2021年4月 Archives

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カンヌでの5作品連続受賞作。格差社会をテーマにしたものがカンヌで賞を獲る傾向が強まった。

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少年と自転車 [DVD]
少年と自転車 ps.jpg少年と自転車1.jpg 施設に預けられている11歳の少年シリル(トマ・ドレ)は、父親に捨てられたという現実を受け入れられず、孤独の中で反抗的な態度を取り続けている。そんなシリルと偶然知り合った美容師の独身女性サマンサ(セシル・ドゥ・フランス)は、シリルに週末の里親になって欲しいと頼まれると、それを受け入れたばかりか、シリルの父親の行方探しを手伝う。サマンサのおかげでようやく父ギイ(ジェレミー・レニエ)と再会できたシリルだったが、自分の生活で手一杯のギイは二度と会いに来るなとシリルを追い返す。ショックを受けたシリルだったが、それから後も週末はサマンサの家で過ごすようになる。サマンサの家で穏やかに過ごしていたシリルだったが、近所の不良少年ウェス(エゴン・ディ・マテオ)に気に入られたことから彼の言いなりになる。サマンサからウェスと付き合わないように言われても耳を貸さないばかりか、止めるサマンサにケガを負わせてまでウェスとの関係を優先したシリルは、ウェスに言われ少年と自転車2.jpgるまま強盗を働く。しかし、シリルが被害者に顔を見られたことを知ったウェスが激昂し、全ての罪をシリルになすりつけようとしたことから、シリルはようやくウェスがシリルを利用していただけだったことを知る。傷ついたシリルは父のもとに行き、盗んだ金を渡そうとするが、父からも見捨てられる。結局、シリルはサマンサの元に戻り、サマンサと警察に出頭する。事件は、サマンサが被害者に損害を賠償し、シリルが被害者に謝罪することで示談で収まる。サマンサと再び穏やかな生活を送るようになったシリルだったが、被害者の息子で自身もシリルに殴られた少年マルタンがシリルを見つけて襲いかかる。逃げ出したシリルは木に登って逃れようとするが、マルタンが投げた石が当たって地面に落ちて気を失う。慌てたマルタンとその父親はシリルが勝手に落ちたことにして、救急車を呼ぼうとするが、そこでシリルの意識が戻る。そして、シリルは自転車に乗ってその場を後にする―。

少年と自転車 w.jpg ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の2011年作品で、第64回カンヌ国際映画祭のグランプリ(審査員特別グランプリ)受賞作であり、タルデンヌ兄弟はこの作品で、「ロゼッタ」('99年)での最高賞のパルム・ドールと女優賞受賞、「息子のまなざし」('02年)での男優賞受賞、「ある子供」('05年)でのパルム・ドール受賞、「ロルナの祈り」('08年)での脚本賞受賞に次ぐ"カンヌでの5作品連続での主要賞の受賞"を達成し、これは史上初のことです。いずれも若者や少年少女の貧困を描いており、この頃から格差社会をテーマにしたものがカンヌで賞を獲る傾向が強まったように思います(是枝裕和監督の「万引き家族」('18年/ギャガ)、ポン・ジュノ監督の「パラサイト 半地下の家族」('19年/韓国)がパルム・ドールを受賞したのもその流れか)。

少年と自転車es.jpg この作品は、ダルデンヌ監督が来日した際に日本で開催された少年犯罪のシンポジウムで耳にした育児放棄の実話("赤ちゃんの頃から施設に預けられた少年が、親が迎えに来るのを屋根にのぼって待ち続けていた"という話)に衝撃を受け、そこから着想したとのことで、親にも社会にも見捨てられた少年シリルが、初めて信用できる大人であるサマンサに出会うことで心を開き、人を信じ成長していく様が描かれています。11歳という年齢で、サマンサに「里親になってほしい」と自分か言うところに、彼の芯の強さと愛情への渇望の強さの両面を見たように思います。

少年と自転車3.jpg この作品の優れている点は、サマンサもまたシリルに愛情を与えることで自分の内にある母性に気づき、人を守ることの責任と喜びを知っていく、そのプロセスが描かれていることにもあります。サマンサにとってシリルは、診療所か何かの待合室で偶然出会っただけの少年だったはずなのに、彼の心の叫び声が聞こえたのでしょうか。シリルが再び罪を犯し、サマンサ自身の心身をも傷つけたにも関わらず、再び「いいわ」と彼を受け入れる場面は、考えさせられます。

少年と自転車 f.jpg 一方、自分の再就職と新しい恋人のためにシリルを捨て(シリルのために恋人と別れたサマンサと対照的)、それまで恐らくシリルを養育していたであろう母親が亡くなると、自分には子育てに自信が持てず、1か月生活が落ち着くまでの辛抱だからとシリルを児童養護施設に入れて姿をくらまし、その後はシリルが何とか会いにきても追い返してしまう父親は、実はシリルの少しでも父に接していたいという気持ちに気づいていながら、優柔不断のまま逃げまくているように見え、その背景には低賃金で子どを養っていけるまでには稼げないという、格差社会の問題があるように思えました。

少年と自転車 b.jpg この作品におけるシリルの自転車は、自分が外の世界と繋がるための手段としての象徴であるように思えました。以上述べてきたこれらをすべてを、説明的描写を排してドキュメンタリータッチで描いているところが、この作品に限らずタルデンヌ監督作品の特徴であり、どこに着眼するか観る人によって微妙に異なってくる作品かと思います。ただ、これまで、いきなり唐突に終わる(結果としてバッドエンドになる)作品が多かった中では、シリルが自分の信頼できて心休まる対象を獲得していく、ハッピーエンド的な作品だったかもしれません。

少年と自転車6.jpg「少年と自転車」●原題: LE GAMIN AU VELO●制作年:2011年●制作国:ベルギー・フランス・イタリア●監督・脚本:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ●製作:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ/ドゥニ・フロイド●撮影:アラン・マルコァン●時間:87分●出演:トマ・ドレ/セシル・ドゥ・フランス/ジェレミー・レニエ/ファブリツィオ・ロンジョーネ/エゴン・ディ・マテオ/オリヴィエ・グルメ●日本公開:2012/03●配給:ビターズ・エンド●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(19-12-03)(評価:★★★★)

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「人を受け入れることから、愛が生まれる。」―罪を犯した者を赦せるかがテーマ。

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息子のまなざし [DVD]」オリヴィエ・グルメ
息子のまなざし  1.jpg息子のまなざし  2.jpg 職業訓練所で働くオリヴィエ(オリヴィエ・グルメ)は、自身が受け持つ木工クラスにある日一人の少年フランシス(モルガン・マリンヌ)が新しく入ってくる。フランシスの顔にハッとしたオリヴィエは仕事を終えた後、離婚した元妻マガリ(イザベラ・スパール)に会って「"あの少年"が訓練所の生徒としてやって来た」と話す。5年前オリヴィエと元妻は、まだ子供だったフランシスに幼い息子を殺されており、少年院を出た彼は指導員が被害者の父親とは知らずに訓練所に訪れたのだった。オリヴィエは元妻の「彼に関わらない方がいい」との意見も聞かず、訓練所で他の少年たちと同じく彼にも木工技術を教え始める。フランシスが息子を殺した状況や動機を知りたくなるオリヴィエだが、とりあえず作業の様子や帰りに一緒に食事をするなどして彼の現在の様子をうかがう。フランシスに事件当時の話をそれとなく聞くことを決めたオリヴィエは、「木の種類を覚えるための勉強」と称してクルマで2人きりで製材所に材木を買いに行くことに。翌日その車中フランシスの方から数年前に盗みなどをして少年院に入ったことを打ち明けた後、オリヴィエに後見人になってくれるよう持ちかける。これに乗じてオリ息子のまなざし  3.jpgヴィエは盗みの話を詳しく聞くと、フランシスは「クルマからカーラジオを盗もうとしたら後部座席にいた子供に見つかり、もみ合ってる内に殺してしまった」と告白する。オリヴィエは息子が殺された当時の話にショックを受けながらも、製材所に着いた後フランシスと必要な材木の長さを計測して持ち帰る作業にかかる。しかしオリヴィエが「お前が殺したのは俺の息子だ」と真実を告げた途端、フランシスが高く積まれた材木置き場に身を隠してしまう。材木の上に登ったフランシスは棒きれをオリヴィエに投げつけて抵抗するが、その後興奮状態で少年を捕まえたオリヴィエは彼の上にまたがり首に両手をかける―。

LE FILS 2002 in Cannes.jpg ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の2002年の作品で、同年のカンヌ国際映画祭「主演男優賞」(オリヴィエ・グルメ(左写真中央))受賞作。日本公開時のキャッチコピーは「人を受け入れることから、愛が生まれる。」で、まさに「赦し」をテーマにした映画でした。

Cannes film festival 2002 - Morgan Marinne/Jean-Pierre Dardenne/Olivier Gourmet/Luc Dardenne/Isabella Soupart

息子のまなざし 7.jpg オリヴィエ・グルメは演じる、職業訓練所の木工クラスの指導員で、生徒たちから先生と呼ばれている、その名もオリヴィエがいいです。あまり感情を表に出すことがなく、いつもぶっきらぼうなものの言い方で、自宅のイスを使って腹筋を鍛えるのが日課。仕事柄5ⅿ程度までの距離なら目視で長さを言い当てることができるというまさに職人。心の中では過去に息子を殺してしまったフランシスに怒りの感情を抱きながらも、表向きはただの先生と生徒として交流を続けますが、そのことで元妻からは尋常ではないと批判されます。

The Son (2002) -.jpg オリヴィエ自身も、最初から確信をもって彼のことを赦すつもりだったようには見えず、どうして、またどうやって彼が息子を殺害したのか知りたい、彼の口から聞きたいという気持ちから、彼を生徒として受け入れたように見えますが、愛情に恵まれない生活を送ってきたと思しき彼を見るうちに、次第に彼に愛情を抱くようになったように見えます。説明を排除したドキュメンタリー風のタッチで撮っているため(さらにはオリヴィエが感情をあまり表に出さないため)、観る側がそうとるしかないのですが...。

 罪を犯した者を許せるかがテーマの作品だと思いますが、それを被害者家族の立場から描き、"果たして人間は最も憎いと思われる人間を受け入れることが出来るのか?"という問いになっているのがポイントです。

 例えば、日本は死刑制度の存置国ですが、欧州先進諸国では死刑制度を残している国はもうありません。死刑制度の意義について、「再犯防止」「犯罪抑止」「遺族感情」などが挙がりますが、犯人による再犯防止は本来なら"更生"させる努力をすべきであり、更生しなければその間は社会から隔離すればよいのであって、また、犯罪全般の抑止効果については、「死刑が他の刑罰に比べて効果的に犯罪を抑止する」という確実な証明は国内でも海外でもなされていません。となると、あと一つは、死刑が廃止されては被害者や遺族の感情が納得いかないという「遺族感情」の問題が残るだけで、実際、同程度の重さの犯罪であっても、被害者や遺族の処罰感情の強弱の違いで刑罰の重さが変わってくるということがあるのが、日本の裁判制度の実態です。

 しかし、犯罪者が死刑になったところで被害者や遺族の感情が癒えるかというと、"処罰感情"という感情の端的な部分においては解消されるにしても、気持ち全体として何か救われるといったことは無かったというのが、大方の被害者や遺族の意識のようです。そう考えると、重罪人に対して死刑を科すのはやむ得ないとし、死刑制度の存置を支持する世論が8割を占めるのが日本の現状ですが、罪を犯した者を許せるかどうかということをもっと考える方向に行くべきではないかと個人的には思います。

 話が死刑制度の方に行ってしまいました。フランシスはまだ16歳の少年であり、映画そのものは、貧困社会と少年犯罪の関係や、いったん犯罪を犯した者の社会復帰の難しさなど様々な社会的問題を内包していますが、"赦し"ということに関して、ちょっとそんなことも考えさせられた作品でした。

息子のまなざし (2002) モルガン・マリンヌ/イザベラ・スパール/オリヴィエ・グルメ
息子のまなざし (2002).jpgLE FILS 2002 Isabella Soupart.jpg「息子のまなざし」●原題:LE FILS●制作年:2002年●制作国:ベルギー・フランス●監督・脚本:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ●撮影:アラン・マルクーン●時間:103分●出演:オリヴィエ・グルメ/モルガン・マリンヌ/イザベラ・スパール/レミー・ルノー/ナッシム・ハッサイー/クヴァン・ルロワ/フェリシャン・ピッツェール/アネット・クロッセ/ファビアン・マルネット/ジミー・ドゥルーフ/アンヌ・ジェラール●日本公開:2003/12●配給:ビターズ・エンド●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(19-10-07)(評価:★★★★)

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イゴールが〈約束〉を守ろうとするのは、そのことが「父親離れ」「父親超え」に重なったからではないか。
イゴールの約束 1997.jpg イゴールの約束01.jpg イゴールの約束02.jpg
イゴールの約束 [DVD]
イゴールの約束 f1.jpg ベルギー。自動車修理工場の見習工のイゴール(ジェレミー・レニエ)は、父ロジェ(オリヴィエ・グルメ)の命令ですぐに仕事を抜けてしまう。ロジェは不法移民の斡旋が仕事で、イゴールは大事な助手なのだ。彼はほどなくクビに。不法移民宿泊施設。ブルキナファソ出身で古株のアミドゥ(ラスマネ・ウエドラオゴ)とその妻アシタ(アシタ・ウエドラオゴ)が赤ん坊を連れてやってくる。ある日、アミドゥが建築現場で作業中、突然移民局の抜き打ち査察があった。アミドゥは重傷を負うが、ロジェは警察沙汰を恐れて医者も呼イゴールの約束 00.jpgばない。傷の手当てもされず、アミドゥはイゴールに妻子の世話を頼んで死ぬ。深夜、ロジェはイゴールに手伝わせて、アミドゥの遺体をコンクリートの土台に埋め込む。翌朝、アシタは夫のことでイゴールを問い詰める。彼女のところには、男たちがアミドゥがギャンブルで作った借金の取り立てに来ていた。イゴールは彼女を助けようと金を渡すが、ロジェに知られて殴られる。ロジェはアシタを追い出そうとしていた。ロジェはアシタにアミドゥの名前で偽の電報を打つ。アシタを騙して連れ出し、イゴールの約束 3.jpg娼婦として売ろうというロジェの企みを知ったイゴールは、母子を連れて家出する。イゴールが勤めていた修理工場に3人は泊まるが、夜中に赤ん坊が熱を出し、アシタは半狂乱に。病院に転がり込むと、親切な係官と、アシタと同じアフリカ系のロザリー(クリスチャン・ムシアナ)が世話を焼いてくれた。アシタは赤ん坊を連れてイタリアの叔父さんの元へ行こうと決心。身分証明書はロザリーが借してくれた。イゴールはロジェからもらった指輪を売って旅費を作る。翌朝、ロジェが工場に現れ、イゴールに家を戻ってアシタ母子を引き渡せと命令する。イゴールは父親の言いつけを初めて拒絶し、ロジェを鎖で繋いで、アシタと駅へ急ぐ。ホームへ向かう途中、イゴールはアシタにアミドゥは亡くなったと真実を明かすと―。

LA PROMESSE a.jpg ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督の1996年の作品で、長編第3作。カンヌ映画祭「ある視点」部門で注目され、パリで小規模公開ながらロングランを記録しています。

 この映画には幾つか感想や意見があるようで、一つは、仕事場で客の財布を盗むような素行の良くない不良で、父親の言いなりになってその不法移民の斡旋を手伝っていた、そんなイゴールが、死んだアミドゥが最期に「女房と息子を頼む」と彼に言い残した、その〈約束〉をなぜそんなにまでして守ろうとしたのかよくわからなかったというもの。世の中の格差と不正の犠牲になって喘ぐ人に感情移入し、正義感に目覚めたとするとあまりにキレイごと過ぎるのではないかというものです。

イゴールの約束 f2.jpg 個人的には、確かに彼の行動の動機として正義感みたいなものが無かったわけではないと思いますが、むしろ、今まで父親に言いなりになっていたのが、そこから逃れようとする"第二の自我"のようなものが生まれてきたということではないかと思います。つまり、アミドゥとの〈約束〉を守ることが、彼にとっては「父親離れ」乃至は「父親超え」に重なったからではないかと思います。

ジェレミー・レニエ/オリヴィエ・グルメ

 イゴールがあちこちへと奔走する中で、少しずつ彼の価値観が変化していく姿がよく、それでも事はスンナリはいかず、アミドゥの死をアシタに「正直に話そうよ」と父親に言いって争いになる一方、自身もアミドゥの妻にはなかなか事実を告げられないもどかしさを抱えて葛藤します。そしてラスト、アシタ母子を海外に逃がしてハッピーエンドかと思ったら、この兄弟監督はそう甘くなかったです。

 「えっ」と言うような終わり方。このラストでイゴールがアシタにアミドゥは亡くなったことを明かした行為についても様々な意見があるようです。果たしてそれが良かったのかということですが、良かったどうかは彼の判断能力の限界を超えていて、ただ彼の心の中ではアミドゥの妻に嘘をつき続けるのは後ろめたく、本当のことを言わずにはおれなかったということでしょう。

 彼女を海外に逃がすことを優先して、今はアミドゥが亡くなったことは言わないでおく―といったことは、子どもであるイゴールには出来かねたというのがまさにリアリズムであり、この"苦い"結末は、ドキュメンタリー出身の監督らしいとも言えます

LA PROMESSE 1996.jpgイゴールの約束 5.jpg「イゴールの約束」●原題:LA PROMESS●制作年:1996年●制作国:ベルギー・フランス・ルクセンブルク●監督:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ●製作:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ/ハッサン・ダルドゥル クロード・ワリンゴ ジャクリーヌ・ピエルー●脚本:ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ/レオン・ミショー/アルフォンソ・バドロ●撮影:アラン・マルクーン●時間:93分●出演:ジェレミー・レニエ/オリヴィエ・グルメ/アシタ・ウエドラオゴ/フレデリック・ボドソン/ラスマネ・ウエドラオゴ●日本公開:1997/05●配給:ビターズ・エンド●最初に観た場所:北千住・シネマブルースタジオ(19-09-20)(評価:★★★★)

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再見で4人目の「マルクス兄弟」ゼッポ・マルクスを確認した「我輩はカモである」。

「我輩はカモである」d2.jpg 「我輩はカモである」d1.jpg 「オペラは踊る」2.jpg 「オペラは踊る」d1.jpg 地獄の観光船 (1981年).jpg
我輩はカモである [DVD]」「我輩はカモである [DVD]」「マルクス兄弟オペラは踊る 特別版 [DVD]」「マルクス兄弟 オペラは踊る [DVD]」小林 信彦 『『地獄の観光船 (1981年)

「我輩はカモである」gg.jpg フリードニア共和国は財政難に喘ぐ中、実力者のティーズデール夫人(マーガレット・デュモント)に援助を求めた。彼女はルーファス(グルーチョ・マルクス)を宰相にするという条件を出したうえで承諾し、かくしてルーファスは首相になる。一方、フリードニア共和国の乗っ取りを企てていた隣国シルヴェニアの大使トレンティーノ(ルイス・カルハーン)は、夫人に色仕掛けで接近する一方、スパイのチコリーニ(チコ・マルクス)とピンキー(ハーポ・マルクス)の二人組を送り込む。ところがルーファスは二人を側近にしたので、混乱に拍車がかかってしまい、ついにシルヴェニアと開戦、議会で首相と国民は「いざ開戦」と歌い狂う―。

 1933年のマルクス兄弟主演作で、監督は後に「聖メリーの鐘」('45年)や「めぐり逢い」('57年)を撮るレオ・マッケリー(全然、作風が違う)。末弟ゼッポ・マルクス最後の出演映画であるとのことですが、ゼッポ・マルクスって誰だっけ―と名前はすぐに浮かぶが顔は浮かばなかったのが、最近この作品を観直してみて、ルーファスの秘書官という地味な役で出ていたのが確認できました。

「我輩はカモである」th.jpg「我輩はカモである」b.jpg もう一度整理してみると、マルクス兄弟はチコ、ハーポ、グルーチョ、ガンモ、ゼッポの5人兄弟で、チコ・マルクス(1887-1961/74歳没)が「マルクス兄弟」における長男(実際には、1886年に誕生し同年に死去した長男マンフレッドがチコの上にいる)。古「我輩はカモである」hc.jpgぼけた服と、チロル帽で個性を出していて、この映画然り(マルクス兄弟はユダヤ系だが、彼は風貌もどこかイタリアンっぽい)。

ハーポ・マルクス.jpg 次男はハーポ・マルクス(1888-1964/75歳没)で、決して喋らないことで有名だったキャラクターで、大きなコートのポケットからハサミなど様々なアイテムを取り出すことで笑いを生むのが定番。得意のハープ演奏は映画でも定番で、殆どの作品でハーポの演奏シーンが用意されています。

「我輩はカモである」g1.jpg「我輩はカモである」g2.jpg 三男はグルーチョ・マルクス(1890-1977/86歳没)で、早口でまくしたてるのがトレードマークで、この作品でもそうですが、兄弟の中でも中心的な役回りを演じることが多かったです。喋りの才能が卓越していて、「マルクス兄弟」としての活動が終わった後も、ラジオ番組やテレビ番組のホストとしての活躍しました。

 四男はガンモ・マルクス(1893-1977/83歳没)で、第一次世界大戦の際に徴兵され役者としての活動を止め、退役後は実業家に転じているので、この人を映画では見かけないのも無理はないです。

「我輩はカモである」4.jpg そして、五男がゼッポ・マルクス(1901-1979/78歳没)。チコ、ハーポ、グルーチョ、ガンモの4人の兄が、音楽・喜劇グループとしてヴォードヴィルの舞台に立っていたところ、第一次世界大戦へとガンモが徴兵されたことで、それと入れ替わりで4人目の「マルクス兄弟」として参加。しかしながら、この映画でもそうですが、イケメンなのですが「フツーの人」っぽい役ばかりで、この作品が最後の映画出演作となりました。ミュージカル・シーンで群舞になると、大勢に中から3人ならぬ4人が前に出てきて、その内、端っこの方で一人まともな軍服を着て踊っているのがゼッポ・マルクス。グルーチョ演じる新宰相が、チコとハーポ演じるスパイを自ら側近してしまったのでこの3人が並ぶのは分かりますが、あと一人は誰だったけと思えばゼッポであり、宰相の秘書官役だから宰相や側近と並んで踊るのも、これはこれで整合性はとれているのかと。

 この作品は、グルーチョ演じるルーファスが独裁者に模されていて、ファシズムを痛烈に風刺した内容である一方、ひたすらナンセンスな笑いとアナーキーな風刺に徹したために(ギャクが当時としてしては先鋭的過ぎたのか)、後の高い評価とは裏腹に公開時には興行的に振るわず、そのため兄弟はパラマウントをクビになっています(グルーチョ・マルクス自身も、この作品は「狂気が過ぎている」と述べ、失敗作とみなしている)。

 その失業した4人を拾ったのが・スコット・フィッツジェラルドの遺作『ラスト・タイクーン』の主人公モンロー・スター(エリア・カザン監督による1976年の映画版では、ロバート・デ・ニーロがその役を演じた)のモデルとされる、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー社(MGM)の映画プロデューサー、アーヴィング・タルバーグです。

「オペラは踊る」1.jpg 4人がMGMに移籍して最初に撮ったのがサム・ウッド監督の「オペラは踊る」('35年)でした(ゼッポはもう出ていないが)。そのあらすじは―

イタリアのミラノで大富豪の未亡人(マーガレット・デュモント)をたらしこんで、オペラのアメリカ巡業の資金を手に入れた詐欺師のドリフトウッド(グルーチョ・マルクス)は、一座を率いて意気揚々と米国行きの船に乗り込んだが、そこには無名歌手のひと癖ありそうなマネージャーと助手が入り込んでいて大騒動に。一座は、ようやっと米国に到着し、公演の初日を迎える―。

小林信彦.jpg マルクス兄弟のパラマウント時代の代表作が「我輩はカモである」であるとすれば、MGM時代の代表作はこの「オペラは踊る」であるのが一般的な評価かと思われますが、マルクス兄弟のファンとして知られる小林信彦氏などは、パラマウント時代の作品は高く評価していて「我輩はカモである」などは「名作」としているものの、MGM時代の作品は、「オペラは踊る」を含め、あまり評価していないようです(『地獄の観光船』('81年/集英社)など)。小林氏は、グルーチョ・マルクスは「オペラは踊る」を撮り終えたあたりでもう仕事を"投げた"としていました。

「オペラは踊る」3.jpg 個人的には、強い風刺と強烈なギャグで突っ走った「我輩はカモである」が興行的にコケたので、「オペラは踊る」でマイルドな作りに方向転換したのかなあと。船室に数えきれない人間が入り込むシーンは、バスター・キートンのアイデアによるものだそうですが、笑いの性質も少し違っているように思います。

淀川長治.jpg さらに、淀川長治はマルクス兄弟について「映画ではなく舞台である」と喝破しており、実際、彼らの初期の傑作は、舞台でのヴォードヴィル・コメディをほぼそのまま映画で再現したものであったとのこと(当時、スラップスティック・サイレント・コメディの有名なスターたちは、ヴォードヴィルやミュージック・ホールに出演したのちに映画産業に入った。チャップリン然り)。それが、MGMに移って、フツーの映画の撮り方になり、それまでより洗練されているものの個性は弱まって、ともすると他の多くの映画の中に埋没してしまうような作品が多くなっていったということではないでしょうか(「オペラは踊る」はまだいい方か)。

 バスター・キートンが辿った道と似ている印象を受けます。バスター・キートンも、自身の撮影所で撮るのを止め、MGMに移ってから完全にダメになりました。サイレントからトーキーに変わってダメになったのではなく、MGMに移って、パターナルな撮影方法になってしまいダメになったのです。

「我輩はカモである」p2.jpg「我輩はカモである」p.jpeg「我輩はカモである」●原題:DUCK SOUP●制作年:1933年●制作国:アメリカ●監督:レオ・マッケリー●製作:ハーマン・J・マンキーウィッツ(クレジット無し)●脚本:アーサー・シークマン/ナット・ペリン●撮影:ヘンリー・シャープ●音楽:ジョン・レイポルド●時間:68分●出演:グルーチョ・マルクス/チコ・マルクス/ハーポ・マルクス/ゼッポ・マルクス/マーガレット・デュモント/ルイス・カルハーン/ラクウェル・トレス/エドガー・ケネディ/エドモンド・ブリーズ/エドウィン・マクスウェル/ウィリアム・ウォーシントン/チャールズ・ミドルトン●日本公開:1934/01●配給:パラマウント映画●最初に観た場所:池袋文芸座ル・ピリエ(86-02-01)(評価:★★★★)●併映:「キートン 将軍」(バスター・キートン)

「オペラは踊る」4.jpg「オペラは踊る」p.jpg「オペラは踊る (マルクス兄弟 オペラは踊る)」●原題:A NIGHT AT THE OPERA●制作年:1935年●制作国:アメリカ●監督:サム・ウッド●製作:アーヴィング・タルバーグ(クレジット無し)●脚本:ジョージ・S・カウフマン/モリー・リスキンド●撮影:メリット・B・ガースタッド●音楽:ハーバート・ストサート●時間:96分●出演:グルーチョ・マルクス/チコ・マルクス/ハーポ・マルクス/キティ・カーライル/アラン・ジョーンズ/ウォルター・ウルフ・キング/シグ・ルーマン/マーガレット・デュモント●日本公開:1936/04●配給:メトロ・ゴールドウィン・メイヤー●最初に観た場所:ユーロスペース(84-01-29)(評価:★★★☆)●併映:「マルクスの二挺拳銃」(エドワード・バゼル)

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3年連続でのミステリランキング4冠。二転三転するラストに引き込まれた。

その裁きは死 .jpgその裁きは死 全制覇.pngその裁きは死 11.jpg
その裁きは死 ホーソーン&ホロヴィッツ・シリーズ (創元推理文庫)

『その裁きは死』3.jpgその裁きは死 3年連続4冠2.png 実直さが評判の離婚弁護士リチャード・プライスが殺害された。未開封のワインボトルで殴打され、砕けたボトルで喉を刺されていたのだが、これは裁判の相手方が彼に対して口走った脅し文句に似た方法だっThe Sentence is Death.jpgた。プライスは一千万ポンドの財産をめぐる離婚訴訟を受け持っていて、その相手はアキラ・アンノという有名な小説家であり、彼女は多くの人がいるレストランで、プライスにワインのボトルでぶん殴ってやると脅しともとれる言葉を言い放っていたのだ。現場の壁には謎の数字"182"がペンキで乱暴に描かれていて、、被害者は殺される直前に奇妙な言葉を残していた。私ことアンソニー・ホロヴィッツは、元刑事の探偵ホーソーンによって、この奇妙な事件の捜査に引き摺り込まれていく―。

 2016年原著刊行の『カササギ殺人事件』、2017年原著刊行の『メインテーマは殺人』に続く2018年11月原著(The Sentence Is Death)刊行の創元推理文庫版第3弾で、この作品で、「このミステリーがすごい!」2021年版(宝島社) 第1位、「週刊文春年末ミステリランキング.jpgミステリーベスト10」(週刊文春2020年12月10日号)第1位、「2021本格ミステリ・ベスト10」(原書房)第1位、「ミステリが読みたい!」(ハヤカワ・ミステリマガジン2021年1月号)第1位を獲得し、3年連続ミステリランキング全制覇、つまり3年連続での4冠を達成しています。

 本書は、『メインテーマは殺人』に続く著者のアンソニー・ホロヴィッツが語り手となり、変わり者の元刑事のホーソーンとともに奇妙な事件の捜査に挑むシリーズの第2弾です。『メインテーマは殺人』を最初に読んだ時、解決できるかどうか分からない事件について、それをありのままミステリとして書こうとする作家がいるだろうかという疑問を自ずと抱いたものの、面白く読めたためにそのあたりは気にならなくなって、それが2作目も同じ設定となると、もうこのシリーズのお約束事として納得してしまうから不思議なものです。

 6人の容疑者の誰が犯人であってもおかしくないといった設定はアガサ・クリスティの系譜と思わされますが、一方で、ラストではしっかりコナン・ドイルへのオマージュが込められていました。このあたりはクリスティ、ドイルのファンは嵌るかと思いますが、それらを読んでなくとも十分愉しめます。

 それにしてもこのラストの二転三転する展開には魅了されました。「私ことアンソニー・ホロヴィッツ」が自らも元刑事の探偵ホーソーンに負けまいと必死に推理を張り巡らすも、結局はホーソーンはずっと先を行っていたわけで、ホームズとワトソン、ポワロとヘイスティングズの関係の相似形になっているのも楽しいです(作者は過去にTVドラマシリーズ「名探偵ポワロ」の脚本も11作担当している)。

アンソニー・ホロヴィッツがITVの「刑事フォイル」(2002-2015)の脚本家であり、妻のジル・グリーンが「刑事フォイル」のプロデューサーであるというのは事実で、ワトソン役を作者自身とするにあたって、こうした事実を織り交ぜて入れ子構造にしているのが、「作者自身もこの先どうなるか分からない」感があって上手いと思います。

 「3年連続での年末ミステリランキング4冠」に納得。個人的には、シリーズ第1作の『メインテーマは殺人』を超えているように思いました。作者は、今年[2021年]、『カササギ殺人事件』の続編Moonflower Murdersを刊行予定とのことで、そちらでは探偵アティカス・ピュントと編集者スーザンが再登場するとのことです。こちらも楽しみです。

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映画と異なる結末。小説は小説的に書かれ、映画は映画的に作られているが、軍配は映画か。

Modern Classics a Clockwork Orange.jpg時計じかけのオレンジ 完全版.jpg アントニイ・バージェス.jpg  時計じかけのオレンジ dvd.jpg スタンリー・キューブリック2.jpg
Modern Classics a Clockwork Orange (Penguin Modern Classics)』『時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)』Anthony Burgess「時計じかけのオレンジ [WB COLLECTION][AmazonDVDコレクション] [DVD]」Stanley Kubrick
『時計じかけのオレンジ(ハヤカワ・ノベルズ)』['71年]表紙イラスト:真鍋博/『時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)』['08年]/『時計じかけのオレンジ (ハヤカワ文庫 NV 142) 』['77年]
ハヤカワ・ノヴェルズ 『時計じかけのオレンジ』.jpg時計じかけのオレンジ100.jpg『時計じかけのオレンジ』hn.jpg 近未来の高度管理社会。15歳の少年アレックスは、平凡で機械的な毎日にうんざりしていた。そこで彼が見つけた唯一の気晴らしは「超暴力」。仲間とともに夜の街を彷徨い、盗み、破壊、暴行、殺人をけたたましく笑いながら繰り返す。だがやがて、国家の手がアレックスに迫る―。

時計じかけのオレンジ002.jpg 『時計じかけのオレンジ』は、アンソニー・バージェス(1917-1993/76歳没、翻訳出版物ではアントニイ・バージェスと表記される)が1962年に発表したディストピア小説で、スタンリー・キューブリック(1928-1999/70歳没)によって映画化された「時計じかけのオレンジ」('71年/英・米)は、第37回「ニューヨーク映画批評家協会賞」の作品賞や監督賞を受賞しています。

時計じかけのオレンジ 09.jpg 小説にも映画にも、少年たちが作家の家に押し入り、妻を暴行する場面がありますが、原作者アンソニー・バージェスが兵役でジブラルタルに駐在中、ロンドンに残っていた身重の妻が市内が停電中に4人の若い米軍脱走兵に襲われ、金を強奪され、結局赤ん坊を流産したという出来事があったとのことです。さらに、それから何年か後、バージェスは手術不可能な脳腫瘍があるという告知を受け、自分が死んだ後に妻が困らないようにと猛スピードで原稿を書き、『時計じかけのオレンジ』の元稿ができたそうです(脳腫瘍は後に誤診と判明した)。

時計じかけのオレンジ 004.jpg しかしながら、出来上がった原稿を作者自身が読み返してみて、ただの少年犯罪の小説であって新鮮味も無いことに気がつき、たまたま60年代初頭のソ連に旅行をした時、ソ連にも不良少年がいて英国の不良少年ともなんら違いがなかったことから、主人公の少年が、英語とロシア語を組み合わせて作った「ナツァト言葉」を操るという設定にしたとのことです。

 作品が発表された時の評判はイマイチで、「タチが悪く、取るに足らない扇情小説」と言われ、原罪と自由意志がテーマだとは気づかれずにいましたが、若者の間ではアンダーグラウンド的に支持を得ました。そして、時代や価値観の急激な変化や、映画界でも暴力や性の描写に寛大になってく中で、時代に乗り遅れないテーマを模索していたスタンリー・キューブリック監督の目にこの作品がとまって映画化されることになり、そのことによって一気に注目されるようになったとのことです。

 ストーリーと設定については原作と映画に大きな違いはないのですが、設定で1つ異なるのは、映画では成人男性である主人公のアレックスが、原作では15歳で設定されている点です。これはさすがに15歳のままの設定では映像化しにくかったということでしょう。

時計じかけのオレンジ003.jpg それと、それ以上に大きく異なるのは結末です。映画の衝撃的かつ皮肉ともとれる結末は、原作の第3部の6章で、アレックスが「ルドビコ療法」による「治療」を施されたにもかかわらず、結局「すっかり元通り」になった(要するに"ワル"に戻った)と宣言するところに該当します。しかし、原作は第1部から第3部までそれぞれ7章ずつで構成されており、この第3部の第7章が映画では割愛されています。

 なぜこうしことが起きたかというと、原作が米国で最初に出版された際、バージェスの意図に反し最終章である第21章(第3部の第7章)が削除されて出版され、キューブリックによる映画も本来の最終章を削除された版を元に作られたためです。

 その第3部の第7章を収めているゆえに、「ハヤカワepi文庫」版は「完全版」と謳っているわけです。本版は、'80年刊行の〈アンソニー・バージェス選集(早川書房)に準拠していますが、それ以前に刊行('77年)の「ハヤカワ文庫」版にはこの最終章がありません。

時計じかけのオレンジes.jpg 最終の第3部の第7章はどういった内容かというと、アレックスは21歳になっていて、新しい仲間たちと集い再び暴れ回る日々に戻るも、そんな生活に対してどこか倦怠感を覚えるようになって、そんなある日、かつての仲間ピートと再会し、妻を伴う彼の口から子どもが生まれたことを聞いて、そろそろ自分も落ち着こうと考え、暴力からの卒業を決意し、かつて犯した犯罪は若気の至りだったと総括するのです。

 文庫解説の映画評論家の柳下毅一郎氏(自称「特殊翻訳家」)によると、キューブリックは、「この版(第3部の第7章がある版)は、ほとんど脚本を書き上げるまで、読まなかった。けれども、私に関する限り、それは納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している」と言っていたとのことです(キューブリックは、出版社がバージェスを説き伏せて、彼の"正しい判断"に反して付け足しの章を加えさせたと思い違いしていたようだ。第3部の第7章はいわばハッピーエンドであるため、そうした"作為"があった思うのも無理ない)。

時計じかけのオレンジ dh.jpg 米国刊行時に最終章のカットを求めたのは実は米国出版社であり、キューブリックや出版社は、最終章をとってつけたハッピーエンドに過ぎないと考え、一方のバージェスはむしろ「主人公か主要登場人物の道徳的変容、あるいは英知が増す可能性を示せないのならば、小説を書く意味などない」とし、第6章で「すべて元通り」のままで終わったのでは、ただの寓話にしかならないと反発したそうです(バージェスはカソリック作家でもある)。

時計じかけのオレンジch.jpg この両者の言い分をどうとるかで「映画派」と「小説派」に分かれるかもしれません(バージェスは映画版を嫌っていたという)。バージェスの側に与したいところですが、そうなると、「ルドビコ療法」によるアレックスの「治療」というのは結果的にうまくいったことになり、「拷問を通じた再教育」を是認するともとられかねない恐れもあるように思われます。映画では、そうした自己矛盾に陥るのを回避し、原作が自由意志の小説であることがインパクトをもって伝わることの方を重視したように思います(キューブリックは「シャイニング」('80年/英)の結末も原作と変えていて、原作者のスティーヴン・キングと喧嘩になっている)。

 「映画派」に立っても「小説派」に立っても、人間の自由意志は尊重されるべきであるというテーマは変わりないと思います。小説は小説的に書かれ、映画は映画的に作られているように思います。ただし、小説の結末をキューブリックが、「納得のいかないもので、文体や本の意図とも矛盾している」としているのは単に"いちいちゃもん"をつけているとは言い難く、まさに小説の方の弱点とも言え、個人的にはこの勝負、映画の方に軍配を上げたいと思います(「シャイニング」は、自分は原作の方に軍配を上げるのだが)。

 因みに、先に取り上げた同じくディストピア小説であるジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んでいる時に、いつも想起させれていたのがこの作品でした。そして、バージェスはオーウェルの『一九八四年』を意識して『1985年』という未来小説を書いていますが、そこでは、オーウェルが描いた管理社とはまた違った社会が描かれているようです。


【2836】 尾形 誠規 (編) 『観ずに死ねるか!傑作絶望シネマ88
』 (2015/06 鉄人社)
IMG_7882.JPG「時計じかけのオレンジ」●原題:A CLOCKWORK ORANGE●制作年:1971年●制作国:イギリス・アメリカ●監督・製作・脚本:スタンリー・キューブリック●撮影:ジョン・オルコット●音楽:ウォルター・カーロス●原作:アンソニー・バージェス●時間:137分●出演:マルコム・マクダウェル/ウォーレン・クラーク/ジェームズ・マーカス/ポール・ファレル/リチャード・コンノート/パトリック・マギー/エイドリアン・コリ/ミリアム・カーリン/オーブリー・モリス/スティーヴン・バーコフ/イケル・ベイツ/ゴッドフリー・クイグリー/マッジ・ライアン/フィリップ・ストーン/アンソニー・シャープ/ポーリーン・テイラー●日本公開:1972/04●配給:ワーナー・ブラザース●最初に観た場所:三鷹オスカー(80-02-09)●2回目:吉祥寺セントラル(83-12-04)(評価:★★★★☆)●併映(1回目):「非情の罠」(スタンリー・キューブリック)
『時計じかけのオレンジ(ハヤカワ・ノベルズ)』['71年]表紙イラスト:真鍋博
ハヤカワ・ノヴェルズ  『時計じかけのオレンジ』.jpg

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「独裁政治」「全体主義」批判と併せて「管理社会」「監視社会」批判にもなっている。

一九八四年.jpg一九八四年 sin.jpeg 1984 (角川文庫).jpg 
一九八四年〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)』/『1984 (角川文庫)』['21年3月]
『一九八四年』 吉田健一・龍口直太郎訳 昭和25年/『1984年(ハヤカワ・ノヴェルズ)』新庄哲夫訳['75年]
『一九八四年』一九五〇.jpg『一九八四年』ハヤカワ・ノヴェルズ「.jpg 1950年代に発生した核戦争を経て、1984年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの三大超大国によって分割統治されていて、国境の紛争地域では絶えず戦争が繰り返されている。物語の舞台オセアニアでは、思想・言語・結婚などあらゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ばれる双方向テレビジョンや街中に仕掛けられたマイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視されている。オセアニアの構成地域の一つ「エアストリップ・ワン(旧英国)」の最大都市ロンドンに住む主人公ウィンストン・スミスは、真理省の下級役人として日々歴史記録の改竄作業を行っている。物心ついたころに見た旧体制やオセアニア成立当時の記憶は、記録が絶えず改竄されるため、存在したかどうかすら定かではない。ウィンストンは、古道具屋で買ったノートに自分の考えを書いて整理するという禁行為に手を染める。ある日の仕事中、抹殺されたはずの三人の人物が載った過去の新聞記事を偶然見つけ、体制への疑いは確信へと変わる。「憎悪週間」の時間に遭遇した同僚の若い女性ジュリアから手紙による告白を受け、出会いを重ねて愛し合うようになり、古い物の残るチャリントンという老人の店を見つけ、隠れ家としてジュリアと共に過ごす。さらに、ウィンストンが話をしたがっていた党内局の高級官僚のオブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白、オブライエンよりエマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書を渡されて読み、体制の裏側を知るようになる。ところが、こうした行為が思わぬ人物の密告から明るみに出る―。

ジョージ・オーウェル.jpg 1949年6月に出版されたジョージ・オーウェル(1903-1950)の作品で、オーウェルは結核に苦しみながら、1947年から1948年にかけて転地療養先のスコットランドのジュラ島でこの作品のほとんどを執筆し、1947年暮れから9カ月間治療に専念することになって執筆が中断されるも、1948年12月に最終稿を出版社に送ったとのこと、1950年1月21日、肺動脈破裂による大量出血のため、46歳の若さで亡くなっています。
ジョージ・オーウェル(1903-1950/46歳没)

 ロイター通信によれば、英国人の3人に2人は、実際には読んでいない本も「読んだふり」をしたことがあるといい、「世界本の日」を主催する団体の'09年のウェッブ調査の結果では、読んだと嘘をついたことのある本の1位が、回答者の42%が挙げたジョージ・オーウェルの『一九八四年』であったとのこと(2位はトルストイの『戦争と平和』、3位はジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』)。

 確かに、第1部で描かれる未来都市ロンドンの管理社会は、ややマニアックなSF小説を読んでいるみたいで、そうした類の小説を読みつけていない人は途中で投げ出したくなるかもしれません。しかし、第2部で主人公のウィンストン・スミスがジュリアという女性との恋に陥るところから話が面白くなってきます(恋愛はほとんどの人が身近に感じるから)。そして、突然の暗転。ジュリアと一緒にウィンストンは思想警察に捕らえられ、「愛情省」で尋問と拷問を受けることになりますが、これがまたヘビィでした。

 そして、最後は、「愛情省」の〈101号室〉で自分の信念を徹底的に打ち砕かれたウィンストン・スミスは、党の思想を受け入れ、処刑(銃殺)される日を想いながら"心から"党を愛すようになるという―読んでいても苦しくなってくるような内容であるばかりでなく、ディストピア小説としてテーマ的にも重いものでした。

 この作品は、ソ連のスターリン体制批判ともとれる『動物農場』がそうであったように、刊行時においては、文学的価値よりも政治的価値の方が評価され、とりわけ米政府は、『動物農場』と併せて反共宣伝の材料として本書を利用したようで(逆にソ連ではペレストロイカが進行した1980年代末、1991年のソ連解体の直前まで禁書だった)、そうした政治的局面が過ぎればその価値は下がるとまで見られたりもしていたようです。

 しかし、実際には十分に普遍性を持った作品であったことは、後には誰もが認めるとことろとなったわけで、この作品で描かれ、端的に批判対象になっている「独裁政治」「全体主義」は、今もって北朝鮮や中国をはじめ、そういう国が実際にあるということです。また、アメリカでトランプ政権が誕生した際に、本書が再びベストセラーランキングに名を連ねたとの話もあります。

 あと、もっと広い意味での批判対象として描かれている、「管理社会」「監視社会」の問題もあるかと思いますが、そう言えば、都市部の街角に監視(防犯)カメラが普及し始めた際に、この作品が取り上げられたりしたことがありました。そうした意味でも先駆的であったわけですが、一方でわれわれ現代人は、そうした社会の恩恵をも受けているわけで、こちらの方が一筋縄背はいかないテーマかもしれません。

 監視カメラについては、警察が設置した街頭防犯カメラも増加傾向にあるものの、住宅や店舗、駅などに設置されている民間のカメラの方が圧倒的に数が多くて数百万台にのぼるとみられているそうですが、今や犯罪検挙の一割は、そうした防犯カメラが容疑者の特定に役立っているそうで、誰もこれを悪くは言わないでしょう。マイナンバー制度も、当初は「国民総背番号制」などと言われて国民が不安感を抱いたりしましたが、今は浸透し、カードを作った方が何かと便利だとかいう話とかになっているし、現代人はいつの間にか監視・管理されることに慣れてしまっているのかもしれません。

 でも、時にはそのことに自覚的になってみることが大事であって、その意識を思い起こさせてくれるという面も、この作品の今日的意義としてあるように思いました。「独裁政治」「全体主義」批判と併せて「管理社会」「監視社会」批判にもなっている作品であるように思います。先月['21年3月]に角川文庫から新訳が刊行されたのも、この作品が今日的価値を有することの証左とも言え、帯文には「思想統制、監視―現代を予見した20世紀の巨作‼」とあり、解説の内田樹氏が「昔読んだときよりもむしろ怖い」と述べていて、それぐらい自覚的な意識で読むべき本なのかもしれません。

映画「1984」('84年/英)ジョン・ハート    初代 MacintoshのCM('84年)
1984 映画 ジョン・ハート.jpg1984 マッキントッシュ cm.jpg 1984年にマイケル・ラドフォード監督により映画化されており、(「1984」(英))、ウィンストン・スミスをジョン・ハート、オブライエンをリチャード・バートン(この作品が遺作となった)が演じているそうですが未見です。個人金正恩 syouzou.jpg的には、ビッグブラザーのイメージは、同じく1984年に発表された、スティーブ・ジョブズによる初代MacintoshのCM(監督はリドリー・スコット)の中に出てくる巨大なスクリーンに映し出された独裁者の姿でしょうか。明らかにオーウェルの『一九八四年』がモデルですが(独裁者に揶揄されているのはIBMだと言われている)、作品を読む前に先にCMの方を観てしまったこともあり、イメージがなかなか抜けない(笑)。でも、現代に置き換えれば、金正恩や習近平がまさにこのビッグブラザーに該当するのでしょう。
まんがでわかる ジョージ・オーウェル『1984年』

まんがでわかる ジョージ・オーウェル.jpgまんがでわかる 『1984年』1.jpg 漫画などにもなっていますが、絶対に原作を読んだ方がいいです。ハヤカワepi文庫版の『動物農場』の訳者である山形浩生氏が監修した『まんがでわかる ジョージ・オーウェル「1984年」』('20年/宝島者社)がありますが、これも漫画の部分はそれほどいいとは思わなかったですが、解説はわかりよかったです。

『1984年(ハヤカワ・ノヴェルズ)』新庄哲夫訳['75年]
1984年 hayakawa novels.jpg

【1972年文庫化[ハヤカワ文庫(『1984年』新庄哲夫:訳)]/2009年再文庫化[ハヤカワepi文庫(高橋和久:訳)]/2021年再文庫化[角川文庫(『1984』田内志文:訳)]】

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現代の様々な組織にも通用する普遍性があるが、発表当時は政治利用され、その点は看過された?

2015 ジョージ オーウェル 動物農場 角川.jpg 2009 ジョージ オーウェル 動物農場 岩波.jpg 2013 ジョージ オーウェル 動物農場 ちくま.jpg 2017 ジョージ オーウェル 動物農場 ハヤカワ.jpg
動物農場 (角川文庫)』['72年]『動物農場-おとぎばなし (岩波文庫)』['08年]『動物農場: 付「G・オーウェルをめぐって」開高健 (ちくま文庫)』['13年]『動物農場〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)』['17年]
IMG_20210328_115159.jpg動物農場 [DVD].jpg アニマル・ファーム図1.jpg ジョージ・オーウェル.jpg
角川文庫(併録:「象を撃つ」「絞首刑」「貧しいものの最期」)/「動物農場 [DVD]」/石ノ森 章太郎『アニマル・ファーム (ちくま文庫)』['18年]/ジョージ・オーウェル(1903-1950)
Animal Farm (Baker Street Readers) (2021/08)
Animal Farm (Baker Street Readers).jpg マナー農場の動物たちは自分たちをこき使う人間の横暴に怒っていた。飲んだくれの農場主ジョーンズを追い出した動物たちは決起して反乱を起こし、すべての動物は平等という理想を実現するべく「動物農場」を設立、守るべき戒律を定め、動物主義の実践に励んだ。農場は共和国となり、知力に優れたブタがリーダーとなったが、指導者となったブタのナポレオンは、反乱の先導者だった同じブタのスノーボールを追放し、手に入れた特権を徐々に拡大していく。それにより、「理想の農場」は次第に変質してゆく―。

 1945年8月に出版されたジョージ・オーウェル(1903-1950/46歳没)の作品で(原題には岩波文庫訳のように「おとぎばなし」というサブタイトルが付く)、実際に書かれたのは'43年11月から'44年2月までの間でしたが、その内容は、当時は理想の社会と見られていたソ連をあからさまに皮肉った内容であったため、出版社数社に出版を断られたという逸話があります。具体的には、ブタのメージャーはレーニン、ナポレオンはスターリン、スノーボールはトロツキーがモデルであり、当時の人から見ればすぐにピンとくるものであったようです。
ハヤカワepi文庫(2017/01)
IMG_20210328_115145.jpg また、こうしたストーリーの背景には、作者自身が、民兵(伍長)としてファシスト政権と戦うべく戦線へ赴いたスペイン内戦において、人民戦線の兵士たちの勇敢さに感銘を受ける一方で、ソ連からの援助を受けた共産党軍のスターリニストの欺瞞に義憤を抱いたことがあります。作者が入隊したPOUMはトロツキー系の軍隊組織で、ある時期からソ連にとってファシスト軍以上に危険で「粛清」に値する対象とみなされるようになったとのこと(川端康雄『ジョージ・オーウェル』('20年/岩波新書))、要するに、戦争に行ったら後ろ(味方)から弾が飛んできたといった状況だったようです。

 ただし、第二次世界大戦中はソ連は連合国側であったため、英国において批判の対象とするのはタブーだったのが(作者はジャーナリストでもあったが、本書はスターリン体制下のソ連を直接的に取材して書いたものではないことも弱点とされた)、戦後、米ソ冷戦時代に入ってからは、「共産主義は全然ユートピアなんかじゃないよ」という反共キャンペーンに利用されるような形で全面解禁されたとのこと。従って、本はよく売れたものの、それは政治的な絡みで売れているのであって、そうした時期が過ぎれば忘れ去られるだろうとも思われていて、現代の様々な組織にも通用する普遍性があるにも関わらず、その当時はその点は看過されたようです(国際情勢に振り回された作品とも言える)。

ジョン・ハラス&ジョイ・バチュラー
動物農場 アニメ1.jpgジョン・ハラス.jpgジョイ・バチュラー.jpg 反共キャンペーンに利用された一例として、ジョン・ハラス(1912-1995)&ジョイ・バチュラー(1914-1991)監督により1954年にアニメ映画化されていますが(「ハラス&バチュラー」は1940~70年代にかけて、ヨーロッパで最大、かつ最も影響力のあるアニメーションスタジオだった)、この製作をCIAが支援していたことが後に明らかになっています。アニメ「動物農場」は結末が原作と異なっていて、原作では最後まで「非政治的」な「静観主義者」だったロバのベンジャミンが、ここでは親友のウマのボクサーがブタのナポレオンの陰謀によって悲惨な最期を遂げたのを契機に目覚め、リーダーとなって、外部の動物たちの援軍を得て反乱を起こし、ブタたちを退治するというハッピーエンドになっています。

動物農場 アニメ2.jpg動物農場 アニメ4.jpg ハッピーエンドにするのはいいのですが、やや全体的に粗かったかなあという印象で、明らかに大人向けの内容なのに、子どもに受けようとしたのか、動物たちが愛らしい動きを描いた場面がしばしば挿入されていて、そのわざとさしさから逆にCIAが背後にいるのを意識したりしてしまいます(笑)。ただし、宮崎駿監督などはその技術を高く評価していて、'08年、日本でのDVDの発売に先行して「三鷹ジブリ美術館」として配給し、全国各地で上映しています。また、ジョン・ハラスにはアニメーション技法についての多くの著作があり、宮崎駿監督もそれを参考書として読んだとのことです。

『アニマル・ファーム』.jpg)『アニマル・ファーム』obi.png また、漫画家の石ノ森章太郎(1938-1998)がこれを漫画化していて(『アニマル・ファーム』(「週刊少年マガジン」1970年8月23日第35号~9月13日第38号)、'70年初刊)、'18年にちくま文庫に収められています。文庫版は字が小さくて読みにくいとの声もありますが、原作の登場人物のセリフをそのまま引いてきているため、文字数が多くなってしまうことによるもので、原作へのリスペクトが感じられ、また、原作の雰囲気を掴む上でもこのセリフの活かし方は良いと思いました。

石ノ森 章太郎 『アニマル・ファーム』.jpg 最後の方だけ、ちょっと端折った感があったでしょうか。ちくま文庫同録の短編2編(「くだんのはは」「カラーン・コローン」)は要らなかったです。「アニマル・ファーム」のみ最後までしっかり描き切ってほしかったけれど、売れっ子漫画家がいくつか抱えている連載のうちの1つとして描いているので、なかなかそうはいかなかった事情があったのかもしれません。5回の連載でここまで盛り込めれば上出来とみなすべきなのかもしれません(アニメより密度が濃い)。

動物農場 (1954).jpg動物農場 アニメ3.jpg「動物農場」●原題:ANIMAL FARM●制作年:1954年●制作国:イギリス●監督・製作:ジョン・ハラス/ジョイ・バチュラー●製作製作プロデューサー:ルイ・ド・ロシュモン●脚本:ジョン・ハラス/ジョイ・バチュラー/フィリップ・スタップ/ロサー・ウォルフ●撮影:ディーン・カンディ●音楽:マティアス・サイバー●アニメーション:ジョン・F・リード●原作:ジョージ・オーウェル●時間:74分●日本公開:2008/12●配給:三鷹の森ジブリ美術館(評価:★★★)

【1972年文庫化[角川文庫(高畠文夫:訳)]/2009年再文庫化[岩波文庫(『動物農場: おとぎばなし』 川端康雄:訳)/2013年再文庫化[ちくま文庫(開高 健:訳)]/2017年再文庫化[ハヤカワepi文庫(山形浩生:訳)]】

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