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作者の自らの記憶に対する結晶化作用を、読む側も追体験しているような感じ。
『なぎさホテル』(2011/07 小学館)
広告制作会社をわけあって辞め、妻子も東京も捨てたある冬の午後、故郷に帰ろうとしていた「私」はその前に関東の海が見たくなり、降り立ったのが逗子だった。そして、ふとしたきっかけで湘南海岸に建つホテルに住むことになる―。
前作『いねむり先生』と同じく作者の自伝的小説であり、東京での生活に疲れ、人生に絶望した「私」は、20代後半から30代前半にかけての7年間、逗子にあった名門ホテル「逗子なぎさホテル」で暮らすことになります。その経緯から、作家デビューしていく過程、宿泊代を取らずに支えてくれたI支配人のこと、ホテルで出逢った不思議な女性や人々との心温まる交流など、作家を生業としていくまでの苦悩や青春の日々が綴られています。
「なぎさホテル」に7年('78年冬から'84年に該当)も世話になることになった経緯というのが、金は一銭もないまま昼間浜辺でビールを飲んでいたら、このIさんが来て、近くに宿がないか訊ねたらうちのホテルがあると言われ、「お金なんていいんですよ」「あなた一人くらい何とかなります」と言ったというのがスゴイね。かつては氷川丸の厨房長も務めたという洒脱な海の男I支配人、ふらりとやってきた一見の客を、一番いい部屋にタダで何年も居候させ(宿泊料取っていないから客とは言えないよね)、ホテルの床が抜けるほどの本を買い込んで読書に明け暮れる男のために本棚まで作らせたというから尋常でないと言えばそうですが、何か見返りを期待しているわけでもなく、「あせって仕事なんかしちゃいけません」とか言っているのが、まるでお伽噺の登場人物みたいです。
でも、実際にこういうホテルがあって、こういう人たちがいたんだろうなあ。何だか不思議な気がしますが、作者自身、後に振り返って、どうしてそうした待遇を受けたのか今でも分からないと言っているところに、逆に真実味を覚えます。出てくる人の全てが「いい人」ばかりというわけではなく、「嫌な人」も出てくるのですが、読み終えると「いい人ばかり」だったという印象しか残らないというのも不思議な読後感。作者の自らの記憶に対する結晶化作用を、読む側も追体験しているような、そんな感じでしょうか(実際には、作者が一番もがいていた時期のことが書かれているわけだが)。
在りし日の「逗子なぎさホテル」(大正15年開業のこのホテルは平成元年に取り壊された)の姿はウェブなどでも見ることが出来、単行本表紙デザインに使われている図柄の元などもありますが、本書の中では写真家の宮澤正明氏が取り壊し直前のなぎさホテルを撮影した写真を使っていて、これが最初からこうだったのか後から加工したのか分かりませんが、ソフトフォーカスと言うかピンホール写真機で撮ったかのようにややボケていて、涙目で見たようになっているのが却っていいです。この写真も、本書が電子書籍化されたこともあってウェブで全部またはその一部を見ることができます。
『いねむり先生』よりエッセイ風の作品とでも言うか、随所に作者の創作に対する考え方なども出てきて、"「伊集院静」入門"としては欠かせない作品とされているようです。個人的にも、例えば、自分は作家として自分の経験に全く関係ないところを起点に小説は書けないタイプであるといったことを書いてる点などは興味深かったです。
一方で、この作品には、"夏目雅子さんと愛を育んだホテル"といったキャッチが付いていたり、「夏目雅子さんの人柄が偲ばれます」といった感想を見かけたりします。確かに「なぎさホテル」は作者の後の妻・夏目雅子との愛を育んだ場所ではあったかもしれませんが(2人の交際期間は7年であったといい、作者の「なぎさホテル」滞在期間とほぼ重なる)、しかしながら作中では、「私」が長らく馴染みにしている地元の寿司屋の夫婦などと共に終盤にちょことだけ「M子」として登場しているくらいで、"夏目雅子さんと愛を育んだホテル"というキャッチもどうかと思いますが、少なくとも後者の「人柄が偲ばれます」云々といった感想は、何か別のところからの情報が混ざっているのではないでしょうか(そもそも作者は夏目雅子を直接的にモデルとしたものを小説では書かないことをポリシーとしている)。
作者がホテルを出たのは夏目雅子との結婚生活を送るためであり('84年に結婚)、時系列的にみると、その翌年1985年9月11日に夏目雅子は27歳の若さで急性骨髄性白血病で死去、作者はそこからまたアルコール中毒に陥って無頼の徒のような暮らしぶりになるわけですが、そこで出会ったのが色川武大であり、前作『いねむり先生』の世界へと繋がっていくことになります。
【2016年文庫化[小学館文庫]】
【2014年電子書籍化[デジタルブックファクトリー・Kindle版]】