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本当に脳科学? ジェンダー差別の再強化の一翼を担ってしまっているともとれる。

キレる女懲りない男.jpgキレる女懲りない男2.jpg  夫のトリセツ.jpg 妻のトリセツ.jpg
キレる女懲りない男―男と女の脳科学 (ちくま新書)』['12年]『夫のトリセツ (講談社+α新書)』['19年]『妻のトリセツ (講談社+α新書)』['18年]


 最近『夫のトリセツ』('19年/講談社+α新書)という本が売れているらしい(ウチでは家人がどういうわけか『妻のトリセツ』('18年/講談社+α新書)を買っていた)、その著者の最初の新書本。1953年生まれの著者は、42歳で男女脳のエッセイを初出版し、53歳で本書を出したそうですが、この本の中でも、「女性脳の取扱説明書(トリセツ)」と「男性脳の取扱説明書(トリセツ)」というのが大部分を占め、以降、同じパターンで繰り返してきた結果、最近になってブレイクしたという感じでしょうか。

男が学ぶ「女脳」の医学.jpg ただ、この内容で、単にエッセイとして読むにはいいけれど、「脳科学」を標榜するのはどうなのか。以前に、斎藤美奈子氏が、「ちくま新書」は"ア本"(アキレタ本)の宝庫であり、特にそれは男女問題を扱ったものに多く見られるとして、岩月謙司氏の『女は男のどこを見ているか』('02年/ちくま新書)や米山公啓氏の 『男が学ぶ「女脳」の医学』('03年/ちくま新書)を批判していたように思いますが、これもその「ちくま新書」です(10年置きぐらいで「男女脳」企画をやっている?)。

 読んでみて、解釈の課題適用(over generalization)が多いように思いました。例えば、ある寺の住職の「妻に先立たれた男性は三回忌を待たずに逝くことが多い。逆は長生きしますね」と言葉を引いて、「女性スタッフに愛される店は衰退しない。女性部下に愛される上司は出世する」とありますが、ありそうなことを2つくっつけて、いかにも同じ法則の基にそうなっているかに見せかけているだけではないででしょうか。こうした手法は、手を変え品を変え、『妻のトリセツ』『夫のトリセツ』においても、基本は変わって変わっていないようです。

 本書にしても『妻のトリセツ』にしても、「女性脳は、右脳と左脳をつなぐ神経線維の束である脳梁が男性と比べて約20%太い」など、男性と女性の脳の機能差を示すような具体的なデータを出して、「いきなりキレる」「突然10年前のことを蒸し返す」など夫が理解できない妻の行動の原因を脳の性差と結びつけ「夫はこういう対処をすべし」と指南してます

 しかし、朝日デジタルによると、脳科学や心理学が専門の四本(よつもと)裕子・東京大准教授は、「データの科学的根拠が極めて薄いうえ、最新の研究成果を反映していない」と言い、例えば「脳梁」で取り上げられたデータは、14人の調査に基づいた40年近く前の論文で、かつ多くの研究からすでに否定されているという。本に登場するそのほかのデータも「聞いたことがない」とのこと。朝日の記者が著者に主張の根拠を尋ねると、「『脳梁の20%』は、校正ミスで数値は入れない予定だった」とし、そのほかは「『なるほど、そう見えるのか』と思うのみで、特に述べることがありません」と回答があったそうです(ヒドイね)。

 斎藤美奈子氏は、例えば、女性は共感を、男性は問題解決を求めるというのはよく聞く話だが、でもそれは「脳」のせいなのか、仮にそうした傾向があったとしても、十分「環境要因決定説」で説明できるとしています(日々外で働く男性は、大事から小事まで、年中「問題解決」を迫られている。グズグズ迷っている暇はなく、トラブルは次々襲ってくるので、思考はおのずと「早急な解決方法」に向かう)。したがって、これは「脳の性差」ではなく、環境と立場の差であるとしています。

 これを聞いて想起されるのが、男女均等待遇がなかなか進まない原因としてよく問題になる「統計的差別」で、女性の採用や能力開発に積極的でない企業は、その理由を「統計的にみて女子はすぐ辞めるから」と言うものの、実はそうした考え方がますます差別を強化するということになっているというものです。それと同じパターンが本書にも当て嵌るかもしれません(ましてや本書の場合、「男性と同じ立場で働く女性」などの統計モデルのサンプルは少ないとされているのに、である)。

 同じく朝日デジタルによると、『なぜ疑似科学を信じるのか』('12年/DOJIN選書)の著書がある信州大の菊池聡(さとる)教授(認知心理学)は『トリセツ』について、「夫婦間の問題に脳科学を応用する発想は、科学的知見の普及という意味では前向きに評価できる。だが、わずかな知見を元に、身近な『あるある』を取り上げて一足飛びに結論づけるのは、拡大解釈が過ぎる。ライトな疑似科学に特有な論法だ」と話しているそうで、コレ、自分が本書を読んで最初に浮かんだ疑念と全く同じです。

 読み物として「そうそう」「あるある」と言って楽しんでいる分にはともかく、「脳科学」の名の元に妄信するのはどうかと(「脳科学」というより「心理学」か「心理学的エッセイ」、更に言えば「女性論・男性論」(的エッセイ)になるか)。大袈裟な言い方かもしれませんが、ジェンダー差別を再強化することの一翼を担うようになってしまうのではないでしょうか。別に読んで楽しんでもいいけれど(脳内物質で全部説明している米山公啓氏の本などよりは内容が練れている)、そうした批判眼もどこかで持っておきたいものです。

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著者のやり口は変わったけれど中身はあまり変わってないか。

信田 さよ子 『選ばれる男たち.jpg選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ.gif
選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ (講談社現代新書)』 ['09年]

 DV(ドメスティック・バイオレンス)の専門家である臨床心理士の著者の本ですが、いきなりイケメンドラマの話から入り、おばさんたちが韓流ドラマに夢中になるのは何故かということを、自分自身が「ヨン様」、つまりペ・ヨンジュンの熱狂的ファンであることをカミングアウトしつつ語っていて、あれ、先生どうしたの、という感じも。

 著者によれば、若い男性の「萌え」ブームは、彼らが女性の成熟への価値を喪失したためのものであり、女性たちの「草食系男子」への指向や、おばさんたちの間での「韓流ブーム」も、女性にとっての既存の理想の男性像が変わってきて、成熟した男性より「うぶで無垢な王子」といったタイプが好かれるようになってきたためであると。

 ということで、前半部分、いい男について語るのは楽しいとしながらも、読む側としては何が言いたいのだろうと思って読んでいると、中盤、第3章「正義の夫、洗脳する夫」は、著者の臨床例にみるDVを引き起こす男性の典型例が挙げられていて、一気に重たい気分にさせられます。
 家庭という密室の中での彼らの権力と暴力の行使はホントにひどいもので、でも、実際、こういうの、結構いるのだろうなあと。

 但し、そうした配偶者の暴力に遭いながらも離婚に踏み切れない女性もいるわけで(著者が言うところの「共依存」という類)、著者は「理想の男性像を描き直せ」、「男を選んでいいのだ」と言っており、これが前段の、「男を愛でることがあっていい」「男性像の価値観は変わった」という話にリンクしてたわけか、と後半残り3分の1ぐらいのところにさしかかって、やっと解りました。

選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ2.gif 著者のもう1つの専門領域である児童虐待に関する本を読んだ際に、子どもへの虐待を、「資本家-労働者」、「男-女」と並ぶ「親-子」の支配構造の結果と捉えていることでフェニミズム色が濃くなっていて、子どもへの虐待をことさらにイデオロギー問題化するのはどうかなあと(読んでいて、しんどい。論理の飛躍がある)。

 そうしたかつての著者の本に比べると、韓流ドラマの話から入る本書は、ちょっと戦術を変えてきたかなあという感じはします。

 DV常習者になるような「だめ男」の見分け方のようなものも指南されていますが、そうした問題のある男性と一般の男性がジェンダー論として混同されていて、基本的には、この人の、病理現象的なものを社会論的に論じる物言いに、オーバーゼネラリゼーション的なものを感じ(結果的に、本書に出てくるサラリーマンとか中年オヤジというのは、極めて画一化された捉え方をされている)、やり口は変わったけれど中身はあまり変わってないかなあ、という印象も。

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「男道」の伝統は武士から駕籠かきを経由してヤクザに引き継がれた?

サムライとヤクザ.png 『サムライとヤクザ―「男」の来た道 (ちくま新書 681)』 〔'07年〕

 本書によれば、戦国時代が終わり江戸時代にかけて、「男道」は次第に武士のものではなくなり、「かぶき者」と言われた男たちが戦国時代の余熱のような男気を見せていたのも一時のことで、「武士道」そのものは形式的な役人の作法のようなものに変質していったとのことです。

 では、誰が「男道」を継承したのかと言うと、藩邸が雇い入れた"駕籠かき"など町の男たちだったそうで("火消し"がそうであるというのはよく言われるが、著者は"駕籠かき"の男気を強調している)、こうした男たちの任侠的気質や勇猛果敢ぶりに、かつて武士のものであった「男道」を見出し、密かに賞賛を贈る人が武士階級にもいたようです。

 また、同様の観点から、鼠小僧次郎吉が捕えられた際の堂々とした態度に、平戸藩主・松浦(まつら)静山が『甲子(かっし)夜話』で賛辞を贈っているとも(松浦静山に限らず、同様の例は他にもある)。

 江戸初期に武士の間に流行った「衆道」(男色)の実態(多くがプラトニックラブだったらしいが、生々しい記録もある)についてや、17世紀後期には幕臣も藩士も殆どが、一生の間に抜刀して戦うことなく死を迎えたという話、松宮観山が書いた、"泰平ボケ"した武士のための非常時マニュアル『武備睫毛』とか、興味深い話が盛り沢山。

江戸藩邸物語―戦場から街角へ.jpg 但し、武士の「非戦闘化」、「役人化」を解説した点では、『江戸藩邸物語―戦場から街角へ』('88年/中公新書)の続きを読んでいるようで、本書のテーマはナンだったかなあと思ったところへ、最後の章で、ヤクザの歴史が出てきました。

 江戸史に限らずこちらでも、著者は歴史資料の読み解きに冴えを見せますが、なぜ今の世において政治家も企業家もヤクザに引け目を感じるのかを、松浦静山の鼠小僧次郎吉に対する賛辞のアナロジーで論じているということのようです、要するに。

 「男道」は武士から駕籠かきを経由してヤクザに引き継がれていたということで、政治家や企業家が彼らを利用するのは、武士が武威を他者に肩代わりさせてきたという歴史的素地があるためとする著者の考察は、面白い視点ではあるけれど、素人の感覚としては、やや強引な導き方という印象も。
 この考察をどう見るかで、本書の評価は分かれるのではないでしょうか。

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武士道のを説く者の裏側にある嫉妬心。男の嫉妬は、屁理屈を伴う?

男の嫉妬 武士道の論理と心理.jpg 男の嫉妬 武士道の論理と心理2.jpg 山本 博文氏.jpg 山本博文 東京大学史料編纂所教授/略歴下記)
男の嫉妬 武士道の論理と心理 (ちくま新書)』〔'05年〕

 江戸時代のエリート階層であった武士がその価値観・倫理観の拠り所とした武士道ですが、その実践や評価をめぐっては、背後に「男の嫉妬」の心理が働いていたことを、多くの史料を読み解きながら明かしています。

 例えば、江戸初期の辛口御意見番・大久保彦左衛門が、「崩れ口の武辺」(退却する敵を追って仕留めた武勲)で出世した者を貶しているのは、自らが戦国時代に激戦を生き抜いたプライドがあるためで、中途半端な「武辺」で出世する輩を批判する背後には、著者の言うように、ある種の嫉妬心もあったのかも。

 著者によれば、「男の嫉妬」とは彦左衛門の例のように、かくあるべきというそれぞれの正義感や自負心に裏打ちされたものだったということで、そのため多少理不尽であってもある面では理屈が通っているため、容認され続けてきたということです。

 和田秀樹氏の『嫉妬学』('03年/日経BP社)を引き、「男の嫉妬」には、「あいつに負けてなるか」と相手を乗り越えようとする積極的動機付けに繋がる「ジェラシー型」の嫉妬と、ただ相手を羨み足を引っぱろうとする「エンビー型」の嫉妬があり、"鬼平"こと長谷川平蔵の後任だった森山孝盛の、人気者だった平蔵に対する批判などは、「エンビー型」であると。

 本書で一番こてんぱにやられているのが、『葉隠』の山本常朝で、主君亡き後自らが出家したことを殉死したことと同じ価値があるとし、自らが藩で唯一の武士道の実践者であるという意識のもとに物言っていて、これも裏返せば「嫉妬心」の表れであると。

 戦乱の世が去り、泰平の時代が続くと、まったく身分の違う者の出世は気にならないが、同格者同士がそれまで年功序列で処遇されていた中で、誰か1人だけ抜擢人事の対象になったりすると、「エンビー型」嫉妬が噴出したようで、この辺りは、今の日本のサラリーマン社会と変わりません。

 江戸武士の武士道意識の話と、階層社会での出世と周囲の感情という現代に通じる話が相俟って、サラリーマンが通勤途上で読むにはちょうどよいぐらいの内容と読みやすさですが、個人的には、著者の今までの本とネタがかなり被っていて、新味に乏しかった...。
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山本 博文 (東京大学史料編纂所 教授)
1990年、『幕藩制の成立と日本近世の国制』(校倉書房)により、東京大学より文学博士の学位を授与。1991年、『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社)により第40回日本エッセイストクラブ賞受賞。
江戸幕府の残した史料の外、日本国内の大名家史料を調査することによって、幕府政治の動きや外交政策における為政者の意図を明らかにしてきた。近年は、殉死や敵討ちなどを素材に武士身分に属する者たちの心性(mentality)の究明を主な課題としている。
主な著書に、『徳川将軍と天皇』(中央公論新社)、『切腹』(光文社)、『江戸時代の国家・法・社会』(校倉書房)、『男の嫉妬』(筑摩書房)、『徳川将軍家の結婚』(文藝春秋社)『日本史の一級史料』(光文社)などがある。

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現代の男性像を探るうえで好著かも。

実録 男性誌探訪.jpg実録 男性誌探訪』('03年/朝日新聞社) 麗しき男性誌.jpg 文庫改題 『麗しき男性誌』 文春文庫

 雑誌『AERA』に連載していた「Men's magazine walker」に加筆し、再構成して単行本化したもの。
 著者は以前に、『あほらし屋の鐘が鳴る』('99年/朝日新聞社)の中で部分的に「女性誌」批評をしていましたが、今度はそれに対応するようなかたちでの「男性誌」批評になっていて、丸々1冊このテーマで本になってている分、読み応えありました。

 「週刊ポスト」は1冊の中に"知的パパ"と"エロ親父"同居しているとか(確かにネ)、「文藝春秋」の「同級生交歓」は、社会階層の何たるかを如実に教えてくれる企画であるとか、「サライ」(ペルシャ語で「宿」の意味らしい)は、春夏秋冬、飯飯飯、人間最後は食欲であることを教えてくれるとか、「日経おとなのオフ」は「失楽園2名様ご案内」って感じだとか、「エスクァイア」は男性用の「家庭画報」であり、脱亜入欧魂に溢れているとか、「BRIO」は「ヴェリイ」の男性版で世田谷か目黒のコマダムの旦那たち向けであるとか、「LEON」(イメキャラはP・ジローラモ)の読者はモテたいオヤジであるとか―、とにかく笑わせてくれますが、ひやっとさせられる人もいるのではないかと思ったりして...。

 スポーツ誌「ナンバー」の記事の書き方が「従軍記者」風であるという指摘は鋭いと思いましたし、デート・マニュアル誌だった「ホットドッグ・プレス」はいつの間にかファッション誌になっていたのだなあ。
 結局、時代の流れに合わせるのも大事だけれど、切り口のようなものがはっきりしている方が共感を呼ぶのかもしれないという気がします(「ナンバー」は残っているけれど、「ホットドッグ・プレス」は本書刊行の1年後に廃刊!)。
   
 釣り専門誌でも〈バス〉と〈へらぶな〉では全然違うんだなあとか初めて知りましたが、「鉄道ジャーナル」や「丸」などのオタク系の雑誌含めて、読んでいる人たちは、サークルの中にいる人の間では知識や技量の差にこだわるけれども、サークルの外にいる人からどう見られるかということは関係ないんでしょうね。
 ある意味、現代の男性像を探るうえで好著かもしれないと思ったりもしました。

 【2007年文庫化[文春文庫(『麗しき男性誌』)]】

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「ちくま新書」の男性論シリーズの不作ぶりを象徴する本?

まともな男になりたい.jpg  まともな男になりたい2.jpg
まともな男になりたい』 ちくま新書 〔'06年〕

 著者の言う「まともな男」とは、まじめに仕事し、社会の行く末を案じ、自らの役割と存在価値を顧みる人間のことで、「まとも」を支えるものは、"自己承認と自己証明のための「教養」"と、"狂信にも軽信にも距離を置く「平衡感覚」"であると。
 日本人の道徳や美意識は、こうした「教養」と「平衡感覚」の営為のなかにあったはずなのに、今や「まとも」な人間は稀少となり、「みっともない人たち」ばかりで、廉恥心は忘れ去られ、俗物性が蔓延しているとのこと。

 こうした内容に加え、「小生」という語り口や論語を引いてくるところなどから60歳前後の人が書いているかと思ったりしますが、冒頭にあるように、著者は"惑うことばかり多かりき"40代とのこと。
 フェニミストや経済評論家に対する批判には共感する部分もありましたが、中谷彰宏とか引用するだけ紙の無駄のような気もし、いちいち相手にしなくてもいいじゃん、放っとけば、と言いたくもなります。
 こんなの相手にしておいて、自らも俗物であり、俗物性とどう付き合うかとか言ってるから、世話ないという感じもしました。

 片や、福沢諭吉や福田恆存、エリック・ホッファーを褒め称え、それらの著作から多くを引き、とりわけ勢古浩爾氏に対しては単なる賞賛を超えた心酔ぶりですが、傾倒のあまり、本書自体が氏の著作と内容的にかなり被っている感じがしました。

 「ちくま新書」の男性論(?)シリーズを読むのはこれで5冊目になりますが、評価は"5つ星満点"で次の通り。
 ・小谷野敦 著 『もてない男-恋愛論を超えて』('99年)★★★
 ・勢古浩爾 著 『こういう男になりたい』('00年)★★
 ・諸富祥彦 著 『さみしい男』('02年)★★☆
 ・本田 透 著 『萌える男』('05年)★★★
 ・里中哲彦 著 『まともな男になりたい』('06年)★☆

 大学講師で文芸評論家、洋書輸入会社勤務の市井の批評家、大学助教授でカウンセラー、ライトノベル作家で「オタク」評論家、そして河合塾講師(本書著者)と、まあいろいろな人が書いているなあという感じですが、 『萌える男』を除いては何れも人生論に近い内容で、総じてイマイチでした。

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「萌え男(オタク)」についての考察。興味深いが、牽強付会の論旨も。

萌える男.jpg 萌える男  .jpg  動物化するポストモダン .jpg
萌える男 (ちくま新書)』〔'05年〕 東 浩紀『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 「萌え男(オタク)」について考察した本書は、東浩紀氏の『動物化するポストモダン-オタクから見た日本社会』('01年/講談社現代新書)の裏版みたいな感じもしましたが、東氏のような学者ではなく、「萌え男」を自認するライトノベル作家によって書かれていることのほかに、記号論的分析に止まるのではなく、「萌え」の目的論・機能論を目指していると点が本書の特徴でしょうか。

負け犬の遠吠え.jpg 著者は、オタクとは酒井順子氏の『負け犬の遠吠え』でも恋愛対象外とされていたように、「恋愛資本主義ピラミッド」の底辺で女性に相手にされずにいる存在であり、彼らが為す「脳内恋愛」が「萌え」の本質であるとしています。

新世紀エヴァンゲリオン.jpg 「新世紀エヴァンゲリオン」の終結以降、PCゲームで発展を遂げた「萌えキャラ」の分析(この辺りはかなりマニアック)を通して、「脳内恋愛」がオタクとして「底辺」に置かれていることへのルサンチマンを昇華し、「癒し」が精神の鬼畜化を回避しているという、一種の「萌え」の社会的効能論を展開していて(犯罪抑止効果ということか)、このことは、「ロリコン」とか言われ、幼児殺害事件などが起きるたびに差別視される世間一般のオタク観に対するアンチテーゼになっているようです。
 さらに、「萌え」は恋愛および家族を復権させようとする精神運動でもあると結論づけています。

 個人的には、「萌え」による「純愛」復興などと言ってもやはりバーチャルな世界の話ではないかという気がするのと、「家族萌え」という感覚が理解できず引っかかってしまいました。
 「電車男」の話を、オタクを「恋愛資本主義」に取り込むことで「萌えとは現実逃避である」というドグマの強化作用を果たしたと"否定的"に評価している点などはナルホドと思わせ、ニーチェの「永劫回帰」からユングの「アニマとアニムス」まで引いて現代社会論やジェンダー論を展開しているのは、読むうえでは興味を引きましたが、牽強付会と思える論旨や用語の誤用に近い用法(例えば「動物化」)なども見られるように思います。

 「萌え男(オタク)」というのが、「自分らしさ」を保つことで差別され続けるというのは理不尽ではないかという著者の思いはわからないでもないけれど、オタクというのは文化傾向や消費経済において無視できない存在であるにしても、今後、社会にどの程度積極的にコミットしていくかがまだ見えず、著者の〈オタク機能論〉もある種の幻想の域を出ないのではないかという気もしました。

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嫌味はない分、口当たりが良すぎて印象に残るものが少ないという感じ。

さみしい男.jpg 諸富 祥彦 『さみしい男』2.jpg 諸富 祥彦.jpg
さみしい男 (ちくま新書)』〔'02年〕  諸富 祥彦 氏 (略歴下記)

 自分がたまたま利用したキャリアカウンセリングのテキストや家族カウンセリングの本の中で、いい本だなあと思った本の編著者が諸富先生であったりして、専門分野におけるこの著者に対する信頼度は、個人的には高いのです。
 また著者は、"時代の病と闘うカウンセラー"を自認するだけあって、一般向けの本の執筆にも力を注いでいるようですが、こちらの方は本書も含めて人生論的なものが多く、内容的にはイマイチという感じ。

 本書では、いま日本の男たちに元気が無いのは、社会・家族・女性といったものとの繋がりが希薄になって、寂寞とした虚無感の中にいるからだとし、ではこれから男たちはどこへ向かうべきかを、"社会の中の男" "家族の中の男" "女との関係の中の男"という3つの角度から分析しています。

 基本的に著者が説いているのは、「労働至上主義」「家族至上主義」「恋愛至上主義」といものから脱却せよということで、カウンセリング論的に見ると、「来談者中心療法」の立場に近い著者が、そうした不合理な信念(イラシャナル・ブリーフ)を取り除けという「論理療法」的な論旨展開をしていることに関心を持ちましたが、男性をとりまく環境についての社会批評風の分析も、そこからカウンセラーの視点で導いた答えも、ともに結構当たり前すぎるものではないかという気がしました。

 どちらかと言うと、所謂「中年の危機」にさしかかっている中高年男性向けでしょうか。「孤独である勇気を持て」とか「危機を転機に変えよ」とか。
 若い人に対しても、女性にモテなくて悩んでいるぐらいなら、好きになった女性を本気で口説いてみろと言っていますが、これらの言葉の中には、単に励ましているだけで、なんら解決法になっていないようなものもあるような気がします。
 その後に続く「不倫で生まれ変る男たち」というのが少し面白かったけれども、全体としては、嫌味はない分、口当たりが良すぎて印象に残るものが少ないという感じの本でした。
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諸富 祥彦
1963年福岡県生まれ、1986年筑波大学人間学類・1992年同大学院博士課程修了
英国イーストアングリア大学、米国トランスパーソナル心理学研究所客員研究員、千葉大学教育学部講師、助教授を経て 明治大学文学部教授。
教育学博士、臨床心理士、日本カウンセリング学会認定カウンセラー、上級教育カウンセラー、学校心理士の資格をもつ。
日本トランスパーソナル学会会長、教師を支える会代表。

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「男として」云々という意識から抜け出せないでいる1典型。

こういう男になりたい.jpgこういう男になりたい (ちくま新書).jpg
こういう男になりたい』ちくま新書〔'00年〕

 旧来の「男らしさ」を捨て「人間らしく」生きようという「メンズリブ」運動というのがあり、「だめ連」などの運動もその類ですが、著者はそうした考えに部分的に共鳴しながらも、「自分らしさ」という口当たりのいい言葉に不信感を示し、「だめでいいじゃないか」という考え方は、ただ気儘に暮らしたいと言ってるだけではないかと―。

 男である以上、「男らしさ」を脱ぎ捨てても「男」である事実は残るわけで、かと言って、旧来の「男らしさ」には、自分に甘く他人に厳しいご都合主義的な面があるとし、他人を抑圧しない「自立した」生き方こそ旧弊の「男らしさ」に代わるもので、本当の「男らしさ」は自律の原理であると。

 ただし、他者からの視線や承認を軽んずる向きには反対で、「他者の視線」を取り込みながらも柔軟で妥当な自己証明と強靭な自己承認を求めるしかないという「承認論」を、本書中盤で展開しています。

 部分的に共感できる部分は無いでもなかったけれど、文中で取り上げている本があまりに玉石混交。
 女性週刊誌の「いい男」論特集みたなものにまでいちいち突っ込みを入れていて、そんなのどうでもいいじゃん、とういう感じ。
 章間のブックガイドも「男を見抜く」「いい男を見極める」などというテーマで括られたりして、誰に向けて何のために書かれた本なのか、だんだんわからなくなってきました。

 「男の中の男」ではなく、「男の外(そと)の男」になりたい、つまり「自分らしい男らしさ」を希求するということなのですが、何だか中間的な線を選んでいるような気もするなあと思ったら、末尾の方で「中庸」論が出てきて、ただしここでは「ふつうに」生きることの困難と大切さを説いています。
 
 ジェンダー論というより、人生論だったんですね、「男として」の。
 これもまた、「男として」云々という意識から抜け出せないでいる1つの典型のような気がしました。

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「恋愛至上主義」からの脱却を説く? 読書案内としてはそれなりに楽しめた。

もてない男.jpg 小谷野 敦 『もてない男.jpg
もてない男―恋愛論を超えて』 ちくま新書〔'99年〕

 現代の「恋愛至上主義」の風潮の中で、古今東西の文芸作品に描かれた恋愛模様を引きつつ「もてない男」の生きる道を模索(?)した、文芸・社会批評風エッセイ。

 童貞論、自慰論から始まり、愛人論、強姦論まで幅広く論じられており、自らの経験も赤裸々に語っていて、あとがきにも、学生時代に本当にもてなかったルサンチマン(私怨)でこうした本を書いているとあります(帯に「くるおしい男の精神史」とあるのが笑ってしまいますが)。

 著者は「もてる」ということは「セックスできる」ということではないとし、著者の言う「もてない男」とは、上野千鶴子の言う「性的弱者」ではなく、異性とコミュニケートできない「恋愛弱者」であり、彼らに今さらのように「コミュニケーション・スキルを磨け」という上野の助言は役には立たないとしています。

 著者は結婚を前提としないセックスや売買春を否定し、姦通罪の復活を説いていますが、その論旨は必然的に「結婚」の理想化に向かっているように思え、そのことと切り離して「恋愛至上主義」からの脱却を説いてはいるものの、「結婚」という制度の枠組みに入りたくても入れず落ちこぼれる男たちに対しては、必ずしも明確な指針を示しているようには思えませんでした。

 30代後半で独身の著者が書いているという切実感もあってか、若い読者を中心に結構売れた本ですが、書き殴り風を呈しながらも、結構この人、戦術的なのかも。
 著者はその後結婚しており、「もてない男」というのはひとつのポーズに思えてなりません。

 もともと、「恋愛至上主義」を声高に否定しなければならないほど、すべての人が同じ方向を向いているようにも思えないし...。

 ただ、引用されている恋愛のケースの典拠が、近代日本文学から現代マンガまで豊富で、それらの分析もユニーク(章ごとに読書案内として整理されていて、巻末に著者名索引があるのも親切)、論壇の評論家やフェニミストの発言にもチェックを入れていて、軽妙な文体と併せてワイドショー感覚でそれなりに楽しめました。

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「非婚少子化」の原因を一面において指摘している? 独身"ダメ男"分析に筆の冴え。

『負け犬の遠吠え』.jpg負け犬の遠吠え.jpg        少子.jpg     酒井順子.jpg  酒井順子 氏(略歴下記)
負け犬の遠吠え』['03年/講談社]『少子』 講談社文庫

  2004(平成16)年・第4回「婦人公論文芸賞」、2004(平成16)年・第20回「講談社エッセイ」受賞作。

 女の〈30代以上・未婚・子ナシ〉は「負け犬」とし、その悲哀や屈折したプライドを描きつつ、"キャリアウーマン"に贈る応援歌にもなって、その点であまり嫌味感がありません。 
 二分法というやや乱暴な手が多くに受け入れられたのも(批判も多かったですが)、自らを自虐的にその構図の中に置きつつ、ユーモアを交え具体例で示すわかりやすさが買われたからでしょうか?  
 裏を返せば、マーケティング分析のような感覚も、大手広告会社勤務だった著者のバックグラウンドからくるものなのではないかと思いました。 
 最初から、高学歴の"キャリアウーマン"という「イメージ」にターゲティングしているような気がして、このへんのところでの批判も多かったようですが。

 個人的に最も興味を覚えたのは、辛辣な語り口はむしろ男に向けられていることで、独身"ダメ男"の分析では筆が冴えまくります。 
 著者が指摘する、男は"格下"の女と結婚したがるという「低方婚」傾向と併せて考えると、あとには"キャリアウーマン"と"ダメ男"しか残らなくなります。 
 このあたりに非婚少子化の原因がある、なんて結論づけてはマズいのかもしれないが(こう述べるとこれを一方的な「責任論」と捉える人もいて反発を招くかも知れないし)。 
 さらに突っ込めば、「女はもう充分頑張っている。男こそもっと"自分磨き"をすべきだ」と言っているようにもとれます(まさに「責任論」的解釈になってしまうが)。
 
 著者はエッセイストであり、本書も体裁はエッセイですが、『少子』('02年/講談社)という著作もあり、厚生労働省の「少子化社会を考える懇談会」のメンバーだったりもしたことを考えると、社会批評の本という風にもとれます。 
 ただし、世情の「分析」が主体であり、「問題提起」や「解決」というところまでいかないのは、著者が意識的に〈ウォッチャー〉の立場にとどまっているからであり(それは本書にも触れられている「懇談会」に対する著者の姿勢にも窺える)、これはマーケティングの世界から社会批評に転じた人にときたま見られる傾向ではないかと思います。

 【2006年文庫化[講談社文庫]】
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酒井順子 (さかいじゅんこ)
コラムニスト。1966年東京生まれ。立教大学卒業。2004年、「負け犬の遠吠え」で第4回婦人公論文芸賞、第20回講談社エッセイ賞をダブル受賞。世相を的確にとらえながらもクールでシビアな視点が人気を集める。近著に『女子と鉄道』(光文社)、『京と都』(新潮社)『先達の御意見』(文春文庫)など。

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