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科学史(物理学史)の本として分かりやすい。表題に関してはややもやっとした感じか。
『科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで (ブルーバックス 2061) 』['18年]
宇宙や物質の究極のなりたちを追究している物理学者が、なぜ万物の創造主としての「神」を信じられるのか? それは矛盾ではないのか? 物理学史に偉大な業績を残したコペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ボーア、ディラック、ホーキングらが神をどう考えていたのかを手掛かりに、科学者にとって神とはなにかを考えた本です。
因みに著者の三田一郎氏は、あの2008年のノーベル物理学賞の受賞に繋がった「小林・益川理論」(2003年)の実証に貢献する論文をその22年前の1981年発表したした素粒子物理学者であるとともに、カトリック教会の助祭、つまり聖職者でもあります。
科学史、とりわけ物理学を中心にその発展の歴史が分かりやすく解説されていて、宇宙論も含めた話であるため、コペルニクスどころか、ピタゴラスやアリストテレスから話は始まり、ガリレオやニュートンへと進んでいきます。その間に、天動説を唱え、裁判にかけられたガリレオ、同じく天動説を唱え、自説を曲げず火あぶりの刑に処せたれたブルーノなども出てきて、科学の進歩が神の存在そのものを危うくしていく時代に入っていきますが、それでもュートンなどは、神だけが彼にとって信じ得る絶対的なものであったといいます。
そして、アインシュタイン。その相対性理論を分かりやすく解説するとともに、コペルニクス、ガリレオ、ニュートンも宗教者であったが、アインシュタインもそうであったと。ただし、彼にとっての神は、ほかのすべての根底にある「第一原因」のことをいい、自然法則を創り、それに沿って世界と人間を導くものであったようです。
アインシュタインに続くボーア、ハイゼンベルグ、ディラックらの業績も紹介するとともに、彼らの宗教観にもそうした傾向が見られることを指摘し、最後に、著者が本書を執筆中になくなったホーキングの業績が紹介されていますが、彼についても同様です。彼らの内部では矛盾はないのかもしれませんが、一般的なキリスト教などの神のイメージとは異なる宗教観に思われます。
著者の信仰からか、冒頭でユダヤ教とキリスト教について説明し、ユダヤ教とキリスト教の神を「神」とするとする前提でスタートしたかに見えましたが、読み終えてみれば、「創造主たる神」として「神」をもっと広義に捉えているようにように感じました(そうしないと、アインシュタイン以降はみんな無神論者になってしまうからか)。
全体としては科学史のテキストとして読める分、宗教に関する部分はコラム的な括りになっていて量的にあまり多くなかったし、記述が少ない分、科学者が「なぜ」神を信じるのかについては、もやっとした感じになってしまったように思えました。(自分の中での)結論的には、科学者が信じる神は、創造主たる神であり、人格神ではないということでしょう。
科学者が創造主たる神を信じる理由は、原因と結果の連鎖のメカニズムはわかっても、なぜそうしたメカニズムが存在するのか、原因と結果の連鎖の「存在理由」を巡る疑問が残るためであり、現代の叡智をもっても答えられない点については、「神がそのように世界を作ったのだろう」と考えたり、ある人は「世界の原初こそが神であろう」と考えたりした結果、科学者の多くが創造主たる神の存在を必要としたのではないかと思います。
最終章で、著者自身の信仰について述べるとともに、2002年に超新星爆発による宇宙ニュートリノの検出でノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏(2020年に亡くなった)に「三田君、宗教がないほうが世界は平和だよ」と言われたことや、2008年にノーベル物理学賞を受賞した益川敏英氏(この人も2021年に亡くなった)が、「神を信じている者は、自然現象に対して疑問を持ち、説明しようとすることを放棄している」という「積極的無宗教」であったことも紹介しています。
このように、自身が聖職者でありながら、また、この本のタイトルが「科学者はなぜ神を信じるのか」でありながらも、さまざまな考え方の科学者がいることに触れているのは公平感がありました。その上で、「科学と神は矛盾しない」というのが著者の結論です。個人的にはセンス・オブ・ワンダーという言葉を想起しましたが、神的な存在を信じながらその説明を目指した科学者らによって現代の科学の基礎が築かれたのは間違いのないことで、本書が科学史のテキストのような体裁をとることは「むべなるかな」といったところでしょうか。