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作者の前・後期の境目にあり両者を繋ぐ作品。"平面的"から"立体的"になった。

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「万延元年のフットボール」 大江健三郎 純文学書下ろし特別作品 1967年11月』『万延元年のフットボール (講談社文庫)』['71年]『万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)』['88年]

 1967(昭和42)年度・第3回「谷崎潤一郎賞」受賞作。

 英語専任講師・根所蜜三郎と妻・菜採子の間に生まれた子には頭蓋に重篤な障害があり、養育施設に預けられている。蜜三郎のたった一人の親友は異常な姿で縊死した。蜜三郎と菜採子の関係は冷めきり、菜採子は酒に溺れている。蜜三郎の弟・鷹四は60年安保の学生運動に参加後に転向し渡米、放浪して帰国する。米国で故郷の倉屋敷を買い取りたいというスーパー・マーケット経営者の朝鮮人(スーパーマーケットの天皇)に出会い、その取引を進めるためだ。蜜三郎夫婦は、鷹四に、生活を一新する契機にしてはと提案され、鷹四と彼を信奉する年少の星男、桃子とともに郷里の森の谷間の村に帰郷する。倉屋敷は庄屋だった曽祖父が建てたもので、曽祖父の弟は百年前の万延元年の一揆の指導者だった。曽祖父の弟の一揆後の身の上については、兄弟で見解が違う。鷹四の考えでは騒動を収束させるために保身を図る曽祖父により殺されたとされ、蜜三郎の考えでは曽祖父の手を借りて逃亡したと。鷹四は曽祖父の弟を英雄視している。実家には父母は既に亡くなっており、戦後予科練から復員した兄弟の兄・S兄さんは、戦後の混乱で生じた朝鮮人部落の襲撃で命を落としていた。兄弟の妹は知的障害があり、父母の死後に伯父の家に貰われていったが、そこで自殺した。倉屋敷は小作人の大食病の女ジン夫婦が管理している。S兄さんの最期についても兄弟で食い違う。当時幼児だった鷹四は、朝鮮人部落襲撃時のS兄さんの英雄的な姿を記憶しているが、蜜三郎は、S兄さんは、騒動の調停の死者数の帳尻合わせで日本人の側から引き渡され殺された哀れな犠牲者だったと。村はスーパー・マーケットの強力な影響下にあり、個人商店は行き詰まってスーパーに借金を負っている。スーパーの資本で村の青年たちは養鶏場を経営していたが、寒さで鶏が全滅する。その事後策を相談されたことから、鷹四は青年たちに信頼され、青年たちを訓練指導するためのフットボール・チームを結成する。妻の菜採子は、退嬰的に一人閉じこもる蜜三郎から離れ、快活に活動する鷹四らと活動を共にするようになる。鷹四はチームに万延元年の一揆の様子などを伝え、チームに暴力的なムードが高まる。正月に大雪が降り、村の通信や交通が途絶されると、チームを中心に村全体によるスーパーの略奪が起きる。暴動は伝承の御霊信仰の念仏踊りに鼓舞された祝祭的なものだった。鷹四は菜採子と姦淫するようになったが、村の娘を強姦殺人したことから青年たちの信奉を失い、猟銃で頭を撃ち抜いて自殺する。自殺の直前、鷹四は蜜三郎に「本当の事をいおうか」と過去に自殺した知的障害のあった妹を言いくるめて近親相姦していたことを告白する。鷹四の破滅的な暴力の傾向は、自己処罰の感情からきていた。雪が止み、交通が復活した村にスーパー・マーケットの天皇が倉屋敷解体のために現れ、スーパー略奪は不問に付される。倉屋敷の地下倉が発見され、曽祖父の弟は逃亡したのではなく、地下で自己幽閉して明治初頭の第二の一揆を指揮・成功させ、その後も自由民権の流れを見守ったことが判明する。夫婦は和解し、養護施設から子供を引き取り、菜採子が受胎している鷹四の子供を産み育てることを決意、蜜三郎はオファーのあったアフリカでの通訳の仕事を引き受けることにする―。

 今年['23年]3月に亡くなった大江健三郎(1935-2023/88歳没)の長編小説で、作者の数ある作品の中でも最高傑作との呼び声が高く、また、ノーベル文学賞の受賞理由として挙げられた作者の5作品の中でも、特に評価が高かった作品でもあります(実際、ストーリーを振り返るだけで、面白い)。

 この作品を読むに際しては、同じくその5作品の1つである前作『個人的な体験』を先に読むといいと思います。『個人的な体験』の主人公・鳥(バード)も予備校の教員で、少年期よりアフリカに行くという夢を持ち続けていて、子が出生した際に頭部に重篤な障害があることが分かった際も、障害児の親となることから逃避して、アフリカへ行くことを思い描いていましたたが、ある時急に、子どもに手術を受けさせ、子どもを育てようと思い直します。このように、この作品と様々な点で、共通または対照的関係にあると言えます。

 そして、この作品は、『個人的な体験』と並んで(『個人的な体験』のところでもそう書いたが)大江文学の前期と後期の境目にあり、かつ両者を繋ぐ作品である言えます。文芸評論家的に言えば、前期の「人間像の提示」というモチーフが示されなくなり(『個人的な体験』にはまだそれが残っているか)、後期の「世界像の提示」というモチーフが同作から現れ、個人的に言わせてもらえれば作品が"平面的"なのものから"立体的"なものに変化したという印象です。

 ただ、これも言わせてもらえれば、大江文学のピーク時の作品であり(『<死者の奢り』から10年くらいでピークに達したことになるが)、それまで短い期間に何度も作風を変化させてきた作者が、ここに1つの完成形をみたのはいいけれど、その後の作品は、多分にこの作品のリフレイン的要素が強いものが多かったように思います(同じモチーフやテーマが何度も出てくる)。

 この小説が「空想小説」的なモチーフでありながら、一定のリアリティを持って読めるのは、作者の先祖に実際にこの小説に出てくる人物に似たような人がいたこと(長兄をモデルにした予科練帰りの登場人物はその典型)、作者が幼い頃、実家の使用人だった語り部のような老女から明治初期に地元で起きた一揆の話を聞かされていたこと、作者自身が自分の故郷を念頭に置いて、はっきりしたイメージを持ちながら書いていること、などがその理由としてあげられるのではないかということを、作者の死没を契機に、文庫解説並びに『大江健三郎 作家自身を語る』('07年/新潮社、、'13年/新潮文庫)を読み直してでみて思った次第です。

『万延元年のフットボール』.jpg『万延元年のフットボール』単行本.jpg【1971年文庫化[講談社文庫]/1988年再文庫化[講談社文芸文庫]】
 
  
 
「万延元年のフットボール」 大江健三郎 純文学書下ろし特別作品 1967年11月
 
 

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

講談社文芸文庫

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重いテーマ。但し、神の不在や沈黙がテーマではない作品。技巧面でも優れている。

沈黙 遠藤周作 新潮文庫.jpg 沈黙 遠藤周作 新潮文庫.jpg 沈黙 遠藤周作 単行本.jpg 遠藤周作.bmp
沈黙 (新潮文庫)』 /映画「沈黙‐サイレンス‐」タイアップ帯/『沈黙』['63年/新潮社] 遠藤 周作

 1966(昭和41)年度・第2回「谷崎潤一郎賞」受賞作。

 島原の乱が鎮圧されて間もない頃、ポルトガル司祭ロドリゴとガルペは、キリシタン禁制が厳しい日本に潜入するためマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。キチジローの手引きで五島列島に潜入し、隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され殉教する信者たちを前に、ガルペは彼らの元に駆け寄って命を落とす。ロドリゴもキチジローの裏切りで捕らえられ、長崎奉行所でかつての師で棄教したフェレイラと出会い、更にかつては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題を突きつけられる。ある日、ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接することとなり、棄教の淵に立たされる―。

 1966(昭和41)年3月刊行の遠藤周作(1923-1996/享年73)の書き下ろし長編小説で、神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題に関して切実な問いを投げかけたとされている作品です。テーマとしては、まず「神はなぜ沈黙しているのか」(或いは「神は本当にいるのか」)という絶対的なテーマと、次に「迫害の中で殉教が必ずしも正しい選択とは言えないのではないか」(棄教という選択もあるのではないか)という相対的なテーマの2つのテーマが考えられるように思いました。

 最初の「神は本当にいるのか」というテーマは、日本に来て多くの信者の苦難を目にしてた主人公のロドリゴ自身が、「神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の人生は滑稽だった。泳ぎながら、信徒たちの小舟を追ったガルペの一生は滑稽だった」と自問しています。但しこのテーマは、確かに大きなテーマですが、一方で、物語を通して主人公にとって神は(ロドリゴの主観においては)否定し得ないア・プリオリな存在であるようにも思えました。更に言えば、「沈黙」というタイトルでありながら、「神はなぜ沈黙しているのか」ということも、直接の本書のテーマには必ずしもなっていないともとれます。そのことは、当初、作者が予定していたタイトルが「ひなたの匂い」だったのが、新潮社側からインパクトが弱いとされて「沈黙」というタイトルを薦められ、それを受け入れたという経緯からも窺えます。

 問題は2番目の「迫害の中で殉教が必ずしも正しい選択とは言えないのではないか」というテーマであり、このテーマは、ロドリゴとガルペの対比だけでなく、何度も踏み絵を踏み、仕舞いにはロドリゴを奉行所に売り渡しながら、それでもなおロドリゴに告解を受け容れてもらうために付き纏うキチジローや、拷問により棄教したかつてのロドリゴの師フェレイラなども入り交じって、やや複雑な位相を示しているように思いました。

 ロドリゴは、自分を売ったキチジローをユダさながらに見做して許す気になれず、また、拷問により棄教し日本の土壌にキリスト教は馴染まないという結論に至ったかつての師フェレイラを背教者と見做して軽蔑します。それらを認めてしまったら、棄教を拒んで殉教したガルペの死(或いはそれ以前の日本人信徒らの死)は何だったとのかという、1番目の問題と同じことになるからだと思われます。但し、ロドリゴにとって神はア・プリオリな存在であり、井上筑後守との問答はあったにせよ、この段階では彼自身は棄教するつもりは全くありません。

 そして、いよいよ自分自身がフェレイラが受けた拷問と同じような拷問を受けると思われる日が到来し、むしろ張り切ってその場に臨むのですが、実際に彼自身は拷問は受けることはなく、実は何日も前から拷問を受けていたのは何度も棄教した信徒らで、ロドリゴが棄教しない限り彼らへの拷問は続き、彼らはそのままでは死ぬであろうという、かつて、ロドリゴの目の前でガルペが置かれたのと同じような究極の選択をしなければならない状況が彼を襲い、結局ロドリゴは彼自身がそうするとは予期していなかった棄教をします(一方、それは、井上筑後守が予測していたことでもあった)。

 従って以降は、そのようにして「転んだ」司祭であるロドリゴがキリスト者たり得るのか、神は殉教した人々だけでなく、ロドリゴとも共に在るのか―といったことがテーマになっているように思われます。例えばこのテーマは、彼がそれまで汚らわしいものでも見るように捉えていたキチジローにも当て嵌まるテーマであり、ロドリゴにとっては非常に皮肉なテーマでもあるように思いました。

 作者のロドリゴの描き方は、婉曲的ではあるものの、神はまたロドリゴの傍にも在るといったものになっているように思われましたが、このことが、この小説がキリスト教会から非難されることになったり、作者のキリスト教観は非常に母性的なものであって、これは日本人特有のキリスト教観、或いは作者独自のキリスト教観であるといった批判や議論に繋がっていったのでしょう。

 但し、作者自身はそうした議論を喚起するためにこうした小説を書いたのではなく、おそらく作者は、どんな苦難の中でも「私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」と声をかけてくれる、「人生の同伴者たるイエス」乃至は「母なる神」を描きたかったのではないかと思います。

 感動作であり、重いテーマの作品(但し、先にも述べたように、神の不在や沈黙がテーマではないと思われる)ですが、技巧面も優れていると思いました。この作品のモチーフは古文書から得ているそうですが、ポルトガル人であるロドリゴのモデルになった司祭は実はイタリア人であって、ポルトガル人であるフェレイラのモデルになった人物との間に師弟関係どころか接触さえなかったのを、二人を同国人にして師弟関係にし、物語上の二人の対比を際立たせたりするなど、ストーリーテラーとしての作者の巧みさが光ります。また、物語の前半を、ロドリゴが本国に宛てた書簡という形で純粋な主観で描き、後半を、ロドリゴの心象を描きながらも三人称の半客観で描き、エピローグを古文書の形を借りた純粋客観で描いているといった構成も巧みであると思いました。

4遠藤 周作 『沈黙』.jpg沈黙 サイレンス.jpg 以前に読んで、結構「重い」と感じられたせいか暫く読み返さないでいたのですが、マーティン・スコセッシ監督による映画「沈黙-サイレンス-」('16年/米)の公開を機に読み直しました。もともとそれほど長い小説でもないのですが、とにかく一気に読める密度の濃い作品であると、改めて感じました。

マーティン・スコセッシ監督 「沈黙 -サイレンス-」 (16年/米) (2017/01 KADOKAWA) ★★★★☆

【1981年文庫化[新潮文庫]】

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「河内十人斬り」の惨劇に材を得た作品。終局の描写は素晴らしいが...。

告白.jpg  『告白』['05年/中央公論新社]河内音頭 河内十人斬.jpg「河内音頭 河内十人斬」CD

 2005(平成17)年度・第41回「谷崎潤一郎賞」受賞作。

 明治26年に河内水分で、農家の長男・城戸熊太郎が、妻を寝取られた恨み、金を騙し取られた恨みから、同じく村の者に恨みを抱くその舎弟・谷弥五郎と共謀し、村人10人を惨殺したという事件(「河内十人斬り」という任侠的な敵討ち物語として、河内音頭のスタンダードナンバーにもなっている)を題材にしたもの。

 単行本の帯には「人は人をなぜ殺すのか」とあり、かなり重苦しい雰囲気の物語かと思いきや、酒と博打の生活から抜け出せないダメ男・熊太郎を、河内弁と独特の"町田節"で落語みたいにユーモラスに描いていて、そのアカンタレぶりに対する作者の愛着のようなものが滲み出ています。

 熊太郎という男は言わばヤクザ者ですが、もともと進んで悪事を働くような人物ではなく、他人を思いやることもできる人間なのに、いつも他人に誤解され、割を食って損ばかりしている、それを自分では、自分が思弁的な人間であり、自分の心情をうまく言葉にできないためだ感じている人物です。

 小説の中では随所にその熊太郎のねちっこい"思弁"が内的独白として語られ、その彼が凶行に及んだ最後の最後で、思っていることを言葉にしようとする、そこにタイトルの『告白』の意味があるということでしょう。

 カタストロフィに向かう終局の描写は素晴らしく、そこに至るまでのユーモラスなプロセスは、対比的な効果を高めることに寄与しているとは思いますが、進展がないまま同じような出来事が続いているような印象もあり、やや冗長な感じがします。

 ただし、人物造型といい語り口といい"町田ワールド"ならではのユニークさで、読み終えてみれば力作には違いないとの感想は持ちましたが、テーマ的には、「人は人をなぜ殺すのか」と言うより、「熊太郎はなぜ人を殺したのか」という話であるように思えました。
 
●朝日新聞・識者120人が選んだ「平成の30冊」(2019.3)
1位「1Q84」(村上春樹、2009)
2位「わたしを離さないで」(カズオ・イシグロ、2006)
3位「告白」(町田康、2005)
4位「火車」(宮部みゆき、1992)
4位「OUT」(桐野夏生、1997)
4位「観光客の哲学」(東浩紀、2017)
7位「銃・病原菌・鉄」(ジャレド・ダイアモンド、2000)
8位「博士の愛した数式」(小川洋子、2003)
9位「〈民主〉と〈愛国〉」(小熊英二、2002)
10位「ねじまき鳥クロニクル」(村上春樹、1994)
11位「磁力と重力の発見」(山本義隆、2003)
11位「コンビニ人間」(村田沙耶香、2016)
13位「昭和の劇」(笠原和夫ほか、2002)
13位「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一、2007)
15位「新しい中世」(田中明彦、1996)
15位「大・水滸伝シリーズ」(北方謙三、2000)
15位「トランスクリティーク」(柄谷行人、2001)
15位「献灯使」(多和田葉子、2014)
15位「中央銀行」(白川方明2018)
20位「マークスの山」(高村薫1993)
20位「キメラ」(山室信一、1993)
20位「もの食う人びと」(辺見庸、1994)
20位「西行花伝」(辻邦生、1995)
20位「蒼穹の昴」(浅田次郎、1996)
20位「日本の経済格差」(橘木俊詔、1998)
20位「チェルノブイリの祈り」(スベトラーナ・アレクシエービッチ、1998)
20位「逝きし世の面影」(渡辺京二、1998)
20位「昭和史 1926-1945」(半藤一利、2004)
20位「反貧困」(湯浅誠、2008)
20位「東京プリズン」(赤坂真理、2012)
4位「火車」(宮部みゆき、1992)
4位「OUT」(桐野夏生、1997)
4位「観光客の哲学」(東浩紀、2017)
7位「銃・病原菌・鉄」(ジャレド・ダイアモンド、2000)
8位「博士の愛した数式」(小川洋子、2003)
9位「〈民主〉と〈愛国〉」(小熊英二、2002)
10位「ねじまき鳥クロニクル」(村上春樹、1994)
11位「磁力と重力の発見」(山本義隆、2003)
11位「コンビニ人間」(村田沙耶香、2016)
13位「昭和の劇」(笠原和夫ほか、2002)
13位「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一、2007)
15位「新しい中世」(田中明彦、1996)
15位「大・水滸伝シリーズ」(北方謙三、2000)
15位「トランスクリティーク」(柄谷行人、2001)
15位「献灯使」(多和田葉子、2014)
15位「中央銀行」(白川方明2018)
20位「マークスの山」(高村薫1993)
20位「キメラ」(山室信一、1993)
20位「もの食う人びと」(辺見庸、1994)
20位「西行花伝」(辻邦生、1995)
20位「蒼穹の昴」(浅田次郎、1996)
20位「日本の経済格差」(橘木俊詔、1998)
20位「チェルノブイリの祈り」(スベトラーナ・アレクシエービッチ、1998)
20位「逝きし世の面影」(渡辺京二、1998)
20位「昭和史 1926-1945」(半藤一利、2004)
20位「反貧困」(湯浅誠、2008)
20位「東京プリズン」(赤坂真理、2012)

 【2008文庫化[中公文庫]】

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男女の人生における縁と交わり、そこにある機微を描いた佳作。

センセイの鞄2.jpgセンセイの鞄.jpgセンセイの鞄』(2001/06 平凡社)  センセイの鞄 ドラマ1.jpg
「センセイの鞄」(2003年2月/WOWOW)小泉今日子/柄本明

 2001(平成13)年度・第37回「谷崎潤一郎賞」受賞作。 

 38歳のOLの私と70代の元高校教師の「センセイ」は、私の高校卒業後は久しく顔を合わせることも無かったが、数年前に駅前の一杯飲み屋で隣り合わせて以来、ちょくちょく往来するようになった。私にとって元教師は「センセイ」と仮名書きするがぴったりくる感じであり、一方、彼は私を「ツキコさん」と呼ぶが、やがて私はセンセイに惹かれるようになっていく―。

 30歳以上も年齢差のある男女の話で、物語そのものにも引き込まれますが、現実と非現実の際(きわ)を描くような文章そのものが上手だなあと思いました。
 (この作者の特徴ですが)食べたり飲んだりの場面はふんだんかつ丹念に描かれ、一方、OLの「わたし」の仕事のことなどはほとんど書かれていない。
 老人であるセンセイに対する観察眼に温かみがあり(本来はもっと老人としての醜い面が見えるはずだが)、彼の過去もことさら暗く描くことはぜず、ワライタケを食べた元妻の話など、むしろユーモラスに描かれていたりする。
 そのほか、会話などの随所にも仄かなユーモアがあり、時に幻想的な、また時にメルヘンチックな雰囲気も漂う。

 こうした生活実感を消し去ったような表現上の計算の上に、毅然とした面と飄々とした面を併せ持つようなセンセイの人物造形が成り立っている感じがし、例えばセンセイが内田百閒の話を引用する場面がありますが、百閒は作者の好みの作家でしょう。「ツキコさん」から見たセンセイという描かれ方の中でこうした場面に出会うと、作家は今老人の中に入り込んだのかなと思ったりし、その分だけ「ツキコさん」をバランスよく対象化している感じがしました。

 本書を読んで「感涙した」とか「胸が詰まった」というような感想を聞きましたが、個人的にはそこまでの思い入れには至らず、どちらかと言うとほのぼのとした感じで、かと言って「大人のメルヘン」と呼ぶほどにメルヘンチックに流れているようにも思えませんでした(勝手にメルヘンチックに読む中高年男性はいるかも知れないが)。

センセイの鞄 ドラマ21.jpg むしろ、2人が恋愛していながら「恋愛」を演じようとし、その規範が自分たちに当てはまるかどうか確認しながら関係性を深めていくようなところが面白く、男女の人生における縁と交わり、そこにある機微を描いた佳作だと思いました。

「センセイの鞄」2003年2月単発ドラマ化(WOWOWW) 演出:久世光彦 主演:小泉今日子/柄本明


 【2004年文庫化[文春文庫]】

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予言的? 社会問題的モチーフを並べて、無理矢理くっつけた?

共生虫.jpg 『共生虫』 (2000/03 講談社) 共生虫2.jpg 『共生虫 (講談社文庫)』 ['03年]

 2000(平成12)年度・第36回「谷崎潤一郎賞」受賞作。 

 ある"長期ひきこもり"の青年が、インターネットにより偶然知った、女性ニュースキャスターのHPの裏サイト「インターバイオ」を通じて、絶滅をプログラミングされた「共生虫」というものを自らが宿しているという確信を持ち、凄惨な殺人へと駆り立てられていく―。

 '98年「群像」で連載開始、翌'99年10月に連載終了しましたが、その直後、"ひきこもり"的生活を送っていた青年による「京都"てるくはのる"児童殺害事件('99年12月)」や「新潟幼児長期監禁事件('00年1月)」が起き、精神科医・斎藤環氏の『社会的ひきこもり-終わらない思春期』('98年/PHP新書)とともに、"ひきこもり"事件やその社会問題化を予言したかのように注目を浴びました。

 本当にタイミング的には予言者みたいだと感心してしまいますが、「ひきこもり・インターネット・バイオレンス」の三題噺にテーマが後から付いて来る感じで、小説的には何が言いたいのか今ひとつ伝わってきませんでした(あとがきで、最終章を書いているときに「希望」について考えたとありますが、最初は何を考えていたのか?)。

 前半部分の第1の殺人は、神経症・統合失調的なシュールな描写が作者らしいのですが、マインド・コントロール的な組織「インターバイオ」とのやりとりは『電車男』('04年/新潮社)の裏バージョンみたいで(その点でも予言的?)、第2のリベンジ(?)的な殺人は、お話のために設定した殺人で、むしろこっちの方がリアリティが無いように思えました。

 社会問題的モチーフを並べて、無理矢理くっつけたという感じがする...。
 専門家である斎藤環氏は、「ひきこもり」と「インターネット」の結びつき相関が実は低いことを指摘していますが、これは作者にとって結構キツイ指摘ではないでしょうか。
 ただ、一般的なイメージは斎藤氏の言うのとは逆に、「ひきこもり」と「インターネット」を結びつける方向で形成されているように思われ、この小説もそのことに"貢献"したのかも。

 【2003年文庫化[講談社文庫]】

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