Recently in サマセット・モーム Category

「●も ウィリアム・サマセット・モーム」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●も 森 鷗外」【650】 森 鷗外 『
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

残酷な滑稽さ。「雨」の強烈な大どんでん返しとはまた違ったほろ苦いラスト。

『雨・赤毛』 新潮文庫.jpg『雨・赤毛 モーム短篇集(I.jpg『雨・赤毛  モーム短篇集(I)』.jpg
モーム短篇集〈第1〉雨,赤毛 (1959年) (新潮文庫)』『雨・赤毛: モーム短篇集(I) (新潮文庫)

 白人の殆どいない南サモアの小さな島。島々に荷物や手紙を運ぶ貨物船の船長が停泊のため、ある島のラグーン(珊瑚環礁)に入る。船長は日に焼けた中年の白人で、太っていて、禿げていて、汚い服を着ていた。島で暮らすスウェーデン人のニールソンは、久しぶりに会った白人である船長に、若き日の恋物語を語り始める―。かつて、アメリカ海軍から逃亡した「レッド」と呼ばれる二十歳の赤毛の水兵がこの島に来て、土地の16歳の美しい娘と出会い、二人は恋に落ちた。二人は一緒になり、楽園のように美しい島で無上の幸福の時を過ごすが、2年後、出来心を起こした青年は、騙されてイギリスの捕鯨船に連れ攫われてしまう。残された女は涙に明け暮れ、4カ月後に子どもを死産する。男の音沙汰はない。3年が経った頃、当時25歳のニールソンは、病気療養のために島にやって来て、その美しい娘に見惚れる。周囲も彼との結婚を勧めるが、レッドのことが忘れられない彼女は拒絶する。しかしやがて観念し、ニールソンと結婚するに至る。ニールソンはじめ、自分の愛情によって娘を幸福にすることができると信じていたが、やがてそれが無理だと理解する。彼女から愛されることのないことを悟った彼は、やがて胸の内で彼女を憎むようになる。そして25年の月日が流れた―。今、ニールソンの前にいる船長、禿げた赤毛の頭、酒ぶくれでぶよぶよに太った醜い男は、何故かニールソンに不快感を催させる。「であんたのお名前は?」そう、この船長こそがレッドだった。25年の歳月で美しかった青年は、こんなにも醜い中年男性になってしまっていた。やがて船長は帰る。ちょうどその時、奥から白髪の太った色黒の現地人女性が「今の人は何の用だったの?」と出てくる―。

一葉の震え.jpg 原作は1921年刊行(モーム47歳)の短編集『木の葉の戦(そよ)ぎ』(The Trembling of a Leaf)に「」などと共に収められていた中篇小説です(『木の葉の戦ぎ』は'14年に近代文藝社から初の完訳本が『一葉の震え』として刊行された)。

一葉の震え―「雨」ほか、南海の小島にまつわる短編集』['14年/近代文藝社]
(「レッド」「小川の淵」「ホノルル」「雨」「エドワード・バーナードの凋落」「マッキントッシュ」の6編を所収)

 ネタバレになりますが、老醜の船長が、かつての美男子「レッド」であったことは、話の途中にかなり"仄めかし"があったように思います。ただし、ラストでもう一捻りあって、当事者双方が自分たち自身はそうであると認識しない「再会」があったことになります。

 老いて変わり果てたレッドの存在が明らかになったことによって、切なさを秘めた悲劇であったはずの物語が残酷な様相を帯び、さらにそれに輪をかけるように、もう1人の悲劇の主人公=悲恋物語のヒロインであったはずの女性の、時の流れに抗えなかった今現在の姿が浮かび上がるという、冷酷とも皮肉とも言える結末となります。見方によっては、そこに残酷な滑稽さがあるとも言えます。

 「雨」の強烈な大どんでん返しとはまた違ったほろ苦いラストで、ストーリーテラーとしてのモームの面目躍如といった結末ではないでしょうか(語り手のニールソンが当事者の双方ともに対して事実を明かさないことで、"ほろ苦い"という程度で収まっているとも言える。話していたらどうなっていたか想像するのも、この物語の味わい方の一つかも)。

 もう1つ所収の「ホノルル」という短編も、ある種似たような皮肉な笑いで終わる話で、語り手が出会った陽気で楽天的な小男の船長は、美しい現地人の娘を伴って現れ、自分が陥った超自然的な危機について語り始めますが―。愛する男のために自らの身体をなげうって顧みない娘が、あっさりと他の男と逃げ出してしまうという結末も何とも皮肉です。ただし、訳者の中野好夫が指摘しているように、「雨」「赤毛」に比べると、構成や結末のインパクト等の面でやや落ちるでしょうか。

【1957年文庫化[角川文庫(厨川圭子:訳『赤毛―他六篇』)]/1959年再文庫化[新潮文庫(中野好夫:訳『雨・赤毛―モーム短篇集Ⅰ』)]/1962年再文庫化[岩波文庫(朱牟田夏雄:訳『雨・赤毛 他一篇』)]/1978年再文庫化[講談社文庫(北川悌二:訳『雨・赤毛』)]】

「●も ウィリアム・サマセット・モーム」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3235】 ウィリアム・サマセット・モーム 「赤毛
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

モデルとされているゴーギャンとの相違点も多い。世界文学の名作でありながら、読み易く面白い。

『月と六ペンス』(文庫).jpg
厨川圭子:訳『月と六ペンス』(1958 角川文庫)/中野好夫:訳『月と六ペンス』(1959 新潮文庫)/龍口直太郎:訳『月と六ペンス』(1966 旺文社文庫)/阿部知二:訳『月と六ペンス』(1970 岩波文庫)/北川悌二:訳『月と六ペンス』(1972 講談社文庫)/土屋政雄:訳『月と六ペンス』(2008 光文社古典新訳文庫)/厨川圭子:訳『月と六ペンス』(2009 角川文庫)/行方昭夫:訳『月と六ペンス』(2010 岩波文庫)/金原瑞人:訳『月と六ペンス』(2014 新潮文庫)
The moon and sixpence (1919 edition) |
The Moon and Sixpence 1919.jpg 作家の私は、夫人のパーティーに招かれたことからストリックランドと知り合う。ストリックランドは証券会社で働いていたが、ある日突然家族を残して消える。私は夫人に頼まれ、パリのストリックランドのもとへ向かうと、駆け落ちしたという女性の姿はなく、一人で貧しい生活を送っていた。話を聴くと、絵を描くために生活を捨てたという。私は彼を批判するが、彼はものともしない。夫人は私からそのことを聞くと悲しんだが、やがてタイピストの仕事を始めて自立してく。その5年後、私はパリで暮らしていた。以前に知り合った三流画家のダーク・ストルーヴを訪れ、彼がストリックランドの才能に惚れ込んでいることを知る。ストルーヴに連れられストリックランドと再会するが、彼は相変らず貧しい暮らしをしていた。それから私は何度かストリックランドと会ったが、その後絶縁状態になっていた。クリスマス前のある日、ストルーヴとともにストリックランドのアトリエを訪れると、彼は重病を患っていた。ストルーヴが彼を自分の家に引き取ろうとすると、妻のブランチは強く反対する。夫に説得されてストリックランドの看病をするうちにブランチは彼に好意を寄せるようになり、ついには夫を棄ててストリックランドに付き添うが、愛情を受け入れてもらえず服毒自殺する。妻の死を知ったストルーヴは、ストリックランドへの敬意を失うことなく、故郷のオランダへと帰って行った。私はストリックランドに会って彼を再び批判したが、その後彼と再会することはなかった。ストリックランドの死後、私は別件でタヒチを訪れていた。そこで彼を知るニコルズ船長に出会い、彼が船乗りの仕事をしていた時のことを聞く。貿易商のコーエンはストリックランドを自分の農場で働かせていたことを話す。宿屋のティアレは彼にアタという妻を斡旋したことを話した。彼の家に泊まったことのあるブリュノ船長は、ストリックランドの家の様子を話した。医師のクートラはストリックランドがハンセン病に感染した晩年のことを語り、彼の遺作は遺言によって燃やされたとしている。私は医師の所有するストリックランドの絵画を見て恐ろしさを感じていた―。
New York: Pocket Books, 1967.
『The Moon and Sixpence 』.jpg 1919年に出版されたサマセット・モームの、言わずと知れた彼の代表作。画家のポール・ゴーギャンをモデルに、絵を描くために安定した生活を捨て、死後に名声を得た人物の生涯を描いています。この小説を書くに際し、モームは実際にタヒチへ赴き、ゴーギャンの絵が描かれたガラスパネルを手に入れたといいいます。「月」「六ペンス」はそれぞれ「聖」と「俗」の象徴であるとか、これまでも何度も言われていますが、そう言えば、両方とも"丸い"形は同じなのだなあと改めて気づいたりしました(気づくのが遅い?)。

 ゴーギャンがモデルであるのは確かですが、ストリックランドとゴーギャンでは相違点がかなり多いというのは以前から指摘されていることです。ストリックランドは英国人ですが、ゴーギャンはフランス人で、ストリックランドは印象派を全く評価しておらず、同世代の画家とも付き合いはないように描かれていますが、ゴーギャンは印象派展に作品を出展しており、ゴッホだけでなく、多数の印象派画家と交流がありました(ストリックランドがタヒチで亡くなっているのに対し、ゴーギャンはマルキーズ諸島で亡くなっているなど、ほかにも多くの相違点がある。 ただし、画家になる前は証券会社で働いているなど、共通点があるのも確か)。

 最初に読んだ時は思いつかなかったのですが、ストルーヴ(この興味深いキャラクターの三流画家は、絵は下手だが、ストリックランドの才能を見抜く眼力はあったということになる)が、そのゴッホをモデルにしているという見方もあるようです(ストルーヴはゴッホ同様にオランダ人)。ただし、ストルーヴは、自らが見出した超絶した才能の前に、その彼に妻を奪われてまでも崇拝の念を抱き続ける、ある種、ドストエフスキーの小説に出てくるような特異な人物として描かれれています。

ゴーギャン「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
「我々はどこから来たのか.jpg 最後に語り手である「私」がタヒチで遭遇したストリックランドの遺作は、ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」がモデルになっているのではないでしょうか(高間大介『人間はどこから来たのか、どこへ行くのか』)('10年/角川文庫)、エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか?(上・下)』('22年/文藝春秋)が共にこの絵からタイトルを取り、表紙カバーにこの絵を用いている)。

 世界文学に名を残す作品でありながら、読み易く、特に後半の「私」がタヒチを訪れて聞くストリックランドの話は、いきいきしていて(時制を後日譚(過去形)からリアル(現在進行形)に戻している箇所がある)面白いといっていいくらい。その面白さの中には、現地の人たちでさえ何の価値も無いと思っていたストリックランドの絵に、後にとんでもない高値が付いたというエピソードも含まれますが、ある意味、芸術的価値でさえ金銭的数字に置き換えられるという、資本主義社会を腐肉っぽく象徴しているようにもとれます。

 ただし、最後にタヒチでのストリックランドのことを夫人に話し終えた「私」の頭には、「彼がアタとの間に儲けた息子が、大海原で船を操っている姿が浮かんでいた」とあり、ロマンチックな終わり方になっています。こうした南洋への憧れは西欧人に根強くあって、たとえば映画の世界ならば、ミュージカル映画「南太平洋」('58年/米)からディズニー映画「モアナと伝説の海」('16年/米)まで連綿と続いているのではないでしょうか。

「月と6ペンス」映画.jpg この作品自体も1942年に、「月と6ペンス」('42年/米)としてジョージ・サンダース主演(ストリックランド役)によって映画化されていますが、ストリックランドが「女というものは犬と同じで、ぶてばぶつほど、罰を受けていい子になる」というようなことを言っていて(原作に実際そのようなストリックランドの言葉がある)、そのセリフが当時の女性たちの反発を猛烈にくらい、ジョージ・サンダースはフェミニストから敵視されたとか。彼は自分は女性を蔑視しておらず、愛犬家でもあることをアピールしたようですが(この人を主人公にした『ジョージ・サンダース殺人事件』という推理小説があるぐらいの当時の人気俳優でもあり、人気があるからこそ叩かれたのかも)。

「月と6ペンス」1942.jpg 映画の方はリアルタイムでストリックランドを追っているので、彼とアタの出会いなども描かれていて、ラブロマンスっぽい印象です(前半はコメディっぽい箇所も多い)。英語版しか観ていないので、評価は保留します。アタを演じているのはエレナ・ヴェルダゴという米国の白人女優で、その後の出演作をみると「南の島でラブハント」('44年)とか「ジャングルの宝庫」('49年)とかそれ風のタイトルの作品が続くので、よほどこの映画の印象が強かったのでしょうか(フランケンシュタイン映画など怪奇映画にも出ている)。
  
House of Frankenstein (1944.jpgElena_Verdugo_1955.jpg Elena Verdugo

House of Frankenstein(1944)
  
『月と六ペンス』(角川文庫)2.jpg【1958年文庫化[角川文庫(厨川圭子:訳)]/1959年再文庫化[新潮文庫(中野好夫:訳)]/1966年再文庫化[旺文社文庫(龍口直太郎:訳)]/1970年再文庫化[岩波文庫(阿部知二:訳)]/1972年再文庫化[講談社文庫(北川悌二:訳)]/2008年再文庫化[光文社古典新訳文庫(土屋政雄:訳)]/2009年再文庫化[角川文庫(厨川圭子:訳)]/2009年再文庫化[岩波文庫(行方昭夫:訳)]/2014年再文庫化[新潮文庫(金原瑞人:訳)]】
『月と六ペンス』(新潮 文庫).jpg

「●ま行の外国映画の監督」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒【2086】ジョン・マクティアナン「ダイ・ハード
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●も ウィリアム・サマセット・モーム」の インデックッスへ 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ

原作の絵解き? 27歳にして大女優の風格のジョーン・クロフォード。

雨 マイルストン.jpg雨 1932.jpg Lewis Milestone rain.jpg 雨.jpg
雨 [DVD]」『雨―他一篇 (1958年) (角川文庫)』ジョーン・クロフォード/ウォルター・ヒューストン

雨 マイルストンの1シーン.jpg 南洋・サモアの島を舞台に、魔窟を流れ歩く娼婦サディ・トンプソンと、彼女を宗教的救いの世界に導こうとする宣教師デヴィッドソンの確執を描いた英国の作家ウィリアム・サマセット・モーム(William Somerset Maugham 1874‐1965)の中篇を、米国のルイス・マイルストン(Lewis Milestone 1895‐1980)が監督した作品(原題:Rain)。

雨 1932   .jpg 原作は1921年刊行(モーム47歳)の短編集『木の葉の戦(そよ)ぎ』(The Trembling of a Leaf)に収められていた中篇小説ですが、『人間の絆』(41歳)、『月と六ペンス』(45歳)と、彼が最も脂が乗っていていた頃の作品で、しかも、短編小説では世界最高峰級と言われたモームの中短編小説の中でも代表作と言われているものです(個人的には、長編小説(『人間の絆』など)も"世界最高峰級"だと思うが)。

 娼婦の改心に成功したかに見えた宣教師は、最後は海辺で喉を掻き切られた遺体で(剃刀を握ったまま)発見され、娼婦は一夜にして元の淫蕩な生活に戻ってしまい、男は皆、薄汚い豚だ!と罵詈雑言を吐いているところで話は終わるのですが、この小説には作者が説明をしていない謎があるとされていて、1つは、宣教師は何故死んだのか(自殺か他殺か)ということであり、もう1つは、彼が自らの邪念に負けて娼婦に手を出したのか、娼婦が積極的に彼を誘ったのかという点のようです。しかし、小説の流れからすれば答えは明らかであるような気もし、映画は、その答えを更に判り易いかたちで見せているように思います(事件当夜の宣教師の演技シーンは、やや過剰演出?)。

Joan Crawford
ジョーン・クロフォード.jpg 宣教師役のウォルター・ヒューストンの常にチン・アップして喋る演技は、確かに原作テーマに沿ってアイロニーが効いているように思えましたが(宣教師と言うよりナチの将校にも見える)、 そのワンパターン的演技よりも、娼婦役のジョーン・クロフォードの、めまぐるしく変容する主人公の心理を表す多彩な演技が素晴しく(一度は心底改心したように見え、それだけにラストの衝撃が大きい)、27歳にして大女優の風格を漂わせています。

 人生に倦んだ娼婦役ということもあってか、この映画ではパッと見てそんな美人に見えないんですが(1938年の映画なりに昔風の美人?)、その演技を見ているうち、非常に魅力的で且つ現代的な女性の見えてくるというのが不思議で、最後の原作には無い"Let's Go!"という台詞も、その生きる逞しさの発露と看做せば、原作のテーマからも外れていないかも。

淀川長治究極の映画ベスト100_1.jpg 『淀川長治究極の映画ベスト100』('03年/河出文庫)によれば、ジョーン・クロフォードは「グランド・ホテル」('32年/米)で共演したグレタ・ガグランド・ホテル dvd ivc.jpgルボに馬鹿にされて怒ってしまい、ハリウッドの第一級プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンに泣きついて、生涯最高の作品に出演させて欲しいと頼み込み、そこでゴールドウィンはこの映画の娼婦の役を与えたとのこと。淀川氏もこの作品を彼女の代表作であるとともに名作であると太鼓判を押しています。

淀川長治 究極の映画ベスト100 (河出文庫)

 映画シーンの随所において鬱陶しく降り続ける雨や、娼婦の部屋から流れるジャズ音楽などが、南洋の島の特異な雰囲気を醸すうえで効果的に使われていて、"過剰演出"が無ければより良かったと思うのですが、ルイス・マイルストンはモームの原作の"絵解き"を目指したのかなあ。

「雨に濡れた欲情」21.jpg「雨に濡れた欲情」.jpg '53年に「雨に濡れた欲情」(原題:Miss Sadie Thompson)としてリタ・ヘイワース主演でリメイクされています(日本公開は'54年)。DVD版の「雨の欲情」というタイトルは、リバイバル上映された際に、リメイク版の邦題に影響を受けてつけたタイトルなのだろうか。因みに、この原作は、無声映画時港の女.jpg代に、グロリア・スワンソン主演で「港の女」(原題:Sadie Thompson)として最初に映画化されていますが、個人的には未見です。

雨に濡れた欲情 [DVD]

雨の欲情.jpg「雨」(「雨の欲情」)●原題:RAIN●制作年:1932年●制作国:アメリカ●監督・製作:ルイス・マイルストン●脚本:ウィリアム・サマセット・モーム/ジョン・コルトン/クレメンス・ランドルフ/マクスウェル・アンダーソン●撮影:オリヴァー・T・マーシュ●音楽:アルフレッド・ニューマン●原作:ウィリアム・サマセット・モーム「雨」●時間:94分●出演:ジョーン・クロフォード/ウォルター・ヒューストン/ウィリアム・ガーガン/ガイ・キビー/ウォルター・キャトレット/ボーラ・ボンディ●日本公開:1933/09●配給:ユナイテッド・アーティスツ(評価:★★★☆)

雨・赤毛 モーム短篇集(I) (新潮文庫).jpg【1940年文庫化[岩波文庫(中野好夫訳『雨: 他二篇』)]/1951年再文庫化[三笠文庫(中野好夫訳『雨』)]/1958年再文庫化[角川文庫(西村孝次訳『雨』)]/1959年再文庫化[新潮文庫(中野好夫:訳『雨・赤毛―モーム短篇集(I)』)]/1962年再文庫化[岩波文庫(朱牟田夏雄 訳『雨・赤毛 他一篇』)]/1978年再文庫化[講談社文庫(北川悌二訳『雨・赤毛』)])]】

雨・赤毛: モーム短篇集(I) (新潮文庫)

About this Archive

This page is an archive of recent entries in the サマセット・モーム category.

モーパッサン is the previous category.

茂木 健一郎 is the next category.

Find recent content on the main index or look in the archives to find all content.

Categories

Pages

Powered by Movable Type 6.1.1