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当事者性問題を超えた力や巧みさがあった。ラストは評価が分かれるか。

市川沙央 氏
『ハンチバック』
2023(平成5)年・第128回「文學界新人賞」、2023(平成5)年上半期・第169回「芥川賞」受賞作。
井沢釈華の背骨は右肺を押しつぶす形で極度に湾曲し、歩道に靴底を引きずって歩くことをしなくなって、もうすぐ30年になる。両親が終の棲家として遺したグループホームの、10畳ほどの部屋から釈華は、某有名私大の通信課程に通い、しがないコタツ記事を書いては収入の全額を寄付し、18禁TL小説をサイトに投稿し、Twitterの零細アカウントで「生まれ変わったら高級娼婦になりたい」とつぶやく。幼少期に「背骨の曲がらない正しい設計図に則った人生」の道から外れた釈華は、「普通の人間の女のように子どもを宿して中絶するのが私の夢」だと思う。釈華のもとには、ヘルパーが訪れていた。両親の配慮で、入浴介護は必ず同性のヘルパーが付き添うようにしていたが、コロナ禍の中どうしても人員調整ができず、釈華の了承のもと男性ヘルパーの田中が来るようになった。入浴介護は何事もなく終わったが、その後、急に田中から、釈華が運用しているTwitterの話題をされる。田中は釈華のTwitterアカウントを特定していたのだ。釈華の中絶への興味を知った田中は、そこから思わぬ行動に出て―。
先天性ミオパチーによる側弯症の主人公は、作者も同様の境遇であり、当事者ということになります。選考員会での圧倒的な推挙を経ての芥川賞受賞です。特に、平野啓一郎、吉田修一、山田詠美、川上弘美の4氏が推しましたが、9人の選考委員の内これだけ◎評価の人がいれば、まあ「決まり!」という感じでしょう。実際、芥川賞受賞作にしては珍しく(笑)読ませる作品でした。
選評で平野啓一郎氏は「難病当事者としての実人生が色濃く反映された作品だが、健常者優位主義の社会が『政治的に正しい』と信じる多様性に無事に包摂されることを願う、という態度とは根本的に異なり、障害者の立場から社会の欺瞞を批評し、解体して、再構成を促すような挑発に満ちている」とし(◎積極的賛成)、島田雅彦氏は「露悪を突き抜け、独特のヒューモアを醸し出し、悟りの境地にさえ達している」と評しています(○賛成)。一方、松浦寿輝氏は「フェラチオの挿話をはじめ、複雑な層をなしているはずの主人公の心象の、いちばん激しい部分を極端に誇張する露悪的な表現の連鎖には辟易としなくもない」とも(□消極的賛成)。
こうした選評で少し気になるのは、「当事者小説」であることがどれぐらい議論されたかということですが、選委委員の最終的なコメントを見ると、そのあたりの議論はスルーされている印象も受けます。そうした当事者性問題を超えた力や巧みさがあったということでしょう。その点は個人的に異論は無いのですが、この作品に賞を与えるということが先に決まって、そのためにその議論を意図的にねぐってしまったような気がしなくもないです。
作者が、「(障害の)当事者の作家がいなかったことを問題視してこの小説を書いた」とし、訴えたかったのは「障害者の場合、文化環境も教育環境も遅れている」ということだとして、「障害の当事者作家」と呼ばれること厭わないという態度表明をしていたことも影響があったのでは、という気もします。
また、「文學界新人賞」の選考では、ラストシーンについて意見が別れたようで、どちらかというと否定的な意見が目立っていました。村田沙耶香氏は「この部分がなければもっとよかったという気持ちと、この部分がないこの小説に対して読み手が感じる良さはあまりに傲慢なのではないかという気持ち、両方に襲われ、何度読み返しても意見はまとまらなかった」とし、中村文則氏も「本編にあった明確な強度に対し、このわかりにくいラストでは合っていないと感じた」と。他の委員である金原ひとみ、青山七恵、阿部和重の3氏も、ラストには否定的な見解を述べています。
普通、こうした話は、主人公が夢想するまでで、「そこから先」は行かないものが文芸小説では多い気がするのですが、この作品は「そこから先」に行っているところが衝撃的でした。一方で、ラストの部分は、これはやはり主人公のイマジネーションの世界なのでしょう。個人的には、ちょっと"戻ってしまった"感がありました。この部分を、主人公のさらなる"前進"と解するか、主人公の書く18禁TL小説の単なる延長に過ぎないと解するかで、評価が分かれるもしれません。個人的には露悪的な表現は気にならず(むしろ痛快)、このラストの曖昧さゆえに◎にしませんでした。
【2025年文庫化[文春文庫]】





「おらおらでひとりいぐも」は2017(平成29)年・第54回「文藝賞」受賞を経て、2017(平成29)年下期・第158回「芥川賞」受賞作となった作品。芥川賞選考では、選考委員9人のうち5人が強く推して、積極消極のニュアンスの差はありながら、選考委員のほぼ全員がこれに票を投じたとのことで"圧勝"という感じです。72歳の女性の内面を描いて巧みと言うか、選考委員が推すのも納得という感じで、ある種、ブレークスルー小説になっているのも良かったです。最初は主人公と同じくらいの年齢の人が書いたのかと思いましたが、作者の受賞時の年齢は63歳とのことで、主人公よりやや若く、全部計算して書いていることが窺えます。そのことから、橋本治氏の近作『九十八歳になった私』('18年/講談社)と同じような技法を感じました。「敬老の日」を前に総務省が今日['18年9月16日]に発表した推計人口(15日時点)によると、70歳以上の人口の総人口に占める割合は20.7%で、初めて2割を超えたそうです。超高齢化社会ということで、こうした小説("独居老人小説"?)がこれからどんどん出て来るのでしょうか。






作品が世間で話題になったのは、裕福な家庭で育った若者の無軌道な生活を描いたものであり、また、当時としては"奔放な"性描写が含まれていたこともあるかと思いますが、今読むと、それほど過激でもないという印象です(その分、先の時代を予言していたと言えなくもないが)。'56年に長門裕之、南田洋子主演で映画化されたものも(あまり印象に残ってないが)おとなしい内容だったのではなかったでしょうか(石原裕次郎が脇役で映画初出演、兄・慎太郎もチョイ役で出てる)。「
齋藤美奈子風に言えば、女性が予期せぬ妊娠をすることで男性が悩むという"妊娠小説"ということになるのでしょう。齋藤氏によれば、この"妊娠小説"の典型例が森鴎外の『舞姫』であり、村上春樹の『風の歌を聴け』などもそうであるとのことで、日本の小説の伝統的(?)流れとして綿々と連なっているのだなあと思わされますが、その中でも戦後日本文学の代表作的位置づけにあるのが、この「太陽の季節」ではないかと思います。
素材としては、作者自身の体験ではなく、作者が弟の石原裕次郎から聞いた話が題材になっているそうですが、兄・慎太郎の方は弟・裕次郎よりずっと神経質そうな感じがします。当時ほとんど他の作家の作品などは読んでいなかったと公言していたとは言え、気質的にはどことなく神経質な文学者気質が感じられます("しばたき"に象徴されている)。政界に進出するなどし、無理して強気の姿勢を表に出し続けて何十年、結果として、ああいう豪放磊落なオモテと多感多情なウラを併せ持ったキャラになったのではないでしょうか。



作者の初期の中・短編作品にはこうした生と死が対比的に描かれるものが多い一方、講談社文庫版に併収されている中篇「正午(まひる)なり」のような、ある種の帰郷小説のようなものも多く、後者のモチーフはその後の作品でもリフレインされていて、実際作者は文壇とは交わらず、都会を離れ安曇野に定住していることはよく知られている通りです。
モブ・ノリオ氏



表題作よりは「サイドカーに犬」の方が若干好みですが(と思ったら、表題作ではなく「サイドカーに犬」の方が2007年に根岸吉太郎監督、竹内結子・ミムラ主演で映画化された)、両方の作品とも力量を感じる一方で(特に、「サイドカー...」の女性目線へのなり切りぶりは秀逸)、芥川賞とは少し合わないような気もしました。