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室生犀星の詩との"コラボ"。日本の風景美・自然美を詩情豊かに織り成す。

写真集・詩のふるさと1.png写真集・詩のふるさと2.jpg 濱谷浩.jpg
写真集・詩のふるさと (1958年) 』 濱谷 浩(1915-1999/享年83)
写真集・詩のふるさと3.jpg 濱谷浩(1915-1999/83歳没)の初期写真集。1958(昭和33)年、雑誌「婦人公論」の1月号から12月号までの1年間に、詩人・室生犀星(1889-1962)の「わが愛する詩人の伝記」連載の文章に、濱谷浩が写真を撮り下ろして作り上げた詩写真集です。

写真集・詩のふるさと4.jpg 室生犀星の「わが愛する詩人の伝記」は、室生犀星が、その交友と、体験と、鑑賞を通して、北原白秋,、高村光太郎、萩原朔太郎、釈迢空、島崎藤村、堀辰雄、立原道造など12人の詩人を、その原風景と併せて(例えば島崎藤村であれば馬籠・千曲川、堀辰雄であれば軽井沢・追分といったように)浮き彫りにしたものです。この写真集も当時の連載を生かし、美しい諧調のモノクロ写真と室生犀星の詩・散文の組み合わせにより、日本の風景美・自然美を詩情豊かに織り成しています(今で言うところの"コラボレーション"か)。

 ただし、濱谷浩自身はあとがきで、「詩のこころを、写真に託すことは到底不可能なことは当然で、詩には詩のこころ、写真には写真のありようがあって、その答えが、写真集『詩のふるさと』になりました」としています。

 『雪国』(1956年)、『辺境の町』(1957年)、『裏日本』(1957年)、『見てきた中国』(1958年)に続く5冊目の写真集ですが、先行4冊を、『雪国』を長男に喩え「四人の男の子が、この世に生をうけました」としているのに対し、「今度が五人目の子、優しい女の子、わが家にははじめて女の子が(中略)生まれたのであります」としているのが興味深いです。いずれにせよ、前の4冊も本書も入手しにくくなっているので貴重です。

『雪国―濱谷浩写真』(1956年)/『辺境の町』(1957年)/『裏日本』(1957年)/『写真集 見てきた中国』(1958年)
写真集・濱谷4冊.jpg

 ただし、元々の室生犀星の文章の方は『我が愛する詩人の伝記』として1960年に中公文庫で文庫化され、さらに1965年に角川文庫で、2016年に講談社文芸文庫で再文庫化されているほか、この写真集『詩のふるさと』と併せた写文集が『写文集―我が愛する詩人の伝記』として「室生犀星没後60年」にあたる2021年に中央公論新社から刊行されています。
我が愛する詩人の伝記.gif

《読書MEMO》
写文集-我が愛する詩人の伝記2.jpg●室生犀星(文)・濱谷浩 (写真)『写文集―我が愛する詩人の伝記』目次
 北原白秋――柳川
 高村光太郎――阿多々良山・阿武隈川
  萩原朔太郎――前橋
 釈迢空――能登半島
 島崎藤村――馬籠・千曲川
 堀辰雄――軽井沢・追分
 立原道造――軽井沢
 津村信夫――戸隠山
 山村暮鳥――大洗
 百田宗治――大阪
 千家元麿――出雲
 室生犀星――金沢
 『我が愛する詩人の伝記』あとがき 室生犀星
  濱谷浩さんのこと 室生犀星
 『詩のふるさと』あとがき 濱谷浩

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全生涯にわたる作品から1000点を収録したまさに決定版。太宰治のあの写真は偶然撮られた。

林忠彦写真全集01.jpg林忠彦写真全集0.jpg
林忠彦写真全集』['92年]350mm × 263mm 650ページ函
林忠彦 2.jpg林忠彦.jpg 林忠彦(1918-1990/享年72)は日本写真界の重鎮として「木村伊兵衛写真賞」「土門拳写真賞」と並んで「林忠彦賞」として日本の三大写真賞にその名を連ねる写真家ですが、その全生涯にわたる作品から1000点を収録した決定版とでも言うべき写真集です。戦前の写真から晩年までを年代順に網羅し、林忠彦の写真家人生を総括した一冊と言え、ページ数 650ペ―ジ、厚さ5.5センチのボリュームになります。

 全4部構成で第1部が「戦時下の日本 昭和16年~20年」、第2部が「甦った平和 昭和21年~25年」、第3部が「新しい時代の幕あけ 昭和26年~36年」、第4部が「繁栄の時代 昭和39年~平成2年」となっており、貴重な時代の記録にもなっています。また、文章も書ける写真家なので、当時の時代背景や写真が撮られた際の状況が詳しく解説されています。

林忠彦写真全集001.jpg 第1部の戦時下では、松戸飛行場の哨戒出動前の航空兵たちや、昭和17年のシンガポール陥落時の街の賑わい、秋田で材木運搬に携わる女性たちの写真などがあります。

林忠彦写真全集002.gif 第2部の戦後間もない頃の写真には、復員兵・引揚者・戦災孤児の写真や、占領下で復興していく日本の様子を写した写真に続いて、最後に「無頼派の作家たち」として、太宰治や坂口安吾、織田作之助などを撮った、よく知られている写真があります。太宰治を撮ったのは、銀座の酒場「ルパン」に織田作之助を撮りに行ったら、反対側で坂口安吾と並んで「おい、俺も撮れよ」とわめいたベロベロに酔った男がいて、「あの男はいったい何者ですか」と人に訊くと太宰治だったということで、あの写真、"偶然の産物"だったのかあ(太宰が写っている写真の右手前は坂口安吾の背中)。

林忠彦写真全集 三島・石原.jpg 第3部の昭和26年~36年の写真では、冒頭に三島由紀夫など戦後文学の旗手たちの写真があり(後の方に石原慎太郎も裕次郎とともに出てく林忠彦写真全集 川端.jpgる)、長嶋茂雄、力道山といったスポーツ界のスターの写真もあります。さらに賑わう街の裏表を映した写真があって、サブリナスタイルで街を闊歩する八頭身美人の写真もあれば、ヌード劇場、女相撲、SMショーなどの写真も。しかし、昭和29年に撮られた帰省者で溢れる上野って、当時まだこんな感じかと。都会ばかりでなく地方の農村・漁村の当時の風俗を撮った写真も多数あり林忠彦写真全集003.jpgます(昭和28年の復帰時の奄美大島の写真などは貴重)。さらには、昭和30年に渡米した際に撮られた写真も。東海道を撮った写真に続いて第3部の後半には、谷崎潤一郎、川端康成、志賀直哉をはじめ、数多くの作家が登場、「婦人公論」の企画として撮られた小説作品の舞台を探訪した写真群を復刻編集したものがあり、さらに、女優、映画監督、俳優、さまざまな分野の芸術家の写真があり、この有名人の写真の部分だけで140ページほどもあります。

林忠彦写真全集004.jpg 第4部の昭和39年以降についても、変わりゆく日本の姿を追う一方で、日本の著名な画家や経営者の写真があり、この辺りからカラー写真になってきます。高林庵(奈良慈光院の茶室) など全国の有名な茶室の写真があり、家元を撮った写真も。また、五百羅漢像の写真、旅先で撮った世界中の美しい写真、日本各地の懐かしい風景写真、長崎の海と十字架をモチーフとした写真、維新の英傑・西郷隆盛の跡を追ったや若き英傑の跡を追った長州路の写真、第3部でもあった東海道の写真(箱根杉並木の写真がいい)等々です。

 没後2年後に刊行されたため、ある意味〈追悼特集〉とも言え、巻末に多くの人がその人柄を懐かしむ文章を寄せる一方、「林忠彦論」も4編あり、最後は在りし日の林忠彦を偲ぶアルバム集と、生涯を辿る年譜となっています。冒頭にも述べましたが、まさに決定版と言えるものです。

林忠彦写真全集007.jpg

林忠彦 3冊.jpg文士の時代 (中公文庫 は 67-1) 』['14年]/『時代を語る 林忠彦の仕事』['18年]/『林忠彦 昭和を駆け抜ける』['18年]

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民俗学的記録を超える写真表現を追求した「雪国」「裏日本」を堪能した。

写真家・濱谷浩00.jpg
生誕100年 写真家・濱谷浩』['15年](26.5 x 19.5 x 2.2cm)
写真家・濱谷浩2.jpg写真家・濱谷浩m.jpg 濱谷浩(1915-1999/83歳没)の先に取り上げた『濱谷浩写真集 市の音―一九三〇年代・東京』('09年/河出書房新社)は濱谷浩の没後10年目の記念写真集でしたが、2015年刊行のこちらは生誕100年の記念写真集です(戦後70年の節目でもある)。民俗学への傾倒とともに人間と風土を見つめ続けた代表作『雪国』、『裏日本』からの抜粋をはじめ、1930年代の写真家としての出発点から1960年代の安保闘争までの国内で撮影された主要なモノクローム作品までの200点を通して、写真家・濱谷浩の足跡を辿ります。
写真家・濱谷浩y.jpg
 第1章「モダン東京」、第2章「雪国」、第3章「裏日本」、第4章「戦後昭和」、第5章「學藝諸家」という章立てです。時期的には「雪国」と「學藝諸家」が自身で区分するところの第1期(1930-1950)で、「裏日本」が第2期(1951-1970)になり、第3期(1970‐)の作品は取り上げていません。

 活動前半期にあたる1930年代から60年代の仕事に注目している一方、1960年代で区切られていて、以降の後期の作品が収められていないのは、解説にもあるように、2015年に新潟県立近代美術館で開催された「生誕100年 写真家・濱谷浩―人間とは何か、日本人とは何か 1930s-1960s」がこの写真集のベースになっているためです。

写真家・濱谷浩う.jpg ではなぜその写真展が濱谷浩の前中期の作品まで取り上げ、後期作品を取り上げなかったかというと、全部取り上げて散漫になるより、ある程度時期を絞った方がいいとキュレーターが考えたからとのことです。また、戦時中に新潟県高田市に疎開しており(代表作の1つに、1945年8月15日に疎開先の新潟県高田で撮影した《終戦の日の太陽》がある)、「雪国」「裏日本」といった作品に重きを置いた方が、新潟の人たちには親しみやすいということもあったのでしょう。

写真家・濱谷浩5.jpg 従って、生涯の作品傾向の推移を網羅的にカバーしたものではないというとは踏まえておいて、「雪国」や「裏日本」といったテーマに沿った写真群を眺めると、それはそれで味わい深いものがあり、「全部取り上げて散漫になるより、ある程度時期を絞った方がいい」と考えたキュレーターの意図に、写真集を通して嵌りました。特に、民俗学的記録を超える写真表現を追求した「雪国」「裏日本」を堪能しました(個人的に、自分が昭和30年代に雪国・裏日本に住んでいたということもある)。実際のところ、写真集『雪国』(毎日新聞社)は1956年、『裏日本』(新潮社)1957年の刊行で、今では入手が難しくなっており、「雪国」「裏日本」にフォーカスした本写真集は貴重です。

 一方でこの人には、『辺境の町ウルムチ』('57年/平凡社)、『見てきた中国』('58年/河出書房新社)など、早い時期に海外で撮った写真を収めた写真集などもありますが、こちらも入手困難です。本写真集の第1章の「モダン東京」も、「雪国」や「裏日本」とう写真家・濱谷浩4.jpgって変わって洒落ていて、まさにモダンないい感じです。この人のさらに別の写真集も見てみたくなりました。
  
《読書MEMO》
●目次:
時代の渦/濱谷浩
あいさつにかえて―濱谷浩氏と歩いた街角/酒井忠康
地域に文化の芽をまく―高田の濱谷浩/德永健一
一貫した真摯な姿勢/野町和嘉
第1章 モダン東京
第2章 雪国
第3章 裏日本
第4章 戦後昭和
第5章 學藝諸家
濱谷浩の半世紀―『潜像残像』から読み解く「写真家・濱谷浩」/藤田裕彦
福縁そして陽の名残り/多田亞生
年譜/加藤絢
主要文献/多田亞生、片野恵介

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1939年の写真が中心。テキヤ・辻売りの写真が豊富。民俗学的記録を超える写真表現。

濱谷浩写真集 市の音1.jpg濱谷浩 市の音.jpg 濱谷浩.jpg
濱谷浩写真集 市の音 一九三〇年代・東京』['09年] 濱谷 浩(1915-1999/享年83)

 濱谷浩(1915-1999/83歳没)の没後10年目の記念的写真集。民俗学者・渋沢敬三(渋沢栄一の孫で渋沢当主の実業家、財界人でありながら柳田國男との出会いから民俗学に傾倒し、漁業史の分野で功績を残した。本書のあとがきに紹介されている濱谷浩の自著にもあるように、濱谷浩が最も敬愛した人物)の示唆によって撮影した写真を含む当時の東京風景など、当時未発表の写真を多数掲載しているとのことです。

濱谷浩写真集 市の音2.jpg 日本に残る風俗写真、日常の生活写真を撮ることで、民俗学的記録を超える写真表現を追求した写真家であり、「一九三〇年代・東京」とサブタイルをつけたれた本書も、「浅草歳の市」「世田谷ボロ市」「葛飾八幡宮農具市」「辻売りと看板」という全5章の章立てで分類されています。百数十点ある写真の内、1939年に撮られた写真が多数を占め、今となってはなかなか見ることのできない珍しい写真ばかりですが、民俗学的記録としても価値があるのではないかと思われます。

 また、本写真集は、テキヤの写真が豊富なのが特徴的でしょうか。あとは"辻売り"(表紙写真は辻売りだが、売っているのは「読売新聞」!)。「浅草歳の市」のしめ縄売り(ほとんど特集的に撮っている)、日用雑貨売り、じゃがいも売り、お札売り、金太郎飴、「世田谷ボロ市」の箪笥・スコップ売り(なぜこの2つを一緒に売る?)、法被売り、長靴、下駄・草履売り、子守しながら古着を売る人、仏具やアイロンを売る人、「葛飾八幡宮農具市」のまな板など台所用具を売る人や衣濱谷浩写真集 市の音3.jpg類を売る人、農具を売る人、独楽回しの実演販売、唐傘売り、綿飴売り、かき氷屋、家相方位を説く香具師(ヤシ)、「辻売りと看板」における、先にも出た新聞売り、家の門前で芸能を演じて金品を貰う「門付」の三味線女(1937年に銀座5丁目で撮られたとある)、二輪車を引くうどん売り、同じく二輪車を押すはんぺん売り、天秤棒を担ぐ川魚売り、ほうずき売り、天秤棒を担ぐ豆腐売り(豆腐は昭和30年代までまだリアカーなどで売りに来ていたのではないか)、自転車にリアカーをつないでくるほうき売り、そして旗屋・納豆屋・酒屋・印鑑屋・小間物問屋などの看板等々見ていて飽きません。

 テキヤについては、厚香苗氏の『テキヤはどこからやってくるのか?―露店商いの近現代を辿る』('14年/光文社新書)によると、現代のテキヤの多くは地元の自営業者だそうですが、この頃のテキヤはまだ行商(集団または個人の移動生活者)が主流だったのではないでしょうか。そうした人たちとその家族がどういった生活を送っていたのか推し量るのは難しいですが、この写真集を見ていると、そうした人の生活の息吹が伝わってくる気もします。そうした意味では確かに「民俗学的記録を超える写真表現」と言えると思います。

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生涯を通して出生地を拠点にしながら、海外にまで知られるようになった写真家。

吹き抜ける風01.jpg吹き抜ける風02.jpg 植田正治のつくりかた00.jpg 植田正治と妻.jpg
吹き抜ける風: 植田正治写真集』['05年]/『植田正治のつくりかた』['13年]植田正治と妻 (1949年撮影)
吹き抜ける風03.jpg植田 正治(しょうじ).jpg 植田正治(うえだ しょうじ、1913-2000/87歳没)は、出生地である鳥取県境港市を拠点に70年近く活動した写真家で、数ある作品の中でも、鳥取砂丘を舞台にした「砂丘シリーズ」はよ植田正治写真集:吹き抜ける風図2.jpgく知られています。人物をオブジェのように配する構図や、逆に物を擬人化するなどの特徴を持ち、土門拳や名取洋之助の時代以降の主観や演出を重視した日本の写真傾向と合致したとのこと(Wikipediaより)。この人の写真を見ていると70年代頃に「アサヒカメラ」(2008年廃刊)などに掲載されていた写真を想起させられます。
 
吹き抜ける風04.jpg 一方、その後に大きく興隆する広告写真、ファッション写真とも親近性があったこともあり、広く注目されるようになります。個人的にも、作品の中にはバブル期のサントリーの広告を思い出させるものがあったように思います(最近では上田義彦氏のサント吹き抜ける風f.jpgリー・ウーロン茶の広告を想起させる)。また、1994年には福山雅治のシングル「HELLO」のCDジャケットを手がけています。その間も次第に評価は高まり、その評価はヨーロッパやアメリカにも及びました。海外の写真家で言うと、アンリ・カルティエ=ブレッソンなどと似ている点もあるように思います(絵画まで範囲を拡げれば、キリコの画風が最も近いかも)。
吹き抜ける風06.jpg

吹き抜ける風07.jpg

植田正治のつくりかた0.jpg植田正治のつくりかた01.jpg 故郷の鳥取県伯耆町に植田正治写真美術館がありますが、何回か東京でも写真展が開かれたことがあり、東京ステーションギャラリーが1993 年に生前最大規模となる回顧展「植田正治の写真」を開催し、さらに没後の2005年12月から2006年2月にかけて東京都写真美術館が開館10周年記念として写真展を開催しています。そして再び東京ステーションギャラリーにて、2013年10月から2014年1月にかけて「生誕100年!植田正治のつくりかた」と銘打った写真展が開催し、公式カタログとして『植田正治のつくりかた』('13年9月/青幻舎)が刊行されています。

植田正治のつくりかた02.jpg "公式カタログ"と言っても実質的には大型書籍と言えるもので、『吹き抜ける風:植田正治写真集』が163ページであるのに対し、こちらは224ページとそれを上回るページ数になっています(何れもソフトカバー)。『吹き抜ける風』が刊行された時点で植田正治はすでに亡くなっているため、網羅している写真のうち代表的な作品は重なりますが、『植田正治のつくりかた』の方が「砂丘シリーズ」以外の多様な写真を載せているように思われます(他界する直前に撮られた写真をフィルムから現像したものもある)。

 『植田正治のつくりかた』の解説文で興味深かったのが、しばしば砂丘の写真として説明される「少女四態」も、「パパとママとコドモたち」を中心植田正治のつくりかた03.jpgとする一連の「綴り方・私の家族」シリーズも、ともに植田の自宅からほど近い弓ヶ浜海岸で撮影されたということで、それを評論家が砂丘と勘違いしてしまったのですが、その勘違いの元となったのは、植田自身がそれらを収めた写真集を「砂丘」のタイトルで一括りにしたことにあるということです。
 
 ある意味、自分で自分をプロデュースする方法であったのかもしれないし、金子隆一氏(東京都写真美術館学芸員)の解説文にあるように、写真家の内部では砂と空があればすべて「砂丘」ということだったのかもしれません。でも、生涯を通して出生地を拠点にしながら、海外にまでその名を知られるようになったという意味では、稀有な写真家であるには違いないでしょう。

佐野史郎が語る植田正治.jpg 因みに、俳優の佐野史郎が植田正治のファンであり、「もう、作品がいい悪いだけじゃないんですよね。植田さんの才能、技術だけじゃなく、お人柄までも含めて、全てが写真に出ている感じがします」と語っています。佐野史郎は妖怪、ゴジラ、ドラキュラなどのマニアックなファンとしても有名ですが(ゴジラ映画に登場する博士役に憧れて俳優を志した)、かつて画家を目指して美術大学を受験したりした人で、ダリ、マグリットなどのシュールレアリスムの画家が大好きで、漫画家のつげ義春にも造詣が深く、写真家への関心も同じ視覚芸術としての流れでしょうか。

佐野史郎が語る、終生モダニズムを貫いた写真家・植田正治の魅力

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新たな角度から我々に考えさせるものを投げかけているように思った。

フクシマ 2011-2017.jpg 土田ヒロミ.jpg 土田 ヒロミ(1939- )
フクシマ 2011-2017 FUKUSHIMA 2011-2017』(30.4 x 30.2 x 2.4 cm)
フクシマ 2011-2017 01.jpeg 写真家が、2011年3月11日の東日本大震災の後、同年6月に川内村、葛尾村、飯舘村に入って2日の撮影をし、以降2018年1月までの6年半の間に120回現地に足を運んで撮った写真を集めたもので、そうして撮った5万点のなかから190点が選ばれています。

 解説の木下直之・東大教授(文化資源学)もあとがきで述べているように、まず、訪ねた地の多くは一般住民は避難を余儀なくされているため、人がいるべき場所に人がいないという不気味さがあります。

 一方で、同じ場所に何度もカメラを据えて定点観測的に風景などを撮っているため、季節の移り変わりの美しい様などが見られ、つい、「ああ、日本の四季っていいなあ」とも思ってしまいます。

 そんな中、今までごく普通の自然の風景であったところへ、フレコンバックと呼ばれる、汚染された廃棄物や大地から剥ぎ取った土が入った黒い袋が、地表を覆い隠すようにずらっと並ぶ光景がみられる写真がいくつも出てくると(そのうちのいくつかはドローンを使って撮影されている)、これはこれで、人がいない不気味さとはまた違った不気味さがあります。

 これらの多くは、廃棄物の仮置き場(大体が高いフェンスに囲まれていているため、あまりマスコミなどで報じられることもない)に入りきらない分を、「仮々置き場」として置いているものだそうで、最終処分地が決まらないままに除染をし続けた(しかも、その"除染"も便宜上そう称してやっているだけのものという指摘もある)、そのツケが回ってきているとも言えます。

 フクシマの人を撮った写真集は結構ありますが(本書の中にも除染作業員を撮ったものがある)、自然を中心に撮ったこの写真集は、また新たな角度から我々に考えさせるものを投げかけているように思いました。

《読書MEMO》
●本書収載「この地に生じたとてつもない何か」((木下直之・東京大学大学院教授・芸術資源論))より
「土田ヒロミが福島でなくフクシマとしたのは、これまで40年にわたって広島ではなくヒロシマを撮ってきたからだ。人類史上のこれからもどこにでも起こりうる出来事として語りつぎたいという思いが込められている。......福島に、複雑怪奇だといいたくなる変化がじわじわ進行している」

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「既視」と「既視感」は違うようだが、「既視感」に満ちた写真集ということでもいいのでは。

渡辺兼人写真集「既視の街」0.jpg渡辺兼人写真集「既視の街」  .jpg
既視の街―渡辺兼人写真集』(32 x 25 x 2 cm)

渡辺兼人写真集「既視の街」1213.jpg 写真家・渡辺兼人(かねんど)の写真集。1947年生まれなので、先に取り上げた篠山紀信氏などよりは下の世代にあたり、活動期は1970年以降。ただし、マスコミに顔出しするようなことはあまりないですが、写真展は定期的に開いているようです。1992年に第7回「木村伊兵衛写真賞」を受賞し、既に大御所と言えるかと思いますが、写真集はあまり多くないなあと思ったら、写真展の方に注力しているようです。
既視の街 (1980年)
既視の街 (1980年).jpg渡辺兼人写真集「既視の街」3839.jpg このモノクロ写真集は、1973年から1980年まで撮影された写真作品を収め、1980年に金井美恵子の小説との共著として新潮社から刊行されており、『既視の町』というのはその時二人が考えたタイトルだそうです。その本の写真の部分を残すために再構成したのが本書で、1980年の単行本に収録された写真53点のうち4点ネガが存在せず、一方、未収録・未発表写真を何点か加えて作った「完全版」であるとのことです。

渡辺兼人写真集「既視の街」5455.jpg したがって、プラネタリウム、高速道路、工場、河、電車が吸い込まれていくビル(銀座線渋谷駅か)、ショウウィンドウ、ビルボード、家、道路、クルマ、干された布団等々、日常見かけるものが多く被写体になっていますが、撮影されたのが昭和48年から55年ということになり、どこか懐かしさを覚えます(取り壊し前のの工場とか、開発前の空き地みたいな写真も多い)。ありきたりの光景にも見えて、不遜にも自分もこれくらい撮れるのではないかと思ってしまうけれども、技術面もさることながら、そもそも、いざ今の時点で同じような光景を探すとなると、意外とたいへんかも。
 
 いつどこで撮られたのか確認してみたくなりますが、他の多くの写真家と違って、この写真家はそうした記録をほとんど残していないようです。それも、ちょっと面白いと思いました(スペックではなく写真そのものがどう見られるかで勝負しているとうことではないか)。

 タイトルではないですが、何となく夢で見たのか、あるいは実際に昔に同じような光景を見たことがあったのか、と思わせる写真が多いです。そこで、いつどこで撮られたのか確認して、「やっぱり違った」となるよりは、曖昧な記憶は曖昧な記憶のままで、「ああ、これなんか見たことある」という感じでいいのではないかと思いました。

 タイトルのままの感想ですが(笑)、実はこの「既視の町」というタイトルには、写真評論家タカザワケンジ氏の解説によると深い意味があるようです(「既視感」と「既視」は違うと)。写真論としては面白い。でも、自分としては、「既視感」に満ちた写真集ということでもいいように思いました(40年近い時の流れのせいもある)。

渡辺兼人 Watanabe Kanendo
渡辺兼人.jpg1947年東京生まれ。1969年、東京綜合写真専門学校卒業。1973年に初の個展「暗黒の夢想」(ニコンサロン)を開催して以降、展覧会を中心に写真作品を発表。1982年、写真集『既視の街』(金井美恵子・文)および個展「既視の街」により第7回木村伊兵衛写真賞受賞。2015年には完全版となる新編集の写真集『既視の街』(東京綜合写真専門学校出版局)を刊行。2017年から2019年にかけてAG+ Galleryでこれまでの作品を振り返る7回連続の個展を開催。全7巻の写真集『断片的資料・渡辺兼人の世界I~VII』(AG+ Gallery)を刊行した。そのほかの写真集に『渡辺兼人』(京都現代美術館 何必館)がある。

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著名人との2ショットにおける都会人・横尾忠則と、郷里の西脇市における地方人・横尾忠則。

記憶の遠近術 ori.png 記憶の遠近術01.jpg記憶の遠近術00.jpg

横尾忠則記憶の遠近術』['92年](30.2 x 22.8 x 3 cm)/『記憶の遠近術〜篠山紀信、横尾忠則を撮る』['14年](30 x 22.8 x 2.4 cm)

記憶の遠近術 ori000.jpg 写真家・篠山紀信氏が横尾忠則氏を1968年から70年代半ばにかけて撮り続けた写真を主とした写真集です。横尾忠則の出身地・兵庫県西脇市にある「横尾忠則現代美術館」が、2012年11月の開館以来8つの目の企画展として2014年10月から2015年1月までこの一連の写真を特集し(横尾忠則はこの場合"被写体"であり、篠山紀信は初めて横尾忠則以外の作家として当館企画展の主役になったことになる)、その開催に合わせて、オリジナルの写真集から厳選するとともに、横尾忠則のその後に撮影された写真などを加えて再構成して2014年10月に芸術新聞社より再刊行されました。

記憶の遠近術02.jpg 当初は、横尾忠則と彼に影響を与えた人物、彼にとっての往年のアイドルや畏敬する人物との2ショットがメインで、谷内六郎、横山隆一、鶴田浩二、嵐寛寿郎、川上哲治、山川惣治、手塚治虫、石原裕次郎、田中一光、亀倉雄策など、今はもう亡くなってしまった人が多いなあと('14年に亡くなった高倉健もそのうちの一人。和田誠氏も今年['19年]10月に亡くなったなあ)。そんな中、美輪明宏や浅丘ルリ子などとのツーショットもあり、共に撮影されたのは'68年。永い付き合いなのでしょう。'76年に撮られた瀬戸内寂聴と一緒にいる写真もあります。そう言えば、今この二人、朝日系(週刊朝日、朝日新聞等)で往復書簡を公開していますが、瀬戸内寂聴さん97歳、横尾氏83歳かあ。道理で何となくあの世の話が多くなる?(横尾氏ももともスピリチュアル系)

『横尾忠則 記憶の遠近術』和田誠(1936-2019)とのツーショット/瀬戸内寂聴(1922-2021)とのツーショット
記憶の遠近術_0081.JPG 記憶の遠近術_0080.JPG

『横尾忠則 記憶の遠近術』に掲載の写真(横尾氏は右側にひとり離れている)/横尾忠則《記憶の鎮魂歌》(1994)
横尾忠則 記憶の遠近術 写真.jpg横尾 記憶の鎮魂歌.jpg この写真集に見られる特徴として、1970年に横尾氏が兵庫県西脇市に帰郷した際に、友人、知人、恩師、身内らとフレームに収まったことから横尾氏の作風が変化し、横尾氏が著名人たちが写った写真は時代の息吹きを生々しく留めるようになる一方、それまでの若い横井氏はどこか突っ張った感じもあるのに対し(それは70年代に入っても続く)、同じ70年代に西脇市で撮られた写真は、ほのぼのとした、帰省してくつろいでいる東京人(元は地方人)といった感じで、この違いが見られるのが、もしかしたらこの写真集の最大の妙ではないかという気がします(横尾氏はこの写真をもとに《記憶の鎮魂歌》(1994)という作品に絵画化している)。

記憶の遠近術〜篠山紀信、横尾忠則を撮る - 篠山紀信.jpg 因みに、本書によると、三島由紀夫は生前に横尾氏と篠山氏に、篠山氏のカメラで三島と横尾氏が様々な死に様を演じるという『男の死』という企画を持ちかけたことがあったそうです。この企画は、三島のパートは順調に撮影が進んだものの、横尾氏のパートの方が西脇への旅行後に横尾氏が病気入院することになって停滞し、同年11月の三島の自決によって完成を見ず、それまで撮影されていた部分も一部のカットを除いて封印されてしまったそうです。篠山紀信の撮った三島のパートをもっと見てみたい気もします(公開されているもので有名なものとしては、三島をモデルに彼をベラスケスを模した「聖セバスチャンの殉教」があり、横尾忠則も後にこれを絵画化している)。

《読書MEMO》
●横尾忠則『高倉健賛江』('69年/天声出版)「自己批判的とがき」
「私は(中略)私の幼少時代の最も嫌悪した地域社会を捨て、都会、つまりモダニズムを希求いたいばかりに当時最もモダニズムの洗礼を受けていたグラフィックデザイン界に足を投じたのである。
 ところが現在、私はモダニズムデザインの危機から逃れようとしている。あれほどまでそして今も尚権をしている土着の世界からの再出発を強制されているのだ。これは決して土着という前近代への回帰ではない・近代の超克を前近代に目を向けることで可能であると考えたのである。私はややもすると日本的なるものの郷愁の沈潜へのまちょくにひっかかることもよくわかっている。」


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記録写真としてだけでなく、芸術写真としても見事。見せ方の"戦略"に時代背景を感じる。

男の海 鯨の海 市原01.jpg鯨の海・男の海.jpg 市原 基.jpg
鯨の海・男の海―市原基写真集』['86年](34 x 27.2 x 2.8 cm)市原 基(1948-2024/75歳没

 1979(昭和54)年、折しもピークを迎えた世界的な反捕鯨の声に、クジラを食べる日本人としてその現場を見る必要があると感じて、企業・政府等各種団体に捕鯨船への同乗取材を交渉し始めた写真家が、'82(昭和57)年にようやっと南氷洋捕鯨船へ乗り込む許可を得て、'82年12月から翌年3月にかけてと、'83年10月から翌年4月にかけて、南氷洋と小笠原の捕鯨を取材した写真集で、写真家の全乗船距離は8万キロにも及んだとのことです。

男の海 鯨の海 市原6.JPG 日本の伝統産業の1つである捕鯨業が存続の危機にあるということが取材の契機であるわけですが、ただそうしたトピックを追って記録としての意味合いから写真を撮ったというレベルを超えて、海で働く男達の勇壮な仕事ぶりをよく伝えるとともに、南氷洋の美しい自然の様を見事にフィルムに収めており、芸術的にも素晴らしい出来映えではないかと思います。

 キャッチャー・ボートに乗り込んで撮った銛打ちの写真は圧巻で、母船に上がったミンククジラは、ヒゲクジラの中では平均体長8.5メートルと小型ですが、それでもデカそうだなあと。

 海面すれすれに海中を泳ぐミンククジラや体長14メートルのニタリクジラを撮った写真は、まるでこれから浮上しようする巨大潜水艦のようで、こんなのがぬっと目の前に現れたら、初めて見た人はびっくりするだろうなあとか、これがシロナガスクジラだったらニタリクジラの倍の大きさになるわけで、一体どのように見えるのだろうかと―。

 C・W・ニコル氏などが巻末に寄稿文を載せているほか(ニコル氏もまた捕鯨船団に乗り込み南氷洋に同行した経験を持つが、本稿では捕鯨擁護の立場から日本の国際的発言力の弱さを批判している)、著者自身も取材の模様を8ページにわたってドキュメント風に纏めており、併せて、捕鯨問題の(当時の)状況を解説しています。

 更に、巻末には全掲載写真の縮小写真とキャプションが付されていて、このあたりは、最近刊行された小関与四郎氏の写真集 『クジラ解体』('11年/春風社)もそうでしたが、親切な配慮と言えます。

  '86(昭和61)年に房総の和田浦港で撮られたマッコウクジラの解体の模様の写真などを収めた小関与四郎氏の写真集がモノクロなのに対し、この写真集はすべてカラー。但し、母船でのクジラの解体写真だけはモノクロです(しかも見開き写真も多いこの写真集の中で半ページを使ったものが1枚あるだけ)。

鯨の海・男の海1.jpg やはり、反捕鯨運動を意識してのことでしょうか(小関氏のマッコウクジラの解体写真も、撮影して写真集になるまでに25年かかっている)―その分を、南氷洋の美しい光景を撮った写真がカバーしていて、ある意味、戦略的といえば戦略的な面も。

マーメイドラグーンのクジラ.jpg 巻末の写真ごとのキャプションはたいへん丁寧に、また時にエッセイ風に書かれていて、確かに、引き上げられたミンククジラの凛々しく済んだ目には、"人間社会のゴタゴタもすべて見透かされている"ような印象を受けるとともに、ちょっぴり哀感を覚えたのも正直なところです(直径20センチ!ディズニーシーのマーメイド・ラグーンのクジラの目を思い出した)。

市原 基(いちはら・もとい=写真家)
1948年徳島県小松島市生まれ。日本大学芸術学部映画学科卒業後、同写真学科に学士入学。卒市原 基 展.jpg業後、写真家活動を始める。北極・南極の"氷"、アジア・モンスーン地域の"水"、アフリカの"火とエネルギー"をテーマに、氷・水・火の三部作をライフワークとして制作中。「ナショナルジオグラフィック」誌やボーイング社の全世界向け企業広告なども手がける。おもな写真集に『南極海』『鯨の海・男の海』『アジア・モンスーン』『MONSOON』『貌-三國連太郎』『アジアから』『鯨を捕る』などがある。現在、日本写真家協会会員、日本旅行作家協会会員。

「豪快だった市原基さん(小松島市出身の写真家)」(「徳島新聞デジタル版」2024/12/31)

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見開き写真の迫力。「機械化される前の職人の熟練とプライドの世界」(鎌田慧)。

本橋成一写真展「屠場」.jpg 本橋 成一.jpg    『ドキュメント屠場』.jpg
屠場』['11年](25.8 x 19.4 x 2 cm)本橋 成一(1940- ) 鎌田慧 『ドキュメント 屠場 (岩波新書)』['98年]

本橋成一写真展「屠場」写真展.jpg 炭鉱や魚河岸、上野駅、サーカスなど市井の人々をテーマに撮り続けてきた写真家による「屠場」の写真集で、伝統的な手法で牛の解体加工を行っている大阪・松原屠場を取材しています(この人、チェルノブイリ原発事故の被災地で暮らす人々を撮影した「アレクセイと泉」や、最近ではアフリカに取材した「バオバブの記憶」など、海外に材を得た映画作品の監督もしている)。

 銀座ニコンサロンで今('12年6月)「本橋成一写真展・屠場(とば)」が開催されていて、やはり本書の反響が大きかったのではないかなあ。何せ、日本で初めての「屠場」の写真集だからなあ。

日出(いず)る国の工場 大.jpg テーマもさることながら、見開き写真が殆どを占めることもあって、すごい迫力。殆どの人が初めて見ると思われる牛が処分されていく過程(そう言えば確かに、村上春樹氏の『日出る国の工場』('87年/平凡社)に小岩井牧場を取材した「経済動物たちの午後」という話があって、「ホルスタインの雄は生後20ヶ月ぐらいで加工肉となる」というようなことが書いてあったなあ)、親方たちのどっしりした面構え、職人たちの真剣な眼差し、おばちゃんたちの巧みな手捌き―「働く」ということのエキスが詰まっている写真集です。

 '98年に『ドキュメント屠場』(岩波新書)を著している鎌田慧氏の解説が寄せられていて、それによれば、「屠場」と書いて東日本では「とじょう」、西日本では「とば」と読むそうです(従って大阪・松原屠場を取材した本書は「とば」となっている)。

 大阪・松原屠場は、伝統的な作業工程で解体作業を行っているわけで、鎌田氏も、「機械化される前の職人の熟練とプライドの世界」と書いていますが、まさにその通り。

 「屠場」で働く人には伝統的に被差別部落出身者が多く、「屠場」での労働は部落差別問題と古くから密接な繋がりがあったようですが、それと併せて、あるいは、それとは別に、殺生を忌み嫌う人々の感情も昔からあったのだろうなあ(そして今も)。でも、こうした人たちの労働の上に、日本の豊かな食文化は成り立ってきたわけです。

 因みに、「屠殺」と言う言葉が差別用語かというとそうではなく、「屠場(とじょう・とば)」も元々は「屠殺場(とさつじょう)」と言っていたのが(『ドキュメント屠場』には、芝浦屠場の前のバス停は「屠殺場」という名だったとある)、やはり「殺」という字を避けて「屠場」になったらしく―「屠」も「屠(ほふ)る」だから、意味として同はじなのだが―それもやがて「食肉市場」「食肉工場」などいった言葉に置き換えられていたようです。

 全く無いわけではないですが、もう少し働いている人が笑っている写真があっても良かったかなあ(まあ、仕事中のところを撮っているわけだから、接客業でもあるまいし、にこにこ、へらへらしている人は、そうそういないわけだけど)

 というのは、鎌田氏の『ドキュメント屠場』を読むと、みんな明るいんだよなあ。職場内の結束が強く、たいへん「人間的な労働の場」であることが窺えるので、こちらも是非読んで欲しいと思います。

新版 屠場』['21年]
新版屠場.jpg新版屠場4.jpg

屠場002.jpg

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今となっては貴重なマッコウクジラ解体の写真。捕鯨論争の中、「事実は事実」の記録として...。

9小関 与四郎 『クジラ解体』.jpg
小関 与四郎 『クジラ解体』.jpg
 小関 与四郎(こせき・よしろう).jpg 小関 与四郎(こせき・よしろう、1935- )
クジラ解体』(31 x 22.2 x 2.8 cm) 装丁・レイアウト:和田 誠   
9小関 与四郎 『クジラ解体』_s3.jpg 今となっては珍しい港でのクジラ解体の模様や、かつてクジラ漁が盛んであった地の、その「文化」「伝統」の名残をフィルムに収めた写真集です(昔、捕鯨船の甲板でクジラの解体をしている写真が教科書に載っていたような記憶があるのだが...。鯨肉の竜田揚げは学校給食の定番メニューでもあったし、鯨(鮫?)の肝油ドロップなんていうのもあった)。

 この写真集にある写真の内、クジラ解体の様子そのものを撮ったものは、1986年に房総の和田浦港で撮られたマッコウクジラの解体の模様と、2010年に宮城県の鮎川港で撮られたツチクジラの解体の模様のそれぞれ一連の写真群で、やはりこの両写真群が迫力あります。

9小関 与四郎 『クジラ解体』_s4.jpg とりわけ、和田浦港のマッコウクジラの解体の様子は大型のクジラであるだけに圧巻で、'86年当時、写真家は、近々マッコウクジラは大型捕鯨の規制対象となると聞き、今のうちに撮らねばとの思いから撮影したとのことですが、その後の反捕鯨運動の高まりで、これらの写真は写真集となることもなくお蔵入りしていたとのことです。

 しかしながら、捕鯨論争が加熱する中、「ありのままの姿を正面から見据えて記録する」との自らの信条に立ち返り、「事実は事実」の記録として残し伝えたいとの思いから、この「写真鯨録」の発表に至ったようです。

9小関 与四郎 『クジラ解体』_s5.jpg 和田浦港は、小型捕鯨に規制された今でも、解体の模様を一般の人が見ることができるようですが、一般人も解体を見ることができるのは全国でここだけで、この写真集で古式捕鯨の名残が紹介されている和歌山県の太地港や、実際にツチクジラの解体の模様が紹介されている宮城県の鮎川港でも、小型捕鯨は今も調査捕鯨の枠内で行われているものの、反捕鯨運動に配慮して、解体の模様は一般には公開していないとのことです。

 生態保護と食文化の相克―難しい問題。この写真集を見ると、単に食文化に止まらず、鯨漁を行っている港町にとっては伝統文化であり、生活文化でもあったようだし(これを「文化」と呼ぶこと自体、反捕鯨派は異論があるのだろうが)。

9小関 与四郎 『クジラ解体s2.jpg 装填は和田誠氏。栞(しおり)としてある「クジラ解体 刊行に寄せて」には、安西水丸(イラストレーター)、池内紀(独文学者)、海老沢勝二(元NHK会長)、加藤郁乎(俳人)、金子兜太(俳人)、紀田順一郎(評論家)から、地井武男(俳優)、中条省平(学習院大教授)、道場六三郎(料理家)、山本一力(作家)まで、各界16名の著名人が献辞しています。

 但し、その殆どが写真集の出来栄えを絶賛し、郷愁を述べたり貴重な文化記録であるとしたりするものの、一部の人が「記憶や記録にとどめておくだけでいいのか?」(地井武男)、「自然の恵みで最大のご馳走」(道場六三郎)など、食文化としての復活の期待を匂わせているだけで、大方は「考えさせられる」止まりのようです(反捕鯨派を意識してか?)。

9小関 与四郎 『クジラ解体』_s1.jpg でも、この写真集に献辞しているということは、大方は、「食文化としての復興支持」派なんだろうなあ。一番ストレートなのは、絵本作家の五味太郎氏で、「よい。とてもよい。鯨はよい。解体作業もよい。鯨肉もこれまたよい。まったく完璧だね。俺にも裾分けしなさい。何か問題あるの?」と―。

 一般的な日本人の意識としても、いろいろ考えさせられるにしても感覚的にはこれに近いんじゃないの?―「クジラ親子の写真集を微笑ましく見る人が、鯨料理屋で舌鼓を打つ」というのが人間ってものかも―でも、牛や豚が消費されるために生まれてくる"経済動物"であるのに対し、クジラは養殖しているわけではないから、自然保護の観点から見てその点が気になる...といった感じか?

 例えば、小松正之 著『クジラと日本人-食べてこそ共存できる人間と海の関係』('02年/青春新書プレイブックス・インテリジェンス)によると、シロナガスクジラはかつての人間による乱獲で20万頭から2千頭に減ってしまったようですが、現在調査捕鯨の対象として認められているミンククジラは南氷洋に76万頭いて(内、調査捕鯨として捕獲しているのは年間440頭のみ)、更に北大西洋にはミンククジラが2万5千頭(調査捕鯨上限は年間100頭)、ニタリクジラが2万2千頭(同年間50頭)、マッコウクジラは10万2千頭(同年間10頭)いると推定されるそうです(何れも'02年現在)。

 むしろ、あまり厳しい捕鯨制限枠をずっと続けていると、特定の種類のクジラが増えすぎて生態系を乱すことも考えられるわけですが(歯クジラが食べる魚の量は人間の漁獲量との比ではないくらい多い)、本書では敢えてそうしたデータ的ことは示していません。

 クジラの供養碑等の写真からは、日本人のクジラに対する感謝の念が感じ取れましたが、そうした写真も含め、これらの写真を見てどう感じるかはあくまで見る人に任せ、基本的には、純粋に「写真記録」として提示することに努めた編集となっているように思いました。

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'74年の主な出来事を追った写真集。見る人が自分なりのイメージで見ることができるように上手にお膳立てしてみせる。

晴れた日 A Fine Day 1.jpg 晴れた日 A Fine Day 2.jpg  篠山 紀信 『晴れた日』.jpg
晴れた日―写真集 (1975年)』(30.7 x 23.3 x 3.8 cm)/山口百恵 photo by 篠山紀信

 1974(昭和49)年の報道上の主な出来事を追って写真集にまとめたもので、グラフ誌(おそらく「アサヒグラフ」)の連載企画だったのではないでしょうか。
輪島功一
晴れた日76.JPG この1974(昭和49)年という年は、堀江謙一の「マーメイドⅢ」による西周り単独無寄港世界一周早回り記録達成、プロボクシングのジュニア・ミドル級チャンピオンだった輪島功一の7度目の防衛の失敗、シンガー・ソング・ライターのりりィの「私は泣いています」のヒット、野坂昭如などタレント候補が多く立候補した衆議院選挙、山口百恵の国民的アイドル人気の沸騰、オノ・ヨーコの来日、伊豆半島沖地震、ウォーターゲート事件によるニクソン大統領辞任、永遠のミスター・ジャイアンツ長嶋茂雄の引退...etc.と、今更ながら、いろいろな人がいて、いろいろなことがあったなあと思わされます。
オノ・ヨーコ
晴れた日77.JPG 「しおり」に寄稿している五木寛之氏が、この人の写真には「思想」ではなく「視想」がみなぎっている―と書いていますが、確かに「思想」的色合いはゼロであり、タイトルの「晴れた」というのは、ある意味「虚無」にも通じるのかも。

 五木氏の言う「視想」というのはやや抽象的ですが、まさにその抽象性こそこの人の持ち味であり、台風で押し寄せる波や地震に晒された土地を撮った写真などは、報道写真というよりイメージ写真に近いかも。
長嶋茂雄
晴れた日75.JPG 芸能人やスポーツ選手を撮っても同じようなことが言えるけれども、人物の方が風景よりも、フツーの人が見た場合に自分のイメージが付加しやすいかな。

 また、この人は、見る人が自分なりのイメージで見ることができるように上手にお膳立てしてみせるから、人物写真や、端的に言えばヌード写真などにおいて、その世界で永らくメジャーであり得たのだろうなあと(撮られる側は純粋な"客体"となることができる。三島由紀夫などは、撮られたい写真家のタイプだったのだろうなあ)。

 この写真集においても、人物を撮ったものの方が個人的には良いように思いますが、「報道写真」という流れの中で(「報道写真」にならないように)撮っているものと、最初からポートレートのような感じで撮っているものがあり、写真家自身、試行錯誤していたのか?

 本書はこの写真家の最高傑作との評価もありますが、個人的には、「報道写真」を撮らせてみたら、やはり「イメージ写真」みたくなったという感じで、そこがまたこの人らしいところなのでしょう。 "巧まずして"そうなっているわけではなく、(世間一般で言うところの「報道写真」にならないように)計算ずくで撮っているのだと思います。

晴れた日  A Fine Day.jpg
《読書MEMO》
●篠山 紀信 2020年「菊池寛賞」受賞(作品ではなく人に与えられる賞)
受賞理由:半世紀にわたりスターから市井の人まで、昭和・平成・令和の時代を第一線で撮影。その業績は、2012年より7年間全国を巡回し、のべ100万人を動員した個展「写真力 THE PEOPLE by KISHIN」に結実する

篠山紀信.jpg 篠山紀信(写真家)2024年1月4日老衰のため死去(83歳没)

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原爆後遺症の悲惨な実態をありのままにフィルムに記録した、社会派ルポルタージュ的写真集。
土門拳  ヒロシマ2.jpg ヒロシマ (1958年) 土門 拳.jpg 『ヒロシマ』.jpg 土門 拳.jpg
ヒロシマ (1958年)』(梱包サイズ(以下、同)35×25.6cm) 写真図版点数165点/176p 解説47ページ/『土門拳全集〈10〉ヒロシマ』['85年](31.8 x 23.6 x 3.3cm)/土門 拳(1909-1990)
ヒロシマ0.JPG 写真家の土門拳(1909-90)が、1957(昭和32)年、原爆投下から12年を経て初めて広島に行き、原爆症の後遺症の実態を目の当たりにして衝撃を受けたことを契機に出来あがった写真集で、翌'58(昭和33)年に刊行され、社会的にも大きな反響を呼んだとのことです。

 土門拳と言えば、古寺や仏像、或いは作家など著名人のポートレートを多く撮っている印象がありますが、「筑豊の子どもたち」シリーズのような社会派ドキュメンタリー風の作品集もあり、そうした中でもこの写真集は、最も社会派ルポルタージュ的色彩の強い写真集となっています。

ヒロシマ1.JPG 実際、当時土門拳は、それまでのヒロシマの実態に対する自らの無知を恥じ、「報道写真家」として使命のもとに広島に通い続けたとのことで、原爆病院などを訪ね、悲惨な被曝者やその家族の日常を7,800コマものフィルムに収めたとのこと、更に10年後に広島を再訪し、同じく後遺症に悩む被曝者を撮った『憎悪と失意の日日-ヒロシマはつづいている』を発表しています。

 この写真集は、ありのままを、作らず、包み隠さずに撮っているという印象で(後遺症の手術をしている最中の写真など、生々しいものも多くある)、被曝者たちが"頑張って生きています"といったような「演出」は施されていないように感じました。

ヒロシマ2.JPG 巻末の写真家本人による「広島ノート」によると、取材中も原爆病院等で被曝時に胎児だった子の死をはじめ多くの死に遭遇したようであり、写真家の心中は、被曝者たちの悲惨な実態を記録にとどめようとする思いで、只々一杯だったのではないでしょうか。

 原爆投下から12年を経た時点で(この「12 年」の意味合いは重い)、依然こうした被曝者の悲惨な実態がありながらも、そのことは世間的には次第に忘れられ、原爆は政治や国際問題のイシューとして論じられるようになっており、そのことに対して写真家は、自らの反省も踏まえつつ憤りを露わにしていますが、この写真集の写真が撮られた時代から更に半世紀以上を経た今日、その傾向はさらに進行したように思わます。

 そうした中、東日本大震災による福島第一原発事故が放射能被曝の脅威を喚起せしめることになったというのは、これまでの(唯一の被爆国であるわが国の)政府及び電力会社がとってきた原子力発電推進策に照らしても皮肉なことではありますが、それとて、どれぐらいのイメージを伴ってその脅威が人々にイメージされているかは、はなはだ心許無い気がします。

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没後47年。やっと成ったライフワーク写真集。失われようとする数多くの「日本」が見てとれる。

木村伊兵衛 の秋田 2.jpg木村伊兵衛 の秋田.jpg 木村 伊兵衛.jpg 木村伊兵衛(1901‐1974)
木村伊兵衛の秋田』 ['11年](28.8 x 24 x 4 cm)
「市場にて」(1953年2月・大曲市)/「青年」(1952年6月・秋田市)
木村伊兵衛 の秋田 農村の娘.jpg 木村伊兵衛(1901‐1974)の生誕110周年記念出版とのことですが、代表作「秋田」シリーズは、今まで『木村伊兵写真全集―昭和時代(全4巻)』('84年/筑摩書房、'01年改版)の内の第4巻として「秋田民俗」というのがあったり、或いは『定本木村伊兵衛』('02年/朝日新聞社)などの傑作選の中にその一部が収められていたりしたものの、こうした形で1冊に纏まったものはあまり無かったように思います(没後に非売品として『木村伊兵衛 秋田』('78年/ニコンサロンブックス、ソフトカバー)が刊行されている)。

 この写真集の監修をした田沼武能氏の解説によると、'52(昭和27)年に秋田に行って「これだ」と思うものがあったらしく、その後'54(昭和29)年にパリでカルティエ=ブレッソンに会ってから、秋田で撮影に一層弾みがついたとのこと、以来、'71(昭和46)年まで計21回、秋田に通うことになったとのことです。

(1953年8月・西木村)

 '50年に設立された日本写真家協会の初代会長に就任し、写真雑誌の投稿写真コンテストの選考・論評を通じてアマチュア写真の指導者としても第一線の現場にいて多忙であったことを考えると('55年に第3回「菊池寛賞」を受賞)、かなり精力的な活動ぶりと言えるかと思います。''

 特に多く撮られているのは、秋田通いを始めた最初の数年と、'58(昭和33)年から'63(昭和38)年の間のもので、田沼氏によれば、木村伊兵衛は秋田を撮り始めて2、3年した頃から写真集を作ろうと考えていたようだったとのことですが、結局、ライフワークとも呼べる作品群でありながら、在命中に写真集という形には成らなかったとのことです(それにしても、没後47年にしての刊行は待たせすぎ)。

木村伊兵衛 の秋田 おばこ.jpg 木村伊兵衛が指向していたものは、テーマがあっちこっちに飛ぶ「傑作集」ではなく、こうした1つの対象を突きつめた「作品集」だったんだろうなあ。"報道写真家"を目指し、またそのことを自負していたようだし。

 「秋田」訪問初期のものは人物のスナップ写真が多く、次第に人々の暮らしぶりや祭りの様子など周辺の生活風景を含めた写真が多くなっていきますが、この辺りにも「写真集」への意識が窺えます。

木村伊兵衛 の秋田 ベタ焼き.jpg

 田沼氏の解説の中に、フィルムのベタ焼き(コンタクト)が多数あり、傑作と言われる「板塀」や「青年」などの作品が、どのような流れで撮られ、どのフィルムが選ばれたかが分かるようになっていて、更になぜその写真が選ばれたのかまで考察していたりして、なかなか興味深いです。

「秋田おばこ」(1953年8月・大曲市)

 「秋田おばこ」は、この被写体の女性(モデル女性は実は農民ではなく、かと言ってプロのモデルでもなく、秋田在住の普通のお嬢さんだったとのこと)だけで30枚以上撮っているんだなあ(採用したのは1枚のみ)。

 撮影対象によって、自分が動いたり、定点観察的に撮ったりしていますが、基本的には(望遠を使用した場合でも)目の高さが基準で、どちらかと言うと初期のものの方がダイナミックかも(田沼氏も、撮影を始めた頃の意気込みが感じられると)。但し、トリミングは一切行っていません。

木村伊兵衛 の秋田 雪国.jpg 木村伊兵衛が"報道写真家"を目指すにあたって、「絵画」の領域に近いユージン・スミスを指向するか、「映画」のキャメラマンの領域に近いカルティエ=ブレッソンを指向するかの選択があったわけですが、木村自身"スナップの天才"と言われたように、元々素質的にカルティエ=ブレッソン型だったのではないでしょうか。

 「秋田」シリーズの初期のものに対しての当初の世の評価は「風俗的で、意見がない」というもので、木村自身(本心からそう思っていたかどうかは判らないが)「風俗写真の域を出ない」と言っていたこともあったようです。じゃあ「芸術写真」を撮ろうとしているのかというとそうではなく、あくまで「報道写真」を撮ろうとしていたのでしょう。但し、彼の作品は、「秋田」シリーズという作品群で捉えるとまさに「報道写真」の域を超えているわけで、ロバート・キャパなどマグナムの写真家らのように予めストーリーを練り上げて被写体に臨むのではなく、被写体の側からテーマやストーリーを滲ませるというのが、この人の特質でないかと思われます。

(1953年2月・大曲市)

「母と子」 秋田・大曲 1959年.jpg 昭和30年代と言えば、日本が高度成長期に入ろうとする頃、或いは、すでにその只中にいる時期であり、但し、それは都市部における胎動、または喧騒や混乱であって、この写真集の「秋田」においては、その脈音やざわめきがまだ聞こえてこない―「秋田」に定点観測的に的を絞ったのは、この写真シリーズの最大成功要因と思われ、この写真集を見る日本人にとっては、そこに、これからまさに失われようとする数多くの「日本」が見てとるのではないでしょうか。

「母と子」(1959年・大曲市)

 それらが、ただ甘いノスタルジーで語られるような牧歌的ものではなく、むしろ、農村の生活の厳しさを滲ませたものであるだけに、見る者の心に、その時代をその土地で生きた人々への共感と畏敬の念を喚起させるのかもしれません。

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原発労働者の被曝によって受けた苦しみを如実に伝える写真集。日本のエネルギー産業の暗黒史。

原発崩壊 樋口健二写真集.jpg 『原発崩壊』(2011/08 合同出版) 樋口健二.jpg 樋口健二 氏
(26.8 x 21.8 x 1.4 cm)

 原発で働く労働者や原発の付近に住む人々の暮らしぶりを40年近くに渡って取り続けてきた樋口健二氏の、これまで発表してきた写真に、福島第一原発事故後に撮った写真を加えて、ハードカバー大型本として刊行したもの。

 中盤部分の、かつて原発施設内で働いていて骨髄性白血病やがんで亡くなった人の亡くなる前の闘病中の写真や、亡くなった後の遺影を抱えた遺族の写真、更に、亡くなるに至らないまでも、所謂「ぶらぶら病」と言う病いに苦しんでいる様子を撮った写真などが、とりわけ衝撃的です。

 それらには、樋口氏自身が取材した故人や遺族、闘病中の人たちへのインタビューも付されていて、原発作業員の多くが、原発の危険性を何となく知りながらも具体的な説明を十分に受けることなく、危険性の高いわりには無防備で過酷な環境の中で作業に従事し、知らずの内に被曝し、重い病いとの闘いを強いられたことが窺えます。

 その中には、日本で初めて原発被曝裁判を提訴した岩佐嘉寿幸さん(故人)の写真もありますが、原子炉建屋内の2時間半の作業に1回従事しただけで被曝し、重い皮膚炎に苦しみ続けることになった岩佐さんは、それが"放射能性皮膚炎"であると診断した医師の助言と協力により、国と敦賀原発(日本原子力発電)を訴えましたが、政府と日本原電が編成した特別調査団による'被曝の事実無し'との政治的判断の下、敗訴しています。

 しかし、岩佐さんのように世の表に現れた原発被曝者は氷山の一角であり、多くの原発被曝者が、原発での被曝が病いの原因だと確信しつつも、もの言えぬまま亡くなったり、生涯を寝たきりで過ごすことになった事実が窺えます。

樋口健二氏 講演会・写真展.jpg 本書によれば、1970年から2009年までに原発に関わった総労働者数は約200万人、その内の50万人近い下請け労働者の放射線被曝の存在があり、死亡した労働者の数は約700人から1000人とみていいとのこと。

 こうした原発下請け労働者の労働形態についても解説されていて、下請、孫請け、ひ孫請け、更に親方(人出し業)がいて、その下に農漁民や非差別部落民、元炭鉱夫や寄せ場の労働者などがおり、しかも、この人出し業をやっているのは暴力団であったりするわけで、ここに一つのピラミッドの底辺的な差別の構造があるとのことです。

 こうした人達は、被曝してもまず労災申請が認められることはこれまで無く、そうした働き方と犠牲の上に原発による電力供給がこれまで成り立ってきたことを思うと、あまりに歪な構造であったと思わざるを得ません(これはまさに、日本のエネルギー産業の暗黒史!)。

 結局、原発というのは、被曝労働による犠牲を抜きにしては成り立たないものなのでしょう。併せて、近隣住民の健康と生活をも破壊してきたわけで、こんなことまでして原発を存続させる意義は、どこにも無いように思われます。

樋口健二氏 講演会・写真展ポスター

樋口健二氏
樋口健二3.jpg

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立木義浩.jpg '70年代後半のアメリカの文化や社会の荒廃と「格差社会」ぶりをよく捉えている。
マイ・アメリカ.jpgマイ・アメリカe.jpg マイ・アメリカ2.jpg 
(28.8 x 21.4 x 2.2 cm)『マイ・アメリカ―立木義浩ノンフィクション (1980年)』『マイ・アメリカ (1982年)』 集英社文庫 ['82年]立木義浩(1969)

 写真家・立木義春が'70年代後半にアメリカに渡り、2年間にわたってロサンゼルスやニューヨーク、その他の地方都市で当時のアメリカを象徴する風俗や社会の内側を撮ったもので、一応"写真集"ということになっていますが、ルポないし紀行文的な文章もあり、"写文集"といったところ。

MY AMERICA.jpg 「アメリカの深層部・恥部・細部をくまなく歩きまわり、鮮烈な映像でとらえたホットな報告書」と口上にあるように、今見ればやや意図的な露悪趣味も感じないことはないものの、男性ストリップに熱狂する女性たちや、アラバマのKKK(クー・クラックス・クラン)のメンバーなど、当時のベトナム戦争後のアメリカの文化や社会の荒廃をよく捉えていて、サウスブロンクスの少年ギャングを追った「サウスブロンクスは、この世の地獄だ。」などは、今読んでも衝撃的です。

立木 義浩 『マイ・アメリカ』.jpg 元々、集英社が版元である「日本版PLAYBOY」の企画であり、それ風の表紙に収まっているマリリン・モンローは、実は"そっくりさん"で、今は日本でも比較的知られていることかも知れませんが、アメリカにはタレントのそっくりさんだけを集めたプロダmyAMERICA.jpgクションがあり、チャップリン、ウッディ・アレン、チャールズ・ブロンソン、ロバート・レッドフォードなどの他、キッシンジャーのそっくりさんまでいるという話に、当時は驚きました。でもそう言えば、インパーソネーター(そっくりさん)を主人公にした映画が今年['08年]どこかの映画館でかかっていたのを思い出しました。

 著者は、ロスにあるモンローのそっくりさんの住まいを訪ね、それが侘びしいアパートであることに、ちょっとしんみり。それでもカメラを向けると彼女自身はモンローになり切ってしまうので、おかしいというより悲しい気分になる―。
 この程度のそっくりさんは掃いて捨てるほどいるということか。競争社会、アメリカで生きていくって大変そうだなあと思いました。

 一方で、一年中を乗馬や園遊会で過ごす「富裕層」の野外パーティーも取材していて、この人たちにとっては浪費することだけが人生であり、仕事は一切せず(仕事から遠ざけられている面もあるかも知れないが)、昔のイギリス貴族の真似事みたいなことをして日々を送っているわけです(ある意味、彼らは純粋に「資本家」であるということなのかも)。

 日本でも近年「格差社会」論争が盛んで、アメリカに比べてどうのこうのと言った言い方もありますが、元々アメリカと比べるのがおかしいのでは、という気持ちになります。

立木義浩さん(85歳・.jpg 立木義浩(2023年・85歳)[日刊ゲンダイ]

 【1980年単行本[集英社]/1982年文庫化[集英社文庫]】

●インパーソネーター(そっくりさん)を主人公にした映画
ミスター・ロンリー」 ('07年/英・仏・米)
ミスター・ロンリー dvd.jpg ミスター・ロンリー 01.jpg ミスター・ロンリー07.jpg

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木村伊兵衛のエッセンス。昭和30年前後の内外の写真がいい。

定本木村伊兵衛(hako).jpg定本木村伊兵衛.jpg    木村伊兵衛.jpg  木村伊兵衛(1901‐1974)
(28.6 x 23 x 3.6 cm)『定本木村伊兵衛』['02年]

 木村伊兵衛の代表的写真を集めたもので、大判スペースに1ページ1作品(或いは見開きで1作品)という配置で、つまり横長サイズの写真だと基本的には下部分が空白スペースになるという贅沢な配置。
 田村武能氏ら編集にあたった写真家の、木村の作品を見る人に1枚1枚をじっくり味わってもらいたいという思いが伝わってきます。

 収められている写真の殆どはモノクロですが、個人的には、彼が'54(昭和29)年から'55(昭和30)年にかけてパリで撮ったスナップ(カラーとモノクロがある)などが好きで、昭和27年からスタートした「秋田」シリーズもいいし、昭和30年代の東京の下町を撮ったものも懐かしさのようなものが感じられていい(この人は東京・日暮里の出身)。

「西片町附近」 東京・本郷森川町 1953年
「西片町附近」 東京・本郷森川町 1953年.jpg さらにそれらを、同じ時期に、都心部の街中を撮ったものと比べると、逆にこちらの方が時代の流れを感じ(高層ビルの陰に隠れたり土台になったりして、今は見えなくなっているスポットもある)、東北地方や下町の写真は、むしろ時間の流れが緩やかであるように感じられた面もありました(さすがに、戦前の下町のスナップなどは、古色蒼然としているが)。

 ポートレートも彼の魅力の分野で、文人などを撮ったものも収められていて(写真嫌いだった泉鏡花が、緊張のあまりガチガチになって写っている。さすがの木村も、彼の緊張だけは解きほぐせなかった)、職人を撮ったシリーズ(これ、意外といいなあ)、有名な「マダムM」の写真(背表紙に使用)などもあります。
  「定本木村伊兵衛」より    つげ義春 「ねじ式」より
「定本木村伊兵衛」より.jpg「ねじ式」より.jpg 昭和40年前後に各地で撮った地方の土着の人の写真の中には、漫画家つげ義春が自作(「ねじ式」)に用いているものもあります。

 更には、戦前の沖縄や旧満州の写真など珍しいもののあり、もっと見たいと思うのですが、300ページ丸々写真に費やしているとはいえ、これだけ活動分野が多岐に渡ると、どうしてもエッセンス的なものにならざるを得ない―、まあ、それはもう仕方が無いことかも知れず、例えば秋田は秋田で、パリはパリで、それぞれをフィーチャーした作品集が刊行されているわけで...。

「母と子」 秋田・大曲 1959年.jpg「母と子」 秋田・大曲 1959年

 
 

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外国旅行ガイドとして楽しめばよいのか、写真集として見ればよいのか。ただ、"スナップの天才"ぶりは異国の地でも。
木村 伊兵衛 『木村伊兵衛のパリ』.jpg木村伊兵衛のパリ.jpg 『木村伊兵衛のパリ』 ['06年] 僕とライカ 木村伊兵衛傑作選+エッセイ.jpg 『僕とライカ 木村伊兵衛傑作選+エッセイ
(31.8 x 23.4 x 3.8 cm)

 輸入したてのライカを使って1930年代の東京を撮ったことで知られる木村伊兵衛(1901‐1974)が、日本人写真家として戦後初めてヨーロッパ長期取材に出かけてパリの街を撮ったカラー作品群ですが、木村の没後も人目に触れることのなかったのが、撮影から半世紀を経た海外での写真展出品を機に再評価され、日本でも写真集(本書)として刊行されたものであるとのこと。

木村004.jpg 全170点の中には一幅の風景画のような作品もありますが、パリの下町や市井の人々を撮ったスナップショットのようなものが多く、50年代に出版された木村の「外遊写真集」に対し、木村の盟友・名取洋之助(1910‐1962)が、木村をガイドとした外国旅行として楽しめばよいのか、木村の写真集として見ればよいのか、と彼に迫ったところ、「人間を通しての甘っちょろい観光になっているかもしれない」が、「ヨーロッパの人間がわかってくれれば良い」と答えたとのこと―、随分控えめだが、彼らしい答かも。
 
木村005.jpg 当時の事情から、国産低感度フィルム(フジカラーASA10)での撮影となっていて、確かに露出が長めの分、ブレがあったり少し滲んだ感じの写真が多いのですが、これはこれで味があるというか、(多分計算された上での)効果を醸しています。
 同じ街の風景でも、昭和30年頃の日本とパリのそれとでは随分異なり、19世紀から変わらず21世紀の今もそのままではないかと思われるような町並みも多く、風景などを捉えた写真では、エトランゼとして驚嘆し、そこに佇む木村というものを感じさせます。
 
 しかし、撮影者の存在を忘れさせる作品が本来のこの人の持ち味、木村012.jpg下町の奥深くに潜入し(この点は、巨匠カルティエ=ブレッソンが紹介してくれた写真家ドアノーの導きによるところも大きいようだが)、街の片隅とそこに暮らす人々を撮った写真では、演出を排し、人々の生活感溢れる様子を活写していて、"スナップの天才"ぶりは異国の地でも萎えることがなかったということでしょうか、これがまた、フランス人の共感をも誘った―。

 撮影日記の抄が付されていますが、木村の文章は『僕とライカ』('03年/朝日新聞社)でもっといろいろ読め(カルティエを訪れたときのことなども詳しい)、この人がかなりの文章家でもあったことが窺えます。

木村0021.jpg 更に対談の名手でもあったということで、『僕とライカ』には、土門拳(1909‐1990)、徳川夢声(1894-1971)との対談が収録されていますが、土門拳との対談は大半が技術論で、写真同好会の会員が情報交換しているみたいな感じ(写真界の双璧、作風を異にする両巨匠なのだが、まったく隠しだてがない―篠山紀信と荒木経惟の不仲ぶりなどとは随分違う。但し、土門拳も名取洋之助とは不仲だったようだ)、一方、徳川無声との対談では、徳川夢声の訊くとも訊かぬとも知れない口調に導かれて、自らのカメラとの馴れ初めなどを積極的に語っています(徳川無声という人がとてつもなく聞き上手だということで、この2本の対談だけでは対談の名手だったかどうかまではわからない)。

【2014年ポケット版】

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