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タイトルに違わぬ、故事成句でたどる「楽しい中国史」。

故事成句でたどる楽しい中国史.jpg
  井波 律子.jpg 井波律子氏(国際日本文化研究センター教授)
故事成句でたどる楽しい中国史 (岩波ジュニア新書)

 今年['20年]5月に亡くなった「三国志演義」など翻訳で知られる、国際日本文化研究センター名誉教授の井波律子氏の著書。死因は肺炎と報じられていますが、3月に京都市内の自宅で転倒して頭を打ち入院、誤嚥性肺炎を併発したようで、精力的に活動していただけに、76歳の死は惜しまれます。

 本書は、神話・伝説の時代から清王朝の滅亡に至るまでの歴史を、その時々に生まれた故事成句を紹介しながら解説したものです。別の見方をすれば、故事成句を繋いで歴史解説をしたような形になっているとも言え、それが可能だということは、いかに多くの故事成句が中国史の過程で生まれたかということになり、中国文化の一つの特徴を端的に示しているようにも思えます。全6章から成り、その時代を代表する故事成句が各章のタイトルにきています。

 第1章(五帝時代、亡国の君主たち)のタイトルは「覆水盆に返らず」で、これは太公望が自分が出世したら復縁を求めてきた元妻に言ったもの。そのほか、理想の君主・尭舜の時代の「鼓腹撃壌」や、妲己に溺れた紂王の「酒池肉林」など、優れた君主とダメ君主が交互に出てきて、故事成句の天と地の間を行ったり来たりしている印象です。

 第2章(春秋五覇、孔子の登場、戦国の群像、西方の大国・秦)のタイトルがあの超有名な「呉越同舟」で、そのほか、宮城谷昌光『管仲』('03年/角川書店)でも描かれた一度は敵味方になってしまった管仲と鮑叔の友情(二千七百年前の!)に由来する「管鮑の交わり」、かける必要のない情けをかけてしまった「宋襄の仁」、その他「恨み骨髄に入る」「屍に鞭うつ」と、春秋時代は戦さ絡みがとりわけ多く、「呉越同舟」もその類です。孔子が出てきて、「巧言令色、鮮し仁」とかやや道徳的になるものの、荘子になると「胡蝶の夢」とぐっと哲学的になります。時代は戦国に入って、秦が覇権を握るまで乱世は続きますが、これも宮城谷昌光の『孟嘗君』('95年/講談社)に出てくる「鶏鳴狗盗」とか、この辺りは日本の小説家でいえば宮城谷昌光氏の独壇場?

 第3章(秦の始皇帝、漢楚の戦い、前漢・後漢王朝)のタイトルは班超の「水清ければ魚棲まず」。司馬遼太郎の『項羽と劉邦』('80年/新潮社)にも描かれている項羽と劉邦の戦いにおいては、「鴻門の会」とかありましたが、これはむしろ出来事であり、負けるが勝ちを意味する「韓信の股くぐり」の方が故事成語っぽいでしょうか。「国士無双」「背水の陣」も韓信。一方の項羽が耳にした「四面楚歌」は有名(あれって劉邦の軍師・張良の策略ではなかったっけ)。そして、武勇で知られた韓信も、劉邦の妻・呂后の粛清に遭い、「狡兎死して走狗煮らる」と嘆くことに。その後に起こった漢も、最初は良かった武帝が晩年は「傾城・傾国」の美女に溺れてしまいます。そう言えば、後漢の班超は、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という言葉も遺していました。

 第4章(三国分立、諸王朝の興亡)のタイトルは「破竹の勢い」「治世の能臣、乱世の奸雄」と言われた魏の曹操、「三顧の礼」で諸葛亮を迎え入れた蜀の劉備、そして、劉備と同盟し赤壁の戦いに曹操を破った呉の孫権と、まさに「三国志」の時代。「泣いて馬謖を斬る」ことで信賞必罰の規範を示した諸葛亮は、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」とまで言われますが、その死とともに三国志の時代は終わります。「破竹の勢い」で西晋の全土統一に貢献したのは杜預ですが、統一とともに王朝の衰亡が始まるという典型例で、西晋滅亡後三百年も混乱と分断の時代は続きます。

 第5章(唐・三百年の王朝、士大夫文化の台頭)のタイトルは孟浩然の「春眠暁を覚えず」で、ちょっと落ち着いてきたか。それでも、安史の乱があり、安禄山軍に一時拘束された杜甫が「国破れて山河在り」と謳っているし、黄巣の乱では曹松が「一将 功成りて 万骨枯る」と。この辺りは、故事成語というより七言絶句などの故事成句が多く、蘇軾の「春宵一刻直千金」などもそう。時代は五代十国を経て北宋、南宋へ。

 第6章(耶律楚材と王陽明、最後の王朝)のタイトルは「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」で、これ、明代の王陽明の言葉ですが、何だか日本の時代劇でも聞きそうな印象があります。この章は元・明・清の各代をカバーしてますが、太古の戦国の時代のような、短くバシッと決まった故事成語は少なくなってきた印象も受けます。

 以上、各章の故事成句をほんの一部だけ拾いましたが、全体としては陳舜臣の『小説十八史略』('77年/毎日新聞社)を圧縮して読んだような印象です。ジュニア新書でありながらも、こうした本が書けるということは、文学だけでなく歴史にも通暁している必要があり、著者自身は六朝文学が専門の研究者でありながら、その知識の裾野の広さは、ある種"学際的"と言ってもいいのかもしれません(同著者の『奇人と異才の中国史』('05年/岩波新書)にも同じことが言える)。

 昔はこうした、専門分野に限定されず本を書ける学者が多くいたような気がし、中国文学で言えば吉川幸次郎などはそうであったように思いますが、著者は吉川幸次郎に学んだ最後の高弟でもあります。小学生のころの自分を「耳年増(どしま)」と描写していて、京都・西陣の家に近い映画館街に通いつめ、中学に入る前に都合2千本も見たせいだといい、そうした専門分野に捉われない素養が早くから培われたのかもしれません。タイトルに違わぬ「楽しい中国史」でした。

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中国で無断出版されたほどの名著? 読み易く、トピックスは豊富。父親譲りの文学の香り。

吉川 忠夫 『秦の始皇帝』.jpg 『秦の始皇帝 (講談社学術文庫)』 ['02年] 秦の始皇帝.jpg 『秦の始皇帝―焚書坑儒を好しとして (中国の英傑)』 ['86年]

 '02年に講談社学術文庫に収められたものですが、元本は'86年に集英社から「中国の英傑シリーズ」の1冊として刊行されたもので、1937年生まれの著者の40歳代最後の仕事であるとのこと(16年を経ての文庫化ということになる)。

 著者の父親は、『新唐詩選』('52年/岩波新書)などで知られる中国文学者・吉川幸次郎(1904‐1980)で、この人の『漢の武帝』('49年/岩波新書)は読み易く、また武帝という人の性格や生き様が小説のように描かれていて面白かったですが、こちらも学術文庫にしては読み易い方ではないでしょうか。
 勿論これも小説ではないのですが、史書・史料に対して明確に肯定も否定もすることなく、そのまま引いている部分が多いため、小説のように読めてしまいます(明らかに伝説的な部分は、「〜だったという」「〜したという」という表現になっている)。

 書かれたのが丁度、中国の著名な文学者・歴史家だった郭沫若(この人、文化大革命の時に"自己批判"させられた知識人の1人)が、始皇帝の実父は呂不韋であるという『史記』の記述及び通説(言わば、私生児論)に対して否定論を発表した頃で、著者は、本書第1章の「奇貨居くべし」に「始皇帝は呂不韋の子か」という副題をつけ、その郭沫若の論を紹介していますが、著者自身が、始皇帝の父親が呂不韋であることを「半月前には深く信じて疑わなかった」ためもあってか、ここでも、郭沫若の論を明確に支持することはしていません。

 始皇帝・私生児論を否定するということは、秦王朝の正当性を否定すると言うより、始皇帝の英雄性を否定することに繋がるのでしょうか。
 何れにせよ、文化大革命の時に持ち上げられた始皇帝に対するネガティブ評価ということになりますが、郭沫若の立ち位置が、寡聞にしてよくわかりません。

 白黒はっきりしない著者の姿勢に苛立ちを覚える読者もいるかも知れませんが、読者に始皇帝の「内面世界」に触れて欲しいとの思いから本書を書いたとのことで、個人的には、"親父さん"同様、自分との相性は悪くありませんでした。
 淡々と書いてあるけれども、何となく文学の香りがすると言うのか、大体、元の史書・史料の記述が文学的(小説的)なんだよなあ。

 多くの出来事を拾っていて、内容の密度は濃く、必要に応じて春秋戦国の故事、更には堯舜伝説にまで遡りますが、これは、諸国の王の顧問となった学士や参謀が、王を説得する際に故事を引くからであって、丁寧な解説であると共に、中国の思想の古(いにしえ)からの変遷を探ることが出来、更には、秦帝国に関する中世から近現代の文献研究なども織り込まれています。

 一方で、著者は70年代の訪中に続き、'82年と'84年にも兵馬俑博物館や始皇帝の陵墓を訪れるなどしていますが、考古学的な話は、始皇帝陵に関する部分にほぼ限られており、やはりこの人は、文学・思想系の歴史学者なのだなあと("親父さん"寄り?)。

 学術文庫版の冒頭に面白いエピソードがあり、それは、'89年に元本の中国語訳が、著者に無断で中国で刊行されたというもの。
 中国語版のサブタイトルは「英雄か、それとも暴君か」(本書はこれには結論を出していない)で、集英社版の元本に編集者によって付けられていたサブタイトル「焚書坑儒を好しとして」(これは無茶苦茶)に比べるとまだ良いと著者はしていますが、中国人の訳者は元本の内容に賛辞を贈っているものの、著者名が「忠夫」でなくて「中夫」になっていたということです。

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入門書としては十分。『史記』(秦始皇本紀)を検証ターゲットにしている点に特徴。

秦の始皇帝 鶴間和幸.jpg 『秦の始皇帝―伝説と史実のはざま (歴史文化ライブラリー)』 鶴間 和幸 教授.jpg 鶴間和幸 氏

 中国史、とりわけ秦帝国や始皇帝の研究が専門で、「NHKスペシャル」で'00年に放映された「四大文明」の「中国-黄土が生んだ青銅の王国」の監修などもした著者による、秦の始皇帝の実像を探った本。

 研究書と解説書の中間のような本。但し、文字面(ずら)の印象と異なり、読んでみれば比較的読み易いものですが、個人的には、事前に陳舜臣氏の『秦の始皇帝』を読んでいたため、尚のこと読み易かったように思います(治世の間の歴史的に重要な事件やイベントの数が多いので、どこかで一応予習しておいた方が読み易いかも)。

 陳舜臣氏は、秦がほぼ始皇帝の一代で滅びたため、子孫による弁解も無ければ粉飾も無く、むしろ後代の人による悪意の粉飾があることに注意しなければならないとしてましたが、本書においては、史料研究と考古学研究の両面から、より学問的見地に立って、「伝説と史実のはざま」を探ることで、始皇帝の実像をあぶり出そうとしています。

 多くの資料を読み解き、始皇帝に纏わる1つ1つの伝説的な出来事についての真偽、最も真実に近いものはどれかを考察していて、こうした手法は司馬遷が『史記』において採った方法でもありますが、本書の最大の特色は、その『史記』(の「秦始皇本紀」)を最大の検証ターゲットとしていることでしょう。

 但し、基本的には、秦王制の誕生から暗殺未遂事件(その時の状況のかなり詳しい真偽分析がなされている)、六国の滅亡、皇帝としての統一事業、国を支えた思想や諸制度、国内巡行や長城建設、そしてその死までを、順を追って解説しており、その点では、入門書として十分すぎるぐらい十分であり、その合間合間のポイントとなる出来事について、その真偽を探るという形がとられています。

 始皇帝は実は呂不葦の子ではなかったのかとか、この辺りは後に作られた話の可能性が高いという一般的な説を支持していますが、灌漑工事を指導した鄭国が外国のスパイだったという一般説には、疑問を拭いきれないとしていて、また、『史記』の記述の中にも、司馬遷の個々への思い入れが照射されている部分を推察したりするなどしており、興味深いものがありました。

 本書を読んで、始皇帝の代に造られた「砂漠に埋もれた長城」があるとの説もあるがまだ見つかっていないとか、その他に史料にある幾つかの史跡も所在がわからないとか、色々とまだ分からない部分が多いのだということが分かったという印象も。

 著者自身、始皇帝の5度にわたる国内巡行の足跡を辿るように中国各地を巡り歩いており、中国古代史研究は、史料と考古学の両面からアプローチしていくのが、もはや常套的な手法になっているということでしょうか。
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鶴間 和幸(つるま・かずゆき)
1950年生まれ
1974年 東京教育大学文学部史学科東洋史学専攻卒業
1980年 東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学
1980年4月〜81年3月 日本学術振興会奨励研究員
1981年 茨城大学教養部講師
1982年 同助教授
1985年4月〜86年1月 中国社会科学院歴史研究所外国人研究員
1994年〜96年 茨城大学教養部教授
1996年 学習院大学文学部教授
1998年 博士(文学)取得
■研究テーマ・分野
○中国古代帝国(秦漢帝国)の形成と地域
○秦始皇帝と兵馬俑
○東アジア海文明の歴史と環境

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読みやすい。始皇帝の人柄や中国の歴史に与えた影響の大きさを実感できる。

秦の始皇帝-始皇帝の実像-.jpg秦の始皇帝』['95年/尚文社ジャパン]秦の始皇帝 文春文庫.jpg秦の始皇帝 (文春文庫)』['03年]

 「NHK人間講座」で、著者の語りにより、'94年の1月から3月にかけて12回にわたって放映された「秦の始皇帝」の内容を単行本化したもので(後に文春文庫に収録)、番組の各回のタイトルが、そのまま全12章の章題になっています。

 単行本で約200ページほどで、語りがべースになっているために読み易く、あっと言う間に読み終えてしまいますが、秦の始皇帝の人柄や、今日に至るまでの中国の歴史に与えた影響の大きさを十分に実感できます。

 小説と異なり、客観的視点から描かれていて、所々著者の考察が入るといった感じで、著者の小説にもそうした傾向はありますが、本書においては、歴史研究上諸説がある部分については、その辺りをより明らかし、可能性の部分は可能性とし、不明な部分は不明としています。

 "諸説"ある部分については、歴史学者の鶴間和幸氏の『秦の始皇帝-伝説と史実のはざま(歴史文化ライブラリー)』('01年/吉川弘文堂)を本書のあとで読んだのですが、大体、研究者も同様の見解であるようで、著者が歴史研究の基本線を押えて、話を進めていることが窺えました。

 始皇帝だけでなく、商鞅や呂不葦、冒頓単于や蒙恬、李斯や韓非、徐福など、同時代を彩った多くの人物についてもバランス良く触れられていて、また、全体として時系列で追っているものの、万里の長城や諸子百家(法家)といったテーマごとに、繰り返し春秋戦国史から秦漢史にかけてをなぞるような解説の仕方で、これも始皇帝の時代の背景を知る上で、大いに助けになります。
 それでいて、なお且つ、小説を読むように楽しく読めるのは、さすが著者ならでは。

 焚書坑儒で「焚書」はどの程度のものであったか、実際に「坑儒」に遭ったのはどのような人たちだったのかなど、意外と思える事実が明かされる一方、不老長寿の薬を探しにいくと言って始皇帝から大金を巻き上げた徐福は本当に東征したのか(『史記』には「行かなかった」とは書いてない)、灌漑工事の技術者として韓から派遣され、不毛の地を沃野に変えた鄭国は、もともとは韓のスパイだったのか(スパイであることがバレたが、利水は国家のためになると言って始皇帝を説いて殺されずに済み、秦もお陰で国力を増した)等々、面白い話や、まだ充分に解き明かされていない謎に事欠きません。

 本書は始皇帝を単に英雄視し絶対化するのではなく、万里の長城、阿房宮、驪山陵(始皇帝が生前に造った自らの墓)を三大愚挙として挙げています。
 それにしても、六国を滅ぼし秦(Chinaの語源である)という国を築いたその超人的なエネルギーはやはりスゴイ。

 中国(もともとは国の真ん中という意味だが)が統一国家であることが"常態"であるという概念をもたらしたのが始皇帝であり、もし始皇帝が現われなかったら、中国は今も1つの大国とはならず、欧州のような多くの国々の集まりだったかも知れないと著者は言っています。
 
 【2003年文庫化[文春文庫]】

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「史記」誕生の背景がわかり易く描かれ、勇将たちの男気がストレートに伝わってくる。

李陵 史記の誕生1.jpg 李陵 史記の誕生2.jpg 李陵 史記の誕生3.jpg 久松文雄1.png
李陵―史記の誕生〈上〉 (コミック人物中国史)』『李陵―史記の誕生〈中〉 (コミック人物中国史)』『李陵―史記の誕生〈下〉 (コミック人物中国史)』['90年] 久松文雄氏(2009)

李陵 ド.jpg 漢の武帝の時代、匈奴との戦いで敵軍の捕虜となった友人の武将・李陵を弁護して武帝の怒りに触れ、宮刑に処せられた太史令・司馬遷は、歴史の真実を書き残すために「史記」を書き始める。一方、最初は匈奴の王・且鞮候(しょていこう)単于からの仕官の誘いを拒んでいた李陵は、誤報により祖国で裏切り者扱いにされて家族を殺され、やがて単于の娘を娶り左賢王となるが、一方、北海(バイカル湖)のほとりには、同じく匈奴に囚われながらも祖国への忠節を貫いた武人・蘇武がいた―。

 「史記」の誕生に纏わる司馬遷、李陵、蘇武などの人物像を描いた、久保田千太郎・作、久松文雄・画の歴史コミックで、オリジナル単行本は'83年10月の講談社刊(全4巻)。

李陵 2.jpg李陵・山月記.jpg この「李陵」の話自体は、中島敦の小説『李陵』でもそのまま取り上げられていて、よく知られているところです。波乱万丈のストーリーですが、大筋において「史記」や「漢書」に書かれて書かれている通りではないでしょうか。

小説十八史略 3.jpg 且鞮候単于の軍事参謀をしていた漢人は李陵ではなく、早々に匈奴側に寝返った李緒で、それが誤って李陵が匈奴軍を指導していると漢の側伝えられ、武帝が李陵が裏切ったと思ったのは「史記」にある通りですが、陳舜臣氏の『小説・十八史略』でも、李緒は漢では無名の軍人で、李将軍と聞けば、漢では李陵のことと思い込むのは当然であろうとしています。

 李陵も李緒に対して好感はもっていなかったようですが、家族を誅殺された憎悪の捌け口が李緒に向けられたのは自然の成り行きかも。但し、『小説・十八史略』では、李緒に直接手を下したのは本書のように李陵ではなく、李陵に同情する誰かであり、以前から李陵の助太刀を申し出る者は何人かいて、その内の誰が李緒を殺ったかということについて李陵は見当がついていたが、単于に問われても、その者を守るためにその名を口にしなかったとあります。

 この事件のために暫く李陵が北方へ引き下がっていたのは、殺された李緒の支持者の中に、彼が取り入った且鞮候単于の母大后がいたためで、その高齢の母親が亡くなり、胡地に戻った李陵は、且鞮候単于の跡をついで単于となった息子の左賢王を補佐するため右校王となる―李陵が捕虜になったのがB.C.99年、一族を殺されたのがB.C.97年、この間に司馬遷の宮刑があり、且鞮候単于の死と左賢王の即位、李陵の右校王就任がB.C.96年、この年、司馬遷が釈放されるなど、短い間にいろいろあったのだなあと。

 戻太子の乱(B.C.91年)というのは親子関係の悲劇だと思いますが、ちょうどそれが起きた頃、李陵は北海で蘇武と再会していたわけで、その蘇武が祖国に帰還したのが、本書では武帝の死(B.C.87年)の直ぐ後になっていて、蘇武の抑留期間は13年とありますが、通説では19年でないでしょうか(李陵が捕虜になる前年のB.C.100年に捕虜となり、漢へ帰還したのはBC81年)。

 司馬遷が、後代に歴史書の手本とされる「史記」を著すことになった背景がわかり易く描かれているとともに、且鞮候単于父子と李陵の男気の通い合い、蘇武とは異なる道を選ばざるを得なかった李陵の苦悩などがストレートに伝わってくるコミックに仕上がっているかと思います。

スーパージェッターモノクロ2.jpgスーパージェッター モノクロ.jpg 久松文雄氏(1943年生まれ)は、手塚治虫のアシスタントとして出発し、アニメ「スーパージェッター」「少年忍者風のフジ丸」「冒険ガボテン島」などの作画で知られる漫画家で、"原作付き"のものを専門にしており、「スーパージェッター」は前番組の「エイトマン」同様、まだ売れっ子になる前のSF作家らが脚本を書き、久松文雄氏が作画したもので(後に久松氏に原作権が認められた)、TV放映と同スーパージェッター2.jpg時期に「週刊少年サンデー」に連載された『スーパージェッター』はアニメのコミカライズであり、また「風のフジ丸」は白土三平の作品がベースとなっていますが、こうした空想科学SFの作画者である一方で歴史物の作画を得意とし、現在は「古事記」の全巻漫画化に取り組んでいます。

「スーパージェッター」●プロデューサー:三輪俊道●構成・監修:河島治之●音楽:山下毅雄(主題歌)作詞・加納一朗/作曲・山下毅雄/歌・上高田少年合唱団●原作:久松文雄●出演(声):市川治/松島みのり/熊倉一雄/田口計/樋口功/中村正/西桂太/中曽根雅夫●放映:1965/01~1966/01(全52回)●放送局:TBS


 【1983年単行本[講談社(『史記5〜8―李陵(中国歴史コミック)(全4巻)』)]/1989年文庫化[講談社(『李陵―史記(スーパー文庫)』)]/1990年単行本[文藝春秋(『李陵―史記の誕生(コミック人物中国史)(上・中・下)』)]/1995年再文庫化[講談社漫画文庫(『史記7〜9―李陵(上・中・下)』)]】

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実質的には伍子胥と范蠡の物語(それぞれに孫子が絡む)。"創作"を含むが面白い。

呉越1.jpg 呉越2.jpg 呉越3.jpg呉越燃ゆ―孫子の兵法〈上〉 (コミック人物中国史)』『呉越燃ゆ―孫子の兵法〈中〉 (コミック人物中国史)』『呉越燃ゆ―孫子の兵法〈下〉 (コミック人物中国史)

 今から2500年前、南方の大国・楚では、奸臣・費無忌が平王に取り入り、忠臣の伍奢と伍尚を謀殺、伍尚の弟・伍子胥は呉へ亡命し、軍師・孫子と共に公子光を助け呉王を刺殺、光は呉王闔廬となり、伍子胥は、闔廬を説得し楚を攻略、平王の墓を暴き復讐を果たす。しかしこの隙に、越の太子・勾践と軍師・范蠡が呉に戦いを仕掛けてきて、反撃を開始した呉軍は越へ侵入するが、范蠡の奇略にあい大敗、闔廬も殺される。越への復讐に燃える呉王夫差と伍子胥は、ついに越軍を破り会稽山に追いつめる―。

 「史記」の「呉越の争い」を描いた、久保田千太郎・作、久松文雄・画の歴史コミックで、オリジナル単行本は'84(昭和59)年6月講談社刊の全4巻。

呉越燃ゆ―孫子の兵法.jpg 後にそれぞれ「春秋五覇」の1人に数えられる呉王夫差と越王勾践が、自国の存亡を賭け、智謀の限りを尽くしたこの争いは、「臥薪嘗胆」の故事でも知られていますが、このコミック物語の前半の主人公は、知勇に優れた武将である呉の伍子胥(ごししよ)で、後半の主役は、名軍師として鳴らした越の范蠡(はんれい)と見ていいでしょう。

 その2人に比べると、伍子胥が仕えた夫差は、臆病なくせに功にはやる若者であり、范蠡が仕えた勾践は、自信家で戦さを好む性格が後に災いしたように描かれており、とりわけ夫差の呉王になってからの暗君ぶりは甚だしく、「西施の顰に倣う」(この故事成語の解説は出てこなかったけれど)で知られる、范蠡から送り込まれた美女・西施(せいし)との愛欲に溺れ、奸臣・伯嚭の讒言に乗せられ、伍子胥を殺してしまいます(伍子胥、無念!)。

小説十八史略 1.jpg 薪の上に練ることで復讐心を失わないようにする「臥薪」は、一般に強い復讐心を表すとされていますが、本書では伍子胥が驕慢な夫差に進言したものとなっており、作家の陳舜臣氏も『小説・十八史略』の中で、夫差の執念の弱さを物語るエピソードと解せなくもないとしています(因みに、勾践の"会稽の恥"を雪ぐための「嘗胆」も、自らの発案ではなく、范蠡の進言によるものとなっていて、勾践にも夫差と同じような意志の弱さがあったことが見てとれる)。

 文藝春秋版は、サブタイトルに「孫子の兵法」とあり、孫子(孫武)自身も活躍しますが、孫子が呉王闔廬や伍子胥を助け、楚を壊滅させたのは史実であるとしても、呉王夫差から死を賜った伍子胥の無念を晴らすべく、越の軍師・范蠡に策を授け、夫差を敗死させたというのは本当なの?

 ただ、全体を通してストーリー的には面白く、孫子の多彩な兵法のごく一部のみしか描かれていないのは不満ですが、田舎に隠遁している時の孫子の恐妻家ぶりとか、再婚して還暦近くなって子をもうけた時の喜びぶりとかは、孫子の意外な側面を見せています(これも"創作"の要素が強いと思えるが)。

 かつての呉王夫差と同じ愚を繰り返そうとしている越王勾践に国の先行きを読み、宰相の位を辞して越を去り、斉国で事業家として成功した范蠡の生き方などは、社長が無能だから自分の会社はダメなのだと思っているサラリーマンなどが読むと、ちょっと考えさせられるかも。

 【1984年単行本[講談社(『史記9〜12―呉越燃ゆ(中国歴史コミック)(全4巻)』)]/1989年文庫化[講談社(『呉越燃ゆ―史記(スーパー文庫)』)]/1990年単行本[文藝春秋(『呉越燃ゆ―孫子の兵法(コミック人物中国史)(上・中・下)』)]/1995年再文庫化[講談社漫画文庫(『史記4〜6―呉越燃ゆ(上・中・下)』)]】

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新書らしくコンパクトにまとまった戦国史、人物列伝。また、著者の小説が読みたくなる。

孟嘗君と戦国時代.jpg孟嘗君と戦国時代 (中公新書)』['09年]宮城谷昌光(孟嘗君と戦国時代).jpg NHK教育テレビ「知るを楽しむ」

NHK知るを楽しむ 孟嘗君と戦国時代.jpg 著者が出演したNHK教育テレビの「知るを楽しむ」('08年10月から11月放送・全8回)のテキストを踏まえ、加筆修正したもので、テレビ番組を一部観て、著者の語りも悪くないなあと思いましたが、こうして本になったものを見ると、著者の小説のトーンに近いように思え、また、小説同様に、或いはそれ以上に読み易く感じました。
この人この世界 2008年10-11月 (NHK知るを楽しむ/月)

孟嘗君 1.jpg 著者の小説『孟嘗君(全5巻)』('95年/講談社)は、単行本で1500ページほどありますが、前半部分はその育ての親で任侠の快男児・風洪(後の大商人「白圭」)を中心に展開され、風洪の義弟で秦の法治国家としての礎を築いた公孫鞅(商鞅)や、天才的軍師で田文(孟嘗君)が師と仰ぐ孫臏(孫子)の活躍が描かれ、田文が活躍し始めるのは第3巻の中盤ぐらいから、つまり後半からです。

 一方、全8章から成る本書も、第1章で春秋時代と戦国時代の違いや戦国時代初期の魏の文候と孟嘗君以外の戦国の四君に触れ、第2章から第4章にかけて春秋時代からの斉の歴史を、管仲や孫臏の活躍を織り交ぜながら解説し、第5章で田文の父・田嬰に触れ、第6章では稷下を賑わした諸子百家に触れ...といった感じで、孟嘗君田文の活躍が始まるのが第7章、鶏鳴狗盗の故事が出てくるのは最終の第8章です。

 でも、これはこれで、斉を中心とした戦国時代史として読め、また、新書らしくコンパクトに纏まった人物列伝でもあり、とりわけ、第6章の諸子百家の解説は、儒家と墨家、道家と法家、名家と縦横家などの思想の違いが、それぞれの代表的人物を通して分かり易く把握できるものになっています。

 田嬰が、妾に産ませたわが子(田文)を殺すように命じ、困った田文の母が邸外で密かに育てたという話は、小説では、田文の母・青欄がその子を庭師の僕延に託し、僕延は反体制派の警察長官・射弥(えきや)にその子を託し、そこには別に女の赤ん坊もいたが、僕延が射弥宅を再訪したときは射弥は殺され、赤ん坊は2人とも消えており、2人の赤ん坊のうち、「文」という刺青のある男児の方は、没落貴族の末裔で隊商用心棒・風洪(白圭)に救われて自分の子として育てられ、十数年後に父に見え認知されるとともに、かつて射弥宅に一緒にいた女児の成人となった女性とも再会するという壮大なストーリー展開なのでが、本書では、『史記』の記事からは「誰がどのように育てたかがわからない」とあっさりしていて、次はいきなり田文が父に謁見する場面になっています(う〜ん、どこまでがあの小説の著者の"創作"なのだろうか)。

 『孟嘗君』を読んだ人には、手軽な振り返りとして楽しめ、また、読んでいない人も含め、著者の中国戦国時代小説を読みたくなる本です。

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考古学的手法に加え、史料、他諸科学の現代技術も駆使して、チンギスの実像に迫る。

ジンギス・カン 白石典之.jpgチンギス・カン―"蒼き狼"の実像 (中公新書)』['06年] チンギス・カン.jpg チンギス・カン

 著者は考古学者で、チンギス・カンはこれまで考古学の対象になったことがないにも関わらず、自ら「チンギす・カン考古学」を看板にしている、"自称"異端の研究者であるとのことです(実際は、国際的評価を得ているホープ的存在なのだが)。本書では、チンギス・カンの本当の姿に迫るために、「元朝秘史」などの史料に拠りながらも、考古学の手法で物証により史実を検証していて、更には、人工衛星によるリモートセンシングなど地理学や地質学、土中の花粉から年代分析するなどその他諸科学の現代技術をも駆使し、"蒼き狼"を巡る多くの謎について実証または考察しています。

 そもそも「チンギス・カン(王)」と「チンギス・ハーン(皇帝)」では意味合いが異なり、「ハーン」と呼ばれるようになったのは後のことで、生前は「カン」と呼ばれていたというところから始まりますが、前半部分で特に興味を惹いたのは、鉄鉱石の産出が乏しいモンゴル高原で、彼がいかにしてそれを調達し、富国強兵を進めたのかという点で、中国北部にあった「金」への征服軍が、なぜ首都を素通りして、現在の山東省に向かったのかという疑問から答えを導き出しています(そこに鉄鉱山があったから)。ただ戦いに(戦術的に)強かっただけでなく、その根底には用意周到な(戦略的な)軍備拡張計画があったのだなあと。各王子に対する分封を交通路との関係で整理しているのも、チンギスの統治戦略を理解するうえで分かり易く、そもそも、モンゴル人のウルドの感覚は、我々の持つ国家や領土のイメージとはやや異なるもののようです。
チンギス・カンの霊廟 
チンギス・カンの霊廟.jpg 「元朝秘史」を手繰りながらの解説は、版図拡大の勢いを物語り、壮大な歴史ロマンを感じさせますが、一方で、製鉄所の場所が、長年謎とされてきた居所や霊廟のあった場所と重なってくるという展開は、ミステリー風でもあります。更には、どのような建物に住み、4人の后妃との生活はどのようなものであったか、実際にどのようなものを食していたのか、などの解説は、著者自身による発掘調査の進展や現地で得られた知見と併行してなされているため、説得力を感じました。後代のカーンに比べ、意外と王らしくない素朴な暮らしをしていたというのが興味深いです。晩年は、始皇帝よろしく不老長寿の秘薬を求めたものの、結局、養生するしか長生きの方法は無いと悟ったが、狩猟での落馬が死を早める原因となったとのこと。

中国・モンゴル・内蒙古.gif 本書には、前世紀から今世紀にかけての比較的最新の考古学的発見や研究成果が織り込まれていますが、チンギスに纏わる最大の謎は、その墓がどこにあるかということで、これだけはまだ謎のままのようです。調査が進まない要因の1つとして、政治的問題もあるようですが、本書の最後の方で語られている、内モンゴルと外モンゴルの国境線による分断(これには、中国、ソ連、そして満州国を建立した日本が深く関わっているのだが)などのモンゴル現代史は、内モンゴル自治区が、近年特に政治的に不安定な新疆ウイグル自治区と同じく、中国民族問題の火種を宿していることを示唆しているように思えました。

 著者によれば、本書は、考古資料を中心に、"実証的"スタンスで執筆を始めたが、途中でそれではあまりに無味乾燥な話になってしまうことに気づき、チンギスの個性のわかるエピソードや伝説の類を織り込んだとのこと、また考古学に関する部分でも、検証を先取りするようなかたちで書いた部分もあるとのことで、歴史学者はこうしたやり方を批判するかも知れませんが、一読者としては、お陰で楽しく読めました。

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著者の厳格な姿勢が貫かれた「中公」版。推理小説を読むような面白さがある「岩波」版。

元朝秘史 中公新書.jpg 岩村 忍 『元朝秘史―チンギス・ハン実録 (中公新書 18)』 ['63年] 元朝秘史 岩波新書.jpg 小澤 重男 『元朝秘史 (岩波新書)』 ['94年]

 中公新書版『元朝秘史』は、東洋史学者・中央アジア探検家で、ヘディンの『さまよえる湖』の翻訳などでも知られた岩村忍(1905-1988)による、チンギス=ハンに関する唯一の原史料「元朝秘史」の読み解きで、「元朝秘史」は元朝全体の史料ではなく、モンゴル帝国の始祖チンギス=ハンからオゴタイ=ハンまでの歴史伝承の写本であり、主要な部分が書かれたのは1240年頃とのこと(最初ウイグル文字で書かれ、後に漢字を音に充てて書き直された)。フビライ=ハンによる元朝の成立は1271年ですから、元朝成立前で話は終わっていることになります。

 なぜ「秘史」というかというと、チンギス=ハンの行ったことを非行も含め忠実に記録してあるため、正史である「元史」のように美化されておらず、あまり広く知られるとチンギス=ハンのカリスマ性を損なう可能性があったのと、チンギス=ハンの息子の中に、チンギス=ハンの妻が他国で囚われの身であった時に孕んだ子がいて、後継者の血統問題に差し障りがあるためだったらしいです。
 著者によれば、この「秘史」は、「ローランの歌」「アーサー王の死」など中世文学に比べても劣るロマンチシズムとリリシズムを湛え、関心を惹いた学者の数は日本の「古事記」どころか「史記」も及ばないとのことです。

 内容的には、"蒼き狼"と言われるあのチンギス=ハンが、いかにして人心を掌握してモンゴル族のリーダーになり、更に他のアジアのタタール族やキルギス族、ナイマン族(中央アジアにはモンゴル族だけがいたわけではない)などの部族を傘下に収めていくかが描かれていますが、登場人物の名前が似たり寄ったりのカタカナが多くて結構読むのが大変なため(原著の翻訳を見ると、ちょっと旧約聖書と似ているような感じも)、なかなか"血湧き、肉踊る"みたいな感じでは読み進めなかったというのが正直な感想。

 但し、ジャムハというチンギス=ハンの盟友で、後にチンギス=ハンと競うことになる人物がいて、著者はチンギス=ハンをドン=キホーテ型、ジャムハをハムレット型としていますが、こうした主要人物を念頭に置きつつ読むと、比較的読み易いかも知れません。

 史料の章変わりのところで、歴史的背景やどういうことがこの章で書かれているかが小文字で解説されていて、その上で本文に入っていく方法がとられていて、著者自身の考察は、この小文字の部分に織り込まれています。

 これは、読者の理解を助けるというより(それもあるが)、この「秘史」にも元々の語り手がいたわけで、例えばジャムハに対しては、同じくチンギス=ハンと競った他の部族の王や族長よりも好意的に伝承されており、そうした元の物語に入りこんでいる主観と、著者の主観を区分けするためだったと思われます。
 
 そのために「秘史」本文の方が、説明不足で読みにくい部分があり、これは著者の主観が入り込まないように翻訳した結果だと思いますが、ここまで史料と自らの主観を峻別しておいて、なおかつ、これは単なる翻訳ではなく、「わたくしの元朝秘史」だとしています。

歴史とh何か.jpg 著者の『歴史とは何か』('72年/中公新書)を読むと、歴史を文学や社会諸科学と対比させ、同じ史料を扱うにしても、歴史家は歴史家としての客観性を保持しなければならないとし、考証学者などに見られる「批判的歴史研究法」を"批判"していて(白石典之氏の『チンギス・カン―"蒼き狼"の実像』('06年/中公新書)などもこの手法で書かれているのだが、「秘史」にも多くを拠っている)、ましてや歴史小説家などは勝手に面白く「物語」を書いているにすぎないといった感じです。

岩村 忍 『歴史とは何か (1972年) (中公新書)

 歴史家はそんな自由に史料に自分の思想を織り込める立場にあるものではなく、例えば、森鷗外の歴史小説における史料の記述は、その文体において冷静客観を"装っている"が、彼が「歴史」と思っていたものはドイツ的実証主義の踏襲に過ぎない云々と手厳しいです。

 「事実を事実のまま記した」部分が多いと認められる司馬遷の「史記」に対する著者の評価は高く、一方、宋代に書かれた司馬光の「資治通鑑」に対する史書としての評価はそれに比べて落ち、但し、「すべての歴史は現代史である」と言われるように、「史記」にも、書かれた時代の「現代史」的要素が入り混じっていることに注意すべきだと。
 「個人的には、ここまで言うかなあと思う部分もありましたが、今の歴史家にも当てはまるのだろうか、この厳格姿勢は。
 この人は、「司馬史観」とか「清張史観」なんてものは認めなかったのだろうなあ、きっと。(評価★★★☆)

『元朝秘史』.jpg 尚、本書では冒頭に記したように、「元朝秘史」の主要な部分が書かれたのは1240年頃とのこととしていますが、「元朝秘史」がいつ書かれたのかについては諸説あり、言語学者でモンゴル語学が専門の小澤重男氏は『元朝秘史』('94年/岩波新書)で、これまである諸説の内の2説を選び、その両方を支持する(1228年と1258年の2度に渡って編纂されたという)説を提唱しています。
 
 「元朝秘史」の元のモンゴル語のタイトルは何だったのか、作者が誰なのかということも謎のようですが、これらについても小澤氏は大胆かつ興味深い考察をしていて、前者については「タイトルは無かった」(!)というのが正解であるとし、後者については、主要部分の「正集十巻」はオゴタイ=ハンに近い重臣が書いたのではなかという独自の考察をしています。 
 
 小澤氏は「元朝秘史」全巻の翻訳者でもあるモンゴル語学の碩学ですが、言語学の手法を駆使しての考察などには、この本の見かけの"硬さ"とは裏腹に、推理小説を読むような面白さがありました。
 
 但し、この本を読む前に、先に岩波文庫版の翻訳とまでもいかなくとも、岩波新書(岩村忍)版の『元朝秘史』や中公新書(白石典之)版の『チンギス・カン―"蒼き狼"の実像』などを読んで、その大まかな内容を掴んで(或いは、感じて)おいた方が、より本書を楽しく読めるかも知れません。 
 
元朝秘史(モンゴルン・ニウチャ・トブチャァン)」)...明初の漢字音訳本のみ現存する。中央下に「蒼色狼」との漢語訳がみえる。

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イデオロギー至上主義が人間性を踏みにじる様が具体的に描かれている。

私の紅衛兵時代6.jpg私の紅衛兵時代―ある映画監督の青春.jpg    さらばわが愛~覇王別姫.jpg 写真集さらば、わが愛/覇王別姫.jpg
私の紅衛兵時代 ある映画監督の青春 (講談社現代新書)』['90年/'06年復刻]/「さらば、わが愛覇王別姫」中国版ポスター/写真集『さらば、わが愛覇王別姫』より

陳凱歌(チェン・カイコー).jpg 中国の著名な映画監督チェン・カイコー(陳凱歌、1952年生まれ)が、60年代半ばから70年代初頭の「文化大革命」の嵐の中で過ごした自らの少年時代から青年時代にかけてを記したもので、「文革」というイデオロギー至上主義、毛沢東崇拝が、人々の人間性をいかに踏みにじったか、その凄まじさが、少年だった著者の目を通して具体的に伝わってくる内容です。

紅衛兵.jpg 著者の父親も映画人でしたが、国民党入党歴があったために共産党に拘禁され、一方、当時の共産党員幹部、知識人の子弟の多くがそうしたように、著者自身も「紅衛兵」となり、「毛沢東の良い子」になろうとします(そうしないと身が危険だから)。

 無知な少年少女が続々加入して拡大を続けた紅衛兵は、毛沢東思想を権威として暴走し、かつて恩師や親友だった人達を糾弾する、一方、党は、反国家分子の粛清を続け、"危険思想"を持つ作家を謀殺し、中には自ら命を絶った「烈士」もいたとのことです。

 そしてある日、著者の父親が護送されて自宅に戻りますが、著者は自分の父親を公衆の面前で糾弾せざるを得ない場面を迎え、父を「裏切り」ます。

 共産党ですら統制不可能となった青少年たちは、農村から学ぶ必要があるとして「下放」政策がとられ、著者自身も'69年から雲南省の山間で2年間農作業に従事しますが、ここも発狂者が出るくらい思想統制は過酷で、但し、著者自身は、様々の経験や自然の中での肉体労働を通して逞しく生きることを学びます。

 語られる数多くのエピソードは、それらが抑制されたトーンであるだけに、却って1つ1つが物語性を帯びていて、「回想」ということで"物語化"されている面もあるのではないかとも思ったりしましたが、う~ん、実際あったのだろなあ、この本に書かれているようなことが。

紅いコーリャン [DVD]」張藝謀(チャン・イーモウ)監督
紅いコーリャン .jpgチャン・イーモウ(張藝謀).jpg 結果的には「農民から学んだ」とも言える著者ですが、17年後に映画撮影のため同地を再訪し、その時撮られたのが監督デビュー作である「黄色い大地」('84年)で、撮影はチャン・イーモウ(張藝謀、1950年生まれ)だったとのこと。

 個人的には、チャン・イーモウ監督の作品は「紅いコーリャン」('87年/中国)を初めて観て('89年)、これは凄い映画であり監督だなあと思いました(この作品でデビューしたコン・リー(鞏俐)も良かった。その次の作品「菊豆<チュイトウ>」('90年/日本・中国)では、不倫の愛に燃える若妻をエロチックに演じているが、この作品も佳作)。 
               
童年往事 時の流れOX.jpg童年往事 時の流れ.png童年往時5.jpg その前月にシネヴィヴァン六本木で観た台湾映画「童年往時 時の流れ」('85年/台湾)は、中国で生まれ、一家とともに台湾へ移住した"アハ"少年の青春を描いたホウ・シャオシェン(侯孝賢、1947年生まれ)監督の自伝的作品でしたが(この後の作品「恋恋風塵」('87年/台湾)で日本でも有名に)、中国本土への望郷の念を抱いたまま亡くなった祖母との最期の別れの場面など、切ないノスタルジーと独特の虚無感が漂う佳作でした(ベルリン国際映画祭「国際批評家連盟賞」受賞作)。
【映画チラシ】童年往時/「童年往事 時の流れ [DVD]」 (パンフレット)

坊やの人形.jpg ホウ監督の作品を観たのは、一般公開前にパルコスペースPART3で観た「坊やの人形」('83年/台湾)に続いて2本目で、「坊やの人形」は、サンドイッチマンという顔に化粧をする商売柄(チンドン屋に近い?)、家に帰ってくるや自分の赤ん坊を抱こうとするも、赤ん坊に父親だと認識されず、却って怖がられてしまう若い男の悲喜侯孝賢.jpg劇を描いたもので、台湾の3監督によるオムニバス映画の内の1小品。他の2本も台湾の庶民の日常を描いて、お金こそかかっていませんが、何れもハイレベルの出来でした。

坊やの人形 [DVD]」/侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督

 両監督作とも実力派ならではのものだと思いましたが、同じ中国(または台湾)系でもチャン・イーモウ(張藝謀)とホウ・シャオシェン(侯孝賢)では、「黒澤」と「小津」の違いと言うか(侯孝賢は小津安二郎を尊敬している)、随分違うなあと。

陳凱歌監督 in 第46回カンヌ映画祭 「さらば、わが愛~覇王別姫 [DVD]」 /レスリー・チャン(「欲望の翼」「ブエノスアイレス」)
覇王別姫第46回カンヌ映画祭パルムドール.jpgさらば、わが愛/覇王別姫.jpg覇王別姫.jpg「さrあばわが愛」チェン.jpg 一方、チェン・カイコー(陳凱歌)監督の名が日本でも広く知られるようになったのは、もっと後の、1993年・第46回カンヌ国際映画祭パルム・ドール並びに国際映画祭国際映画批評家連盟賞受賞作「さらば、わが愛/覇王別姫」('93年/香港)の公開('94年)以降でしょう。米国でも評価され、ゴールデングローブ賞外国語映画賞、ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞などをを受賞しています(これも良かった。妖しい魅力のレスリー・チャン、残念なことに自殺してしまったなあ)。
さらば、わが愛/覇王別姫 4K修復版Blu-ray [Blu-ray]」(2023)
「さらば、わが愛/覇王別姫」00.jpg(●2023年10月12日、シネマート新宿にて4K修復版を鑑賞(劇場で観るのは初)。張國榮(レスリー・チャン)と鞏俐(コン・リー)が一人の男を巡って恋敵となるという、ある意味"空前絶後"的映画だったと改めて思った。)

 本書も刊行されたのは'90年ですが、その頃はチェン・カイコー監督の名があまり知られていなかったせいか、一旦絶版になり、「復刊ドットコム」などで復刊要望が集まっていたのが'06年に実際に復刻し、自分自身も復刻版(著者による「復刊のためのあとがき」と訳者によるフィルモグラフィー付)で読んだのが初めてでした。

 「さらば、わが愛/覇王別姫」にも「紅いコーリャン」にも「文革」の影響は色濃く滲んでいますが、前者を監督したチェン・カイコー監督は早々と米国に移住し(本書はニューヨークで書かれた)、ハリウッドにも進出、後者を監督したチャン・イーモウ監督は、かつては中国本国ではその作品が度々上映禁止になっていたのが、'08年には北京五輪の開会式の演出を任されるなど、それぞれに華々しい活躍ぶりです(体制にとり込まれたとの見方もあるが...)。


「中国問題」の内幕.jpg中国、建国60周年記念式典.jpg 中国は今月('09年10月1日)建国60周年を迎え、しかし今も、共産党の内部では熾烈な権力抗争が続いて(このことは、清水美和氏の『「中国問題」の内幕』('08年/ちくま新書)に詳しい)、一方で、ここのところの世界的な経済危機にも関わらず、高い経済成長率を維持していますが(GDPは間もなく日本を抜いて世界第2位となる)、今や経済界のリーダーとなっている人達の中にも文革や下放を経験した人は多くいるでしょう。記念式典パレードで一際目立っていたのが毛沢東と鄧小平の肖像画で、「改革解放30年」というキャッチコピーは鄧小平への称賛ともとれます(因みに、このパレードの演出を担当したのもチャン・イーモウ)。

 中国人がイデオロギーやスローガンに殉じ易い気質であることを、著者が歴史的な宗教意識の希薄さの点から考察しているのが興味深かったです。
 
童年往来事ド.jpg「童年往時/時の流れ」●原題:童年往来事 THE TIME TO LIVE AND THE TIME TO DIE●制作年:1985年●制作国:台湾●監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)●製作:徐国良(シュ・クオリヤン)●脚本:侯孝賢(ホウ・シャオシェンシネヴィヴァン六本木.jpg)/朱天文(ジュー・ティエンウェン)●撮影:李屏賓(リー・ピンビン)●音楽:呉楚楚(ウー・チュチュ)●時間:138分●出演:游安順(ユーアンシュ)/辛樹芬(シン・シューフェン)/田豊(ティェン・フォン)/梅芳(メイ・フアン)●日本公開:1988/12●配給:シネセゾン●最初に観た場所:シネヴィヴァン六本木(89-01-15)(評価:★★★★)
シネヴィヴァン六本木 1983(平成5)年11月19日オープン/1999(平成11)年12月25日閉館

坊やの人形 <HDデジタルリマスター版> [Blu-ray]
坊やの人形 00.jpg坊やの人形 00L.jpg「坊やの人形」(「シャオチの帽子」「りんごの味」)●原題:兒子的大玩具 THE SANDWICHMAN●制作年:1983年●制作国:台湾●監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)/曹壮祥(ゾン・ジュアンシャン)/萬仁(ワン・レン)●製作:明驥(ミン・ジー)●脚本:呉念眞(ウー・ニェンジェン)●撮影:Chen Kun Hou●原作:ホワン・チュンミン●時間:138分●出演:陳博正(チェン・ボージョン)/楊麗音(ヤン・リーイン)/曽国峯(ゾン・グオフォン)/金鼎(ジン・ディン)/方定台(ファン・ディンタイ)/卓勝利(ジュオ・シャンリー)●日本公開:1984/10●配給:ぶな企画●最初に観た場所:渋パルコスペース Part3.jpg渋谷シネクイント劇場内.jpgCINE QUINTO tizu.jpg谷・PARCO SPACE PART3(84-06-16)(評価:★★★★)●併映:「少女・少女たち」(カレル・スミーチェク)
PARCO SPACE PART3 1981(昭和56)年9月22日、演劇、映画、ライヴパフォーマンスなどの多目的スペースとして、「パルコ・パート3」8階にオープン。1999年7月~映画館「CINE QUINTO(シネクイント)」。 2016(平成28)年8月7日閉館。

「さらば、わが愛/覇王別姫」(写真集より)/「さらば、わが愛/覇王別姫」中国版ビデオ
『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993) 2.jpgさらばわが愛~覇王別姫.jpg「さらば、わが愛/覇王別姫」●原題:覇王別姫 FAREWELL TO MY シネマート新宿2 .jpgCONCUBI●制作年:1993年●制作国:香港●監督:陳凱歌(チェン・カイコー)●製作:徐淋/徐杰/陳凱歌/孫慧婢●脚本:李碧華/盧葦●撮影:顧長衛●音楽:趙季平(ヂャオ・ジーピン)●原作:李碧華(リー・ビーファー)●時間:172分●出演:張國榮(レスリー・チャン)/張豊毅(チャン・フォンイー)/鞏俐(コン・リー)/呂齊(リゥ・ツァイ)/葛優(グォ・ヨウ)/黄斐(ファン・フェイ)/童弟(トン・ディー)/英達(イン・ダー)●日本公開:1994/02●配給:ヘラルド・エース=日本ヘラルド映画(評価:★★★★☆)●最初に観た場所(再見)[4K版]:シネマート新宿(23-10-12)
「さらば、わが愛/覇王別姫」0.jpg

「さらば、わが愛/覇王別姫」図1.jpg

チャン・フォンイー、コン・リー、レスリー・チャン.jpgさらば、わが愛 覇王別姫 鞏俐 コン・リー.jpg鞏俐(コン・リー)in「さらば、わが愛 覇王別姫」(1993年・二ューヨーク映画批評家協会賞 助演女優賞受賞)
   
張豊毅(チャン・フォンイー)、鞏俐(コン・リー)、張國榮(レスリー・チャン)in 第46回カンヌ国際映画祭フォトセッション

レスリー・チャン in「欲望の翼('90年)」/「ブエノスアイレス」('97年)
欲望の翼01.jpg ブエノスアイレス 00.jpg

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実感できる全国試験の過酷さ。試験にまつわる幽霊譚などの説話的な話が面白い。
 
科挙―中国の試験地獄.jpg          科挙 中公文庫BIBLIO.jpg     宮崎市定.bmp  宮崎 市定(1901- 1995/享年93)
科挙―中国の試験地獄 (中公新書 (15))』['63年]/『科挙―中国の試験地獄 (中公文庫BIBLIO)』['03年]

 中国で隋の時代(587年)から清代(1904年)まで続いた科挙制度(元代に一時廃止)について、特に、それまでの「郷試」「会試」に加えて、天子自らが試験を行うという名目の「殿試」が行われるようになり、制度的に最も完成した(複雑化した)清朝の末期の制度の仕組みを中心に解説しています。

  「郷試」の前にも「科試」というものがあり、明代からはその前に「県試」「府試」「院試」「歳試」という学校入学試験(学校試)が設けられていて、まさにサブタイトルにある "試験地獄"ですが、その凄まじさは、本書にある「郷試」「会試」の実施手順を読むと、より実感します。
 「郷試」「会試」ともそれぞれ続けて3回試験があり、全国試験である「会試」の場合、試験前日から会場に入り、1回について2日かけて答案を作成するという作業が9日間続くので、殆ど監禁されている状態が何日も続くといった感じです。 

 試験科目が四書五経など儒学一本、それも暗記したものを書き写すのが主なので、近代化の時代と共に終わる運命にあった制度ですが、幅広い階層のほぼ誰もが受験出来て官吏への登用機会があるという点では、著者の言うようにそれなりの意義はあったと思えます。
 隋代の昔に制度化されていることを思うと尚更で、官吏養成システムである科挙は、「文民制度」の始まりとも言えるようです(著者によれば、中国で宋代以降、殆ど軍事クーデターが無かったのは、科挙による文民統治的な官僚制度が整備されていたためとのこと)。

 本書で大変面白かったのは試験や採点に纏わる説話的な話で、試験場に女の幽霊が現れて、昔自分を捨てた男が試験に集中出来ないように邪魔をするとか、試験官がたいしたことのない答案であるために落とそうとしたら「だめだ」という声が聴こえて落とせず、実はその答案を書いた男は善行の礼として若い女性から肉体提供の申し出を受けたが「だめだ」と自分に言い聞かせて勉強にうち込んだマジメな男だったとか、その逆に、いいと思って○にしたら夢に閻魔様が現れ×にしろと、そこで×をつけたが、やはりいい答案なので○に改めようとしたが×を書いた墨が落ちず結局落第させたが、その答案の主は素行の悪いことで評判の男だったことが後で判ったとか...。

 こうした話が生まれるのは、著者も考察しているように、試験が試験官の主観に左右される記述試験で、かなり"裏口"などの不正も行われていたようで、なぜあの人が落ちるのか、なぜアイツが受かるのか、みたいな話があって、そのことを「天網恢恢疎にして漏らさず」的発想(これは儒家ではなく老子)で合理化しているようにも思え、体制側から発生した面もあったかも。

 でも、そうした話が面白かった―。受験生の前に女幽霊が現れて合格を予言し、「あなたに地元の知事になってもらって自分を殺した男の罪を暴いてほしい」と言ったのが、実際その通り郷試・会試とも合格し、知事になった彼は過去の事件を暴いて女の怨みを晴らし、地元民からは名代官と言われたたとか(『聊斎志異』ではないが、何だか人間臭い幽霊譚が好きなのだなあ、中国人は)、試験に合格して喜びのあまり一時的に気の触れたヤサ男を正気に戻すために、普段彼を苛めていた乱暴者に頼んで(頼まれた男も、既に挙人となった男を乱暴に扱うことを最初は渋ったが)とりあえず一撃してもらったら正気を取り戻したとか(これは落語みたいな話)、大いに楽しめてしまいました。

 【1984年文庫化[中公文庫]/2003年再文庫化[中公文庫BIBULIO]】

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現代の官僚的組織に照らすと示唆に富む点は多いが、その前にまず読み物として面白い。

宦官―側近政治の構造.jpg 『宦官―側近政治の構造 (中公文庫BIBLIO)』 ['03年] 宦官2.jpg 『宦官―側近政治の構造 (中公新書 (7))』 ['63年]

アンリ・カルティエ=ブレッソン 宦官 1949.jpg 中国の歴史に不可視の闇のように影を落とす「宦官」―中国史の本を読んでも、宦官自体がどういうものであって、何故そうしたものが中国にいたのかということについてはあまり書かれていないことが多いですが、三田村泰助(1909‐1989)による本書は、そうした宦官という不思議な存在を知る上では、まさに「基本書」と言えるもの(1963(昭和38)年・第17回「毎日出版文化賞」受賞)。

 前半は、この「作られた第三の性」について、その起源(宦官は殷の時代からあったが、中国だけのものではなく、古代エジプトやイスラム国家にもいた)から去勢の仕方(死亡する者も多かった)や生態、後宮の管理者、官吏としての役割、その隆盛と興亡などが史料をもとに解説され、最初、刑罰としてあったものが出世の手立てとしてのものに変遷していく様が語られています。

 アンリ・カルティエ=ブレッソン 「宦官」 1949 (本書扉写真)

 この部分は、"文化人類学" 的であるとともに"中国性愛史"的要素もあって大いに興味を引かれますが、宦官は、若い頃は美貌でも、「年をとってくると、その風貌が痛ましくおどけたようになってきて、(中略)ちょうど男の仮装をした老婦人とそっくりになる」「大方のものは年をとるにしたがって肉が落ち、急激にたくさんの皺がよってくる。実際肥満しているものは少ない。40歳でも60歳くらいに見えるのはそのためである」とのこと、扉にあるカルティエ=ブレッソンの宦官を撮った写真がこれにピッタリあてはまるように思えました(しかし、楊貴妃を処刑した高力士や大遠征した鄭和は、何となくこうした"お婆さん"イメージには沿わないなあ)。

 後半は、宦官勢力が政治に大きな影響を及ぼした前漢・後漢、唐、明の3期の政治史を辿り、宦官の政治への関わり方や皇帝に及ぼした影響を解説していますが、著者が、漢の高祖が晩年の孤独の癒しを宦官に求めたことを例に、「これまでの歴史では、宦官が君主の心身を柔らかくさせるソファのような存在であったことを、不当に無視してきたきらいがある」(新書92p)と言っているのは興味深く、皇帝というのは孤独であり、それゆえに宦官に依存したり傾斜したりするのだなあと。

 しかし、大体、宦官が政治に関わりすぎると、民政はともかく権力上層部は混迷するようで、唐代に君主が2人も宦官に謀殺されていることはよく知られている通りです。
 あとがきでは、著者は、宦官を企業の秘書室に喩えていて、まあ、労働基準法的に言えば、「機密の事務を取り扱う者」といったところでしょうか、「機密事務取扱者」が直接政治に関わり始めると「側近政治」となり、ろくなことがないようです。
 宦官同士の連帯というものが共通の被差別意識により非常に強固なものであったこと、皇帝が2人も宦官に殺された唐代は、中国史においても行政機構が精緻化を1つ極めた時代であったことなどを、現代の官僚的組織に照らして考えると、示唆に富む点は多いように思いました。

 それ以前に先ず、読み物として前半・後半ともにそれぞれ極めて面白かったのですが。

 【1983年文庫化[中公文庫]/2003年再文庫化[中公文庫BIBULIO]】

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武帝が中国の歴史・文化に与えた影響が、親しみやすさをもってキッチリわかる良書。

漢の武帝.jpg 『漢の武帝 (岩波新書 青版 (24))』 ['49年] 吉川幸次郎.jpg 吉川幸次郎 (1904‐1980/享年76)

 吉川幸次郎(1904‐1980)の40歳代前半の著作で、同じ岩波新書では『新唐詩選』という著作もあり、漢字学の白川静(1910‐2006)などとも京都学派ということで繋がりの深かった「中国文学者」ですが(50歳過ぎだった白川静に博士論文を書くよう勧めたのは吉川幸次郎)、本書は一般向けに書かれた「歴史書」です。

 漢の武帝の時代(前141‐前87)を中国史上最も輝かしい時代の1つと捉え、武帝の治世を4期に分けて、この希代の天子の業績を検証するとともに中国史において果たした役割を考察した本、と言いっても硬い内容ではなく、歴史小説を読むように面白く読めます(但し、書かれていることは史書に基づいていて、「史記」や「漢書」といった史書自体が面白く書かれているという面もある)。

 著者に言わせれば、武帝の時代は「輝かしい時代」などとカッコつけて言うよりは、「威勢の良い・にぎやかな」時代ということであり、匈奴討伐の衛青、霍去病ら英傑をはじめ登場人物からして派手。ただし、軍事面だけでなく、武帝の目を西域に向けさせた張騫や、公孫弘、張湯といった文臣の功績など外交・内政(経済政策)面での臣下の多岐にわたる活躍を、彼らの人となりも含めて描いていて、武帝が国家改革を進め中央集権を完成するにあたって、炯眼をもって柔軟な人材登用を行ったことがよくわかります。

 そんな武帝も治世の後半は逸材と言える臣下に恵まれず、晩年には神仙思想に染まり、歴代皇帝の中で最も深く呪術に嵌まってしまう、それが、皇太子との間での確執と悲劇に繋がり、ある意味、人間の哀しさを体現した生涯のようにも思え、そうした点も、中国史上最も人々の印象に残る人物の1人となっている一因なのかも。

 戦後まもなくに書かれた本ですが、「皇帝の目は、一人のコーラス・ガールのの上にそそがれた」、「夫婦二人でバアをひらき、夫はショート・パンツをはいて皿を洗い」、「放逸な不良マダムぶりを発揮した」等々、親しみやすい(?)表現が多く、歴史小説よりもむしろ柔らかい部分さえあるかも知れません。

 一方で、武帝という人物が、政治・経済から儒学・宗教までいかに多くの面で、その後の中国の歴史と文化の方向付けをしたかということがキッチリわかる良書、陳舜臣などの中国時代小説を読むきっかけとなった本であるという個人的な思い入れもあり星5つ。

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教科書で(意図的に?)省かれてしまっていることも網羅。生き生きとした物語風の描写。

教養人の東洋史下03.jpg


東洋史2.JPG
教養人の東洋史 下 15世紀から現代迄  現代教養文庫 548』〔'66年〕

01 林則徐.jpg 02 李鴻章.jpg 03 康有為.jpg 04 袁世凱.jpg 05 孫文.jpg 06 毛沢東.jpg  07 イェニチェリ.jpg 08 スレイマン1世.jpg 09 ムハンマド・アリー.png 10 ターハー・フセイン.jpg 11 ナセル.jpg 12 アクバル1世.jpg 13 タゴール.png 14 ガンジー.jpg 15 スカルノ.jpg
上左から 林則徐/李鴻章/康有為/袁世凱/孫文/毛沢東/イェニチェリ/スレイマン1世/ムハマンド・アリー/ターハ・フセイン/ナセル/アクバル1世/タゴール/ガンジー/スカルノ

 現代教養文庫の『教養人の東洋史(上・下)』('66年)は、 『教養人の世界史(上・中・下)』('64年)の姉妹版で、このシリーズは何れも2ページ見開き1テーマで、広範な視点から世界史上の出来事を選択し、物語風にわかりやすく解説しながらも、それらが時系列できちんと繋がっているという良書でした。

 ともに下巻が身近に感じられ、学校の授業などで最後はスピードアップされて割愛されがちな部分を、もう一度におさらいしてみるには良い本。ただし、「現代」と言っても'60年代の入り口までですが...。

『教養人の東洋史 (下).JPG 特に「東洋史」は、本来我々が知っておくべきことであるのに教科書や授業などでは(意図的に?)省かれてしまっていることも、かなり含まれています(出版社の姿勢によるところも大きいと思うが、既に版元は倒産し、本自体も入手が難しくなっている)。

 「東アジア史」「西アジア史」「インド史」の3章にわかれ、「東アジア史」は明朝以降の中国史が中心となりますが、朝鮮史などもとりあげていて、トルコを中心とした「西アジア史」には、中東史との関連でエジプト史などアフリカ史が含まれており、「インド史」にはベトナム、インドネシアなど東南アジアの諸国の歴史上の出来事や人物に関する記述も含まれています。

 歴史の表舞台だけでなく裏舞台で活躍した人物や、小さな反乱・蜂起などもとりあげ、生き生きと描写していて小説を読むように読めるのと、見開きページごとに関連する人物や事件の写真があり、「こんな人がいたんだあ」「こんなことがあったんだあ」という感じで読む者を飽きさせません。

 受験では出題されないけれども、歴史を学ぶ人に本当に知っておいてほしいことを伝えたいという、編者らの意気込みが伝わってきます。

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「奇人伝」と言うより、生き方(自己実現)の系譜として読めた。

奇人と異才の中国史.jpg奇人と異才の中国史』岩波新書〔05年〕井波 律子.jpg 井波律子氏(国際日本文化研究センター教授)

 春秋時代から近代までの2500年の中国史のなかに出現した56人の生涯を、時代順にとりあげ、1人3ページ程度にコンパクトに紹介・解説しています。孔子や始皇帝から魯迅まで、政治家、思想家、芸術家などとりあげている範囲は広く、誰でも知っている人物もあればさほど一般的でない人物もありますが、そうした人物の"奇行"を蒐集しているわけではなく、オーソドックスな人物列伝となっています。

孔子.jpg 孔子は55歳からスタートした14年間の諸国遊説によって自らの思想を充実させたとのことで、もし彼がどこかに任官できていれば、逆に一国の補佐役で終わったかもしれず、弟子もそんなに各地にできなかっただろうと(因みに彼の身長は216cmあったとか)。 
孔子

王陽明.jpg 明代中期に陽明学を起こした王陽明は、軍功を挙げる一方で、朱子学を20年研究し、自己の外にある事物それ自体について研究し事物の理に格(いた)ることで認識が定成するという朱子学のその考えを結局は彼自身は受け入れられず、転じて自らの心の中に知を極めることにして〈知行合一〉の考えに至ったとか―。
王陽明

 〈思想〉が最初からその人物に備わったものではなく、年月と経験を経て(或いは、置かれた境遇を通して)その人のものとなったことがわかり、興味深かったです。 
                                                
 こうした思想家の列伝も充実していますが、全体としては、歴史の授業などではあまり詳しく習わない、あるいはまったく取り上げられない文人や女性が比較的多いのが本書の特徴でしょうか。加えて、そうした中に、政治と関わりながら途中から隠者のような生活に入った人も多いのは、『中国文章家列伝』('00年/岩波新書)、『中国の隠者』('01年/文春新書)などの著作がある著者らしいと言えます。

 本書は新聞連載がベースになっているため、それぞれの評伝は短いけれどよく纏まっており、その人物がどのような「生き方」を志向したかがわかるような書き方で、生き方(自己実現)の系譜として読めました。

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歴史的反証を多く含み、モンゴル帝国の新たな側面が見えてくる本。

杉山 正明 『モンゴル帝国の興亡 (上・下)』 .jpgモンゴル帝国の興亡.jpg モンゴル帝国の興亡 下.jpg 『モンゴル帝国の興亡〈上〉軍事拡大の時代 モンゴル帝国の興亡〈下〉―世界経営の時代』講談社現代新書 〔96年〕

 上巻「軍事拡大の時代」で、チンギスの台頭(1206年カン即位)から息子オゴタイらによる版図拡大、クビライの奪権(1260年即位)までを、下巻「世界経営の時代」で、クビライの築いた巨大帝国とその陸海にわたる諸システムの構築ぶりと、その後帝国が解体に至る(1388年クビライ王朝滅亡)までを、従来史観に対する反証的考察を多く提示しつつ辿る、密度の濃い新書です。

 拡大期、(ドイツ会戦「ワールシュタットの戦い」は実際にあったか疑わしいとしているものの)遠くハンガリやポーランドに侵攻し、またバクダッド入りしてアッバース朝を滅ぼすなど、その勢いはまさに「世界征服」という感じですが、皇帝が急逝すると帝位争奪のために帰国撤退し、それで対峙していた国はたまたま救われるというのが、歴史に影響を及ぼす偶然性を示していて(そのために一国が滅んだり生き延びたりする...)何とも言えません。
クビライ
クビライ.jpg クビライの時代には帝国は、教科書によく出てくる「元国及び四汁(カン)国」という形になっていたわけですが、本書では一貫して「国」と呼ばず、遊牧民共同体から来た「ウルス」という表現を用いており、また、ウルス間の対立過程において、それらの興亡や版図が極めて流動的であったことを詳細に示しています。

 チンギスの名を知らない人は少ないと思いますが、クビライ(Qubilai, 1215‐1294)がやはり帝国中興の祖として帝国の興隆に最も寄与した人物ということになるのでしょう。
 人工都市「大都」(北京)を築き、運河を開削し海運を発達させ、経済大国を築いた―伝来の宗教的寛容のため多くの人種が混在する中、これら事業に貢献したのは、ムスリムや漢人だったり、イラン系やアラブ系の海商だったりするわけで、2度の元寇で日本が戦った相手も高麗人や南宋人だったのです。

 "野蛮"なモンゴル人による単一民族支配という強権帝国のイメージに対し、拡大期においてすら無駄な殺戮を避ける宥和策をとり、ましてモンゴル人同士での殺戮など最も忌み嫌うところであったというのは、そうした既成の一般的イメージを覆すものではないでしょうか。
 安定期には自由貿易の重商主義政策をとり、そのために能力主義・実力主義の人材戦略をとり、多くの外国人を登用したという事実など、帝国の新たな側面が見えてくる本です。

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