●監督:マウロ・ポロニーニ●音楽:エンニオ・モリコーネ●原作:ヴァスコ・プラトリーニ 「メテッロ」●時間:111分●出演:マッシモ・ラニエリ/オッタビア・ピッコロ/ティナ・オーモン/ルチア・ボゼー/フランク・ウォルフ/アドルフォ・チェリ●日本公開:1971年●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:高田馬場パール座 (77-12-16) (評価★★★☆)●併映「リップスティック」(ラモンド・ジョンソン)

妻エルシリア(オッタビア・ピッコロ)/隣家の女イディーナ(ティナ・オーモン)/未亡人ヴィオラ(ルチア・ボゼー)
わが青春のフロレンス7.jpg わが青春のフロレンス8.png わが青春のフロレンス6.jpg

Tina Aumont.jpgティナ・オーモン(Tina Aumont) in「青い体験」('73年/伊)

【1998年文庫化[集英社文庫]】


ミラン・クンデラ.jpgミラン・クンデラ チェコ出身の作家
2023年7月11日死去。94歳。「存在の耐えられない軽さ(The Unbearable Lightness of Being)」などの作品で知られる。

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道徳観念や社会批評に裏打ちされた人間味溢れる作品群。

ガルシン 赤い花.png赤い花・信号.jpg 0_ガルシン短篇集 (福武文庫).jpg    akaihana.jpg  ガルシン.jpg
紅い花 他四篇 (岩波文庫)』['37年]『赤い花・信号 他 (旺文社文庫)』['68年] 『ガルシン短篇集 (福武文庫)』〔'90年〕 電子書籍版 『ガルシン短篇集・赤い花』〔'06年〕フセヴォロード・ミハイロヴィチ・ガルシン (Всеволод Михайлович Гаршин, 英:Vsevolod Mikhajlovich Garshin、1855‐1888/享年33)

 1886年に発表されたロシアの作家フセーヴォロド・ガルシン(1855‐1888)「赤い花」は、癲狂院(精神病院)に連れてこられた患者が病院の庭に咲き誇る罌粟(けし)の花を悪の化身と感じ、それを全て摘み取ることが自分の義務だと思い込んで、その「悪」との闘いに身を滅ぼすというもので、シュールなモチーフでありながら自らの精神病院の入院体験がベースになっているだけに、狭窄衣や薬物を用いての患者の扱われ方などの描写はリアルです。

 戦場で負傷し、自らが殺したトルコ人の男の死体と共に過ごした時間を描いた「四日間」も、1877年の露土戦争に参戦して負傷した経験がベースになっていて、腐乱していく死体の傍から動けないという不気味な状況下での兵士の切実な叫びが伝わってきますが、ここで、作者が「赤い花」の狂人に対してもその心の叫びに共感的であり、その良心を認めていたことに気づかされました。 

 そして、2人の鉄道の信号番の男の交わりを描いた「信号」は、その「良心」というものがテーマになっている最もヒューマン・タッチな作品で、しかも最後までハラハラさせられ堪能できます。

 他に、虫たちを主人公とした「夢がたり」、植物を主人公とした「アッタレーア・プリンケプス」などの寓話的物語も、ユーモアの中に社会批判を込めて秀逸で、全体を通してこの作家の柔軟な知性を感じます。

 作者ガルシンは、5歳ぐらいから古典を読みこなし将来は医者を目指す秀才でしたが、17歳で最初の精神病発作を起こしてその後生涯において何度も精神病院への入退院を繰り返し、精神病の発作の恐怖から33歳で自殺に追い込まれています。

あかい花.jpg 彼の精神病は、遺伝的なものと強すぎる感受性に起因するものだったようですが、作品自体は精緻で無駄がなく、しかも真っ当な道徳観念や社会批評に裏打ちされた人間味溢れるものであると思います。

岩波文庫(旧版) 『あかい花 他四篇』
                
 【1937年文庫化・1959年・2006年改版[岩波文庫]/1968年再文庫化[旺文社文庫(『赤い花・信号』)]/1990年再文庫化[福武文庫(『ガルシン短篇集』)]/2006年電子書籍版〔グーテンベルク21(『ガルシン短篇集・赤い花』)〕】

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近代人の自己からの疎外を強烈に描いていて、常に"今日的"な作品。

フランツ・カフカ 『変身』2.JPG
フランツ・カフカ 『変身』.JPG変身2.jpg
  カフカ.jpg Franz Kafka (1883‐1924/享年40)
変身 (新潮文庫)』〔旧版/新版〕
     
Kafka Die Verwandlung 1915/『変身 他一編(岩波文庫)』/『変身―カフカ・コレクション (白水uブックス)
Kafka Die Verwandlung 1915.jpg変身 iwanami.jpg変身―カフカ・コレクション (白水uブックス).jpg 1915年にドイツ語で出版されたユダヤ系チェコ人作家、フランツ・カフカ(1883‐1924)の最も有名な作品で、個人的には、「毎日小学生新聞」の「世界のSF」みたいなコーナーでダイジェスト版で読んだのが最初でしたが(レイ・ブラッドベリなどと一緒に紹介されていた)、有名でそれほど長い話でもないので、小中学生ぐらいで完全版を読んだという読者も結構いるのではないでしょうか。

新潮文庫 プレミアムカバー 2018 hennsin.jpg新潮文庫2018年プレミアムカバー

変身  .jpg ある朝、グレゴール・ザムザ(新潮文庫ではグレーゴル・ザムザ)が目覚めたら、自分が寝床の中で1匹の巨大な虫に変っているのを発見するという誰もが知る書き出しです(この「虫」というは作者の記述からすると(新潮文庫・高橋義孝訳)、かつてよくイメージされていた"イモ虫"のようなものではなく"ムカデ"か"ゴキブリ"のようなものらしい)。

 新潮文庫の解説で、この物語の不思議な点として、当然のことながら、まず弟1に、ザムザが虫に変身したことを挙げていますが、弟2に、彼の変身を周囲の人は誰も不審に思っていないということ、弟3に、ザムザがなぜ変身したかを作者がまったく説明していないこと、を挙げていて、尤もだと思います。

フランツ・カフカ  『変身』 e.jpg とりわけ2番目に関しては、ザムザ自身が、自分がムカデに変身したことを不審に思っていないというのが不思議で、巨大な虫になってしまってビックリしたとかどうしてこうなったのか考えるという話にはなっておらず、まず、保険外交員としての自分の仕事のことや会社における地位のことを心配していて、この点において近代人の「自己からの疎外」を鋭く描いていると思います。ムカデになっても、そのこと自体について大きなパニックに陥るのではなく、会社の仕事が遅れることを憂い、不況下のサラリーマンの如く、失業することの心配しているのが何とも哀しい。

 父親が投げつけたリンゴが皮膚にめり込んで衰弱死に至る後半部分は、カフカのファーザー・コンプレックスが色濃く出ていますが、最後は家族全員が彼が亡きものになればいいと思うようになり、そこには、家族すらも愛情的繋がり以上に社会的役割に過ぎず、その役割が果たせなければ家族という"社会"から疎外され、家族によって抹殺されてしまうという、人間と人間の繋がりや人間存在の脆弱さを浮き彫りにしているように思えました。

 労災保険局の職員だった(結局、死の2年前までそこに勤務していた)カフカがこの作品が書いたのは初版刊行を遡ること数年の1912年で、和暦で明治45年ですが、古さを感じさせず、むしろテーマ的には常に"今日的"な作品であると思います。

「変身」('02年/ロシア).jpg この作品は何度か映像化されていて、個人的にはワレーリイ・フォーキン監督の「変身」('02年/ロシア)を字幕なしで観ました。監督は同作の舞台版を手掛けたロシア演劇界の鬼才と言われる人で、この映像化作品でも、役者自身が自分の肉体を使って毒虫を表現する演劇的アプローチを試みています。従って、グレーゴル・ザムザの家族が彼の部屋の扉を開けてもそこに奇怪な毒虫となった息子がいるわけではないのですが、家族の驚嘆した表情を映し出すなどのモンタージュの手法を使って状況を表現しています。雰囲気は出ていましたが、言葉が分からなかったので評価は保留しておきます。
映画「 変身」 (2002) Prevrashcheniye (原題) / METAMORPHOSIS (英題) (2009年にDVDが発売)

変身・断食芸人 (岩波文庫)』『変身,掟の前で 他2編 (光文社古典新訳文庫 Aカ 1-1)
変身・断食芸人.jpg変身、掟の前で 他2編.jpg 【1952年文庫化・1985年改版[新潮文庫(高橋義孝:訳)]/1952年再文庫化・1979年改版[角川文庫](中井正文:訳)/1973年再文庫化[旺文社文庫(『変身 他』(川崎芳隆 他:訳))]/1978年再文庫化[講談社文庫(『変身・判決・断食芸人』(高安国世:訳)]/1979年再文庫化[岩波文庫(『変身 他一篇』(山下肇:訳))]/2004年再文庫化[岩波文庫(『変身・断食芸人』(山下肇:訳))]/2007年文庫化[講談社英語文庫]/2007年再文庫化(新装版)[角川文庫(中井正文:訳)]/2007年再文庫化[光文社古典新訳文庫(『変身、掟の前で 他2編』(丘沢静也:訳))]/2015年文庫化[集英社文庫(『カフカ ポケットマスターピース 01 (集英社文庫ヘリテージシリーズ) 』(多和田葉子 他:訳))]】

《読書MEMO》
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