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ガン治療の最前線を追いかけながら、自身は検査・治療、リハビリを拒否、QOLの方を選んだ。

『死はこわくない』['15年] 立花 隆(1940-2021)
自殺、安楽死、脳死、臨死体験。 長きにわたり、人の死とは何かを思索し続けた〈知の巨人〉が、正面から生命の神秘に挑む。「死ぬというのは夢の世界に入っていくのに近い体験だから、いい夢を見ようという気持ちで自然に人間は死んでいくことができるんじゃないか」。 がん、心臓手術を乗り越えた立花隆が、現在の境地を率直に語る―。
今年['21年]4月30日、急性冠症候群のため80歳で亡くなった(訃報は6月23日になって主要メディアで報じられた)立花隆による本です。
第1章「死はこわくない」は、「週刊文春」に'14年10月から11月にかけて3回にわたり連載された編集者による訊き語りで、「死」を怖れていた若き日のことや、安楽死についてどう考えるか、「死後の世界」は存在するか、「死の瞬間」についての近年の知見、体外離脱や「神秘体験」はなぜ起こるのか、自らががんと心臓手術を乗り越えて今考える理想の死とは、といったようなことが語られています。
第2章「看護学生に語る『生と死』」は、これから患者の死に立ち会うであろう看護学生に向けてリアルな医療の現場を語った'10年の講演録で、人は死ぬ瞬間に何を思うか、難しいがん患者のケア、長期療養病棟の現実、尊厳死とどう向き合うか、などについて述べています。また、その中で、キューブラー=ロスの『死ぬ瞬間』など、人間の死や終末医療に関する本を紹介しています。
Elisabeth Kübler--Ross
第3章「脳についてわかったこと」は、月刊『文藝春秋』'15年4月号に掲載された「脳についてわかったすごいこと」を加筆・修正したもので、NHKの科学番組のディレクターの岡田朋敏氏との脳研究に関する対談になっています。
というわけで、寄せ集め感はありますが、第1章は「死」に対する現在の自身の心境(すでに死はそう遠くないうちに訪れると達観している感じ)が中心に語られ、延命治療はいらないとか、自分の遺体は「樹木葬」あたりがいいとか言っています。章末に「ぼくは密林の象のごとく死にたい」という'05年に『文藝春秋』の「理想の死に方」特集に寄港したエッセイが付されていますが、このエッセイと本編の間に約10年の歳月があり、より死が身近なものになっている印象を受けます。

第2章の看護学生に向けての講演も、第1章に劣らす本書の中核を成すものですが、内容的には著者の『臨死体験』('94年/文芸春秋)をぐっと圧縮してかみ砕いた感じだったでしょうか。ただ、その中で、検事総長だった伊藤栄樹(1925-1988)の『人は死ねばゴミになる―私のがんとの闘い』('88年/新潮社)といった本などの紹介しています。学術分野で言えば、第2章は脳科学であるのに対し、第3章は大脳生理学といったところでしょうか(著者は、'87年にノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進へのインタビュー『精神と物質―分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか』['90年/文藝春秋]など早くからこの分野にも関わっている)。
また、この中で、「NEWS23」のキャスターで73歳でガンで亡くなっただった筑紫哲也(1935-2008)のことに触れられていて、ガン治療に専念するといって番組を休んだ後、ほぼ治ったと(Good PR)いうことで復帰したものの、2か月後に再発して再度番組を休み、結局帰らぬ人となったことについて(当時まだ亡くなって2年しか経っていないので聴く側も記憶に新しかったと思うが)、「Good PR」はガンの病巣が縮小しただけで、まだガンは残っている状態であり、これを「ほぼ治った」と筑紫さんは理解してしまったのだとしています。かつては、病名告知も予後告知もどちらも家族にするのが原則でしたが、最近は本人に言うのが原則で、ただし、予後告知とか、どこまで本人がきちんと理解できるような形でお行われているのか、或いは、詳しくは言わない方がいいという医師の判断が働いていたりするのか、考えさせられました。
それにしても、著者は、こうしたガン治療の最前線を追いかけながら、自分自身は大学病院に再度院したものの、検査や治療、リハビリを拒否し、「病状の回復を積極的な治療で目指すのではなく、少しでも全身状態を平穏で、苦痛がない毎日であるように維持する」との(QOL優先)方針の別の病院に転院しています。病状が急変したとき、看護師のみで医師が不在だったらしく、その辺りがどうかなあというのはありますが、あくまでも本人の希望がそういうことだったならば...(これも本人の希望に沿って、樹木葬で埋葬された)。
このことから思うのは、著者の〈知〉の対象は、あくまでも〈対象〉であって、その中に著者自身は取り込まれていない印象を受けます。もちろん「QOL優先」については、テレビ番組の取材などを通して放射線や抗ガン剤治療が患者のQOLを下げた上に、結局その患者は亡くなってしまったといった例も見てきただろうから、その影響を受けている可能性はあるし、「QOL優先」自体が「たガン治療の最前線」のトレンドと言えなくもないですが。
かつての『田中角栄研究』にしても、当時は「巨悪を暴いた」みたいな印象がありましたが、本人は田中角栄という人物の編み出した金権構造に、システムとしての関心があったのではないかと思います。だから、『脳死』とか『サル学の現在』とか、別のテーマにすっと入っていけたのではないかと、勝手に推測しています。
【2018年文庫化[文春文庫]】




医師国家試験受験後、合否判定を待ちつつ東城大学医学部付属病院の研修医となった世良雅志。佐伯清剛教授を頂点とする総合外科学教室(通称・佐伯外科)に入局した世良は、入局から3日目、帝華大学からやってきた新任の講師・高階権太と遭遇する。高階は食道自動吻合器「スナイプAZ1988」を引っ提げ、手術の在り方、若手の育成に一石を投じて波紋を呼び、総合外科学教室の秩序を乱す言動と相まって周囲からの反感を買っていた。また「佐伯外科」には「オペ室の悪魔」と呼ばれる万年ヒラ医局員の渡海征司郎がおり、世良は高階や渡海との関わりの中で医師として成長していく―。
「ブラックペアン』のタイトルで、2018年4月から6月までTBS「日曜劇場」枠で10回にわたって放送され、主演は日曜劇場で初主演の嵐の二宮和也でした。世良の役かと思ったら渡海役でした。個人的には、佐伯教授を演じた内野聖陽の方が渡海役に向いていて、佐伯教授は、かつて「白い巨塔」の映画版でもドラマ版でも「東教授」を演じた中村伸郎みたいなタイプの役者がいいのではないかと思いましたが、今そういう人はいないか...。高階講師などは片岡愛之助などが個人的イメージですが、ドラマでは小泉孝太郎で、全体に配役が若かったようです(二宮和也や小泉孝太郎は医師に見えたのかなあ)。
ドラマの方は観てはいないですが、時代が今に置き変わっていて、物語で佐伯教授が「おもちゃ」と
呼んだ食道自動吻合器「スナイプ」に代わって登場したのが、「ダーウィン」(ドラマ内の名称)という心臓僧帽弁置
換器で、これは所謂「手術支援ロボット」であり、ミリ単位の精密な操作が可能なものです。このロボットは、現実の医療現場でもすでに活躍していて、正式名称は「ダビンチ」(da Vinci)といい、前立腺がんなどですでに多くのダビンチ手術が行われています。大病院でも1台くらいしかない高価なロボットですが、ドラマでは医療機関から本物のダビンチを借り、セット持ち込みで撮影し、「ダビンチがドラマ史上初めて登場」と話題になったようです(作中では米粒に文字を書くシーンなども展開されたとのこと)。
「ダビンチ手術」は、近年では、 指揮者の小澤征爾なども受けた経カテーテル的大動脈弁留置術(TAVI=タビ)と並んで、最先端医療の目玉とされているようです(2016年にタレントの西川きよしが「ダビンチ」を使って前立腺を取り除く手術をしている)。そして、「TAVI」もそうですが、2018年から多くの術目で保険適用となった「ダビンチ」についても「ロボット手術数」として施術数を競い合ってる病院もあるようです(「TAVI」も2013年から保険適用になっている)。

フランスの北端アンブリコート(パ・ド・カレー)に赴任した若い司祭(クロード・レデュ)は、胃の不調を感じながらも、初
めての司祭としての仕事に純粋な覇気を奮起させ、日記を綴り始める。頑迷で不信心な村民の言動に戸惑いながら、領主である伯爵(ジャン・リヴェール)の協力を取り付け、トルシーの先輩司祭(アンドレ・ギベール)の助言を受けながら奮闘する若い司祭は、次第に村に蔓延している"神の存在への疑問"に対峙することになる。エネルギッシュだが世俗の不道徳に塗れた伯爵、現実の興味に比べて神など遠い存在の利発な若い娘セラ
フィタ(マルティーヌ・ルメール)、父親と家庭教師の女性ルイーズ(ニコル・モーリー)の不倫を知って悪意に心を占められている伯爵令嬢シャンタル(ニコール・ラドミラル)、夫の不倫と愛息の死によって神を呪うようになった伯爵夫人(マリ=モニーク・アルケル)。真摯に神を信仰する司祭をからかうことで不遇な日々の鬱憤晴らしをする村人たち。そうした村人たちとの会話や葛藤においても揺らぎない神への信仰を堅持する司祭だったが、真面目過ぎる信仰活動が村人から疎まれ、彼の健康も悪化の一途を辿っていく―。




しかしながら、キリストではなく一青年にすぎないこの若い司祭の苦悩と苦闘には一体どういう意味があったのか、本当に無意味だったのか、後に何か残ったのか、考えずにはおれない作品でした。ただ一つの救いは、夫の不倫と息子の死によって神を呪うようになった伯爵夫人(夫人役はサラ・ベルナールの愛弟子であった名女優マリ=モニーク・アルケル。因みにこの伯爵夫人や先輩司祭は本物の俳優が演じている)の告解を聴き、その魂を解き放ったかに見えたこととでしたが、その夫人も自殺してしまって無に帰し、それどころか、夫人が亡くなったのは司祭のせいであるというふうに村人からは見られてしまうという、しかも、自分が胃癌に冒されていることが発覚するし、この監督、「バルタザールどこへ行く」や「少女ムシェット」もそうでしたが、主人公をどこまで苛めれば気が済むのかと思ってしまいます。でも、この徹底ぶりがブレッソン監督であり、「聖」と「俗」のせめぎ合いともいえる重いテーマですが、それを"淡々と穏やか"に描いているところがスゴイと言えばスゴイと思います。
「田舎司祭の日記」●原題:JOURNAL D'UN CURÉ DE CAMPAGNE●制作年:1951年●制作国:フランス●監督・脚本:ロベール・ブレッソン●撮影:オンス=アンリ・ビュレル●原作:ジョルジュ・ベルナノス●時間:115分●出演:クロード・レデュ/アンドレ・ギベール/ジャン・リヴィエール/マリ=モニーク・アルケル/ニコール・ラドミラル/ニコール・モーリー/アントワーヌ・バルペトレ/マルティーヌ・ルメール●日本公開:2021/06●配給:コピアポア・フィルム●最初に観た場所:新宿・シネマカリテ(21-06-29)(評価:★★★★)

大工の息子ではあったが大工仕事よりもラテン語の勉強に身を入れるジュリアン・ソレル(ジェラール・フィリップ)は、シェラン僧院長(アンドレ・ブリュノ)の推薦でヴェリエエルの町長レナール侯爵家の家庭教師となった。レナール夫人(ダニエル・ダリュー)はいつしかジュリアンに愛情を抱くようになったが、ジュリアンとの逢瀬が重なるにつれ次第に後悔し、子供が病気になったとき、夫人は自分の非行を天が罰したのではないかと考えるようになった。世間の口も次第にうるさくなって来たころ、ジュリアンは心を決めてかねての計画通り神学校に向けて出発した。ナポレオン戦争直後のフランスでは、僧侶になることが第一の出世道だったのだ。しかし、神学校でも、ジュリアンは、平民に生れた者の持つ反逆の感情に悩まねばならなかった。ピラール僧院長(アントワーヌ・バルペトレ)はジュリアンの才気を愛してい
たが、同時に彼の並ばずれて強い野心を心配していた。僧院長がラ・モール侯爵(ジャン・メルキュール)に招かれてパリに行くときジュリアンも同行してラ・モール侯爵の秘書となったが、ここでも上流社会からの侮蔑の目が彼に注がれた。ジュリアンはその復讐に、侯爵令嬢マチルド(アントネラ・ルアルディ)と通じ、侯爵令嬢をわがものと
した優越感に酔った。二人の結婚を認めねばならなくなった侯爵は、レナール夫人にジュリアンの前歴を照会した。夫人は聴問僧に懺悔したと同じく、ジュリアンを非難し、自分との関係を暴露した返事をよこした。これを読んでジュリアンは激怒し、夫人をピストルで傷つけた。法廷に立ったジュリアンはあらゆる弁護を拒絶した。彼はこの犯行が貴族への復讐心から出たものではなく、彼女への恋から発していることを悟った。獄舎に訪れて心から許しを乞う夫人との抱擁に満足しつつ、ジュリアンは絞首台の人となる―。
映画は、分かりやすく作ってあると思いました。「赤と黒」の意味するところなどは極々説明的に撮られていましたが、原作には何ら説明は無かったのではないでしょうか(実際は当時のフランス軍の軍服は青色だったとのことだし)。ただ。やはり原作を読んでいないとストーリー的に理解に苦しむ場面も少なからずあるようにも思いました。それでも、原作をまずまずはなぞっています。原作の2度目の映画化作品で、フランス映画としては初でしたが、こうした堂々とした大作が作られてしまうと、リメイク作品はちょっと作りにくいのかもしれません(1997年にフランスでTVドラマとしてジャン=ダニエル・ヴェラーゲの監督で再び映像化され、NHK(BS)でも放送、後にDVDも発売された)。
ただし、原作を読んから観るとやはり物足りないと言うか、少しだけ軽い感じがします。当時31歳のジェラール・フィリップが主人公ジュリアン・ソレルの18歳から23歳までを演じていることもあって、大工の息子時代の彼は描かれておらず、映画が始まって30分でダニエル・ダリュー演じるレナール夫人との出会いがあるのは、かなり駆け足気味という印象です(映画全体の長さは3時間12分)。因みに、'97年のTVドラマ版では、大工見習時代のジュリアン・ソレルが描かれていて、非常におどおどした自信無さげな様子は、原作に忠実かと思われました(ドラマ版の長さは3時間20分)。
原作には、ジュリアン・ソレルが最初は自分の出世のためにレナール夫人を自らの手中に収めようとするものの、相手の自分への愛情を得たばかりでなく、次第に彼自身が本気で夫人を愛するようになっていく過程が、心理小説として丹念に描かれているのですが、映画では、そのあたりが駆け足気味だったでしょうか。侯爵令嬢マチルドに対しても同じで、ジュリアン・ソレルはマルチドを最初は自身の出世に利用するつもりだったのですが、次第に...。これが映画だと展開が早すぎて、ジュリアン・ソレルが単に惚れやすい男にも見えなくもないです。それでも、ジェラール・フィリップは美貌のみならず演技力を兼ね備えた俳優であり、彼なりのオーラのようなものは発していたと思います。

それと、この作品は美女映画としても楽しめました。レナール夫人を演じたダニエル・ダリューも美人であれば、侯爵令嬢マチルドを演じたイタリア女優のアントネラ・ルアルディも綺麗で(これだと、ジュリアンがそれぞれと恋に落ちるのも無理はないか)、レナール家の小間使でジュ
リアンに想いを寄せるエリザを演じたアンナ・マリア・サンドリ(彼女もイタリアの女優)までもが、今風の美女でした(この小間使エリザのジュリアンへの思慕は、原作以上に強調されていて、エリザの出番もかなり多い)。

因みに、TVドラマ版でジュリアン・ソレルを演じたキャロル・ブーケも美男子で、実年齢でジュリアン・ソレルよりずっと上だったジェラール・フィリップよりは原作に近いかも(ジェラール・フィリップのようなオーラはないが)。レナール夫人を演じたキム・ロッシ・スチュアートも、マチルドを演じたジュディット・ゴドレーシュもこれまた美人。特にキム・ロッシ・スチュ
アートはモデル出身の女優ですが、堂々とした印象すらあります(ジュリアン役のキャロル・ブーケより上にクレジットされている。キャラクター的にはダニエル・ダリュー演じる夫人の方が原作に近いか)。こちらもまた、展開が速く原作を読んでいないとよく理解できない部分もありますが、映画版よりは淡々と物語に沿って作られている印象もあり、DVDで一気に観るというより、2夜に分けて観るのがちょうどよいといった感じのものでした(NHKの放送が2夜に分かれていた)。フランスでのテレビ放送時は、視聴率が30%を超える大ヒットとなったとのことで、名作のTVドラマ版としては立派な出来だと思います。
「赤と黒」●原題:LE ROUGE ET LE NOIR●制作年:1954年●制作国:フランス・イタリア●監督:クロード・オータン=ララ●製作:アンリ・デューチュメイステル/ジャ
ンニ・ヘクト・ルカーリ●脚本:ジャン・オーランシュ/ピエール・ボスト●撮影:ミシェル・ケルベ●音楽:ルネ・クロエレック●原作:スタンダール「赤と黒」●時間:192分(完全版)●出演:ジェラール・フィリップ/ダニエル・ダリュー/アントネッラ・ルアルディ/アンドレ・ブリュノ/アントワーヌ・バルペトレ/ジャン・メルキュール/ジャン・マルティネリ/アンナ=マリア・サンドリ/ミルコ・エリス/ピエール・ジュルダン/ジャック・ヴァレーヌ●日本公開:1954/12●配

「赤と黒(TV-M)」●原題:LE ROUGE ET LE NOIR●制作年:1997年●制作国:フランス・イタリア・ドイツ●監督:ジャン=ダニエル・ヴェラーグ●原作:スタンダール「赤と黒」●時間:200分●出演:キム・ロッシ・スチュアート/キャロル・ブーケ/ベルナール・ヴェルレー/モーリス・ガレル/リュディガー・フォーグラー/ジュディット・ゴドレーシュ/フランチェスコ・アクアローリ/クロード・リッシュ●日本放送:2001/08・09●放送局:NHK-BS(評価:★★★★)


ラ・モール侯爵の秘書に推薦される。ラ・モール侯爵家令嬢のマチルドに見下されたジュリアンは、マチルドを征服しようと心に誓う。マチルドもまた取り巻きたちの貴族たちにはないジュリアンの情熱と才能に惹かれるようになり、やがて二人は激しく愛し合うようになる。マチルドはジュリアンの子を妊娠し、二人の関係はラ・モール侯爵の知るところとなる。侯爵は二人の結婚に反対するが、マチルドが家出も辞さない覚悟をみせたため、やむなくジュリアンをある貴族のご落胤ということにし、陸軍騎兵中尉にとりたてた上で、レーナル夫人のところにジュリアンの身元照会を要求する手紙を送る。しかし、ジュリアンとの不倫の関係を反省し、贖罪の日々を送っていたレーナル夫人は、聴罪司祭に言われるまま「ジュリアン・ソレルは良家の妻や娘を誘惑しては出世の踏み台にしている」と書いて送り返してきたため、侯爵は激怒し、ジュリアンとマチルドの結婚を取り消す。レーナル夫人の裏切りに怒ったジュリアンは、彼女を射殺しようとするが―。
スタンダールとユーゴーについては、学習院大学名誉教授だったフランス文学者の篠沢秀夫(1933-2017)がその違いを論じていました(篠沢秀夫というと「クイズダービーの豪快な笑いの印象が強いが、時折見せる陰のある表情も個人的には印象にある。彼は、最初の妻を自動車事故で、息子を水難事故で失っている。クイズダービー出演の話を引き受けた理由として、長男を亡くしたのがその2年前の1975年で、当時悶々とした日々を過ごしていたことで、気分転換したかったことがあったからという。晩年の
ALS(筋萎縮性側索硬化症)闘病は壮絶だった)。その篠沢教授によれば(クイズダービーでも"教授"って呼ばれていた)、「スタンダールの小説は筋ははっきりしています。筋を書くだけだったらそれは簡単なんです。ところが、スタンダールの小説はいずれも政治小説という面があるんですね。この面を我々が今日読むと読み飛ばしてしまうんです」(『篠沢フランス文学講義 (1)』('79年/大修館書店))とのこと。なるほど。この小説の中にも、ジュリアン・ソレルが書記を務めたあるサロンの討議で、文学にとって政治とは何かという議論があり、「政治なんて文学の首にくくりつけた石ころみたいなもので、半年もたたぬうちに文学を沈めてしまいますよ」とサロンのメンバーに言わせていますが、これ、わざとだったのかあ。
『異邦人』を最初に読んだ時、これまでのどの小説にも無かった人物造形であることが『異邦人』という小説が注目されることになった最大の要因ではないかと思ったのですが、いま改めて『赤と黒』を読み返してみると、『異邦人』のムルソーのルーツは『赤と黒』のジュリアン・ソレルでないかと思った次第です。そこで、そうした両者が類似していることを論じた人はいないかと調べたところ、海外ではごろごろいるみたい(笑)。日本の研究者にもいて、フランス文学者でカミュ研究者の松本陽正・広島大学教授の「カミュとスタンダール―『異邦人』と『赤と黒』をめぐって」というストレートな論文があり、松本教授はそうした海外の研究者の研究を総括し、自身の見解も述べておられました(松本氏によればカミュが生涯にわたってスタンダールを愛読していたのは間違いないようである)。
『赤と黒』も『異邦人』も物語の終盤は裁判になりますが(スタンダールの父はグルノーブル高等法院の弁護士だった)、ジュリアン・ソレルもムルソーは共に死刑を宣告されます。以下、松本教授の指摘を参照しながらそこに至るまでを振り返ると、犯行においては二人ともある種の錯乱状態に陥ってピストルを発射するという点が共通し、ジュリアン・ソレルの場合、殺意はあったにせよ、レナール夫人が軽症ですんだことや彼自身の悔恨、また、レナール夫人の奔走やマチルドの画策、世間の同情を考えあわせれば、死刑にはなりえなかったはずで、一方、ムルソーの場合も、植民地下のアルジエリアで武装したアラブ人を殺したからといって、死刑にはなりえなかったはずで、光に対する過敏な感覚を訴え、正当防衛を主張すれば、無罪とまではいかないまでも死刑は免れえたはずであり、そうした両者の置かれた微妙な状況がひどく似たものであると言えるかと思います。
