2006年7月 Archives
「●あ行外国映画の監督」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2579】 アニエス・ヴァルダ 「幸福(しあわせ)」
「●ミシェル・ルグラン音楽作品」の インデックッスへ 「●アンナ・カリーナ 出演作品」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
アンハッピーエンドのはずが...。やっぱり"一筋縄ではいかない"アニエス・ヴァルダ。
「5時から7時までのクレオ アニエス・ヴァルダ HDマスター [DVD]」
「5時から7時までのクレオ」ポスター
クレオ(コリーヌ・マルシャン)は売り出し中のポップシンガー。午後7時に、2日前に受けた精密検査の結果を聞くことになっている彼女は、自分がガンではないかと怯えつつ、占い師にタロットで自分の未来を占ってもらう。占い師は、身近な未亡人が面倒を見てくれていること、寛大な恋人がいるがなかなか会えずにいること、音楽の才能があることなど、クレオの過去と現在の状況を正しく言い当て、未来については、病気の兆候があることを告げるものの、そのことについては口を濁して、これから調子のいい若者に出逢うだろうと告げる。しかし、クレオが部屋を出ると占い師は同居の男に「あの子はガンよ。もうだめだわ」と。一方クレオは、カフェで中年女性のアンジェール(ドミニク・ダヴレー)と落ち合う。アンジェー
ルはクレオの生活を管理するマネージャーのような女性。占いの結果を告げて泣くクレオをアンジェールが慰め、気持ちを落ち着けたクレオは帽子店に寄り帽子を選んでいるうちにすっかり機嫌をよくし、アンジェールと共にタクシーで帰路に。車中のラジオからはクレオの歌が流れる。帰宅するとやがて年上の恋人がやってくるが、仕事が忙しいからとすぐに帰ってしまう。入れ替わりにやってきた若い作曲家のボブ(ミッシェル・ルグラン)と作詞家。二人はクレオの新曲について相談とレッスンをしに来たのだった。陽気な二人と楽しそうにしていたク
レオだったが、二人が持ち込んだ新曲「恋の叫び」の暗い曲調と歌詞に心を掻き乱され、レッスンを中断して部屋を出て行ってしまう。クレオはパリの街を彷徨うが心落ち着けることができず、友人のドロテ(ドロテ・ブラン)に会いに行く。美術学校のヌードモデルの仕事を終えたドロテとクレオは、ドロテの恋人ラウルの車で出掛け、クレオは病気への不安をドロテに打ち明ける。二人はラウルが映写技師として働く映画館に行き、映写室の小窓から無声映画のコメディを見て楽しむ。しかし、映画館を出たクレオは
、バッグの鏡を落として割れたのが不吉だとまた不安になる。ドロテと別れたクレオはタクシーでモンスリ公園に向かう。園内を散策していると、アントワーヌという若い男(アントワーヌ・ブルセイエ)が馴れ馴れしく声を掛けてくる。最初鬱陶しく思っていたクレオだったが、次第に話をするようになる。彼は休暇中の兵士で、今夜軍隊に戻り、アルジェリアに向かうという。病気についての不安を打ち明けたクレオが、検査の結果を面と向かって聴くのは怖いので医師に電話をするつもりだと言うと、アントワーヌは一緒に行こうとクレオを誘い、ピティエ=サルペトリエール病院に向かう。病院の受付でクレオは、担当医のヴァリノは既に帰ったと告げられる。クレオとアントワーヌは病院の広い庭を手を繋いで歩き、やがてベンチに腰をかける。そこに一台の車がやってきて二人の前で止まる。運転していたのは帰宅したはずのヴァリノ医師で、彼は「放射線治療は少々きついが必ず治るから心配は要らない。あす11時に来て下さい」と手早く告げると去って行く―。
アニエス・ヴァルダ監督による1962年作品。モノクロ作品ですが、冒頭、タロット占いのシーンのみカラーです。タイトル通り、クレオのある日の5時から7時までをほぼリアルタイム(映画の長さは90分)で描写しています(思えば、占い師の予言は全部当たっていたなあ)。
ラストで、「放射線治療は...」と医師に言われたのが実質「ガン宣告」になるかと思います。従ってアンハッピーエンドのはずなのですが、あれほどガンに怯えてイライラし通しだったはずのクレオの宣告された際の反応が、「私もう怖くないようよ、何か幸福な感じよ」といった感じで明るいので、ええーっと思ってしまいました(この作品を、結局彼女はガンではなかったと勘違いして記憶している人がいたぐらい)。
「幸福(しあわせ)」('65年)もそうですが、観終わった後、もう一度振り返ってみないと経緯が呑み込めない、いわば「一筋縄ではいかない」アニエス・ヴァルダの"本領発揮"(?)といったところでしょうか(自分がただ鈍いだけかもしれないが)。
振り返れば、終盤で戦地アルジェリアに行く青年と出会ったことで彼女の心境に変化があったことは間違いなく、その際の会話を顧みると、以下のような感じでした。
クレオ「今の大きな恐怖は死なの」
兵士「アルジェリアは恐怖でいっぱいです。(中略)無駄死にはしたくない。戦死なんて情けない。僕は女のため、恋のために死にたい」
クレオは、自分以上に切実に死に直面しているかもしれない若い兵士に会ったことで、自身も自らの運命と向き合う決意を固めたとも解せられ、病院からの電話を待つのではなく、直接結果を訊きに(兵士と共に)病院に赴くというその後の行動も、それに符合します。そして、最後は、前向きに病気と闘う決意を表明したといったとことろでしょうか。
音楽のミシェル・ルグランは、クレオに曲を提供する作曲家役でも登場(若い!)、ピアノを弾き、達者な歌も聴かせています(検査結果が気が気でないクレオは、その彼に当り散らすのだが)。
ミシェル・ルグラン
クレオが訪ねる友人の映像作家が作った無声映画の登場人物として、当時結婚して間もないジャン・リュック・ゴダールとアンナ・カリーナが登場、ただし、アンナ・カリーナは白塗りにしていて、ゴダールも若すぎるため、言われなければアンナ・カリーナとゴダールとは分かりません。因みにこゴダールとアンナ・カリーナが結婚していた時期は、1961年3月から1964年12月です。
「5時から7時までのクレオ」●原題:CLEO DE 5 A 7(英:CLEO FROM 5 TO 7)●制作年:1962年●制作国:イタリア・フランス●監督・脚本:アニエス・ヴァルダ●製作:ジョルジュ・ド・ボールガール/カルロ・ポンティ●撮影:ジャン・ラビエ●音楽:ミシェル・ルグラン(主題歌:作詞アニエス・ヴァルダ/作曲ミシェル・ルグラン)●時間:90分●出演:コリーヌ・マルシャン/アントワーヌ・ブルセイエ/ドミニク・ダヴレー/ドロテ・ブラン/ミシェル・ルグラン/(サ
イレント映画のなかの登場人物)ジャン=リュック・ゴダール/アンナ・カリーナ/エディ・コンスタンティーヌ/ジャン=クロード・ブリアリ●日本公開:1963/05●配給:東和●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(21-01-19)(評価:★★★★)
ジャン=リュック・ゴダール/アンナ・カリーナ/エディ・コンスタンティーヌ/ジャン=クロード・ブリアリ
「●さ行の日本映画の監督」の インデックッスへ Prev|NEXT⇒ 【1124】 周防 正行 「シコふんじゃった。」
「●丹波 哲郎 出演作品」の インデックッスへ(「女真珠王の復讐」)「●藤田 進 出演作品」の インデックッスへ(「女真珠王の復讐」)「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ
各エピソードが丁寧に描かれていた。どこまでが「看取り」でどこからが「介護」か。でも、応援のつもりで◎。
『私は、看取り士。わがままな最期を支えます』['18年/佼成出版社]
「みとりし」['19年] 出演:榎木孝明/村上穂乃佳/高崎翔太
つみきみほ/宇梶剛士
交通事故で娘を亡くした定年間際のビジネスマン・柴久生(榎木孝明)。家族ともバラバラになり、喪失感から自殺を図ろうとした彼の耳に聞こえた「生きろ」の声。それは切磋琢磨して一緒に仕事に励んだ友人・川島(宇梶剛士)の最期の声だったと、彼の"看取り士"だったという女性(つみきみほ)から聞かされる。看取り士という職業に興味を持った柴は彼女に訊ね、「医者から余命告知を受けた人が最期をできるだけ安らかに旅立つことが出来るよう手伝いすること」が看取り士の仕事だと知る。5年後、早期退職後セカンドライフの仕事として看取り士を選んだ柴の姿が、岡山県高梁市にあった。地元の唯一の診療所の清原医師(斉藤暁)と連携しながら、小さな看取りステーション「あかね雲」でボランティアスタッフたちと最期の時を迎える患者たちを支えている。そんなある日、新任の医者・早川奏太(高崎翔太)、23才の新人看取り士・高村みのり (村上穂乃佳)が着任してくる。みのりは、9歳の時に母を亡くしたという経験からこの職業を選ぶが、経験が浅く、緊張しながら最初の患者を柴と共に担当する。最初の患者は、「もう病院に戻りたくない」という希望を持つ83才の清水キヨ(大方緋紗
子)。息子 の洋一(仁科貴)は、嫁・千春(みかん)が義母の面倒を見ないということで、柴たちへ依頼をしてきた。日々弱っていくキヨに寄り添う洋一、そして柴とみのり。キヨの最期、柴は洋一を促し母の背中を支えさせるが、みのりは見守ることしかできなかった。みのりは、腎機能が低下して別の病院に転院しなければならないという東條勝治(石濱朗)を初めて一人で担当すること になる。息子は東京で仕事をしているので看護できないが、勝治は「家に帰りたい」と訴えていた。みのりは懸命にケアをし、心を通い合わせるが、ある日クスリの量を間違え、勝治は不眠でベッドから落ちる。自信喪失のみのりに、柴は「ただ黙って聞いて。そして優しく触れて気持ちを受け止めるんだよ」とアドバイスをする。勝治の最期、東京から駆けつけた 息子は「父さんの子供で良かったと思ってるよ」と父に語り掛ける。みのりが初めて看取り士として命のバトンを渡せた瞬間でもあった。乳がんの再発と肺への転移で清原病院に入院している山本良子(櫻井淳子)は、3人の子を持つ母親である。余命いくばく ない彼女の希望もやはり、自宅に帰ることだった。夫・幸平(藤重正孝)は、子3人の面倒を見ながら、妻・良子を献身的に看護していたが、子育てと看護の大変さから柴たちへ相談をしてきた。柴の指導の元、みのりが山本家の母親の最期と向き合う日々が始まる―。
白羽弥仁(しらは みつひと)監督による2019年9月13日公開作で、「おくりびと」('08年)のようなブームになってもおかしくない作品ですが、閉館前の有楽町スバル座(2019年10月20閉館)でのロード公開の後、不運にも間もなくコロナ禍となり、広がりをみせないままになってしまった作品です。最近は関係者の努力により、地域の看取り師などと連携して市区町村での上映会を繰り返しているようで、個人的にも区の施設での上映会で観ました。
柴田久美子・日本看取り士会会長の著書『私は、看取り士』(佼成出版社)がベースとなっており、かねてより柴田氏と親交のあった俳優の榎木孝明が(二人は十数年前に島根県の離島であり、柴田氏が「看取りの家」を開設した隠岐諸島・知夫里島で邂逅したそうだ)、柴田氏のガン告知を受け、彼女の27年間の看取り士としての集大成をしようと決意したことが映画製作のきっかけだとのこと(従って榎木孝明は企画段階から本作に参加してている)。
柴田久美子の直接的なモデルはつみきみほ演じる看取り士と思われますが、榎木孝明が演じる主人公の柴久生という名前から柴田久美子が反映されていることが窺えます(さらに、主人公はラストでがん告知を受けたことが示唆されている)。
「入退院を繰り返しててきた老母」「孤独死した老人男性」「人工透析をやめ自宅に戻った父親」「若くして乳がんとなった3人の子を持つ母」の4つのエピソードの1つ1つが丁寧に描かれ、それらの看取り経験を通して新人看取り士のみのりや新任医師の奏太が成長していくのがいいです。
4つのケースは、当人が病院で死ぬより自宅で死にたいと思っている点で共通しており、実際、病院にいた時より自宅に戻った時の方が元気に。家族と一緒にいられればなおさらのことで、2番目のケースだけ孤独死なのでそうではなかったですが、それ以外のケースでの別れの会話「お母ちゃんありがとう」「お父さんの子供でよかった」「ママ起きて」といった言葉には泣かさます(2番目のような悲惨なケースも敢えて描いているのも意義があると思う)。
主演の1人、村上穂乃佳はオーディション選考1200人の中から選ばれたそうですが、良かったと思うし(その後、奥田裕介監督の「誰かの花」('21年)でも主役の介護ヘルパー役を務めることに。この作品もミニシアター系でしか上映されなかった)、つみきみほ、宇梶剛士などのちらっとしか出てこない俳優の演技もしっかりしていました。劇場で上映しないのかなあ。
因みに、「看取り士」の仕事は、具体的には、どこでどのように最期を迎えるのか、葬儀や墓のことなど、本人の相談に応じ、医療保険、介護保険などの社会資源を充分に使えるようサポートするのが役割で、それに対し「看取り」とは、具体的に死が避けられない状況の人に対し、最期を迎えるそのときまで、食事や排せつの介護といった日常生活のケアをすることで、点滴を打つような医療行為や治療による延命は含まれないものの、「介護」は入ってくるようです(この映画では「本来の意味での看取り士は介護はしない」との前置きのもと、描き方としては「看取り士」に一部「介護」を含め、広く「看取り」の役割を負わせていたように思います。
であるので、どこまでが「看取り」でどこからが「介護」かわかりづらいという問題は孕んでいますが、応援するつもりで◎評価にしました。
「みとりし」●制作年:2019年●監督・脚本:白羽弥仁●製作:高瀬博行/柴田久美子(企画)/榎木孝明(企画)/嶋田豪(企画)●撮影:藍河兼一●音楽:妹尾武●原案:柴田久美子『私は、看取り士』●時間:110分●出演:榎木孝明/村上穂乃佳/高崎翔太/斉藤暁/つみきみほ/宇梶剛士/杉本有美/松永渚/大地泰仁/白石糸/大方斐紗子/仁科貴/みかん/堀田眞三/片桐夕子/石濱朗/西澤仁太/金山一彦/藤重政孝/櫻井淳子●公開:2019/09●配給:アイエス・フィールド●最初に観た場所:サンパール荒川(23-11-23)(評価:★★★★☆)
「●アキ・カウリスマキ監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2559】 エリア・カザン 「草原の輝き」
「●「カンヌ国際映画祭 審査員賞」受賞作」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
「労働者3部作」に続くシリーズ第4作。「格差の最も無い国」にある"格差"。競争社会の外にいる人々への暖かい視線。
「枯れ葉」アルマ・ポウスティ/ユッシ・バタネン
アンサ(アルマ・ポウスティ)はヘルシンキのスーパーマーケットで働く独身女性、ホラッパ(ユッシ・バタネン)は酒に溺れながらも、どうにか産廃工事で働いている独身男性。ある夜、アンサは友人のリーサ(ヌップ・コイブ)とカラオケバーへ行き、そこへ同僚のフオタリ(ヤンネ・フーティアイネン)に誘われたホラッパがとやって来る。フオタリがリーサを口説こうとする中、アンサとホラッパは、互いの名前も知らぬまま惹かれ合う。アンサは、スーパーの廃棄食品を持ち帰ろうとしたとして事前通告無しで馘を言い渡され、上司の理不尽な通告に怒り、リーサと共にスーパーを辞める。アンサはパブの皿洗いの仕事に就くが、給料日にオーナーが麻薬の密売で警察に捕まってしまう。
偶然そこにホラッパがやってきて、カフェでコーヒーを飲み、その後2人は映画館に行くことに。映画館でゾンビ映画を観て、帰り際ホラッパは「また会いたい」と言う。名前は今度教えると言い、アンサは電話番号をメモした紙をホラッパに渡して頬にキスをするが、ホラッパはそのメモを失くしてしまう。ホラッパは帰ってからメモが無いことに気づくが、探そうにも名前も分からず途方に暮れる。その上飲酒がバレて仕事もクビに
なってしまう。同僚のフタリオに「再会して結婚しかけた」と話すが、連絡しようにも彼女の連絡先を知らないことを言い嘆く。一方アンサも、ホラッパから電話がないことにヤキモキする。しかし2人は偶然映画館の前で再会し、アンサはホラッパをディナーに招待する。穏やかに食事をしていたが、隠れて酒を飲むホラッパに対し、アンサは「アル中はご免よ」と言い、父と兄がお酒によって死に、母はそれを嘆いて死んだと話す。するとホラッパは「指図されるのはご免だ」と言って出ていく。不運な偶然と現実の過酷さが、彼らをささやかな幸福から遠ざける中、果たして2人は、無事に再会を果たし、想いを通い合わせることができるのか―。
アキ・カウリスマキ監督の『Fallen Leaves』がカンヌ審査員賞を受賞 - Nord News
アキ・カウリスマキ監督が「希望のかなた」(2017)で監督引退宣言してから6年経を経て、引退を撤回して撮ったラブストーリーで、2023年・第76回「カンヌ国際映画祭」で「審査員賞」を受賞し(受賞ニュースが伝えられた時の邦訳は原題直訳の「落ち葉」だったが、音楽にシャンソンの名曲「枯葉」が使われているため、このタイトルになったと思われる)、「タイム」誌はこの映画が「静かな傑作」であり、カウリスマキの最高傑作かもしれないと評しています。当初3部作として構想され完結していた「労働者」シリーズの「パラダイスの夕暮れ」(2002)、「真夜中の虹」(1990)、「マッチ工場の少女」(1991)に続く4作目として、厳しい現実を描きながらも、ささやかな幸せを信じ生きる人々を優しく描いています。
フィンランドは「世界の幸福度ランキング」で2022年・2023年と連続して第1位で、「最も格差の少ない国」とされていますが、そうした国フィンランドを舞台に、実在する"格差社会"の底辺にいる人々を描き続けているのが特徴的です(アキ・カウリスマキ監督自身もサンドブラスト、製紙工場、病院の清掃業などで働いていた経歴を持つ)。この映画のアンサも、最後は女性でありながら工場で働く肉体労働者となり、ホラッパに至っては鋳造所で働くようになったものの、アル中がたたって住むところすら無くなり、安ホステルで寝泊まりするようになります(しかし、タルデンヌ兄弟や是枝裕和ではないが、こうした"格差社会"ものはカンヌで強いね)。
かつてアキ・カウリスマキ監督は、小津安二郎監督生誕90年(没後30年)を記念して世界中の映画作家が小津安二郎を語った「小津と語る」(1993)の中で、「あなたのレベルに到達できないことを納得するまでは、死んでも死にきれません」という言葉を残していますが、この映画にも小津の影響が見られるのでしょうか。無表情と棒読みのセリフは、役者に「演技をさせない」という意味で、日本の濱口竜介監督の作品などにも通じるものがあるように思いました。
アンサもホラッパも厳しい現実の中にいますが、それぞれに自分のことを気にかけてくれる同僚(二人とも解雇されるので"元同僚"になるが)の友人がいるのが救いでした(最後の方でホラッパが入院する病院の看護師も優しかった)。アキ・カウリスマキ監督の、競争社会ではない、普通の社会(競争社会の外)に生きる人々への温かい視線を感じます。
映画館にはブリジット・バルドーの映画ポスターがあったり、アラン・ドロンの「若者のすべて」(1960)やジャン=ポール・ベルモンドの「気狂いピエロ」(1965)などポスターもあったりして(ロベール・ブレッソン監督の「ラルジャン」(1983)[左]もあった)、そのほかの場面でも背景に映画やレビューのポスターを映り込ませており、この辺りも小津が古い作品でよくやったことであり、小津作品へのオマージュでしょうか。
2人がデートで観たゾンビ映画は、アキ・カウリスマキ監督と親交のあるジャームッシュ監督の「デッド・ドント・ダイ」(2019)。観終わって映画館を真っ先に出てきたシネフィルと思われる中年男たちが、(ゾンビ映画だったのに)この映画はロベール・ブレッソンの「田舎司祭の日記」(1950)に似ている、いやジャン=リュック・ゴダールの「はなればなれに」(1964)だ、と激論を交わす姿が笑いを誘います(この後、アンサとホラッパの2人は本当の離れ離れになってしまう。この映画は「悲喜劇」だとされているようだ)。
また、主演のアルマ・ポウスティは、来日時のインタビューで「この映画は荷物を抱えた孤独な人々が人生の後半で出会う物語だ。人生の後半で恋に落ちるのは勇気がいる」と説明しています。演出はフリーではなく考え抜かれており、「とにかくセリフを覚えてこい。でも練習するな」と指示されるそう。またほとんどのシーンがワンテイクで撮影されているため、ポウスティは「俳優としては怖い」と吐露。さらにカウリスマキが現場でモニタを使わないことにも触れ、「一度カメラをのぞいて照明や小道具の位置を自分でチェックしたら、カメラの横に座ってワンテイクで撮る。あとからモニタはチェックしない。何が撮れているのかわかっているからです」と説明しています。
ヘルシンキ在住のアンナ&カイサ・カルヤライネン姉妹によるバンド「MAUSTETYTÖT(マウステテュトット)」も出演し、劇中歌として「Syntynyt suruun ja puettu pettymyksin(悲しみに生まれ、失望を身にまとう)」という歌が歌われていますが、無口な主人公の気持ちを代弁しているような歌で、こうした地元のミュージシャンの劇中での起用は「ルアーヴルの靴みがき」(2011)など他のほとんどの作品でもやっています。
「ルアーヴルの靴みがき」では、カウリスマキ監督の愛犬〈ライカ〉が登場し、カンヌ国際映画祭で優秀な演技を披露した犬に贈られる賞「パルム・ドッグ賞」の「審査員特別賞」を受賞していますが、この作品でも、〈アルマ〉という犬が、アンサが殺処分されそうだったのを拾ってやった犬として登場し、ちゃんと演技していて(笑)、「パルム・ドッグ賞」の「審査員大賞」を受賞しています。アンサが犬に付けた名前は「チャップリン」。ラストでアンサがホラッパと画面の奥へ歩いて行くシーンは、「モダン・タイムス」(1936)へのオマージュになっていました(こちらは「男女」+「犬」だったけれど)。
因みに、映画の時代設定は不明確であり、映画の中に映っている壁掛けカレンダーは、まだ来ていない2024年秋を示している一方、ラジオでナレーションされているニュースは2022年のロシアのウクライナ侵攻の初期の出来事であって、そのため、別の現実が舞台になっているとも言われているようです(メタ―バース流行り?)。
「枯れ葉」●原題:KUOLLEET LEHDET(英:FALLEN LEAVES)●制作年:2023年●制作国:フィンランド・ドイツ●監督・脚本:アキ・カウリスマキ●製作:ミーシャ・ヤーリ/アキ・カウリスマキ/マーク・ルオフ/アルマ(犬)●撮影:ティモ・サルミネン●時間:81分●出演:アルマ・ポウスティ/ユッシ・バタネン/ヤンネ・フーティアイネン/ヌップ・コイブ/マッティ・オンニスマー/アルマ(犬のチャップリン)●日本公開:2023/12●配給:ユーロスペース●最初に観た場所:角川シネマ有楽町(スクリーン1)(24-01-24)(評価:★★★★☆)
アルマ(犬のチャップリン)
「●マーティン・スコセッシ監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●スティーヴン・スピルバーグ監督作品」【2085】 スピルバーグ 「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」
「●レオナルド・ディカプリオ 出演作品」の インデックッスへ 「●ロバート・デ・ニーロ 出演作品」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
長さを感じさせなかった。「グッドフェローズ」に通じる娯楽性。
「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」リリー・グラッドストーン/レオナルド・ディカプリオ/ロバート・デ・ニーロ
20世紀初頭のアメリカ。先住民のオセージ族は石油を発見し、莫大な富を手に入れていた。一方、列車で彼らの土地にやってきた白人たちは、富を奪おうとオセージ族を巧妙に操り、殺人に手を染める―。第一次世界
大戦の帰還兵アーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)は、地元の有力者である叔父のウィリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を頼ってオクラホマへ移り住む。そして、先住民族オセージ族の女性モリー・カイル(リリー・グラッドストーン)と恋に落ち夫婦となるが、2人の周囲で不可解な連続殺人事件が起き始める。町が混乱と暴力に包まれる中、ワシントンD.C.から派遣された捜査官が調査に乗り出すが、この事件の裏には驚愕の真実が隠されていた―。
マーティン・スコセッシ監督の2023年作で、原題は"Killers of the Flower Moon"。主演はレオナルド・ディカプリオで、共演はロバート・デ・ニーロ、ジェシー・プレモンス、リリー・グラッドストーンら。デイヴィッド・グランによるノンフィクション・ノベル『花殺し月の殺人―インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』を映画化したサスペンスです。2023年「ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 作品賞」を受賞していますが、アカデミー賞では無冠でした(スコセッシもディカプリオもデニーロも既に受賞歴があるし、同じ骨太歴史大作「オッペンハイマー」に票が流れたのか)。
タイトルの由来は、4月に咲いた小さな花が5月に生えてきた大きな草や花によって駆逐されてしまうので、オセージ族は5月を「フラワー・キ
ラー・ムーン(花殺し月)」と呼ぶことから。比喩的には、先住インディオが「4月に咲いた小さな花」で、後からやってきた白人が、それらを"駆除"する「5月に生えてきた大きな草や花」ということなのでしょう。
レオナルド・ディカプリオ(アーネスト・バークハート)/ジェシー・プレモンス(トム・ホワイト捜査官)
マーティン・スコセッシ監督はレオナルド・ディカプリオと6回目のコンビ、ロバート・デ・ニーロとは10回目のコンビですが、この3者のタッグは初。ディカプリオは当初、原作の主人公である司法省捜査局(後のFBI)のトム・ホワイト捜査官役の予定でしたが、デ・ニーロ演じる敵役ヘイルの甥アーネスト・バークハート役を熱望したため、彼がアーネストを演じることになり、トム・ホワイト捜査官役はジェシー・プレモンスになったようです(その結果、2年間かけて書かれた脚本が大幅変更となった)。
ディカプリオとデ・ニーロの競演が楽しいし、ストーリーも面白いので、3時間半近い上映時間があまり長く感じられませんでした。主人公のアーネストは、妻モリーを愛しながらもヘイルの企みに協力することになり、事件の真相が明るみになった際もヘイルを守る動きを見せるが、自身の子リトル・アナの死を受け真相を告白する―。
米国史の暗部を抉るだけでなく、エンタテインメントとしても人間ドラマとしても良くできており、マーティン・スコセッシ監督のいまだ衰えぬ力量を感じました。 デ・ニーロが演じる叔父の"キング"が、表向きオーセージ族の理解者・支援者であるに反して、実は本性は怖い男であるという構図は、(娯楽性という面で)早稲田松竹で同時期に同じく1本立て上映された「グッドフェローズ」('90年)に通じるものがあるように思いました。
因みに、実際には悪いのは一部の白人だけではなく、石油によって大きな富がオーセージ族に生れたために、多くの白人がその人頭権、ロイヤルティ、土地を奪おうとして画策し、60人の部族員が殺されたと推計されているそうです。FBIは、オーセージ族の女性を妻にした(映画におけるアーネストのような)白人男性数人が、部族員の殺害を命じた首謀者であると見做して捜査・起訴したようで、他にも無節操な白人が彼らの権利を騙し取ったりして、ある場合では、オーセージ族に対する「保護者」として裁判所から指名された弁護士や事業家がその実行者だったりしたそうです(告発され有罪になったのは3名のみだそうで、それにキングとアーネストのモデルが含まれるということか。映画では、キングとアーネストはともに終身刑となるも早期仮釈放となったことが、ラジオのショー番組の形でに示されていた)。まさに米国の暗黒史!
2023年5月、第76回「カンヌ国際映画祭」アウト・オブ・コンペティション部門プレミア上映
「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」●原題:KILLERS OF THE FLOWER MOON●制作年:2023年●制作国:アメリカ●監督:マーティン・スコセッシ●製作:ダン・フリードキン/マーティン・スコセッシ/ブラッドリー・トーマス/ダニエル・ルピ●脚本:エリック・ロス/マーティン・スコセッシ●撮影:ロドリゴ・プリエト●音楽:ロビー・ロバートソン●原作:デイヴィッド・グラン『花殺し月の殺人―インディアン連続怪死事件とFBIの誕生』●時間:206分●出演:レオナルド・ディカプリオ/ロバート・デ・ニーロ/リリー・グラッドストーン/ジェシー・プレモンス/ブレンダン・フレイザー/タントゥー・カーディナル/モリソン - ルイス・キャンセルミ/ジェイソン・イズベル/カーラ・ジェイド・メイヤーズ/ジャネー・コリンズ/ジリアン・ディオン/ウィリアム・ベロー/スタージル・シンプソン/タタンカ・ミーンズ/マイケル・アボット・Jr/パット・ヒーリー/ スコット・シェパード/ゲイリー・バサラバ/スティーヴ・イースティン/ジョン・リスゴー/マーティン・スコセッシ●日本公開:2023/10●配給:東和ピクチャーズ
●最初に観た場所:早稲田松竹(24-01-26)(評価:★★★★)
ブレンダン・フレイザー(キングの代理人ハミルトン弁護士)/ジョン・リスゴー(キングの裁判を執り行うポラック判事)/マーティン・スコセッシ(ラジオのショー番組のプロデューサー兼司会)
「●川島 雄三 監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2456】 川島 雄三 「幕末太陽傳」
「●新珠 三千代 出演作品」の インデックッスへ 「●芦川 いづみ 出演作品」の インデックッスへ 「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ ○日活100周年邦画クラシックス・GREATシリーズ
女性映画。新珠三千代のエロチシズムも見どころだし、街の風景や風俗も見どころ。
「日活100周年邦画クラシック GREAT20 洲崎パラダイス 赤信号 HDリマスター版 [DVD]」芦川いづみ・新珠三千代/三橋達也
売春防止法施行直前の東京。義治(三橋達也)と蔦枝(新珠三千代)は、故郷を駆け落ち同然に飛び出してから生活が安定せず、東京中を彷徨っていた。財布の金も尽きかけたある日、蔦枝は、勝鬨橋で、追いかけてバスに飛び乗り、義治に何も言わず、「洲崎弁天町」のバス停で降りる。洲崎川の橋を渡ったすぐ先は赤線地帯「洲崎パラダイス」だった。蔦枝はかつて洲崎で娼婦をしていた過去があり、義治は「橋を渡ったら、昔
のお前に逆戻りじゃないか」と言う。二人は、赤線の「外側」の橋の袂の居酒屋兼貸しボート屋「千草」に入る。「千草」の女主人お徳(轟夕起子)は、女手一つで幼い息子ふたりを育てているため住み込み店員を求めており、蔦枝はその晩から仕事を始める。翌日、義治はその近所のそば屋「だまされ屋」で住み込みの仕事を得る。蔦枝は人あしらいのうまさで、赤線を行き帰りする寄り道客の人気を得、やがて神田(秋葉原)のラジオ商の落合(河津清三郎)に気に入られて和服やアパ
ートを与えられるようになり、いつの間にか「千草」から去った。義治は怒りのあまり歩いて神田へ出向くも、不慣れな地理や暑さと空腹のために倒れ、落合と会えず仕舞いに。そんな中、洲崎の女と共に行方を眩ませていたお徳の夫・伝七(植村謙二郎)が姿を現し、お徳は何も言わず伝七を家に招き入れる。数日後、蔦枝は落合のアパートを引き払い、洲崎に戻ってきた。「千草」を訊ねた蔦枝に、お徳は、「義治をいずれ『だまされ屋』の同僚店員・玉子(芦川いづみ)と一緒にさせたい」と言う。蔦枝は「千草」を飛び出し、「だまされ屋」に向かう。お徳は義治と蔦枝を会わせないよう、出前帰りの義治を日暮れまで「千草」に釘付けにする。伝七は店に帰る義治に付き合って外出し、「遅まきながら、なんとかいい親父になろうと思っている」と心境の変化を吐露し、途中で別れる。いつまでも「だまされ屋」に戻らない義治を探して洲崎を歩き回る蔦枝は、「千草」の常連客で顔馴染みの信夫(牧真介)と橋で出会う。信夫は、ある女を足抜けさせるために毎晩赤線に通っていたが、その女が消えたことを話す。蔦枝は慰めるつもりで「吉原か鳩の街で、今頃誰かといいことしてるわよ。それより私と......」と言うが、「売春防止法なんかできたって、どうにもなりはしないんだ」と叫ぶ信夫に平手打ちを食わされる。義治が「だまされ屋」に戻ると、玉子から蔦枝がさっきまで待っていたことを告げられ、義治は仕事を放り出し、雨の中を傘も持たずに飛び出す―。
1956(昭和31)年7月公開の川島雄三監督作。原作は芝木好子(1914-1991/77歳没)が1953(昭和28)年に発表した「洲崎パラダイス」で、売春防止法の公布が1956年、施行が1957(昭和32)年4月ですから、原作も映画もほぼリアルタイムということになります。原作が書かれた翌年1954(昭和29)年に〈洲崎〉(現・木場駅付近)には、カフェ220軒が従業婦800人を擁し、合法的に営業をしていたとのことで、〈吉原〉を上回る規模でしょうか。三浦哲郎の「忍ぶ川」のヒロイン・志乃も「洲崎パラダイス」にある射的屋の娘でした(因みに、蔦枝のセリフに出てくる〈鳩の街〉は、吉行 淳之介 の「原色の街」の舞台である〈玉の井〉あたり(現・曳舟駅付近)。
新珠三千代(脱がないのにすごくエロチック)と三橋達也が演じる、別れた方がいいのに別れられない男女、義治と蔦枝。周囲にいくら止められようと、磁石のように引き合ってしまう腐れ縁といった感じで、樋口一葉の「にごりえ」や織田作之助の原作「夫婦善哉」の系譜のようにも思いました。そんな男女とそれを取り巻く人間模様が、〈橋〉に始まり〈橋〉に終わる物語として描き出されています。ただし、冒頭でバスに飛び乗ったのが蔦枝で、義治は慌ててそれについていくだけだったのに、ラストでは義治の方が自ら駆け出してバスに飛び乗るという―最初のうちはいじけてばかりいた義治の変化を、こうした対比で見せているのが上手いと思いました。
一方、轟夕起子が演じるお徳は、夫・伝七が戻ってきてせっかくいい親父になろうと思っていたところに、その夫が別れた女に殺されることになり、実に気の毒でした(その事件現場で、義治と蔦枝が再会するというのも何か運命的)。こうした悲劇もありましたが、義治が働いた蕎麦屋「だまされ屋」の女店員・玉子を演じた芦川いづみの可憐さ 先輩店員・三吉を演じた小沢昭一のユーモラスな味わいなど、いろんな要素が盛り込まれた群像劇になっていました。
現在は埋め立てられてしまっている洲崎川や船着き場など、もうこの映画でしか見られない風情ある風景も、時代の記録として貴重です。ボンネット型のバス車両には車掌がいて、「次は〜洲崎〜洲崎弁天町」とアナウンスをしています(都バスでは1965年からワンマンバスが運行されている)。
バスの車窓からは、材木を保管している貯木場が見え、これは、荒川の河口に近い沖合の埋立地に1969年、新たな貯木場、新木場が建設される前のものです(大島渚監督「青春残酷物語」('60年)の冒頭にも使われていた)。義治がラジオ商の落合を訪ねて彷徨う神田・秋葉原の当時の風景も貴重映像ではないかと思います。
川島雄二監督の「とんかつ大将」('52年)から連なる市井の人々を描いた人情物であると同時に、赤線に墜ちるか堅気を通せるかという境界線にある女性を描いた、後の「女は二度生まれる」('61年)などに連なる川島雄三監督ならではの「女性映画」でもあったように思います。ごく自然な所作の中にちらりと肌を見せる新珠三千代のエロチシズムも見どころだし(エロチックだからこそ境界線上を彷徨っている危うさを感じさせる)、街の風景や風俗も見どころの映画でした。
新珠三千代/三橋達也/轟夕起子
「洲崎パラダイス 赤信号」●制作年:1956年●監督:川島雄三●製作:坂上静翁●脚本:井手俊郎/寺田信義●撮影:高村倉太郎●音楽:眞鍋理一郎●原作:芝木好子●時間:81分●出演:新珠三千代/三橋達也/轟夕起子/植村謙二郎/平沼徹/松本薫/芦川いづみ/牧真介/津田朝子/河津清三郎●公開:1956/07●配給:日活●最初に観た場所:神保町シアター(24-02-01)(評価:★★★★☆)
洲崎神社(2024.4.27撮影、以下同じ)
「特飲街」の面影を残す店々
「洲崎橋跡地」の碑
映画「洲崎パラダイス」における居酒屋「千草」のあった場所(写真手前:現在は不動産屋)
不動産屋の隣の「特飲街」の面影を残す店
神保町シアター(24-02-01)
三橋達也 in「洲崎パラダイス赤信号」('56年)/「ガス人間第1号」('60年)/「天国と地獄」('63年)
NHK「連想ゲーム」('69年4月-'91年3月)白組1枠レギュラー解答者・三橋達也('73年4月-'79年3月)「グラフNHK」'73年8月号
「●エリック・ロメール監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●ロマン・ポランスキー監督作品」【1090】 ポランスキー「水の中のナイフ」
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
「喜劇と格言劇」シリーズ第6作(最終作)。男女二組の恋愛を描く。
「友だちの恋人」 (1987) 映画パンフレット CINE VIVANT No.28
パリ近郊の新都市セルジー・ポントワーズで市役所に勤めるブランシュ(エマニュエル・ショーレ)は、職員食堂で最後の夏休みを迎えた学生レア(ソフィー・ルノワール)と出会い意気投合する。恋人ファビアン(エリック・ビエラード)の好きな水泳が苦手というレアのため、ブランシュは水泳の手ほどきをすることに。そして二人がプー
ルにいたところへ、ファビアンの友人アレクサンドル(フランソワ・エリック・ゲンドロン)が現れる。ブランシュはたちまちアレクサンドルに恋してしまうが、好きな相手に対して臆病になってしまう性格のため打ち解けられない。ファビアンは卒業を機に、最近ウマが合わないファビアンを捨て、パリを去ろうとする。運命の悪戯でブランシュはファビアンと親しくなり、一夜を共にする。ところが、休暇旅行から帰ってきたレアがファビアンと仲直りしたとブランシュに告げる。一方、レアはアレクサンドルに口説かれる―。
「友だちの恋人」(副題は「友だちの友だちは友だち」)は、エリック・ロメール監督による1987年公開作品。同監督の「喜劇と格言劇」シリーズ第6作で、これがシリーズ最終作になります。パリ郊外のニュータウンを舞台に、4人の男女が繰り広げる恋愛模様を軽快なタッチで描いていて、これまでのシリーズ作が一人の女性が主人公だったのが、今回は一応ヒロインに焦点を合わせながらも、主人公とその女友達の恋愛も描いていて、相互に"反応"し合う男女2×2の恋物語になっている点が特徴的です。
主要登場人物4人の関係がどんどん移り変わって、観ている方も混乱しますが、仕舞いには、登場人物であるブランシュとレアも互いに勘違いしたりして(笑)。ラストはハッピーエンドでしたが、ブランシュは周囲に振り回されている印象も。これがハッピーエンドでなかったら、あまり好きになれない映画だったかもしれません。この二組、この先大丈夫かなあというのもあります(特にアレクサンドルはプレイボーイだし)。
マニュエル・ショーレットは本作が映画初出演で、あとはジョン・ジョスト監督の「ニューヨークのすべてのフェルメール(All the Vermeers in New York)」('90年/米)という作品に主演として出ているようです。ソフィー・ルノワール(印
象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールの曾孫、「フレンチ・カンカン」('54年/仏)の監督ジャン・ルノワールの孫)は、ロメール監督の「美しき結婚」('81年/仏「)でベアトリス・ロマンの妹役を演じるなどし、また現在は写真家として活動していて、'22年には銀座で個展を開いています(写真はいずれも「婦人画報」より)。
「友だちの恋人 [DVD]」
「友だちの恋人」●原題:L'AMI DE MON AMIE(英:BOYFRIENDS AND GIRLFRIENDS)●制作年:1987年●制作国:フランス●監督・脚本:エリック・ロメール●製作:マルガレット・メネゴス●撮影:ベルナール・リュティック●音楽:ジャン=ルイ・ヴァレロ●時間:102分●出演:エマニュエル・ショーレ/ソフィー・ルノワール/エリック・ヴィラール/フランソワ・エリック・ジェンドロン/アン=ロール・マーリー●日本公開:1988/07●配給:シネセゾン●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(23-02-04)((評価:★★★☆)
「●エリック・ロメール監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●ロマン・ポランスキー監督作品」【1090】 ポランスキー「水の中のナイフ」
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
「友だちの恋人」の撮影の合間に撮られた作品。まったく性格の異なる都会の娘と田舎の娘の共同生活。
「レネットとミラベルの四つの冒険/コーヒーを飲んで (エリック・ロメール コレクション) [DVD]」ジョエル・ミケル/ジェシカ・フォルド
エリック・ロメール監督による1987年公開作「友だちの恋人」の撮影の合間に撮られたのが、同一主人公らによる4つの短編から成るこのオムニバス映画で、ロメール監督は田舎の娘レネット役のジョエル・ミケルの体験談に着想を得て本作を企画し、少人数のスタッフと16ミリフィルムで撮影を敢行したそうです。
自転車のパンクをきっかけにミラベル(ジェシカ・フォルド)は、ある田舎道で、この町の納屋のような家に一人で住み、絵を描いて暮らしているレネット(ジョエル・ミケル)と出会う。彼女はミラベルに、夜明け前に1分間だけ音のない世界になる"青の時間"を体験させようと家に泊まるよう誘うが、せっかくのチャンスが車の音で失敗に終わる。落胆するレネットに、ミラベルはもう1晩泊まることを告げ、二人はその昼間に田舎の生活と自然を満喫する。そして2泊目の夜明け、二人は"青い時間"を味わい 感動する―。(第1話「青い時間」)
同監督の「緑の光線」に似ているように思いました。シリーズ第5作「緑の光線」('86年)は、孤独なヒロインがバカンスの最後の日に知り合った若者と一緒に、日没前に一瞬だけ見えるという太陽の「緑の光線」を見に行くという話でしたが、「青い時間」では、それぞれ田舎と都会に住む若い女性同士の組み合わせ。二人の出会いから、性格の全く異なる二人が打ち解けていく様ががごく自然に描かれていていました。自然も美しいし(「緑の光線」と同じく、チーズで有名なブリー地方が舞台)、レネットの住まいも悪くなかったです。でもパリで絵の勉強をするために、彼女はミラベルのアパートへ―。
秋になり、パリのミラベルのアパートで同居し、美術学校に通うレネットは、ある日ミラベルと待ち合わせしたモンパルナスのカフェで、奇妙なボーイ(フィリップ・ロダンバッシュ)と出会う。小銭を持っていないミラベルがコーヒー代に200フラン札を出すと、ボーイは「どうせ友だちなんか来ないんだろう。飲み逃げしようとしてもそうはいかない。おつりが出せないから小銭で払え」と無理難題を言う そこにミラベルがやってきて、彼女は500フラン札を出してボーイと押し問答が続くが、ボーイが席を離れた隙に二人はお金を払わず逃げてしまう しかし、レネットは翌朝、代金を払いにカフェに行く―。(第2話「カフェのボーイ」)
レネットがモンパルナスのカフェに行く道を尋ねた行きずりの男性たちも変な連中だったけれど、それ以上に可笑しいのがボーイで(客であるレネットからすれば頭にくる相手だが)、翌日、レネットがカフェに金を払いに行った時、「昨日のボーイは?」と訊くと、「彼はアルバイトだから、もういない」と言われます。馘首になったのかなあ。イマイチ、釈然としない...。
ヤスミナ・アウリー(万引き犯)/マリー・リヴィエール(詐欺師)
物乞いに小銭をやるレネットに影響を受けたミラベルは、ある日、スーパーで万引きする女(ヤスミナ・アウリー)を見つけ、彼女を助ける行為をするが、成り行きから女が万引きした商品はミラベルの手に残ってしまう 帰宅後、二人は彼女の行為について議論する 。ある日 レネットは、駅で小銭をせびる女(マリー・リヴィエール)に会い、彼女に小銭を与えたため電車に乗り遅れてしまう。 電話をしようとするが小銭がないので、彼女も通行人に小銭をせびるがうまくいかない。 すると、先ほどの女がまた通行人から小銭をせびっているのを見つけ、彼女に金を返すように詰め寄るが、彼女が泣き出してしまい 諦める―。(第3話「物乞い、窃盗常習犯、女詐欺師」)
レネットは、ミラベルが万引き女を助けたと聞き、その理由が「彼女が捕まって懲役になったら可哀そうだから」とのことで、ミラベルを咎めます。ミラベルのやったことは犯罪の幇助であり、それを非難するレネットに分があるでしょう。二人の性格の違いもあるでしょうが、ちょっとミラベルの社会道徳観が心配です(この先、大丈夫か)。女詐欺師を演じたのはロメール監督の「飛行士の妻」「緑の光線」でそれぞれ主役を演じたマリー・リビエールでした。それにしても、3作とも全然タイプの異なる役だなあ(さらに、スーパーの万引き監視員を演じているのは、「美しき結婚」('81年)主演のベアトリス・ロマン)。
ファブリス・ルキーニ(画廊の主人)
レネットは、今月家賃を払う番だったが、金が無く、 二人はレネットが描いた絵を画廊に売ることにする。 レネットは言葉が話せないふりをして画廊の主人(ファブリス・ルキーニ)と交渉するがうまくいかない。しかし、他の客が画廊に入って来たのを契機に、ミラベルが機転を発揮し二人は大金を手にする―。(第4話「絵の売買」)
これは第2話、第3話に比べて落ちがはっきりしていて面白かったです。画廊の主人を演じたのは、「満月の夜」('84年)で、パスカル・オジェ演じる主人公ルイーズから振られる男性オクターブを演じたファブリス・キーニでした。エリック・ロメール作品に多く出演したほか、フランソワ・オゾン監督の「危険なプロット」(2012年)で主演するなどし、セザール賞に6回ノミネートされた、今やフランスが誇る名優であるとのことです。
4話の中では第1話が★★★★、第4話が★★★☆、あと第2話と第3話が★★★といったところでしょうか。どれもユーモアを交えた軽快なタッチで描かれていて、「喜劇と格言劇」シリーズの作品と比べてもより軽いかも。「喜劇と格言劇」シリーズが男女の恋愛模様を中心に描いているのに対して、女性同士のからっとした感じの友情を描いており、そうした男女の情が絡まない分、軽くなっているのかもしれません。
「レネットとミラベル 四つの冒険」●原題:QUATRE AVENTURES DE REINETTE ET MIRABELLE(英:FOUR ADVENTURES OF REINETTE AND MIRABELLE)●制作年:1986年製作(公開は1987年)●制作国:フランス●監督・脚本:エリック・ロメール●製作:マルガレット・メネゴス●撮影:ベルナール・リュティック●音楽:ロナン・ジレ/ジャン=ルイ・ヴァレロ●時間:99分●出演:ジョエル・ミケル/ジェシカ・フォルド/フィリップ・ロダンバッシュ/ヤスミナ・アウリー/マリー・リヴィエール/ベアトリス・ロマン/ファブリス・ルキーニ●日本公開:1989/07●配給:シネセゾン●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(23-02-18)(評価:★★★☆)
「●エリック・ロメール監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●ロマン・ポランスキー監督作品」【1090】 ポランスキー「水の中のナイフ」
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
濱口竜介監督が影響を受けていることを窺わせるという点で興味深かった。
「木と市長と文化会館 または七つの偶然」[Prime Video]
パリの南西部ヴァンデ県サン=ジュイールの市長ジュリアン(パスカル・グレゴリー)は、村の原っぱに、図書館とCD・ビデオのライブラリー、野外劇場、プールを備えた総合文化センターを建設しようと考えていた。だが、この計画は周囲の賛同を得られないでいる。ジュリアンの恋人で、根っからのパリっ子である小説家のベレニス(アリエル・ドンバール)も「文化会館なんて必要かしら」と少々懐疑的
。村のエコロジストの小学校教師マルク(ファブリス・ルキーニ)は、烈火のごとく怒る。ジュリアンにインタビューした女性ジャーナリストのブランディーヌ(クレマンティーヌ・アムルー)のルポは編集長(フランソワ・マリー・バニエ)の独断で、マルクを中心としたエコロジー特集になってしまう。そんなある日、偶然にマルクの娘ゾエ(ギャラクシー・バルブット)とジュリアンの娘ヴェガ(ジェシカ・シュウィング)が出会って友達となり、ゾエは市長に「文化会館よりみんなが集まって楽しめる広場がいいわ」と訴える。結局、予定地の地盤が弱いことが判明し、建設は中止となった。代わりにジュリアンは広大な土地を開放し、そこは人々の憩いの広場となった―。
エリック・ロメール監督の'93年公開作で、第三の連作「四季の物語」の撮影の合間に16ミリで撮ったのがこの作品とこれに続く「パリのランデブー」('95年)。物語の通り、パリの南西部ヴァンデ県の人口425名の村サン=ジュイール・ションジヨンで'92年の3月、6月、9月の3回に分けて撮影が行われ、3,4人のスタッフでハンディカメラで撮ったそうです。マスコミ向けの試写も宣伝もなく、'93年3月にパリで突然封切られましたが、フランス総選挙の2か月前というタイミングもあって、22週で75万人を動員するヒットとなったそうです。
ただし、政治ドラマとしては饒舌な割にはなかなか話が進まない感じで(文化会館もあってもいいのではと思ったけどね)、個人的には政治的な話の中身もさることながら、ドキュメンタリー風のレポートドラマ的スタイルに関心がいきました。どこまで脚本があったのか(もし脚本があり全部セリフがあったとしても正確に憶えるのは無理だろう)、どこまでその場で本当に議論しているのかよく分からないところが興味深かったです。
「ドライブ・マイ・カー」('21年)でカンヌ国際映画祭監督賞やアカデミー国際長編映画賞などを受賞した濱口竜介監督は、エリック・ロメール監督作の影響を受けており、この作品や(他のロメール監督作にも部分的にドキュメンタリータッチで撮っているものがあるが、この作品は全編がそう)、続く「パリのランデブー」からの影響を受けて、ベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞することになったオムニバス映画「偶然と想像」('21年)を構想したとのことで(「偶然と想像」にも第1話「魔法(よりもっと不確か)」で女子二人のタクシー内での延々と続く会話が冒頭からある)、「偶然と想像」は3話から成っていますがもともと全7話の想定あり、タイトルもこの作品から影響を受けているとのことのことです。
そう言えば、映画の中で出演者が意見を述べたり議論したりする濱口竜介監督の「親密さ」('12年)なども、こうした作品の影響を受けているのではないでしょうか。濱口竜介監督が早くからエリック・ロメール作品の影響を受けていることを窺わせます。
アリエル・ドンバールをたっぷり観られる映画でもあります。市長ジュリアン役のパスカル・グレゴリーは、「海辺のポリーヌ」('83年)ではアリエル・ドンバールに袖にされる役でしたが、10年後のこの作品では恋人同士の役。パスカル・グレゴリーは、最近では婁燁(ロウ・イエ)監督の 「サタデー・フィクション」 ('19年/中国)にスパイ役の鞏俐(コン・リー)に指示を出すフランスの老諜報員役で出ていました(この映画からさらにまた26年かあ。歳をとるのも無理はない)。
パスカル・グレゴリー/アリエル・ドンバール/ファブリス・ルキーニ/クレマンティーヌ・アムルー
ファブリス・ルキーニ 「レネットとミラベル 四つの冒険」('87年)/「木と市長と文化会館 または七つの偶然」('93年)
文化会館設立反対派の教師マルクを演じたのはファブリス・ルキーニで、「レネットとミラベル 四つの冒険」('87年)の第4話「絵の売買」の画廊の主人役などエリック・ロメール監督の常連。最近ではフランソワ・オゾン監督のコメディ映画「私がやりました」('23年/仏)に判事役で出ています。ジュリアンにインタビューした女性ジャーナリストのブランディーヌを演じたクレマンティーヌ・アムルーは、エリック・ロメール監督の「聖杯伝説」('78年)の頃からファブリス・ルキーニ共にロメール監督作に出ている女優でした。
パスカル・グレゴリー「木と市長と文化会館 または七つの偶然」('93年)/「サタデー・フィクション」('19年/中国)
「木と市長と文化会館 または七つの偶然」●原題:L'ARBRE, LE MAIRE ET LA MEDIATHEQUE OU LES HASARDS(英:THE TREE, THE MAYOR AND THE MEDIATHEQUE)●制作年:1993年●制作国:フランス●監督・脚本:エリック・ロメール●製作:フランソワーズ・エチュガレー●撮影:ディアーヌ・バラティエ●音楽:エリック・ロメール●時間:105分●出演:パスカル・グレゴリー/アリエル・ドンバール/ファブリス・ルキーニ/クレマンティーヌ・アムルー/フランソワ・マリー・バニエ/ジャン・パルヴュレスコ/フランソワーズ・エチュガレー/ギャラクシー・バルブット/ジェシカ・シュウィング/レイモンド・ファロ/マヌエラ・ヘッセ●日本公開:1994/04●配給:シネセゾン●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(23-02-28)((評価:★★★☆)
「●エリック・ロメール監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●ロマン・ポランスキー監督作品」【1090】 ポランスキー「水の中のナイフ」
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
これもまた、濱口竜介監督作との類似性の点で興味深かった(特に第1話)。
「パリのランデブー [DVD]」第1話:7時のランデブー/第2話:パリのベンチ/第3話:母と子1907年
エリック・ロメール監督が3話構成のオムニバスで描く恋愛コメディ(1994年製作・1995年公開)。
〈第1話:7時のランデブー〉法学部の学生エステル(クララ・ベラール)は試験を控えているが、恋人のオラス(アントワーヌ・バズレル)が自分に会わない日の7時ごろにカフェで別の女の子とデートしているという話
を聞かされて勉強も手につかない。朝、市場で買い物中のクララは見知らぬ男に愛を告白され、ふと思いついてオラスがデートしていたという例のカフェに夜7時に来るように言う。その直後彼女は財布がないのに気づき、さてはあの男にスラれたと思う。夕方、アリシー(ジュディット・シャンセル)という女の子が財布を拾って届けてくれた。彼女は7時に例のカフェで待ち合わせがあるというので、エステールも件のスリとの待ち合わせの話をして一緒に行く。予想どおり、アリシーのデートの相手はオラスだった。エステルは彼に愛想が尽きる。アリシーも事態を察して去ると、そのテーブルに朝の市場の青年が腰掛け、人を待つ風でビールを注文する―。
「偶然と想像」('21年)で「ベルリン国際映画祭銀熊賞」を受賞した濱口竜介監督は、同作をエリック・ロメールの作品、特に「パリのランデブー」に触発されて作ったとのことです。「あれも偶然がテーマになっていますが、構成も含めて参考にしています」と語っていますが、中でも「偶然と想像」の第1話「魔法(よりもっと不確か)」は、この作品の第1話「7時のランデブー」を色濃く反映していたように思います(「偶然」の設定がほぼ同じ)。男の身勝手が描かれていますが、ラストで再登場した青年の方は、スリではなかったのかあ。ちょっと気の毒。でも、このユーモラスな結末は、このエピソードの救いにもなっています。3話の中でも人気の高いエピソードであることに納得です。
〈第2話:パリのベンチ〉彼(セルジュ・レンコ)は郊外に住む文学教師、彼女(オロール・ローシェール)は同棲中の恋人が別にいるらしい。9月から11月にかけて、二人はパリの随所にある公園でデートを重ねる。彼は彼女
を自宅に連れていきたいが、彼女は貴方の同居人がいやといって断る。彼女の恋人が親類の結婚式で留守にするとかで、彼女は観光客になったつもりでホテルに泊まろうと提案する。いざ目的のホテル前で、彼女は恋人が別の女とホテルに入るのを見る。別れるのは今がチャンスという彼に、彼女は「恋人がいなければあなたなんて必要ないわ」と言う―。
第1話と対照的に第2話は完全に女性上位。主人公の彼女の好みで、デートの場所はいつも外で、場所も彼女が指定するのですが、それが、9月30日 サン=ヴァンサン墓地、10月14日 ベルヴィル公園、10月21日 ヴィレット公園、11月12日 モンスリ公園、11月18日 トロカデロ庭園、11月25日 オートゥイユ庭園...といった具合に日記風に展開されていき、映画自体がパリの公園巡りみたいになっています(笑)。ラストに決定的な女性のエゴを見せつけられた気がしますが、第1話と違って、この女性が嫌になると言うより(好きにもならないが)、男女の関係というものの複雑さを感じさせ、意外と深いエピソードだったようにも思います。
〈第3話:母と子1907年〉ピカソ美術館の近くに住む画家(ミカエル・クラフト)は、知人からスウェーデン人女性(ヴェロニカ・ヨハンソン)を紹介されていた。彼は自分を訪ねて来た彼女をピカソ美術館に連れていく。自分は美術館に入らず、8時に会う約束をしてアトリエに帰るその途中、彼は若い女(ベネディクト・ロワイヤン)とすれ違い、彼女を追って美術館に入る。彼女は「母と子1907年」の前に座る。彼はスウェーデン女性と合流し、そ
の名画の前で例の女性にわざと聞こえるように絵の講釈を始める。彼女が席を立ち、彼は慌てて別れを告げて女を追って美術館を出て、道で声をかける。彼女は自分は新婚で夫は出版業者、今度出る画集の色を原画と比べに来たのだという。彼はめげず、彼女も興味を覚えて彼の絵を見にアトリエに行く。二人は絵画談義を交わし、結局何もないまま女は去る。画家はしばし絵筆を取って作品に手を加え、スウェーデン女性との待ち合わせの場所に行く。だが時間が過ぎても女は現れない。家に帰った画家は絵の中の人物を一人完成させ、呟く。「それでも今日一日まったく無駄ではなかった」と―。
ベネディクト・ロワイヤンの《美術女》ぶりがいいですが、元々は人気モデルで、映画出演はあまりないみたい。スウェーデン人女性=のヴェロニカ・ヨハンソンも同じくモデル系でしょうか(皆が振り返るような振るには勿体ない美人だと思ったら、最後は女の方が男を振ったのか)。こうした演技経験の浅い人を使うところがエリック・ロメールらしく、先に挙げた濱口竜介監督はそうした部分においてもこれに倣っていて、「ハッピーアワー」('15年)で主演した演技経験の無い4人の女性に、第68回「ロカルノ国際映画祭最優秀女優賞」をもたらしています。
各話の頭にアコーディオン弾きと歌い手の2人組が出てくるのは、ルネ・クレール監督の「巴里の屋根の下」へのオマージュでしょう。各話を繋いでいく辺りも演出方法そうですが、エリック・ロメール監督自身、先駆者の影響を受けているのだなあと改めて思いました。
濱口竜介監督は演出においてひたすら「本読み」をやることで知られていますが、エリック・ロメール監督がそうであり、さらに遡るとジャン・ルノワール監督もそう。濱口監督によれば、エリック・ロメールは演技経験のない人とそれをやることを好み、ジャン・ルノワールはプロフェッショナルの役者とそれをやることを好んだそうです。濱口監督の場合、経験のない人とは「親密さ」('12年)で実際に「本読み」をやり、プロの役者とは米アカデミー国際長編映画賞などを受賞した「ドライブ・マイ・カー」('21年)の《映画ワークショップ》の場面としてそれを見せていました。
今回シネマブルースタジオで観た、「満月の夜」('84年)、「緑の光線」('86年)、「友だちの恋人」('87年)、「レネットとミラベル/四つの冒険」('87年)、「木と市長と文化会館/または七つの偶然」('93年)、そしてこの「パリのランデブー」('95年)はすべて'84年設立のシネセゾンの配給で、日本での初公開は'83年11月オープンの「WAVEビル」内に出来たシネヴィヴァン六本木でした。
シネヴィヴァンは独自に映画パンフレットを作っていて、ロベール・ブレッソン監督の「ラルジャン」 ('83年/仏・スイス)やフレディ・M・ムーラ監督の「山の焚火」('85年/スイス)、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の「童年往時/時の流れ」('85年/台湾)などはシネヴィヴァンで観ましたが、エリック・ロメール作品は当時見逃してしまいました。そうこうしている内に、シネセゾンそのものが'98年6月にその活動を終え、シネヴィヴァン六本木も'99年12月25日閉館となりました。
シネマブルースタジオの今回のシリーズ上映は有難いですが、この手の映画って、観ることができる時に観ておかないと次はいつ観られるかわからない、と改めて思わされました。
「パリのランデブー」●原題:LES RENDEZ-VOUS DE PARIS(英:RENDEZ-VOUS IN PARIS)●制作年:1993年●制作国:フランス●監督・脚本:エリック・ロメール●製作:フランソワーズ・エチュガレー●撮影:ディアーヌ・バラティエ●音楽:エリック・ロメール●時間:105分●出演:(第1話)クララ・ベラール/アントワーヌ・バズレル/ジュディット・シャンセル/(第2話)セルジュ・レンコ/オロール・ローシェール/(第3話)ミカエル・クラフト/ヴェロニカ・ヨハンソン/ベネディクト・ロワイヤン●日本公開:1993/11●配給:シネセゾン●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(23-03-13)((評価:★★★★)
「●す ミュリエル・スパーク」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●せ 瀬戸内 寂聴」 【3086】 瀬戸内 寂聴 『奇縁まんだら 続』
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●TV-M (その他)」のインデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
個人的好みは「捨ててきた娘」。やや凝った通好みは「双子」と「黒い眼鏡」か。ヒッチコック劇場版は別物。
Muriel Spark(1918-2006/88歳没)
『バン、バン! はい死んだ: ミュリエル・スパーク傑作短篇集』['13年]
ミュリエル・スパーク(1918-2006)の短編集で、1958年発表の「ポートペロー・ロード」ほか15編を収録。収録作品は、「ポートペロー・ロード」(1958)/「遺言執行者」(1983)/「捨ててきた娘」(1957)/「警察なんか嫌い」(1963)/「首吊り判事」(1994)/「双子」(1954)/「ハーパーとウィルトン」(1953)/「鐘の音」(1995)/「バン、バン! はい死んだ」(1961)/「占い師」(1983)/「人生の秘密を知った青年」(2000)/「上がったり、下がったり」(1994)/「ミス・ピンカートンの啓示」(1955)/「黒い眼鏡」(1961)/「クリスマス遁走曲」(2000)。(カバーの15のイラストが15の収録作品に対応したものとなっているのが楽しい。)
「ポートペロー・ロード」... 「私」(通称ニードル)は実は死者である。5年前に世を去ったが、いろいろとし残したことがあって、なかなかあの世でゆっくりもしていられない。そこで、週日は忙しく動き回り、土曜日にはポートベロー・ロードを歩いて気晴らしをしている。そんなある日、旧友の二人連れを見かけ、男の方に声を掛ける。「あら、ジョージ」と―。被害者が幽霊として殺人加害者に話し掛ける。その姿や声は、連れの妻には見えず聞こえない。罪に意識の成せる業ともとれるが、死者が語り手となっているところが面白い。
「遺言執行者」... 叔父の遺作を横取りした姪が、あの世から叔父(とその彼女)に責められる―。叔父からのメッセージが自分の行動を先取りしているのが怖さを増す。死者に監視されている生活は嫌だなあ。単なる怖さと言うより自分への後ろめたさでしょう。むしろ、その後ろめたさが為せる幻覚ともとれる。
「捨ててきた娘」... 仕事を終えてバスに乗り、帰宅しようとして「私」は仕事場に何かを忘れてきたような気がする。頭の中では雇い主のレターさんの吹く口笛の曲が鳴っている。いったい「私」は何を忘れてきたのだろう。バスの運賃を手に握り締めたまま、もういちど仕事場に戻った「私」がそこでみつけたものとは―。面白かった。アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」、フリオ・コルタサルの「正午の島」に通じるものがあった。主人公が「周囲の視線が私を突き抜けていくばかりか、歩行者が私の体を通り抜けていくような感覚があるのだ」というのが伏線か。短めだが本短編集で一番の好み。
「警察なんか嫌い」... 「警官嫌いを直すなら、警察に行くのがいちばんだよ」と叔母に言われた青年は、いやいやながら警察に行った。彼は警察が嫌いだった。ちょうど知り合いの女の子が「郵便局嫌い」だったのと同じように。青年が警察署に行くと、番号で呼ばれ、手錠を掛けられ、独房に入れられた。「言語を絶する事件」が起こり、彼はその犯人なのだという。かくして裁判が開かれ、青年は「言語を絶する罪」により裁かれる―。 「言語に絶する以上、言語にはできないゆえ、証言は認めることができない」という「不思議な国のアリス」などにも出てきそそうな不条理レトリック。有罪になった彼の警察嫌いが直らないのは当然か。
「首吊り判事」... 新聞は死刑の宣告を下したスタンリー判事の表情を。まるで幽霊を見たかのような顔であり、明らかに動揺を見せていた、と伝えた。死刑の宣告が重荷だったのではないか。死刑制度に疑義があるのではないか、と憶測が飛び交う―。実は。スタンリー判事が死刑の宣告をしたとき特別な表情を見せたのは、そのとき彼は勃起し、性的な絶頂に達してしまったからだったというのがすごい。それでも飽き足らないのか、彼がやがて殺人者となることが示唆されている。
「双子」... 「私」が学生時代の友人ジェニーを訪ねる。ジェニーはサイモンと結婚し、二人の間には双子の子供マージーとジェフがいる。幸せを絵に描いたような夫婦と愛くるしい女の子と男の子が暮らしている家だ。楽しい滞在になるはずだった。にもかかわらず、私は次第に微妙な違和感を、その家族に感じ始める―(続きは下段に)。個人的見解だが、この双子そのものはイノセントではないのか。「キッチンでパパと女の人が一緒にいたよ」とママに言ったのでは。夫婦のディスコミュニケーションの煽りを受けて、「私」が全部扇動していることにされてしまったということではないか。
「ハーパーとウィルトン」... 作家である私を訪ねてきたのは、自分が書いた小説の登場人物たちだった―。ひと昔前が舞台だが、現代の基準に沿って自分たちの汚名をそそいでくれと要求する登場人物たち。作者は自らの作品の結末書き直すが、作者自身、座りの悪さを感じていたための出来事ではないか。"夢オチ"ともとれるが、"夢"と現実の両方をつなぐ人物(庭師)がいるのがミソ)。
「鐘の音」... 82歳のマシューズ老人が亡くなって3か月が経ったが、息子ハロルドが父親を殺したとの密告があり、遺体を掘り起こした結果、彼が殺害されたらしいことが判明。老人の息子や直前に老人と口論したフェル医師が容疑者として浮かんだが、彼らには完璧なアリバイが―。時間差トリックで、純粋ミステリに近く、こうしたスタンダードな作品もあるのだなあと。"夏時間"なんて〈後出しジャンケン〉ではないかと思う人もいるかもしれないが、11時50分に出産に立ち会って、帰宅したのが教会の時計が12時を告げた時、という時点でおかしいと思うべきだった。
「バン、バン! はい死んだ」... シビルの家の近所にシビルそっくりの女の子が引っ越してくる。容貌こそ似ていたが、シビルはデジルが好きになれなかった。泥棒ごっこのルールを無視して、いつもシビルだけにピストルを撃つまねをして「バン、バン!はい死んだ」とやるからだ。大人になったシビルは勤務先の南ローデシアで、再びデジルに出会う。農園主と結婚したデジルは、独り身のシビルを家に招待しては夫との熱熱ぶりを見せつける。頭の良さを鼻にかけるシビルに対するデジルの挑発だった。デジル夫婦とシビル、それにもう一人の男との間に仕組まれた愛憎劇。芝居がかった男女関係がこじれて事件は起きる―。「バン、バン!」という通り、犠牲者は二人ということか。最初から事件の起きそうな雰囲気。タイトルで「バン、バン」と2回あるのは、二人死んだからだろう。実はテッドとデジルはうまくいってなかった、そして、事件後、シビルがテッドと一緒になるのだろう。
「占い師」... トランプ占いをやる私がある夫人の占いをしてあげるが、何か夫人のカードを解読する力は自分より上であるように感じる―。占われた相手の夫人の方が占った側の私より人の運命を見る能力が上だったという話。相手は、実は私の将来を見通していて、こちらの占いの先回りをして将来を変えてしまう。つまり、今の夫を捨て、私が夫とすべき男性と一緒になるという皮肉譚だった。
「人生の秘密を知った青年」... 失業中の男の下に現れる幽霊。恋人と結婚できない彼に嫌味を言うが、一方で競馬の当たり馬券を予言し、男が勘で賭けても当たるように。男が一念発起して彼女を射止めると、幽霊は消える―。幸せになったことの引き換えに"超能力"が消えるというパターンの話と同類か。
ル
「上がったり、下がったり」... 彼は21階からエレベーターに乗ってくる、と彼女は確かめた。同じように彼女は16階にある会社に勤めている、と彼は確認した。二人の男女はエレベーターの中で互いを意識する。その階のどの会社に勤めているのか、どこに住んでいるのか、髪の毛は染めているのか、独身なのか。ある日、彼は彼女をディナーに誘う。エレベーター以外の場所で二人が会うのはこれが初めてになる―。二人の男女のそれぞれの視点で交互に描かれていて、二人が口をきくまでに妄想を膨らませすぎているため、彼と彼女のそれぞれの相手に対する認識のズレがあるのが可笑しい。
「ミス・ピンカートンの啓示」... カップルの目の前に、茶碗の受け皿ほどの大きさの、回転する飛行物体が飛んでくるというミニSF譚。まさにフライング・ソーサ―なのだが、受け皿が空を飛んでいて、見る者によっては宇宙人が操縦しているところまで見えたということでマスコミも殺到するのに、当事者たちは、受け皿がどこのブランドなのかの方がさも重大事であるのが可笑しい。英国的なものへの風刺?
「黒い眼鏡」... 「私」は、いま一緒にいる精神科医のグレイ医師が昔の知り合いだったことに気がついた。なぜグレイ医師は一般の開業医を辞め心理学を志すようになったのか―(続きは下段に)。ドロシーとバジルの姉弟が近親相関的関係にあったというグレイ医師の見方は間違いないところでしょう。グレイ医師は精神分析を学んでこの問題を克服したとしているが、そのことを語っている「私」自身がそこに関与している可能性があるため、何が真実なのか分からないとうのは、穿ち過ぎた見方だろうか。
「クリスマス遁走曲」... シンシアがクリスマス休暇でシドニーからロンドンに向かう飛行機で知り合った若さ溢れるパイロットのトム。親切にしてくれ、給油地のバンコクに着いた頃には互いに「忘れられない日になりそうだ」と。離婚協議中だという彼との将来の夢が膨らむ。目的地に着いて、航空会社に電話したら、そんな名のパイロットはウチにはいないと―。果たしてトムは実在したのか。ラストで呆然とする女性がいい。
バラエティに富んだ15編でした。個人的好みはやはり、切れ味が印象に残った「捨ててきた娘」でした。やや凝った通好みは「双子」と「黒い眼鏡」でしょうか。
因みに、「新・ヒッチコック劇場」で「バーン!もう死んだ」というのを観たのですが、これはミュリエル・スパークのものとは全く別のお話(監督は「愛は静けさの中に」('86年/米)のランダ・ヘインズ)。アマンダは男の子たちと一緒に戦争ごっこがやりたいのだが、銃のおもちゃを持っていないため、仲間に入れてもらえない。そんな折、彼女のおじさんが内戦の続くアフリカから戻ってきた。お土産を探し、おじさんの鞄をあさっていると、アマンダは本物の銃を見つける。彼女はそれに弾をこめ、街へ遊びに出て行った―。これはこれで、ハラハラする話でした。旧「ヒッチコック劇場」(TBS版第1話「バァン!もう死んだ」)で男の子だったものを女の子に変え、ラストで狙われるのも家政婦から意地悪な男の子に変更したそうです。街中でわがままな女の子に狙いを定めては外し「運のいい野郎」だと捨て台詞をはくなど、細かい描写もがよく描けていました。
「新・ヒッチコック劇場(第21話)/バーン!もう死んだ」●原題:Alfred Hitchcock Presents -P-3.BANG! YOU'RE DEAD●制作年:1985年●制作国:アメリカ●本国放映:1985/05/05●監督:ランダ・ヘインズ●脚本:ハロルド・スワントン/クリストファー・クロウ●原作:マージェリー・ボスパー●時間:24分●出演:ビル・マミー/ゲイル・ヤング/ライマン・ウォード/ジョナサン・ゴールドスミス/ケイル・ブラウン/アルフレッド・ヒッチコック(ストーリーテラー)●日本放映:1988/03●放映局:テレビ東京●日本放映(リバイバル):2007/07/29●放映局:NHK-BS2(評価★★★☆)
「新・ヒッチコック劇場 7 日本語吹替版」(「惑星人テレビジャック」「処刑飛行」「バーン!もう死んだ」収録)
●やや詳しいあらすじ
「双子」...最初はマージーが自分にお金をくれ、と言ってきたことだ。女の子はその理由を言わなかったので、私が断ると、ジェニーがやってきてパン屋に支払う小銭がなかったので「そう言って」お金を借りてきてちょうだい、と娘に言ったのだという。そういう話だったのなら...と私はきちんと説明しなかったマージーを責めることもできず、ジェニーはジェニーで自分のことをケチだと思っているのかもしれない、と、どちらに転んでも妙な居心地悪さを私は感じる。男の子ジェフもマージーと同じような振る舞いをし、私は気まずい思いをする。数年後、私はジェニー家をパーティ出席のため再訪する。そこで私は前回以上の手の込んだ「仕打ち」を、その家族から被る。後から、そのパーティの際に、サイモンがその場にいた女友達とキッチンで不埒なまねをしていたという出鱈目をジェニーに言ったのが私だという手紙がサイモンから届いたのだ。悪いのは双子の子供たちか、それとも、ジェニーか―。
「黒い眼鏡」... 私が13歳の時近所の眼科医へ眼鏡をつくりにいったときのことだ。あの時眼科医のバジル・シモンズは私の肩に手をやり首筋に触れた。そのときバジルの姉のドロシーが検査室に入ってきた。バジルはすぐに手を引っ込めたがドロシーは何かを認めたはずだ─私はそう確信した。「弟を誘惑するな」とでも言っているようだった。私の祖母と叔母によれば、バジルとドロシーの姉弟には寝たきりの母親がいての母親にはかなりの財産があるらしい。また、ドロシー・バジルは片目が見えないことも祖母と叔母は私に知らせてくれた。二年後、私は眼鏡を壊してしまったので再びバジル・シモンズの店を訪れた。バジルは今でも私に関心を持っているようだった。その時もまた祖母と叔母は再び私にバジルとドロシーに関する情報を知らせてくれた。彼女たちによれば、母親の財産のほとんどは姉のドロシーに相続され、または、弟のバジルに委託されるらしい、と。私はバジル先生のことを思う。すると私はいつのまにかバジル先生の家の前に来ている。窓からバジル先生が書類を見て何かをしているのが見える。それは遺言書の偽造に違いない。私はそう確信した。次の日、眼鏡の調子が悪いとバジル・シモンズを訪ねた。検眼の最中に姉のドロシーが自分の目薬を取りに検査室に入って来た。探していた目薬を手に取りドロシーが二階に戻ると、悲鳴が聞こえた。目薬には毒物が入っており、ドロシーは失明した。これで両目が見えなくなった。その後ドロシーは気が狂ってしまったという。
バジル・シモンズはグレイ医師と結婚したが、しばらくして、姉と同じく精神を病んでしまった。グレイ医師は、私が誰で私が事の次第を知っていることを知らずに、自分の内面を私に聞かせる。性覚醒、エディプス転移といった「くだらない話」を私にする。グレイ医師は、夫のバジルの精神の病は、姉の失明の原因は自分にあると考えていることだと説明する。ドロシーは見てはならないものを見てしまったために、無意識のうちに自分を罰しようと目薬の調合を間違えた。夫のバジルは無意識に姉がそうなることを望んでいたため、自分に責任があると信じてしまった。グレイ医師は、そう読み解く。
それを聞いて私はゲームを始める。グレイ医師は、バジル姉弟は無意識の近親相姦だと言う。私は、そのことをバジルと結婚するとき知らなかったのですか? と尋ねる。グレイ先生は、そのときはまだ心理学を勉強していなかったと答える。何度かこういう遣り取りを繰り返した後、グレイ医師は私に告白する。私が精神科医になったのは、夫のバジルがあれこれ「妄想」を抱くようになったので、それを読み解くために心理学の勉強を始めた、と。効果はあった。なぜなら私は正気を保っているから。私が正気を保っているのは、私が正気を保てるよう、あの事件を読み解いたから。グレイ医師は言う。妻として見れば、夫は有罪──明らかに姉を失明させ、遺言書を偽造した。でも精神科医としては、夫は完全な無罪になる。「なぜご主人の告発を信じないのですか?」「私は精神科医よ。告白はめったに信じない」と―。
「●す ミュリエル・スパーク」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●せ 瀬戸内 寂聴」 【3086】 瀬戸内 寂聴 『奇縁まんだら 続』
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●海外サスペンス・読み物」の インデックッスへ「○海外サスペンス・読み物 【発表・刊行順】」の インデックッスへ
登場人物ほぼ全員70歳以上の「笑劇」&「いやミス」。怪電話の主は「死神」?
『死を忘れるな』['13年]/『死を忘れるな (白水Uブックス) 』['15年]
「死ぬ運命を忘れるな」と電話の声は言った。デイム・レティ(79歳)を悩ます正体不明の怪電話は、やがて彼女の知人たちの間にも広がっていく。犯人探しに躍起となり、疑心暗鬼にかられて遺言状を何度も書き直すデイム・レティ。かつての人気作家で現在は少々認知症気味のチャーミアン(85歳)は死の警告を悠然と受け流し、レティの兄でチャーミアンの夫ゴドフリー(87歳)は若き日の数々の不倫を妻に知られるのを恐れながら、新しい家政婦ミセス・ベティグルー(73歳)の脚が気になる模様。社会学者のアレック(79歳)は彼らの反応を観察して老年研究のデータ集めに余念がない。果たして謎の電話の主は誰なのか―。
ミュリエル・スパーク(1918-2006)が1959年に発表した小説で、原題もまさにMemento Mori(死を想え)。登場人物ほぼ全員70歳以上(レティの今の家政婦アンソニーはぎりぎり69歳だが)の入り組んだ人間模様を、辛辣なユーモアを交えて描き、ミステリの要素もありました。読み始めて最初の20ページいくかいかないかくらいで、病院の患者が1ダースいる老人病科(女性のみ)が舞台となり、あっという間に通算で十数人ぐらいの人物が登場したことになってしまったので、もう一度最初に戻って、人物相関図を作りながら読みました(笑)。
突き放した視点で人間を描く作者らしく、登場人物は喰えない、共感できない人間ばかりで、「笑劇」であると同時に「いやミス」っぽい感じも。ただし、「ミステリの要素もある」としましたが、犯人(電話の主)は明かされておらず、その意味では、サスペンスフルでありながらも、ミステリとして完結しておらず、やや消化不良の感もありました(この作家にまだ慣れてなかったというのもある)。
ただし、登場人物の中には懸命に事態を分析している人物もいて(まあ、するのが普通だが)、デイム・レティは、甥で売れない小説家のエリックか、かつて婚約を破棄した老社会学者のアレック(79歳)の 仕業ではないかと考え、チャーミアンの夫ゴドフリーはその電話は偏執狂か、または妹レティの敵の誰かの仕業ではないかと考え(結局誰かわからないということ(笑))、「老年」を研究課題としているアレックは、自身も謎の電話を受けた一人だが、一連の怪電話の説明に「集団ヒステリー」論を当て嵌めています。
さらに、レティの昔の女中で今は老人病棟にいるミス・テイラー(82歳)は、この人は人間的にはまともなのですが(なにせ、"まともな人"はこの作品では少数派に属する(笑))、最初はアレックを疑っていましたが、最終的に出した決論は(おそらく自身の信仰という観点から)電話の正体は「死神」であると。ところが科学的捜査をしていたはずのモーティマー警部も、最後にはテイラーと同じ結論に至るので、これにはやや驚きました。
この流れていくと、「死神」説は極めて有力(笑)。モーティマーがそうした結論に至ったのは、あらゆる科学的捜査を尽くした上で、尚もそれが解明されないならば、あとは超現実的なものしか残らないだろうということのようです。
作者は、登場人物の会話と行動だけを主として描き、個々の思惟を深く描くことをしないので、結局のところ誰の意見にも加担しておらず、もともと犯人を特定していないようにも思えるし、テイラーとモーティマー警部が異なったアプローチから同一の結論に至っていることから、もしかしたら「死神」説を想定しているのかもしれない―とも思った次第です。
1996年にBBCでTVドラマ化されていて、ミュリエル・スパーク原作、ロナルド・ニーム監督の「ミス・ブロディの青春」('69年/英)で主役のミス・ブロディを演じ「英国アカデミー賞」と「米アカデミー賞」の主演女優賞をW受賞したマギー・スミスが、その縁からか準主役級の家政婦ミセス・ベティグルー役で出ています(原作ではこの人だけハッピーエンドなんだなあ。でも実は主人の遺言を書き換え遺産を独り占めした悪(ワル)だったのかも。ドラマでの描かれ方を知りたい)。
【1964年全集[白水社『新しい世界の文学〈第13〉死を忘れるな』/1981年単行本[東京新聞出版部(『不思議な電話―メメント・モーリ』今川憲次:訳)]/2015年叢書化[白水社Uブックス]】
「●す ミュリエル・スパーク」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●せ 瀬戸内 寂聴」 【3086】 瀬戸内 寂聴 『奇縁まんだら 続』
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●た‐な行の外国映画の監督」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
自分にとってはストーリーよりも技巧(フラッシュフォワード)の小説だった。
『ミス・ブロウディの青春 (1973年) 』『ミス・ブロウディの青春 (白水Uブックス 203 海外小説永遠の本棚)』['15年]『ブロディ先生の青春』['15年/河出書房新社]
「ミス・ブロディの青春」('69年/英)マギー・スミス
1930年代、エディンバラの寄宿制一貫女子学校での、風変わりな女性教師ブロウディ先生と生徒たちの物語。思い込みの激しいブロウディ先生は、自分の世界観に相応しい生徒を育てるために、サンディをはじめとす6名のブロウディ組と呼ばれる少数精鋭的生徒のグループを結成し独特の教育を進める。しかし、思春期の学生の変化は早く、かつてはブロウディに憧れた彼女らも16歳の時点では各々の道を進みたがるようになる―。、
ミュリエル・スパーク(1918-2006)が1961年に発表した小説(原題:The Prime of Miss Jean Brodie)で、英ガーディアン紙「必読小説1000冊決定版リスト」に「運転席」などと共に入っている作品(彼女の作品は5作も入っている)。物語はブロウディ先生とそれを囲む十代前半の生徒たちの話ということで、小説からは結構ガーリームービーっぽい雰囲気も感じました。
それにしても、このブロウディ先生はちょっとやりすぎというかエキセントリックな感じが強くて、自意識としては正義感に満ちているのでしょうが、ブロウディ組の御しやすい生徒を自分の恋愛のために利用したり、あるいはその内の1人に自身の恋愛願望を代行させたりして(その結果、その娘はスペインで爆死することになる)、結構あざとくもあり、また結果として残酷でもあって、シンパシーが湧きにくい感じです。
そもそも、思想的にファシズムに傾倒してしてしまって、これを生徒に押しつけるのもどうかしています(自身がヒトラーやムッソリーニになってしまっている)。遂には生徒の裏切りに遭い、彼女は職を失うことになるのですが、あまり気の毒な気はしませんでした。
むしろ、彼女の自身の信念に沿った行為がどんどん危険なものとなっていくという点で結構ブラックというか、「いやミス」的でもあります。作者の本当の狙いも、実はそのあたりにあるのではないかと思われます。少なくとも、作者はブロウディ先生を突き放しているように思えます。
ただし個人的には、ストーリーよりもその構成に特徴があるように思いました。所謂フラッシュフォワードと言うか、「将来」に起きることやその結末が、「現在」進行中の物語の合間合間に語られています。そのため、ブロウディ先生がやがて生徒に裏切られ、学校を去るということも、読んでいて早い段階から分かります(先に挙げた生徒の悲惨な最期も、実際にはずっと先の話なのだが、読んでいる途中で明かされてしまう)。
あとは、生徒の内の誰がブロウディ先生を裏切ったかということがミステリ的ですが、これもおおよそ検討はつかなくもないです。作者は、ミス・ブロウディを通して、人間の思念の暴走とその成れの果ての悲惨を描き、そこに、作者が得意とするフラシュフォワード的な手法を織り込むことで「決定論」的な世界を構築してみせたものと思われます。ただ、どちらかと言えばやはりストーリーよりも技巧の小説でした(自分にとっては)。
この作品は、ロナルド・ニーム監督(「ポセイドン・アドベンチャー」('72年)、「オデッサ・ファイル」('74年))、マギー・スミス(「ナイル殺人事件」('78年)、「地中海殺人事件」('82年))主演で「ミス・ブロディの青春」('69年/英)として映画化され(邦題でブロディ→ブロディに。そのブロディ組は6人から4人に圧縮されていた)、マギー・スミスが1969年・第23回「英国アカデミー賞」並びに1970年・第42回「アカデミー賞」の主演女優賞をW受賞しています。
1930年頃、スコットランドの首都エジンバラ。マーシア・ブレーンという名門女子高があった。先生たちは、みな地味だったが、一人ミス・ジーン・ブロディ(マギー・スミス)だけは違っていた。派手な服装、ウィットに富んだ会話そして自分はいま、青春のただ中にいると公言してはばからなかった。彼女に反感を持った生徒もいたが、逆に、彼女に惹かれ〈ブロディ一家〉と称する生徒たちもいた。サンディ(パメラ・フランクリン)、モニカ、ジェニー、メリーの四人組である。一方ブロディは、美術教師テディ(ロバート・スティーブンス)の恋人なのだが、彼の態度が煮えきらないので、音楽教師ゴードンに心を移した。こんな一件に生徒たちが関心を持たないはずがない。加えて学校側も攻撃に出る。ブロディの立場は少しずつ悪くなっていく。やがてゴードンが離れ、テディも離れていく。だがブロディはテディのことを忘れることが出来ない。テディとて同じこと。ブロディの代りにサンディをモデルにして絵を描いていたが、顔だけはブロディになってしまう。このことはサンディの心を、いたく傷つけた。やがてブロディにとって進退きわまりない事件が持ちあがった。スペイン戦争を賛美した彼女の教えに、生徒の一人メリーが兄を訪ねて戦場に行ったのである。そして空爆に遭い死んでしまった。攻撃の矢は、いっせいにブロディに向けられ、ついに退職するところまで追いつめられた。頼みの生徒サンディも彼女に背を向ける。ここに来て初めて、ブロディは、自らの青春が終りを告げたことを知るのだった―。
映画では、冒頭からマギー・スミス演じるブロディ先生は学校に新しい息吹をもたらすエースであるかのように颯爽と登場し、女性校長はそれを良く思わない頑固な守旧派のような形で始まって、この点では小説と同じですが、やがてすぐにブロウディ先生はどこかおかしいということが伝わってくるようになっています。それと、映像で見るせいか、性的抑圧が強い印象を受け(実際に複数の男性教師から誘惑される)、彼女の行動の根底にそうしたものがあることを原作以上に窺わせるものとなっていました(サンディって原作ではメガネかけていたっけ。美術教師テディの絵のヌードモデルになるのは原作と同じで、原作では愛人に)。
映画では小説のようなフラシュフォワード的な手法は使われておらず、ブロウディ先生が生徒の裏切りに遭って学校を追われるまでが描かれていますが、学校の授業で、ムッソリー率いる黒シャツ隊の映像を生徒に見せて賛美するのはやはりマズいでしょう。ミス・ブロウディというキャラクターの歪みを分かりやすく描いていましたが、それが画一的な描かれ方にはなっておらず、一定のリアリティを保っているところは、マギー・スミスの演技力によると思われます。
美術教師テディが最初ブロディの代りにサンディとは別の女生徒をモデルに絵を描くも、目がマギー・スミスになっていて女生徒とは似ておらず、彼が描く少年少女や、果ては犬までもがマギー・スミスの目になっているのがご愛敬でした(行き詰ってヌード画家に転身した?)。
「ミス・ブロディの青春 [DVD]」
「ミス・ブロディの青春」●原題:THE PRIME OF MISS JEAN BRODIE●制作年:1969年●制作国:イギリス●監督:ロナルド・ニーム●製作:ロバート・フライアー●脚本:ジェイ・プレッソン・アレン●撮影:テッド・ムーア●音楽:ロッド・マッキューン●時間:102分●出演:マギー・スミス/ロバート・スティーブンス/パメラ・フランクリン/ゴードン・ジャクソン/ジェーン・カー/セリア・ジョンソン/シャーリー・スティードマン/ダイアン・グレイソン●日本公開:1969/11●配給:20世紀フォックス((評価:★★★☆)
【2015年叢書化[白水社Uブックス(岡 照雄:訳)/2015年単行本[河出書房新社(『ブロディ先生の青春』木村政則:訳)]】
「●す ミュリエル・スパーク」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●せ 瀬戸内 寂聴」 【3086】 瀬戸内 寂聴 『奇縁まんだら 続』
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●海外サスペンス・読み物」の インデックッスへ「○海外サスペンス・読み物 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●ハヤカワ・ノヴェルズ」の インデックッスへ(『運転席』)「●か行外国映画の監督」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
「運転席」に座って主人公を"ドライブ"しているのは"狂気"か。今まで読んだことないタイプの話だった。
『運転席 (1972年) (ハヤカワ・ノヴェルズ)』/映画「サイコティック」エリザベス・テイラー/「The Driver's Seat/Impulse [DVD]」(ウィリアム・シャトナー主演「Impulse(「キラー・インパルス/殺しの日本刀」)」とセット)
ヨーロッパのとある北の国で、会計事務所の事務員として働く女性リズは、4か国語を話す30代独身キャリアウーマンである。その彼女がとある南の国へ海外旅行に出かける。チンドン屋みたいにド派手な色合いの服を着て 練り歩き、店員、通行人、警察官、旅先で知りあった人たちに絡んでは、自分の臭跡を残していく。それはやがて起こる悲劇の伏線となる―。
ミュリエル・スパーク(1918-2006)が1970年に発表した小説で、原題もまさにThe Driver's Seat。リズは、旅行の目的地に向かう飛行機の機内においてから、両隣りに座った男性と噛み合わない会話をし、旅先でも出会った老女と何だかおかしい会話をしています。何のための旅行と思われるところがありますが、要は「運命の人」を探すのが旅の目的らしいということがわかってきます。
ここからはネタバレになりますが、彼女は目的地に着いた翌日、現地の「公園のなかの空き別荘の庭で、手首をスカーフで、足首を男のネクタイで縛られたうえ、めった刺しにされた惨死体として」発見されることが、この作家独特のフラッシュフォワード(結末の先取り)として、早いうちに読者に知らされます。したがって、彼女はどうしてそんなことになったのか、物語はミステリの様相を帯びてきます。
ところが、さらにここからネタバレになりますが、どうやら彼女が探していた「運命の人」というのは自分を殺してくれる男性だったようです。つまり、彼女は自分の死に向かってまっしぐらに突き進んでいるわけで、最終的にその目的を果たしたようです。
なぜ彼女がそんなことになっているのかは、作者は直接語ろうとはしないため、彼女の行動、彼女の見るもの、彼女が接触する人物との遣り取りを通して推し測るしかないのですが、とても理解できるようなものではありません。「ホワイダニット」を探る読者に対して作者は「フーダニット」までは示しますが、「ホワイダニット」は読者が自ら考えるしかないのでしょう(作中にも「嬰q長調の"ホワイダニット"」との示唆がある)。
「フーダニット」といっても、そうした性向を持った男性を探し当てたものの、いわば無理強いした嘱託殺人のようなもので、犯人も被害者のようなものかも。因みに「探し当てた男性」は偶然にも彼女が旅先で出会った老女の甥で、しかも、さらに偶然には、実は彼女がこの旅行の早い段階で会っていた!このオチは面白かったです。ある意味、確かに「運命の人」(実態は単なる〈神経症〉男なのだが)。フラッシュフォワード的記述が伏線になっていたましたが、見抜けませんでした。
「運転席」というタイトルは、おそらく彼女の行動をドライブしている(駆り立てている)何者かを示唆しているのでしょう。自殺者が死に向かって突き進む話はありますが、自殺者は自分で死に向かって脚本を書くのに対し、リズの場合は誰かが書いた脚本をひたすら演じているようであり、ある種「解離性人格障害」のようにも思いました。
「運転席」に座ってリズを"ドライブ"しているのは"狂気"でしょうか。今までまったく読んだことのないタイプの小説でした。
この作品は「悦楽の闇」('75年/伊)のジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ監督により「サイコティック/Driver's Seat (Identikit)」('74年/伊)としてエリザベス・テイラー主演で映画化され、エリザベス・テイラーは、アガサ・クリスティの『鏡は横にひび割れて』の映画化作品でガイ・ハミルトン監督の「クリスタル殺人事件」('80年/英)など凖主役級(「クリスタル殺人事件」の場合、一応は主演は犯人役のエリザベス・テーラーではなくミス・マープル役のアンジェラ・ランズベリーということになる)の出演作はこの後にもありましたが、純粋な主演作品としては42裁で出演したこの映画が最後の作品になりました。
映画は劇場未公開で、80年代に日
本語ビデオが「パワースポーツ企画販売」という主としてグラビア系映像ソフトを手掛ける会社から「サイコティック」というタイトルで発売(年月不明)され、こうした会社からリリースされたのは、テイラーの乳首が透けて見えるカットがあるためでしょうか("色モノ"扱い?)。'20年5月にDVDの海外版が再リリーズ、'22年12月VOD(動画配信サービス)のU-NEXTで日本語字幕付きで配信されました。
ある意味、原作通り映像化しているため、原作を知らない人にはわけが分からなかったのではないでしょうか。一部改変されていて、リズが当初からインターポールにマークされている設定になっていますが(ただしその理由は最後まで明かされない)、これは、映画の脚本にも参加したミュリエル・スパークがインターポールに勤務したことがあるという経歴の持ち主のためでしょうか(アンディ・ウォーホルが出演している)。
エリザベス・テイラーは体当たり的にこの難役に挑んでいますが、役が役だけに、また、ましてやオチが不条理オチだけに、評判はイマイチだったようです(彼女の生涯最悪の映画とも言われているらしい)。
この映画のエリザベス・テイラーの演技を見ていると、すべては性的欲求不満が原因のように思えてきますが(彼女はそうした欲求不満の女性を演じるのが上手かった)、この主人公は性的交渉自体を望んでいるわけではありません。主人公が望むのはあくまで「死」であり、彼女がそこまで至ってしまうのは、当時の女性に対する社会的抑圧も誘因としてあったのかなという気がします。
また、「嘱託殺人」を選んだのは、主人公がカソリックで、自殺が禁じられていることも理由として考えられるように思いました(自分を殺す際に手足を縛ることまで要求したのは、あくまでも殺人だと印象付けるため)。
先にも述べた通り、エリザベス・テイラーの長い映画キャリアの中で最も酷い作品とも評されていますが、原作を念頭に置けばそう酷評されるような作品ではなく、むしろよく出来ていると思います。撮影は「ラストエンペラー」のヴィットリオ・ストラーロ、音楽は「家族の肖像」のフランコ・マンニーノであることから、イタリアの製作陣はそれなりの人材を配したのではないでしょうか。イタリア語タイトルは"Smrt u Rimu"(「ローマの死」)。原作では「南の国」としか言われていませんが、いろいろな点で原作をイメージするのにうってつけの作品と言えます。
「サイコティック」●原題:IDENTIKIT(DRIVER'S SEAT/伊:SMRT U RIMU)●制作年:1974年●制作国:イタリア●監督:ジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ●製作:フランコ・ロッセリーニ●脚本:ラファエル・ラ・カプリア/ジュゼッペ・パトローニ・グリッフィ/ミュリエル・スパーク●撮影:ヴィットリオ・ストラーロ●音楽:フランコ・マンニーノ●時間:105分●出演:エリザベス・テイラー/イアン・バネン/グイード・マンナリ/モナ・ウォッシュボーン/アンディ・ウォーホル●配信:2022/12●配信元:U-NEXT(評価:★★★★)
「●さ行の外国映画の監督①」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1447】F・J・シャフナー 「パピヨン」
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
面白い。もう再現不可能な、結構贅沢かつ貴重な俳優陣並びに配役ではなかったか。
「ナイト・オン・ザ・プラネット [DVD]」ウィノナ・ライダー/ジーナ・ローランズ
ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキを舞台に、タクシードライバーと乗客の人間模様を描く、1991年のジム・ジャームッシュ監督のオムニバス映画です。
ロサンゼルス 若い女性タクシー運転手コーキー(ウィノナ・ライダー)は、空港で出会ったビバリーヒルズへ行こうとしている中年女性ヴィクトリア(ジーナ・ローランズ)を乗せる。映画のキャスティング・ディレクターであるヴィクトリアは、新作に出演する女優を探し出すのに手を焼いていた。口は汚いがチャーミングなコーキーに可能性を感じたヴィクトリアはある提案をする―。
ウィノナ・ライダー(当時19歳)がいい。こうした役を演じつつ、2年後のマーティン・スコセッシ監督の「エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事」('93年/米)で伝統主義的な貴族の娘を演じて「ゴールデングローブ賞助演女優賞」を受賞しているからスゴイ。2001年に窃盗罪で逮捕され有罪となりキャリアが途切れかかったが、何とかつながった(10代の頃に境界性パーソナリティ障害を患っていたということと関係しているのか)。ジーナ・ローランズが佇むラストの余韻もいい。
ニューヨーク 寒い街角で、黒人の男ヨーヨー(ジャンカルロ・エスポジート)はブルックリンへ帰るためタクシーを拾おうとするが、なかなか捕まらない。ようやく捕まえたタクシーを運転していたのは、東ドイツからやってきたばかりのヘルムート(アーミン・ミューラー=スタール)。しかし彼は英語がうまく話せず、その上オートマ車の運転もろくにできない。降りようにも降りられないヨーヨーは、自分でタクシー
を運転する―。
面白かった。タクシー運転手役のアーミン・ミューラー=スタールは元々東ドイツの俳優で、政府によりブラックリストに載せられたため、1980年、西ドイツに逃亡する形で移住、反体制運動に加担しキャリアを断たれてから2年後、俳優業を再開し、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督の「ベロニカ・フォスのあこがれ」('82年/西独)で完全復活している。映画では、ラストはちょっと心許ないヘルムートだった。
パリ 大使に会いに行くという黒人の乗客2人の態度に腹を立てたコートジボワール移民のタクシー運転手(イザック・ド・バンコレ)は、我慢ならず途中下車させてしまう。そこに若い盲目の女(ベアトリス・ダル)が乗車する。当初、運転手は気が強く態度の大きい女に苛立っていたが。だが、彼は晴眼者の
自分以上に鋭い感覚を持つ女には物事の本質が的確に見えているように思え、何とも言い難い強い印象を受ける―。
ジャン=ジャック・ベネックス監督の「ベティ・ブルー/愛と激情の日々」('86年/仏)でデビューしたベアトリス・ダルがいい。ラストで風を受けて川べりを歩くシーンが特に。
ローマ 1人で無線相手にうるさく話しかけるタクシー運転手ジーノ(ロベルト・ベニーニ)は神父(パオロ・ボナチェリ)を乗せる。そして、せっかく神父を乗せたのだからと勝手に懺悔し始めるが、その内容は傍から見ればハレンチな艶笑話ばかり。神父は心臓が悪く薬を飲もうとするが、ジーノの乱暴な運転のせいで薬を落としてしまう。仕方なく神父は、我慢してジーノの"懺悔"を聞き続ける―。
ロベルト・ベニーニが可笑しい。ジム・ジャームッシュ監督の「ダウン・バイ・ロー」('86年/米・西独)に続くこの作品で注目を集め、自身が監督・脚本・主演を務めた「ライフ・イズ・ビューティフル」('97年/伊)は「アカデミー賞」では本命のトム・ハンクス(「プライベート・ライアン」)を押しのけて主演男優賞を受賞した。彼にとっては、そうしたステップアップの基となった作品。
ヘルシンキ 凍りついた街で無線連絡を受けたタクシー運転手ミカ(マッティ・ペロンパー)。待っていたのは酔っ払って動かない3人の労働者風の男。その中の1人アキは酔い潰れていて車に乗ってからも眠っているが、残る2人はミカに、今日がアキにとってどれほど不幸な1日かを高らかに語り始める。しかし、ミカは今、アキとは比べ物にならないほどに不幸であるがために、彼らの話に動じることは
なかった―。
タクシー運転手ミカ役のマッティ・ペロンパーは俳優兼ミュージシャンで、フィンランドの名匠アキ・カウリスマキ監督のコメディ・ロードムービー「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」('89年/フィンランド・スウェーデン)に主演している。酔っ払い役を演じた他の俳優らも、ミュージシャンでもあったり、アキ・カウリスマキ監督の作品に出ていたりするようだ。アキ・カウリスマキ監督と同じような俳優の使い方をしているのが興味深い。
90年代のレンタルビデオ全盛期にビデオショップで借りて「拾い物」だった作品です。自主制作映画なのですが、今こうして振り返ると、もう再現不可能な、結構贅沢かつ貴重な俳優陣並びに配役ではなかったでしょうか。
「ナイト・オン・ザ・プラネット」●原題:NIGHT ON EARTH●制作年:1991年●制作国:アメリカ●監督・製作・脚本:ジム・ジャームッシュ●撮影:フレデリック・エルムス●音楽:トム・ウェイツ●時間:129分●出演:(ロサンゼルス)ウィノナ・ライダー/ジーナ・ローランズ/(ニューヨーク)アーミン・ミューラー=スタール/ジャンカルロ・エスポジート/アンジェラ - ロージー・ペレス/(パリ) イザック・ド・バンコレ/ベアトリス・ダル/(ローマ)ロベルト・ベニーニ/パオロ・ボナチェリ/(ヘルシンキ) マッティ・ペロンパー/カリ・ヴァーナネン/サカリ・クオスマネン/トミ・サルミラ●日本公開:1992/04●配給:フランス映画社(評価:★★★★)●最初に観た場所[再見]:シネマート新宿(スクリーン2)(24-03-08)
「●や‐わ行の外国映画の監督①」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3245】 李睿珺(リー・ルイジュン) 「小さき麦の花」
「●「ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞」受賞作」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
ゴチック・ムービー×フェミニズム映画。エマ・ストーンの熱演&怪演に尽きる。
「哀れなるものたち」エマ・ストーン
医学生のマックス・マッキャンドルス(ラミー・ユセフ)は、外科医で研究者のゴドウィン・バクスター(通称ゴッド)(ウィレム・デフォー)の助手に選ばれる。ゴッドはベラ・バクスター(エマ・ストーン)という知能が未発達の成人女性の研究をしてお
り、マックスはベラが覚えた言葉や食べた物を記録する仕事を引き受ける。ベラはゴッドの家の中に閉じ込められ、日々多くの語彙や感情を覚え、次第には性の歓びをも覚えていく。マックスは近くで観察する時間を過ごす中で、ベラに好意を抱くようになる。ベラの正体をゴッドに問い詰めたマックスは、次のよ
うな事実を知らされる。ある時、ヴィクトリア(エマ・ストーン、二役)という妊婦が橋から飛
び降り自殺をし、その遺体を発見したゴッドが、生存していた胎児の脳を妊婦に移殖して生き返らせたのだという。ゴッドの励ましを受け、マックスはベラに結婚を申し込み、ベラもそれを受け入れた。しかし、知性が急速に発達していったベラは自然と外の世界に興味を持ち始め、結婚の契約のために家に上がり込んだ放蕩者の弁護士ダンカン(マーク・ラファロ)に誘われて大陸横断の旅に出る。大人の体を持ちながら新生児の目線で世界を見つめるベラは時代の偏見から解放され、平等や自由を知り、驚くべき成長を遂げていく―。
ヨルゴス・ランティモス監督の2023年作で、「女王陛下のお気に入り」('18年/英・アイルランド・米)の時のエマ・ストーンと再びタッグを組み、スコットランドの作家アラスター・グレイの同名ゴシック小説を映画化したもの。2023年・第80回「ベネチア国際映画祭 金獅子賞」を受賞し、第96回アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞、脚色賞ほか計11部門にノミネートされ、主演女優賞、衣装デザイン賞、美術賞、メイクアップ&ヘアスタイリング賞の4部門で受賞しました。
2023年10月28日には全世界での劇場公開に先駆け東京国際映画祭で上映され、2024年1月、R18+指定作品としては異例の約330スクリーンという大規模で公開、Dolby Atmos版も同時上映され、個人的にはそれを観ました。
『哀れなるものたち (ハヤカワepi文庫 ク 7-1 epi111)』['23年9月]カバーイラスト:アラスター・グレイ(作者)
原作は1992年に発表されたアラスター・グレイ(自作の挿画や表紙絵を自分で手掛けることで知られる)の同名小説('23年/ハヤカワepi文庫)で、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1818年)などをルーツとするゴチック小説並びにゴチック・ムービーの系譜と見ていいのではないでしょうか(最近自分が観た中では、テリー・ギリアム監督の「Dr.パルナサスの鏡」 ('09年/英・カナダ)などもゴチック・ムービーと言えるか)。同時に、ポジティブで、パワフルなフェミニズム映画にもなっています。
「ラ・ラ・ランド」('16年/米)で2016年・第73回「ベネチア国際映画祭 女優賞」、第74回「ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメデ
ィ部門)」、第89回「アカデミー賞アカデミー主演女優賞」受賞のエマ・ストーンが、この作品でも2024年・第81回「ゴールデングローブ賞 主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)」、第96回「アカデミー主演女優賞」を受賞しました。
「アカデミー主演女優賞」では、「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」('23年/米)のリリー・グラッドストーンが対抗馬とされていましたが、リリー・グラッドストーンは受け身的な演技が多かったため、ここまでエマ・ストーンに熱演&怪演されると、エマ・ストーンに賞を持っていかれるのは仕方がないかなという感じです。
最後に、ベラが母であるヴィクトリアの自殺の原因が暴力的で残虐な夫・アルフィー(クリストファー・アボット)にあったことを突き止め、医者としてゴッドの研究を引き継ぐことを決意したベラが、(手始めに?)アルフィーにヤギの脳を移殖したという、言わば復讐劇的なオチでした。
ただし、ベラ=ヴィクトリアの関係において、母ヴィクトリアの躰に胎児ベラの脳を移植した場合、ベラがヴィクトリアの身体を支配するという、それが可能かどうかはともかく、至極"科学的"な前提で物語が進んでいるのに、最後にアルフィーがヤギになったような終わり方(クリス・ウェイラス監督の「ザ・フライ2 二世誕生」 ('88年/米)がこのパターンだった)になっていて、そこに矛盾を感じました。
「ザ・フライ2 二世誕生」の場合は、悪玉の科学者がハエ男にされてしまうという"因果応報"的結末でしたが、この映画では、ベラ=ヴィクトリアの関係に準じれば、ヤギがアルフィーの躰を支配していることになり、アルフィーとしての意識は無いため、"因果応報"になっていないように思います。面白かったし、衣装や美術、特撮も見応えがあっただけに、そこのみ残念でした。
原作はもっと凝ったメタ物語の構成になってますが(枠組みとしてはゴッドの手記になっている)、映画のラストに相当する部分(アルフィーへのヤギの脳の移植)は無く、アルフィー・ブレシントン将軍は後日自殺して果てることになっています。
「哀れなるものたち」●原題:POOR THINGS●制作年:2023年●制作国:イギリス・アメリカ・アイルランド●監督:ヨルゴス・ランティモス●製作:エド・ギニー/アンドリュー・ロウ/ヨルゴス・ランティモス/エマ・ストーン●脚本:トニー・マクナマラ●撮影:ロビー・ライアン●音楽:イェルスキン・フェンドリックス●時間:141分●出演:エマ・ストーン/マーク・ラファロ/ウィレム・デフォー/ラミー・ユセフ/クリストファー・アボット/キャサリン・ハンター/ジェロッド・カーマイケル/マーガレット・クアリー/ハンナ・シグラ●日本公開:2024/01●配給:ディズニー●最初に観た場所:TOHOシネマズ日比谷(スクリーン5・デジタルTCX DOLBYATMOS上映)(23-02-08)((評価:★★★★)
ハンナ・シグラ(ベラがその影響を受け、生きる道筋を見出だす老婦人マーサ・フォン・カーツロック)
TOHOシネマズ日比谷スクリーン5・デジタルTCX DOLBYATMOS
「●アンドレイ・タルコフスキー監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●アルフレッド・ヒッチコック監督作品」【3143】 アルフレッド・ヒッチコック 「断崖」
「●「カンヌ国際映画祭 監督賞」受賞作」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
独特の映像美。やはりこの監督の作品は高画質で観るに限ると改めて思った。
「ノスタルジア [DVD]」
イタリア中部トスカーナ地方、朝露にけむる田園風景に男と女が到着する。モスクワから来た詩人アンドレイ・ゴルチャコフ(オレーグ・ヤンコフスキー)と通訳のエウジュニア(ドミツィアナ・ジョルダーノ)。二人は、ロシアの音楽家パヴェル・サスノフスキーの足跡を辿っていた。18世紀にイタリアを放浪し、農奴制が敷かれた故国に戻り自死したサスノフスキーを追う旅。その旅も終りに近づく中、アンドレイは病に冒されていた。古の温泉地バーニョ・ヴィニョーニで
、二人はドメニコという男と出会う。彼は、世界の終末が訪れたと信じ、家族で7年間も家に閉じこもり、人々に狂信者と噂される男だった。ドメニコのあばら屋に入ったアンドレイは、彼に一途の希望を見る。ドメニコは、広場の温泉を蝋燭の火を消さずに渡り切れたなら世界はまだ救われると言うのだ。アンドレイが宿に帰ると、エウジェニ
アが恋人のいるローマに行くと言い残して旅立った。再びアンドレイの脳裏を故郷のイメージがよぎる。ローマに戻ったアンドレイは、エウジェニアからの電話で、ドメニコが命がけのデモンストレーションをしにローマに来ていることを知る。ローマのカンピドリオ広場のマルクス・アウレリウス皇帝の騎馬像に登って演説するドメニコ。一方、アンドレイはドメニコとの約束を果たしにバーニョ・ヴィニョーニに引き返し、蝋燭に火をつけて広場の温泉を渡り切ることに挑む決意をする。演説を終えたドメニコがガソリンを浴び火をつけて騎馬像から転落した頃、アンドレイは、火を消さないようにと、二度、三度と温泉を渡り切る試みを繰り返すのだった―。
アンドレイ・タルコフスキーが1983年にイタリアで製作したイタリア、ソ連合作映画。1983年・第36回「カンヌ国際映画祭」創造映画大賞(「監督賞」相当)受賞作(「国際映画批評家連盟賞」「エキュメニック審査員賞」も併せて受賞)。ローマのチネテカ・ナチオナーレの協力で 4Kで 修復が行われ、ボローニャ復元映画祭2022でワールドプレミア上映されたものが日本でもロードショー公開されたので観に行きました。そして、やはりこの監督の作品は独特の映像美が真骨頂であり、4Kで観るに限ると改めて思った作品でした。
主人公のアンドレイには、その名の通り、祖国を追放になったタルコフスキー自身が反映されているし、彼がその足跡を辿る放浪詩人サスノフスキーにもそれは反映されているとみていいでしょう。彼の故郷の記憶が夢に甦る場面は、「惑星ソラリス」('72年)や「鏡」('75年)にも通じるところがあるように思いました。哲学的なムードが漂いますが「ノスタルジア」という情緒的なタイトルのもと、映像詩として鑑賞すれば、意外とシンプルに伝わってくる作品ではないでしょうか。
タルコフスキー作品は、'80年に「岩波ホール」で「鏡」(を観て、その今までどの映画でも観たことのない類の映像美に圧倒されました。3年後の'83年3月に「大井ロマン」で再見しましたしたが、その際に併映だった「ストーカー」('79年)は、観ていてSF仕立ての筋を追いすぎたせいか、逆にあまり頭に入ってきませんでした(結局何も起こらないので眠くなった(笑))。同年5月に「大井武蔵野館」で「惑星ソラリス」を観ましたが、これも同様、あまり頭に入ってこない。ところが'23年に「シネマブルースタジオ」で「惑星ソラリス」を再見して、こんな分かりやすい映画だったかと(クリストファー・ノーランの「インセプション」('10年/米)を観た時、おそらくそれに影響を与えたと思われるこの作品のあらすじを確認したというのもある)。そこで今回は、先述の通り、最初からタルコフスキー独自の映像詩としての美しさを堪能するつもりで、あらすじの方は事前に押さえた上で鑑賞しました。そしたら、堪能できました。
今のところ、タルコフスキー映画の'72年以降5作の個人的評価は、評価の高い順位に、
「鏡」('75年)..................... ★★★★★
「惑星ソラリス」('72年)....... ★★★★☆
「ノスタルジア」('83年)....... ★★★★
「サクリファイス」('76年).... ★★★☆
「ストーカー」('79年)......... ★★★
とちょうど段階的になっている感じで、ただし、「ストーカー」なども観直してみたら「ソラリス」みたいに評価が変わるかもしれません。とにかく、寝不足で映画館に行かない方がいいのは確かです(笑)。
「ノスタルジア [DVD]」
「ノスタルジア」●原題:NOSTALGHIA(英:NOSTALGIA)●制作年:1983年●制作国:イタリア・ソ連●監督:アンドレイ・タルコフスキー●製作:レンツォ・ロッセリーニ/マノロ・ポロニーニ●脚本: アンドレイ・タルコフスキー/トニーノ・グエッラ●撮影:ジュゼッペ・ランチ●時間:126分●出演:オレーグ・ヤンコフスキー/エルランド・ヨセフソン/ドミツィアナ・ジョルダーノ/パトリツィア・テレーノ/ラウラ・デ・マルキ/デリア・ボッカルド/ミレナ・ヴコティッチ●日本公開:1984/03●配給:ザジフィルムズ●最初に観た場所:Bunkamura ル・シネマ渋谷宮下(24-02-13)(4K修復版)(23-02-08)(評価:★★★★)
「●た‐な行の外国映画の監督」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3284】 ピーター・チャン「ラヴソング」
「●レスリー・チャン(張國榮) 出演作品」の インデックッスへ 「●コン・リー(鞏俐)出演作品」の インデックッスへ 「●周迅(ジョウ・シュン)出演作品」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
カタルシス効果は弱いが、デカダンスな雰囲気を醸す映像はスタイリッシュ。
「花の影」張國榮(レスリー・チャン)/鞏俐(コン・リー)/林健華(リン・チェンホア)
富豪に嫁いだ姉を頼り、蘇州にやってきた少年・
忠良(チョンリァン)。そこでは当主の愛娘・如意(ルーイー)を始め、皆が阿片に酔いしれていた。退廃した空気の中、最愛の姉に弄ばれ絶望した忠良は屋敷を飛びだす。時は過ぎ、1920年代の魔都・上海。心に傷を負って女性を愛せなくなった忠良(張国栄(レスリー・チャン))は、人妻を誘惑して金品を巻き上げる上海マフィア配下のジゴロとなっていた。そんな彼に、マフィアのボスが故郷の女富豪を誘惑する様に命令を下す。彼女こそ、美しく成長した如意(鞏俐(コン・リー))だった。様々な思惑を交差させながら、二人はいつしか本気で愛し合うようになるが―。
「花の影 [Blu-ray]」
1996年公開作で、陳凱歌(チェン・カイコー)監督のもと、「さらば、わが愛/覇王別姫」('93年/中国)に続いて張国栄(レスリー・チャン)と鞏俐(コン・リー)が再び組んだメロドラマ。1920年代の上海と蘇州を舞台に退廃的で破滅的な男女の愛を描いています。
「さらば、わが愛/覇王別姫」に比べ、政治が背景に後退し、恋愛メロドラマ的要素が前面に出ています。「さらば、わが愛/覇王別姫」で一人の男性を巡って愛を争ったレスリー・チャンとコン・リーが、今度は愛し合う関係になっていますが、と言っても陳凱歌なので一筋縄ではいきません。レスリー・チャン演じる忠良は、幼い頃に姉夫婦に性的虐待を受け、「心が死んでいて」人を愛せない性質になってしまっています。
最後はコン・リー演じる如意にそのことをズバリと言われ、彼女は別の男と結婚することに。そこで忠良とった行動は―。う~ん、ちょっとやり過ぎという感じ。他人のモノになるならいっそ自分が...ということでしょうが、彼の愛が結局はエゴでしかないことをよく表していると言えばそうだけれども、後味があまりよくない(結局、姉の夫、つまり如意の父親も彼がヒ素を使って廃人にしたのか)。
というわけでカタルシス効果は弱いですが、デカダンスな雰囲気を醸す映像はスタイリッシュでもあります。室内シーンが多いせいか、クリストファー・ドイルっぽくはなかったかもしれませんが、この映像美を味わうだけでも価値はあるように思いました。
考えてみれば、香港のレスリー・チャンと中国のコン・リーと、如意の家に養子に行く端午(ドァンウー)を演じた台湾の林健華(リン・チェンホア=ケビン・リン)の3か国スター"揃い踏み"。その中でも端午の変貌が興味深く、特にラストは"大変貌"を遂げていました(まさか頼りない雰囲気だった彼が最後に〇〇になるとは(苦笑)。血統主義の中国らしいと言えばそうだが)。
当時30歳のコン・リーが奇麗。忠良が行くナイトクラブの垢抜けない少女(アヘン中毒者?)は周迅(ジョウ・シュン)だったのかあ。婁燁(ロウ・イエ)監督の 「ふたりの人魚(蘇州河)」(1998年撮影)の2年前、22歳の頃ということになりますが、全然分からなかったです。
鞏俐(コン・リー)/周迅(ジョウ・シュン)
「花の影」●原題:風月(英:TEMPTRESS MOON)●制作年:1996年●制作国:香港・中国●監督:陳凱歌(チェン・カイコー)●製作:湯君年(タン・チュンニェン)/徐楓(シュー・フォン)●脚本:舒琪(シュウ・チー)●撮影: クリストファー・ドイル(杜可風)●音楽: 趙季平(チャオ・チーピン)●原案: 陳凱歌/王安憶(ワン・アンイー)●時間:128分●出演:張國榮(レスリー・チャン)/鞏俐(コン・リー)/林健華(リン・チェンホア)/何賽飛(ホー・サイ
フェイ)/呉大維(デヴィッド・ウー)/謝添(シェ・ティェン)/周野芒(ジョウ・イェマン)/周潔(ジョウ・ジェ)/葛香亭(コー・シャンホン)/周迅(ジョウ・シュン)●日本公開:1996/12●配給:日本ヘラルド映画(評価:★★★☆)●最初に観た場所[4K版]:池袋・新文芸坐(24-02-26)
新文芸坐(2024年2月26日撮影)
「●五所 平之助 監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●山本 嘉次郎 監督作品」【1496】 山本 嘉次郎「エノケンの近藤勇」
「●「キネマ旬報ベスト・テン」(第1位)」の インデックッスへ(「マダムと女房」)「●田中 絹代 出演作品」の インデックッスへ 「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ ○あの頃映画 松竹DVDコレクション
日本初の本格的トーキー映画。「音」をモチーフにしている点が工夫されていた。
「あの頃映画 マダムと女房/春琴抄 お琴と佐助 [DVD]」
劇作家の芝野新作(渡辺篤)は、「上演料500円」の大仕事を受け、静かな環境で集中して台本を書くため、郊外の住宅地で借家を探し歩いていた。そのうち路上で写生をしていた画家(横尾泥海男)と言い争いになり、それを銭湯帰りの隣の「マダム」こと山川滝子(伊達里子)が仲裁する。妻・絹代(田中絹代)や2人の子供とともに新居に越してきた新作だったが、仕事に取りかかろうとするたびに、野良猫の鳴き声や、薬売りなどに邪魔をされ、何日も仕事がはかどらない。ある日、隣家でパーティーが開かれ、ジャズの演奏が始まった。新作はたまらず隣家に乗り込むが、応対したのはかつての「マダム」だった。マダムは自身がジャズ・バンドの歌手であることを明かし、音楽家仲間を紹介した。新作は言われるままに隣家に上がり、酒をすすめられ、とも
に歌った。その頃、絹代は窓越しに隣家の様子を見ていた。「ブロードウェイ・メロディー」を口ずさみながら上機嫌で帰宅した新作を絹代は叱りつけ、嫉妬心からミシンの音を立て始め、果てには「洋服を買ってちょうだい」とねだる。新作はそんな絹代に取り合おうとせず、「上演料500円。不言実行」と告げて机に向かう。数日後。芝野家は、百貨店から自宅へ戻る道を歩いていた。住宅の新築工事や、空を飛ぶ飛行機をながめながら談笑し、一家はささやかな幸福を噛みしめる。そのうち「マダム」宅から「私の青空」のメロディが流れ、一家は口ずさみながら家路につく―。
1931(昭和6)年公開の五所平之助監督作で、松竹キネマ製作(松竹キネマ蒲田撮影所撮影)の日本初の本格的トーキー映画。全編同時録音で撮影され、カットの変わり目で音が途切れぬよう、3台のカメラを同時に回して撮影されており、1931年度の「キネマ旬報ベストテン」で第1位作品です。
脚本の北村小松は、同年の小津映画監督「淑女と髯」「東京の合唱(コーラス)」の脚本家(原作者)でもあります(「東京の合唱」は同年「キネマ旬報ベストテン」第3位にランクインしている)。
ストーリーだけ見れば何てことはない話ですが、トーキーということを意識して「音」というのを1つの重要なモチーフにしている点が工夫されているように思いました。ラストでそれまで和装だった一家が洋装になっていて、空飛ぶ飛行機を見上げながら自分たちもいつかそれに乗ろうという話をしているのも、新しい時代を感じさせ、トーキー第1作に相応しいと言えるかも(ただし、映画公開の翌月1931年9月に満州事変が勃発しているのだが)。
小津安二郎監督の 「大学は出たけれど」('29年)で当時19歳で主人公の許嫁を演じて初々しかった田中絹代は、この作品当時は当時21歳。役柄上、手のかかる子どもが二人いて、しかも旦那の稼ぎが安定しないために、少しやつれた感じになっています(21歳で夫とは倦怠期で、二人の子どもを抱え、生活に追われているのかあ。昔は今より早婚だったから現実にこうしたことがあったかもしれない)。
結局ハッピーエンドだったのですが、ラストシーンで彼女も夫に倣ってばっちり洋装で決めたかと思ったら、仕立ての良さそうな和服で、髪だけがやや洋髪の和洋折衷(?)でした。う~ん、'29年に世界恐慌があり、「大学は出たけれど」('29年)や「東京の合唱(コーラス)」('31年)にはバックグラウンドとしてその影響が観られますが、この映画を観ていると(飛行機で旅行したいという夢の行き先がハワイと大阪の違いはあるが)昭和の高度経済成長期の初期と重なるイメージがあって、不思議な印象も。
冒頭に出てくる新作と喧嘩する画家に横尾泥海男(でかお、身長が185㎝あり、黒澤明監督の「虎の尾を踏む男達」('52年(製作は'45年)に常陸坊の役で出演している)、その喧嘩で倒れたイーゼルのために自分が運転するトラックが通行できなくなり、「このガラクタを轢いちまうぞ」と叫ぶ運転手に、「出来ごころ」('34年)、「浮草物語」('34年)、「東京の宿」('35年)などの主演で小津映画の常連の坂本武(カメオ出演)、新作の家に薬の訪問販売に来る怪しげな(最初の内は不気味ですらある)男に、「一人息子」('36年)など小津映画で気のいい人物を演じることが多い日守新一(清水宏監督の「按摩と女」('34年)や「簪(かんざし)」('41年)にも出演)などが出ていました(日守新一らしく、結局、単にい調子のいい押し売りだった)。
「マダムと女房」●制作年:1931年●監督:五所平之助●脚本:北村小松●撮影:水谷至宏/星野斉/山田吉男●時間:56分●出演:渡辺篤/田中絹代/市村美津子/伊達里子/横尾泥海男/吉谷久雄/月田一郎/日守新一/小林十九二/関時男/坂本武/井上雪子●公開:1931/08●配給:松竹キネマ●最初に観た場所:神保町シアター(24-02-27)(評価:★★★☆)
「●五所 平之助 監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●山本 嘉次郎 監督作品」【1496】 山本 嘉次郎「エノケンの近藤勇」
「●小国 英雄 脚本作品」の インデックッスへ「●芥川 也寸志 音楽作品」の インデックッスへ 「●上原 謙 出演作品」の インデックッスへ 「●田中 絹代 出演作品」の インデックッスへ 「●高峰 秀子 出演作品」の インデックッスへ 「●芥川 比呂志 出演作品」の インデックッスへ 「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ
シリアスな中にコミカルな要素がうまく散りばめられている。生活風俗記録としても貴重。
「煙突の見える場所 [DVD]」上原謙/田中絹代「煙突の見える場所 [DVD]」芥川比呂志/高峰秀子
東京北千住のおばけ煙突―それは見る場所によって一本にも二本にも、又三本四本にも見える。界隈に暮す人々を絶えず驚かせ、そして親しまれていた。......足袋問屋に勤める緒方隆吉(上原謙)は、両隣で競いあう祈祷の太鼓とラジオ屋の雑音ぐらいにしか悩みの種をもたぬ平凡な中年男だが、戦災で行方不明の前夫をもつ妻・弘子(田中絹代)には、どこか狐独な影があった。だから彼女が競輪場のアルバイトでそっと貯金していることを知ったりすると、それが夫を喜ばせるためとは判っても、隆吉はどうも裏切られたような気持になる。緒方家二階の下宿人で人のいい税務署員・久保健三(芥川比呂志)は、隣室にこれまた下
宿する上野の街頭放送のアナウンサー・東仙子(高峰秀子)が好きなのだが、相手の気持がわからない。彼女は残酷なくらい冷静なのだ。そんな一家の縁側にある日、捨子があった。添えられた手紙によれば弘子の前夫・塚原(田中春男)の仕業である。戦災前後のごたごたから弘子はまだ塚原の籍を抜けていない。二重結婚の咎めを怖れた隆吉は届出ることもできず、徒らにイライラし、弘子を責める。泣きわめく赤ん坊が憎くてたまらない。夜も眼れぬ二階と階下の
イライラが高じ、とうとう弘子が家出したり引戻したりの大騒ぎに。さらには赤ん坊が重病に罹る。慌てて看病をはじめた夫婦は、病勢の一進一退につれて、いつか本気で心配し安堵するようになる。健三の尽力で赤ん坊は塚原の今は別れた後妻・勝子(花井蘭子)の子であることがわかり、当の勝子が引取りに現われた時には、夫婦は赤ん坊を渡したくない気持ちになっていた。彼らはすつかり和解していた。赤ん坊騒ぎに巻き込まれて、冷静一方の仙子の顔にもどこか女らしさが仄めき、健三は楽しかった―。
1953年公開の五所平之助監督作で、「文學界」に掲載された椎名麟三の「無邪気な人々」を小国英雄が脚色したもので、原作は世田谷区の下高井戸あたりが舞台でしたが、それを荒川沿いにあった通称"お化け煙突"の見える足立区の小さな町に変えています('53年「ベルリン国際映画祭 国際平和賞」受賞作)。
今住んでいるぼろ家の家賃が三千円と安いため、引っ越しできないという上原謙と田中絹代の主人公夫婦が置かれている状況は、社会派リアリズムと言っていいのでは。少しでもやり繰り
をと2階の6畳と4畳半を若い人に貸していますが(又貸しはOKか)、その若者2人を演じるのが芥川比呂志と高峰秀子で、考えてみれば、場所は狭いが配役は豪華では(笑)。この男女2人が襖一つ挟んで会話しているところから、2人の仲はそう悪くないということが窺われますが(それでも今だったら考えられないシチュエーション)、下で上原謙と田中絹代が繰り広げる夫婦喧嘩の内容が全部聴こえてくるというのは、益々プライバシーも何もあったものではないなあと。
上原謙と田中絹代の主人公夫婦は共に悲観主義者で、どんどん暗くなっていき、田中絹代演じる妻は最後には荒川で入水自殺しようまでします(「山椒大夫」みたいだけれど荒川で死ねるのか?)。こうしたぺシミズムの進行に待ったを掛けるのが、高峰秀子が演じる あくまでも前向きな(今風に言えば)OLで、このオプティミズムは高峰秀子にぴったり。一方、そうしたおせっかいに付き合わされる人のいい税務署員が芥川比呂志で、このコミカルな演技ぶりが意外性があり、また、全体としても、(ラストはハッピーエンドだがプロセスにおいて)シリアスな中にコミカルな要素がうまく散りばめられる効果にもなっていました。芥川比呂志はこの作品の演技で、1953年・第8回「ブルーリボン賞 男優助演賞」受賞。音楽の芥川也寸志が同賞の「音楽賞」を受賞しているため、兄弟受賞になります(最後、入水自殺を図る妻を助けるのも彼。気付けに川の水を飲ませていたけれど、隅田川ではなく荒川だから、何とか飲めるのか)。
因みに「お化け煙突」があった千住火力発電所は、かつて東京都足立区にあった東京電力の火力発電所で、1926(大正15)年から1963(昭和38)年までの間、隅田川沿いに在りましたが、施設の老朽化と豊洲に新しい火力発電所が建設されたことが理由で、翌年には取り壊されました。煙突の一部が2005(平成17)年3月末まで存在した足立区立元宿小学校で、滑り台として使用されていましたが、現在は帝京科学大学千住キャンパスの敷地内でモニュメントとして保存されています。映画の人々が住んでいる場所は、隅田川の北岸にあった煙突のさらに荒川を挟んで北側で、現在の足立区・梅田近辺と思われます。「お化け煙突」はもちろん、当時の庶民の生活風俗記録としても貴重な側面を持った映画かと思います。
お化け煙突モニュメント
「煙突の見える場所」●制作年:1953年●監督:五所平之助●製作:内山義重●脚本:小国英雄●撮影:三浦光雄●音楽:芥川也寸志●原作:椎名麟三●時間:108分●出演:上原謙/田中絹代/芥川比呂志/高峰秀子/関千恵子/田中春男/花井蘭子/浦辺粂子/坂本武/星ひかる/大原栄子/三好栄子/中村是好/小倉繁●公開:●最初に観た場所:神保町シアター(24-03-19)(評価:★★★☆)「煙突の見える場所 [DVD]」
「●五所 平之助 監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●山本 嘉次郎 監督作品」【1496】 山本 嘉次郎「エノケンの近藤勇」
「●佐野 周二 出演作品」の インデックッスへ 「●乙羽 信子 出演作品」の インデックッスへ 「●藤原 釜足 出演作品」の インデックッスへ 「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ
佐野周二主演では川島雄三監督の「とんかつ大将」と同じくらい泣けたかも。
「大阪の宿 [DVD]」
東京の保険会社に勤める独身の三田(佐野周二)は、組合側に加担して重役を殴り、大阪に左遷された。彼が首にならなかったのは、親友の田原(細川俊夫)が多額な保険金を契約しているからであった。三田が下宿した安旅館「酔月荘」にはおりか(水戸光子)、おつぎ(川崎弘子)、お米(左幸子)という三人の女中がいた。甲斐性のない亭主を持つおりかは、同宿人
の金を盗み酔月荘を追放されるが、三田は就職等いろいろ面倒をみてやった。おつぎは忙しく働かされて一人息子に会う暇もない。十四の時から男を知っているというお米は、三田を口説きにかかるが、とっつき難さに愛想をつかす。毎夜遅くまで内職の飜訳をしている三田の許へ南地の芸者うわばみ(乙羽信子)が訪ねてきて、大酒を飲む。田原に誘われて飲みに行って以来の知り合いで、彼女は三田を愛していた。しかし二人の関係は友
人以上には発展しない。三田には秘めた片想いの恋人がいたのだ。通勤の途中、御堂筋のポストの所で必ず会う女事務員である。彼女・井元貴美子(恵ミチ子)は田原の先輩で大洋々行を経営する井元(北沢彪)の娘である事をつきとめるが、井元は三田の会社の支店長に浮貸を取立てられて自殺し、大洋々行も閉鎖したので、貴美子も行方知れずとなった。憤慨したうわばみは或る酒席でこれを暴露し、三田は再び支店長と喧嘩して東京の本社へ追放されることとなる。酔月荘も時流に抗しきれず、おかみは温泉マークの連れ込み宿に改造する決心をし、おつぎは迫出され、お米は女中とも商売女ともつかず働く。止宿人も宿変えを迫られる。三田は商業都市・大阪の生んだ不幸な庶民、おつぎ、おりか、うわばみ等に見送られながら、感慨をこめて大阪を後にする―。
五所平之助監督の1954年公開作で、原作は水上滝太郎。同じ三田派の久保田万太郎が監修し、八住利雄と監督の五所平之助の共同脚本作です。
東京から大阪に左遷された佐野周二演じる主人公の会社員・三田が下宿する「酔月荘」という安旅館で働く3人の女中(演じるのは水戸光子・川崎弘子と当時23歳と若い左幸子)が良く、"うわばみ"というあだ名の大酒飲みの芸者を演じた乙羽信子も当然のことながらいいです。
三田が突き付けられる"貧困"の現実は厳しいですが、リアリズムと並行して、女性たちの喜怒哀楽が、慈しみのこもったタッチで描かれているは、五所平之助監督のきめ細い演出の賜物です。監督の戦後の作品の中でも秀作とされているようです。
佐野周二が演じる三田は、女性たちの生き方を描く際の狂言回し的な位置づけですが、悪くないです。「今の世の中、カネ、カネ、カネだ。一体「人」はどこへ行ってしまったんだろう」と嘆き、本当に彼女たちが困っている時は助けますが、どちらかというとそう積極的に行動を起こす方ではなく、最後には乙羽信子演じるうわばみに対しても「君とは住む世界が違う」と言ってしまいます。言われた方は傷つくだろうなあ(この辺りに反発を抱き、この映画を評価しない人もいるようだ)。
それでも、三田が東京に戻ることになった前夜の送別会には女たちが集い(まさに彼が皆から愛されていた証拠!)、盟友であり、正論を主張して重役を首になった田原も相席して、「月が~出た出た~月が~出た~三池炭鉱の~上に出た~」と皆で歌うシーンには涙腺が緩みます。
その席に一つだけ座る者の居ない座布団があって、来なかったのは当時19歳の安西郷子演じる薄幸の少女です。でも、彼女も缶工場で活き活きと働いている姿があって良かった! ただ1つ欠けていたピースを最後に嵌めたという感じしょうか。その工場の傍を三田が乗っていると思われる列車が駆け抜けていくラストが旨いです。
佐野周二主演では川島雄三監督の「とんかつ大将」('52年/松竹)と同じくらい泣けたかもしれません(この2作、エリートから見た庶民という点で、少し似ている面がある)。
藤原釜足(おっちゃん)
「大阪の宿」●制作年:1954年●監督:五所平之助●監修:久保田万太郎●脚本:八住利雄/五所平之助●撮影:小原譲治●音楽:団伊玖磨●原作:水上滝太郎●時間:122分●出演:佐野周二/細川俊夫/乙羽信子/恵ミチ子/水戸光子/川崎弘子/左幸子/三好栄子/藤原釜足/安西郷子/多々良純/北沢彪/十朱久雄/中村彰/水上貴夫/若宮清子/城実穂●公開:1954/04●配給:松竹●最初に観た場所:神保町シアター(24-03-15)(評価:★★★★)<.font>
「●五所 平之助 監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●山本 嘉次郎 監督作品」【1496】 山本 嘉次郎「エノケンの近藤勇」
「●「ゴールデングローブ賞 外国語映画賞」受賞作」の インデックッスへ「●芥川 也寸志 音楽作品」の インデックッスへ 「●淡島 千景 出演作品」の インデックッスへ「●伊藤 雄之助 出演作品」の インデックッスへ 「●田中 絹代 出演作品」の インデックッスへ 「●久我 美子 出演作品」の インデックッスへ 「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ
ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞作。家族をテーマにその心情の機微を描くのは日本映画の得意分野?
「黄色いからす」[Prime Video]
台湾版DVD
吉田一郎(伊藤雄之助)が15年ぶり中国から戻った時、妻マチ子(淡島千景)は鎌倉彫の手内職で息子・清(設楽幸嗣)と細々暮していた。博古堂の女経営者・松本雪子(田中絹代)は隣家のよしみ以上に何かと好意を示していたが、雪子の養女・春子(安村まさ子)と清は大の仲良し。一郎は以前の勤務先・南陽
商事に戻り、かつて後輩だった課長・秋月(多々良純)の下で、戦前とまるで変った仕事内容を覚えようと必死。清は甘えたくも取りつくしまがない。一年が過ぎ、吉田家には赤ん坊が生れ、光子と名付けられたが、清は一郎の愛情が移ったのに不満。小動物小昆虫の飼育で僅かにうさを晴らすが、一郎にそれまで叱られる。ある日、清らは上級生と喧嘩の現場を担任の靖子先生(久我美子)に見つかる。その晩、会社の不満を酒でまざらして一郎が戻った処に、喧嘩仲間の子のお婆さん(飯田蝶子)が孫がケガしたと文句をつけてきた。身に覚えのない清だが、一郎に防空壕へ閉め込まれてしまう。翌日は清と雪子、春子3人のピクニックの日。猟銃で負傷したカラスの子を幼い2人は自分らの〈動物園〉に入れようと約束した。留守中、吉田家を訪れた靖子は、清の絵に子供の煩悶と不幸が現われていると語り、マチ子は胸をつかれる。その夜は機嫌のいい一郎、清も凧上げ大会に出す大凧をねだるが、カラスのことは話せなかった。次の日、靖子先生が近く辞めると聞いた清は落胆。加えて留守番中、上級生の悪童らにからかわれて喧嘩となり、赤ん坊の光子まで傷を負う。マチ子の驚き、一郎の怒り、揚句の果て可愛いカラスまで放り出され凧の約束も無駄、清は「お父さんのうそつき、死んじまえ」と書いた紙を残し、大晦日の晩、靖子先生に貰ったオルゴールを抱いて家出し、林の中や海辺を彷徨う―。
1957年公開の五所平之助監督作で、1958年・第15回「ゴールデングローブ賞」の「外国語映画賞」受賞作。木下惠介の「二十四の瞳」('54年/松竹)や市川崑監督の「鍵」('59年/大映)が同賞を獲った時もそうですが、この頃のゴールデングローブ賞の「最優秀」外国語映画賞は(賞のワールドワイドな権威づけを図ってのことと思うが)一時に4作品から5作品に与えられることがあり、この「黄色いからす」も受賞作3作のうちの1作。それでも凄いことには違いありません、ただし、日本映画でこのレベルのものはまだまだ多くあるように思われ、それだけ、家族をテーマにその心情の機微を描いてみせるのは、昔から日本映画の得意分野(?)だったのかなとも思ったりします。
30代の淡島千景(1924年生まれ)、40代の田中絹代(1909年生まれ)、20代の久我美子(1931年生まれ)の3人の女優の演技が楽しめる映画でもありますが、淡島千景の夫を気遣いながら、夫と子の会話の橋渡しを(時におろおろしながら)する演技は、妻と母の心情を旨く表現できていたと思いました。田中絹代は磐石の安定感、久我美子は女学生役から脱して今度は先生に、といったところでしょうか。
伊藤雄之助(黒澤明監督「生きる」('52年/東宝)の小説家役が印象的)は役者としては強面な感じで、この父親の役はどうかなと思いましたが、観ているうちに次第に嵌っているように思えてきました。会社に戻ってきたら、かつての自分の部下が上司になっていて、彼の言うには仕事の「システム」がもう昔とは違うと。何だか、今の企業社会の「年上の部下」(「年下の上司)問題や「デジタルデバイド」の問題とダブるところがあるようにも思えました(現代で15年仕事から遠ざかったら、完全復帰は絶対無理かも)。
この作品も、最後は何とかハッピーエンド。親たちの方が自分たちの非を悟るという、「子どもの権利」という意味でも、わりかし今日的課題を孕んだ映画でした(昔は「教育ママ」と言われて揶揄のレベルだったものが、今日では「教育虐待」として虐待の一類型とされる時代だからなあ)。
とまれ、妻が夫に戦争の傷痕から来た家庭の危機を涙と共に訴えたことで、お隣の雪子に連れられ清が戻って来た時、一郎も始めて清を力強く抱きしめることに。明けて元旦、靖子先生に送る、と清の描く画も今は明るい色調となり、凧上げに急ぐ一郎と清の足どりも軽く弾む―。やや甘い気もしますが、この映画を観た神保町シアターの特集のタイトルが「叙情派の巨匠―映画監督・五所平之助」とのことで、この監督らしい作品と言えばそういうことになるのかもしれません。
「黄色いからす」●制作年:1957年●監督:五所平之助●製作:加賀二郎/内山義重●脚本:館岡謙之助/長谷部慶次●撮影:宮島義勇●音楽:芥川也寸志●時間:103分●出演:淡島千景/伊藤雄之助/設楽幸嗣/田中絹代/安村まさ子/久我美子/多々良純/高原駿雄/飯田蝶子/中村是好/沼田曜一●公開:1957/02●配給:松竹●最初に観た場所:神保町シアター(24-03-19)(評価:★★★☆)
淡島千景...吉田マチ子
伊藤雄之助...夫一郎
田中絹代...松本雪子
久我美子...芦原靖子
【3500】 △ 五所 平之助 (原作:円地文子) 「愛情の系譜」 (1961/11 松竹) ★★★ (◎ 木下 惠介 (原作:有吉佐和子) 「香華(こうげ)」 (1964/05 松竹) ★★★★☆)
「●五所 平之助 監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●山本 嘉次郎 監督作品」【1496】 山本 嘉次郎「エノケンの近藤勇」
「●え 円地 文子」の インデックッスへ 「●岡田 茉莉子 出演作品」の インデックッスへ(「愛情の系譜」「香華」)「●乙羽 信子 出演作品」の インデックッスへ(「愛情の系譜」「香華」)「●桑野 みゆき 出演作品」の インデックッスへ(「愛情の系譜」)「●山村 聰 出演作品」の インデックッスへ(「愛情の系譜」)「●高峰 三枝子 出演作品」の インデックッスへ(「愛情の系譜」)「●殿山 泰司 出演作品」の インデックッスへ(「愛情の系譜」)「●岡田 英次 出演作品」の インデックッスへ(「香華」)「●杉村 春子 出演作品」の インデックッスへ(「香華」)「●菅原 文太 出演作品」の インデックッスへ(「香華」) 「●奈良岡 朋子 出演作品」の インデックッスへ(「香華」)「●芥川 也寸志 音楽作品」の インデックッスへ(「愛情の系譜」)「●木下忠司 音楽作品」の インデックッスへ(「香華」)「●「芸術選奨(監督)」受賞作」の インデックッスへ(木下惠介) 「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ
単なるメロドラマになってしまった「愛情の系譜」。岡田茉莉子はやはり「香華」か。
「愛情の系譜」(1961/11 松竹)
「香華」(1964/05 松竹)
米国留学を終えた吉見藍子(岡田茉莉子)は、帰国してから国際社会福祉協会に勤め社会事業に打ちこんでいた。その関係から彼女は、旋盤工の兼藤良晴(宗方勝巳)を補導しながらその更生を願っていたが、良晴は彼女に一途な思いを寄せていた。しかし藍子には、米国で結ばれた電力会社の有能な技師・立花研一(三橋達也)という恋人があった。藍子の母・克代(乙羽信子)は家政婦紹介所を営み、妹の紅子(桑野みゆき)は高校に通っていた。勝気な克代は子供達に父親は戦死したといっているが、夫の周三(山村聡)は杉電気の社長として実業界の大立物であった。藍子と紅子はふとしたことから父のことを知った。二十年前、克代の父に望まれ彼女と結婚して吉見農場の養子となった周三は、老人の死後、老母や兄夫婦の冷たい仕打ちに家を飛び出してしまった。杉を愛する克代は彼を追って復縁を迫ったが断わられ、克代は無理心中を図った。だが、二人とも生命をとりとめたのであった。藍子は自分の体の中に母と同じ血が流れていることを知った。その頃、立花には縁談が進められていた、化粧品会社を経営する未亡人・香月藤尾(高峰三枝子)の一人娘・苑子(牧紀子)との話である。ある日良晴は、藍子が自分に寄せる好意を、男女の愛情と勘違いして藍子に迫るが、藍子に突放されてしまう。それからの良晴の生活は荒れ、遂には夜の女を殺害するという事態に陥る。一方、立花は苑子との結婚のために藍子との関係を清算しようとしていた。立花のアパートを訪れた藍子は、眠っている立花の枕元からの手紙でそのことを知り、立花を殺そうとするが、どうしても殺すことができなかった。傷心の藍子は、父のところに飛び込む。翌朝、杉の知らせで克代も駆けつけて来た―。
五所平之助監督の1961年11月公開作で、原作は円地文子の『愛情の系譜』('61年5月刊/新潮社)。原作を比較的忠実に映像化していますが、結果として「てんこ盛り」的になったという感じです。原作のイメージを視覚的に確認するのにはいいですが、ややストーリー全体のテンポが鈍くなってしまいました(例えば、原作では、藍子が父親の存命や母親との過去の経緯を知るのは前半部分のかなり早い段階だが、映画では後半に入ってから)。
『愛情の系譜』['61年]『愛情の系譜 (1966年) (角川文庫)』
原作のテーマは、文庫解説の竹西寛子が指摘しているように、形而上学的なものなのですが(敢えて言えば、「エゴイスティックな愛」を超えた「博愛」のようなもの)、そうした観念を振りかざさずことをせず、皮膚感覚的な面も含め、描写を通して読者に接しているところに、原作の「独自性」があります。映画の方は、その表象のみを描いたため、ちょっと単なるメロドラマになってしまった感じで、「愛情の系譜」の何たるかは分からなくもないですが、主人公がそれを乗り越えたという実感がイマイチでした。
映画は、主人公・藍子が外人のガイドをして鷺山を見学している場面から始まり、そこへ、鷺を撮影している一人の中年の男性が話しかけます。藍子はガイド以外に罪を犯した青少年を更生させたりする仕事もしていて、その仕事に生き甲斐を感じていますが、結婚直前まで進んでいる恋人の立花はあまり評価していない様子。妹の紅子は最近派手な行動が目立ってきて母・克代は心配していますが、実は紅子が会っていたのは死んだと聞いていた父で、今は杉周三という名で事業を成功させおり、それが、藍子が鷺山で出会った紳士でした。杉は北海道で克代と結婚していたものの確執があり、克代からは離れようとした際に克代が杉をナイフで刺して怪我を負わせてしまい、克代は今も杉を恨み関わることを嫌っています。一方、立花は取引先の実業家の娘との縁談が持ち上がり、はっきり藍子に話せずにいて、藍子の方は、面倒を見ていた不良少年が殺人を犯してしまい、原因は藍子にそっけなくされて自暴自棄になったためらしい―と、やっぱり今一度振り返っても"盛り沢山"過ぎます(笑)。
最後、藍子は立花を殺そうとガスの元栓を開けますが、すんでのところで留まって立花との別れを決心するのも、母・克代が父・杉周三を訪ね和解するのも原作と同じ。ただし、藍子が殺人を犯した良晴を諭して自首しに行くのに付き添うところで映画は終わりますが、原作はその前に、妹・紅子の恋人の法学生・叶正彦(園井啓介)が良晴を諭して自首しに行くのに付き添います。
多分、正彦の役どころを映画で藍子に置き換えたのは、テーマを浮かび上がらせるためだったと思いますが、結果的に、正彦って何のためにいるのか分からない存在になってしまいました。原作では、良晴のメンター的存在であることが窺えます。映画では、紅子が自分の部屋に泊りに来ても手を出さない聖人君子みたいな描かれ方ですが、原作では正彦の内面での葛藤が描かれています。やはり、原作を読んでしまったから物足りなさを感じるのでしょうか。
同じく乙羽信子が母親、岡田茉莉子が娘を演じた映画に、木下惠介監督の「香華」('64年/松竹)があり、原作は有吉佐和子ですが、こちらの方が良かったです(原作を読んでいないせいか)。母娘の確執を描いたものでは、最近でも湊かなえ原作、廣木隆一 監督の「母性」('22年)などがありますが、そうした類の映画ではベストの部類ではないかと思います。二部構成で、木下惠介作品では最長の3時間超(204分)の長さですが、冗長は感じませんでした。
乙羽信子演じる母・郁代が実に身勝手そのものの性格で、その淫蕩な生活がたたって岡田茉莉子演じる娘・朋子は芸者に売られることになりますが、それから暫くして借金苦のため、郁代自身も芸者となり、芸者として成功する娘に対して母の方はすっかり落ちぶれ、それでもあれやこれやで娘に迷惑をかけるという展開の話です(同じ置屋に母と娘がいるというのが凄まじい)。
岡田茉莉子は 吉田喜重監督の「秋津温泉」('62年)で温泉旅館の娘・新子の17歳から34歳までを演じましたが、この「香華」では娘・朋子の17歳から63歳までを演じています。個人的には彼女の代表作であり、最高傑作の部類だと思います。
木下惠介監督はこの作品で、1964(昭和39年)年度・第15「芸術選奨(映画部門)」を受賞していますが、世間ではあまり評価されているように思えない作品で、原因としては、「原作を忠実に映画化しただけではないか」との評価があるためのようです。
原作を読むと、そういった評価になってしまうのでしょうか。「香華」の原作も「婦人公論読者賞」や「小説新潮賞」を受賞しており、今回の自分が原作を読んでしまった(それで映画化作品に物足りななさを感じた)「愛憎の系譜」との関係で、ちょっと考えさられてしまいました。
「愛情の系譜」●制作年:1961年●監督:五所平之助●製作:月森仙之助/五所平之助●脚本:八住利雄●撮影:木塚誠一●音楽:芥川也寸志●原作:円地文子●時間:108分●出演:岡田茉莉子/三橋達也/桑野みゆき/山村聡/園井啓介/牧紀子/乙羽信子/高峰三枝子/宗方勝巳/市川翠扇/千石規子/殿山泰司/陶隆/十朱久雄●公開:1961/11●配給:松竹●最初に観た場所:神保町シアター(24-03-15)(評価:★★★)<.font>
神保町シアター
岡田茉莉子/桑野みゆき/山村聡/高峰三枝子/殿山泰司
「香華(こうげ)」●制作年:1964年●監督・脚本:木下惠介●製作:白井昌夫/木下惠介●撮影:楠田浩之●音楽:木下忠司●原作:有吉佐和子●時間:201分●出演:岡田茉莉子/乙羽信子/田中絹代/北村和夫/岡田英次/宇佐美淳也/加藤剛/三木のり平/村上冬樹/桂小金治/柳永二郎/市川翠扇/杉村春子/菅原文太/内藤武敏/奈良岡朋子/岩崎加根子●公開:1964/05●配給:松竹●最初に観た場所:シネマブルースタジオ(19-08-27)(評価:★★★★☆)
「木下惠介生誕100年「香華〈前篇/後篇〉」 [DVD]」
岡田茉莉子 (朋子)
岡田英次 (野沢)
乙羽信子 (郁代)
杉村春子 (太郎丸)
菅原文太 (杉浦)
奈良岡朋子(江崎の妻)
●「香華」あらすじ
〈吾亦紅の章〉明治37年紀州の片田舎で朋子は父を亡くした。3歳の時のことだ。母の郁代(乙羽信子)は小地主・須永つな(田中絹代)の一人娘であったが、大地主・田沢の一人息子と、須永家を継ぐことを条件に結婚したのだった。郁代は二十歳で後家になると、その美貌を見込まれて朋子をつなの手に残すと、高坂敬助(北村和夫)の後妻となった。母のつなは、そんな娘を身勝手な親不孝とののしった。が幼い朋子には、母の花嫁姿が美しく映った。朋子が母・郁代のもとに引きとられたのは、祖母つなが亡くなった後のことであった。敬助の親と合わない郁代が、二人の間に出来た安子を連れて、貧しい生活に口喧嘩の絶えない頃だった。そのため小学生の朋子は静岡の遊廓叶楼に半玉として売られた。悧発で負けず嫌いを買われた朋子は、芸事にめきめき腕を上げた。朋子が13歳になったある日、郁代が敬助に捨てられ、九重花魁として叶楼に現れた。朋子は"お母さん"と呼ぶことも口止めされ美貌で衣裳道楽で男を享楽する母をみつめて暮した。17歳になった朋子(岡田茉莉子)は、赤坂で神波伯爵(宇佐美淳也)に水揚げされ、養女先の津川家の肩入れもあって小牡丹という名で一本立ちとなった。朋子が、士官学校の生徒・江崎武文(加藤剛)を知ったのは、この頃のことだった。一本気で真面目な朋子と江崎の恋は、許されぬ環境の中で激しく燃えた。江崎の「芸者をやめて欲しい」という言葉に、朋子は自分を賭けてやがて神波伯爵の世話で"花津川"という芸者の置屋を始め独立した。
〈三椏の章〉関東大震災を経て、年号も昭和と変わった頃、朋子は25歳で、築地に旅館"波奈家(はなのや)"を開業していた。朋子の頭の中には、江崎と結婚する夢だけがあった。母の郁代は、そんな朋子の真意も知らぬ気に、昔の家の下男・八郎(三木のり平)との年がいもない恋に身をやつしていた。そんな時、神波伯爵の訃報が知らされた。悲しみに沈む朋子に、追い打ちをかけるように、突然訪れた江崎は、結婚出来ぬ旨告げて去った。郁代が女郎であったことが原因していた。朋子の全ての希望は崩れ去った。この頃44歳になった母・郁代は、年下の八郎と結婚したいと朋子に告げた。多くの男性遍歴をして、今また結婚するという母に対し、母のため女の幸せを掴めない自分に、朋子は狐独を感じた。終戦を迎えた昭和20年、廃虚の中で、八郎と別れて帰って来た郁代に戸惑いながらも、必死に生きようとする朋子は"花の家"を再建した。それから3年、新聞に江崎の絞首刑の記事を見つけた朋子は、一目会いたいと巣鴨通いを始めた。村田事務官(内藤武敏)の好意で金網越しに会った江崎は、三椏の咲く2月、十三階段に消えていった。病気で入院中の朋子を訪ねる郁代が、交通事故で死んだのは朋子の52歳の時だった。波乱に富んだ人生に、死に顔もみせず終止符を打った母を朋子は、何か懐かしく思い出した。母の死後、子供の常治を連れて花の家に妹の安子(岩崎加根子)が帰って来た。朋子は幼い常治の成長に唯一の楽しみを求めた。昭和39年、63歳の朋子は、常治を連れて郁代のかつての願いであった田沢の墓に骨を納めに帰った。しかしそこで待っていたのは親戚の冷たい目であった。怒りに震えながらも朋子は、郁代と自分の墓をみつけることを考えながら、和歌の浦の波の音を聞くのだった―。
「●中村 登 監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●山本 嘉次郎 監督作品」【1496】 山本 嘉次郎「エノケンの近藤勇」
「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●む 武者小路 実篤」の インデックッスへ
『友情』『愛と死』が原作。『友情』の主体の入れ替えにやや混乱。栗原小巻は魅力全開。
「愛と死」('71年/松竹)監督:中村登/脚本:山田太一/出演:栗原小巻・新克利・横内正・芦田伸介
水産研究所の研究員・大宮雄二(新克利)は、長かった四国の勤務を終えて横浜に帰ってきた。そして高校時代からの親友・野島進(横内正)の恋人・仲田夏子(栗原小巻)と、テニスを通じて知り合った。ある日、大宮は夏子の誕生パーティーに招待され、無意識のうちに夏子に魅せられている自分に気づき愕然とする。大宮はその時から夏子を避けようと努めたが、野島から満たされないものを感じていた夏子は、積極的に大宮に愛を打ち明けた。大宮は、友情で結ばれた野島を思うと、自然と夏子へ傾きかける自分の気持を許すことができなかった。大宮は、八戸の研究所へ2カ月間勤務することを申し出た。その夜、大宮のアパートに夏子が訪れ、彼女は野島には
愛情を感じていなかったと言う。二人が歩く姿を野島に目撃されたのを契機に、大宮の心は激しく夏子を求めるようになる。夏子への愛は、野島との友情さえも断ち切ってしまうほど強くなっていった。八戸に出発する日が近づいたある日、大宮は夏子の両親に会い、夏子との結婚の許しを得る。大宮は、その足で野島に会い、自分の不義を詫びた。野島は何も言わず大宮を殴り倒した。出発の日、大宮は、自分の両親に引き会わせるため夏子を連れ秋田へと向かった。2人は大宮家で2カ月間の別れを惜しんだ。独り東京に帰った夏子は、一日も欠かさず大宮に手紙を書き、2カ月間の時間が経つのを祈った。八戸に向った大宮も同じ気持だった。手紙は毎日書くという別れ際の約束も破られる事なく時間は流れていった。そしてあと2日で会えるという日、大宮のもとに夏子の父・修造(芦田伸介)から、ある電報が届く―。
山田太一(1934-2023)
1971年公開作で、監督は中村登、脚本は山田太一。原作者は武者小路実篤ですが、『愛と死』だけではなく『友情』も原作にしていて、両者を合体させて時代を現代(70年代)にもってきているため、まさに脚本家の腕の見せ所といった感じでしょうか。
前半部分は『友情』をベースにしているようですが、『友情』では「野島」は脚本家、「大宮」は作家で、ヒロインは「仲田杉子」という令嬢です。それが映画では、横内正が演じる「野島進」はCMディレクターという派手な職種で、新克利が演じる「大宮雄二」は魚類が専門の水産研究所の研究員とこちらは地味、栗原小巻が演じるヒロイン「仲田夏子」は、製薬会社の研究員となっています。ただ、原作と異なるのは、原作の主人公は「野島」であり、彼の視点で(つまり想い人を友人に奪われる側の視点で)物語が進むのに対し、映画では、新克利が演じる「大宮雄二」の視点で(つまり友人の恋人を結果的に奪う側の視点で)話が進んでいき、この辺りの主体の入れ替えが、最初観ていてやや混乱しました。
後半は主に『愛と死』をベースにしていますが、「大宮」は罪悪感からしばしば「野島」のことを口にするという、夏目漱石の『門』みたいな雰囲気も。因みに、『愛と死』の主人公は小説家の端くれである「村岡」で、これは、新克利が演じる「大宮雄二」に引き継がれています(前半部分の"主体の入れ替え"は後半に話を繋ぐためか)。原作の『愛と死』のヒロインは、「村岡」が尊敬する小説家で友人の「野々村」の妹である「夏子」となっており、栗原小巻が演じるヒロイン「仲田夏子」は、苗字の「仲田」を『友情』から、名の「夏子」を『愛と死』からとってきていることになります。
原作では、2人は「村岡」の巴里への洋行後に結婚をするまでの仲になり、実質的に婚約へ(ただし、「大宮」が秋田県・角館の自分の実家に夏子を連れていったりする話は映画のオリジナル)。半年間の洋行の間でも互いに手紙を書き、帰国後の夫婦としての生活にお互い希望を抱いていたが...となりますが、映画では洋行ではなく、先にも述べたように八戸への2か月の赴任になっていたものの、手紙で遣り取りするのは原作と同じ(映画では電話を使わないことを「互いに声を封印した」と説明)。しかし、ラストに悲劇が訪れ、原作ではそれが夏子がスペイン風邪=新型インフルエンザによる突然死ということになっていたのが、映画では、仕事場での実験中の同僚のミスによる爆発事故死になっていました。
原作のヒロインも利発で活発ですが、映画ではキャリアウーマン(仕事する女性)であることをより強調している感じです。一方で、友達の男女を10人ばかり自邸に呼んでゴーゴーダンスとか踊ったりして、(無理に)今風にしようとしているみたいな印象も。栗原小巻が当時流行のミニスカートでゴーゴーを踊る場面など、今観ると逆にレトロっぽいのですが、後半にかけて主人公が人間的に大人っぽっくなっていくため、その成長効果には繋がっていたかも。
原作では、「村岡」は帰国後に深い悲しみを負いながら野々村と一緒に墓参りし、「死んだものは生きている者に対して、大いなる力を持つが、生きているものは死んでいる者に対して無力である」という人生の無常を悟りますが、映画では夏子の父親(芦田伸介)が語るセリフがそうした哲学的な内容になっています(この中では芦田伸介でないと喋れないセリフかも。本作より先に映画化された1959年の石原裕次郎・浅丘ルリ子の日活版ではどうだったろうか)。
全体としてメロドラマ風になるのは仕方がないでしょうか。栗原小巻は当時26歳。原作のような「可愛い」というイメージよりも「キレイ」という感じですが、その魅力は引き出していたと思います(むしろ「全開」と言っていいのでは)。
新(あたらし)克利と横内正は俳優座養成所の第13期生、栗原小巻は第15期ですが、栗原小巻は在籍中に抜擢されて初舞台を踏んでいます。栗原小巻は、生年月日が1日違いの吉永小百合とアイドル的人気を二分し、吉永小百合が、オファーがあって出演したかったもののヌードシーンがあるために父親か出演を許さなかったという映画「忍ぶ川」('72年)に栗原小巻が出演して、多くの演技賞を獲ったといったこともありました。
「キネマ旬報」 1971年6月下旬号(表紙:愛と死 (栗原小巻) )
中年以降は吉永小百合が映画を主軸に据えているのに対し、栗原小巻は舞台を主軸としており、現在も活躍中です。そう言えば、「水戸黄門」の初代・格さんで知られた横内正も、シェイクスピア劇の俳優&舞台演出家として活躍中。新克利も演劇界の重鎮として存命しているのは喜ばしいことです(3人とも俳優座出身のため、演劇に回帰していくのか)。
栗原小巻(1949年生まれ)
2015年10月調布CATCH映画「愛と死」上映会/2019年2月舞台「愛の讃歌ーピアフ」/2021年6月「徹子の部屋」
横内 正(1941年生まれ)
1969年-1978年ドラマ「水戸黄門」初代渥美格之進(格さん)/1978年-1997年ドラマ「暴れん坊将軍 吉宗評判記」初代大岡忠相/2019年2月三越劇場「マクベス」(主演)のポスターを前に
新(あたらし)克利(1940年生まれ)
1975年-1976年ドラマ「必殺仕置屋稼業」僧・印玄/1977年ドラマ「華麗なる刑事」刑事・田島大作(大作さん)/近影
「愛と死」●英題:LOVE AND DEATH●制作年:1971年●監督:中村登●製作:島津清/武藤三郎●脚本:山田太一●撮影:宮島義勇●音楽:服部克久●原作:武者小路実篤●時間:93分●出演::栗原小巻/新克利/横内正/芦田伸介/木村俊恵/野村昭子/伴淳三郎/東山千栄子/執行佐智子/三島雅夫/鶴田忍/中田耕二/江藤孝/加村赴雄/加島潤/河原崎次郎/茅淳子/田中幸四郎/前川哲男/山口博義/ザ・ウィンキーズ●公開:1971/06●配給:松竹●最初に観た場所:神保町シアター(24-03-27)(評価:★★★☆)
ポスター[上]
パンフレット[左・下]
「●山田 洋次 監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT⇒ 【3001】 山田 洋次 「息子」
「●山本 直純 音楽作品」の インデックッスへ「●渥美清 出演作品」の インデックッスへ「●倍賞 千恵子 出演作品」の インデックッスへ「●笠 智衆 出演作品」の インデックッスへ「●前田 吟 出演作品」の インデックッスへ「●岸部 一徳 出演作品」の インデックッスへ「●柄本 明 出演作品」の インデックッスへ「●桃井 かおり 出演作品」の インデックッスへ「●松坂 慶子 出演作品」の インデックッスへ「●吉岡 秀隆 出演作品」の インデックッスへ「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ ○あの頃映画 松竹DVDコレクション
「主人公」は小春(有森也実)だが「主演」は渥美清、誰が誰のモデルか、で愉しめる。
「あの頃映画 「キネマの天地」 [DVD]」有森也実/中井貴一
かつて旅回りの役者だった喜八(渥美清)は、一人娘の小春(有森也実)と二人で長屋暮らし。小春は浅草「帝国館」で人気の売り子として働いていた。ある日、小春の噂を聞きつけた映画監督の小倉(すまけい)がスカウトに来たことで
、小春は女優への道に。小春は見学に行った撮影現場で看護婦の役を与えられたが、いきなりのことで散々な結果となる。意気消沈した小春は女優を諦めようとするが、思いを寄せる助監督の島田(中井貴一)が説得し、大部屋女優として歩み始めた―。
1986年公開の「松竹大船撮影所」50周年記念作品で、1920(大正9)年から大船に移転する1936(昭和11)年まで映画を作り続けた「松竹蒲田撮影所」が舞台。製作の契機としては、松竹映画の象徴である「蒲田行進曲」('82年/松竹)が、同じ松竹配給映画でありながらも、松竹のライバル会社の東映出身の深作欣二監督が東映京都撮影所で撮ったことを野村芳太郎プロデューサーが無念に思い、松竹内部の人間で「過去の松竹映画撮影所」を映画化したいという思いがあったとのことです。
「蒲田行進曲」は、キネマ旬報ベスト・テン第1位となり、毎日映画コンクール日本映画大賞、ブルーリボン賞作品賞、報知映画賞作品賞、山路ふみ子映画賞などを受賞、賞レースを席巻しましたが、この「キネマの天地」はノミネートこそされたものの、主だった映画賞の作品賞(最高賞)レベルでは無冠に終わったようです。ただし、個人的には、銀四郎とヤスのサド・マゾ的な捻じれた関係から「自発的隷従」的な印象を抱いた「蒲田行進曲」は肌に合わず(もしその方向でいくなら、根岸季衣が小夏を演じた舞台のように徹底すべきだった)、山田洋次監督らしいほんわりしたこの「キネマの天地」の方が好みかもしれません(自分が歳とったせいもあるか)。
脚本に井上ひさし、山田太一が加わる力の入れ様で、「蒲田行進曲」をライバル視しつつも「蒲田行進曲」に出ていた松坂慶子や平田満まで出ているオールスターキャスト、「男はつらいよ」シリーズの製作を1回飛ばしてこちらに注力しているので、渥美清、倍賞千恵子、前田吟、下條正巳、三崎千恵子、笠智衆、佐藤蛾次郎など「男はつらいよ」のレギューラーが総出演(当時15歳の吉岡秀隆は、倍賞千恵子と前田吟の夫婦の間の子の役で、役名もそのまま「満男」)、すまけい、笹野高史、美保純など凖レギューラー、毎回ノンクレット出演の出川哲朗も含め「男はつらいよ」から全員引っ越してきたという感じです。
一方で、浅草の映画館の売り子からスター女優になる主役の「田中小春」役を「それから」('85年)の藤谷美和子が"ぷっつん"降板したため(リハーサル中に突然涙ぐんだり、気分が乗らないと芝居もウワの空で、渥美清とぶつかるなどして現場に来ない日があり、我慢強い山田洋次監督も最後はお手上げ状態になり降板となった)、エース女優降板でピンチヒッターとして主役に起用された役モデルと同様に、新人の有森也実が抜擢されました。ただ、彼女と中井貴一とのコンビは初々しいながらも、渥美清と倍賞千恵子が画面に出てきて演技をすると一気に霞んでしまう感じで、「主人公」は小春(有森也実)でペアの相手は島田(中井貴一)だけれども、「主演」は渥美清で相方は倍賞千恵子、という映画だったように思います。
有森也実が演じた田中小春は田中絹代(1909-1977)がモデルだそうで、そうなると"すまけい"演じる小倉金之助監督は、特定モデルはいないようですが、近いところで「マダムと女房」('31年)で田中絹代をスターダムに押し上げた五所平之助(1902-1981)監督でしょうか。
松坂慶子が演じる、突然の逐電で主役を降板し、小春にチャンスをもたらすことになる川島澄江は、岡田嘉子(1902-1992)がモデル(1927(昭和2)年3月27日、主役を務める「椿姫」(村田実監督)の相手役であった竹内良一との失踪事件を起こした。小津安二郎監督の「東京の宿」('35年)などにも出ていたが、1937(昭和12)年35歳でソ連に亡命し日本に帰ったのは35年後)ですが、役名は日本映画史上初のスター女優と言われた栗島すみ子(1902-1987)に近いでしょうか。中井貴一が演じる島田健二郎は、特定のモデルはいないようですが、これも、松竹の島津保次郎(1897-1945)監督と40年代に松竹専属だった溝口健二(1898-1956)監督を掛け合わせた風の名前で、二人とも田中絹代と繋がりの深い監督でした(特に溝口健二は田中絹代に恋愛感情を抱いていたと言われている)。
岸部一徳が演じる緒方監督は小津安二郎(1903-1963)監督を明確にモデルにしており、その演出の様子まで再現していますが、小津の演出を知る笠智衆がその岸部一徳の演技を"語り下ろ
し"の自著『大船日記―小津安二郎先生の思い出』('91年/扶桑社)(後に『小津安二郎先生の思い出』('07年/朝日文庫))の中で褒めています(女優がうまく演技できない時、「外で深呼吸をして来なさい」とか言ったのかなあ)。そのほか、9代目松本幸四郎が演じた城田所長は城戸四郎がモデル、堺正章が演じた内藤監督は、蒲田時代にナンセンス喜劇の名手として鳴らした斎藤寅次郎(1905-1982)がモデルです。
女中役の演技が上手くいかず、いったん外に出る小春(有森也実)(手前は小使トモさん(笠智衆))
渥美清のキャラクターは、小津安二郎監督の「出来ごころ」('34年)や「浮草物語」('34年)で主役を演じた坂本武を髣髴させ、その渥美清と笹野高史演じる屑屋との掛け合いは森の石松の「スシ食いねえ」の完全なパロディ(オリジナルは中川信夫監督の「エノケンの森の石松」('39年)での柳家金語楼と榎本健一の掛け合いなどで見ることができる)。有森也実演じる小春の初主演作は、「浮草物語」を小津自身がリメイクした「浮草」('59年)と同じタイトルでした。
「蒲田行進曲」ほど賞には恵まれませんでしたが、山田洋次監督らしい作品でした。以前、蒲田撮影所の跡地に行きましたが、敷地内に映画「キネマの天地」で使用された松竹橋(蒲田撮影所前に架かっていた橋を再現したもの)があり、跡地に建った区民ホール「アプリコ」の玄関ホールに本物がありました。ただし、それ以外は、ここに撮影所があったという痕跡はまったく無かったように思います。
松竹キネマ蒲田撮影所(1920(大正9)年~1936(昭和11)年)/跡地:現ニッセイ「アロマスクエア」&大田区民ホール「アプリコ」)(2023.5.13撮影)
映画「キネマの天地」で使用された松竹橋(再現版)と区民ホール「アプリコ」内にある実物(2023.5.13撮影)
「キネマの天地」●英題:FINAL TAKE-THE GOLDEN DAYS OF MOVIES●制作年:1986年●監督:山田洋次●製作:野村芳太郎●脚本:山田洋次/井上ひさし/山田太一/朝間義隆●撮影:高羽哲夫●音楽:山本直純●時間:135分●出演:渥美清/中井貴一/有森也実/すまけい/岸部一徳/堺正
章/柄本明/山本晋也/なべおさみ/大和田伸也/松坂慶子/津嘉山正種/田中健/美保純/広岡瞬/レオナルド熊/山城新伍/油井昌由樹/アパッチけ(中本賢)/光石研/山田隆夫/石井均/笠智衆/桜井センリ/山
内静夫/桃井かおり/木の実ナナ/下條正巳/三崎千恵子/平田満/財津一郎/石倉三郎/ハナ肇/佐藤蛾次郎/松田春翠/関敬六/倍賞千恵子/前田吟/吉岡秀隆/笹野高史/ 出川哲朗(ノンクレジット)/(以下、特別出演)9代目松本幸四郎/藤山寛美●公開:1986/08●配給:松竹●最初に観た場所:神保町シアター(24-04-05)(評価:★★★☆)
山田洋次監督(手前は すまけい)
神保町シアター
岸部一徳(緒方監督(小津安二郎がモデル))/柄本明(佐伯監督)/松坂慶子(川島澄江(岡田嘉子がモデル))/すまけい(小倉金之助監督)/9代目松本幸四郎(城田所長(城戸四郎がモデル))/笠智衆(小使トモさん)/桃井かおり(彰子妃殿下)/倍賞千恵子(ゆき)/前田吟(ゆきの亭主・弘吉)
「あの頃映画 the BEST 松竹ブルーレイ・コレクション キネマの天地 [Blu-ray]」
「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ Prev|NEXT⇒ 【2455】 ルイス・ブニュエル 「自由の幻想」
「●「ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞」受賞作」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
タジキスタン内戦下での恋愛。ロープウェイでのデート。"愛は時や場所を選ばず"。
「コシュ・バ・コシュ」
内戦状態にある中央アジア・タジキスタンの首都ドゥシャンベで、ロープウェイの操縦士として働く青年ダレル(ダレル・マジダフ)。一方、モスクワから久々にドゥシャンベに帰ってきた女性ミラ(パウリーナ・ガルベス)は、父が
賭博で作った借金のかたにされてしまう。街で銃声が鳴り響く中、都会的なミラに一目惚れしたダレルは彼女の愛を獲得するべく突き進むが―。
1993年公開のタジキスタンのバフティヤル・フドイナザーロフ監督(1965-2015/49歳没)作で、長編デビュー作「少年、機関車に乗る」('91年/タジキスタン・ソ連)で国際的に注目された同監督の長編第2作であり、内戦下のタジキスタンを舞台に若い男女の不器用な恋の行方を綴ったラブストーリー。1993年・第50回「ヴェネツィア国際映画祭」で銀獅子賞(監督賞)を受賞しています。
バフティヤル・フドイナザーロフ監督(1965-2015/49歳没)
因みにタジキスタンは、1991年のソ連の崩壊でタジキスタン共和国として独立したのですが、独立直後から共産党勢力とイスラム勢力の内戦状態が長く続き、最終和平合意が成立したのは1997年6月で、この間、内戦により約6万人が死亡したと言われています。
タイトルの「コシュ・バ・コシュ」は、タジクの賭博用語で"勝ち負けなし"という意味だそうで、ここでは主人公の青年の恋模様を象徴していると思われます。一方の、主人公の女性は
、最後に「父の死」という哀しい思いをすることになりますが、気づいてみれば、そうした辛いことばかりではなかったことが示唆されています(彼女にとっても"勝ち負けなし"か)。ということで、一応はアンハッピーエンドな面もありながら、ハッピーエンドでもあると言えるのですが、実態としては結局父親の負債は、それを肩代わりした青年に引き継がれているだけなので、これから先も二人は大変だなあと(この青年もギャンブルで取り返そうと考えているところからすると依存症? かつての賭博仲間が誰も相手にしてくれないのは、誰もがトラブルに巻き込まれたくないからか)。
冒頭の女性の父親らが賭けをやる場面が迫真の演技で、この監督の演出力にただならぬものを感じました。青年の飄々とした雰囲気も良かったです。でも、将来がちょっと心配(笑)。砲火の音が響く一方で(実際に撮影の後半は内戦が激化した時期だったとのこと)、淡々と続く人々の生活を牧歌的なムードの中に描き、戦時下での恋、ロープウェイでのデートと、"愛は時や場所を選ばず"という主題を上手く浮き彫りにしていたように思います。
撮影に使われたロープウェイは、グーグルマップで検索すると今もあるみたいですが、観光用で使われているのかどうかはよくわかりません(そう言えば、この映画では、ロープウェイで干し草とか運んでいたけれど、観光客らしきはまったく出てこなかった)。個人的には、「ロープウェイが出てくる映画」のベスト5に入れておきたい作品です。
「コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って」●原題:KOSH BA KOSH●制作年:1993年●制作国:タジキスタン●監督:バフティヤル・フドイナザーロフ●脚本:バフティヤル・フドイナザーロフ/レオニード・マフカーモフ●撮影:ゲオルギー・ザラーエフ●音楽:アフマド・バカエフ●時間:96分●出演:パウリーナ・ガルベス/ダレル・マジダフ/ボホドゥル・ジュラバエフ/アルバルジ・バヒロワ/ナビ・ベグムロドフ/ラジャブ・フセイノフ/ズィーズィデン・ヌーロフ●日本公開:1994/08●配給:ユーロスペース●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(24-04-02)((評価:★★★★)
「●は行の外国映画の監督①」の インデックッスへ Prev|NEXT⇒ 【2455】 ルイス・ブニュエル 「自由の幻想」
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
出てくる人が皆 "過剰"で、予想のつかないことが次から次へと起きる。テーマ的には家族の絆か。
「ルナ・パパ [DVD]」
満月の夜、女優を夢見るマムラカット(チュルパン・ハマートヴァ)は森で舞台俳優と名乗る男に声をかけられて互いに結ばれ
る。その後体の変調に気づいたマムラカットは村の医師を訪ねたものの、医師は流れ弾に当たって死ぬ。仕方なく父親(アト・ムハメドシャノフ)に妊娠を打ち明けるが、激怒した父親は戦争で精神を病んだ息子ナスレディン(モーリッツ・ブライプトロイ
)と彼女を引き連れて相手の男捜しに東奔西走。道中、困窮した状況を察したマムラカットは、売血を試みるが、ひょんなことから何もせずに金を貰えることに。村に帰ると、父親がわからない子を妊娠した彼女への村人からの罵倒が絶えず、一人村を出て列車に乗り込むマムラカットは、車内で売血の際に会った男と再会する。将来を悲観したマムラカットにその男は結婚を申し
出る。そして結婚式。だが晴れの舞台は一転し、新郎と父親の頭上に何故か空から牛が降ってきて直
撃、二人は湖にら落下して溺死するという悲劇に。後に月夜の男が判明。しかし、その男は、飛行機から牛を突き落とした男でもあった。怒ったマムラカットがその男に銃口を向けると、男は恐怖のあまり昏睡状態になる。兄ナスレディンは村人たちの怒号に追い詰められた妹のマムラカットを石垣の上に建つ家に逃す。するとその家の天井についた扇風機がプロペラとなり―。
「ルナ・パパ」は、バフティヤル・フドイナザーロフ監督による1999年公開のファンタジックなドラマ。1999年の東京国際映画祭で上映され、「最優秀芸術貢献賞」を受賞した作品です。キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンの三か国の国境が接する地域(グーグルマップで見ると、この辺りは国境が入り組んでいて、確かに作品に出てきた大きな湖もある)に3.5キロメートルにも及ぶ広大なセット建てて撮られた作品そうで、吹きさらしの荒野、西部劇みたいな舞台は、無声映画時代の(「グリード」('24年/米)に出てくるような)ハリウッドの砂漠のようでもあります。
バフティヤル・フドイナザーロフ監督(1965-2015/49歳没)
出てくる人びとが皆何かにつけて"過剰"で、予想だにつかないことが次から次へと起き、まったく先が読めない展開で飽きさせませんでした。終盤は、風刺の色合いを強めるとともに、一気にファンタジスティックな展開へ。でも、一方で、そ
こまでにリアリズムを積み上げているから、それだけファンタジーの効果があるのでしょう。ラスト、「心の狭い人たちよ、さようなら」と語り手の「(母親の胎内にいる)ボク」は言い残して、「家」は、「天空の城 ラピュタ」の如く舞い上がります。
今まで観たことのないタイプの作風の映画でしたが(テーマ的には家族の絆の要素が濃いか)、強いて言えばユーゴスラビアのサラエヴォ(現在はボスニア・ヘルツェゴビナの首都)出身のエミール・クリトリッツァ監督の「アンダーグラウンド」('95年/仏・独・ハンガリー・ユーゴスラビア・ブルガリア)や「黒猫・白猫」('98年/仏・独・ユーゴスラビア)などに通じるものがあるかなと勝手に思ったりもしました(ユーゴスラビアとタジキスタン、地理的には少し遠いが)。ネットで見たら、同じ印象を持った人がいたようです。
真摯なヒロインのマムラカット(「大地」「祖国」という意味らしい)を演じたソビエト連邦生まれのロシアの女
優チュルパン・ハマートヴァが良く、彼女はその後、ヴォルフガング・ベッカー監督の「グッバイ、レーニン!」('03年/独)や、2021年のカンヌ国際映画祭に出品されたキリル・セレブレニコフ監督の「インフル病みのペトロフ家」(露・仏・スイス・独)などにも出演。2022年2月にロシアがウクライナに侵攻した際にはラトビアに滞在しており、戦争に反対する請願に署名。その後ロシアへの帰国を断念し、3月20日に亡命を決断したことを公表しています。
「ルナ・パパ」●原題:LUNA PAPA●制作年:1999年●制作国:ドイツ・オーストリア・日本●監督:バフティヤル・フドイナザーロフ●製作:カール・バウムガートナー/ ヘインツ・ストゥサック/ イーゴリ・トルストノフ/トマス・コーファー/フィリップ・アブリル●脚本:バフティヤル・フドイナザーロフ/イラー・クリナザーロフ●撮影:マーティン・グシュラハト/ドゥシャン・ヨクシモビッチ/ロスチスラフ・ピルーモフ●
音楽:ダーレル・ナザーロフ●時間:108分●出演:チュルパン・ハマートヴァ/モーリッツ・ブラウプトロイ/アト・ムハメドシャノフ/ポリーナ・ライキナ/メラーブ・ミニッゼ●日本公開:200/07●配給:ユーロスペース●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(24-04-04)((評価:★★★★)
「●コミック」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●海外文学・随筆など」 【2171】 イヴァシュキェヴィッチ 『尼僧ヨアンナ』
「○コミック 【発表・刊行順】」の インデックッスへ
かなりぶっ飛んだ内容だが、ちゃんと神話や遺跡などをベースにしているようだ。
『暗黒神話 (1977年) (ジャンプスーパー・コミックス)』『暗黒神話 (ジャンプスーパーコミックス)』['88年]『暗黒神話 (集英社文庫(コミック版)) 』['96年]『暗黒神話 (愛蔵版コミックス) 』['17年]
中学生の少年・武はある日、父の友人を名乗る男・小泉から「君のお父さんは実は殺された」と告げられる。確かに武には、幼い頃に倒れた父親の傍で泣いている記憶があった。小泉に連れられ父が死んだ場所へ来た武は、おぼろげな記憶を頼りに父の目的地と思しき洞窟を発見。洞窟の奥で武は思いもかけないモノと遭遇しする―。
諸星大二郎による「週刊少年ジャンプ」1976(昭和51)年20号から 25号に連載された漫画です。少年が辿る数奇な運命を、ヤマトタケル伝説を軸に、古代日本の各神話や遺跡、仏教、果ては呪術やSF要素までを取り込んで描いた、ある意味かなりぶっ飛んだ内容の話です(特に、最後に明かされる"武の正体"には驚いた)。
それでも初読の時は面白ければいいという感じだったのですが、「別冊太陽」の「太陽の地図帖」シリーズに「諸星大二郎 『暗黒神話』と古代史の旅」('14年/平凡社)というのがあり、それを読んで、一つ一つのモチーフが神話やそれにまつわる実在の遺跡などをベースにしていることが分かり、その博覧強記と取材力、構想力に改めて感じ入った次第です(あまり表に出て来ない作者のインタビューなどもあって貴重)。
ただし、本作の序盤において、当時類例のなさから重要文化財指定とされていた深鉢形土器をモチーフとした蛇紋縄文土器を登場させていますが、この土器は後に、(土器自体は縄文時代のものだったが)蛇形装飾の把手が推定復元であることが判明し、指定解除となっているそうです。この土器をモチーフに話が進んでいくので困ったものですが、古代史研究の場合、まあ、こういうことも起き得るのでしょう(笑)。
1988年版には、「週刊少年ジャンプ増刊」1979(昭和54)年1月号掲載された「徐福伝説」が併収されています。中国の秦の時代、始皇帝に命じられて不老不死の秘薬を得るために東方に渡った徐福の一行が嵐のため日本に流され、中国の文明人が未開の日本を訪れることになるという伝説の図式を背景に、男女の悲恋物語を描いています(こちらも、土器が出てくる一方で、徐福が染色体数と同じ47組の男女を連れ行くというSF的要素もあったりする)。
ただし、ここで描かれる徐福は、日本で一般に伝わる、呪術や祈祷・薬剤の調合に長け、医薬・天文・占術等にも通じたインテリで、その像などからも窺える温厚な人柄の人物というイメージと違って、どちらかと言うと始皇帝のイメージに近い、暴君的な強面のキャラクターになっています。この点については、作者独自の人物造型なのでしょうか、実際そういうキャラだったという言い伝えもあるのでしょうか。その辺りはよく分からなかったです。
徐福像(和歌山県新宮市)
「●た 滝田 ゆう」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒「●た 太宰 治」【1377】 太宰 治 『もの思う葦』
「○コミック 【発表・刊行順】」の インデックッスへ
正統派ラインアップ。漫画で(起承転結ではなく)「オチ」が愉しめる。
『滝田ゆう落語劇場 〔第1輯〕 (文春文庫 (302‐1))』『滝田ゆう落語劇場 第2輯 (文春文庫 302-2)』['83年]/『滝田ゆう落語劇場 全 (ちくま文庫 た 11-2)』['88年]/『落語劇場 1巻 (双葉漫画名作館) 』『落語劇場 2巻 (双葉漫画名作館) 』['91年]
『滝田ゆう落語劇場 1巻』『滝田ゆう落語劇場 2巻』[Kindle版]
作家の名作22篇をコマ漫画に仕立てあげた『滝田ゆう名作劇場』('78年/文藝春秋、'83年/文春文庫、'02年/講談社漫画文庫)、野坂昭如の作品を描いた『怨歌劇場』('80年/講談社、'83年/講談社文庫)に続く「劇場シリーズ」第3弾は、落語をコマ漫画にしたものです。
第1輯は「王子の狐」「素人鰻」「蕎麦の羽織」「夢の酒」「猫の災難」「味噌倉」「死神」など20話、第2輯では「青菜」「狸賽」「二階ぞめき」「包丁」「ぬけ雀」「茶の湯」「あくび指南」「千両みかん」など18話、合計で38編を所収。個人的には内容を知らないものもありますが、落語に詳しい人からすれば、正統派ラインアップではないでしょうか。
読んでいて、これまでのシリーズと違うのは、(「落語劇場」と謳っているので当然だが)元が小説ではなく落語であるということです。そのため、無意識的に起承転結の「結」を求めて読んでいたら(小説を読むという行為はだいたいそうしたものだ)最後に「オチ」が来て「落とされる」というところでしょうか。そうした面白さ、愉快さが、ああ、やっぱり落語だなあと。
漫画家でこの手のオチを描く人っていないかなあと思ったら、東海林さだおがいた! あの人はエッセイも、昭和軽薄体と呼ばれる独特なリズム感のある文体だなあ。本書を読んで落語を聴きたくなったというのはフツーでしょうが、東海林さだおのエッセイを読みたくなった、というのはちょっと変わっているかも。
本書は、'83年にいきなり文庫で、講談社文庫で第1輯、第2輯として出版され(「輯(しゅう)」というのは「集」みたいな意味か)、その後'88年にちくま文庫の全1巻として刊行されていますが、さらに'91年に「双葉漫画名作館」として第1巻・第2巻が刊行されています。
落語なのでセリフが大事です。読み易さからすると、「双葉漫画名作館」版が単行本サイズであるためお薦め。作者独特の小さな吹き出し(その中になぜか無意味な絵が描かれている)のようなものもあることですし(ただし、絶版のため入手しにくいと思ったら、シリーズでこの「落語劇場」のみKindle版がリリースされた。端末で画面拡大ができるので便利かも)。
「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3096】シェリダン・レ・ファニュ 『女吸血鬼カーミラ』
「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ
出版後40年を経て自身が作者であることを認めた才女。
『完訳Oの物語』['09年]『O嬢の物語 (講談社文庫 れ 2-1)』(鈴木 豊:訳)['74年]『O嬢の物語 ポーリーヌ・レアージュ 澁澤龍彦/訳 (角川文庫)』['75年]『O嬢の物語 (角川文庫)』[Kindle版]
『O嬢の物語』(澁澤龍彦:訳/金子國義:挿画/河出書房新社)['76年]『O嬢の物語 (河出文庫 レ 1-1)』['10年] 『O嬢の物語』(清水正二郎(胡桃沢耕史):訳/浪速書房)['64年]/(清水正二郎:訳/戸山書房)['72年]
女流ファッション写真家のOは、ある日恋人ルネにとある城館へ連れて来られ、複数の男の共有性的玩弄物となるよう、鞭打やその他肉体を蹂躙する手段をもって心身共に調教される。一ヶ月ほど後、城館を後にしたOは、ルネからステファン卿なる人物を紹介され、卿の求めに従ってルネから卿に譲り渡される。ステファン卿の持ち物となったOは凌辱と鞭打とを繰り返され、さらに卿の持ち物である証として尻に烙印を押され、性器に鉄の輪と鎖を付けられる。そしてある夜会で、梟の仮面を被せられ、陰部を脱毛されたOは衆目に晒されることになる―。
1954年6月にジャン=ジャック・ポーヴェール書店より刊行された作品で、1955年にはフランスの前衛的な文学賞「ドゥー・マゴ賞」を受賞。本邦では、鈴木豊訳『O嬢の物語』が'74年に講談社文庫から(2015年Kindle版)、澁澤龍彦訳(矢川澄子が下訳)『O嬢の物語』が'75年に角川文庫から(2012年Kindle版)、'92年に河出書房から(2010年河出文庫所収)刊行されていますが(そのほかにも、清水正二郎(胡桃沢耕史)訳『O嬢の物語』('61年新流社)などがある)、個人的には、高遠弘美訳『完訳Oの物語』('09年/学研プラス)で読みました(解説で澁澤龍彦訳、鈴木豊訳と自身の訳を比較したりしている)。グイド・クレパックス作画、巖谷國士訳のコミック版『O嬢の物語(全2巻)』('96年/リブロポート、'07年/エディシオン・トレヴィル)というのもあります。
『O嬢の物語 1』['96年]
「エマニエル夫人」('74年/仏)のジュスト・ジャカン監督により、コリンヌ・クレリー、ウド・キア出演「O嬢の物語」('75年/仏)として映画化されていますが('78年に三鷹東映で、「ラストタンゴ・イン・パリ」(ベルナルド・ベルトリッチ)、「スキャンダル」(サルバトーレ・サ)との3本立てで観た)、焼きゴテが熱そうで、あまり文学の香りはしなかった(笑)。コリンヌ・クレリーはその後「ホテル」('77年/伊・西独)などへの出演を経て、「007 ムーンレイカー」('79年/英)に出ますが、歴代で最もセクシーなボンド・ガールだったとの声も一部にあるようです。
ジャン・ポーラン
話を小説の方に戻して、作者のポーリーヌ・レアージュ(Pauline Réage)は女性名ですが、匿名で、発表当時から世界中で本当の作者は誰か話題が沸騰しました。書き手は男で(アルベール・カミュなどはそう確信していた)、本作に長い序文を寄せている言語学者で作家で文芸評論家であるジャン・ポーラン(1884-1968/83歳没)自身ではないかと言われ、一方で彼自身は序文で、「作者が女であるということには、ほとんど疑問の余地はあるまい」と書いていますが、この言は信用がならないと言われていました。
ドミニク・オーリー
ところが1994年、フランスの著名な女性編集者のドミニク・オーリー(1907-1998/90歳没)が原作者であることを認めたとの報道がありました(当時86歳)。彼女は以前から創作に関与しているのではないかと言われていたものの、それを否定し続けていましたが、40年を経て自身が作者であることを認めたことになります。彼女はソルボンヌ大学を卒業後、ジャーナリストとして働き、ガリマール社に編集者として参加したりもしていました。
ジャン=ジャック・ポーヴェール
因みに、この作品は当初、ガリマール社に出版を断られた後、ジャン・ポーランが、1950年代初頭にマルキ・ド・サドの作品を出版したことで有名で、後に自身の作品『生きているサド』で「ドゥー・マゴ賞」を受賞するジャン・ジャック・ポーヴェールが経営するポーヴェール出版社に話を持ち掛けて出版に漕ぎつけています。ただし、オーリーが作者であることは、ポーラン、ポーヴェールとオーリー本人の3人だけの秘密であったようです。
ドミニク・オーリーにとってジャン・ポーランは雇い主である同時に恋人であり、女性は性愛文学を書くことができないというポーランの考えが間違っているということを証明するために、この作品を書いたとのことです。また、ポーランより23歳年下ではあるものの、もう若くなく(当時ポーラン70歳、彼女は47歳ぐらいか)、ポーランを失うことを恐れていたオーリーは、彼の気を引くために「恋文として」この物語を書いたとも述べています(「若くもなくかわいくもない自分には、他の武器が必要であった」と説明している)。
そうした前提でこの物語を読むと、延々たる性描写(ただし、卑猥な言葉は一切使われていない)なども何となく納得がいく気がし、確かに、彼女がポーランに宛てた膨大かつ蠱惑的なラブレターのようにも思えなくありません。ただし、第二部については、ドミニク・オーリーが書いたという説と、ジャン・ポーランが書いたという説があります(ジャン・ポーランが書いたとすれば、ラブレターの返し文みたいなものか)。
以前、このブログで沼正三の『家畜人ヤプー』を"評価不能"としましたが、雑誌「奇譚クラブ」に掲載された作者の「沼正三」は正体不明の作家で、当時現職エリート判事だったK氏が作者だという説が有力です。個人の性的嗜好をそのまま表現したものが、文学表現的に優れていても「文学」としてはどうかなというのもあり、評価に迷ったというのがあります。
この『Oの物語』の作者ドミニク・オーリーもたいへんな才女であり、社会的地位も高い点で少し似ているようなところがあるように思いました。"出版後40年を経て自身が作者であることを認めた才女"って、ちょっと劇的であるし、名乗らなかったのは、現代とは異なる当時の時代背景もあったことは想像に難くないでしょう。ただ、書いた動機はさることながら、女性の性の解放を謳っているともとれ(という言い方をするとまたフェミニストから批判があるが)、星4つ評価としました。でも、『家畜人ヤプー』同様、評価するのが難しいというのが本音です。
「O嬢の物語 劇場版 ヘア完全解禁 HDリマスター版 [DVD]」
「O嬢の物語」●原題:HISTOIRE D'O●制作年:1975年●制作国:フランス●監督:ジュスト・ジャカン●製作:エリック・ローシャ●脚本:セバスチャン・ジャプリゾ●撮影:ロベール・フレース●音楽:ピエール・バシュレ●原作:ポーリーヌ・レアージュ●時間:105分●出演:コリンヌ・クレリー/ウド・キア/アンソニー・スティール/ジャン・ギャバン/クリスチアーヌ・ミナッツォリ/マルティーヌ・ケリー/リ・セルグリーン/アラン・ヌーリー●日本公開:1976/03●配給:東宝東和●最初に観た場所:三鷹東映(78-02-04)(評価:★★)●併映:「ラストタンゴ・イン・パリ」(ベルナルド・ベルトリッチ)/「スキャンダル」(サルバトーレ・サンペリ)
「●ま 松本 清張」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3012】松本 清張 『証明』
「●岩下 志麻 出演作品」の インデックッスへ 「●滝沢 修 出演作品」の インデックッスへ 「●加藤 嘉 出演作品」の インデックッスへ 「●夏八木 勲 出演作品」の インデックッスへ 「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●日本のTVドラマ (90年代~)」の インデックッスへ(「松本清張スペシャル 内海の輪」)
松本清張の真骨頂という感じの作品。映画よりドラマの方が原作に忠実。
『内海の輪 (カッパ・ノベルス)』['69年]『内海の輪 (角川文庫)』['74年]『内海の輪 新装版 (角川文庫) 』['23年]「<あの頃映画> 内海の輪 [DVD]」岩下志麻「火曜サスペンス劇場 松本清張スペシャル 内海の輪 [DVD]」中村雅俊
2025.3.30 蓼科新湯温泉にて
東京のZ大学に勤務する考古学者・江村宗三は、愛媛県松山の洋品店主の妻である西田美奈子と不倫関係になっていた。14年前、美奈子は宗三の兄嫁であった。美奈子の現在の夫・慶太郎は不能な老人となって久しい。落ち合った宗三と美奈子は、広島県の尾道で宿泊したが、火の点いた美奈子は、自分が松山の家を出ることを主張し始める。スキャンダルで考古学会から葬られることを恐れる宗三。有馬温泉に移ると、美奈子は宗三に妊娠を告げる。「もう松山には戻れないわ。あなたなしには生きてゆかれなくなったわ」と、宗三の子を産むと宣言、それは宗三の学界からの追放を意味し、絶望に落ちた宗三は美奈子の殺害を計画するが―。(「内海の輪」)
「内海の輪」は、松本清張が「黒の様式」第6話として「週刊朝日」'68(昭和43)年2月16日号~10月25日号に連載し(連載時のタイトルは「霧笛の町」)、'69(昭和44)年5月に中編集『内海の輪』収録の表題作として、光文社(カッパ・ノベルス)から刊行された作品(併録「死んだ馬」)。
ミステリ要素よりは女性の欲望と情念が前面に出た作品で、松本清張の真骨頂という感じの作品。やはり恋愛では、女性の方が一途なのか、老舗洋品店の妻としての安定した生活を捨てても恋を貫こうとする美奈子に対し、宗三は、美奈子を愛しているものの、考古学者としての野心もあり、女の一途さ、情の深さにそれに翻弄され、追い詰められて犯行に至ります。
「ボタンが決め手」というのがプロット的に弱いとみたのか、宗三が東京で乗ったタクシーの運転手が旅先で乗ったタクシーの運転手と偶然同じだったことから証言が得られるという展開が最後にあり、偶然に依拠し過ぎとの批判もあるようですが、このパターンは清張の作品にもあり、「本格推理」でもないので、これはこれで「ボタン」を補うという点でいいのではないでしょうか。
'71年に斎藤耕一監督により映画化されており、主演の岩下志麻は、「お話があって早速読みましたが推理小説というより愛のドラマのように感じました。女のサガとでもいいましょうか、女の愛の一つのタイプのもので一生懸命演じてみたいと思います」と話したというから、自分と同じ印象を持ったということか。
映画の出来について淀川長治は、「岩下志麻はもはやカトリーヌ・ドヌーブ級のうまさ。問題は青年のエゴと弱さをさらけだす宗三役の中尾彬。これが弱さのかげをもっと深く見せねばならなかった。難役ゆえに惜しい」「しかし日本映画もこれほど上等になってきた」などと評しましたが、前半は個人的にも同意見です。
原作では場面的には登場しない、美奈子の不能夫を三國連太郎が演じており、冒頭から岩下志麻との濡れ場シーンがあったり(しかもその夫と女中の関係も描かれる)、倒叙型で先に女性の死体が見つかった場面があったりと(しかも原作のように白骨死体で見つかるのは別の事件の話になっている)、ところどころ部分的に原作を変えていますが、岩下志麻の演技力でぐいぐい引っ張っていく感じでした(そっか、物語の主人公役は中尾彬だが、主演は完全に岩下志麻だった)。
ところが、女が男の自分への殺意に気づき、最後は誤って自ら断崖から足を滑らせ...と、ここで原作と大きく異なってしまい、これって事故であり、原作の殺人事件にならないじゃないかと。男の殺意も実行に移さなければ女の思い込みともとれるし、逃げるのが得策ではなかったのにその場から逃げてしまった男は、「殺人」の嫌疑はかけられても仕方がないですが、実情は「死体遺棄」といったところでしょうか。男の出世にも関係する、原作の石器の発見の話も端折られていて、原作者は何も言わなかったのかなあ(脚本家はクレームをつけたらしい)。
これまで、'82年のTBS「ザ・サスペンス」の〈滝田栄・宇津宮雅代版〉と、2001年の日本テレビ「火曜サスペンス劇場」の〈中村雅俊・十朱幸代版〉の2度テレビドラマ化されていて、〈中村雅俊・十朱幸代版〉を観ましたが、こちらの方が映画よりずっと原作に忠実でした。女は不倫旅行のるんるん気分の内に殺害されるし、男には明確な殺意がありました(あくまで中村雅俊が主演)。死体は白骨死体で見つかり、その付近での石器の発見の話も活かされていました。ラストの犯行の決め手になる小道具だけが、ボタンからメガネに変更されていましたが、これなら、タクシー運転手の証言を借りずとも男が犯人であることが立証でき、完璧と言えるかと思います。
火曜サスペンス劇場「松本清張スペシャル 内海の輪」(2001年/日本テレビ)中村雅俊/十朱幸代/紺野美沙子
銀座裏のバーのマダム・石上三沙子は、店を開いて3年後、和風建築家の池野典也と出会う。池野が当代一流の建築設計家で、相当の財産を持っているらしいことを聞いた三沙子は、再度の来店時に池野を誘い出した。病妻を失った63歳の池野は、33歳の三沙子と再婚した。三沙子は夫の設計事務所の経理主任・樋渡忠造を味方に付け、夫の収入の実体を把握したが、二年ほど経つと、池野の肉体的能力の衰退とともに、設計の才能が枯渇してきたことに気づく。夫が死んだ後も設計事務所を維持し、自分の名声を高めたい三沙子は、事務所員のなかでも飛び抜けて優秀な秋岡辰夫に近づく。三沙子はバーで培った技巧を駆使し、女性経験のなかった秋岡は三沙子の術中にはまる―(「死んだ馬」)。
併録の「死んだ馬」は、「小説宝石」'69(昭和44)年3月号に掲載された文庫で70ページほどの中編で、今度は三沙子という女性に翻弄される男の話。愛人の愛情と仕事上の名声の両方を手に入れようとしてしている点で「内海の輪」の主人公と似ていますが、女のために(自分自身のためでもあるが)殺人まで犯してしまい、しかし、女が自分を愛してはおらず利用しただけだったと後から気づき、女に殺意を抱くという、この辺りの流れが、これまた松本清張ならではの旨さでした。
松本清張の作品が長編に限らず中短編も数多く映像化されているのは(その点ではアガサ・クリスティやコナン・ドイルに匹敵するのでは)、こうした長編にもなりそうな素材を中短編にうまく凝縮しているというのもあるのではないでしょうか。実際、この作品も2度ドラマ化されており、'81年のテレビ朝日「土曜ワイド劇場」の〈小川真由美・山本亘版〉と、2002年のTBSの〈かたせ梨・萩原聖人版〉がありますが、どちらも未見。機会があれば観てみたいと思います。
「松本清張の死んだ馬 殺人設計図」(1981年/テレビ朝日)小川真由美・山本亘・山形勲・山田吾一
「松本清張没後10年特別企画 死んだ馬・殺意の接点」(2002年/TBS)かたせ梨・萩原聖人・神山繁・蟹江敬三
「内海の輪」●制作年:1971年●監督:斎藤耕一●製作:三嶋与四治●脚本:山田信夫/宮内婦貴子●撮影:竹村博●音楽:服部克久●原作:松本清張「内海の輪」●時間:103分●出演:岩下志麻/中尾彬/三國連太郎/滝沢修/富永美沙子/入川保則/水上竜子/加藤嘉/北城真記子/赤座美代子/夏八木勲/高木信夫/高原駿雄●公開:1971/02●配給:松竹●最初に観た場所:池袋・新文芸坐(24-07-23)(評価:★★☆)<.font>
「松本清張スペシャル 内海の輪」●監督:三村晴彦●脚本:那須真知子●音楽:佐藤允彦●原作:松本清張「内海の輪」●出演:中村雅俊/十朱幸代/紺野美沙子/石橋蓮司/西田健/塩見三省/丸岡奨詞/野村昇史/柳川慶子/廣田行生/勝部演之/伊藤昌一/小久保丈二●放映:2001/03/27(全1回)●放送局:日本テレビ(火曜サスペンス劇場)
【1969年ノベルズ版[カッパ・ノベルス]/1974年文庫化・2023年新装版[角川文庫]】
「●か行の日本映画の監督」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2507】 河野 寿一 「独眼竜政宗」
「●原田芳雄 出演作品」の インデックッスへ 「●勝 新太郎 出演作品」の インデックッスへ 「●石橋 蓮司 出演作品」の インデックッスへ 「●田中 邦衛 出演作品」の インデックッスへ「●長門 裕之 出演作品」の インデックッスへ 「●佐藤 慶 出演作品」の インデックッスへ「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ
最後の大殺陣シーンに尽きる。赤牛の最期は"自殺願望"の充足か。
「あの頃映画 「浪人街 RONINGAI」 [DVD]」
江戸下町のはずれ、一膳飯屋の"まる太"で2人の浪人が対立した。この街で用心棒をしている赤牛弥五右衛門(勝新太郎)と、新顔の荒牧源内(原田芳雄)だ。対立する2人の前に、源内とかつてただならぬ仲であったお新(樋口可南子)に密かに心を寄せている浪人・母衣権兵衛(石橋蓮司)が仲裁に入る。一方、長屋の井戸端には土居孫左衛門(田中邦衛)という浪人が妹おぶん(杉田かおる)と共に住んでいた。2人にとって帰参は夢だが、それにはどうしても百両という大金が必要だった。そんな時、街で夜鷹が次々と斬られる事件が起こる。赤牛は白塗りの夜鷹に扮し、夜鷹殺しの侍を斬るが、それにもかかわらず夜鷹斬りは続く。翌朝、まる太の主人・太兵衛(水島道太郎)の惨殺死体が発見される。すべては旗本・小幡七郎右衛門(中尾彬)一党の仕業だった。お新をはじめとする夜鷹たちが集まって太兵衛の遺骸を囲んでいる時、突然その夜鷹斬りの旗本・小幡ら7人が乗り込んでくる。一触即発の気配が漂う中、赤牛は小幡一党らと共にその場を去るが、その日赤牛は戻って来なかった。数日後、お新は、小幡を銃で暗殺しようとして逆に彼らに捕らえられてしまう。そして、その一味の中には何と赤牛がいた。その頃、孫左衛門のところに、おぶんから相談を受けていた豪商・伊勢屋(佐藤慶)の妾・お葉(伊佐山ひろ子)が百両の情報を持って飛び込んできた。孫左衛門は手形を預かった同心の柏木(津村鷹志)を斬り倒し、首尾よく百両を手に入れるが、その夜、赤牛は酒盛りの席で小幡に「手形を盗んだのは源内に違いない」と告げ口をする。そこで、小幡は源内を誘い出す手として、おぶんを逃がし、お新を牛裂の刑に処することにした。おぶんから聞いて事態を知った源内は、十数本の剣を体中にくくり付け、お新のもとへと駆け出す。それを知った権兵衛、孫左衛門たちも―。
黒木和雄監督の1990年公開作。マキノ正博監督により1928(昭和3)年に制作・公開された「浪人街 第一話 美しき獲物」の4度目のリメイク作品で、もともとはマキノ正博監督によるセルフリメイクとして企画されたものの、マキノの健康上の理由で断念し、マキノの後押しもあって、黒木和雄が監督したもの(マキノは総監修という立場。また、終盤の17分間の大殺陣シーンの撮影は宮川一夫が特別参加している)。
原田芳雄/勝新太郎/樋口可南子/石橋蓮司/田中邦衛/中尾彬
公開を目前にした1990年1月16日、勝新太郎がハワイのホノルル国際空港で下着にマリファナとコカインを入れていたとして現行犯逮捕されるという事態が発生しため、公開は先送りとなり、ようやく8月18日になって公開にされたとのこと。勝新にとって最後の映画出演作となりました(この映画を観ていると、セリフが何言っているかよくわからないところもあったが、まだまだやれたと思われて惜しい)。
この映画、最後の大殺陣シーンに尽きる気もします。最初は原田芳雄演じる荒牧源内が一人で120人相手に刀を振り回していたけれど、原田芳雄らしいハチャメチャな殺陣でした。しかし、これではさすがに持ちこたえられない―というところへ、石橋蓮司演じる母衣権兵衛が白装束で駆け付け、こちらはきりっとした殺陣で、よれよれの原田芳雄を上回る獅子奮迅の大活躍、さらに田中邦衛演じる土居孫左衛門も戦国騎馬武者の姿(元小倉藩藩士!)で登場します(白装束に着替えたり甲冑を身に纏ったりしている時間が惜しくはないのかと思うけれど、まあ、そこは突っ込まないことに)。絶体絶命のお新を救うということに、3人がそれぞれの思いで順次かぶさって来る作りが上手いと思います。そして最後に赤牛弥五右衛門―。
考えてみれば、勝新太郎演じる赤牛弥五右衛門は、一膳飯屋の用心棒でありながら夜鷹たち習字の先生であり、原田芳雄演じる荒牧源内は、蘭学・医学を学ぶ学究の徒でもあり(平賀源内に倣ったネーミングか)、現在と将来の先生でもあるわけで、その辺りも面白いです。
後日談で、石橋蓮司演じる母衣権兵衛が、荒牧源内は医学を学ぶために長崎に行ったと、語っている相手は赤牛弥五右衛門の"位牌"であるのが寂しいです。赤牛は戦略的に中尾彬演じる小幡七郎右衛門側にくっついたフリをしたのかと思ったけれど、本当に本気で一度寝返ったのだったら、あの最期は仕方がないのかも...。いや、ここは、戦略的に小幡七郎右衛門側にくっついたフリをして(手形を盗んだ犯人を源内として小幡をそそのかしたのは疑問が残るが)、ラストは、それまでにもその気配がちらちら見られた本人の"自殺願望"を、自分が納得のいく形で満たしたととるべきなのかもしれません(一見虚無的に見える荒牧源内にではなく、赤牛弥五右衛の根底にあるものこそが"虚無"だったということか)。
勧善懲悪のある程度パターナルな結末ではありますが、原田芳雄、勝新太郎、石橋蓮司、田中邦衛が演じる4人の浪人のキャラの描き分けがしっかりできているほか、勝新とやりとりする長門裕之の蕎麦屋、伊佐山ひろ子のお葉のきりっとした視線、絵沢萠子の殺される哀れな遊女おとく、天本英世の琵琶法師...etc. 絶妙の配役が隅々まで行き渡っている感じの作品でした。
「浪人街」●制作年:1990年●監督:黒木和雄●総監修:マキノ雅広●脚本:笠原和夫●特別協力:宮川一夫●撮影:高岩仁●音楽:松村禎三●原作:山上伊太郎●時間:117分●出演:原田芳雄/樋口可南子/石橋蓮司/杉田かおる/伊佐山ひろ子/藤崎卓也/絵沢萌子/賀川雪絵/天本英世/水島道太郎/中村たつ/紅萬子/賀川雪絵/外波山文明/津村鷹志/青木卓司/甲斐道夫/中田譲治/中尾彬/佐藤慶/長門裕之/田中邦衛/勝新太郎●公開:1990/08●配給:松竹●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(24-09-15)(評価:★★★★)
「●や‐わ行の外国映画の監督②」の インデックッスへPrev|NEXT ⇒ 「●TV-M (クリスティ原作)」【1951】 「アガサ・クリスティ/なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか?」
「●「ベルリン国際映画祭 銀熊賞(審査員特別賞)」受賞作」の インデックッスへ 「●ハーヴェイ・カイテル 出演作品」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ 「●日本の絵本」 インデックッスへ 「○現代日本の児童文学・日本の絵本 【発表・刊行順】」の インデックッスへ
原作者のポール・オースターらしさが活かされた映画。
「スモーク デジタルリマスター版 [Blu-ray]」
ハーヴェイ・カイテル/ウィリアム・ハート(1950-2022)
ブルックリンの街角で小さな煙草店を営むオーギー・レン(ハーヴェイ・カイテル)は、10年以上毎日同じ時刻の同じ場所で写真を撮影していた。煙草屋の常連で、オーギーの親友でもあるポール・ベンジャミン(ウィリアム・ハート)は、作家であるが数年前に銀行強盗の流れ弾で妻を亡くして以来、仕事が手につかず悩んでいた。閉店間際の店に駆け込んだポールは、見せてもらったオーギーの写真集から亡き妻のありし姿を見つけ号泣する。ポールはボンヤリとして自動車に轢かれそうになったのを助けられ、ラシード(ハロルド・ペリノー・ジュニア)と出会う。その怪しい少年に感謝し、ポールは彼を自分の家に泊めてやる。2晩泊まった後にラシードは家を出て行ったが、その数日後にラシードの叔母を名乗る女性が現れた。ラシードの本名はトーマス・コールといい、偽名を使って各地を転々としていたのだ。その頃トーマスは生き別れた父親のサイラス(フォレスト・ウィテカー)に会いに、サイラスが営む小さなガレージを訪れた。トーマスはサイラスのガレージのスケッチをしているが、追い払われても退かず、そこでトーマスは以前世話になったポールの名前を偽名として用い、無理やり雇わせる。後日、トーマスはポールの元を再訪。ポールは先日トーマスの叔母が自分の元を訪れた経緯を述べ、本名を問い詰める。トーマスを追うギャングに押し入られ、ポールはトーマスのヤバさを知る。ルビー(ストッカード・チャニング)は戦争中、オーギーを裏切り他の男と結婚したが、娘がピンチだと金の工面に訪れる。ポールはトーマスの隠した6000ドルを自宅で見つけるが、その金はトーマスがタバコ屋のバイトでドジした賠償に当てられ、さらにルビーに渡される。トーマスはサイラスに本当の名を名乗り、息子であることを伝えるが、混乱から乱闘になる。オーギーは作家に昼食をとりながら過去にあったクリスマスの話をする。昔、万引き犯を追いかけるが逃げられ、落としていった財布には写真だけがあった。家を訪ねるとそこには盲目のおばあさんが一人で住んでいて、自分のことを孫だと思い込んだ。だから話を合わせて一緒にクリスマスを過ごしてきたという。それにポールは「本当にいいことをしたな。人を幸せにした。生きていることの価値だ」と言う。オーギーはその言葉に心から満足する。ポールはその話の原稿を書き始める―。
香港出身のウェイン・ワン監督の1995年公開作で、同年・第45回 「ベルリン国際映画祭」の銀熊賞(審査員特別賞)受賞作。原作は今年['24年]4月30日に77歳で没したポール・オースターが、ニューヨーク・タイムズ紙から依頼されて書いた短編小説。ポール・オースターは、事実を載せるはずの新聞に虚構を書けというアイデアが気に入って引き受けたそうで、そのタイムズ紙を読んでウェイン・ワン監督が感激して映画化をポール・オースターに持ちかけたということだったようです。ポール・オースターはウェイン・ワン監督と親交を深め、映画「スモーク」の脚本を書き下ろし、ハーヴェイ・カイテルやフォレスト・ウィテカーなどのキャストの選定もポール・オースターが行ったそうです。
オーギーがポールにクリスマス・ストーリー(盲目のおばあさんとの話)を語る店は実在する惣菜屋で、この店での撮影に3日間もかかり、ポール・オースターはハーヴェイ・カイテルにセリフの一字一句変えることを禁じたとのこと。結果、このクリスマス・ストーリーを語るシーンが、ハーヴェイ・カイテルの演技の見せ処となったように思います。
ラストで回想でそのオーギーの最後の話が演じられますが、実はおばあさんは声を聞いてすぐに別人だと分かっていたことは、オーギーの話の中で明かされていて、要するに、二人は互いに演技し合っていたということになります。また、オーギーがタバコ屋の前で撮影しているカメラは、そのとき去り際に盗んだものだった(箱に「キヤノン AE-1」とあった)という、ちょっと「オチ」っぽい終わり方で、このあたりはオースターらしいです。映画全体を通しても、原作者のポール・オースターらしさが活かされた映画と言えるかもしれません。
映画パンフレット(タバコ店の店名は「Brooklin CIGAR CO.」とある)
「スモーク」を撮り終えた頃、余ったフィルムでスピンオフ作「ブルー・イン・ザ・フェイス」が即興で撮られ、6日間で撮り終えられたこの作品には、「スモーク」に出演したハーヴェイ・カイテル(同じく煙草屋の役)はもとより数多くの俳優が集まり、その中にはルー・リード、マイケル・J・フォックス、マドンナなどがいます(ポール・オースターはこの作品の脚本執筆&副監督を務めている)。
また、原作(Auggie Wren's Christmas Story 1992)は、柴田元幸訳、タダジュン絵で『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』('21年/スイッチパブリッシング)とし
て翻訳されています(絵本だが、原文は全部生かしている)。タダジュン氏のモノクロの絵がいい感じです。原作はポールの視点で描かれており、ニューヨーク・タイムズからクリスマスの朝刊に載せる短編を書かないかといわれ引き受けたものの、「クリスマス・スートリー」なんて書けないと悩んでいたという、作家ポール・オースター自身の経験を裏返しにして活かしています(「銀行強盗の流れ弾で妻を亡くした」とかはもちろん創作だが)。因みに、原作では「銀行強盗の流れ弾で妻を亡くした」という話そのものが無く、これは映画のオリジナルです(ラシード少年の話なども原作には無い話で、原作では少年そのものが登場しない)。
物語の中で、最後は、ポールはオーギーの盲目のおばあさんとの話は全部でっち上げではないかとも思いますが、彼の話を信じることにし、「誰か一人でも信じる人間がいる限り、本当でないない物語などありはしないのだ」として、小説のネタをくれたオーギーに感謝します。ある意味、「虚構」が入れ子構造になっているとも言え、「虚構の中にこそ真実がある」という作家のメッセージのように思いました。
因みに、村上春樹・柴田元幸共著の『翻訳夜話』('00年/文春新書)に、訳者によって翻訳がどう変わってくるかという見本として、両者それぞれの翻訳による「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」の抜粋とその原文が収録されているので、村上春樹訳と比べてみるのもいいかと思います。
「スモーク」●原題:SMOKE●制作年:1995年●制作国:アメリカ・日本・ドイツ●監督:ウェイン・ワン(王穎)●製作:ピーター・ニューマン/グレッグ・ジョンソン/黒岩久美/堀越謙三●脚本:ポール・オースター●撮影:アダム・ホレンダー●音楽:レイチェル・ポートマン●原作:ポール・オースター『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』●時間:113分●出演:ハーヴェイ・カイテル/ウィリアム・ハート/ハロルド・ペリノー・ジュニア/
フォレスト・ウィテカー/ストッカード・チャニング/アシュレイ・ジャッド/エリカ・ギンペル/ジャレッド・ハリス/ヴィクター・アルゴ●日本公開:1995/10●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:新宿武蔵野館(24-06-05)((評価:★★★★)
「●ま行の外国映画の監督」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3023】 フェルナンド・メイレレス「ナイロビの蜂」
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●海外絵本」の インデックッスへ 「○海外児童文学・絵本 【発表・刊行順】」の インデックッスへ
アニメ映画化のメリットが大きい。
「風が吹くとき デジタルリマスター版 [DVD]」『風が吹くとき』['98年][上]/『風が吹くとき』['82年][上]
イギリスの片田舎で平穏に暮らすジムとヒルダの夫婦は、二度の世界大戦をくぐり抜け、子どもも育て上げ、いまは老境に差し掛かっている。そんなある日、2人は近く新たな世界大戦が起こり、核爆弾が落ちてくるという知らせを聞く。ジムは政府が配ったパンフレットに従ってシェルターを作り備えるが、ほどなくして凄まじい爆風に襲われる。周囲が瓦礫になった中で生き延びた2人は、政府の教えに従ってシェルターでの生活を始めるが―。
ジェームズ・T・ムラカミ
1986年のジェームズ・T・ムラカミ監督作。原作は、「スノーマン」「さむがりやのサンタ」で知られるイギリスの作家・イラストレーターのレイモンド・ブリッグズが1982年に発表した、核戦争に際した初老の夫婦ブロッグス夫妻を主人公にした絵本で(原題:When the Wind Blows)、彼らが参考にする政府が発行したパンフレットは、イギリス政府が実際に刊行した手引書 "Protect and Survive" (『防護と生存(英語版)』)の内容を踏まえているとのことです。日本語版は1982年に小林忠夫の訳で篠崎書林から出版され、1998年にはさくまゆみこの訳であすなろ書房から出版されています(小林忠夫はあとがきで、作者は本書を現代のエリートたちへの警告の書として描いたとしている)。
イギリス映画ですが、監督のジェームズ・T・ムラカミは、長崎に住む親戚を原爆で亡くしているという日系アメリカ人。音楽はロジャー・ウォーターズで、主題歌はデビッド・ボウイの英国人コンビ。日本語吹替え版は大島渚が監修し、ジムとヒルダの声を森繁久彌と加藤治子が担当。1987年7月に日本初公開。2008年7月、デジタルリマスター版が公開。2024年8月にも吹き替え版でリバイバル公開されましたが、個人的には字幕版で観ました。
夫婦が孤立の中、マニュアルを参照しながらも、時に無知や思い込みからくる誤った行動をとってしまうことなどから(日光浴をしたり、雨水を飲んだり...)、次第に"被曝死"への道を辿っていく様は恐ろしいものであり、夫婦が最後まで政府の助けが来ることを信じているのも、それが心情的には"救い"であると言うよりは、むしろ見ていて歯がゆくなる思いがします。でも、実際に身近に核爆弾が落ちたら、中途半端な知識なんか役に立たないんだろなあ。政府も何かしてくれるわけでもないし、そもそも何もできないでしょう。
ペーパーバック(1986)/ハードカバー(1987)
原作の絵本は、そうした会話部分は細かく区切られたコマ漫画になっていて、それがほとんどを占め、それだけ夫婦間で交わされる会話が重要であるということでしょう。ただし、必ずしも読みやすいというものではありません(小林忠夫は「大人が子どもに読んで聞かせる絵本」としている)。それをアニメ映画にすることで、会話と情景描写を同時に味わえるため、誰もが鑑賞しやすくなっており、映画化のメリットは大きいと思いました(原作者レイモンド・ブリッグズが脚本を担当))。
因みに、核戦争が起きたと想定した映画では、この映画と同じ年に公開されたアンドレイ・タルコフスキー監督の「サクリファイス」('86年/スウェーデン・英・仏)があります。ハンガリーのタル・ベーラ監督の「ニーチェの馬」('11年ハンガリー・仏・スイス・独)もそうでした。ただ、いずれも、この「風が吹くとき」と同じく、核爆発や核攻撃の直接的な場面はありません(ただし、この「風が吹くとき」では、タイトル通り夫婦の家を凄まじい爆風が襲う場面はある)。
「サクリファイス」では、世界の終りの危機が核戦争勃発によってもたらされたことが、登場人物がテレビでそのニュースを聴く場面があることから具体的に示されているのに対し(したがって「風が吹くとき」に近い形)、「ニーチェの馬」では、風吹きすさぶ中、父と娘が暮らす一軒家に立ち寄った男が、町は風で駄目になった」と言うだけです。ただし、2人きりで孤立して死を待つほかないとう状況は、「風が吹くとき」に似ているとも言えます。これらを見比べてみるのもよいかと思います。
「風が吹くとき」●原題:WHEN THE WIND BLOWS●制作年:1986年●制作国:イギリス●監督:ジェームズ・T・ムラカミ(日本語吹き替え版監督:大島渚)●製作:ジョン・コーツ●脚本:レイモンド・ブリッグズ●絵コンテ:ジミー・T・ムラカミ●音楽:ロジャー・ウォーターズ(主題歌:デビッド・ボウイ)●原作:レイモンド・ブリッグズ●時間:85分●出演:ジョン・ミルズ/ペギー・アシュクロフト/(日本語版)森繁久彌/加藤治子/田中秀幸●日本公開:1987/07●配給:ヘラルド・エース=日本ヘラルド映画(評価:★★★★)
「●アキ・カウリスマキ監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●アンドレイ・タルコフスキー監督作品」【3281】 アンドレイ・タルコフスキー 「惑星ソラリス」
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
「労働者3部作」第1作。カウリスマキ映画の作風の雛形が出来上がった作品。
「パラダイスの夕暮れ (字幕版)」[Prime Video]マッティ・ペロンパー/カティ・オウティネン
ニカンデル(マッティ・ペロンパー)はゴミの収集人。相棒と二人、収集車に乗ってゴミを集めて回る。仕事帰りにスーパーで買い物をしていると手首から血が出ていた。レジ係の女性イロナ(カティ・オウティネン)が親切に手当してくれた。ニカンデルは彼女に一目惚れする。年配の同僚(エスコ・ニッカリ)から「俺は独立してのし上がるつもりだ。一緒にやろう。」と誘われ、その気になったが、同僚は仕事中に急死してしまう。ショックを受けたニカンデルはバーで酔って暴れ、留置所に入れられた。そこで出会ったメラルティン(サカリ・クオスマネン)という失業中の男に自分の会社を紹介し、一緒に働くことになる。仕事中に
偶然イロ
ナに再会し、デートに誘う。ビンゴホールに連れて行ったら「わたしたちうまくいかない」と振られてしまう。イロナはスーパーの店長(ペッカ・ライホ)からクビを言い渡される。悔しくて事務所の手提げ金庫を盗んだ。帰り道、ニカンデルを見つけドライブをねだった。二人は郊外のホテルに泊まりゆっ
くり話をした。翌朝、海を見ながら初めてキスをした。イロナがアパートに帰ると刑事が待っていた。彼女が取り調べを受けている間、ニカンデルはこっそりと金庫をスーパーの事務所に戻す。ニカンデルがイロナのアパートに行くとルームメイト(キッリ・ケンゲス)しかいなかった。彼女は荷物を纏めて出て行ったらしい。ニカンデルは車で探し回ったが見つからない。イロナはホテルが満室だったのでベンチで夜を明かし、朝になってニカンデルの部屋のベルを鳴らした。ニカンデルはコーヒーを出した。彼が仕事をしている間、イロナは彼のベッドで眠った。同棲が始まり、イロナは衣料品店で働き出したが、二人の心はすれ違う。夕食後、イロナが「散歩に行きたい」と言うのでニカンデルが「一緒に行こう」と言うと「独りがいいの」
と答える。メラルティン夫婦と一緒に4人で映画を観て、酒を飲もうと約束をしたのにイロナはすっぽかす。寂しく情けない思いをしたニカンデルはヘソをまげ、彼女をアパートから追い出す。レコードを聴いたり、パブで酒を飲んで自分を慰めたが、どうしても彼女に会いたかった。イロナは勤め先の店長(ユッカ=ペッカ・パロ)と高級レストランで食事をしていたが、気分が乗らず「帰るわ。ご馳走さま」と中座し、ニカンデルの部屋へ行き、留守だったが彼のレコードを聴きながら寝入ってしまった。その頃ニカンデルはパブの帰り道、暴漢におそわれてケガをして倒れていた。翌日、搬送された病院にメラルティンが見舞いに来た。やっぱりイロナに会いたい。病院を抜け出して彼女の店に行った。「迎えに来た。新婚旅行に行こう」「いいわね」二人をメラルティンは港まで送った―。
1986年公開の、アキ・カウリスマキ監督の、長編3作目で、「労働者(プロレタリアート)3部作」第1作。今に見られるカウリスマキ映画の独特の作風の雛形が出来上がった作品とされ、さらに、既にそれは完成形と言えるものになっています。また、アキ・カウリスマキ監督作の常連となるマッティ・ペロンパーとカティ・オウティネンの初共演作でもあります(ただし、マッティ・ペロンパーの方は、アキ・カウリスマキ監督と親交のあるジム・ジャームッシュ監督のオムニバス映画「ナイト・オン・ザ・プラネット」 ('91年/米)のヘルシンキ編にも出たりしていたが、残念ながら44歳で早逝した)。
マッティ・ペロンパー(1951-1995/44歳没)
「労働者3部作」の第1作の主人公がゴミの収集人というのも象徴的です。因みに、労働者3部作のあとの2作(「真夜中の虹」「マッチ工場の少女」)はそれぞれ失業者、女工を主人公にしています。徹底して社会の片隅に生きる人々(少し貧しいが、心は優しい)を主人公にし続けているとこころが、ある意味凄いと思います(小津安二郎などの影響も受けているようだが、小津は途中から中流以上の家庭を舞台にするようになった)。
この作品を観て、経済的に裕福ではない人を主人公に据えるとともに、彼らは、現状では幸福感が得られていないと言うか、幸福とは何か、自分が不幸だということにも気づかないでいるような状況で登場するのも特徴であると改めていました。イロナに「なぜ私といるの?」と訊かれたニカンデルが、「俺には理由なんてない。あるのはただ、この名前と、ゴミ集めの制服、虫歯に病気の肝臓、慢性胃炎...いちいち理由をつける贅沢なんて俺にはない」と、ちょっとハードボイルドっぽく返しますが(この男、時々ハードボイルドを気取るところもある)、自虐的と言うか達観してしまっている印象も受けます。二人は急接近したと思ったら離反したりしますが、最後はハッピーエンドに。でも、この先この二人、大丈夫かなという気もします(結構、発作的に行動する傾向が二人ともある)。
ニカンデルの友人となるメラルティンを演じたサカリ・クオスマネンがいい味出していて、演じているメラルティンというのも実はいい男でした。ラスト、2人がソ連船でエストニアのタリンに新婚旅行で旅立つときに見送る姿が何とも言えませんでした(因みに、カウリスマキ監督は、旅立つ二人を映さず、見送る友人だけを撮っている)。この人もアキ・カウリスマキ監督作の常連で、「過去のない男」('02年)では悪徳警官を演じていました。強面の悪(ワル)の方が風貌的に似合うため、この映画での意外性が効いています。
ビンゴホールというのがあるんだね。まあ、フツー、デートするような場所ではないけれど(笑)。カウリスマキ監督自身もホテルのフロント係として出演しています。フィンランドの地元のムード歌謡曲などが使われているのも、カウリスマキ監督作の特徴。あと無いのは、「犬」の演技だけでしょうか。
「パラダイスの夕暮れ」●原題:VARJOJA PARATIISISSA(英: SHADOWS IN PARADAISE)●制作年:1986年●制作国:フィンランド●監督・脚本:アキ・カウリスマキ●製作:ミカ・カウリスマキ●撮影:ティモ・サルミネン●時間:78分●出演:マッティ・ペロンパー/カティ・オウティネン/サカリ・クオスマネン/エスコ・ニッカリ/キッリ・ケンゲス/ペッカ・ライホ/ユッカ=ペッカ・パロ/ヴァンテ・コルキアコスキ/マリ・ランタシラ/ アキ・カウリスマキ(カメオ出演)●日本公開:2000/04●配給:ユーロスペース●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(24-10-10)(評価:★★★☆)
「●アキ・カウリスマキ監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●アンドレイ・タルコフスキー監督作品」【3281】 アンドレイ・タルコフスキー 「惑星ソラリス」
「●「カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ・女優賞」受賞作」の インデックッスへ「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
「敗者3部作」第2作。貧しい暮らしをしている人々の方が男に親切。
「過去のない男 [DVD]」
フィンランドのヘルシンキに向かう列車の乗客の中にその男(マルック・ペルトラ)はいた。辿り着いた夜の公園で彼は一眠りしていたが、そこに現れた3人組の暴漢に身ぐるみ剥がれた上にバットで執拗に殴打され、半死半生の身で病院に搬送された。一時は死んだと診断された男だったが奇跡的に蘇生した。その後、港の岸辺で再び昏倒していた男を救ったのは、コンテナに住むニーミネン(ユハニ・ニユミラ)一家であった。徐々に回復していった彼であったが、一家の妻カイザ(カイヤ・パリカネン)
に何者か問われたときに、答えられなかった。彼は、頭を殴られたことにより、それまでの記憶、それまでの自分を失ってしまっていたのだ。そんな「過去を失った男」である彼に港町の人々は快く手を貸してくれる。コンテナ一家の主人は金曜日にスープを配給する救世軍の元に男を連れて
行き、「人生は後ろには進まない」と励ます。地元の悪徳警官アンティラ(サカリ・クオスマネン)は彼に空きコンテナを貸し与え、男はその前にじゃがいも畑を作り、拾ったジュークボックスを置いた。職安では身分がないという理由で門前払いされたが、救世軍の事務所で仕事を得ることが出来た。そして、そこに属する下士官の女性イルマ(カティ・オウティネン)と仲を深めながら、男は徐々に人間としての生活を取り戻していく―。
アキ・カウリスマキ監督の2002年公開作。「浮き雲」('96年)に続く「敗者3部作」の第2作。'02年・第55回 「カンヌ国際映画祭」で「グランプリ」と、救世軍の女性イルマを演じたカティ・オウティネンが「女優賞」を受賞しています(カンヌは格差社会を描いたものがよく賞を獲る)。
コンテナで暮らすような貧しい暮らしをしている人々の方が、役人などよりよほど親切だったなあ。そんな貧しい人が「ディナーに行く」といっておめかししているので、どんなレストランに行くのかと思ったら...(笑)。救世軍が貧しい人々のスープを配るというのは、現代でも同じなのか。神田神保町に日本本営があるけれど...。それにしても、救世軍の弁護士って年寄りだったけれど有能だったなあ。拘留された男の許にその弁護士を遣わして彼の身柄を救ったのもイルマだったという、この辺りは分かりやすかったです。
「植物人間になるくらいなら死なせてやろう」って医者が口に出して言うのが、あちらの国らしいと思いました。
この年の「パルム・ドール」はロマン・ポランスキー監督の「戦場のピアニスト」でしたが、優秀な演技を披露した犬に贈られる「パルム・ドッグ賞」を、犬のタハティ(役名:ハンニバル)が受賞しています(同監督作品は必ず犬が登場し、その後、何度かこの賞を受賞している)。フィンランドのムード歌謡=イスケルマの曲の数々とともに(同時監督の作品にはしばしば地元のバンドやミュージシャンが出てくる)、アキ・カウリスマキ監督がファンだと公言する日本のクレイジーケンバンドの「ハワイの夜」が挿入歌として流されています(もともとカウリスマキ・ファンである小野瀬雅生が、自分たちのCDが出るたびに欠かさずカウリスマキ監督に送っていて、その彼らのサウンドが監督に気に入られたという経緯がある)。
因みに、救世軍の女性を演じたカティ・オウティネンは「ルアーヴルの靴みがき」('11年)などにも出演し、悪徳警官を演じたサカリ・クオスマネンも「希望のかなた」('17年)でのレストラン店主役など出ていて、二人とも同監督作品の常連です。この監督、常連の俳優か、そうでなければ素人に近い人を使う傾向があるのではないでしょうか。おそらく、中途半端に演技されるのが嫌なんだろうなあ。
「過去のない男」●原題:MIES VAILLA MENNEISYYTTA(仏:L'HOMME SANS PASSE、英:THE MAN WITHOUT A PAST)●制作年:2002年●制作国:フィンランド・ドイツ・フランス●監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ●撮影:ティモ・サルミネン●音楽:レーヴィ・マデトーヤ●時間:97分●出演:カティ・オウティネン/マルック・ペルトラ/アンニッキ・タハティ/マルコ・ハーヴィスト&ポウタハウカ(救世軍バンド)/ユハニ・ニユミラ/カイヤ・パリカネン/エリナ・サロ/サカリ・クオスマネン/アンネリ・サウリ/オウティ・マエンパー/ペルッティ・スヴェホルム/タハィ(犬のハンニバル)●日本公開:2003/03●配給:ユーロスペース●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(24-04-29)((評価:★★★★)
「●アキ・カウリスマキ監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●アンドレイ・タルコフスキー監督作品」【3281】 アンドレイ・タルコフスキー 「惑星ソラリス」
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
「敗者3部作」第3作。"人生、捨てたもんじゃない"と思わせてくれる。
「街のあかり [DVD]」
ヘルシンキの百貨店で夜間警備員を務める冴えない男コイスティネン(ヤンネ・フーティアイネン)は、魅力的な女性ミルヤ(マリア・ヤルヴェンヘルミ)と出会う。2人はデートをし、コイスティネンは恋に落ちた。人生に光が射したと思った彼は、起業のため銀行の融資を受けようとするが、まったく相手にされなかった。それでも恋している彼は幸せだった。
しかし、実は恋人は彼を騙していた。ミルヤは、宝石強盗を目論むリンドストロン(イルッカ・コイヴラ)の手先だった。まんまと利用されたコイスティネンだったが、惚れたミルヤを庇って服役する。リンドストロンはそこまで読んで、孤独な彼を狙ったの
だ。馴染みのソーセージ売りアイラ(マリア・ヘイスカネン)の彼への思いには気づかぬまま、粛々と刑期を終え社会復帰を目指すコイスティネン。だがある日、リンドストロンと一緒のミルヤと居合わせた彼は、そこで初めて自分が利用されていたに過ぎないことを悟る―。
2006年公開の、アキ・カウリスマキ監督の、「浮き雲」('96年)、「過去のない男」('02年)に続く「敗者3部作」の第3作(完編)で、'06年カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品。
この作品の主人公の男は"孤独"の中にいて、彼の身に起こる不幸はとても辛いものだけれど、彼自身は自分の不幸に気づいてない様子でもあります。さらには、幸せの芽がすぐ傍にあることをも―(やや"無力症"気味?)。そんな彼が起業を思い立ったのはいいですが、職業訓練校の終了証明だけを持って銀行に行き、それだけでもって融資を受けようとするのが滑稽(この辺り、カウリスマキ独特のユーモアか)。それでも、切ない出来事のあとにジンワリ心に広がる希望があって、誰かがこの映画についてそう言ってたけれど、"人生、捨てたもんじゃない"と思わせてくれる、やさしさで包み込むような物語が心地いいです。
コイスティネンを演じるヤンネ・フーティアイネンは、アキ・カウリスマキ作品では前作「過去のない男」などに脇役出演し、今回がカウリスマキ作品で初めての主演。恋人のいない寂しい男を演じるにはマルチェロ・マストロヤンニに似ていて男前過ぎる気もしましたが、その分、寂しそうな姿は絵になっていました(職場でも孤立し、男たちは彼のことを蔑んでいるのに、女性たちは同情的であるのはこのイケメンのせい?)。一方、アキ・カウリスマキ作品主役級常連のカティ・オウティネンは、スーパーのレジ係の役で出ていました。
「街のあかり」●原題:LAITAKAUPUNGIN VALOT(英:LIGHTS IN THE DUSK)●制作年:2006年●制作国:フィンランド・フランス・ドイツ●監督・脚本・製作・撮影:アキ・カウリスマキ●時間:78分●出演:ヤンネ・フーティアイネン/マリア・ヤルヴェンヘルミ/イルッ
カ・コイヴラ/マリア・ヘイスカネン/ヨーナス・タポラ/ペルッティ・スヴェホルム/メルローズ(バンド)/カティ・オウティネン(カメオ出演)/パユ(犬)●日本公開:2007/07●配給:ユーロスペース●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(24-05-12)((評価:★★★☆)
「●や‐わ行の外国映画の監督②」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3209】 フレデリック・ワイズマン 「クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち」
「●エンニオ・モリコーネ音楽作品」の インデックッスへ 「●クリント・イーストウッド 出演・監督作品」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ
南北戦争、スペクタクルシーンもあったが、やや冗長。それを一気に締めるラストの三つ巴決闘。
クリント・イーストウッド/リー・ヴァン・クリーフ/イーライ・ウォラック
「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗 [Blu-ray]」
「続・夕陽のガンマン 特別版 [DVD]」
3人の賞金稼ぎが酒場に入った途端に銃撃戦となり、一人の男が店の窓を破って飛び出してきた。そして店内には3人の死体が。悪事を積み重ね2000ドルの賞金が懸かったその男の名前はテュコ<卑劣漢>(イーライ・ウォラック)。不敵な笑みを浮かべた一人の殺し屋の男が荒野の一家を訪れた。殺し屋はある兵士を追っており、その名前が知りたいという。名前を告げた一家の主は、金は倍額出すから依頼を破棄して代わりにその雇い主を殺してくれと頼むが、雇い主からの依頼は反故にできないが、追加で依頼を受ける分には構わないと言う。殺し屋は一家の父子を射殺し、別の雇い主に依頼を遂げたと告げ、雇い主も葬る。その男の名前はエンジェル<悪玉>(リー・ヴァン・クリーフ)。賞金稼ぎの待ち伏せに遭い包囲されるテュコ、とその場に金髪で長身のガンマンが現れ、3人の賞金稼ぎを早撃ちで斃す。金髪の男は賞金首のお尋ね者であるテュコ本人を売って賞金を受け取り、縛り首される寸前の縛り縄を長距離から狙撃で切断してテュコを逃走させては後で賞金を山分けする商売を繰り返していたが、テュコの賞金首の額が上限に達したため、商売に見切りをつけ荒野の真ん中でテュコを置き去りにして去る、その金髪の男の名前はブロンディ<善玉>(クリント・イーストウッド)。野垂れ死に寸前で町に到着したテュコは報復のためブロンディを嬲り殺しにしようとする。その砂漠の道中、死にかけた兵士を乗せた馬車に遭遇、その兵士こそエンジェルが追っている兵士だったが既に致命傷を負い、息も絶え絶えの中ブロンディに大金の在り処を伝えて事切れる。南北戦争の戦場を横目に3人の男達は、裏切り、痛めつけ、時には共闘し、時には互いに出し抜こうとし、隠された20万ドル相当の硬貨の在り処を目指す。大金が眠る墓場に到着した3人は、大金を総取りできる決闘で決着をつけようとする―。
1966年のセルジオ・レオーネ監督作で、「荒野の用心棒」('64年)と「夕陽のガンマン」('65年)に続く所謂「ドル箱三部作」(正確にはドル三部作)の第3作目であるとされている作品(ただし、年代的には一番古いとされている)。原題の Il buono, il brutto, il cattivo を直訳すると「善玉、卑劣漢、悪玉」ですが、英題(The Good, the Bad and the Ugly)では順番が変わって「善玉、悪玉、卑劣漢」となっています(前2作の英題がA Fistful of Dollars(荒野の用心棒)、For a Few Dollars More(夕陽のガンマン)なのに対し、この作品だけタイトルに「ドル」が無い)。日本で初めて劇場公開されたときには、「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗」でしたが、ビデオ販売時に「続・夕陽のガンマン」になったようです。
南北戦争が背景で、1500人の地方兵をエキストラに使い、60トンの爆薬を使用し、160万ドルで製作されていて(ただし、当時のハリウッド映画としてはむしろ低予算だそうだ)、橋の爆破シーンなど、壮大なスペクタクルシーンもあります。南北戦争を舞台にした映画には「風と共に去りぬ」などがありますが、戦闘の模様を描いた作品はあまり観る機会がないかもしれません。実際には、戦争映画ではないのですが、イーストウッド演じるブロンディが戦争の虚しさを示唆するような場面もあります(彼は橋を爆破して無駄な戦いを回避することで多くの人命を救ったことになり、その意味で確かに<善玉>と言えるかも)。
ただ、南北戦争という舞台背景に、3人の主人公の金を巡る駆け引きを織り交ぜて描いているのが、却ってテンポを悪くして大味になっている印象もあります。戦争映画と言うより、前2作の続編として観ているということもあり、その流れで観てしまうと、3時間のは長さはやや冗長の感がありました(一方で、リー・ヴァン・クリーフ演じるエンジェルがいつも唐突に現れるなど、ストーリーが飛ぶような箇所もあった)。
それが、ラストの三つ巴の決闘で、それまでの「減点」を一気に取り戻した感じがします。ここまで来るとある種「様式美」です。映画撮影用に造られたスペインのサッドヒル(墓地)は、5000基の墓標が円形に配置された巨大オープンセットで、撮影の49年後にこの映画のファンの有志の人たちが、草や土に埋もれたままのサッドヒルを掘り返して2000基を復元し、このプロジェクトは「サッドヒルを掘り返せ」('17年/スペイン)という記録映画になっています。
「ドル箱三部作」は後の方になればなるほどいいとの評価があります。例えばIMDbの評価を見ると、「荒野の用心棒」('64年)[7.9]<「夕陽のガンマン」('65年)[8.2]<「続・夕陽のガンマン」('66年)[8.8]とだんだん高い評価になっています。続編の方が本編より評価が高い映画というのは時々ありますが、第3作が最も高い評価であるケースというのは少ないかもしれません。特に、米国ではこの「続・夕陽のガンマン」の評価が高いようですが、日本でも3部作ではこれが一番という人が最近は多数派ではないでしょうか(公開当初はそうでもなかった)。
個人的には、前2作と質的にやや異なる映画になっているため比べるのは難しいですが、先に述べた通り、後半"挽回"しているので(シリーズの流れに"回帰"しているとも言える)、前2作と同じく★★★★の評価です。リー・ヴァン・クリーフは前作「夕陽のガンマン」の方が好みだったかも(悪そうに見えて実はワケアリ)。「夕陽のガンマン」は、クリント・イーストウッドではなくリー・ヴァン・クリーフの映画でしたが、こっちはイーライ・ウォラックの映画になっているという印象です(3人の内、セリフが圧倒的に多いのがこの人)。
音楽:エンニオ・モリコーネ
「続・夕陽のガンマン(続・夕陽のガンマン/地獄の決斗)」●原題: Il BUONO, Il BRUTTO, Il CATTIVO(英:THE GOOD, THE BAD AND THE UGLY●制作年:1966年●制作国:イタリア・西ドイツ・スぺイン・アメリカ●監督:セルジオ・レオーネ●製作:アルベルト・グリマルディ●脚本:フリオ・スカルペッリ/セルジオ・レオーネ/ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニ●撮影:トニーノ・デリ・コリ●音楽:エンニオ・モリコーネ
●時間:178分(完全版)・162分(国際版)●出演:クリント・イーストウッド/リー・ヴァン・クリーフ/イーライ・ウォラック/マリオ・ブレガ/ルイジ・ピスティッリ/アルド・ジュフレ/アントニオ・カサール/クラウディオ・スカラチリ/サンドロ・スカラチリ/リヴィオ・ロレンゾン/ラダ・ラシモフ●日本公開:1967/12●配給:ユナイテッド・アーティスツ●最初に観た場所(再見):池袋・新文芸坐(24-10-11)(評価:★★★★)
新文芸坐で無料配布されていた「続・夕陽のガンマン」ポストカード
「●は 原田 マハ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●は M・バルガス=リョサ」【1430】 マリオ・バルガス=リョサ 『フリアとシナリオライター』
「●「山本周五郎賞」受賞作」の インデックッスへ 「●「本屋大賞」 (10位まで)」の インデックッスへ
"大風呂敷"を拡げた分、欠点も多いが、エンタメとして一定水準には達している。
『楽園のカンヴァス』['12年]
2012(平成24)年・第25回「山本周五郎賞」受賞作。2013(平成25)年・第10回「本屋大賞」第3位。
ソルボンヌ大学院で博士号をコース最短の26歳で取得している早川織絵は、オリエ・ハヤカワとして国際美術史学会で注目を浴びるアンリ・ルソー研究者であるが、今は倉敷の大原美術館で「一介の監視員」となっている。ティム・W・ブラウンは、ニューヨーク近代美術館 (MoMA) のアシスタント・キュレーターである。コレクターのコンラート・バイラ―は、スイスのバーゼルにある、自らが住む大邸宅に織絵とティムを招き、彼が所蔵する、ルソーが最晩年に描いた作品『夢』に酷似した作品『夢をみた』について、1週間以内に真作か贋作かを正しく判断した者に、その作品の取り扱い権利を譲ると宣言する―。
「山本周五郎賞」選考の際は5人の選考委員の内 角田光代氏ら3人が強く推して受賞に至りましたが、「直木賞」の方は8人の内 強く推したのは宮部みゆき氏だけで、受賞に至りませんでした。スイスの大富豪とかインターポール(国際刑事警察機構)などが出てきて、雰囲気的には、ジェフリー・アーチャーの『ゴッホは欺く』やダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』みたいなスケールの大きいアート・ミステリという感じ。日本にもこうした作品の書き手が登場したかという印象がありましたが、"大風呂敷"を拡げた分、欠点も多い作品のようにも思いました。
「山本周五郎賞」選考の際も、まったく欠点の指摘が無かったわけではなく、強く推した角田光代氏ですら、「気になるところはいくつかある。このミステリーに関わってくる多くが「偶然」あらわれる。バイラーの孫娘があらわれたときはさすがに鼻白んだ」と。でも、「欠点を承知しつつ、でもやっぱり面白かった、いい小説だったという感想で読み終えた」とのこと。佐々木譲氏は、「キュレーターだったという著者の専門知識が惜しみなく投入されている印象を受けた」とし、唯川恵氏も「この作品に、私は圧倒的な『情熱』を感じた。ルソーの創作に対する情熱、主人公たちのルソーに対する情熱、そして原田さんの作品に対する情熱が、行間から立ち昇ってくる。最後、涙した自分が嬉しかった」と。
これが「直木賞」になると、宮部みゆき氏は「(良い意味で)大風呂敷を広げ、知的な興奮を与えてくれた」と推し、桐野夏生氏も「一気読みできるアイデアの面白さは評価したい」としながらも、「登場人物に深みがないため、どうしても物語全体が幼く感じられてしまう」と。その他の選考委員も、「ストーリーテールに追われていた印象の方が強く惜しい気がした」(伊集院静氏)、「ピカソの上にルソーが描いている絵のアイデアは、きわめてミステリー的であり、スリリングでさえあった。ただ、絵の周囲にいる人間たちが、そのアイデアを生かしきれていない」(北方謙三氏)など、やや厳しい意見が多くなっています。
確かにピカソがルソーを見出し、叱咤激励したとうのは面白いアイデアですが、「文中の物語がやや幼稚で感動を呼ぶものとは思えなかった」(林真理子氏)というのは自分も感じた点でした(なんだか教科書的だった)。結局、「できは悪くないように感じられたが、それでも私は多少の疑問と物足りなさを覚えた」(宮城谷昌光)というあたりが押しなべての評価になってしまった感じです。
でも、エンタメとして一定水準には達していると思います。この回の直木賞受賞作は、辻村深月『鍵のない夢を見る』でしたが、個人的にはこの『楽園のカンヴァス』の方が良かったでしょうか。ただ、この手の作品、好きな人は本当に好きなのでしょうが、自分はのめり込むほどでは。
でも、ピカソの「鳥籠」の見方なども参考になりました(この絵は、同著者の短編集『〈あの絵〉のまえで』('20年/幻冬舎)にもモチーフとして出てくる)。ルソーの「夢」がMoMA(ニューヨーク近代美術館)にあることにも改めて思い当たったし(昔行ったんだけどなあ。情けないことに覚えていない)、モデルについても知ることが出来ました(勉強になった?)。
ピカソ「鳥籠」「アビニヨンの娘たち」
アンリ・ルソー「夢」
アンリ・ルソー「エッフェル塔とトロカデロ宮殿の眺望」
【2015年文庫化[新潮文庫]】
「●は 原田 マハ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●は M・バルガス=リョサ」【1430】 マリオ・バルガス=リョサ 『フリアとシナリオライター』
「●「本屋大賞」 (第10位まで)」の インデックッスへ
"史実と創作とバランスの絶妙さ。スゴイ構想力・想像力だなあと。
『たゆたえども沈まず』['17年]
日本国内では、瀬戸物の包み紙程度の認識しかなかった日本の浮世絵。これが海外に持ち出された時、その画に芸術的価値を見いだしたのは、後に印象派と呼ばれる名もなき若く貧しい画家たちだった。パリ・グーピル商会で働く若き画商テオは、金を散財するくせに、書いた画を一枚も売れずにいる画家の兄フィンセントに頭を悩ませている。兄を疫病神のように嫌う一方で、彼の描く画に魅せられ、また高く評価もしていた。行き詰まりを感じている兄に、その自由な画風が若き芸術家の間で評判となっている浮世絵を見せたいがため、テオは同じパリで美術商をしている林忠正や加納重吉との交流を深めてゆく。テオから紹介されたフィンセントにただならぬ才能を感じた林は、彼が描く最高の一枚を手に入れるため、ある閃きから、アルルへの移住を薦めるが、それはゴッホ兄弟にとって悲劇の始まりだった―。
ゴッホ兄弟とパリで活躍した日本人画商の交流の物語です(2018(平成30)年・第15回本屋大賞「本屋大賞」第5位)。自分の作風に時代が追いつかずに苦悩する画家・兄フィンセント、本当に売りたい作品を売れずに苦悩する画商・弟テオのゴッホ兄弟が苦しみながらも、己が信じる人生を歩んでいく姿が題名に重なります。パリで画商を営むアヤシこと林忠正と、その許で働くシゲこと加納重吉が彼らと出会うことで触媒効果のようなものが生まれ、それがゴッホを世に出す契機になるとともに、悲劇の始まりにもなります。
ポール・ゴーギャン(1848-1903)をはじめ、実在した人物も多く登場し、史実と創作とバランスの絶妙さを愉しめました。主要登場人物である林忠正(1853-1906)、加納重吉、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)、テオドルス・ファン・ゴッホ(1857-1891)の4人のうち、加納重吉は架空の人物で物語に進行役のような役割です。林忠正が浮世絵からヒントを得て、新しい絵画を創りつつあった印象派の画家たちと親交を結び、日本に初めて印象派の作品を紹介した人物であることは事実ですが、エドゥアール・マネ(1832-1883)などとは親しんだものの、ゴッホ兄弟と交流したという記録は無いらしいです。
でも、同じ時期にゴッホ兄弟と林忠正がパリにいたことは事実で、そこからゴッホが浮世絵に影響を受けて新境地を切り開いていく様や、コッホ兄弟の微妙に複雑な関係を描いていく、その構想力・想像力はスゴイと思いました。文庫解説の美術史家の圀府寺司氏は、解説の冒頭で「いいなあ...話がつくれて...」と書いていますが、ミステリとしての要素は『楽園のカンヴァス』や『リボルバー』に比べて薄いですが、物語全体が事実と虚構とを織り交ぜた"ファクション"になっている作品だと思いました。
敢えてミステリ的に史実を改変している箇所に言及するならば、この作品によれば、フィンセント・ファン・ゴッホが自らを撃ったリボルバーは、弟テオがフィンセントとの諍いがあった時のために所有していたもので(兄が何か過激な行動に出た際に、自殺を仄めかすことで抑止するため)、ゴッホがパリからアルルに移ってしまった後は鞄に入れていたのをすっかり忘れていたのを、その鞄を借りることになったゴッホが偶然リボルバーの存在を知り、後で鞄だけテオに返却して、リボルバーは手元に置いていたということになります。
通説では、リボルバーはゴッホが終焉の地で寝泊まりしていた「ラヴァー亭」の経営者が所持した物で、それをゴッホが持ち出し、麦畑で自らを撃ち(ただし、現場を目撃した者はおらず、また、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるという主張や、子供たちとじゃれ合っていて暴発したという説もある)、数年経って農家によって偶然ゴッホが自らを撃ったとされる畑の中で発見されたとされています(口径は遺体から回収された銃弾と一致している。銃弾については当時、医師が記録に残していた。科学的な調査の結果、銃が1890年代から地中に埋まっていたことも判明している)。
フィンセント・ファン・ゴッホが起こした「耳切り事件」や、その後も引き続いた発作の原因については、てんかん説、統合失調症説、梅毒性麻痺説、メニエール病説、アブサン中毒説など数多くの仮説がありますが(数え方により100を超えるそうだ)、個人的には、統合失調症ではないかと思います(統合失調症患者に銃を持たせることは、自殺の機会を与えるようなもの)。また、記憶や想像によって描くことができない画家であり、900点近くの油絵作品(いったい毎月何作描いたのか!)のほとんどが、静物、人物か風景であり、眼前のモデルの写生であるそうです。
後日談として、テオの妻ヨーはテオの死後、画家ヨハン・コーヘン・ホッスハルク(1873-1912)と再婚しましたが、1914年、テオの遺骨をフランスのオーヴェール=シュル=オワーズにあるフィンセントの墓の隣に改葬し、フィンセントとテオの墓石が並ぶようにし、また夫人と息子フィンセント(義父と同じ名前)は長年かけゴッホ書簡の編纂・出版を行っています。
文庫解説で圀府寺司氏が、この作品を黒澤明監督の「夢」('90年)の5番目のエピソードでマーティン・スコセッシ監督がファン・ゴッホ役を演じた「鴉」に絡めて論じているのが興味深かったです。
黒澤明監督「夢」寺尾聰/マーティン・スコセッシ
読んでいて、有名な作品がタイトル名を敢えて出さず、物語の中に突然現れたり、今コッホによって描かれたばかり(或いは作成中)の作品として登場したりするので、どの作品か確認しながら読むのも愉しいと思います。
「星月夜」1889年6月/「ゴッホの寝室(第2バージョン)」1889年/「夜のカフェ」1888年9月
「ジャガイモを食べる人々」1885年/「タンギー爺さん」1887年夏・冬/「ファン・ゴッホの椅子」1888年11月/「ゴーギャンの肘掛け椅子」1888年11月
【2020年文庫化[幻冬舎文庫]】
「●は 原田 マハ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●は M・バルガス=リョサ」【1430】 マリオ・バルガス=リョサ 『フリアとシナリオライター』
ミステリとしても愉しめるが、あまりミステリ、ミステリして読まない方がいい。
『リボルバー』['21年] ゴッホ「オーヴェルの教会」「星月夜」
パリ大学で美術史の修士号を取得した高遠冴(たかとおさえ)は、小さなオークション会社CDC(キャビネ・ド・キュリオジテ)に勤務している。週一回のオークションで扱うのは、どこかのクローゼットに眠っていた誰かにとっての「お宝」ばかり。高額の絵画取引に携わりたいと願っていた冴の元にある日、錆びついた一丁のリボルバーが持ち込まれる。それはフィンセント・ファン・ゴッホの自殺に使われたものだという。ファン・ゴッホは、本当にピストル自殺をしたのか?―殺されたんじゃないのか?...あのリボルバーで、撃ち抜かれて―。
ゴッホとゴーギャンという存命中はほとんど世に顧みられることのなかった二人の孤高の画家の関係に焦点を当て、ゴッホの自殺に使われた拳銃を巡るアート・ミステリっぽい話。プロのキュレーター資格を持つ作者(と言うより、キュレーターから作家になった)ですが、ゴッホ、ゴーギャンは特にこの人の得意な分野なのでしょうか。ゴッホを主人公の1人にした『たゆたえども沈まず』(幻冬舎)という作品もあります(因みに、この作品『リボルバー』は、戯曲化することを前提にした原作小説として書かれ、実際戯曲化されている)。以下、ネタバレになります。
ゴッホが自殺に使ったとされるリボルバーは、弟のテオがパリで護身用に所持していた銃という設定です。それを、ゴッホのかねてからの願いでアルルで共同生活を送ることになったゴーギャンに、テオがゴッホと何か諍いが起きた時の護身用として(弾は装填せずに)送ったのが、実はゴッホの依頼で弾を一つだけ装填してゴーギャンに郵便で送られます。しかしゴーギャンはそのことを知らずにその銃を、アルルを去った後タヒチにも持って行きます。
ところが、タヒチから一度フランスに戻って来たゴーギャンは、ゴッホから自殺を仄めかす手紙を受け取ったため、ゴッホの身を案じ、ゴッホの居るオーヴェール=シュル=オワーズにその銃を持って訪れます。リボルバーに弾は装填されていないと信じていたゴーギャンは、ゴッホとの言い争いで自殺を装うように銃を自らのコメカミに銃を当てます。弾を一つだけ装填されていると知るゴッホはゴーギャンの命を救おうと飛び掛かり、そして揉み合いから、ゴッホの脇腹に―。
「ファン・ゴッホは、本当は殺されたんじゃないのか」という疑惑からスタートとしているので、映画「アマデウス」におけるモーツァルトとサリエリみたいなことになるかと思ったら"事故"だったということで、やや拍子抜けした面もあります。自分をすでに追い越していると思われるゴッホの才能をゴーギャンが感じ取り、より自分の才能を開花させるためにタヒチに行ったことは事実に近いのかもしれませんが、この物語では、再びゴッホを振り切るために狂言自殺を演じたら、不運なことになってしまったというこという作りになっています。
そう言えば『たゆたえども沈まず』もゴッホの話で、リボルバーはテオがゴッホとの諍いがあった時にと所有していたもので、ゴッホがパリからアルルに移ってしまった後は鞄に入れていたのをすっかり忘れていたのを、その鞄を借りることになったゴッホが偶然リボルバーの存在を知り、後で鞄だけテオに返却して―という作りになっていました。
通説では、リボルバーはゴッホが終焉の地で寝泊まりしていた「ラヴァー亭」の経営者が所持した物で、それをゴッホが持ち出し、麦畑で自らを撃ち(ただし、現場を目撃した者はおらず、また、自らを撃ったにしては銃創や弾の入射角が不自然な位置にあるという主張や、子供たちとじゃれ合っていて暴発したという説もある)、数年経って農家によって偶然ゴッホが自らを撃ったとされる畑の中で発見され、元々の所有者であるラヴァー亭に返却され、店に一時展示されていたということのようです(小説に中でも、一般的理解はそうだとされている)。仮に小説の方が"真実"だとすると、オークションにかけられた約16万ユーロ(約2千万円)で落札された「ラヴァー亭」のリボルバーは、ゴッホが畑に落っことしただけのものということになる?
ミステリとしても愉しめるものの、完全にミステリとして読んでしまうと穴も多いので、あまりミステリ、ミステリして読まない方がいいです(笑)。むしろ、ウィリアム・サマセット・モームの『月と六ペンス』など他の作品(著者の前作『たゆたえども沈まず』も含まれる)におけるゴッホやゴーギャンの描かれ方と比べながら読むと、こういう解釈もあるのかと多角的に見れて愉しめます。
ゴーギャン「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
【2023年文庫化[幻冬舎文庫]】
「●さ行の外国映画の監督①」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒
「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●海外文学・随筆など」の インデックッスへ 「○海外文学・随筆など 【発表・刊行順】」の インデックッスへ
自分の人生の重要シーンを10挙げるとすれば何と何が来るか考えさせられた。
「ある一生」ポスター/シュテファン・ゴルスキー/『ある一生 (Shinchosha CREST BOOKS)』['19年]
1900年頃のオーストリア・アルプス。孤児の少年アンドレアス・エッガー(イヴァン・グスタフィク)は渓谷に住む、遠い親戚クランツシュトッカー(アンドレアス・ルスト)の農場にやってきた。しかし、農場主にとって、孤児は安価な働き手に過ぎず、虐げられた彼にとっての
心の支えは老婆のアーンル(マリアンヌ・ゼーゲブレヒト)だけだった。彼女が亡くなると、成長したエッガー(シュテファン・ゴルスキー)を引き留めるものは何もなく、農場を出て、日雇い労働者として生計を立てる。その後、渓谷に電気
と観光客をもたらすロープウェーの建設作業員になると、最愛の人マリー(ユリア・フランツ・リヒター)と出会い、山奥の木造小屋で充実した結婚生活を送り始める。しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。第二次世界大戦が勃発し、エッガーも戦地に召集されたもののソ連軍の捕虜となり、何年も経ってから、ようやく谷に戻ることができた。そして、時代は過ぎ、観光客で溢れた渓谷で、人生の終焉を迎えたエッガー(アウグスト・ツィルナー)は過去の出来事がフラッシュバックし、アルプスを目の前に立ち尽くす―。
「アンネの日記」('16年/独)のハンス・シュタインビッヒラー監督の2023年作。原作であるオーストリアの作家ローベルト・ゼーターラーの同名小説は、2014年に刊行されるや読書界の話題をさらい、世界40カ国以上で翻訳され160万部以上発行、ブッカー賞最終候補にもなった作品だそうです。この原作を美しい情景と共に映画化し、激動の時代に翻弄されながら過酷な人生を歩んだ男の一生を描いたヒューマンドラマになっています(主人公の8歳の時をイヴァン・グスタフィク、18歳から47歳をシュテファン・ゴルスキー、60歳から80歳をアウグスト・ツィルナーが演じている)。
「週刊文春」の映画評で、芝山幹郎氏(翻訳家)などはこの作品を褒めているのではないかと思ったら、「苦手な臭いを感じた」とのことで5つ星満点評価で★★★と抑えめの評価で(「過大評価したくない」とまで言っている)、中野翠氏(コラムニスト)の方がむしろ「一見淡々とした評価だが、胸の奥深くに滲みる」として★★★★とより高い評価だったのが意外でした。でも、言われてみれば、確かにあまりにストレートな造型で、芝山幹郎氏の気持ちも分からなくないです。
戦争に行った以外は、山で生き、山で死んでいった無名の男エッガーの人生。個人的には、ラスト近くで、バスから降りた老エッガーに、それまでの人生の思い出がフラッシュバックして甦ってくるシーンが、彼の人生を集約しているようで良かったです。記憶の"結晶化"作用ではないですが、苦難に満ちたかに思えた彼の人生は、愛と幸福に満ちた人生でもあったのだなあと思ったのと、人生って集約すると、10前後の主だったシーンに纏まってしまうのかもしれないなあと思いました(自分の人生の重要シーンを10挙げるとすれば何と何が来るだろうかと考えさせられた)。
原作はどんな大河小説なのかと思って手にしてみたら、150ページほどのやや長めの中編といった感じの本でした。映画は原作に忠実に作られているのを感じましたが、映画はエッガーの一生を時系列で追っているのに対し、原作の方は人生を俯瞰するような描き方で、時に時系列が入れ替わったりします。
例えば、映画の中盤にある、エッガーが山小屋で見つけた瀕死のヤギ飼い〈ヤギハネス〉を背負って山を下ろうとするも、エッガーは片脚が不自由なうえ、折りからの吹雪に足を滑らせて身動きが取れないでいると、ヤギハネスは、死は氷の女が魂を奪っていくのだと語り、雪の中へ駆けて消えていく―というシーンは、原作では冒頭に来ています(そして、マリーとの出会いがその次に来る)。
また、映画では、エッガーが亡くなるシーンがラストで、その前に、前述のそれまでの人生の思い出がフラッシュバックするシーンがありますが、原作では、順番が逆転し、エッガーが亡くなったという記述の後に、彼がバスに乗り、さらにバスから降るシーンがあります。映画におけるフラッシュバックシーンは、原作では「ひとつひとつの記憶が蘇ってきた」となっています。そして「まだそのときじゃない」とエッガーは小声で言います(つまり、今はまだ死なないと)。原作は最も重要な場面を最初と最後に持ってきているとも言えます。主人公は哲学者でも何でもなく、山に生きる無骨な男ですが、映画には常に「生」と密接した「死」の雰囲気があります。そうしたことが作品テーマであることは、原作の構成が、生と死を巡る重要シーンを冒頭と最後に持ってきていることからも窺えるように思いました。単に無名の男の生涯を描いた"感動作"ということではなく、観る側に人生とは何かを考えさせる作品ともとれます(「評価する」か、芝山幹郎氏が言うところの「過大評価しない」かの分かれ目はこの点だろう)。
中野翠氏が「親代わりの老婆と、妻という救い」があったとしていますが、虐げられた少年にとっての心の支えとなった老婆アーンルを演じたのはマリアンヌ・ゼーゲブレヒト。パーシー・アドロン監督の「バグダッド・カフェ」 ('87年/西独)で、ジャック・パランス演じる老画家が恋心を抱くおデブの女性ジャスミンを演じていた女優で、あまり喋らないですが、存在感があってその印象は強烈でした。あれから36年、まだ現役なのだなあ(痩せた?)。
「バグダッド・カフェ」 ('87年/西独)
マリアンヌ・ゼーゲブレヒト/ジャック・パランス
「ある一生」●原題:EIN GANZES LEBEN●制作年:2023年●制作国:ドイツ・オーストリア●監督:ハンス・シュタインビッヒラー●製作:ヤーコプ・ポホラトコ/ディエター・ポホラトコ/ティム・オーバーベラント /テオドール・グリンゲル/トビアス・アレクサンダー・サイファート/スカディ・リス●脚本:ウルリッヒ・リマー●撮影:アルミン・フランゼン●音楽:マシアス・ウェバー●原作:ローベルト・ゼーターラー●時間:115分●出演:シュテファン・ゴルスキー/アウグスト・ツィルナー/イバン・グスタフィク/アンドレアス・ルスト/ユリア・フランツ・リヒター/ロバート・スタッドローバー/トーマス・シューベルト/ルーカス・ウォルヒャー/マリアンネ・ゼーゲブレヒト/マリア・ホーフステッター/ペーター・ミッタールッツナー●日本公開:2024/07●配給:アットエンタテインメント●最初に観た場所:新宿武蔵野館(24-08-25)(評価:★★★★)
新宿武蔵野館
「●森村 誠一」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●や 安岡 章太郎」【519】 安岡 章太郎 『なまけものの思想』
ホテル内密室殺人と航空機トリックの二重構造のアリバイ崩しで愉しめる。
『高層の死角』(1972/09 講談社ロマン・ブックス)/『高層の死角 (講談社文庫 も 1-1)』(1974/04 講談社文庫)/『高層の死角 (カッパ・ノベルス) 』(1984/04 カッパ・ノベルズ)/『高層の死角』(1997/07 廣済堂文庫)/『高層の死角』(2000/06 ハルキ文庫)/『高層の死角』(2009/10 祥伝社文庫)/『高層の死角 (角川文庫) 』(2015/02 角川文庫)
『高層の死角』['69年]/『高層の死角 (1977年) (角川文庫)』
1969(昭和44)年度・第15回「江戸川乱歩賞」受賞作。
昭和4X年7月22日午前7時ごろ、東京竹橋のパレスホテル3401号室で、オーナー社長である久住(くじゅう)政之助が刺殺体で発見された。死亡推定時刻は午前1時~2時の間という鑑識の報告と、部屋と寝室の両方のドアが施錠されたいわゆる「二重の密室」状態であったことから、刑事たちは内部犯行として捜査を進め、美人社長秘書の有坂冬子に容疑の目を向けるが、彼女には完璧なアリバイがあった。彼女はその日、捜査員の一人である警視庁刑事部捜査一課の平賀高明刑事とホテルで一夜を過ごしていたのだった。その直後、冬子は福岡のホテルで死体となって発見される―。
2023年7月に亡くなった森村誠一(1933-2023/90歳没)の作品。1965年、32歳で『サラリーマン悪徳セミナー』を雪代敬太郎というペンネームで出版し、作家デビュー。34歳でホテルマンからビジネススクールの講師に転職して執筆を続け、青樹社からビジネス書や小説『大都会』を出版するが売れず、1969(昭和44)年、「ミステリを書いてみたら?」と言われて執筆したホテルを舞台にした本格ミステリがこの「江戸川乱歩賞」受賞作品です。
『人間の証明』('76年/角川書店)に出てくる東京・赤坂にある「東京ロイヤルホテル」のモデルは、作者が勤務していた「ホテルニューオータニ」と思われますが、この作品で事件が起きるのは竹橋の地上35階の「パレスサイドホテル」で(丸の内の「パレスホテル」がモデル? ただし、構造は「ホテルニューオータニ」に近い)、そのライバルとして新たに出現したというホテルが地上42階の「東京ロイヤルホテル」となっており、このモデルもやはり「ホテルニューオータニ」ではないでしょうか(「ホテルニューオータニ」は'64(昭和39)年9月竣工。ただし、当時は最上階に回転ラウンジを擁する地上17階建てで、10年後の'74(昭和49)年に地上40階の新館タワーが完成する。作者は、この計画を知っていて書いているのか?)。
ホテル内での密室殺人と航空機トリック(松本清張の『点と線』に新味加えた感じ)の二重構造のアリバイ崩しという「本格推理」っぽい作品。「江戸川乱歩賞」選考委員の高木彬光も、「トリックに関するかぎり抜群である。ことに前半、四つの鍵をめぐる密室トリックがすばらしい。ホテルに関する知識もずばぬけていて、最初はホテルマンかと思ったくらいだが、そうでないとすればその努力には敬意を惜しまない」としていますが、実際に前職はホテルマンだったわけです(ホテルマンが推理小説を書くというイメージが無かった?)。
高木彬光は、「難は文章のまずさだが、この点は今後の努力によって解決されるもの」としていますが、同じく選考委員の松本清張も「ホテルを舞台に、飛行機をアリバイ造りに使った本格推理で、ホテルに関する精細な知識を裏付けとし、ホテル戦争という現代的事象を殺人動機として興味を盛り上げ、後半のアリバイ崩しもよく出来ていた。但し、内容に比して、いささかお粗末である。文章についての一層の研鑚を望む次第である」としています。
また、これも同じく選考委員である横溝正史は、「『高層の死角』を読んだとき、私はただちにこれに決めてしまった。推理小説のつねとして、いろいろ無理もあり、説明不足の部分もなきにしもあらずだが、今度の候補作品のなかでは圧倒的に優れていると思った。読みおわったあと、今日の立身出世主義の権化のような犯人像が、かなりハッキリ印象づけられるのもよかった。だいたいこれに決めた」と(横溝正史は、文章のことは言っていない)。
先にも述べたように、ホテル内密室殺人(四つの鍵をめぐるトリックはホテルマンだった作者ならでは)と航空機トリック(飛行機の搭乗者名簿に名前が載らないようにするには、当該飛行機に乗らなければ良いということかあ)の二重構造のアリバイ崩しで愉しめる作品。チェックインの際の用紙に記してあるナンバーなんて、ホテルマンでないと思いつかないかも。今読むと、それほどひどい文章にも思えないし、と言うか、もっとひどい文章の書き手が世に横溢している気もします。
1977年に、NHK「土曜ドラマ」枠にて藤岡弘主演で、1983年にテレビ朝日「土曜ワイド劇場」枠にて高橋英樹主演で、2003年にTBS「棟居刑事シリーズ2・高層の死角」として 中村雅俊主演で(平賀刑事をシリーズキャラクターの棟居弘一良に改変)、それぞれドラマ化されています。
1977年・NHK「土曜ドラマ・高層の死角」藤岡弘・新藤恵美/2003年・TBS「棟居刑事シリーズ2・高層の死角」中村雅俊・華原朋美
【1974年文庫化[講談社文庫]/1977年再文庫化[角川文庫]/1984年ノベルズ版[カッパ・ノベルズ]/1997年再文庫化[廣済堂文庫]/2000年再文庫化[ハルキ文庫]/2009年再文庫化[祥伝社文庫]/2015年再文庫化[角川文庫]】
「●い 五木 寛之」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●い 井伏 鱒二」【2361】 井伏 鱒二 『多甚古村』
<対談の中身もさることながら、対談していたと知ったことの方が大きい。
『五木寛之傑作対談集 I』['24年]
村上春樹と小説論を語り合い、美空ひばりと「才能」について話し、ミック・ジャガーとはロック談義に花を咲かせる―。1970年代から現在までの対談から14篇を選りすぐった本です。対談相手は以下の通り。
モハメド・アリ「余は如何にしてボクサーとなりしか」
村上春樹「言の世界と葉の世界」
美空ひばり「よろこびの歌、かなしみの歌」
長嶋茂雄「直感とは単なる閃きではない」
ミック・ジャガー「ぼくはル・カレが好き」
キース・リチャーズ「男と女のあいだには」
唐十郎、赤塚不二夫「やぶにらみ知的生活」
篠山紀信「"大衆性"こそ写真の生命」
山田詠美「女の感覚、男の感覚」
坂本龍一「終わりの季節に」
瀬戸内寂聴「京都、そして愛と死」
福山雅治「クルマ・音楽・他力」
太地喜和子「男殺し役者地獄」
埴谷雄高「不合理ゆえに吾信ず」
豪華な対談相手が並びますが、やはり、モハメド・アリ、村上春樹、美空ひばり、長嶋茂雄と続く初っ端が強烈と言うか貴重です。後の人の対談の方が話の内容は深かったりもしますが、そもそもモハメド・アリと対談していたなんて知りませんでした。対談の中身もさることながら、対談していたということを知ったことの方が、個人的には大きいかもしれません(かつて『白夜の季節の思想と行動―五木寛之対談集 (1971年)』などこれらより古い対談集は読んだのだが...)。
モハメド・アリとの対談は1972年のもので、日本武道館にて行われるマック・フォスターとのノンタイトル戦(4月1日)のために初来日した際のものと思われます(ジョージ・フォアマンと闘った"キンシャサの奇跡"はこの2年後の1974年、アントニオ猪木との「格闘技世界一決定戦」のために再来日したのはさらに2年後の1976年)。1972年当時は日本では未だ"カシアス・クレイ"と呼ばれていて、本人は1964年、ネーション・オブ・イスラムへの加入を機にリングネームをモハメド・アリに改めていたため、この対談でも、カシアス・クレイという名との関係について五木氏が問うてますが、カシアス・クレイというのは捨てた名だと。そこからアリが滔々と自身の宗教観を語っています。ただし、五木氏は、自分の考えと相容れないところは、はっきり自分はそうは思わないと言っています(アリの持論がイスラム原理主義的で、かなり極端な面があることもあるが)。
村上春樹との対談は1983年で、3作目の長編小説『羊をめぐる冒険』を発表した頃。かつての若者の間での人気作家と、今の若者の間での人気作家との対談ということで興味深いですが、この対談で五木氏は村上春樹が自分と同じく早稲田大学出身だと初めて知ったのだなあ。あまり村上春樹を意識してなかったのかな。「(入学年が16年と)そのくらい離れてしまうと、共通のものって、まるでないんだよね。早稲田と言っても」と。でも『風の歌を聴け』から『羊をめぐる冒険』までちゃんと読んで対談に臨んでいるようで、前半は村上春樹中心にずっと彼に話をさせて、後半はかなり自分の論考も述べているという感じでしょうか。このバランス感覚はやはり対談の名手なのでしょう。
これに対し、1984年に行われた美空ひばりとの対談は、年齢は五木氏の方が5歳上なのですが、かなり相手に気を遣い、また、相手を持ち上げている感じです。まあ、実際、五木氏も関係が無くもない業界にいたことがあるわけで、また、「演歌」をテーマにした小説などの書いているわけであり、そうした人にとって美空ひばりというのは絶大の存在なのだろうなあと思いました。何かと弱音を言う美空ひばりに対し、「弱さを出せるには強くなった時」と励まし、最後美空ひばりは涙しています。何れにせよ、貴重な対談と言えます。
長嶋茂雄との対談は2002年で、2001年監督業から勇退しているので、それを機に実現したのでしょう。4歳年上の五木氏に、長嶋氏の方が気を遣ったのか知りませんが、ちゃんと五木氏の『運命の足音』(2002年/幻冬舎)などを読み"予習"して対談に臨んだ感じ。五木「『他力』は私の信条ですが、でもスポーツマンは自力じゃないですか」、長嶋「いえいえ、これはなかなか軽視できなくて。キャッチボールだってひとりじゃできないですから」「人生はある程度キャッチボールという意味合いがありますから」―と、結局は分かったような分からないような話になるところが長嶋茂雄らしいです(笑)。
五木氏は「私は対談の機会があれば一度もそれを拒むことがなかった」とのことです。まさに贅沢な対談集(「朝日新聞」評)です。
「●野村 芳太郎 監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2990】 野村 芳太郎 「疑惑」
「●芥川 也寸志 音楽作品」の インデックッスへ 「●松坂 慶子 出演作品」の インデックッスへ 「●緒形 拳 出演作品」の インデックッスへ 「●渡瀬 恒彦 出演作品」の インデックッスへ 「●佐分利 信 出演作品」の インデックッスへ 「●小沢 栄太郎 出演作品」の インデックッスへ 「●小林 稔侍 出演作品」の インデックッスへ 「●蟹江敬三 出演作品」の インデックッスへ 「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●ま 松本 清張」の インデックッスへ ○あの頃映画 松竹DVDコレクション
金目当てに愛人にした女たちに逆に自身が翻弄され...。役者の演技が愉しめる。
「<あの頃映画> わるいやつら [DVD]」片岡孝夫/宮下順子/梶芽衣子/松坂慶子
総合病院の院長・戸谷信一(片岡孝夫)は名医と言われた父の死後漁色にあけくれ、病院の赤字を女たちから巻き上げた金で埋めていた。戸谷は妻の慶子(神崎愛)と別居中で、横武たつ子(藤真利子)、藤島チセ(梶芽衣子)の二人の金ずるの愛人がいる。また彼は槙村隆子(松坂慶子)という独身で美貌のファッションデザイナーに夢中になっている。戸谷は友人の経理士・下見沢(藤田まこと)に妻との離婚の金銭問題やその他の悪事を任せていた。愛人たつ子は深川の材木商のおかみで、親ほど歳の違う夫(米倉斉加年)は、長く病床にあり、彼女が店をきりもりしていた。彼女は戸谷に金を貢ぎながら、夫を毒殺しようとする。戸谷の協力で、たつ子の計画は成功するが、家族の疑いで彼女は店の金を自由に使えなくなる。戸谷は結婚を迫る金のないたつ子を、かつての父の二号で、自分も関係した婦長の寺島トヨ(宮下順子)と共謀して殺害する。一方の愛人、藤島チセも東京と京都にある料亭を切りまわす女傑で、戸谷の最大の資金源だった。チセも夫(山谷初男)を疎ましがっており、戸谷はたつ子のときと同じ方法で殺害する。二度とも、医師として信用のある戸谷の書いた死亡診断書は何の疑いも持たれなかった。戸谷は秘密を知るトヨの存在が次第に邪魔になり、モーテルで絞殺、死体を林の中に投げ捨てた。戸谷はすべての情熱を隆子に注いだ。一方、トヨの死体発見の記事はいつまでも報道されなかった。ある日、警察が戸谷を
訪れた。たつ子とチセの夫の死因に不審な点があると言う。さらに、下見沢が戸谷の預金を下して行方をくらませたことが判明する。絶望した戸谷は殺人で逮捕される。井上警部(緒形拳)に追いつめられる戸谷。そして、殺したはずのトヨとチセが逮まった。トヨは息絶えておらず、逃げてチセと組んだのだ。無期懲役の戸谷に比べ、二人は殺人幇助ということで、刑期はずっと短かかった。数日後、隆子のファッション・ショーが開かれていた。それは下見沢のプロデュースによるものだった。そして、ナイフを隠しもった下見沢が隆子に襲いかかった。刑務所に送られる戸谷の足もとに風に舞う新聞が絡みついた。そこには「血ぬられたファッション・ショー・デザイナー重傷、中年男の悲恋」の見出がた―。
野村芳太郎監督の1980年6月公開作で、原作『わるいやつら』は、松本清張が「週刊新潮」に1960年1月から 1961年6月まで連載した長編小説(加筆修正のもと1961年10月に新潮社から単行本刊行)。松竹・霧プロダクションの第1回提携作品で、英語題名は"Bad Sorts"です。
原作を読んでなくて映画を観ましたが(これまで原作を読んでないがために映画も観なかった)、原作が、松本清張によるピカレスク・サスペンスであり、病院長・戸谷信一が次々に人を殺害する物語であるということは知っていました。ただ、冷徹な主人公が頭脳的・計画的に愛人を殺していくのかと思ったら、ボンボンで自堕落プレイボーイの二代目病院長が、金目当てに愛人にした女たちに逆に自身が翻弄され、安易に犯行を計画して半ば共犯的に殺人を犯し、最後には心底惚れ込んだ女に裏切られるという話でした。
内容的には2時間ドラマの方が似合うような中身なのですが、片岡孝夫の演技がこのショボいと言うか薄っぺらな主人公に微妙にマッチしていて、そこそこリアリティあるものとなっていたのが悪くなかったです(この人、今は人間国宝の「片岡仁左衛門」となっているが、今もって「片岡孝夫」のイメージがある)。
女優陣は、松坂慶子、梶芽衣子、宮下順子、藤真利子、神埼愛と なかなか布陣です(ポスターもそれをアピールしたものとなっている)。ただし、松坂慶子(当時28歳)は主演ということですが、高級ブティック経営者兼ファッションデザイナーという役柄にせいか
、パターナルな演技でやや印象が薄く(2年前の大岡昇平原作、野村芳太郎監督の「事件」('78年/松竹)の時の方が"毒"があって良かった)、それは料亭の女将を演じた梶芽衣子(当時33歳)についても言え、着物姿を見せることが最大目的化している?印象も。むしろ病院の婦長で"父親の代からの愛人"を演じた宮下順子(当時31歳)が、日活ロマンポルノの看板女優として淫靡で湿った女の性を演じてきた分、ここでも日陰の女の凄みを見せつけていたように思います(「赫い髪の女」('79年/にっかつ)に出たのが前年かあ)。
片岡孝夫以外の男優陣は、藤田まこと、緒形拳、渡瀬恒彦、佐分利信など。藤田まことの経理士(税理士みたいなものか。原作では弁護士になっていた)は、とぼけた味があって良かったです。それだけに、最後の(原作には無い)槙村隆子に襲いかかるシーンは要らな
かったようにも思います(槙村隆子も男を利用するだけ利用して捨てる"悪女"であったことを強調し、"神の鉄槌"を下した?)。緒形拳の刑
事は、出演時間は短いけれど、時に余裕の笑みを浮かべ、時に激高しながらも戸谷を追い詰めていく演技はさすが圧巻(「鬼畜」('78年/松竹)の気弱男とはうって変わった演技)。渡瀬恒彦
の弁護士、佐分利信の裁判官は、ほとんど一場面のみの登場で、友情出演みたいな感じですが、原作を読んだ後で改めて気づいたのですが、要するに、共に"頼りにならない"弁護士と裁判官という位置づけだったわけか。
ということで、後で原作を読んで分かったこともあり、また、原作の面白さに助けられている面もあって評価は難しいのですが、小学館DVD BOOKの「松本清張傑作映画ベスト10」にも収められているし、少なくとも失敗作ではなく、むしろ成功していると見てよく、役者の演技も愉しめるので、評価は★★★★としました。
『松本清張傑作映画ベスト10 7 わるいやつら (小学館DVD BOOK)』['10年]
「わるいやつら」●制作年:1980年●監督:野村芳太郎●製作:野村芳太郎/野村芳樹●脚本:井手雅人●撮影:川又昂●音楽:芥川也寸志●原作:松本清張●時間:129分●出演:片岡孝夫/松坂慶子/梶芽衣子/藤真利子/宮下順子/
神崎愛/藤田まこと/緒形拳/渡瀬恒彦/米倉斉加年山谷初男/梅野泰靖/小林稔侍/稲葉義男/関川慎二/神山寛/滝田裕介/西田珠美/雪江由記/香山くにか/なつきれい/小沢栄太郎/佐分利信●公開:1980/06●配給:松竹●最初に観た場所:池袋・新文芸坐(25-03-06)(評価:★★★★)
小林稔侍(刑事)/片岡孝夫(戸谷)
新文芸坐「監督・野村芳太郎 が描く、作家・松本清張 の世界」(2025)
「●ま 松本 清張」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【488】 松本 清張 『砂の器』
映画を先に観たが、原作を読むと主人公の"冤罪"的要素がより浮き彫りになってくる。
『わるいやつら』['61年]『わるいやつら(上) (新潮文庫)』['66年]『わるいやつら 全一冊決定版 (カッパ・ノベルス) 』['70年]『わるいやつら 下 (新潮文庫 ま 1-9) 』['66年]『わるいやつら 上下2冊セット 松本清張 新潮文庫』]
戸谷信一はある総合病院の院長だが、病院の経営には無関心で、もっぱら骨董品収集と漁色に明け暮れている。そのため病院の経営は苦しく、赤字は毎月増えるばかりであったが、妻・慶子との別居中に作った二人の愛人、銀座の高級洋品店「パウゼ」の経営者の藤島チセと、大きな家具店の妻女・横武たつ子から、金を巻き上げては赤字の穴埋めに充てていた。最近新たに若くして銀座で一流洋装店を経営する美貌のデザイナー槙村隆子を知った戸谷は、彼女に強い興味を持ち、結婚に持ち込みたいと思うようになった。そのためさらに多額の金が必要になったが、その金も愛人から絞り取ることで乗り切れると戸谷は考えていた。しかし、愛人の一人である横武たつ子の病夫の急死に、これもまた自分の愛人である看護婦長の寺島トヨと思わぬ関わりを持ったことから、戸谷とその周囲の人間の運命は狂い出す―。
松本清張が「週刊新潮」に1960(昭和35)年1月から 1961(昭和36)年6月まで連載した長編小説(加筆修正のもと1961年10月に新潮社から単行本刊行)。医者の社会的権威を利用して犯罪に手を染めてゆく医師と、その人間関係を描くピカレスク・サスペンスで、野村芳太郎監督によって1980年に松竹で映画化されたほか、これまでに1985年・2001年・2007年・2014年の4度テレビドラマ化されています(ただし、2007年版は、米倉涼子演じる看護師・寺島豊美(寺島トヨ)が主人公になっている)。
「<あの頃映画> わるいやつら [DVD]」
映画を観たり原作を読む前から、病院長・戸谷信一が次々に人を殺害する物語であるということは知っていました。ただ、冷徹な主人公が頭脳的・計画的に愛人を殺していくのかと思ったら、ボンボンで自堕落プレイボーイの二代目病院長が、金目当てに愛人にした女たちに逆に自身が翻弄され、安易に犯行を計画して半ば共犯的に殺人を犯し、最後には心底惚れ込んだ女に裏切られるという話でした。それでも、その方がりアリティがあって面白かったです。
「わるいやつら」('80年/松竹)片岡孝夫/宮下順子
本作執筆のきっかけとして、作者の母が1955年に亡くなった際、埋葬許可証を発行する区役所の手続きが非常に簡単で、係員が死亡診断書を発行した医者に問い合わせることをせず、診断書の記載がそのまま形式的に通過していくことに驚き、創作のヒントを得たと作者は述べています。ただし、本作は、そうした診断者や医師の問題がどうのこうのと言うより、1人の人間のキャラクターを描くことで、人間の弱さを描いているように思え、そこが良かったです。カッパ・ノベルズで二段組500ページありますが、追い詰められていく主人公の心理にフォーカスされていて、ラストまですんずん読めました。
先に野村芳太郎監督による映画化作品を観たのですが、原作を読んでみて改めて旨いなあと思ったのは、(以下、ネタバレ)無期懲役の戸谷に比べ、寺島トヨと藤島チセとの二人は殺人幇助ということで、刑期はずっと短かかったという結末になっている点です。戸谷が突発的ながらも殺意をもって殺そうとしたのは看護婦長の寺島トヨのみで、ただし、彼女は実は死んでいなかったわけです。一方、横武たつ子の病夫の死や横武たつ子自身の死には寺島トヨが強く関与している疑いがあり、また、藤島チセの夫の死には藤島チセ自身が関与している疑いがあるのですが、結局、主犯はすべて戸谷であるというような罪状になっているということです。つまり、ここにある種、寺島トヨと藤島チセという捨てられた愛人同士が結託した、別の女・槙村隆子に走った戸谷に対する復讐劇が成り立っている点です。
映画を観た時は、その辺りを意識せず観ていましたが、原作を読むと、そうした"冤罪"的要素(とまで言えるかどうかはともかく)がより浮き彫りになってきます。映画も一応その線で作られていますが、ややアピールが弱かったでしょうか。その当たりを意識してか、女もしたたかということを強調したかったのか、原作に無い事件をラストに加えていますが(おそらく、この結末の方が原作より知られていると思う)、これはやや無理があったかと思います。
映画のラストの方で、渡瀬恒彦が演じる戸谷の弁護士と、佐分利信が演じる戸谷に判決を言い渡す裁判官を佐分利信がそれぞれ1シーンずつ出てきますが、原作では「戸谷は弁護士を雇ったが、あまり有能な弁護士でもなさそうだった」とあり、確かに、渡瀬恒彦が演じる弁護士などは最初から「期待されては困る」的な雰囲気でした。弁護士も裁判官も当てにならなかったということでしょう。だから、佐分利信みたいな大物俳優が出て来ても、さらっと突き放すように判決を言い渡す1シーン限りだったのだなあと、改めて思い当たった次第です。一方、これはあまりに穿った見方かもしれませんが、緒形拳演じる刑事は、ヤリ手であるには違いないですが、戸谷により深い罪を負わせようとする女性たちのタッグをバックアップするような役回りになっていると解せなくもないように思いました。
【1962年新書化[新潮社ポケット・ライブラリ]/1966年文庫化[新潮文庫(上・下)]/1970年ノベルズ版[カッパ・ノベルズ]】
《読書MEMO》
●新潮文庫版下巻(1966年)の裏表紙(および新潮社ホームページ)では、「(戸谷は)横武たつ子の病夫を殺したあげく、邪魔になった彼女をも殺害し」と記述されている(2025年現在)が、小説の内容としては明らかに不正確な記述である(第一章第4節参照)。カッパ・ノベルズ版では、「横武たつ子が夫猿害の疑いで財産を失うと、戸谷は婦長の寺島と共謀、彼女を殺害」とあり、こちらの方が実態に近いが、それでもまだ、横武たつ子猿害が「共謀」と言えるか疑義が残る。
「●ま 松本 清張」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【489】 松本 清張 『宮部みゆき責任編集 松本清張傑作短篇コレクション』
「●日本のTVドラマ (90年代~)」の インデックッスへ(「松本清張作家活動40年記念・迷走地図」)
国会議員秘書の生態を通して、駆け引きに没頭する永田町の「政界」を描く。
『迷走地図 上』『迷走地図 (1983年)』['83年]/『迷走地図 上 (新潮文庫 ま 1-52)』『迷走地図 下 (新潮文庫 ま 1-53) 』['86年] 映画「迷走地図」('83年/松竹)/ドラマ「迷走地図」('92年/TBS)
国会議員から院内紙記者に至るまで、多種多様な人種が、利権・利得を求めて蠢く永田町界隈。与党・政憲党内では、最大派閥の領袖で現総裁の桂重信から、第2派閥である寺西派の領袖・寺西正毅への政権禅譲が噂されていた。党内の政策集団「革新クラブ」のホープと目され、女性ファンも多い二世議員の川村正明は、パーティ中の演説で、「老害よ、即刻に去れ」と政権のたらい回しを痛烈に批判する。しかしスピーチの台本は、川村の私設秘書・鍋屋健三が、政治家の著書の代作屋の土井信行に注文して作らせたものであった。女性問題の発覚を切り抜けた川村は、パーティに顔を見せた高級クラブ「オリベ」のママ・織部佐登子に目をつけ、フランス製の高級ハンドバッグを餌に攻略を狙う。しかし、知られざる使命を帯びていた佐登子は、寺西正毅の邸宅で、寺西夫人・文子と秘書・外浦卓郎の介在する中、川村の贈ったハンドバッグを使い、大金を受領していた。その後、外浦は寺西の秘書を辞し、大学の後輩である土井に貸金庫のキーを託し、南米・チリへ去ったが―。
松本清張の「朝日新聞」に1982年2月から 1983年5月まで連載され長編小説(1983年8月に新潮社から単行本刊行)。貸金庫に隠された物の正体は何か?事件の背後にある政界関係者の思惑は? 議員秘書など主に裏方の視点から、永田町に棲む人々の生態を描いた"ポリティカル・フィクション"(Wikipedia)です。
作者自身は「いわゆる政治小説ではない」と朝日新聞('83年5月12日)で述べています。政治小説ではないからモデルもいないということで、登場する保守党のリーダーの名前が桂重信(桂太郎と大隈重信の合成)、板倉退助(板垣退助のもじり)などとなっています。描きたかったのは、国会議員の秘書の生態であるとのこと。ただし、読者に訴えたかったのは、政党間や政治家同士の駆け引きに没頭する永田町の「政界」は、いったい日本の政治をどこへ持っていこうとしているのかということであり、国民のためを思う真剣さがあるのかという問いがテーマであるとのことです。であるため、広い意味ではやはり政治小説ということになるのではないでしょうか。
ただし、政治ミステリーまでは言えず、結末も(匂わせてはいるが)それほどはっきりしていません。そのため、カタルシス効果は弱いかもしれませんが、作者は、話にオチをつけるよりは、こうしたことが延々と繰り返されていくということを言いたかったのではないかと思います。
野村芳太郎監督、勝新太郎主演で映画化されましたが(「迷走地図」('83年/松竹))、原作者の松本清張はこの映画を気に入らず、この作品に限っては、清張の原作と野村芳太郎の映画の「方向性」が、全く噛みあわなかったと言われ、以後、清張と野村芳太郎の関係は疎遠となったとのこと。このため、'92年に松本清張の作家活動40年記念としてTBSでテレビドラマ化されることになった際には、担当の市川哲夫プロデューサーは清張の意向を受け入れ、作家本人が納得する作品を仕上げたとのことです。
個人的には、映画もそれほど原作を外れているようには思いませんでしたが、テレビも同様でした(清張が気に入らなかったのは。あらすじ云々より映画における人物の描き方か?)。映画で渡瀬恒彦が演じた寺西の秘書・外浦を、TBSの元ニュースキャスターでラジオパーソナリティの森本毅郎が演じ、勝新太郎が演じた寺西を二谷英明が、岩下志麻が演じたその妻を若尾文子が、寺尾聡が演じた代作屋の土井を世良公則が、松坂慶子が演じた「オリベ」のママを小柳ルミ子が演じています(ドラマは若尾文子が主演のようだ)。
映画が寺西役の勝新太郎を主演に据えながらも、渡瀬恒彦演じる秘書・外浦に視点を置きつつ、全体としては群像劇の色合いが濃かったのに対し、ドラマの方は、クレジット上の主役は若尾文子ですが、実際の物語は映画同様、森本毅郎が演じるの秘書・外浦を中心に展開し、やはり群像劇の様相を呈しています(資金貸しの望月稲右衛門を演じた若山富三郎は、放送の3日後に62歳で亡くなり、本作が遺作となった)。
細かいことを言えば、原作における寺西夫人・文子のラブレターがドラマで画カセット録音に置き換えられているほか、その恋の相手である外浦卓郎はチリではなく経由地のロサンゼルスで事故死(現地ロケしている)、その遺志を継いだ土井信行を葬った黒幕が、原作では寺西派の手先ではなく、さらに上手の黒幕がいたことを匂わせていますが、ドラマではそこまでは捻っていません。
ドラマを観て、映画のどの部分を原作者が気に入らなかったのか分からなかったので、もう一度、映画を観直してみようと思いましたが、ドラマの方は、ビデオ化されたもののDVD化はされなかったのに対し、映画の方はソフト化さえされていない状況です。それが池袋の新文芸坐で掛かるということで観にいきました(次エントリー)。
「松本清張作家活動40年記念・迷走地図」●演出:坂崎彰●プロデュー:市川哲夫●脚本:重森孝子●音楽:大野克夫●原作:松本清張●出演:若尾文子/森本毅郎/木内みどり/内田朝雄/世良公則/久米明/小柳ルミ子/山内明/若山富三郎/有森也実/目黒祐樹/佐野浅夫/村上里佳子/戸浦六宏/上田耕一/井上昭文/角野卓造/島田正吾/石堂淑朗/二谷英明/(ナレーション)鈴木瑞穂●放映:1992/03/30(全1回)●放送局:TBS(「月曜ドラマスペシャ」枠)
若尾文子(寺西の妻)/木内みどり(外浦の妻)
⦅詳しいあらすじ⦆
今から約10年前のこと、一人の元過激派の男が殺された。時を同じくして内閣改造が与党・政憲党の内部抗争を経て行われていた。その時点から遡ること3ヶ月。次期総理が有力視されている寺西正毅(二谷英明)の邸宅では早朝から派閥の有力代議士達が集まり、政権取りの秘策を錬っていた。現総理・桂重信(内田朝雄)を速やかにその座から引き下ろすために話し合い、その実行者は寺西の懐刀・外浦卓郎(森本毅郎)と決められた。外浦は東大卒の敏腕な新聞記者上がりのキレ者で、寺西夫人・文子(若尾文子)の信任も厚かった。その外浦の仕掛けた桂派の金権スキャンダル記事で、永田町は騒然となる。永田町のアダムスホテルには様々な政治業界の人間が集まっている。元東大全共闘出身で、政治家のゴースト・ライターをしている土井信行(世良公則)も、そこに事務所を構えていた。その彼と外浦は先輩後輩関にあり、政治家のパーティーで久しぶりに再会して心を通じ合う。外浦が桂派の罠に嵌って主人の寺西の不興を買い、チリに長期出張を命ぜられることになった時、土井は彼からある依頼を受ける。それは外浦所有の秘書貸金庫の管理であった。間もなく外浦はロサンゼルス経由でチリへ飛び立つが、ロスから外浦が交通事故で急死したという急報が飛び込む。土井は衝撃を受け、貸金庫の鍵を開ける。そこにあったものは、次期政権を狙う寺西正毅の夫人・文子との情事を記録した秘密録音テープであった。外浦は「それを君がどう利用しても良い」という遺言を残していた。その頃、政憲党内部の対立抗争はますます激化し、寺西派は京都の謎の高利貸し(若山富三郎)に20億の献金を依頼。その使者は財界の大物・石井庫造(久米明)とその愛人・銀座の高級クラブのママ佐登子(小柳ルミ子)であった。土井が抱え込んだ秘密テープの存在はやがて寺西派のNo.2で警察OBの政治家・三原伝六(山内明)の知るところとなり、土井は公安関係者の標的となる。そしてある夜、遂に権力の怒りの制裁が加えられる―。
【1986年文庫化[新潮文庫(上・下)]】
「●野村 芳太郎 監督作品」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【3005】 三隅 研次 「なみだ川」
「●勝 新太郎 出演作品」の インデックッスへ 「●岩下 志麻 出演作品」の インデックッスへ 「●松坂 慶子 出演作品」の インデックッスへ 「●津川 雅彦 出演作品」の インデックッスへ 「●加藤 武 出演作品」の インデックッスへ 「●渡瀬 恒彦 出演作品」の インデックッスへ 「●寺尾 聰 出演作品」の インデックッスへ 「●大滝 秀治 出演作品」の インデックッスへ 「●芦田 伸介 出演作品」の インデックッスへ 「●宇野 重吉 出演作品」の インデックッスへ 「○日本映画 【制作年順】」の インデックッスへ ○あの頃映画 松竹DVDコレクション 「●ま 松本 清張」の インデックッスへ
松本清張と野村芳太郎が決別する契機となった作品と言われているが...。
「迷走地図」勝新太郎/岩下志麻/松坂慶子/渡瀬恒彦/伊丹十三/芦田伸介
「キネマ旬報」1983年10月下旬号
政権を握る改憲党内第二派閥領袖・寺西正毅(勝新太郎)は、現首相、桂重信(芦田伸介)から政権の禅譲を受け、この秋に首相の座に就くのがほぼ既定路線だった。寺西を裏で支えているのは、夫人の文子(岩下志麻)と秘書の外浦卓郎(渡瀬恒彦)だ。外浦は財界の世話役である和久宏(内田朝雄)に、寺西派とのパイプ役として送りこまれ、4年前から寺西の私設秘書となっていた。寺西邸から政治献金のバックペイの金を、和久のもとへ届ける使者として立てられた銀座のクラブ「オリベ」のママ・織部里子(松坂慶子)が、その金を自転車の男(平田満)に奪われるという事故を起こした時、警察に手を回して闇から闇に葬ったのも外浦の力であった。前首相・入江宏文が急死し、政局は秋の総裁選に向け、俄かに動き始める。桂
がひき続き政権を担当する意思を見せたのを受けて、外浦と和久、そして和久に囲われている里子は京都へ飛び、関西財界の有力者、望月稲右衛門(宇野重吉)から20億の融資を引き出した。第三派閥板倉派抱き込みのための工作資金である。桂派と寺西派になる政権争いが日ごと激しさを増す中、外浦が和久の経営する東南アジアの会社に招かれたとの理由で突然辞意を表明した。出発間際東大の後輩にあたり、政治家相手の代筆業をしている土井伸行(寺尾聰)を訪ねた外浦は、土井に個人名義の貸金庫の管理を依頼し、自分にもしものことがあったら、中身は自由に使えと告げる。外浦が外地で自動車事故死したことを新聞で知った土井は、すぐに貸金庫を開けた。中身は、文子と外浦の2年間に及ぶ不倫の恋の記録、文子自筆のラブレターの束であった。板倉派が、次第に奇妙な動きを見せ始める。川村正明(津川雅彦)率いる「革新クラブ」に照準を合わせ、かねてから川村が熱を上げていた里子を使って川村を自派の傘下におさめたのだ。土井が自宅において惨殺死体で発見された。新聞に過激派の犯行声明が載り、警察は内ゲバ殺人としてこの事件を処理するが、裏で板倉派が動いていた。桂派に寝返った板倉(伊丹十三)から「あと一期待たないか」ともちかけられた寺西が見せられたのは、例のラブレターだった。帰宅した寺西は文子を責めるが、後日、桂を支持することを発表する。第二次桂内閣誕生の日、寺西邸では、少数の記者を相手に怪気炎を上げている寺西の姿があった―。
野村芳太郎監督の1983年10月公開作で、松本清張が「朝日新聞」に1982年2月から 1983年5月まで連載した長編小説(1983年8月に新潮社から単行本刊行)が原作。1970年代から1980年代にかけての自民党派閥政治の生態を窺うことができる"ポリティカル・フィクション"です。松本清張と野村芳太郎がタッグを組んだ最後の作品で、松本清張と野村芳太郎が決別する契機となった作品とも言われています。
群像劇となっているため、主役の勝新太郎が演じる党内第二派閥領袖で次期総裁の有力候補・寺西も、外地歴訪などで出番はそう多くなく、渡瀬恒彦が演じる秘書の外浦卓郎が物語の進行役のような役割を果たすのは原作と同じなのですが、その外浦も外地で事故死し(おそらく自殺)、その役割を寺尾聰が演じるライターの土井に引き継ぐため、やや焦点(視点)が定まりにくい印象も。 一方で、松坂慶子が演じる銀座のクラブ「オリベ」のママ・里子の後ろ盾は誰なのかというのが、原作における数少ないミステリ的要素なのですが、これも映画では最初から既定事実として明らかにされてしまっている感じです。
それでも愉しめたのは、オールスター映画とも言える豪華な配役のお陰でしょうか。とりわけ女優陣がよく、プレイボーイの政治家・津川雅彦を軽くいなす松坂慶子、勝新太郎に(アドリブで)顔にお茶をぶっかけられても屹然と対峙する岩下志麻、その岩下志麻が夫・渡瀬恒彦の不倫相手であることを察して凛然と詰め寄るいしだあゆみと、見どころはそれなりにあったと思います。
脇も堅く、津川雅彦演じる節操のない川村に振り回される秘書の鍋屋に加藤武、寺西の盟友である警察OBの法務大臣に大滝秀治、京都の謎の高利貸しに宇野重吉(寺尾聡と親子出演になる)、里子のバッグをひったくるも怖くなって落とし物として届ける男に平田満、土井の秘書に片桐夕子など。
加藤武演じる鍋屋が川村に愛想をつかして辞め、朝丘雪路が演じるタレント議員のもとに転じるも、高慢な彼女からコケにされるというのは、津川雅彦と朝丘雪路が実生活で夫婦であることも相俟って可笑しいです。松坂慶子演じるクラブ「オリベ」のママ・里子が、実は同クラブのホステス早乙女愛と同性愛だったという原作には無いオチも。でも、いちばん"遊んで"いるのは、政調会長の板倉を演じた伊丹十三の演技が、終始田中角栄のモノマネになっていることでしょうか。
津川雅彦(二世代議士・党内最小派閥「革新クラブ」リーダー・川村正明)/伊丹十三(党政調会長・「板倉派」領袖・板倉退介)
野村芳太郎監督は何本も松本清張作品を監督しましたが、清張はこの映画を気に入らず、この作品に限っては、清張の原作と野村の映画の「方向性」が、全く噛みあわなかったと言われ、以後、清張と野村の関係は疎遠となったとのこと(清張が封印したのか、ビデオ・DVD化されていない)。
しかしながら、ストーリーを原作から大きく変えているわけではなく、どこが気に入らなかったのか、よく分かりませんでした。もしあるとすれば、こうした戯画的な描き方が、"お遊び"の度が過ぎると思われたのかもしれません(全体的にも軽さが目立つと言われればそうかも)。
「迷走地図」●制作年:1983年●監督:野村芳太郎●製作:野村芳太郎/杉崎重美/小坂一雄●脚本:野村芳太郎/古田求●撮影:川又昂●音楽:甲斐正人●原作:松本清張●時間:136分●出演:勝新太郎/岩下志麻/松坂慶子/早乙女愛/津川雅彦/加藤武/渡瀬恒彦/いしだあゆみ/寺尾聰/片桐夕子/内田朝雄/中島ゆたか/朝丘雪路/伊丹十三/大滝秀治/芦田伸介/宇野重吉●公開:1983/10●配給:松竹●最初に観た場所:池袋・新文芸坐(25-03-04)(評価:★★★☆)
岩下志麻/松坂慶子
新文芸坐「監督・野村芳太郎 が描く、作家・松本清張 の世界」(2025)
「●よ 吉村 昭」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2506】 吉村 昭 『桜田門外ノ変』
死が見え隠れする短編集。全て「私小説」だとのこと。どれも印象的。
『死のある風景 (文春文庫 よ 1-25)』['92年]
『死のある風景』['89年]
吉村昭(1927-2006/79歳没)が'76(昭和51)年から'88(昭和63)年の13年間に発表した10編の短編で、単行本刊行は'89(平成元)年11月。単行本の帯に「通りすぎて行ったさまざまな人たち」とあるように、死に関する作品が集められています(作品選びをしてくれた編集者から、死に関する短編ばかりだと言われ、編集者のすすめに従って「死」という文字を入れたタイトルになったとのこと)。
「金魚」... 終戦の年3月に中学を卒業した「私」は、それまで周りの皆が出征していくのを目の当たりにしていた。若者にとって戦争とは何なのか―。兵籍に入りたくないという私の正直な気持ちが綴られている。この気持ちは、当時の多くの若者の本音だったのかもしれない。終戦の年の暮れに亡くなった父の話。戦時に、不倫の清算にため一家心中した歯科医の挿話が印象に残った。
「煤煙」... 戦後間もない東京で、物資不足の中、餓死した屍を横目に見ながら4人で汽車に乗り、秋田へ米を入手に行く。しかし、米は統制品で売買や交換は禁じられていた―。米を運べた組と、途中で没収されて運べなかった組に分かれる結末が皮肉。自分の取り分だけ確保して...。人ってそんなものか。
「初富士」... 普段正月を家で過ごす「私」は、嫂や弟夫婦と富士山近くの菩提寺に参る気になる。住職たちとつかの間の一コマ―。住職も人間なのだから、肉欲がある。そのことを小説に書いて、今は老女となった住職の妻から恨みを買う作者。作家も下手なこと書けないなあ。
「早春」... 叔母が「私」に話があるという。叔父が余命幾ばくもないという中、叔母は叔父のいる前で、叔父の女性遍歴を語り出す―。作者が父と女性のことを小説に書いたことに触発されたらしいが、甥としては居辛いなあ。末期がんと判って、そうだと悟られないためにと、見舞いに行かない口実ができたことに安堵する私。
「秋の声」... 肝機能の低下で禁酒を余儀なくされる。その「私」に馴染みの飲み屋の女主人が、子宮ガンで亡くなったと聞く―。亡くなったことを聞いて、その人物が「今度入院することになった」と言っていた時のことを思い出すというのは、自分も経験あるなあ。「通夜に行ってみようか」と一瞬思う私。
「標本」... 昭和23年に肺結核治療のため、5本の肋(あばら)骨を切除した。その骨が病院にあるという―。そう言えば作者には「透明標本」といった短編もあった。「私」と同じ頃に入院し、12本の肋骨を切除され、苦痛を伴う手術に毅然とした態度を貫いた望月久子という女性の思い出が印象的。
「油蝉」... 68歳になる従妹が亡くなった。静岡に葬式に出かける「私」。従妹の人生と次々に訪れる一族の死と向き合う―。火葬の後、焼いた骨をその日のうちに洗う習わしがある地方ってあるんだなあ。従妹の夫が、エリートサラリーマンでありながら、突然無気力になり自殺したという話が印象的。
「緑雨」... その昔、同人雑誌で一緒だったある女性の告別式に誘われた。「私」は一応了解したものの、参加するかどうか迷う―。これと同じで、人から葬式に誘われた際に迷う事ってあるなあ。大きなチャンスを掴めず自ら死んでいった女性と、今まさに愛人と会わんとしている、生きている女性との対比が印象的。
「白い壁」... 耳の病気で入院した「私」は、そこでさまざまな病と闘う人たちと出会う。元気に退院する後ろめたさと向き合うことになる―。何だか重病患者の多い耳鼻咽喉科だなあ。退院するということで張り切っていた少年の話が印象的。家族に会わせるための一時退院だったのかあ。作者の後ろめたさも分かる気がする。
「屋形船」... 誘われて花火大会を見に隅田川へ船で出た「私」。40年前の終戦直後には数多くの死体が漂い流れていた―。1988(和63)年発表作。戦争末期の悲惨な光景が蘇ってきてしまう私。終戦の年の暮れに亡くなった父。冒頭の「金魚」へと話は繋がっていく。
作者「あとがき」によれば(また、読んでいて見当のつくことであるが)、本書収録の10作品は全て「私小説」であり、戦時中のことから自身の身の回りで最近起こったことまで、ほぼ事実を描いているようです。また、そこには何らかの形で死というものが見え隠れしています。これは、作者自身が青年期に結核を患って死の淵を彷徨ったという経験が、作者の人生観や作品に大きな影響を与えているためと思われます。
因みに、吉村昭は、2006(平成18)年2月に膵臓全摘の手術を受け、同年7月30日夜、東三鷹市の自宅で療養中に、看病していた長女に「死ぬよ」と告げ、自ら点滴の管を抜き、次いで首の静脈に埋め込まれたカテーテルポートも引き抜き、数時間後の7月31日午前2時38分に死去しています(79歳だった)。自分がどういう風に死にたいか、ずっと前から考えていたのだろうなあ。
【1992年文庫化[文春文庫]】