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事実は事実として知っておき、物語は物語として愉しめば良いのではないか。

東大教授の「忠臣蔵」講義.jpg東大教授の「忠臣蔵」講義3.jpg「忠臣蔵」の決算書 新書3.JPG「忠臣蔵」の決算書 (新潮新書)』['12年]
東大教授の「忠臣蔵」講義 (角川新書) 』['17年]

 「忠臣蔵」について、時代劇や小説に埋もれた真実を、故・山本博文(1957-2020/63歳没)東京大学史料編纂所教授が、ライブ講義形式で解説したもの。著者の『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本―確かな史料に基づいた、最も事実に近い本当の忠臣蔵!』('03年/中経出版)を全面改稿したもので、2017年12月の刊行は「忠臣蔵」シーズンに合わせたものと思われます。

 根拠となる史料を丁寧に引きながら、事件の発端から切腹までの流れを、その背景や当時の常識、史料に残された証言、浪士たちが遺した手紙、間取り図や地図なども多数紹介しながら紐解いていきます。

 刃傷松の廊下から吉良邸討ち入り、切腹にいたるまでの事件の経緯は、各章の冒頭で、囲み記事的に簡潔に纏められていて、それに関するいろいろな問題点・疑問点は、質問者が山本教授に問うQ&A方式であるため、新書で300ページとやや厚めではありますが、たいへん読み易くなっています。

忠臣蔵 討ち入りを支えた八人の証言.jpg 史料によって伝えることが大きく違うのが赤穂事件であり、その結果どうなるかと言うと、我々が知る「忠臣蔵」の様々なエピソードのかなりの部分は事実と違っていたりするわけで、例えば、浅野内匠頭の有名な辞世の句は検死役の多門伝八郎の創作らしいとか。この多門伝八郎の件は、先に取り上げた 中島康夫『忠臣蔵 討ち入りを支えた八人の証言』('02年/青春出版社PLAYBOOKS INTELLIGENCE)の1人目としても取り上げられていました。内匠頭の家臣・片岡源五右衛門を多門伝八郎の取り成しで主君の切腹前に目通しを許可させたそうですが、『忠臣蔵 討ち入りを支えた八人の証言』で中島康夫氏は、典拠が『多門伝八郎覚書』であり、多門伝八郎自身のことをよく書いているのではないかとの批判もあるとしていましたが、本書でも、そうした批判があることが、研究者名を挙げて紹介されています。
 
南部坂雪の別れ .jpg また、「南部坂雪の別れ」で、搖泉院はその日南部坂の屋敷には居なかったとか(ただし、上京した際に挨拶には行っている)。大石内蔵助が屋敷内に冠者がいるのを察して、義士たちの血判状を携えるも、搖泉院には真意を明かさず、逆に西国への士官を仄めかして怒りを買って屋敷を去り、後で内蔵助の携えたものが血判状であったことが判明して、搖泉院が内蔵助を追いやったことを悔いるというお決まりのシーンが創作であることは想像に難くないですが、そもそも居なかったとは...。

「南部坂雪の別れ」

 あれこれ真相を知ってしまうと芝居がつまらなくなるというのは確かにあるかもしれないし、Amazonのレビューなどを見ると、「(作者らはいかに)読者を楽しませるか、想像力をフル回転させ物語を創っている。彼らの努力あっての忠臣蔵である。学者には他人を楽しませる努力も、想像力も無い」との批評もありましたが、事実は事実として知っておき(概ねそうであったろうということも含め)、物語は物語として、目くじら立てずに愉しめば良いのではないでしょうか(トータル的に見て著者の最も言いたいことは、それはこれまでの著者の本でも述べられているが、赤穂浪士は忠義のために討ち入りしたのではないということのようだ)。

 当時の時間の数え方、元禄の知行(1500石は年収いくらか)、貨幣や容積の単位といった知識が随所に盛り込まれていて、吉良上野介がどこからどこへ引っ越したのかとか、吉良邸の偵察要員だった神崎与五郎の店と吉良邸の位置関係が現在の地図で何処になるのか、といったことが確認できていいです。

 何よりも興味深いのは、討ち入りに向けた諸費用の内訳が円グラフで示されていることで(江戸―上方間の旅費、浅野内匠頭仏事費、江戸借宅の家賃が3大支出)、この部分にフォーカスしたものが著者の前著『「忠臣蔵」の決算書 (新潮新書)』('12年/新潮新書)であり、されにそれが後に、中村義洋監督、堤真一、岡村隆史W主演の映画「決算!忠臣蔵」('19年/松竹)の原作となっています(『「忠臣蔵」の決算書』の方が財政に特化している分、ちょっと面白かったかな。最後に、詳細な索引が最後に付いているのは親切)。

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日本的人事の歴史的ルーツを探る。現代に通じるところがあって面白かった。

人事の日本史 (朝日新書)01.jpg人事の日本史 3.jpg
人事の日本史』['05年/毎日新聞社]『人事の日本史 (新潮文庫 や 51-51)』['08年]『日本史から学ぶ「人事」の教訓』['13年/宝島社]
人事の日本史 (朝日新書) 』['21年]

 本書は、経済誌「エコノミスト」に2003年から2004年にかけて連載されたものが、連載終了後の2005年に毎日新聞社から単行本として刊行され、さらに2008年に新潮文庫に収められものを新書化したものです(その間 2013年に、テーマ別に大幅に改訂し『日本史から学ぶ「人事」の教訓』として宝島社より単行本として刊行されているが、本書は新潮文庫版を底本として誤字や誤記を修正したものである)。

 3人のが歴史学者が、日本史を古代・中世・戦国・近世の4章にわたって振り返り、「人事」の面から、①歴史上重要な意味を持つ人事はどのように決まったか、②古人は人事をどう考え行動したか、③日本史に貫通するに日本的人事の論理はあるか、の3つの観点から追究したものです。

聖徳太子.jpg 古代編ではまず、聖徳太子・厩戸皇子は抜擢人事の本邦第一号であったとし、その背景には、推古天皇が実力主義の人事を行ったことがあるとしています。冠位十二階によって、我が国で初めて「人事権」と呼ぶべきものが成立したと言えるとし、服務規程とも言うべき憲法十七条の原型も、この時代に制定されされた可能性があるとしています。

 人事が論功行賞の色合いを強めたのは大化の改新以降の孝徳天皇の代であり、クーデター実行に貢献した豪族らへの成功報酬的役割を果たしたが、豪族たちを初めて本格的に「能力評価」で選別・再編したという点では、「人事」の日本史上、画期的な変革だったとしています。

天武天皇.jpg 天武天皇のもと、律令制が整備される中で、「官僚」の勤務評定(考課)や昇進はどのように行われたかも紹介されていて、考課要素である「功過行能」の「功過」は職務遂行状況であり、「行能」は行状と技能であるとのことで、今で言う人事考課の3要素(成績・情意・能力)または2要素(業績評価・行動評価(コンピテンシー評価))と似ているのが興味深いです。

菅原道真.jpg 外交使節・遣唐使の選抜の決め手は、能力よりも「和やかに話し合える」性格が決め手だったとのことで、これも今の時代の採用面接に通じるところがあります。894年に第20次件遣唐使を拝命した菅原道真が、その無益を主張して白紙に戻したのを思い出しました。学者から大臣になった菅原道真の失脚の原因は、他の「学閥」からの嫉妬や攻撃だったのではないかとしています。

源頼朝.jpg源義経.jpg 中世編では、平清盛のバランス感覚と先見性(共に今でもリーダーの要件か)、源頼朝の人心掌握の巧みさ(部下一人ひとりに「お前だけが頼りだ」と囁いていたそうだ)が取り上げられていて、それに比べ弟・源義経は、組織の一員としての自覚が欠け、個人プレーの人だったとしています。

徳川吉宗2.jpg 下って近世・江戸時代では、8代将軍・徳川吉宗は、「足高制」という「役職手当」を創設して人事を活性化したとのこと、田沼意次失脚後に権力者となった松平定信は、賄賂やコネでなく人柄や能力を重視したが、時代劇の鬼平こと火付盗賊改・長谷川平蔵については、能力は認めていたが「山師」的人物と見なして評価しておらず、平蔵は結局それ以上の出世はできなかったとのことです(上司とそりが合わなくてはどうしようもない、というのは今も同じか)。

 武家政権の担い手らは、朝廷から授かる官位と幕府内の役職を持っていた(徳川家康ならば「征夷大将軍」と「将軍」)というのが、今の会社組織の等級と役職という二重身分と同じであるというのが興味深いです。最初に位があって、それに役職がつくため、ある等級に達しないと、ある役職にもつけないというのは、まさに律令制における「官位相当制」であり、人事考課もそうですが、いろいろな意味で、日本的人事のルーツは律令制の時代にあるのだと思いました。

山本博文2.jpg 日本的人事の歴史的ルーツを探る、と言うか、別に大上段に構える必要もないのかもしれませんが、いろいろと現代に通じるところがあって面白かったです。著者の一人、山本博文氏は、Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」などテレビでも活躍していましたが、'20年3月に63歳で亡くなっているのが惜しまれます。

山本博文 氏

Eテレ「先人たちの底力 知恵泉」
山本博文 eテレ 知恵泉.jpg山本 博文(東京大学史料編纂所 教授)(1957-2020/63歳没)
1990年、『幕藩制の成立と日本近世の国制』(校倉書房)により、東京大学より文学博士の学位を授与。1991年、『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社)により第40回日本エッセイストクラブ賞受賞。江戸幕府の残した史料の外、日本国内の大名家史料を調査することによって、幕府政治の動きや外交政策における為政者の意図を明らかにしてきた。近年は、殉死や敵討ちなどを素材に武士身分に属する者たちの心性(mentality)の究明を主な課題としている。主な著書に、『徳川将軍と天皇』(中央公論新社)、『切腹』(光文社)、『江戸時代の国家・法・社会』(校倉書房)、『男の嫉妬』(筑摩書房)、『徳川将軍家の結婚』(文藝春秋社)『日本史の一級史料』(光文社)などがある。

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「忠臣蔵」を「経済的側面」から分析したのはユニークな視点。

「忠臣蔵」の決算書 新書3.JPG「忠臣蔵」の決算書  .jpg これが本当の「忠臣蔵」 (小学館101新書.png 決算!忠臣蔵1.jpg 決算!忠臣蔵2.jpg
「忠臣蔵」の決算書 ((新潮新書))』['12年]『これが本当の「忠臣蔵」 (小学館101新書―江戸検新書)』['12年] 映画「決算!忠臣蔵」['19年]堤真一(大石内蔵助)/岡村隆史(矢頭長助)
決算!忠臣蔵」.jpg 従来は「武士の倫理観」という視点で分析されがちだった「忠臣蔵」を、その倫理観の陰に隠れて見過ごされがちな「経済的側面」から分析した本。主君の刃傷事件によって藩がお取り潰しになった際、旧藩士はどの程度の退職金を得たのか、浪人生活の苦しさとは具体的にどのようなものだったのか、生活費に窮した時はどうしたかなどについて書かれています。好評だった前著『これが本当の「忠臣蔵」』('12年4月/小学館101新書―江戸検新書)から、「忠臣蔵」の経済・財政面にフォーカスし、深堀りしたものとも言えます。

決算!忠臣蔵640.jpg 新潮ドキュメント賞を受賞した歴史学者・磯田道史氏の『武士の家計簿-「加賀藩御算用者」の幕末維新』('03年/新潮新書)が、森田芳光監督、堺雅人主演で「武士の家計簿」('10年/松竹)として7年超しで映画化され、同じように小説ではない本書もこの度、「殿、利息でござる!」('16年/松竹)(これも原作は磯田道史氏)の中村義洋監督、堤真一主演で「決算!忠臣蔵」('19年/松竹)として7年超しで映画化されました(中村義洋監督自身による小説化作品がある)。

 本書で何よりつぶさに書かれているのが、最終的に四十七士が吉良邸討入りというプロジェクトを遂行するにあたって、相談や指示伝達のための江戸―上方間の旅費、江戸でのアジトの維持費、その間の生活費、さらに討ち入りを実行するための武器の購入費など、その諸費用をどう賄い、また支出していったかです。

 本書の記述のベースとなっている大石内蔵助が遺した『預置候金銀受払書』をはじめ、お取り潰し後の赤穂藩の財政に関連する資料は結構あるのだなあと。『武士の家計簿』は、磯田道史氏が2001年に神田神保町の古書店で見つけた古文書がベースになっているのに対し、これら赤穂藩の資料は従来より一級資料であって新発見資料ではなく(前著『これが本当の「忠臣蔵」』の方は、2011年末に著者自身が鑑定した新発見の史料「茅野和助遺書」の内容が反映されているが)、ただ、今までそうした「経済的側面」から「忠臣蔵」を分析することは殆どされてこなかったようです。その意味では、本書はやはりユニークな視点に立つと言えます。

 まず、御家再興を図るか討入りをするかを決める前に、籠城か開城かという決断があり、開城をすることで、今度は藩士に割賦金(退職金)を払うことに。割賦金の額(米を含む)は、すでに支給されていたその年分の米を加えると19,619両で、現在の価値にして23億5,000万円、約300名の藩士に一人平均780万円ほどが支払われたというから、それだけもう結構な大金が動いたのだなあと。

 そうすると、御家再興や討入りのために用意できた残りの金額(軍資金)は691両、8,292万円になり(全資産からみれば殆ど残らなかったということか)、そのほとんどは藩の「余り金」と浅野内匠頭の正室・瑤泉院の「化粧料」(討ち入り費用内訳.jpg嫁入り持参金)だったようです。この「軍資金」が討入りの計画・準備・実行にどのように使われたかが『預置候金銀受払書』に沿って諸々解説されているのが本書の中核となっています。そして、最終的な使用内訳は、次の通りとなっています。

 仏事費  127両3分  18.4%
 御家再建工作費 65両 9.4%
 江戸屋敷購入費 70両 10.1%
 旅費・江戸逗留費 248両 35.6%
 会議通信費  11両 1.6%
 生活補助費 132両1分  19.0%
 討入り装備費 12両 1.9%
 その他   31両1分2朱  4.2%

作成:日本経済新聞社

決算!忠臣蔵ロード.jpg 映画化作品は、堤真一演じる大石内蔵助に加えて、岡村隆史演じる(本書にもその名がある)勘定人・矢頭(やとう)長助をダブル主人公にし、諸経費を現在の金額に置き換えて、その時々でいくらかかったかをユーモラスに分かりやすく解説していました。内蔵助が武器輸送に際して危機に陥る「大石東下り」の段もなければ、瑤泉院が内蔵助と別れた後でその真意を知る「南部坂雪の別れ」の段もない「忠臣蔵」ですが、そうした後世の作り話はこの際入れなくて正解でした(石原さとみが瑤泉院を演じていて、討ち入り直前に内蔵助の勘定報告は目にするが、袱紗に包んだ紙包みを開けるとそこには「討入同志連名血判状」の題字が...といった「忠臣蔵」お決まりのシーンはない)。

決算!忠臣蔵ges.jpg ずっとコメディタッチできていたので、個人的には、途中で矢頭長助を大石内蔵助の代わりに死なせることをしなくてもよかったのではないかと思います(絶叫型の演技が多い中で、岡村隆史のぽつりぽつりと喋る演技は効いていた。矢頭長助をヒーローにしないと気が済まなかったのか?)。史実では矢頭長助は病に伏して1702(元禄15)年9月に45歳で亡くなっており、その年の討入りには息子の矢頭教兼(のりかね)が加わっています(教兼が切腹した時の年齢が18歳で、四十七士の中では大石主悦の16歳に次いで若かった。美少年とされ、討入り後い世間に「義士の中に男装の女がいた」という噂話が流れたとも伝わる)。

決算!忠臣蔵22.jpg 映画では"討入りプロジェクト"は終盤、討入り装備費の試算の段階で、あの武器も必要、この防具も必要と喧々諤々やっているうちに赤字見通しになり(つまり資金不足になったということ)、それが、吉良上野介が確実に在宅している日が事前情報として分かったことで、討入りが当初予定より3カ月早まり、それだけ家賃等生計維持費が浮くことになって、何とか「予算内で」討入りができるようになったという流れになっていますが、先の軍資金の資質配分を映画と突き合わせてみると、討入り装備費は全体の2%弱で、その前の旅費・江戸逗留費などの支出の方がずっと大きかったことがわかります。この支出配分を念頭に置いて映画を見てみるのも、なかなか面白いのではないかと思います。

堤真一(大石内蔵助)/岡村隆史(矢頭長助)
決算!忠臣蔵ド.jpg決算!忠臣蔵ード.jpg「決算!忠臣蔵」●制作年:2019年●監督・脚本:中村義洋●製作:池田史嗣/古賀俊輔中居雄太/木本直樹●撮影:相馬大輔●音楽:髙見優●時間:125分●出演:堤真一/岡村隆史/濱田岳/横山裕/荒川良々/妻夫木聡/大地康雄/西村まさ彦/木村祐一/小松利昌/沖田裕樹/橋本良亮/寺脇康文/千葉雄大/桂文決算!忠臣蔵images.jpg珍/村上ショージ/板尾創路/滝藤賢一/笹野高新宿ピカデリー1.jpg史/竹内結子/西川きよし/石原さとみ/阿部サダヲ●公開:2019/11●配給:松竹●最初に観た場所:新宿ピカデリー(19-12-16)(評価:★★★☆)●併映(同日上映):「屍人荘の殺人」(木村ひさし)
石原さとみ(瑤泉院)
「決算!忠臣蔵」創刊図.jpeg
   
山本博文(2020年3月没)ガジェット通信」(2019.11.26)より  竹内結子(2020年9月没) 大石りく役 in
映画『決算!忠臣蔵』原作者・山本博文.png  竹内 結子 決算忠臣蔵.jpg


Eテレ「先人たちの底力 知恵泉」
山本博文 eテレ 知恵泉.jpg山本 博文(東京大学史料編纂所 教授)(1957-2020.3.29/63歳没
1990年、『幕藩制の成立と日本近世の国制』(校倉書房)により、東京大学より文学博士の学位を授与。1991年、『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社)により第40回日本エッセイストクラブ賞受賞。江戸幕府の残した史料の外、日本国内の大名家史料を調査することによって、幕府政治の動きや外交政策における為政者の意図を明らかにしてきた。近年は、殉死や敵討ちなどを素材に武士身分に属する者たちの心性(mentality)の究明を主な課題としている。主な著書に、『徳川将軍と天皇』(中央公論新社)、『切腹』(光文社)、『江戸時代の国家・法・社会』(校倉書房)、『男の嫉妬』(筑摩書房)、『徳川将軍家の結婚』(文藝春秋社)『日本史の一級史料』(光文社)などがある。

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著者の「殉死」についての考察の原点とも言える本。もっと早く文庫化して欲しかった。

『殉死の構造』角川.jpg殉死の構造 学術文庫.jpg 殉死の構造 (叢書 死の文化).jpg
殉死の構造 (講談社学術文庫)』['08年]『殉死の構造 (叢書 死の文化)』['93年]

殉死の構造 (角川新書)』['22年]

 '08年に講談社学術文庫に収められたものですが、元本は'93年に弘文堂から「叢書・死の文化」の1冊として書き下ろされ、その後の著者の「殉死」について考察した本の原点とも言えるものであり、15年を経ての文庫化ということになります。(●さらに2022年、角川新書として復刊された。)

 森鷗外の『阿部一族』は、明治天皇に殉死した乃木希典の事件が契機となって書かれたそうですが、乃木が殉死したのは、明治天皇への忠義のためとか、西南戦争で西郷軍に軍旗を奪われ、明治天皇の慰留により命を助けられたことを苦にしたためというものではなく、日露戦争の旅順攻防戦で多くの犠牲者を出した責任感からだと考えられるとしていて(司馬遼太郎は『坂の上の雲』で、日本戦争史において、乃木ほど多くの兵士を無駄死にさせた無能将軍はないとしている)、ならば何故自分ではそう言わなかったのかなあ。乃木流に考えても、「陛下の軍人」を数多く死なせたわけだし。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか.jpg その『阿部一族』に出てくる殉死騒動は、鷗外が参照した史料そのものに脚色があり、実は阿部弥一右衛門はしっかり他の者と一緒に殉死していたというのは、『武士と世間-なぜ死に急ぐのか』('03年/中公新書)にもありました。また、所謂「忠臣蔵」での赤穂浪士たちの死を覚悟した討ち入りが、主君への忠誠によるものというより、自らの武士の一分、つまり面子のためのものであったということも、『武士と世間』ほか、幾つかの新書本で触れています。

 江戸初期に小姓に殉死が多く見られたのは、心中する男女間の心性と同じものが、時に男色関係にあった主君と小姓の間にあったためだそうです。しかし、それほど寵愛もされなかった下級武士にも殉死者が少なくなかったのは、「殉死」のルーツは、戦国時代から江戸初期に引き継がれた「かぶき者」という荒々しい武断的な風潮にあり、戦国時代が終わって戦いの場を失った武士たちが、その「武士のアイデンティ」の発露として、主君が亡くなった際に追い腹を切るということが流行のようになったためであるとのこと。

 また「世間」も、このような戦国的武士像を武士に求めていたため、死ぬべき時にしなないと「武士の一分」が立たないということになり、元禄期の殉死になると、自分自身の意地と共に、こうした世間の評判に対する顧慮が、その大きな動機要因になっていたと考えられるとしています。

 「学術文庫」ですが読み易いです。但し、前述の通り、後で書かれたこの著者の本を何冊か読んでしまったので、自分にとっては"繰り返し"になってしまい、新味が薄かったのも正直な感想です(その分、星1つ減。もっと早く文庫化して欲しかった)。

元禄御畳奉行の日記―尾張藩士の見た浮世.jpg江戸藩邸物語―戦場から街角へ.jpg参勤交代.jpg 文中に、神坂次郎氏の『元禄御畳奉行の日記』('84年/中公新書)と氏家幹人氏の『江戸藩邸物語』('88年/中公新書)を参照している部分がありますが、著者自身も『参勤交代』(98年/講談社現代新書)を皮切りに、一般読者向けの新書本を著わすようになり、夕刊紙の連載などもしています。

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第2部・第3部は、「武士道」と『葉隠』のそれぞれに対する著者の考え方のエッセンス。

『葉隠』の武士道.gif山本 博文 『『葉隠』の武士道―.jpg
『葉隠』の武士道―誤解された「死狂ひ」の思想 (PHP新書)』 ['01年]

 全3部構成で、第1部「鍋島家の家風」で『葉隠』の口述者・山本常朝の属した鍋島藩の家風について解説し、第2部「武士を取り巻く世界」で、『葉隠』を中心に、当時の武士らしさとはどのようなものであったかを探り、第3部「『葉隠』の「思想」」で、「鍋島家」と「武士社会・世間」というそれらの背景ベースに、『葉隠』の根底にある思想の実態を批判的に検証しています。今回は再読でしたが、読んでいて、かなり驚いたり、目から鱗が落ちる思いをしたはずなのに、細かい内容は結構忘れているものだなあと。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか.jpg 第2部「武士を取り巻く世界」では、武士にとって戦場で手柄をあげることも討ち死にすることも同等に名誉なことであり、そのために、江戸時代に入っても、死ぬ(法的に処罰を受ける)とわかっていて争い(喧嘩を含む)に臨むケースもあり、要する、に面子にこだわっただけ命は軽かったし、その「武士の一分」は、価値観としては、法の論理(喧嘩両成敗など)をも上回るものだったということが書かれています。

 著者によれば、赤穂浪士の討ち入りなども、主君の怨念を晴らすためではなく、そのままでは浪士たちが武士としての面目を保てないがためになされたということで、この第2部の部分は、著者の『武士と世間―なぜ死に急ぐのか』('03年/ 中公新書)(個人的評価 ★★★★☆)にそのまま引き継がれています。

男の嫉妬 武士道の論理と心理.jpg 一方、第3部「『葉隠』の「思想」」では、『葉隠』という書の背後に見え隠れする功利主義や自己弁護を抽出し、鍋島綱茂が常朝に必ずしも信を置いていなかったことを、著者自身も頷けるとしていますが、要するに、『葉隠』というのは、隠遁した老人が説く処世術に過ぎず、そこにあるのは見せかけの忠義または傍観者的態度だと手厳しい非難をしていますが、この部分は。著者の『男の嫉妬―武士道の論理と心理』('05年/ ちくま新書)(個人的評価 ★★★)に引き継がれているように思います。

 但し、『男の嫉妬』の方は、そうした『葉隠』の記述に、常朝という人の持つ、根拠が脆弱な割には高いプライドだけでなく、「男の嫉妬心」が窺えるとしていて、その心性に踏み込んでいて、個人的には、果たしてそこまで言えるかなあとも思いました。その点、本書は、そこまではさほど踏み込んでおらず、『葉隠』は姑息な「ただのことば」として孤立して、「我々は、『葉隠』を決して評価してはならない」という結語で終わっているだけで、こちらの方が、論としてすっきりしているように思えます。

葉隠入門.png また、本書でも俎上に上っている三島由紀夫の『葉隠入門―武士道は生きている』('67年/カッパ・ブックス)(個人的評価 ★★★☆)については、確かに三島は、『葉隠』の理想の武士像に自分を重ねて、アナクロ的な死を選んだのかも知れませんが、『葉隠』の処生術的な要素は充分に認識していて、むしろそれを面白がっている風でもあります。三島はその部分と「死に狂い」の部分を分けて(或いは表裏で)考えたのではないでしょうか。『葉隠』にエピキュリアニズムさえ見ています。但し、そのエピキュリアニズムは「一念を持って生きよ」というストイシズムの裏返しであり、小事に煩わされたりトラブルに巻き込まれることなく、大事に敢然とした行動がとれるよう備えよという解釈だと思うのですが。

サムライとヤクザ.png 本書を読んでいて、「喧嘩」を介して、武士の論理とやくざの論理に共通項が見られる(自己の面子が潰され時に、しかるべき報復ができるかどうかという価値観)との記述があり、これも、著者がどこか別のところでも書いていたのではないかと思ったら、著者の本ではなく、氏家幹人氏の『サムライとヤクザ-「男」の来た道』('07年/ちくま新書)(個人的評価 ★★★)でした(タイトルそのものだった)。氏家氏の本を読んだと時はやや疑問符だったけれど、やはりそうなのかなあ。

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武士道のを説く者の裏側にある嫉妬心。男の嫉妬は、屁理屈を伴う?

男の嫉妬 武士道の論理と心理.jpg 男の嫉妬 武士道の論理と心理2.jpg 山本 博文氏.jpg 山本博文 東京大学史料編纂所教授/略歴下記)
男の嫉妬 武士道の論理と心理 (ちくま新書)』〔'05年〕

 江戸時代のエリート階層であった武士がその価値観・倫理観の拠り所とした武士道ですが、その実践や評価をめぐっては、背後に「男の嫉妬」の心理が働いていたことを、多くの史料を読み解きながら明かしています。

 例えば、江戸初期の辛口御意見番・大久保彦左衛門が、「崩れ口の武辺」(退却する敵を追って仕留めた武勲)で出世した者を貶しているのは、自らが戦国時代に激戦を生き抜いたプライドがあるためで、中途半端な「武辺」で出世する輩を批判する背後には、著者の言うように、ある種の嫉妬心もあったのかも。

 著者によれば、「男の嫉妬」とは彦左衛門の例のように、かくあるべきというそれぞれの正義感や自負心に裏打ちされたものだったということで、そのため多少理不尽であってもある面では理屈が通っているため、容認され続けてきたということです。

 和田秀樹氏の『嫉妬学』('03年/日経BP社)を引き、「男の嫉妬」には、「あいつに負けてなるか」と相手を乗り越えようとする積極的動機付けに繋がる「ジェラシー型」の嫉妬と、ただ相手を羨み足を引っぱろうとする「エンビー型」の嫉妬があり、"鬼平"こと長谷川平蔵の後任だった森山孝盛の、人気者だった平蔵に対する批判などは、「エンビー型」であると。

 本書で一番こてんぱにやられているのが、『葉隠』の山本常朝で、主君亡き後自らが出家したことを殉死したことと同じ価値があるとし、自らが藩で唯一の武士道の実践者であるという意識のもとに物言っていて、これも裏返せば「嫉妬心」の表れであると。

 戦乱の世が去り、泰平の時代が続くと、まったく身分の違う者の出世は気にならないが、同格者同士がそれまで年功序列で処遇されていた中で、誰か1人だけ抜擢人事の対象になったりすると、「エンビー型」嫉妬が噴出したようで、この辺りは、今の日本のサラリーマン社会と変わりません。

 江戸武士の武士道意識の話と、階層社会での出世と周囲の感情という現代に通じる話が相俟って、サラリーマンが通勤途上で読むにはちょうどよいぐらいの内容と読みやすさですが、個人的には、著者の今までの本とネタがかなり被っていて、新味に乏しかった...。
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山本 博文 (東京大学史料編纂所 教授)
1990年、『幕藩制の成立と日本近世の国制』(校倉書房)により、東京大学より文学博士の学位を授与。1991年、『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社)により第40回日本エッセイストクラブ賞受賞。
江戸幕府の残した史料の外、日本国内の大名家史料を調査することによって、幕府政治の動きや外交政策における為政者の意図を明らかにしてきた。近年は、殉死や敵討ちなどを素材に武士身分に属する者たちの心性(mentality)の究明を主な課題としている。
主な著書に、『徳川将軍と天皇』(中央公論新社)、『切腹』(光文社)、『江戸時代の国家・法・社会』(校倉書房)、『男の嫉妬』(筑摩書房)、『徳川将軍家の結婚』(文藝春秋社)『日本史の一級史料』(光文社)などがある。

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史料から浮かび上がる武士道の本質。武士こそ最も「世間」に左右されていた。

武士と世間 なぜ死に急ぐのか.jpg   武士道.jpg  山本 博文氏.jpg 山本博文 東京大学史料編纂所教授/略歴下記)
武士と世間 なぜ死に急ぐのか 中公新書 1703』〔'03年〕 新渡戸稲造 『武士道 (岩波文庫)』(矢内原忠雄訳)

 新渡戸稲造(1862-1933)の『武士道』に「サムライはなぜ、これほど強い精神力をもてたのか?」という副題をつけたのは歴史家の奈良本辰也(1913-2001)ですが、本書の著者によれば、『武士道』は、武士道の理想を語ることに偏りすぎているためその「?」に答えるものとなってはおらず、武士の高い倫理性や無私の精神は、実は「内面的な倫理観」よりもむしろ「武士の世間」からの強い圧力によって形成されたものであると―。本書では、多くの史料からそのことを明らかにしています。

 武士にとって戦場で手柄をあげることも討ち死にすることも同等に名誉なことであり、そのために、死ぬとわかって戦に臨むケースもあり、また、主君が亡くなったときに殉死するのは「名誉ある死」のチャンスであり、強く制止されたにも関わらず追い腹を切った下級武士も多くいたようです。

 赤穂浪士の例を見ても、少なくとも討ち入りメンバーに加わり最後まで残った志士たちは、死ぬことを当然と思い切っていたようですが、その根底においては、この場を逃れた場合は、家の面目は潰れ、自分も武士として生きていくことは出来ないという、忠誠心よりむしろ世間に対し面目を立てることの方が動機付けとなっていたことが窺えます。

 殉死すべきと思われる人物が殉死しなかった場合、世間から冷ややかな眼でみられたということで、武士というのもたいへんだなあという印象を受け、これでは、武士の「義理」ではなく世間体のために死ぬようなものではないかとも思いましたが、こうした感想も現代人の感覚に基づくものらしく、「義理」や「武士の一分」は内的な倫理意識としてあり、それが「世間」の評価と一致していたのだと。
 井原西鶴の小説に描かれる武士などを見ても、個人のメンタリティとしては、「武士としての義理」と「世間に対する義理」は未分化だったようです。

 「武士の一分」というのは、主従関係から離れた個人の面子みたいなものですが、やはり名誉意識であるには違いなく、面白いのは、西鶴の『武家義理物語』の中に、同じ内面的倫理観である「一分」と「義理」とが相克する仇討物があり、ここでは「義理」が上に格付けされているようです。

 赤穂の義士たちも、幕府の裁定に従うという「義理」に反して自らの「一分」を貫いたために切腹せざるを得なかったともとれますが、「義理」にしろ「一分」にしろ、「世間」の眼が背後にあったと本書は結論づけていて、強固な意志で自らの行動を律していたと思われる武士こそが、最も「世間」に左右されていたという本書の指摘は、ある意味刺激的なものでした。
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山本 博文 (東京大学史料編纂所 教授)
1990年、『幕藩制の成立と日本近世の国制』(校倉書房)により、東京大学より文学博士の学位を授与。1991年、『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社)により第40回日本エッセイストクラブ賞受賞。
江戸幕府の残した史料の外、日本国内の大名家史料を調査することによって、幕府政治の動きや外交政策における為政者の意図を明らかにしてきた。近年は、殉死や敵討ちなどを素材に武士身分に属する者たちの心性(mentality)の究明を主な課題としている。
主な著書に、『徳川将軍と天皇』(中央公論新社)、『切腹』(光文社)、『江戸時代の国家・法・社会』(校倉書房)、『男の嫉妬』(筑摩書房)、『徳川将軍家の結婚』(文藝春秋社)『日本史の一級史料』(光文社)などがある。

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世間に人気のあった平蔵がなぜ町奉行になれなかったのかを解明。

鬼平と出世 旗本たちの昇進競争.jpg 『鬼平と出世―旗本たちの昇進競争 (講談社現代新書)』〔'02年〕 旗本たちの昇進競争 鬼平と出世.jpg 『旗本たちの昇進競争―鬼平と出世 (角川ソフィア文庫 337 シリーズ江戸学)』〔'07年〕

 池波正太郎が「鬼平犯科帳」シリーズのモデルとした旗本の長谷川平蔵(1745-1795)は、1787年から8年間、火付盗賊改を務めていますが、当時の噂話を集めた『よしの冊子』をもとに、彼の仕事ぶりや世間の評判、上司の評価などを読み解き、世間に人気のあった彼がなぜ町奉行になれなかったのかを解き明かしています。

 本書によれば、実際に彼には実力があり、また、不正には厳しく部下や弱者には慈悲深いその姿勢は、周囲や世間から歓迎されたようですが、一方で、前科者を目明しとして使用したり、スタンドプレイが多いことで、一部に反感も買っていたようです。

 何よりも、田沼意次失脚後に権力者となった松平定信が、平蔵の功績は認めたものの「山師」的人物というふうに彼を見ていて、平蔵本人は、出世して私腹を肥やそうというのではなく、世に貢献したいという気持ちで出世を強く望んでいましたが、上司とそりが合わなくてはどうしようもなく、頭打ちになってしまったようです。

 まあ世にライバルは多くいたようで、本書後半でスポットが当てられている平蔵の後任の、平蔵とは異なる知性派タイプの森山孝盛も、猟官活動を熱心にやったにも関わらず、町奉行になれないで終わっています(平蔵とは逆に、その杓子定規な性格が評価面で災いしたとも言える)。

 田沼時代に森山の同僚が、同格者に対する接待の席でブランド羊羹の1つ格下の羊羹を出して後で詮索された話などは、人望獲得を巡る悲喜劇と言え、江戸時代の"サラリーマン"も、出世しようとするならば、なかなか大変だったのだなあと。

サラリーマン武士道 江戸のカネ・女・出世.jpg 『サラリーマン武士道』('01年/講談社現代新書)に続く週刊誌連載コラムの新書化で、内容と共に黒鉄ヒロシの絵も楽しめ、また本書では、長谷川平蔵と森山孝盛の2人に焦点を絞っているために、コラムとコラムの繋がりがスムーズで一気に読めます。

 現代のサラリーマン生活との類似による身近さ、読みやすさのためか、'07年には、『旗本たちの昇進競争』(角川ソフィア文庫)として文庫化されています。

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「幕府が大名に参勤交代を義務づけたのは、その経済力を奪うため」は俗説似すぎないと。

参勤交代.jpg参勤交代2.jpg 『参勤交代 (講談社現代新書)』〔'98年〕 江戸お留守居役の日記.jpg 江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸 (講談社学術文庫).jpg 『江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸』〔'94年/講談社文庫〕/『江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸 (講談社学術文庫)』〔'03年〕
歌川広重「東海道五十三次」(日本橋)
日本橋 参勤交代 広重.jpg 著者は、東京大学史料編纂所の先生で、「日本エッセイスト・クラブ賞」を受賞した『江戸お留守居役の日記』('91年/読売新聞社、'94年/講談社文庫)が、"エッセイ"のわりには結構アカデミックだったのに対し(その後、講談社学術文庫に収録)、近年の著作はかなりわかりやすいものが多いような気がします。

 ただし、史料の読み込みは当然のことながらしっかりしていて、本書では、大名が江戸と各藩を往復した参勤交代制度の成立やその変遷、大名行列の実態や道中でのトラブルの対応・予防などがどのように行われたかが、史料を丁寧に読み込み、わかりやすく解説されています。                  

山本 博文 『参勤交代』プロ.jpg参勤交代2.jpg 参勤交代の行列は、加賀前田家などの最大規模のもので数千人、遠方の藩だと江戸まで1箇月以上の旅程となり、その費用は現在価値で数億円にもなったことを、詳細な史料から細かく試算しています。今でも「加賀百万石祭り」など各地の祭りで大名行列が再現されていますが、当時デモンストレーション的要素もあって、徳川吉宗などは簡素化を図ったようですが、なかなかそうもいかなかったらしいです。

 しかし、参勤交代の費用を藩財政の中に置いて考えると、その費用は確かに巨額ですが、財政全体に占める割合は数パーセントに過ぎず、幕府が諸大名に参勤交代を義務づけたのは、その経済力を奪おうとしたためだというのは俗説に過ぎないとのことです。

 参勤交代は、大名の幕府への服従儀礼であり、幕府はこれにより諸藩の地方分権の強化を抑え、中央集権体制を260年維持することができたと見るのが、正しい見方のようです(政権安定期の将軍・吉宗には、その辺りの目的認識があまり実感としてなかった?)。

 ただし、著者が作成した藩の損益計算書から読み取れるのは、江戸藩邸をはじめ出先機関の維持費が諸藩の財政を圧迫していている点で、参勤交代制を「行列」ではなく「制度」として捉えた場合、やはり、本来目的とは別に、諸藩の財政に大きな負担を強いていた制度であったことには違いないように思えます。

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