【380】 ◎ 木村 敏 『異常の構造 (1973/09 講談社現代新書) ★★★★☆

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「異常」の構造を通して「正常」の構造を解き明かす。

異常の構造 木村敏.jpg異常の構造.jpg   木村 敏.jpg 木村 敏 氏(略歴下記)
異常の構造 (講談社現代新書 331)』 〔'73年〕

 本書では、精神分裂病者(統合失調症)の病理や論理構造を通じて「異常」とは何か、それでは「正常」とはいったい何かを考察しています。

 精神異常を「常識」の欠落と捉え、「常識」とは、世間的日常性の公理についての実践的感覚とし、分裂症病者はそれが欠落していると。
 ヴィンスワンガーの患者で精神分裂病者の例として紹介されている話で、 ガンを患って余命いくばくもない娘へのクリスマスプレゼントに、父(分裂病者)は棺おけを贈った、という話は、贈り物というものが贈られた人に役に立つという理屈にはあっているが、贈られた人が喜ぶという意味は欠如していていて、衝撃的であるとともに、「常識の欠落」という症状をわかり易く示していると思いました。

 さらに、「正常人」が自分たちより"自由"な論理構造を持つはずの「異常人」を差別することの「合理性」と、その合理性の枠内にある「正常者の社会」の構造を分析し、なぜ「正常者」がそうした差別構造をつくりあげるのかを、その「合理性」の脆弱性とともに指摘しています。

 分裂病を「治癒」しようとする考えの中に潜む排除と差別の論理を解き明かし、精神病者の責任能力の免除こそは差別であるとするなど、ラディカル(?)な面も感じられます。
 論理的にわかっても、心情的についていくのが...という部分もありましたが、考察のベースになっている精神分裂病を理解するための症例が豊富であるため、「異常」の構造とはどいったものかを知るうえで参考になります。

 こうした「異常」の構造を通して「正常」の構造を解き明かすというかたちでの精神病理学は、'60年代から'70年代にかけて、実存主義哲学の興隆とあわせて盛んで、「病跡学」とかもありましたが、実存主義のブームが去るとともにあまり流行らなくなっているようです。
 精神医学の世界にも、比較的短い年月の間に流行り廃れがあるということでしょうが、分裂病という難しい病をその中心に据えたことにも衰退の原因はあったかも。
 ましてや、実存主義哲学とかが絡んできても、医学部に入る人間が必ずしもそうした哲学的指向をもっているわけではないし...。
 ただし、個人的には、この本、名著だと思います。
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木村 敏(きむら・びん) 京都大学名誉教授、龍谷大学教授
1931年、旧朝鮮生まれ。精神病理学者。1955年、京都大学医学部卒業。1961年、ミュンヘン大学留学。1969年、ハイデルベルグ大学留学。1974年、名古屋市立大学大学医学部教授。その後、京都大学医学部教授、河合文化教育研究所主任研究員を経て、龍谷大学教授。
精神分裂病、躁鬱病、てんかん、境界例に興味関心を持ち、精神病理の観点から独自の哲学を展開する。
著書に『自覚の精神病理』(紀伊国屋書店)、『人と人の間』(弘文堂)、『分裂病の現象学』(弘文堂)、『自己・あいだ・時間』(弘文堂)、『時間と自己』(中公新書)、『生命のかたち/かたちの生命』(青土社)、『偶然性の精神病理』(岩波書店)、『心の病理を考える』(岩波書店)ほか多数。クラシック愛好家としても知られる。
 
《読書MEMO》
●「周囲の人たちがふつうに自然にやっていることの意味がわからない。皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。―なにもかも、すこし違っているみたいな感じ。なんだか、すべてがさかさまになっているみたいな気がする」(58p)
●「面接のたびに患者から再三再四もち出される「どうしたらいいでしょう」という質問は、私たちが通常ほとんど疑問にも思わず、意識することすらないような、日常生活の基本的ないとなみの全般にわたっていた」(59p)
●「なにかが抜けているんです。でも、それが何かということをいえないんです。何が足りないのか、それの名前がわかりません。いえないんだけど、感じるんです。わからない、どういったらいいのか」(78p)
●「ちなみに、私の印象では子供を分裂病者に育て上げてしまう親のうち、小・中学校の教師、それも教頭とか校長とかいった高い地位にまで昇進するような、教師として有能視されている人の数がめだって多いようである」(102p)
●「実際、分裂病者の大半がこのような恋愛体験をきっかけとして決定的な異常をあらわしてくる、といっても過言ではない。恋愛において自分を相手のうちに見、相手を自分のうちに見るという自他の相互滲透の体験が、分裂病者のように十分に自己を確立していない人にとっていかに大きな危機を招きうるものであるかということが、この事実によく示されている」(103p)
●・「常識的日常性の世界の一つの原理は、それぞれのものが一つしかないということ、すなわち個物の個別性である」(109p)
・ 「常識的日常性の世界を構成する第二の原理としては、個物の同一性ということをあげることができる」(111p)
・「常識的日常性の世界の第三の原理は、世界の単一性ということである」(115p)
●「患者は私たち「正常人」の常識的合理性の論理構造を持ちえないのではない。すくなくとも私たちと共通の言語を用いて自己の体験を言いあらわしているかぎりにおいて、患者は合理的論理性の能力を失っているわけではない。むしろ逆に、私たち「正常人」が患者の側の「論理」を理解しえないのであり、分裂病的(反)論理性の能力を所有していないのである。患者がその能力において私たちより劣っているのではなくて、私たちがむしろ劣っているのかもしれない」(140p)
・「「正常人」とは、たった一つの窮屈な公式に拘束された、おそろしく融通のきかぬ不自由な思考習慣を負わされた、奇形的頭脳の持主だとすらいえるかもしれない」(141p)
●「まず、合理性はいかなる論理でもって非合理を排除するのであるか。次に、合理性の枠内にある「正常者」の社会は、いかなる正当性によって非合理の「異常者」の存在をこばみうるのであるか」(145p)
●「「異常者」は、「正常者」によって構成されている合理的常識性の世界の存立を根本から危うくする非合理を具現しているという理由によってのみ、日常性の世界から排除されなくてはならないのである。そしてこの排除を正当化する根拠は、「正常者」が暗黙のうちに前提している生への意志にほかならない」(157p)
●「分裂病者を育てるような家族のすべてに共通して認められる特徴は、私たちの社会生活や対人関係を円滑なものとしている相互信頼、相互理解の不可能ということだといえるだろう」(174p)
●「アメリカの革新的な精神分析家のトマス・サスは、ふつうの病気がテレビ受像機の故障にたとえられるならば精神病は好ましからざるテレビ番組にたとえられ、ふつうの治療が受像機の修理に相当するとすれば精神病の精神療法は番組の検閲と修正に相当するといっている」(179p)
・「分裂病を「病気」とみなし、これを「治療」しようという発想は、私たちが常識的日常性一般の立場に立つことによってのみ可能となるような発想である」(180p)
●「分裂病とはなにかを問うことは、私たちがなぜ生きているのかを問うことに帰着するのだと思う。私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか」(182p)

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木村敏(きむら・びん)
2012年8月4日、老衰で死去した。90歳。
京都大学名誉教授・精神科医。精神病理学の第一人者として知られ、人間の関係性を探った「人と人との間」などの著書がある。日本精神病理学会理事長などを歴任。自伝「精神医学から臨床哲学へ」で毎日出版文化賞(自然科学部門)など。

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