2012年6月 Archives

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学術書を一般向けに噛み砕いた感じ。アルツ予防にはカロリー摂取の制限と、運動、知的活動か。

ぼけの予防 岩波新書.jpg
ぼけの防止3.JPG

ぼけの予防 (岩波新書)

第1章「ぼけとは何か」と第2章「ぼけの診断」において認知症(老人性痴呆症)について概説し、認知症の中でも90年代以降アルツハイマー病が増えてきていることを指摘、本書のメインとなる第3章「アルツハイマー病の予防」で、その予防法を、本書刊行時における最新の臨床研究の成果を紹介しながら、傾向的に解説しています。

 そのため、認知症全般の予防というよりは、アルツハイマー病の予防に関する研究成果を紹介した入門書と言ってよく、但し、アルツハイマー病との関連上、健康・長寿に関する話なども出てきます。

 「臨床研究からこうした傾向が見られるが、その原因は幾つか考えられ(諸説あり)、一つは○○...」といった書かかれ方をしている部分が多いですが、アプリオリに特定の原因と予防法を押し付けるのではなく、データを基に傾向として示しているところに、かえって信頼感が持てました。

 アルツハイマー病の予防に関しては、食生活、嗜好品のとり方、生活習慣と頭の使い方、薬とサプリメントの効用の4つの点から解説していますが、食生活のおいては、摂取カロリーを制限することが予防に有効であることは、統計的に証明されているようです。

日野原重明.bmp 個別事例としては、1911年生まれの日野原重明氏が紹介されていて(本書刊行時94歳)、NHKのドキュメンタリーで紹介された、当時のある一日の暮らしぶり、仕事ぶりを改めて紹介していますが、朝起きて柔軟体操をした後に、りんごジュース、にんじんスープ、牛乳とコーヒーという液体だけの朝食(りんごジュースにはサラダ油をちょっと落とす)、午前中に講演した後の昼食は立食パーティで牛乳コップ1杯のみ、午後は大学で90分立ちっぱなしで講義し、夕食は茶碗少し目のご飯に味噌汁、サラダと副食二品、1日の摂取カロリーは1300キロカロリー。

 年齢によって理想の摂取カロリーは変わってきますが、摂取カロリーの高い人は低い人の1.5倍の率でアルツハイマーになりやすく(これも原因は分かっていない)、日野原氏自身が言う「腹七分目」というのは、アルツハイマー病予防の一つの鍵なのだろうなあと。

 但し、日野原氏と同じような生活をしても日野原氏のように長生きできるかどうかは、寿命には様々な要素が絡むため分からないとのこと(この人、100歳を超えて今も元気だなあ。やや怪物的かも)。

 食生活ではそのほか、動物性脂肪のとりすぎは悪く、野菜や果物をよくとることは予防にいいとし、「酒」は飲み過ぎは良くないが適量であれば飲まないよりはよく、「運動すること」や「頭を使うこと」はアルツ予防にいいと―。

 このあたりは大方の予想がつきそうな内容でしたが、統計的にそのことを示す一方で、原因が科学的に解明されている部分と未解明の部分があることを示し、未解明の部分については考えられている仮説を逐一紹介したりしているのが「岩波新書」らしいところ(学術研究書を一般向けに噛み砕いた感じ)。

 「頭を使うこと」が予防にいいということについて、大変興味深い海外のケースが紹介されていて、ある修道院の修道女を対象に行った加齢と認知症に関する追跡調査で、調査協力の意思表明後101歳で死亡した修道女の脳を解剖したら、脳萎縮などのアルツハイマー病の症状が見られたものの、この修道女は亡くなる直前まで聡明で知能検査でも高い得点を出していたと。

 彼女に認知症の症状がなく聡明だった理由は、若い時分からから老年期に至るまで知的好奇心と知的活動を維持してためと考えられるようですが、脳を使えば使うほど、神経細胞の一部は数が多くなり、脳内のネットワークが強化され、加齢による神経細胞の脱落をカバーして、認知症になるのを遅らせることに繋がるようです。

 それにしても、脳が実際にルツハイマー病の症状を呈していたのに、生活面でそれが症状として現れることが無かったというのは、実に興味深い事例だと思いました。

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個人的に懐かしい街。様変わりしていく一方で、自分が知らなかった歴史の跡も。

五木寛之の新金沢小景1.jpg 『五木寛之の新金沢小景』(2005/09 北國新聞社)

五木寛之の新金沢小景2.jpg テレビ金沢で毎週土曜日の夕方に放送されている、五木寛之が金沢市内や近郊を廻りながら、金沢の風景や物語を辿っていくというスタイルのミニ番組「新金沢小景」を本にしたもので、写真が多くて紙も上質、内容的にも丁寧にまとまっているという感じ。

 個人的には、小学生の初めと、小学生の終りから高校の初めまで金沢に住んでいたので、金沢には愛着があり、また、五木氏が金沢に住んでいた頃と時期的に重なるので、その点でも興味をひかれるものがありました。

兼六園 霞が池.jpg 金沢では、現在の金沢市民芸術村(旧大和紡績金沢工場)付近や犀川べり犀川神社付近に住みましたが、自分が通った、元々は金沢の伝統的な長い土塀で囲まれていたという小学校も、尾山神社のすぐ近くあった中学校も今は無く、それぞれ市民体育館とホテルになってしまいました。

 学校の課外授業の写生大会はいつも兼六園で(当時は入園無料で、兼六園が通学路だった生徒もいた)、遠足は卯辰山が定番、五木氏の住んでいた小立野付近も通ったりはしましたが、小説『朱鷺の墓』に出てくるような廓があることは知りませんでした(学校で教えないからね)。

兼六園・霞ヶ池

 そもそも自分は、金沢市と石川県の地歴を学校で教わる小学校の3、4年生の時には金沢にいなかったのですが、「加賀百万石まつり」の前夜祭には提灯行列に5、6年生の生徒が駆り出され(これは今でも変わっていないみたい)、「二つの流れ遠長く 麗澤清んで涌くところ 甍の波 の日に沿いて 自ずからなる大都会」という金沢市歌を歌いながら金沢城付近を練り歩き、歴史を体感した(?)記憶があります。

 本書は金沢という街をいろいろな角度から百景ほど紹介していますが、タイトルを「百景」としなかったのは、番組の方がまだ続いているからでしょうか。

尾山神社.jpg 番組同様、五木氏の全面監修ということですが、五木氏は百景の冒頭にちょこっとエッセンス的なコメントを寄せているだけで、あとは番組スタッフが頑張った作った本だという印象の方を強く受けます(こうしたローカル番組は各地にあるけれども、こうしてきっちり本になるものは意外と少ないかも)。

尾山神社

 但し、五木氏の金沢にまつわる作品なども紹介されていて、それは本文中にも出てくるし、また多くの文豪が関わりを持った街であるだけに文学的な話題も多く含まれていますが、尾山神社のところで小説『美しい星』の冒頭でこの南蛮風神社を華麗に描写した三島由紀夫の話が出てくるかと思ったら、兼六園・霞ヶ池のところで、その話も含め出ていました(母方が金沢の儒学者の家系だったのだなあ。知らなかった)。

 三島由紀夫は『美しい星』の中でこの池を絶賛、自分は写生会でこの池を写生して「金賞」を貰ったなあ(学校内表彰だから大したことないけど。しかも、マネ、モネ、スーラ が好みの美術教師の趣向に合わせるという、「傾向と対策」の成果であったところがちょっといやらしいが)。

 タイトルに「新」とあるように、五木氏が住んでいた頃とは随分様変わりしているはず。本書に紹介されている古くからあるお店などの中にも、本書刊行後に廃業したところもあるようで、一方で、自分が知らなかった金沢の歴史が今も深く刻まれている場所もまだまだ多くあり(それが地理的には、自分が幼い頃によく見知っていた場所だったりする)、また旅行で行ってみたいと思わせる本でした。

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幅広い画風。見ていて飽きがくることがない。

藤田嗣治画集78.JPG藤田嗣治画集79.JPG 藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色.jpg
(39.2 x 27.2 x 4.2 cm) 『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』(2002/10 講談社)

藤田嗣治画集81.JPG藤田嗣治画集82.JPG 藤田嗣治(1886-1968/享年81)の大型画集で、輸送用ケースには「没後35年、初めての愛蔵決定版」とのキャッチがあり、代表作160点を発表順に収めています。

 藤田嗣治と言えば日本よりもフランスで先に有名になった画家で、本書解説にも、その生涯が詳しく書かれていますが、東京美術学校(芸大の前身)で黒田清輝の下、19世紀後半のリアリズムの時代の画家の手法を学んだ後、1913年にパリに渡ってピカソと知り合い、彼のアトリエでアンリ・ルソーの絵を見て衝撃を受け、師・黒田清輝の教えから解放されます。

藤田嗣治画集84.JPG パリに渡った時にはセザンヌすら知らなかった彼が、既にフランスでは印象派でさえ様々な形で乗り越えられ過去のものとなっていることを知った、その衝撃は大きかったと思います。

 アンリ・ルソーに衝撃を受けた後も、ピカソのキュビズムにも影響を受けたりもし、但し、ピカソの後塵を拝することなく、様々な研鑽を重ね、生活スタイルも含めいろいろな試みを行い、独自の画風を生み出し、早くも1917年には個展を開くまでになります(すぐに画壇の寵児となり、1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章を贈られた)。

藤田嗣治画集85.JPG 但し、渡仏してから有名になるまでの数年間の生活は、第1次大戦の勃発もあったりして大変だったらしく、自分の絵を燃やして暖をとったという、無名時代のピカソと同じような逸話もあります。それでも、当時、日本からパリに渡った若き芸術家は相当数いたわけで、そうした中、彼は、"エコール・ド・パリ"時代のモンパルナスから輩出された、最も成功した日本人芸術家と言えるでしょう。今でもフランスで一番よく知られている日本人芸術家とも言われているのは、その後も今日まで多くの芸術家が海外進出してはいるものの、彼がフランスで受けた絶大な評価の水準までは達していないということなのかもしれません。

 個人的には、彼の作品ではパリの風景、街角や古ホテルなどを描いたものは以前から好きなのですが(よく美術の教科書に出ていた)、昔から絵葉書やカレンダーなどにもなっているし、一般的に広く日本人受けするのかなあ(無難と言えば無難な好み?)。

藤田嗣治画集86.JPG 実際には女性(裸婦)を描いた作品がかなり多く、その他にも静物、動物(猫が多い)や宗教画っぽいものなどと多種多様で、モチーフや描かれた時期によっても画風が変わります。

 この画集を見ると、少女を描いたものも相当多いことがわかり、最近は彼の少女画は結構ブームになっているみたいですが、少女画は、ややロンパリ気味の目に特徴があります。細い線の特徴もよく出ていて、この画集を買ってから個人的にも少女画もいいなあと思うようになりました。

 そのほかにも、"いかにも油絵"と言う感じのものから、"浮世絵"のようなものまで(油彩画家の間での"浮世絵"探求ブームは藤田のデビュー当時のフランスにあったわけだが)その画風の幅は広く、見ていて飽きがくることがないのと当時に、常にチャレンジ精神をもって新境地を開拓していた画家であったことが分かります。

「アッツ島玉砕」1943
「アッツ島玉砕」1943.jpg 本書のサブタイトルにもある「素晴らしき乳白色」は、特に女性や少女の肌を描く際に使われ、彼のフランスでの評価を高める大きな要素となりましたが、やはりそこには、日本人独特の「肌色」へのこだわりと、それを描いてきた日本画の伝統があり、それがフランス人に新鮮な驚きと神秘的な魅力感を喚起したのではないかと考えます(フランス人などの肌は日本人の肌と、色が違うというより透明度からして異なるわけだが)。

 どうやってそうした色合いを出したのかについては、近年も新事実が明らかになったりしているようで、没後40年を経ても話題は尽きないようです(顔料に和光堂の「シッカロール」(ベビーパウダー)を使っていたらしいことが昨年('11年)明らかになった)。

藤田嗣治画集87.JPG 第二次大戦中に戦争画を描いて、戦後は軍部協力者、戦犯容疑者として冷や飯を食わされることになりますが(陸軍美術協会理事長という立場であったことから、一時はGHQからも聴取を受けるべく身を追われることともあった)、アッツ島やサイパン島の玉砕を描いた彼の絵は、ピカソの「ゲルニカ」などと同じく「反戦」絵画として描かれたものではないかと思わせるものがあります。

 戦後の公職追放の裏には、日本画壇に一部で、海外で名声を得た彼の才能に対する妬みがあったとも言われており、彼自身は1949年に渡仏し、二度と日本に戻ってくることはありませんでした(羽田空港から日本を去る前に、「国際人となれ」と言い残したという)。

藤田嗣治画集88.JPG 1955年にはフランス国籍を取得し(日本国籍でなくなった)、1955年にはカトリックに改宗し(レオナール・フジタとなった)、彼の改宗はフランスの新聞で大きく報じられたとのことです。

 何事にも好奇心旺盛で、南米ほか各地を旅行し、生涯で日本人妻、フランス人妻と4度離婚し、愛人も多くいましたが、50歳で結婚した最後の妻、25歳年下の君代夫人(1911-2009/享年98)とは最後まで連れ添ったように、そして晩年の絵には宗教画が多いように、晩年は自らの心の平穏を何よりの創作の拠り所としていたのかもしれません(でも、晩年の少女画も多く、川端康成的ロリコンも感じられるのが興味深い)。

藤田嗣治画集83.JPG

小栗 康平 「FOUJITA」 (15年/日・仏) (2015/11 KADOKAWA) ★★☆
映画『FOUJITA』.jpg映画『FOUJITA』s.jpg
「FOUJITA」●制作年:2015年●製作国;日本/フランス●監督・脚本:小栗康平●製作:井上和子/小栗康平/クローディー・オサール●撮影:町田博●音楽:佐藤聰明●時間:126分●出演:オダギリジョー/藤谷美紀/アナ・ジラルド/アンジェル・ユモー/マリー・クレメール/加瀬亮/りりィ/岸部一徳/青木崇高/福士誠治/井川比佐志/風間杜夫●公開:2015/11●配給:KADOKAWA●最初に観た場所:渋谷・ユーロスペース(15-11-10)(評価:★★☆)

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スペイン絵画三大巨匠を強引にランク付けするとベララスケス、ゴヤ、エル・グレコの順になる?

プラド美術館.jpg(31.4 x 27 x 6.8 cm)『プラド美術館』['97年] The Prado Alfonso E.Perez Sanchez.jpg Alfonso E.Perez Sanchez(アルフォンソ・E・ペレス=サンチェス)『The Prado』['01年/ペーパーバック版]

 プラド美術館は、スペイン・マドリードにある世界でも有数規模の内容をもつ美術館で(建物自体は、最初は自然科学博物館にするつもりで建てられた)、15世紀以来の歴代のスペイン王家のコレクションを展示するために使われてきゴヤ4.JPGました。そのため、ベラスケス、ゴヤなどのスペイン絵画が質量ともに充実しているほか、フランドル、イタリアなどの外国絵画も数多く観ることができます(フランドルはスペイン領だったこともあり、スペイン王室のコレクションにフランドル絵画が多数加えられたという経緯がある)。

 大判約650ページの本書は、プラド美術館の所蔵作品集としては最高クラスの豪華本的内容であるばかりでなく、スペイン絵画、イタリア絵画、フランドル絵画、ドイツ絵画、イギリス絵画、フランス絵画、19世紀スペイン絵画、といったように系統立てて整理されています。その点では、一般にも馴染みすいものとなっていますが、価格的には,19、750円と高く(しかも絶版中)、スペイン王家のコレクションに的を絞っているのか、ピカソなど近代絵画は除かれています。

ベラスケス5.JPG 但し、個々の作品の解説はたいへん丁寧で、特に有名絵画に関しては詳細且つ専門的で、更に細密画などについては必要に応じて絵画の一部の拡大写真も掲載されています(画集と解説集を兼ねていると言ってよく、解説は研究者向けの水準か)。

 表紙にはゴヤの「着衣のマハ」がきていますが(裏表紙はエル・グレコ)、「裸のマハ」とどちらが優れているか、評価はわかれるようです。人妻がモデルだったということを前提に、「裸のマハ」はじっくり描かれ、「着衣のマハ」は大急ぎで描かれたという俗説がありましたが、実は「裸のマハ」はモデルを見ないで描かれたとも推察されており、本書での評価は「着衣のマハ」の方が高いようです。

プラド美術館中央ホール.jpg スペインに関する本をいろいろ見てみると、スペイン人自身の一般評価(人気)では、エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤの三大巨匠が一番「格上」(人気が高い)とされているようで、それに20世紀の三大巨匠であるピカソ、ダリ、ミロが続くようです。

 実際のプラド美術館の展示仕様については、ベラスケスとゴヤは「別格」扱いという感じで、ゴヤは「黒い絵」展示室など作品群ごとに単独で展示室があり、これに匹敵するかこれを上回るのがベラスケスの扱いで、「ラス・メニーナス(宮廷の官女たち)」は中央ホール奥にでんと構え、他の数枚の作品とともにホールを独占しています(作品配置は細かいところで毎年変わっているようだが)。

 現地に行った際にも何冊かガイドブックを買いましたが、Alfonso E.Perez Sanchez 編 "The Prado-Spanish Paintings"は、ソフトカバーで入手し易い価格の割には内容的には充実していました。代表編者アルフォンソ・E・ペレス=サンチェスはプラド美術館の元館長であり、この人の"ゴヤ"は日本語版が出ていますが、本書は日本語版は出ていないみたい。但し、スペイン語版ではなく英語版なので、解説部分も何とか読めます('01年に改版(第2版)、日本の洋書店にも置いてあった)。

ベラスケス8.JPG "The Prado"の表紙はベラスケスの「マルガリータ王女」、裏表紙はゴヤの「1808年5月3日の銃殺」ですが、何れも表紙にくるに相応しい作品でありながら、「マルガリータ王女」は同王女をモデルとした連作も含め、『プラド美術館』の方には掲載されていないなあ。何故だろうか。

 プラド美術館は油彩画だけで8千点近くを所蔵しており、抽出の仕方は様々かと思いますが、「マルガリータ王女」も、当美術館ではかなり目立つ展示になっていたように思います(この作品の王女のスカートの生地、間近で見ると単なる殴り描きにしか見えないものが、距離を置いてみると艶やかな光沢を放っているように見えるのが不思議)。

 専門的見地からみれば、掲載点数も多く、解説も詳細な岩波書店版『プラド美術館』は類書の追随を許さない高グレード感がありますが、一般的な感覚から言うと"The Prado"の方が作品の抽出基準はしっくりくるかもしれず、入門書としてはお薦めです。

 こちらは、点数はそう多くないですがピカソなどの近代絵画もカバーする一方、Spanish Paintngs とサブタイトルにあるように、プラド美術館に数多くあるイタリア系やフランドル系の作品などはカバーされていないようです。

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本書『鯨人』を読んでから写真集『海人』を眺めると、また違った、より深い感慨がある。

「鯨人」.bmp     海人 石川梵.jpg 海人2.JPG
鯨人 (集英社新書)』['11年] 『海人―THE LAST WHALE HUNTERS』['97年](37 x 26.8 x 2 cm)

海人1.JPG 『海人―THE LAST WHALE HUNTERS』('97年/新潮社)は、インドネシア東部レンバタ島のラマレラ村の人々の、銛一本で鯨を仕留める伝統捕鯨の様子を撮った写真集ですI(定価4,700円だが、絶版のためプレミア価格になっている)。

 大判の上に見開き写真が多く、人間とマッコウクジラの壮絶な闘いは迫力満点、鯨を仕留めた後の村人総出での解体作業や、遠く海を見つめるかつて名人と言われた古老の眼差しなども印象深く、日本写真家協会新人賞、講談社出版文化賞写真賞などを受賞した作品です。

『海人―THE LAST WHALE HUNTERS』より

海人3.JPG 巻末の《取材データ》に、「取材期間1991 -97、延べ滞在期間11カ月、出漁回数200回超、最初に鯨が捕れるまでの海上待ち時間1190時間(4年間)」とあり、写真家のプロフィールには「ラマレラでの最初の4年間を鯨漁に、次の3年間を鯨の眼を撮ることに費やす。海と鯨とラマファ(鯨人)を愛し、30代のほとんどすべてをラマレラの撮影に捧げた写真家」とありました。

 写真集『海人』から13年半を経て、「集英社新書ノンフィクション」(カラー版の「集英社新書ヴィジュアル版」ではなく、文章中心に編集されている)として刊行された本書『鯨人(くじらびと)』は、同写真家によるラマレラにおける鯨漁撮影のドキュメントであり、鯨漁にまつわる現地の伝承・逸話や村の人々の暮らしぶりなどもよく伝え、民族学的にも価値のあるものになっていると思いました。

 90年代に著者が取材した際には外国人のフォトジャーナリストも取材に来ており、日本のNHKも'92年にNHKスペシャル「人間は何を食べてきたか~海と川の狩人たち~」という全4集のドキュメンタリーの第1集で、「灼熱の海にクジラを追う ~インドネシア・ロンバタ島』を放送('92年1月19日)しています(写真集が出された後では、TBSなども著者をガイドとした取材に行っているようだ)。

 但し、本書にはテレビ番組では味わえない長期取材の効用が滲み出ており、まず、お目当てのマッコウクジラとなかなか巡り会えず、写真集に"最初に鯨が捕れるまでの海上待ち時間1190時間(4年間)"と書かれていた、その時間の長さをより実感できるかと思います。

 更にその間、毎年のように村を訪れ、村の多くの人と出会い、彼らとの交流を通じて様々な昔話などを訊き出していて、これがたいへん興味深かったです。

 マッコウクジラは彼らにとってもそうそう眼の前に現れるものではなく(村人たちは、ヒゲクジラは伝承神話の上で"恩人"とされているため捕獲しない)、マッコウクジラが獲れない間は、ジンベイザメとかシャチとかマンタ(イトマキエイ)を獲ったりしているようですが、これらとて大型の海洋生物であり、銛一本で仕留めるのはたいへんなこと、マンタは比較的よく獲れるようですが食べられる部分が少なく、マッコウクジラ1頭はマンタ何百頭分にも相当するようです。

海人52.JPG 70年代に国連のFAO(国連食糧農業機関)がラマレラの食糧事情を改善しようとノルウェーから捕鯨船を送り込み、その結果、砲台による捕鯨は鯨の捕獲頭数を増やしたものの、鯨肉が供給過剰となったためにFAOは途中で操業をやめ、プロジェクトが終わったら今度はさっぱり鯨が獲れなくなったそうです。

 ここ10年の捕獲数は年間10頭を切るぐらいだそうで、著者もなかなか鯨に巡り合えず、村人たちに「ボンが来ると鯨が現れない」とまで噂されてしまったとのこと。

『海人―THE LAST WHALE HUNTERS』より

海人53.JPG 彼らの捕鯨は、鯨油のみを目的とした先進国のかつての捕鯨とは異なり、一頭の鯨の骨から皮まで全てを利用する日本古来の捕鯨に近く、IWC(国際捕鯨委員会)が認めている「生存(のための)捕鯨」であることには違いないですが、同時に、鯨が獲れた際には鯨肉を市場での物々交換で売りさばき、干肉にして保存した分も最終的には市場に流通させていることから、「商業捕鯨」の定義にも当て嵌ってしまうとのこと。

 でも、振り返って日本の場合を見れば、「調査捕鯨」の名のもとに「商業捕鯨」が行われているわけで、IWCに異を唱えて「商業捕鯨」を貫こうとしているノルウェーのような毅然とした姿勢をとれないところが、国際社会における発言力の弱さの現れでしょうか。

 ラマレラでは、過去に鯨漁で亡くなった人や事故に遭った人も多くいて、著者は鯨漁を人と鯨の互いの死力を尽くした闘いと見る一方、ラマファ(鯨人)を撮るだけでなく、獲られる側の鯨も撮影しなければとの思いからダイビングライセンスを取得し、とりわけ、断末魔に置かれた鯨の眼を撮ることに執着し、それが、写真集に「次の3年間を鯨の眼を撮ることに費やす」とあった記述となります(この"眼"の撮影に成功した場面もよく描けている)。

 更にエピローグとして、一連の取材を終えた13年後の'10年に村を再訪した際のことも書かれており、村の各戸に電気が通っていたり、漁船にエンジンが付いていたり、反捕鯨団体が鯨の観光資源への転嫁などの宥和策を持ちかけていたりと、いろいろ時代は流れていますが(一方で、報道によれば、今年('12年)1月に、島で10歳の少女がワニに食べられるという事故もあったが)、かつて名人として鳴らしたラマファの古老など、著者が取材した何人かが亡くなっていたのがやはり寂しい。

 写真集『海人』の写真は、「ライフ」をはじめ世界の主要写真集のグラビアを飾りましたが、著者にとっては、ラマレラで鯨人たちと過ごした濃密な7年間こそ人生の宝物であり、それに比べれば、写真家として栄誉を得たことは副産物にすぎないかもしれないといったことを「あとがき」で述べています。

 本書『鯨人』を読んでから写真集『海人』を眺めると、また違った、より深い感慨があります。

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記録写真としてだけでなく、芸術写真としても見事。見せ方の"戦略"に時代背景を感じる。

男の海 鯨の海 市原0.JPG 鯨の海・男の海.jpg
鯨の海・男の海―市原基写真集』['86年]
(34 x 27.2 x 2.8 cm)

 1979(昭和54)年、折しもピークを迎えた世界的な反捕鯨の声に、クジラを食べる日本人としてその現場を見る必要があると感じて、企業・政府等各種団体に捕鯨船への同乗取材を交渉し始めた写真家が、'82(昭和57)年にようやっと南氷洋捕鯨船へ乗り込む許可を得て、'82年12月から翌年3月にかけてと、'83年10月から翌年4月にかけて、南氷洋と小笠原の捕鯨を取材した写真集で、写真家の全乗船距離は8万キロにも及んだとのことです。

男の海 鯨の海 市原6.JPG 日本の伝統産業の1つである捕鯨業が存続の危機にあるということが取材の契機であるわけですが、ただそうしたトピックを追って記録としての意味合いから写真を撮ったというレベルを超えて、海で働く男達の勇壮な仕事ぶりをよく伝えるとともに、南氷洋の美しい自然の様を見事にフィルムに収めており、芸術的にも素晴らしい出来映えではないかと思います。

 キャッチャー・ボートに乗り込んで撮った銛打ちの写真は圧巻で、母船に上がったミンククジラは、ヒゲクジラの中では平均体長8.5メートルと小型ですが、それでもデカそうだなあと。

 海面すれすれに海中を泳ぐミンククジラや体長14メートルのニタリクジラを撮った写真は、まるでこれから浮上しようする巨大潜水艦のようで、こんなのがぬっと目の前に現れたら、初めて見た人はびっくりするだろうなあとか、これがシロナガスクジラだったらニタリクジラの倍の大きさになるわけで、一体どのように見えるのだろうかと―。

 C・W・ニコル氏などが巻末に寄稿文を載せているほか(ニコル氏もまた捕鯨船団に乗り込み南氷洋に同行した経験を持つが、本稿では捕鯨擁護の立場から日本の国際的発言力の弱さを批判している)、著者自身も取材の模様を8ページにわたってドキュメント風に纏めており、併せて、捕鯨問題の(当時の)状況を解説しています。

 更に、巻末には全掲載写真の縮小写真とキャプションが付されていて、このあたりは、最近刊行された小関与四郎氏の写真集 『クジラ解体』('11年/春風社)もそうでしたが、親切な配慮と言えます。

  '86(昭和61)年に房総の和田浦港で撮られたマッコウクジラの解体の模様の写真などを収めた小関与四郎氏の写真集がモノクロなのに対し、この写真集はすべてカラー。但し、母船でのクジラの解体写真だけはモノクロです(しかも見開き写真も多いこの写真集の中で半ページを使ったものが1枚あるだけ)。

鯨の海・男の海1.jpg やはり、反捕鯨運動を意識してのことでしょうか(小関氏のマッコウクジラの解体写真も、撮影して写真集になるまでに25年かかっている)―その分を、南氷洋の美しい光景を撮った写真がカバーしていて、ある意味、戦略的といえば戦略的な面も。

マーメイドラグーンのクジラ.jpg 巻末の写真ごとのキャプションはたいへん丁寧に、また時にエッセイ風に書かれていて、確かに、引き上げられたミンククジラの凛々しく済んだ目には、"人間社会のゴタゴタもすべて見透かされている"ような印象を受けるとともに、ちょっぴり哀感を覚えたのも正直なところです(直径20センチ!ディズニーシーのマーメイド・ラグーンのクジラの目を思い出した)。

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「クジラは絶滅の危機寸前」というのは誤解。種によっては捕獲した方が共存共栄に通じる。

クジラと日本人―食べてこそ共存できる人間と海の関係.jpg  クジラと日本人―食べてこそ共存できる人間と海の関係 2.bmp 『クジラと日本人―食べてこそ共存できる人間と海の関係 (プレイブックス・インテリジェンス)』 (下図:IWC下関会議推進協議会パンフレットより/下段に拡大図)

ミンククジラ/シロナガスクジラ.jpg 商業捕鯨の再開推進の立場からの捕鯨問題についての入門書で、10年ほど前に刊行された本ですが、クジラを捕って食べて良い理由を懇切丁寧に解説したもので、かっちりした内容であり、「クジラは絶滅の危機寸前」といった言説が誤解であることなど、この問題についての自らの認識を改めさせてくれた本でした。

 さまざまな種類のクジラの生態と棲息の実態、世界及び日本の捕鯨の歴史、日本人とクジラの文化的関わりなどを解説し、クジラが資源として枯渇状況にあるわけではなく、むしろ適量の捕獲を行うことがクジラを守ることにも繋がること、IWCが捕鯨禁止を決定した経緯と、その見直しが先延ばしされている矛盾、捕鯨禁止運動の内実や捕鯨禁止の科学的根拠のなさなどが説かれています。

 著者は捕鯨やマグロ漁業の国際交渉の担当する水産庁幹事官で、IWC(国際捕鯨委員会)にも日本代表代理として参加している人であり、商業捕鯨の再開を訴える背景には、日本の経済的権益を守るという立場からの見方が当然のことながら織り込まれているわけですが、その是非はともかく、国際会議における日本の発言力の弱さというものも考えさせられました。

 しかしながら最近では、クジラが人間が海からとる海産物の3倍から5倍もの量を捕食していること、ミンククジラをはじめ多くのクジラの生息数が急増していることなどの科学的調査結果が公表され、新たにIWCに加入した途上国を中心に、捕鯨賛成諸国も増えてきているようです。

 シロナガスクジラは1900年頃に20万頭いたのが今は2千頭に減ってしまったようですが(原因は、鯨油を採ることのみを目的とした欧州諸国の乱獲)、現在調査捕鯨の対象として認められているミンククジラは南氷洋に76万頭いるとのことで(内、調査捕鯨として捕獲しているのは年間440頭のみ)、更に北西太平洋にはミンククジラが2万5千頭(調査捕鯨上限は年間100頭)、ニタリクジラが2万2千頭(同年間50頭)、マッコウクジラは10万2千頭(同年間10頭)いると推定されるそうです(データは何れも2001年度)。

 440/760,000、100/25,000、50/22,000、10/102,000―こうして見ると、あまりにも異常な捕獲制限枠の在り様ではないでしょうか―ミンククジラの増えすぎ(「76万頭」という数字はIWCの科学委員会によって算出・認定された数)、が、シロナガスクジラ等のえさ不足にも繋がって、ますますシロナガスクジラを絶滅の危機に追いやっているという事実もあるようです。

商業捕鯨を再開しなければならないほど今の日本は食糧難なのかという疑問は日本人にもあるかもしれませんが、商 業捕鯨が禁止されてから日本のマグロの輸入量が増え、それが現在の南洋黒マグロの資源量の問題に連なっています。

 日本は縄文時代からの捕鯨の歴史があり、クジラを資源として余すことなく利用し、かつ自然の恵みに対する畏敬と感謝の念を忘れずにきたとのことで、鯨油採取のためだけに捕鯨をしていた国々とは文化が異なり、これはある意味これは異価値・異文化許容性の問題でもあるなあと。

 IWCで最も頑なに商業捕鯨再開を拒んでいるのは米国であり、'90年に見直しするはずだった商業捕鯨禁止決定がそのままになっている―その米国は、一旦IWCを脱退した捕鯨国アイスランドが、捕鯨停止に対する決議を留保したままオブザーバーとしてIWCに再加入することに最後まで反対していますが、京都議定書や戦略核兵器制限交渉においては反対・保留の立場をとったまま参加しているわけで、強国のエゴというのがここにも見え隠れしている思いがします。

 1年間で「3万頭」増えるミンククジラの捕獲制限枠が僅か「2千頭」と言うのは、やはりどう見ても保護と捕獲のバランスを欠いているように思いました。

(IWC下関会議推進協議会パンフレットより)
syu-kujira.jpg
《読書MEMO》
●ミンククジラは、20世紀初頭の南氷洋には約8万頭しかいなかったが、今では76万頭にまで激増している。ミンククジラの増殖率は年間4~7%。76万頭の4%は3万頭。今後100年間で20万頭(1年で2000頭)捕獲しても資源に悪影響はないとIWCの科学員会でも認められている(24‐25p)
●北西太平洋での日本の調査では、ミンククジラ100頭、ニタリクジラ50頭、マッコウクジラ10頭を上限として捕獲しているが、北西太平洋には、ミンククジラは25,000頭、ニタリクジラは22,000頭、マッコウクジラは102,000頭いると推測されている(25p)
●シロナガスクジラは1900年ごろ、南氷洋には20万頭がいたといわれるが、ノルウェーが8万2000頭、イギリスが7万頭捕獲し、現在では南氷洋に2000頭程度しかいないといわれている(44p)
●シロナガスクジラの増加を促進するためには、ミンククジラを一定数間引くことが有効であるといわれている。少なくとも、ミンククジラが今のままの数でいる以上、シロナガスクジラの増加は見込めないようだ(55p)

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浮世絵の伝統画法を守りながらもモダンなダイナミズム。イラストレーターの先駆?

月岡芳年 幕末・明治を生きた奇才浮世絵師.jpg 月岡芳年 義経 m14.jpg  月岡芳年の世界.jpg
月岡芳年 幕末・明治を生きた奇才浮世絵師 (別冊太陽)』 義経と弁慶(明治14年)『月岡芳年の世界』['10年]
侠客・金神長五郎(慶応2(1866)年)                        (30 x 21.4 x 2.8 cm )
月岡芳年(つきおかよしとし).jpg月岡芳年 侠客・金神長五郎 慶応2(1866).jpg 江戸から明治にかけて活躍し、「最後の浮世絵師」と言われる月岡芳年(つきおか・よしとし、1932-1892)の特集で、武者絵、妖怪画、歴史画、美人画など約230点を収めています。

トミー・リー・ジョーンズ.jpgトミー・リー・ジョーンズ 浮世絵.jpg 先般、映画「メン・イン・ブラック3」('12年/米)のキャンペーンで共演のウィル・スミスと共に来日したトミー・リー・ジョーンズが、民放の朝のテレビ番組のインタビューを受けた後、浮世絵の絵柄のネクタイを贈られていましたが、自分に渡された安藤広重の絵柄のネクタイを気難しそうな顔でしばらく眺めたうえで、ウィル・スミスに渡された葛飾北斎の絵柄のネクタイと自分のものと替えてくれとウィル・スミスに言って交換していました。「メン・イン・ブラック3」のプロモーションワールドツアーで、各国へのツアーの中で唯一日本ツアーにだけ参加したトミー・リー・ジョーンズは、歌舞伎ファンであるとともに浮世絵愛好家でもあり、特に北斎と月岡芳年が好きで、しかも、娘は月岡芳年作品のコレクターで100点をめざして収集中とのこと、浮世絵は光に弱いため、保管庫から1点だけ取り出して部屋に飾り、毎日架け替えているそうです(番組担当者は、彼が浮世絵愛好家であることは調べていたが、作者の好みまでは調べてなかった?)。

月岡芳年 女盗賊・鬼神お松 m19.jpg それはともかく、こうしたムックで見ても、月岡芳年の作品は、迫力といい躍動感といいやはり凄いなあと。歴史・故事や歌舞伎・浄瑠璃、時々の世相・風俗・事件など、様々なところから題材を取っていますが、何でもござれ、妖怪画も多い。

 河鍋暁斎(1831-1889)、落合芳幾(1833-1904)、歌川芳藤(1828-1887)らと同じく、歌川国芳(1798-1861)の弟子であり、この歌川国芳がまた何でもござれのスゴい人だったわけだけど...。

女盗賊・鬼神お松(明治19年)

 なぜか「天才」とは呼ばれず「鬼才」と言われることの多い芳年ですが、その作風の変遷を見ていると、世阿弥の「守・破・離」という教えを想起します。師から学んだ浮世絵の伝統画法を大事に守りながらも、時代の要請に沿って工夫をこらし、後期の作品においては、なにものにも捉われない自由さ、画面からはみだしそうなぐらいのダイナミズムが感じられます。

月岡芳年 スサノウノミコト m26.jpg 30歳の頃に明治維新を迎え、54歳で没していて、明治に入ってからの作品の方が圧倒的に多いわけで、西南戦争や文明開化なども題材になっていますが、テーマ的にはやはり、「水滸伝」といった中国物も含めた武者絵や、役者絵・美人画・風俗画など、江戸時代の浮世絵のオーソドックスなモチーフが多いのかなあ。

素戔雄尊と八岐大蛇(明治26年)

 それでいて、時代の変化に合わせて描き方がどんどん洗練されてきて、遠近感の使い方などは西洋画法と変わらないものあり、これは当時、これまでの浮世絵に無かった斬新さゆえの人気があっただろうなあと思わせます。

 三島由紀夫なども愛好家だったそうだし、横尾忠則氏にも月岡芳年に関する著書がありましたが、最近また巷では「イラストレーターの先駆」などと言われ、広くブームになっているようです(トミー・リー・ジョーンズ父娘は先見の明があった?)。確かに、江戸時代前期・中期の「絵師」に比べ、江戸後期の「浮世絵師」はある種イラストレーター的であり、幕末から明治にかけての「浮世絵師」であった月岡芳年などは特にその印象があります。

 この「別冊太陽」のムックは、昨年('11年)の「河鍋暁斎」に続く"生誕120周年"の記念刊行ですが、昨年ぐらいから、『衝撃の絵師 月岡芳年』('11年/新人物往来社)など芳年に関する本が続けて刊行されていて、今や師匠の歌川国芳やライバルだった河鍋暁斎らを超える人気であり、ブームになって比較的入手し易い価格で芳年の作品に触れることができるようになるのは歓迎すべきことです。

月岡芳年の世界0.jpg月岡芳年の世界21.jpg 本当に一作品一作品じっくり鑑賞したければ、少し値が張るのが難点ですが『月岡芳年の世界』がお薦めです。'92年に東京書籍から刊行されたものが絶版になり、古書市場で刊行時の定価(7千円)を若干上回る価格で出回っていて且つ品薄気味だったのが、これもブームの予兆だったのか、、'10年に復刊ドットコムで全く同じものが刊行されました(でも、定価が1万円になっている。18年ぶりだから仕方ないのか)。やはり、根強いファンがいるんだなあと。原則一頁に一作品。解説も丁寧で、専門家のコラムなどもあります(編者は洋画家の悳俊彦(いさお・としひこ)氏。歌川国芳、月岡芳年などの研究家でもある)。これが手元にあると、トミー・リー・ジョーンズにちょっとは近づける?

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屠場の仕事とそこで働く人たちをルポ。差別問題に偏り過ぎず、食文化の根源を見つめ直すうえでも好著。

『ドキュメント屠場』.jpgドキュメント 屠場 (岩波新書)』['98年] 本橋成一写真展「屠場」.jpg 本橋成一『屠場』['11年]

鎌田慧  .jpg 『自動車絶望工場』『日本の原発地帯』『原発列島を行く』の鎌田慧氏が、東京・芝浦屠場、横浜屠場、大阪・南港屠場などで働く人びとを取材したもので、そうすると何だか「暗い職場」だというイメージを抱きかねませんが、全然違います。皆、職人気質で明るい!
 
 鎌田氏自身、本橋成一氏の写真集『屠場』('11年/平凡社)に寄せて、「機械化される前の職人の熟練とプライドの世界」「屠殺は生き物を相手にする労働であって、自動車工場のように、画一化された部品に支配された労働ではない。たとえ機械化されたにしても、労働の細分化と単純化は不可能である」と書いています。

 屠場で働く人たちが、プライドを持って活き活きと仕事する様、牛や豚の解体作業の技術的高度さ、職人たちの仕事にかける心意気などが伝わってくるとともに、こうした仕事に対する差別の歴史と、それを彼らが乗り越えてきたか、若い職人たちは自分たちの仕事をどう考えているかなどが分かります。

 更に、歴史記録に遡って屠殺(食肉加工)のルーツを辿るとともに(牛などの肉食文化は基本的には明治以降に外国人が入ってきてから一般化したわけだが、江戸時代にもあったことはあった)、日本書紀の時代からある「殺生禁断」(殺生戒)の思想や「穢れ感」が部落差別と結びついて、こうした仕事を「賤業」と見做す風潮が今にも続いていることを分析しています。

 確かに職人には伝統的に被差別部落出身者が多いようですが、全てを部落差別に結び付けて考えるのも事実誤認かも知れず、それまでの仕事よりも給料がいいから転職してきたという人もいるようです。

 それぞれの取材先でのインタビューに加えて、職人同士の座談会などもあって、精神的な差別よりも、ちょっと前の昔まで、雇用形態が安定していなかったことの方がたいへんだったみたいで(今で言えば、偽装請負で働かされているようなもの)、それが組合運動等で随分と改善されたとのこと。

 横浜屠場の取材では、若い職人たちの座談会も組まれていて、これがなかなか興味深く、2代目・3代目が多いのですが、現実に差別に遭いそれと闘ってきた親の代と違って、親の職業により差別を受けた人もいれば、差別を何となく感じながらも、この仕事に就いた後で、あれが差別だったのだなあと振り返って再認識したという人もいます。

 自らの仕事にプライドを持ち、自分の技術を少しでも高めることを目標にしている点では皆同じで、先輩に少しでも追いつこう、後輩に負けまいと切磋琢磨していて、その意味ではスペシャリスト同士の競争の場ですが、元々公私にわたって職場の仲間同士の繋がりが強いうえに、今は協働化が進みつつある、そんな職場のようです(機械化が進んでも、機械の方が人間より上手に処理するとは限らないとのこと。そうした意味では、職人の技は、ある意味"伝統技能"と言える)。

 「屠場」は「屠殺場」の略語のようなもので、この言葉自体は差別用語ではないようですが、小説などで「戦場は屠殺場のようだった」というような"差別的意味合い"を込めて使われていることが縷々あるわけなのだなあ(岩波書店の刊行物の中にもあったそうだ)。

 使われ方が差別的であるために、言葉自体が"差別用語"だと思われてしまうという(だから、「食肉市場」とか名称を変えても根本解決にはなっていない)―こうした事例は外にもあるね。

 但し本書は、「差別」の問題を丹念に取り上げながらもそこに偏り過ぎず、食肉加工の工程なども細かく紹介されており、興味深く読めるとともに、人間の食文化の根源にあるものを見つめ直してみるうえでも好著です。

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見開き写真の迫力。「機械化される前の職人の熟練とプライドの世界」(鎌田慧)。

本橋成一写真展「屠場」.jpg 『屠場』['11年] 『ドキュメント屠場』.jpg 鎌田慧 『ドキュメント 屠場 (岩波新書)』['98年]
(25.8 x 19.4 x 2 cm)

本橋成一写真展「屠場」写真展.jpg 炭鉱や魚河岸、上野駅、サーカスなど市井の人々をテーマに撮り続けてきた写真家による「屠場」の写真集で、伝統的な手法で牛の解体加工を行っている大阪・松原屠場を取材しています(この人、チェルノブイリ原発事故の被災地で暮らす人々を撮影した「アレクセイと泉」や、最近ではアフリカに取材した「バオバブの記憶」など、海外に材を得た映画作品の監督もしている)。

 銀座ニコンサロンで今('12年6月)「本橋成一写真展・屠場(とば)」が開催されていて、やはり本書の反響が大きかったのではないかなあ。何せ、日本で初めての「屠場」の写真集だからなあ。

日出(いず)る国の工場 大.jpg テーマもさることながら、見開き写真が殆どを占めることもあって、すごい迫力。殆どの人が初めて見ると思われる牛が処分されていく過程(そう言えば確かに、村上春樹氏の『日出る国の工場』('87年/平凡社)に小岩井牧場を取材した「経済動物たちの午後」という話があって、「ホルスタインの雄は生後20ヶ月ぐらいで加工肉となる」というようなことが書いてあったなあ)、親方たちのどっしりした面構え、職人たちの真剣な眼差し、おばちゃんたちの巧みな手捌き―「働く」ということのエキスが詰まっている写真集です。

 '98年に『ドキュメント屠場』(岩波新書)を著している鎌田慧氏の解説が寄せられていて、それによれば、「屠場」と書いて東日本では「とじょう」、西日本では「とば」と読むそうです(従って大阪・松原屠場を取材した本書は「とば」となっている)。

 大阪・松原屠場は、伝統的な作業工程で解体作業を行っているわけで、鎌田氏も、「機械化される前の職人の熟練とプライドの世界」と書いていますが、まさにその通り。

 「屠場」で働く人には伝統的に被差別部落出身者が多く、「屠場」での労働は部落差別問題と古くから密接な繋がりがあったようですが、それと併せて、あるいは、それとは別に、殺生を忌み嫌う人々の感情も昔からあったのだろうなあ(そして今も)。でも、こうした人たちの労働の上に、日本の豊かな食文化は成り立ってきたわけです。

 因みに、「屠殺」と言う言葉が差別用語かというとそうではなく、「屠場(とじょう・とば)」も元々は「屠殺場(とさつじょう)」と言っていたのが(『ドキュメント屠場』には、芝浦屠場の前のバス停は「屠殺場」という名だったとある)、やはり「殺」という字を避けて「屠場」になったらしく―「屠」も「屠(ほふ)る」だから、意味として同はじなのだが―それもやがて「食肉市場」「食肉工場」などいった言葉に置き換えられていたようです。

 全く無いわけではないですが、もう少し働いている人が笑っている写真があっても良かったかなあ(まあ、仕事中のところを撮っているわけだから、接客業でもあるまいし、にこにこ、へらへらしている人は、そうそういないわけだけど)

 というのは、鎌田氏の『ドキュメント屠場』を読むと、みんな明るいんだよなあ。職場内の結束が強く、たいへん「人間的な労働の場」であることが窺えるので、こちらも是非読んで欲しいと思います。 

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今となっては貴重なマッコウクジラ解体の写真。捕鯨論争の中、「事実は事実」の記録として...。

小関 与四郎 『クジラ解体』.jpg 『クジラ解体』(31 x 22.2 x 2.8 cm) 装丁・レイアウト:和田 誠

 今となっては珍しい港でのクジラ解体の模様や、かつてクジラ漁が盛んであった地の、その「文化」「伝統」の名残をフィルムに収めた写真集です(昔、捕鯨船の甲板でクジラの解体をしている写真が教科書に載っていたような記憶があるのだが...。鯨肉の竜田揚げは学校給食の定番メニューでもあったし、鯨(鮫?)の肝油ドロップなんていうのもあった)。

 この写真集にある写真の内、クジラ解体の様子そのものを撮ったものは、1986年に房総の和田浦港で撮られたマッコウクジラの解体の模様と、2010年に宮城県の鮎川港で撮られたツチクジラの解体の模様のそれぞれ一連の写真群で、やはりこの両写真群が迫力あります。

 とりわけ、和田浦港のマッコウクジラの解体の様子は大型のクジラであるだけに圧巻で、'86年当時、写真家は、近々マッコウクジラは大型捕鯨の規制対象となると聞き、今のうちに撮らねばとの思いから撮影したとのことですが、その後の反捕鯨運動の高まりで、これらの写真は写真集となることもなくお蔵入りしていたとのことです。

 しかしながら、捕鯨論争が加熱する中、「ありのままの姿を正面から見据えて記録する」との自らの信条に立ち返り、「事実は事実」の記録として残し伝えたいとの思いから、この「写真鯨録」の発表に至ったようです。

 和田浦港は、小型捕鯨に規制された今でも、解体の模様を一般の人が見ることができるようですが、一般人も解体を見ることができるのは全国でここだけで、この写真集で古式捕鯨の名残が紹介されている和歌山県の太地港や、実際にツチクジラの解体の模様が紹介されている宮城県の鮎川港でも、小型捕鯨は今も調査捕鯨の枠内で行われているものの、反捕鯨運動に配慮して、解体の模様は一般には公開していないとのことです。

 生態保護と食文化の相克―難しい問題。この写真集を見ると、単に食文化に止まらず、鯨漁を行っている港町にとっては伝統文化であり、生活文化でもあったようだし(これを「文化」と呼ぶこと自体、反捕鯨派は異論があるのだろうが)。

 装填は和田誠氏。栞(しおり)としてある「クジラ解体 刊行に寄せて」には、安西水丸(イラストレーター)、池内紀(独文学者)、海老沢勝二(元NHK会長)、加藤郁乎(俳人)、金子兜太(俳人)、紀田順一郎(評論家)から、地井武男(俳優)、中条省平(学習院大教授)、道場六三郎(料理家)、山本一力(作家)まで、各界16名の著名人が献辞しています。

 但し、その殆どが写真集の出来栄えを絶賛し、郷愁を述べたり貴重な文化記録であるとしたりするものの、一部の人が「記憶や記録にとどめておくだけでいいのか?」(地井武男)、「自然の恵みで最大のご馳走」(道場六三郎)など、食文化としての復活の期待を匂わせているだけで、大方は「考えさせられる」止まりのようです(反捕鯨派を意識してか?)。

 でも、この写真集に献辞しているということは、大方は、「食文化としての復興支持」派なんだろうなあ。一番ストレートなのは、絵本作家の五味太郎氏で、「よい。とてもよい。鯨はよい。解体作業もよい。鯨肉もこれまたよい。まったく完璧だね。俺にも裾分けしなさい。何か問題あるの?」と―。

 一般的な日本人の意識としても、いろいろ考えさせられるにしても感覚的にはこれに近いんじゃないの?―「クジラ親子の写真集を微笑ましく見る人が、鯨料理屋で舌鼓を打つ」というのが人間ってものかも―でも、牛や豚が消費されるために生まれてくる"経済動物"であるのに対し、クジラは養殖しているわけではないから、自然保護の観点から見てその点が気になる...といった感じか?

 例えば、小松正之 著『クジラと日本人-食べてこそ共存できる人間と海の関係』('02年/青春新書プレイブックス・インテリジェンス)によると、シロナガスクジラはかつての人間による乱獲で20万頭から2千頭に減ってしまったようですが、現在調査捕鯨の対象として認められているミンククジラは南氷洋に76万頭いて(内、調査捕鯨として捕獲しているのは年間440頭のみ)、更に北大西洋にはミンククジラが2万5千頭(調査捕鯨上限は年間100頭)、ニタリクジラが2万2千頭(同年間50頭)、マッコウクジラは10万2千頭(同年間10頭)いると推定されるそうです(何れも'02年現在)。

 むしろ、あまり厳しい捕鯨制限枠をずっと続けていると、特定の種類のクジラが増えすぎて生態系を乱すことも考えられるわけですが(歯クジラが食べる魚の量は人間の漁獲量との比ではないくらい多い)、本書では敢えてそうしたデータ的ことは示していません。

 クジラの供養碑等の写真からは、日本人のクジラに対する感謝の念が感じ取れましたが、そうした写真も含め、これらの写真を見てどう感じるかはあくまで見る人に任せ、基本的には、純粋に「写真記録」として提示することに努めた編集となっているように思いました。

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震災報道に携わった記者やカメラマンの手記。記事とはまた違った「現場」ドキュメント。

記者は何を見たのか.bmp 『記者は何を見たのか - 3.11東日本大震災

 東日本大震災の取材にあたった読売新聞の被災地の地元勤務の記者、全国の支社・支局から応援取材として投入された記者らの手記により構成されており、原発事故取材とそれに付随する官邸や東電の取材にあたった記者などの手記も含まれていますが、メインは津波災害の取材にあたった記者らの手記で、やはりそれらが一番読み応えありました。

 赴任先の通信部で津波に遭って命からがら高台に逃げたり、孤立して消防庁のヘリで救出されたりした記者らの生々しい体験談もありますが、むしろ手記の多くを占める、応援取材陣として全国各地から現場に入った記者たちの、惨状を目の当たりにして呆然とし、何を伝えるべきか、ただ伝えるだけでいいのか悩みながらも取材にあたる姿勢に共感しました、

 現地に投入されたのは比較的若い記者が多いみたいで、遺族や被災者に感情移入し過ぎてしまって、何を書いてもボツ記事になってしまった記者もいたようで、彼らの殆どが、震災から何日か経て現地入りしているにも関わらず、ある意味、冷静客観的に事実を報道するという身に滲みつき始めたプロ意識が吹き飛ばされるようなくらい、凄まじく且つ悲惨な現地の状況であったことが窺えます。

 手記という体裁をとっているため、途方に暮れ立ち尽くし涙を流しながらも記事を書き続ける、そうした一徹な使命感が感じられる一方で、津波で家族を失った被災者の悲しみの声を伝えきれたのか、自分のやるべきことは外になかったかなどと迷い、自問する記者たちの悩みもストレートに伝わってきます。

 そうしたこともあって、記事にならなかったエピソードや取材後の後日談も多く、新聞記事を読むのとはまた違った「現場」がそこにあったことが感じられ、また、海外にまで配信されることになった写真が撮られた経緯やその後日談もあります。

記者は何を見たのか―3.11東日本大震災.jpg AP通信などを通じて世界中に配信された本書表紙の写真の被写体となった女性は、その後フランスで開催された国際報道写真フェティバルに招待され、支援を呼び掛けるメッセージを伝えることになったとのことですが、写真が撮られたのは、震災2日後の朝、大阪支社から車を駆って12時間かけて宮城県入りした写真部のカメラマンが撮ったもので、その日の夕方、石巻市で、瓦礫の隙間を縫うようにして出てくる人々の中から偶然彼女を見つけ、無意識にシャッターを切ったとのこと、このカメラマンには、「阪神淡路大震災」の際に写真送信を担当する部署に所属していたため、震災を直接には取材しておらず、そのことが16年間「負い目」としてあったとのことです。

 写真の中では、園児5人が犠牲になった幼稚園バスの、そのぐしゃぐしゃになった車体の前で手を合わせ、園児らの名前を一人一人呼び続ける女性を撮った写真に心打たれましたが、この写真も、海外の通信社を経て世界中に配信されたとのこと―震災から10日後に北海道支社から応援取材のため現地に入ったカメラマンが、現地入りした翌日に撮ったものです。

 カメラマンにはカメラマンとしての「現場」との出会いがあり、記者らには記者らのそれがある―記者ら自身は、遺体を発見しても収容できないため放置するほかないような状況があったりして無力感に襲われる一方で、被災者たちが自分たちに救援を求めているのではなく(それは市職員や消防団員に求めている)、自分たちの体験した話を聞いて欲しいと思っているらしいことが次第に感じられるようになり、そのことが取材の動機づけになっているようにも思えました。

 個人的には、原発事故取材に付随する官邸や東電の取材に関する手記は、こうした手記とはやや異質で、極端に言えば、「津波」災害の取材に絞って1冊の本にしても良かったように思います(新聞社の内部政策上、そういう訳にはいかないのだろうが)。

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TV等では報じられない「遺体」というものを通し、それに関わった人々を描いた重厚なルポ。

遺体―震災、津波の果てに.bmp 『遺体―震災、津波の果てに』   石井 光太.bmp 石井光太 氏(略歴下記)

 東日本大震災のマスコミ報道などを見ていて、2万人近くの死者・行方不明者が出たと分かっていても今一つ実感がないのは、あまりにも膨大な犠牲者数であることもさることながら、自分たちがその一人一人の死に一度も直に触れてはいないということもあるのかも知れず、従って、どの町で何人亡くなったとかいった具合に数量的にブレイクダウンされていっても質的にはぴんとこないため、その非現実感が解消されにくいのかも知れません。

 TV報道などでは、当然のことながら死者の姿(遺体)が映し出されることはなく、また、遺体収容所(安置所)の様子さえも殆ど映像として流れることは無かった―遺体をTV映像として流すのは禁忌であるし、安置所の様子さえ写さないのも様々な配慮があってのことだと思いますが、そうしたことも実感の希薄さに繋がっているのかも知れません。

 本書は、ルポライターが震災直後に釜石市の被災現場に入り、被災者や救出・復旧活動にあたった人びと約200人を取材したものがベースになっていますが、とりわけ何らかの形で仕事として「遺体」に関わった人びとを抽出し、彼らの体験をドキュメントとして再現したものです。

 登場するのは、遺体の捜索・収容にあたった民生委員や市職員、消防団員や自衛隊員、安置所で検死やDNAサンプルの採取にあった医師や歯形の記録保存・照合にあたった歯科医師、葬送にあたった僧侶などで、後半は、火葬しきれない遺体を土葬するかどうかの判断を巡り、市職員らが苦渋の選択を迫られる場面もありますが、それぞれ人数を絞って、同一人物が時系列で何度か登場する形をとっており、そのため、細切れ感の無い、重層的で"重い"ルポルタージュとなっています。

 溺死した際の苦悶の表情を浮かべたままの遺体、瞼や鼻、口腔内に砂が詰まった遺体、搬送中に振動で口から海水や血液を放出する遺体、死後硬直で四肢曲がったまま戻らなくなった遺体、腐敗により気泡を発する遺体、津波の後に発生した火災により焼かれて炭のようになった遺体―読んでいてしばし言葉を失うというか、実際、本書に登場する僧侶でさえ、「神も仏も無い」という被災者の言葉に思わず頷いてしまいそうになるという―。

 自分の腕から流れ去った乳飲み子の遺体の前で泣き崩れる母親や、自分のよく知る人が目の前で津波に流された人もいれば、遺体収容にあった地元関係者の多くが、自分の知己・知人を遺体としてあちらこちらで見つけてしまうという事態に直面したりと、想像を絶する過酷な現実に向き合わされたのだなあと。

 こうした局面における宗教者の役割は大きいと改めて思いましたが、自ら遺体安置所の管理人になるべく名乗り出た民生委員が、前述の乳飲み子を亡くした母親の前で、遺体に向かって「ママは相太君のことを必死で守ろうとしたんだよ。自分を犠牲にしてでも助けたいと思っていたんだけど、どうしてもだめだった...相太君はいい子だからわかるよな。こんなやさしいママに恵まれてよかったな。短い間だけどあえて嬉しかったろ。また生まれ変わって会いにくるんだぞ」と語りかける場面は、この人こそ宗教者ではないかと。

 多くの同僚が精神的に参ってし映画「遺体」.jpgまい脱落していく中、最後まで頑張り通した市職員もいて、こうした人たちも含め、常識では耐えられないほどの精神的苦痛や苦悩に苛まれながらも、職責以上のことを果たした人が何人もいたのだなあと思わされました。

 全て関係者の目を通して書かれていて、ライターの主観を抑制した淡々とした筆致であるだけに逆に胸に迫るものがあり、単にTV等が禁忌として報じていない部分を露わにするという目的で書かれたものではなく、その時その場で起きた「生と死」のドキュメントをありのままに伝えることで、こうしたカタストロフィー的局面に直面した際の人間の不可能性と可能性といったものを描き出し、また読む者にそのことを考えさせる、重厚なルポルタージュでした。

2012年映画化 「遺体 明日への十日間」(2013年2月公開)
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石井 光太
1977(昭和52)年、東京生まれ。海外ルポをはじめとして貧困、医療、戦争、文化などをテーマに執筆。アジアの障害者や物乞いを追った『物乞う仏陀』、イスラームの性や売春を取材した『神の棄てた裸体』、世界最貧困層の生活を写真やイラストをつけて解説した『絶対貧困』、インドで体を傷つけられて物乞いをさせられる子供を描いた『レンタルチャイルド』、世界のスラムや路上生活者に関する写真エッセー集『地を這う祈り』など多数。

【2014年文庫化[新潮文庫]】

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入門書のわりにはかなり突っ込んで解説。マンガは"流れ"で説明できて分かり良いが...。

マンガでわかる相対性理論.bmp                     「相対性理論」を楽しむ本2.bmp
マンガでわかる相対性理論 (サイエンス・アイ新書)』['10年] 佐藤勝彦『「相対性理論」を楽しむ本―よくわかるアインシュタインの不思議な世界 (PHP文庫)』['98年]

 特殊相対性理論に絞って解説されているため、マンガを使った入門書とはいえ、入門書のわりにはかなり突っ込んで解説されているように思いました(巷では、これまでになく分かり易い入門書との評もあって購入したが、個人的には、結構難しく思えた部分があった)。

 タイトルを見ただけでは特殊相対性理論(=等速直線運動系)についてのみの解説書であって一般相対性理論(=加速度運動系)には触れられていないということが事前に分からないのは、佐藤勝彦 著『「相対性理論」を楽しむ本』('98年/PHP文庫)などもまったく同じで、まあ、入門書の読者に「特殊」とか「一般」とか言っても分かる人と分からない人がいるだろうし、「特殊」から入って「一般」に進むのが通常の習得コースなので、まあいいか。

 マンガというのは、コマ割りすることで"流れ"で説明できるので、静止的な解説図が1枚だけあるという構図よりは、ダイナミックで分かり良いかも知れませんし、極力、数式を用いずに解説し、その分、図に置き換えて視覚的に理解を深めさせようという狙いと、そのための工夫は買いたいと思います。

 但し、1ページに4、5コマならともかく、7コマ、8コマあって、その中で図解していたりすると、そうした箇所については、かなりごちゃごちゃした印象を受けざるを得ないようにも思いました。

 サイエンス・アイ新書は、全頁フルカラーが「売り」で、「写真」系でその特質を活かしているものと「解説」系でその特質を活かしているものがありますが、本書は典型的な後者。

 科学系新書の老舗「ブルーバックス」にある同分野の入門書などとは、また違った切り口の入門書のスタイルであることには違いないように思います。

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図説等での分かり易い説明。不眠症にもいろいろあるのだなあと。

不眠症の科学ド.jpg不眠症の科学.bmp
不眠症の科学 過労やストレスで寝つけない現代人が効率よく睡眠をとる方法とは? (サイエンス・アイ新書)

 睡眠のメカニズムや不眠症について、広く分かり易く解説されています。「昼寝をすると認知症になりやすい」「寝る子は育つ」といった言説は、必ずしも正しいとは言えないのだなあ。

 部分的にはかなり専門的な箇所もありますが、この新書レーベルの特長を生かして図説を多用し、例えば、総睡眠時間に占めるレム睡眠が比率が年齢と共に低下することなどが、グラフを用いて分かり易く示されています。

 睡眠障害には、大きく分けて、所謂「不眠症」のほかに「睡眠関連呼吸障害」「中枢性過眠症」「概日リズム睡眠障害」「睡眠時随伴症」「睡眠関連運動障害」などがあり、それぞれの中にまた幾つかの類型症状があって、「不眠症」だけでも、適応障害不眠症、精神生理性不眠障害、逆説性不眠症、気分障害・パニック障害、外傷性ストレス障害、不適切な睡眠衛生、薬剤もしくは物質による不眠症、内科的疾患による不眠症―といった具合に、原因別に様々な種類があることを知りました。

不眠症の科学2.bmp ナルコレプシー「中枢性過眠症」の一種で、「睡眠時随伴症」には反復孤発生睡眠麻痺などという難しい症状名もあり、悪夢障害や頭内爆発音症候群なんていうのもある。
 更には「睡眠関連運動障害」の中に"むずむず症候群"なんていうのもあって興味深いですが、医者がこれらをきちんと診断できるのかなあ。
 この辺りは、あまりに症状が多すぎて、やや網羅的になったキライもします(所謂「家庭の医学」的な本を読んでいる感じも)。

 不眠が及ぼす影響として、肥満や糖尿病、高血圧などが挙げれていますが、とりわけうつ病との関連が強調されていて、不眠症からうつ病にはなり易く、不眠症がありながらその治療をしなかった人のうつ病発症率は、不眠症の治療者の40倍という調査結果もあるそうです。

 興味深いのは、日本での不眠による経済的損失を年間3兆円強と試算していることで(交通事故の10倍以上)、さらに、過去に国内外で起きた大事故で、不眠に起因しているもの、不眠との関連が疑われるものを挙げています。

東名阪自動車玉突き事故(三重県鈴鹿市/2002年8月10日午前5時40分ごろ)
2002年 東名阪自動車道 玉突き事故.jpg 国内での不眠に起因する事故例として、'02年8月10日の東名阪自動車道玉突き事故(児童を含む2家族5人が焼死、6人が重軽傷)を挙げていますが、居眠り運転していた大型トレーラーの運転手は、事故直前の4日間で16時間しか寝ていなかったとのこと。しかし、こうした事故は繰り返関越自動車道高速バス居眠り運転事故.jpgされるもので、つい最近も、今年['12年]GW初めの4月29日に群馬県藤岡市で起きた関越自動車道高速バス居眠り運転事故で乗客7人が死亡、その外の乗客全員にあたる39人が重軽傷を負い、高速バスの衝突事故と軽井沢スキーバス転落事故.jpgしては史上最悪の被害をもたらしていますが、このバスの運転手は事故前にサービスエリアで、ハンドルに突っ伏して寝ていた寝ていたといいます。(その後、2016年1月15日、長野県北佐久郡軽井沢町の国道18号碓氷バイパスで所謂軽井沢スキーバス転落事故が発生。死亡者15名、負傷者26名。これも、過労運転や居眠り運転の可能性が疑われている。)

軽井沢スキーバス転落事故(長野県北佐久郡軽井沢町/2016年1月)

クレーン車が登校中の小学生に.jpg そう言えば、昨年['11年]4月18日には、栃木県鹿沼市でクレーン車が登校中の小学生に突っ込み、児童6人が死亡するという痛ましい大事故が起きており、運転手は居眠りをしていたと証言しているものの、運転手が会社を出てから3分しかたっていないことから、こちらはナルコレプシーによる事故であったことが疑われています。

登校の列にクレーン車(栃木県鹿沼市/2011年4月18日)

 うつ病も怖いけれど、運転手の睡眠不足や睡眠障害も怖いなあ(ツアーバスなどの場合、乗客は乗ってしまうと途中で降りるわけにもいかず、バスが何となくふらふら運行していたりした場合、一体どうすればいい?)。

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