【305】 × 勢古 浩爾 『こういう男になりたい (2000/05 ちくま新書) ★★

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「男として」云々という意識から抜け出せないでいる1典型。

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こういう男になりたい』ちくま新書〔'00年〕

 旧来の「男らしさ」を捨て「人間らしく」生きようという「メンズリブ」運動というのがあり、「だめ連」などの運動もその類ですが、著者はそうした考えに部分的に共鳴しながらも、「自分らしさ」という口当たりのいい言葉に不信感を示し、「だめでいいじゃないか」という考え方は、ただ気儘に暮らしたいと言ってるだけではないかと―。

 男である以上、「男らしさ」を脱ぎ捨てても「男」である事実は残るわけで、かと言って、旧来の「男らしさ」には、自分に甘く他人に厳しいご都合主義的な面があるとし、他人を抑圧しない「自立した」生き方こそ旧弊の「男らしさ」に代わるもので、本当の「男らしさ」は自律の原理であると。

 ただし、他者からの視線や承認を軽んずる向きには反対で、「他者の視線」を取り込みながらも柔軟で妥当な自己証明と強靭な自己承認を求めるしかないという「承認論」を、本書中盤で展開しています。

 部分的に共感できる部分は無いでもなかったけれど、文中で取り上げている本があまりに玉石混交。
 女性週刊誌の「いい男」論特集みたなものにまでいちいち突っ込みを入れていて、そんなのどうでもいいじゃん、とういう感じ。
 章間のブックガイドも「男を見抜く」「いい男を見極める」などというテーマで括られたりして、誰に向けて何のために書かれた本なのか、だんだんわからなくなってきました。

 「男の中の男」ではなく、「男の外(そと)の男」になりたい、つまり「自分らしい男らしさ」を希求するということなのですが、何だか中間的な線を選んでいるような気もするなあと思ったら、末尾の方で「中庸」論が出てきて、ただしここでは「ふつうに」生きることの困難と大切さを説いています。
 
 ジェンダー論というより、人生論だったんですね、「男として」の。
 これもまた、「男として」云々という意識から抜け出せないでいる1つの典型のような気がしました。

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This page contains a single entry by wada published on 2006年8月26日 23:10.

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