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ジャック・ドゥミ監督の長編デビュー作。「シェルブールの雨傘」に繋がる要素を感じた。

「ローラ ジャック・ドゥミ監督 DVD HDマスター」アヌーク・エーメ
1日目〈出逢い〉。陽気に騒ぐアメリカの水兵で賑う港町ナント。全てにうんざりしたローラン(マルク・ミシェル)は自由を求めて旅に出たいと思っていた。水兵フランキー(アラン・スコット)は仲間と共にキャバレー「エル・ドラド」に繰り出す。目当ては踊り子のローラだ。ローランは書店でデノワイエ夫人(エリナ・ラブールデット)と娘のセシ
ル(アニー・デュペルー)と知り合い、娘と同じ名の幼馴染みのことを思い出す。ローランは紹介された仕事先でローラことセシル(アヌーク・
エーメ)と短かい再会をする。彼はそこでヨハネスブルグに行く仕事を引き受けた。デノワイエ夫人はローランの訪問を喜んでいたが、ローラとの約束が迫っているローランは慌しく辞去する。翌日のセシルの誕生日にまた来ると言い残して。ローランとローラは久し振りに2人だけの時を過ごす。彼女は14歳の初恋を語り始めた。祭で出逢
ったアメリカの水兵ミシェル。一目惚れ。数年後の再会。そして、息子イヴォンを宿したこと。妊娠を知り姿を消した彼。7年経っても彼を待つ彼女。ローランは夜が明けるまで独りで歩き続けた。 2日目〈14歳初恋〉。ローランはローラを愛している自分を知る。フランキーと一緒にいる彼女を見つけ後をつける。ローランはカフェでローラに愛を打ち明ける。優しく微笑むローラだったが、彼女が愛しているのはミシェルだけだった。ローランはフランキーのことでローラを責め、2人は喧嘩別れする。明日シェルブールへ旅立つフランキーはローラに別れを告げに来る。帰り道、フランキーは少女セシ
ルに出逢い、祭りで賑う街で2人は短く楽しい時間を過ごす。夕刻、ローランはセシルの誕生祝いに訪れる。彼もまた明日旅立たねばならない。 3日目〈旅立ち〉。ローランは雇い主が密売で逮捕されたことを知る。そして、そこに現れたローラと和解し、2人は別れる。ローランはデノワイエ夫人から、セシルが実父の住むシェルブールへ家出したことを聞かされる。夫人も娘の後を追い旅立った。待てど来ぬ恋人を諦めたローラ
は、「エル・ドラド」の踊り子たちに別れを告げていた。そこへ、キャデラックに乗ったミシェルが現れる。熱い抱擁を交す2人。走る車の中からローラが目にしたのは、港に急ぐローランの姿だった―。
ジャック・ドゥミ監督が1961年に発表した長編デビュー作で、1992年にユーロスペース配給で公開されましたが、その後、2016年にようやっとDVD化(HDマスター)されました。また、リマスター版が2017年にザジフィルムズ配給で、2020年にハピネットの配給でそれぞれ劇場公開されています。
話はフランス西部の港町ナントが舞台で、初恋の男性を待ち続ける踊り子ローラを中心に繰り広げられる恋愛物語です。かつて出逢った一人の男、ミシェルの帰りを7年待ち続けている踊り子ローラが、ある日幼なじみのローランと10年ぶりに再会するという話ですが、視点としては、ローランが主人公で、ローラに偶然再会して恋に落ちるという流れで、最後にローランにとってはほろ苦いと言うか、やや残酷とも言える結末が待っていました、
ローラの7年越しの思い人が突然白いキャデラックに乗って現れるのが(米国で成功したということか)やや唐突すぎる印象もありましたが(思い起こせば、冒頭に白いキャデラックに乗った男が現れ、ローランの行きつけのカフェでその母親が息子が突然7年ぶりに帰ってきたが自分の前に姿を現そうとしないと喚くという伏線があった)、彼はローラを捨てたわけではなかったということでしょう。そこに至るまでの、会いたい人に長年の間会えないでいるローラにとっての恋のもどかしさ、久しぶりに出会えて人生を賭けるほどの恋に落ちたと思ったら、思わぬ展開が待っていたローランにとっての恋の悲劇―この辺りがこの作品のポイントであると言えます。
ジャック・ドゥミが描きたかったのは、些細な偶然が原因でいともたやすく方向を変えていく人生の不思議、心に潜む人への想いとたとえそれを告白しても届かぬ場合があることの切なさ、互いの心が通じ合ったように見えて必ずしもうまく通じ合うとは限らない運命の皮肉、人が瞬間に味わう幸福感と絶望感の交互の繰り返しなどでしょうか。逆らうことが出来ない運命の力を見せてくれる点で、後の「シェルブールの雨傘」('64年)に繋がる要素を感じる作品でした。
ローラを演じるアヌーク・エーメの魅力が全開で、港町ナントの光と影の映像とミシェル・ルグランの美しい旋律の音楽にマッチしていたように思います(当初は音楽が無く、ジャック・ドゥミが音楽家を探してレコード店に入ると、ミシェル・ルグランのレコードを勧められたという)。ジャック・ドゥミは、この作品と「シェルブールの雨傘」の間にジャンヌ・モロー主演の「天使の入り江」('63年)を撮っていますが、この監督、デビュー当時から女優の魅力を引き出すのが上手かったということが分かります(その分、男優は添え物的? 妻で映画監督のアニエス・ヴァルダの作品にもその傾向がある)。因みに、ドゥミはバイセクシュアルであり、1990年にエイズにて59歳で他界しています。
アヌーク・エーメ
「ローラ」●原題:LOLA●制作年:1961年●制作国:ヌランス●監督・脚本:ジャック・ドゥミ●製作:カルロ・ポンティ/ジョルジュ・ドゥ・ボールガー●撮影:ラウール・クタール●音楽:ミシェル・ルグランン●時間:88分●出演::ジャック・アルダン/アヌーク・エーメ/マルク・ミシェル・コリンヌ・マルシャン●日本公開:1992/01●配給:ユーロスペース●最初に観た場所:池袋・新文芸坐(24-08-10)(評価:★★★★)




グイド(マルチェロ・マストロヤンニ)は43歳、一流の映画監督である。彼は医者の勧めに従い湯治場にやってきた。湯治場に来てもグイドは、愛人カルラ(サンドラ・ミーロ)、妻ルイザ(アヌーク・エーメ)そして職業
上の知人たちとの関係の網の目から逃れることはできない。カルラは美しい女性だが、肉体的な愛情だけで結ばれている存在で、今のグ
イドにとっては煩わしくさえ感じられる。妻ルイザとの関係はいわば惰性で、別居を考えはするものの、離婚する勇気がないだけでなく、時には必要とさえ感じるのである。そんなグイドの心をよぎるのは若く美しい女
性クラウディア(クラウディア・カルディナーレ)だ。クラウディアは、グイドの願望の象徴であるが、彼女との情事の夢もむなしく消えてしまう。彼の夢、彼の想像の中で、思索は亡き両親の上に移り、次々と古い思い出を辿る―葡萄酒風呂を恐れ逃げまわる少年時代、乞食女サラギーナ(エドラ・ガーレ)と踊ったことで神父から罰せられる神
学校の生徒時代。やがて保養を終えたグイドは、混乱と失意のまま元の生活に戻る。彼が全てのことを投げ出そうとした瞬間、彼の心の中で何かが動き出す。彼の渦去の全ての対人関係、逃れようのない
絶対の人生経験をかたち作っている全ての人が、笑顔をもって彼と同じ目的地に向っていこうとしているのである。映画製作が始まった。オープン・セットでグイドは叫ぶ。「みんな輪になってくれ、手をつないで踊るんだ!」演出していた映画監督グイドは、自分も妻とともに輪の中に入る。踊り続ける人々はやがて闇の中に消え、ただ一人残り、無心に笛を吹き続けるのは、少年時代のグイドだ―。
1963年公開のフェデリコ・フェリーニ監督作品で、モスクワ国際映画祭最優秀作品賞やアカデミー賞外国語映画賞を受賞したほか、専門家や一般の映画愛好者向けの様々なアンケートで今も常に上位にランクインするよく知られた作品です。とは言え、自分がこの作品を初めて観た80年代から90年代にかけては、タイトルの頭に必ず「フェリーニの」と付いていました(付けないと、映画なのか何なのか分からない人もまだ多かった?)。最近では、DVD等のタイトルも、単に「8½」となっているようです。
その中でもこの「8½」の大きな特徴は、精神的に追い詰められ、仕舞いには自殺まで想い描いていたかに見えた主人公が(強迫神経症的な夢のシーンがある)、ラストで突然に、「人生はお祭りだ。共に生きよう」と叫んで復活、人々と共に輪になって踊り始めるという、ある種〈ブレーク・スルー・ムービー〉になっている点にあると思われ、また、そのブレーク・スルー・ムービーになっているという点が、多くの人々の共感を生む理由でもあるのではないでしょうか。
グイドの復活に何かその理由が説明がされているわけではありません。実は当初ラストは、幽霊のような白い服を着た登場人物たち(グイドを除く)が、セリフもないまま満員状態で列車の食堂車に乗ってどこかへ向かうシーンが撮られていて、言わばグイドの葬送をイメージしたものになっていたのが、制作会社か
ら作品の予告編の制作するよう依頼されたフェリーニが、オープンセットで登場人物たちが輪になって踊るというシーンを撮り、最終的にそれが当初予定されていたラストシーンに置き換わって使われたということのようです。そのため、そのラストとその一つ前の段階との繋がりという点で、やはり唐突さはあるように思います(製作中にフェリーニに心境の変化があったのか。それとも当初のままでは暗過ぎて観客受けしないと思ったのか)。


撮影は「
「太った女」は「8½」(エドラ・ガーレ)にも「アマルコルド」それぞれに出てくるが、その設定は全く異なっている)。再見してみて、怪奇映画女優のバーバラ・スティール(イタリア・ゴシック・ホラーの"絶叫クィーン"と言われたB級映画専門女優)を使っていることに改めて気づきました。
「フェリーニの8½ (8½)」●原題:OTTO E MEZZO ●制作年:1963年●制作国:イタリア・フランス●監督:フェデリコ・フェリーニ●製作:アンジェロ・リッツォーリ●脚本:フェデリコ・フェリー
ニ/トゥリオ・ピネッリ/エンニオ・フライアーノ/ブルネッロ・ロンディ●撮影:ジャンニ・ディ・ヴェナンツォ●音楽:ニーノ・ロータ●時間:140分●出演:- マルチェロ・マストロヤンニ/アヌーク・エーメ/クラウディア・カルディナーレ/サンドラ・ミーロ/バーバラ・スティール/マドレーヌ・ルボー/イアン・ダラス/エドラ・ガーレ●日本公開:1965/09●配給:東和=ATG●最初に観た場所:高田馬場東映パラス(87-05-09)●2回目:北千住・シネマブルースタジオ(15-12-22)(評価:★★★★☆) Barbara Steele in Federico Fellini,81/2
Barbara Steele








クラウディア・カルディナーレ(イタリアの女優)




作家志望の夢を抱いてローマに出てきたマルチェロだったが、夢破れて今はしがないゴシップ記者となっている。エンマ(イヴォンヌ・フルノー)という娘と同棲しながらも、ナイト
クラブで富豪娘(アヌーク・エーメ)と出会ってホテルで一夜を明かしたり、ハリウッドのグラマー女優(アニタ・エクバーグ)を取材がてらに彼女と野外で狂騒したりし、エンマは彼の言動を嘆く―。
"マルチェロ"の仕事は、ゴシップ・カメラマン「パパラッチ」の"記者版"のようなもので(「パパラッチ」の通称はこの映画に登場するゴシ
ップ・カメラマン「パパラッツォ」の名前に由来する)、乱痴気と頽廃に支配された街ローマを象徴するような仕事であり、同時に、主人公である彼が、爛熟したローマの現況の「語り部」的役割も果たしているようです。

主人公のマルチェロは元々プレイボーイなのですが、虚しい仕事ばかりで心身は疲れきっている―。それでも、仕事絡みで深夜にアニタ・エクバーグみたいな女優とトレビの泉で戯れたりすることが出来るのであれば、結構"役得"ではないかとも、そのような僥倖に巡り合ったことの無い自分などは傍目に思ったりするのですが、マルチェロの場合はそれでもどこか満たされない思いがあるようで、実際、彼の周囲の人も幸せになる人は少なくなり、彼自身も"甘い生活"に浸れば浸るほど不幸になっていきます。
マルチェロにもメンター的存在であった友人(アラン・キュニー)がいて、マルチェロもいつかは彼らのような安寧の生活を送りたいと思っていたのですが、その友人夫婦がある日突然に自分達の子供を道連れに一家心中したという事件があり、このことが彼にとってあまりにショックであったために、自らの人生を見直させる契機にはならず、むしろ虚無感を増幅させたと言えるかと思います。
マルチェロが海辺の別荘で仲間らと遊び耽り、翌朝、享楽に疲れ果てた体のほてりを醒ますために出かけた浜辺に、醜悪な怪魚(エイ?)が打ち上げられていて悪臭を放っている。小さな浅干潟を隔てたその向こうに、顔見知りの可憐な少女がいて、マルチェロは声かけるが潮風にかき消されて彼女には届かない―。
腐りつつある「醜悪な怪魚」はマルチェロ自身の今の姿であり、少女がいる「静謐な世界」は、自分がそこに行くことを望んでももはや達し得なくなってしまった場所であるという、ラストシーンの、鮮烈なコントラストを以って示した象徴表現には充分な説得力と余韻があり、自分自身もマスコミ業界にいたことがありますが、そうした"ギョーカイ"の人がこのラストを観たら、なおのことグッと迫るものがあるのかも知れません。逆に言えば、干潟を渡って少女の所へは行かず、また仲間達の所へ戻ってしまうであろう(戻っていくしかない)マルチェロだからこそ、我々俗人の目から見て、その哀しみに共鳴できるのかもしれないとも思いました。







それを知った娘ジャクリーヌ・ササールは泣きながら去り、後半は、ムッソリーニ政権の崩壊、新政権の誕生、イタリアの降伏という動乱の戦局の下、刹那的な恋に激しく燃える高官の息子トランティニャンと未亡人ロッシ・ドラゴの愛と別離が描かれています。
2人の「出会い」は海岸で、独軍機の威嚇飛行に人々が怯え逃げる際に、転んで泣いていた幼子をトランティニャンが助けたのが、ロッシ・ドラゴの娘だったというもの、「別れ」は、トランティニャンが兵役逃れを図りロッシ・ドラゴと逃避行を図る際に、列車が米軍機の爆撃を受け大勢の死者が出て、その中にその娘の亡骸を見つけて、彼女が現実に(乃至"罪の意識"に)目覚めるという、「出会い」も「別れ」も共に「爆撃機」と「娘」が絡んだものです。双葉十三郎氏は、「後半になって愛国モラルが顔を出すと、凡庸化していしまう」とsていますが、これは兵役を嫌がっていたトランティニャンが列車の被爆事故を機に女性と別れ、戦線に加わるというストーリーがいかにもという感じがするからでしょう。
戦時下の恋の物語ですが、当時のイタリアの上流階級の一部は、そうした戦局の最中に合コンみたいなパーティーをやったり、海水浴に興じたりしていたというのは、実際の話なのだろうなあと。ある種、集団的な"刹那主義"的傾向?(その反動で、或いはバランスをとるために、トランティニャンを兵役に行かせた?)。

「男と女」(Un homme et une femme、'66年/仏)もジャン・ルイ・トランティニャンが未亡人(スタントマンの夫を目の前で失った女アヌーク・エーメ)に絡むもので、こちらはトランティニャン自身も妻に自殺された男寡のカーレーサーという設定で、2人が知り合ったのは互いの子供が通う寄宿学校の送り迎えの場という、「激しい季節」同様に子供絡みです(カンヌ国際映画祭「グランプリ」(現在の最高賞パルム・ドールに相当)及び「国際カトリック映画事務局賞」、米国「アカデミー外国映画賞」「ゴールデングローブ賞外国語映画賞」受賞作)。
一作品の中でモノクロ、カラ―、セピア調などを使い分けるといった凝った映像のつくりです。但し、ストーリーそのものは個人的には結構俗っぽく感じられ、トランティニャンが鬱々として煮えたぎらずしょぼい恋愛モノという印象しか受けないの
最初から映像美と音楽を調和させることが最大の狙いで、ストーリーの方は意図的に通俗であることを図っていたのかも。ルイ・マル監督の「


「激しい季節」●原題:ESTATE VIOLENTA●制作年:1959年●制作国:イタリア●監督:ヴァレリオ・ズルリーニ●製作:シルヴィオ・クレメンテッリ●
脚本:ヴァレリオ・ズルリーニ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ/ジョルジョ・プロスペリ●撮影:ティノ・サントーニ●音楽:マリオ・ナシンベ




「男と女」●原題:UN HOMME ET UNE FEMME(英:A MAN AND A WOMAN)●制作年:1966年●制作国:フランス●監督・製作:クロード・ルルーシュ●脚本:クロード・ルルーシュ/ピエール・ユイッテルヘーヴェン●撮影:クロード・ルルーシュ●音楽: