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老い方、死に方を宗教者、科学者、地域エコノミスト、エッセイストと語る。

養老 孟司 『老い方、死に方』.jpg老い方、死に方2.jpg 南直哉氏.jpg
老い方、死に方 (PHP新書) 』['23年]南直哉氏(福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代)

 養老孟司氏が、禅僧の南直哉氏、生物学者の小林武彦氏、地域エコノミストの藻谷浩介氏、エッセイストの阿川佐和子氏の4氏と、老い方、死に方を語り合った対談集。

超越と実存.jpg 第1章の禅僧の南直哉氏は、脱サラして僧侶になり、永平寺で19年修業した後、恐山に行った人で、南氏との対談は、氏の『超越と実存―「無常」をめぐる仏教史』('18年/新潮社)が「小林英雄賞」を受賞した際の選評を養老氏が書いたことが縁のようです。この対談でも、キリスト教と禅の比較や、「諸行無常」をどう考えるかといった宗教的な話になり、「解剖」は僧侶の修行のようなものという話になっていきます。そして最後に南氏は、死を受容する方法、生き方として、「自我を自分の外に向かって広げていく」こともよいとしています。「褒められたい」とか思わないで、ただ単に他人と関わるようにするのがコツで、褒められたいとか「損得」にとらわれると、自分と他人を峻別して自己に固執するようになるとしています(褒められたいと思わないことが、死を受容する方法に繋がるという発想が示唆的で興味深い)。

小林武彦の著書.jpg 第2章の生物学者の小林武彦氏は、『生物はなぜ死ぬのか』('21年/講談社現代新書)がベストセラーになったゲノムの再生(若返り)機構を研究する学者で、当対談でも、生物には「老いて死ぬシステムがある」がDNAが壊れなければ、寿命は延びるとしています。老化のメカニズムについては、『なぜヒトだけが老いるのか』('23年/講談社現代新書)でも述べられている通りで、あの本は後半「シニア必要論」となって、やや社会学的色合いになったと個人的には感じたのですが、この対談でも同様の論を展開しています。

藻谷浩介 本2.jpg 第3章の地域エコノミストの藻谷浩介氏は、『里山資本主義ー日本経済は「安心の原理」で動く』('13年/角川新書)などの著書があり、養老氏との共著もある人ですが、日本総研の主席研究員で、平成大合併以前の約3200市町村のすべて、海外119カ国を私費で訪問したというスゴイ人です。この対談では、里山資本主義というものを唱え、「ヒト」「モノ(人工物)」「情報」の循環再生を説いています。少子化問題、環境問題、エネルギー問題と話は拡がっていきます。やや話が拡がり過ぎの印象もありますが、そう言えば養老氏は別の本で、都会で死ぬより田舎で死ぬ方が「土に返る」という感覚があっていいと言っていたなあ。

看る力.jpg 第4章のエッセイスト・作家の阿川佐和子氏は、佐和子氏が父・阿川弘之を看取り、母の介護をした時期があって、その経験を綴ったエッセイ本を出していることから対談の運びとなったと思われます。延命処置をせずに亡くなった父親の死について語る佐和子氏に対し、養老氏は、死んだ本人にしたら自分が死んだかわからないわけだから、「死ぬかもしれない」なんて恐れることはなく、「そのうち目が覚める」と思って死んでいけばいいと説いています。認知症や介護についても話題になっています。

 宗教者と根本的な思想の問題について、科学者と生物学的に見た老化について、地域エコノミストと社会的な老いと死について、エッセイスト・作家と肉親の死や介護について語り合っていることになり、養老氏は、「全体として目配りが非常にいいのは、編集者の西村健さんのおかげである」と感謝しています。しかしながら、確かによく言えば全方位的ですが、悪く言えば、ややテーマが拡散した印象もあったように思います(第1章の禅僧の南直哉氏の話がいちばんテーマに近かったように思う)。

 養老氏は、多くの自著で、「死は常に二人称」として存在するとし、なぜならば、一人称の死は自分の死なので見ることができず、三人称の死は自分に無関係なためとしていますが、阿川佐和子氏との対談の中で、愛猫の死を〈二人称の死〉としているのが、〈二人称の死〉とはどのようなものかを理解する上で分かりやすかったです。

養老 プレジデント.jpg養老 日本が心配.jpg また、養老氏は小林武彦氏との対談の中で「大地震が歴史を変える」としています。そう言えば、「プレジデント」2024年8/16号の「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という特集で、養老氏は「私が101歳まで生きたい理由」として、それまでに南海トラフ地震が起きる可能性が高いため、日本がどうなるか見たいからだと述べていました。


「週刊文春」2025年3月13日号「阿川佐和子のこの人に会いたい」ゲスト・南 直哉
南直哉 週刊文春.jpg

《読書MEMO》
●「自己を開くことを繰り返していけば、自ずと死を迎えるための練習にもなるのではないかなという気がするんですね」(南直哉) 
●「DNAの修復能力は『寿命の壁』を突破する一つのカギだと考えています」(小林武彦) 
●「都会の高齢者ほど、老後の生活に必要なのは『お金』だけだと思い込んでいます。『自然資本』や『人的資本』に目が行かないのですね」(藻谷浩介) 
●「(母の)認知症がだいぶ進んでからは、母が頭のなかで思い描く世界に一緒に乗ることにしました。そのほうが介護する側も、される側もおもしろいし、イライラしないし」(阿川佐和子)
●「自分のことなんか、人に理解されなくて当たり前と思ってりゃいい」(養老孟司)


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自分はちょっとまだそこまで行けていないなあという感じか。

死を受け入れること 養老・小堀.jpg 死を受け入れること2.jpg
死を受け入れること ー生と死をめぐる対話ー』['20年]

 「3000体の死体を観察してきた解剖学者と400人以上を看取ってきた訪問診療医。死と向き合ってきた二人が、いま、遺したい「死」の講義」と帯にあります。

 小堀鴎一郎医師は森鴎外の孫で、母は『森鷗外 妻への手紙』('38年/岩波新書)を編纂した小堀杏奴(アンヌ)。かつては東大病院の外科医として活躍しましたが、定年後、患者の看取りまで担う在宅医となり、今は「人生の最期をわが家で」という願いを叶えるために在宅医療に奔走されている方です。NHKスペシャルなどでその活動が紹介されたのが印象的で(個人的に強く印象に残ったのはケアを受けて亡くなった人の方だったが)、今回、養老孟司氏との「生と死をめぐる対話」であるとのことで手にしました。

 第1章の「「死ぬ」とはどういうことですか?」において、死のガイドラインは必要か、在宅死は理想の死か、終末期の医療の難しさといった問題を扱っていて、この第1章がテーマ的には最も密度が濃かったように思います。

 養老氏は、他の本でも述べていますが、「死は常に二人称」として存在すると。つまり、一人称の死は自分の死であり、見ることができず、三人称の死は、自分と関係ない人の死で、死体を「もの」として扱うことができるため、死が自分に影響を与えるのは二人称の死だけという考え方です。養老氏は「気がついたら死んでいた」というのが理想だとしています。

 第2章が「解剖学者と外科医はどんな仕事ですか?」、第3章が 「東大医学部」ってどんなところでしたか?」というテーマで、両氏のこれまでやってきた仕事の話や、東大医学部に入るまでと入ってからの話になり、両氏のキャリアとその人となりがどう形成されたかを知るには良かったですが、「死を受け入れること」というテーマからは少し外れた印象も。

 第4章「これからの日本はどうなりますか?」で、自殺、終末期医療を巡る問題に触れ、小堀氏は「命を終えるための医療」という考えを提唱しており、これは、テレビで見た氏の看取り活動と重なりました。また「老い」とはどういうことか、長生きの秘訣、健康診断は必要か(小堀氏は75歳以降は検診をやめたと)といったことに触れています。

 養老氏によれば、余命宣告については、それがどんどん短くなっていて、それは、1年と言って6カ月で死んだらヤブ医者だと思われるからだそうです。

 最後に82歳になった小堀氏は「死を怖れず、死にあこがれず」との考えを述べています。「それぞれに人生があって、それぞれに望む死に方があって、それが面白い」とも。また、養老氏は、「どこで死ぬか」と予め考えることで、自分は変われるとしています(別の本で、田舎で死ぬのが「土に返る」という感覚があっていいと言っていた)。

 生死の境を何度も見てきた両氏だからこそ達観できているという面もあるかと思います。自分はちょっとまだそこまで行けていないなあという感じでしょうか。第2章、第3章で(両氏のことが色々わかっていいのだが)ややタイトルテーマから外れた印象もあり、評価としては△にしました。

《読書MEMO》
●目次
はじめに 養老孟司
第一章 「死ぬ」とはどういうことですか?
・在宅死が当たり前ではなくなった
・死んだら人間ではなくなるのか?
・自分の「死」について考えますか?
・インタビュー 養老孟司
第二章 解剖学者と外科医はどんな仕事ですか?
・解剖学者、外科医としてやってきたこと
・臨床医にならなかった理由
・インタビュー 小堀鷗一郎
第三章 「東大医学部」ってどんなところでしたか?
・二人が同じ「東大医学部」を目指した理由とは?
・教授選......出世競争は大変でしたか?
第四章 これからの日本はどうなりますか?
・自殺、終末期医療......死をめぐるさまざまな問題
・「老い」とはどういうことですか?
・医者の仕事って何だろう?
おわりに 小堀鷗一郎

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社会時評らしくなってきた分、面白みを欠く。 書評に読みどころがあったのが救い。

『まともな人』『こまった人』『ぼちぼち結論』.jpgぼちぼち結論.jpg ぼちぼち結論 文庫.jpg
 『ぼちぼち結論 (中公新書 1919)』['07年]ぼちぼち結論 (中公文庫 よ 33-5)』['11年]

 自分にとっては、解ったような 解らなかったような所があって、読み直すのも何だから次の本を買って読んでみる―といった感じもある養老氏の本ですが、本書は「中央公論」連載の時評エッセイ「鎌倉傘張り日記」の2005年11月号〜2007年6月号の掲載文を収録したもので、『まともな人』・『こまった人』('03年・'05年/共に中公新書)に続く第3弾で、7年間の連載の完結篇。

 小泉首相の靖国神社参拝やイラク戦争の戦後処理問題に対する言及など、だんだん社会時評らしくなってきましたが、そうなればなるほど、イマイチ面白みに欠けるような気も...。この人、やはり、生命論とか自然科学寄りの話の方が面白い、とういう気が個人的にはするのですが。

 話の内容としては、納得できるものもあれば論理の飛躍を感じるものもありましたが、「結論」ということを特に意識した書き方でもないように思え、アメリカが言う「テロに対する正義の戦い」というのは見せかけで、石油供給の安全性確保が強迫観念となっているために米軍はイラクから引き揚げない(或いはサウジに駐留してビン・ラディンを怒らせる)というのは尤もだと―、でもこれが本書の結論とも思えないし。

ウェブ進化論.jpg 文中や章の間に挿入されている書評に面白いものがあり(これが本書の救いと言えば救い)、例えば、梅田望夫氏が『ウェブ進化論』('06年/ちくま新書)でネットの世界を「あちら側」、リアルの世界を「こちら側」として対比させ、既成の世界にいる人はグーグルなど「あちら側」で起きていることが理解できないとしたことを、養老氏自身は既成の世界でのアナロジーでこれを語ったとし(『バカの壁』のことか?)、自らを、「こちら側」の既成の人たちから放逐されている「あちら側」に属する人間だとしています。

 氏にとっての「あちら側」の世界とは「虫の世界」で、この本にある「ロングテール現象」の説明にも痛く感じ入った模様で、虫を「知られている順」に並べると同じくロングテールとなり、氏が指向しているのは、その尾っぽの先の(或いは裏の)まだ情報化されていない世界のようです(これが結論? 相変わらず、よくわからん)。

 【2011年文庫化[中公文庫〕】

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「おばさん」っぽい者同士(?)の対談は、"聞き手"である養老氏がリード。

逆立ち 日本 論.jpg 『逆立ち日本論 (新潮選書)』 ['07年] 私家版・ユダヤ文化論.jpg 内田 樹 『私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)』 ['06年]

 内田氏と、内田氏の『私家版・ユダヤ文化論』('06年/文春新書)の帯の推薦文を書いていた養老氏が、雑誌「考える人」で対談したもので、両者の本格対談は初めてらしいですが(養老氏、対談本多いなあ)、人気者2人の対談ということで、内容が濃かろうと薄かろうと、予め一定の売上げは見込まれたのでは。
 これを「選書」に入れるということは、「選書」の独立採算を図ろうとしているのであって、「選書」だからと言って内容が濃いわけではなかろう―という穿った気持ちで本書を手にしましたが、まあ、当たらずも遠からずといった感じでしょうか、個人的感想としては。

 本書の内容に触れようとするならば、元本である『私家版・ユダヤ文化論』にも触れなければならなくなるので、敢えてここでは割愛しますが、本書だけ読んでも、もやっとした理解度に止まるのではないかと...。

 「この対談では、内田さんに大いに語ってもらいたかった。だから私は聞き手のつもりでいた」と養老氏は前書きしていますが、前段部分は確かに、『私家版・ユダヤ文化論』についての内田氏による補足説明のような感じも。
 これが、元本よりも丁寧だったりするので(補足説明だから当然か?)、そう考えると元本の結論部分はやはり新書ということで紙数不足だったのかとも思ったりし、逆に、元本を読まずに本書に触れる人に対しては、やや説明不足のような気がしました。

 但し、内田氏によれば、内田氏自身の話したことはほぼ活字化されているのに対し、養老氏の喋ったことは半分ぐらい削られているとのことで、実際に対談をリードしているのは養老氏という感じ。
 中盤の時事批評的な話は、養老氏は『バカの壁』の2年前から社会時評を雑誌連載していることもあり、時事ネタへの"独特の突っ込み"はお手のものですが、ちょっと飽きたかなあ、このパターン。

 ただ、最後の方になって、養老氏が自ら言うところの「"高級"漫才」と呼べるかどうかは別として、何となく味わいが出てきたかなという感じで、相変わらず読んで何が残ると言い切れるようなものではないけれども、ヒマな時にブラッとこの人の対談とか読んで、頭をほぐすのもいいかな、と思わせるものがありました。

 内田氏が対談の冒頭、本書の企画は、編集担当が内田氏と養老氏が「おばさん」っぽいところが共通していると感じたことから始まったことを明かしています。
 その「おばさんの思考」とは、頭で考えたことではなくて、どちらかというと非常に身体感覚的で論理がふらふら揺れ、極端に言えば、どんな結論にいこうと論理の次元が変わろうと気にしないのが「おばさん」であり、話のユニットが、連想とか関連語で(垂直方向ではなく)水平方向に繋がっていくのが特徴であると。
 内田氏の発言の中では、この「おばさん思考」が自らの思考方法に、及び養老氏のそれについても当て嵌まるとして分析していたのが、最もしっくりくる指摘でした。

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「笑いの効用」について、三者三様に語る。ちょっと、パンチ不足?

『人間性の心理学』.JPG新湯 笑いの力.jpg笑いの力.jpg  人間性の心理学.jpg
笑いの力』岩波書店['05年] 宮城音弥『人間性の心理学』〔'68年/岩波新書〕
2025.6.7 蓼科親湯温泉にて

 '04年に小樽で開催された「絵本・児童文学研究センター」主催の文化セミナー「笑い」の記録集で、河合隼雄氏の「児童文化のなかの笑い」、養老孟司氏の「脳と笑い」、筒井康隆氏の「文学と笑い」の3つの講演と、3氏に女優で落語家の三林京子氏が加わったシンポジウム「笑いの力」が収録されています。

 冒頭で河合氏が、児童文学を通して、笑いによるストレスの解除や心に与える余裕について語ると、養老氏が、明治以降の目標へ向かって「追いつけ、追い越せ」という風潮が、現代人が「笑いの力」を失っている原因に繋がっていると語り、併せて「一神教」の考え方を批判、このあたりは『バカの壁』('03年)の論旨の延長線上という感じで、筒井氏は、アンブローズ・ビアスなどを引いて、批判精神(サタイア)と笑いの関係について述べています。

 「笑い」について真面目に語ると結構つまらなくなりがちですが、そこはツワモノの3人で何れもまあまあ面白く、それでも、錚錚たる面子のわりにはややパンチ不足(?)と言った方が妥当かも。 トップバッターの河合氏が「これから話すことは笑えない」と言いながらも、河合・養老両氏の話が結構笑いをとっていたことを、ラストの筒井氏がわざわざ指摘しているのが、やや、互いの"褒め合戦"になっているきらいも。

 人はなぜ笑うのか、宮城音弥の『人間性の心理学』('68年/岩波新書)によると、エネルギー発散説(スペンサー)、優越感情説(ホッブス)、矛盾認知説(デュモン)から純粋知性説(ベルグソン)、抑圧解放説(フロイト)まで昔から諸説あるようですが(この本、喜怒哀楽などの様々な感情を心理学的に分析していて、なかなか面白い。但し、学説は多いけれど、どれが真実か分かっていないことが多いようだ)、河合氏、養老氏の話の中には、それぞれこれらの説に近いものがありました(ただし、本書はむしろ笑いの「原因」より「効用」の方に比重が置かれていると思われる)。

 好みにもよりますが、個人的には養老氏の話が講演においても鼎談においても一番面白く、それが人の「死」にまつわる話だったりするのですが、こうした話をさらっとしてみせることができるのは、職業柄、多くの死者と接してきたことも関係しているかも。

桂枝雀.jpg その養老氏が、面白いと買っているのが、桂枝雀の落語の枕の創作部分で、TVドラマ「ふたりっ子」で桂枝雀と共演した三林京子も桂枝雀と同じ米朝門下ですが、彼女の話から、桂枝雀の芸というのが考え抜かれたものであることが窺えました。桂枝雀は'99年に自死していますが(うつ病だったと言われている)、「笑い」と「死」の距離は意外と近い?

宮城 音弥 『』『精神分析入門』『神秘の世界』『心理学入門[第二版]』『人間性の心理学
宮城音弥 岩波.jpg

《読書MEMO》
養老氏の話―
●(元旦に遺体を病院からエレベーターで搬出しようとしたら婦長さんが来て)「元旦に死人が病院から出ていっちゃ困る」って言うんですよ。それでまた、四階まで戻されちゃいました。「どうすりゃいいんですか」って言ったら、「非常階段から降りてください」と言うんです。それで、運転手さんとこんど、外側についている非常階段を、長い棺をもって降りる。「これじゃ死体が増えちゃうよ」って言って。
●私の父親が死んだときに、お通夜のときですけれども、顔があまりにも白いから、死に化粧をしてやったほうがいいんじゃないかということになったんです。まず白粉をつけようとしたら、弟たちが持ってきた白粉を、顔の上にバッとひっくり返してしまった...
●心臓マッサージが主流になる前は長い針で心臓にじかにアドレナリンを注入していたんですね。病院でそれをやったお医者さんが結局だめで引き上げていったら、後ろから看病していた家族の方が追っかけてきて、「先生、最後に長い針で刺したのは、あれは止めを刺したんでしょうか」

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「ある意味では神様っていいな、と思うこともある」と言っているのが一番のホンネかも。

死の壁.jpg 死の壁2.jpg死の壁 (新潮新書)』〔'04年〕 バカの壁1.jpg 『バカの壁』新潮新書

 テーマが拡散的だった『バカの壁』('03年/新潮新書)に比べると、テーマを「死」に絞っているだけわかりやすく、"語り下ろし"形態からくる論理飛躍みたいな部分は依然あるものの、前著より良かったと思います。ただし本書で主に扱っているのは、著者が言うところの「一人称」「二人称」「三人称」の死のうち、解剖死体に代表される「三人称」の死と、身近な人の死に代表される「二人称」の死ということになるでしょう。

 情報化社会における「人間は変わらない」という錯覚や、死というものが隠蔽される都市化のシステムについての言及は、本書が『バカの壁』の続編であることを示しています(そんなこと、タイトルを見れば一目瞭然か)。

 日本人の死生観に見られる「死んだら皆、神様」のような意識を「村の共同体」原理で説明しています。このことから、靖国問題や死刑制度へ言及するところが著者らしいと思いました。確かに中国の故事には、墓を暴いて死者に鞭打ったという話があります(戦国時代に呉の伍子胥(ごししょ)が平王の墓を暴いて死体を粉々になるまで鞭打った)。日本の場合、生死がコミュニティへの入会・脱会にあたり、全員が「あんな奴はいない方がいい」となれば村八分は成立しやすく、死刑廃止論者は少数派となると。大学なども、こうしたコミュニティの相似形で、入るのが難しいのに出るのは簡単。それでも○○卒という学歴が生涯つきまといます。

 人体の細胞の新陳代謝を、毎年新入生が入って卒業生が出て行く「学校」に喩えているのがしっくりきました。「私」というのも、こうしたシステムの表象に過ぎず、移ろっていくのだ...と思い読み進むうちに、著者自身の幼年時の父の死に対する心情推移の精神分析的解釈があり、ここで精神分析が出てくるのがそれまでの流れから見て唐突な印象ではありましたが、自身にとっての「二人称」の死に対する思いが吐露されています。「一人称」の死は自分で見ることができないので考えても意味がないという立場ながらも、「ある意味では神様っていいな、と思うこともある」と言っており、これが一番のホンネかも。

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自らの人生の節目となった経験と併せて語る分、わかりやすい。

運のつき.jpg 『運のつき 死からはじめる逆向き人生論』['04年/マガジンハウス] 運のつき 新潮文庫.jpg運のつき』新潮文庫['07年]

 『死の壁』('03年/新潮新書)とほぼ同時期に刊行された人生論的エッセイですが、個人史を現在から遡りつつ、「死」や「世間」について語っていています。自らの思考方法の形成過程を、人生の節目となった経験と併せて述べているのがわかりやすく("内容"より"人物"がわかったということかも知れませんが)、『バカの壁』『死の壁』を読み解く上で参考になる部分もありました。

 東大助手時代に起きた大学紛争に戦争中の雰囲気を感じ、全共闘の闘士のその後の変遷に対して、紛争後も自分なりに総括しようとした立場から、厳しい批判をしています。戦争(非日常)か飯(日常)か、という選択で、著者は「飯」を選ぶ。それは、「死体の引き取り」ということに象徴される、平凡な方法を積み重ねることを重視する考え方でもあります。

 科学者がデカルトの心身二元論を批判するのに対し、自分も二元論者であるとして一元論の危うさを説き、「我思う、ゆえに我あり」とは、自己意識そのものを指していているのだと。自分の考え方が仏教の唯識論に近いと認めています。

 自らの人生を「所の得ない」人生だったとしています。氏は、本書刊行後のあるインタビューでは、「自分が宇宙人みたいでね」と言って『火星の人類学者』という本の自閉症者に自分を準えていました。
 
 哲学者サルトルは、子どもの頃から世の中が"借り物"のような気がいつもしていたそうで、それは父親を2歳で失ったことに起因するのではと自己分析していますが、氏の「世間」というものに対する感受性も、同じようなところに起因するのではないかと思ったりしました。

 【2007年文庫化[新潮文庫〕】

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「バカの壁」のベースにある著者のスタンスのようなものは窺えるが、「哲学」と言うより「エッセイ」か。
まともな人.jpg 『まともな人 (中公新書)』〔'03年〕こまった人.jpgこまった人 (中公新書)』〔'05年〕
イラスト:南伸坊
0 『まともな人』イラスト.jpg 雑誌「中央公論」に連載された養老氏の時評エッセイ「鎌倉傘張り日記」の2001年1月号〜2003年9月号の掲載文を収録したものです。氏の好きな昆虫標本作りを浪人の「傘張り」に喩え、こうした「日記」の先達として兼好法師を挙げていますが、半分隠居した身で、世評風の日記を"諦念"を滲ませながら書いているところは通じるところがあるかも知れません。

 「時評」と言っても、世の中で「あたりまえ」とされている固定観念の根拠の脆弱さを具体的に解き明かすために、三題噺のネタのような感じで世事をとりあげているので、批評の対象は「社会」ではなく、むしろ「社会」を受け入れている現代人のものの考え方にあるようです。ですから「社会批評」を期待して読むと肩透かしを食いますが、ベストセラーとなった『バカの壁』('03年/新潮新書)のベースにある著者のスタンスのようなものは窺えるかと思います。
  
 本書自体は『バカの壁』より後の刊行ですが、掲載文の大半は『バカの壁』の爆発的ヒットの前に書かれたものです。本書の続編『こまった人』('05年/中公新書)が「中央公論」2003年6月号〜2005年10月号掲載文を収録しているということで、こちらはほぼ"『バカの壁』以後"という見方ができるかと思いますが、その『こまった人』においても特に著者のスタンスに変化はなく、しいて言えば『こまった人』の方が、自分が過去に受けた処遇に対する恨み節や、世間に対するシニカルな見方、老境における諦念のようなものが強くなってきていて、「そんなことはどうだっていいか」みたいな締めで終わる文書も多く、より"自分寄り"な感じがします。

 そのためか、本書は最初、中公新書のジャンル分けで「哲学・思想」に入っていたのに、『こまった人』が刊行されると、"好評「養老哲学」第2弾"と銘打ちながらも、両方とも「エッセイ」にジャンル分けされているようです(確かに「哲学」と言うより「エッセイ」か)。

 『まともな人』...【2007年文庫化[中公文庫〕】/『こまった人』...【2009年文庫化[中公文庫〕】

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わかったような、わからないようなという印象。だから、次々と"続編"に手をだしてしまうのか?

バカの壁1.jpg バカの壁2.jpgバカの壁 (新潮新書)』〔'03年〕唯脳論 (ちくま学芸文庫).jpg唯脳論 (ちくま学芸文庫)』〔'98年〕

 2003(平成15)年・第57回「毎日出版文化賞」(特別賞)受賞作。

 まえがきで数学という学問を引き合いに、誰もが最後にはこれ以上はわからないという壁にぶつかり、それが言わば「自分の脳」であると。つまり「バカの壁」は万人の頭の中にあるということを述べています(フムフム)。一方、本文は、これに呼応するように、「話せばわかる」というのは大嘘であるという話で始まりますが(もう諦めろ、放っておけ、ってことか?)、こうした切り口の鮮やかさが、上司など自分の身近にいる人とのコミュニケーションの齟齬にイライラしている人に受けたのかも知れません。でも、このまえがきと本文の繋げ方は、所謂 over-generalization(過度の一般化)気味のような気がし、この本は、こうした切り口の鮮やかさで論理を韜晦させているのではないかと思われる部分も、結構あるように思いました。
 
 話題は認知心理学や脳科学、教育論や日本人論と駆け巡り、個々の論点はまあまあ面白かったのですが、著者の他のエッセイなどで既に述べられていることも多いです。最後は再び、「話せばわかる」といった姿勢は一元論にはまり、強固な壁の中に住むことになるという警句で終っています。

 認知心理学的な話から「唯識論」的な話へいくのかと思いきや、途中から、一種の「教養論」を展開しているようにも思え、論旨が掴みにくいのですが、簡単に言ってしまえば、この「バカの壁」を意識するということは、ソクラテスの「無知の知」とほぼ同じではないかという気もしました。そう考えると、特に目新しい『唯脳論』.JPGことを言ってるわけではないと..。特に、以前に著者の『唯脳論』を読んだ経験からすると(硬軟の差はあるが、話の展開自体はやや似ている)。本書の結語的に著者が批判している一元論や原理主義というのは、「無知の知」の「知」が欠落し、要するに「無知」の状態にあるということ。ただし自分たちはそのことに気付かないということなのでしょう。

 著者の『唯脳論』では、この世界を理解しようとする際には、必ず"自分の脳"というものが介在するのであって、相対性理論のような科学的理論でさえも脳が作ったものであり、「脳はそれを世界に押しつけようと試みる。脳はその法則を自然から引き出すのではなく、その脳の法則を自然に押しつけるのである」といったことが説かれていて、なるほどなあと思わされました。つまり、真理は外部にあるのではなく、脳の中にあるということであって、「われわれの外部にはある規則性がある。その規則性をわれわれに理解できる言葉、すなわち脳の規則性に合致した表現で表したものを真理と呼ぶ」と。

 心は脳の構造作用であり機能なのであるが、人間が「構造」と「機能」を分けて考えること自体が、我々の脳がそのような見方をとるように構築されているからである、という見方はなかなか面白かったですが、なぜ脳という"構造"から"意識"という機能が生まれるのか、ということよりも、脳が脳について考えるということはどういうことなのか、を考察した本と言えたかも。但し、個人的には、そのあたりが若干もやっとしたまま、後半の文明について触れている箇所に読み進むことになってしまいました。そして最後は、文明とは脳化であり、脳化した社会は身体を禁忌とするが、脳も身体の一部であるのに、脳から身体性を排除するという極端なことが現在の日本では起きているという結語に至って、やや社会批評風の結末だったかなあと。

 本書については、「語り下ろし」であるということでの、そのあたりのもやもや感をある程度スッキリさせてくれるかと期待しましたが、読みやすさほどには、内容そのものはわかりやすくはないという感じがしました。個人的には『唯脳論』の前半から中盤にかけてのテーマを掘り下げないうちに、社会批評に行ってしまっている感じがするとともに、『唯脳論』を読んだ際に感じた論理の飛躍のようなものが、本書では「語り下ろし」というスタイルを取ったがために、より甚だしくなっている印象も。結果的に、正直、本書についても、わかったような、わからなかったような、という部分が多く心に残ったという感じ。だから、次々と出される"続編"に手をだしてしまうのか? 或いは、『唯脳論』が完全に理解できないと、あとは著者のこの手の本を何冊読んでも、完全な理解はできないということなのか(本書自体も『唯脳論』の続編乃至は解説編と言えるかも)。
 
 『唯脳論』...【1998年文庫化[ちくま学芸文庫]】

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人間とは何か。それは脳と遺伝子に尽きる!(養老孟司)

脳+心+遺伝子VSサムシンググレート 2.jpg脳+心+遺伝子.jpg              脳とサムシンググレート 5次元文庫.jpg
脳+心+遺伝子VS.サムシンググレート―ミレニアムサイエンス 人間とは何か』('00年/徳間書店)/『脳とサムシンググレート』 ['09年/5次元文庫(徳間書店)]

 村上和雄(分子生物学)・茂木健一郎(脳科学)・養老孟司(解剖学)の3人の学者の遺伝子・心・脳などについての自説展開と対談をまとめたもので、何だか全員の考えを取り込んだようなタイトル。

 村上氏が遺伝子以外の情報で遺伝子のスイッチがON/OFFとなると言っているのは今や通説です。
 ただ、その遺伝子を支配するものを〈サムシンググレート〉としていることに対して、養老氏は、神を考えたがるのは人間の脳の癖だと冷ややか(?)。
 茂木氏の〈クオリア説〉にも、養老氏は「皆さん、これ納得できる?」みたいな感じです。
 人間を神経系(脳)と遺伝子系という2つの情報系に分けて捉える養老氏の考えが、比較的すっきりしているように思えました。

 随所に興味深い話が多く、公務員であるため上限規制があるという国立大学の学長の給料の話(独立行政法人化され事情は変わった?)なども個人的にはそうだったのですが、話題を拡げすぎて全体にまとまりを欠いた感じもします。

《読書MEMO》
●村上和雄(分子生物学者・筑波大名誉教授)...サムシンググレート(遺伝子を支配している何かがある)。遺伝子以外の情報で遺伝子のスイッチがON/OFに。
●茂木健一郎(脳科学者)...クオリア(脳という物質になぜ感覚が宿るか?)
●養老孟司...人間は神経系(脳)と遺伝子系(免疫系など)の2つの情報系を持つ。当面は2つは違うものとすべき。ヒトゲノムや遺伝子操作の研究は、実は「脳一元論」「脳中心主義」。脳は脳に返せ。
●〔養老〕サムシンググレートは神の類似概念。それを考えるのは「脳のクセ」
●〔村上〕東大や京大の学長の給料なんて知れている。公務員だから(135p)
●〔茂木〕永井均、池田晶子が面白い(242p)
●〔養老〕人間とは何か。それは脳と遺伝子に尽きる(330p)/脳は遺伝子が作ったが、遺伝子から独立しかかっている(338p)

 【2009年文庫化[5次元文庫(『脳とサムシンググレート』)]】

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養老氏と第一線で活躍する若手研究者らとの"学際的"対談。

養老孟司 ガクモンの壁.jpg 『養老孟司 ガクモンの壁 (日経ビジネス人文庫)』 〔'03年〕 養老孟司・学問の格闘.jpg 『養老孟司・学問の挌闘―「人間」をめぐる14人の俊英との論戦』 〔'99年〕

 「日経サイエンス」に'97年から'99年にかけて連載された養老氏と第一線で活躍する若手研究者らとの対談をまとめた『養老孟司・学問の格闘』('99年)の文庫化。
 『バカの壁』('03年/新潮新書)がヒットしたのでこんなタイトルにしたのだろうけれど、考古学、文化人類学、行動遺伝学、心理学など人文科学系のテーマを含む14編が収められていて、確かに"学際的"です。

 「人はなぜ超常現象を信じるのか」とか、色んなことを研究している人がいるなあと思いました。
 でも、詰まるところ「心と脳」の話に収斂されているのではという感じもします。
 『平然と車内で化粧する脳』('00年/扶桑社)澤口俊之氏や『ケータイを持ったサル』('03年/中公新書)正高信男氏など、後にベストセラーを出すことになる研究者との対談もあります。 

 本書は脳科学など自然科学・医学系の研究の紹介が主となっていますが、その中ではやや異色な冒頭の2つ、ネアンデルタール人の研究をしている奈良貴史氏との対談と、古代アンデス文明の研究をしている関雄二氏との対談が、それぞれにとてもロマンがあって、個人的には良かったです。
 
 ネアンデルタール人が現代人とある期間共存していたというのは面白い、それも何万年ものかなり長い期間。 
 これが今や主流の学説とのことです。しかも、争いなく暮らしていたらしい?
 
 アンデスの標高2200メートルにある〈クントゥル・ワシ遺跡〉というのも本当に不思議です。
 アンデスで神殿が造られたのは紀元前2500年頃だというから、その後のアンデス文明の停滞ぶりなどに照らしても(自らの文明の歴史を記すための"文字"すら見つかっていない)、宇宙人飛来説が出てくるのも無理ないかもと思ったし、もしかして本当に...?。
 
 何れの対談もよくまとまっていて密度が高いけれど、自分が関心あるテーマについては、紙数上やや物足りない感じもしました。

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先端科学からオウム真理教まで。さらっと読める「科学」とその現況。

脳が語る科学.jpg脳が語る科学―養老孟司対談集』 脳が語る身体.jpg脳が語る身体―養老孟司対談集

 '99年に同時出版された対談集『脳が語る身体』と対になっています。両方とも対談相手は学者が多いのですが、さらっと読め、かつ先端科学からオウム真理教やもののけ姫まで、広汎な話題で楽しませてくれます。

 鼎談も一部あり、佐藤文雄氏(物理学)が地震は予知できないと言えば、中村雄二郎氏(哲学)がアメリカではそれが常識である、と。ではなぜ日本人はできると思っているのかといったところから、「科学する」ということと「科学」の置かれている現況に踏み込んでいきます。

 確かに、地震予知が高い精度で可能ならば、今度はその結果に対する対応とかが大変なのでしょう。大地震発生後の地震予知連絡会の会見は、結局自分たちにも先のことはわからないと言っているようにも聞こえるし、日本でも予め、地震予知の困難さを暗示しているようにも思えますが...(アメリカの場合は、そんな分からないことに使う予算があるのならば、その分、竜巻の予報(予知ではない)の方に回すのだろう)。

 安西祐一郎氏(認知科学)がロボットに苦手なことは何かを通して語る人工知能の話、多田富雄氏(免疫学)の人間観、個とは行動様式であるという話と、養老氏の「現実」とはバーチャルであるという話は面白かったです。

 「尊師が水中に1時間いるので立ち会ってください」と医学生(たぶん東大生)に言われた養老氏の話には、学校で教える「科学」って何なの?と考えさせられます。

 姉妹版『脳が語る身体』もお薦めです。

《読書MEMO》
●佐藤文隆...地震予知が不可能なことは皆知っている。わかったら後が大変。
●中村雄二郎...アメリカでは地震予知は不可能と言いきっている。
●安西祐一郎...ロボットにとって難しいことは「推論」(コップを取って来いの例)
●養老...麻原が水の中に1時間いるのに立ち会って下さいと医学生に言われた
●多田富雄...「独座観念型」と「キーボード拡散型」
●養老...人間の考えている現実はすべてバーチャル・リアリティ(東京に住んでいれば自然はどこにもない、脳をいじれば現実は変わる)
●養老...高齢化問題は田舎では以前から起きている

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