2012年5月 Archives

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'74年の主な出来事を追った写真集。見る人が自分なりのイメージで見ることができるように上手にお膳立てしてみせる。

晴れた日 A Fine Day 1.jpg 晴れた日 A Fine Day 2.jpg  篠山 紀信 『晴れた日』.jpg
晴れた日―写真集 (1975年)』(30.7 x 23.3 x 3.8 cm)

 1974(昭和49)年の報道上の主な出来事を追って写真集にまとめたもので、グラフ誌(おそらく「アサヒグラフ」)の連載企画だったのではないでしょうか。

晴れた日76.JPG この1974(昭和49)年という年は、堀江謙一の「マーメイドⅢ」による西周り単独無寄港世界一周早回り記録達成、プロボクシングのジュニア・ミドル級チャンピオンだった輪島功一の7度目の防衛の失敗、シンガー・ソング・ライターのりりィの「私は泣いています」のヒット、野坂昭如などタレント候補が多く立候補した衆議院選挙、山口百恵の国民的アイドル人気の沸騰、オノ・ヨーコの来日、伊豆半島沖地震、ウォーターゲート事件によるニクソン大統領辞任、永遠のミスター・ジャイアンツ長嶋茂雄の引退...etc.と、今更ながら、いろいろな人がいて、いろいろなことがあったなあと思わされます。

晴れた日77.JPG 「しおり」に寄稿している五木寛之氏が、この人の写真には「思想」ではなく「視想」がみなぎっている―と書いていますが、確かに「思想」的色合いはゼロであり、タイトルの「晴れた」というのは、ある意味「虚無」にも通じるのかも。

 五木氏の言う「視想」というのはやや抽象的ですが、まさにその抽象性こそこの人の持ち味であり、台風で押し寄せる波や地震に晒された土地を撮った写真などは、報道写真というよりイメージ写真に近いかも。

晴れた日75.JPG 芸能人やスポーツ選手を撮っても同じようなことが言えるけれども、人物の方が風景よりも、フツーの人が見た場合に自分のイメージが付加しやすいかな。

 また、この人は、見る人が自分なりのイメージで見ることができるように上手にお膳立てしてみせるから、人物写真や、端的に言えばヌード写真などにおいて、その世界で永らくメジャーであり得たのだろうなあと(撮られる側は純粋な"客体"となることができる。三島由紀夫などは、撮られたい写真家のタイプだったのだろうなあ)。

 この写真集においても、人物を撮ったものの方が個人的には良いように思いますが、「報道写真」という流れの中で(「報道写真」にならないように)撮っているものと、最初からポートレートのような感じで撮っているものがあり、写真家自身、試行錯誤していたのか?

 本書はこの写真家の最高傑作との評価もありますが、個人的には、「報道写真」を撮らせてみたら、やはり「イメージ写真」みたくなったという感じで、そこがまたこの人らしいところなのでしょう。
  "巧まずして"そうなっているわけではなく、(世間一般で言うところの「報道写真」にならないように)計算ずくで撮っているのだろけどね。

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原爆後遺症の悲惨な実態をありのままにフィルムに記録した、社会派ルポルタージュ的写真集。

土門拳  ヒロシマ2.jpg ヒロシマ (1958年) 土門 拳.jpg
ヒロシマ (1958年)』(梱包サイズ(以下、同)30.7 x 23.3 x 3.8 cm) 写真図版点数165点/176p

ヒロシマ0.JPG 写真家の土門拳(1909-90)が、1957(昭和32)年、原爆投下から12年を経て初めて広島に行き、原爆症の後遺症の実態を目の当たりにして衝撃を受けたことを契機に出来あがった写真集で、翌'58(昭和33)年に刊行され、社会的にも大きな反響を呼んだとのことです。

 土門拳と言えば、古寺や仏像、或いは作家など著名人のポートレートを多く撮っている印象がありますが、「筑豊の子どもたち」シリーズのような社会派ドキュメンタリー風の作品集もあり、そうした中でもこの写真集は、最も社会派ルポルタージュ的色彩の強い写真集となっています。

ヒロシマ1.JPG 実際、当時土門拳は、それまでのヒロシマの実態に対する自らの無知を恥じ、「報道写真家」として使命のもとに広島に通い続けたとのことで、原爆病院などを訪ね、悲惨な被曝者やその家族の日常を7,800コマものフィルムに収めたとのこと、更に10年後に広島を再訪し、同じく後遺症に悩む被曝者を撮った『憎悪と失意の日日-ヒロシマはつづいている』を発表しています。

 この写真集は、ありのままを、作らず、包み隠さずに撮っているという印象で(後遺症の手術をしている最中の写真など、生々しいものも多くある)、被曝者たちが"頑張って生きています"といったような「演出」は施されていないように感じました。

ヒロシマ2.JPG 巻末の写真家本人による「広島ノート」によると、取材中も原爆病院等で被曝時に胎児だった子の死をはじめ多くの死に遭遇したようであり、写真家の心中は、被曝者たちの悲惨な実態を記録にとどめようとする思いで、只々一杯だったのではないでしょうか。

 原爆投下から12年を経た時点で(この「12 年」の意味合いは重い)、依然こうした被曝者の悲惨な実態がありながらも、そのことは世間的には次第に忘れられ、原爆は政治や国際問題のイシューとして論じられるようになっており、そのことに対して写真家は、自らの反省も踏まえつつ憤りを露わにしていますが、この写真集の写真が撮られた時代から更に半世紀以上を経た今日、その傾向はさらに進行したように思わます。

 そうした中、東日本大震災による福島第一原発事故が放射能被曝の脅威を喚起せしめることになったというのは、これまでの(唯一の被爆国であるわが国の)政府及び電力会社がとってきた原子力発電推進策に照らしても皮肉なことではありますが、それとて、どれぐらいのイメージを伴ってその脅威が人々にイメージされているかは、はなはだ心許無い気がします。

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「アトリエにおける」というところに、ドアノーの思い入れが込められていていい。

芸術家たちの肖像―ロベール・ドアノー写真集 01.jpg 芸術家たちの肖像―ロベール・ドアノー写真集 04.jpgロベール・ドアノー写真集 芸術家たちの肖像』['10年]
(32.4 x 25.4 x 2.6 cm)

 写真家ロベール・ドアノー(Robert Doisneau, 1912-1994)は、20代後半から晩年にかけて多くの画家や彫刻家のアトリエを訪問したり招かれたりしましたが、その際に撮ったアトリエにおける芸術家の写真集です。

芸術家たちの肖像―ロベール・ドアノー写真集 03.jpg 1930年代末から70年代末にかけて、さまざまな新聞雑誌に掲載されたものが主となっており、最初から1冊に纏める予定は無かったということで、彼の没後に娘のアネット・ドアノーが父の訪れた芸術家のアトリエを探訪したのを契機に、この写真集が成ったということのようです(原著刊行は'08年)。

 それにしても、「アトリエにおける芸術家」ということで見事にテーマが統一されていて、いずれは写真集にという思いが生前のドアノーにあったかどうかはともかく、「アトリエにおける」画家や彫刻家の姿には、心底から彼を惹きつけるものがあったのだろうなあと―。その辺りは、アントワーヌ・ド・べックの格調高い序文に詳しく述べられています、

芸術家たちの肖像―ロベール・ドアノー写真集 05.bmp ユトリロ、レジェ、デュシャン、デェビュッフェ、ピカソ、ジャコメッティなど著名な芸術家のアトリエでの様子が見られる一方で、個人的に知らない芸術家も多くありましたが、それぞれの経歴が付されていて親切で、日本人画家では、藤田嗣治と佐藤敦の写真が収められています。

 因みに、セザンヌ(1839-1906)については、ドアノーが生まれる前に故人となっており、画家本人を撮っているわけではなく、晩年を過ごしたアトリエを訪ね、1日をそこで過ごし、画家が描いた風景の中を散策して写真を撮っています(こうなると、芸術家よりもアトリエの方が、この写真集の主人公か)。

IMG_3148.JPG 『パリ-ロベール・ドアノー写真集』('09年/岩波書店)と同様、収録されている写真の幾つかに、ドアノーのエッセイ風のキャプションがついているのがよく、ユトリロ(1983-1955)については(この人、精神障害のリハビリとして絵を描き始めた)、結婚後は奥さんの支配下で、ほぼ囚人状態のようになりながら絵を描いていたことが、ドアノー自身の文章によってリアルに窺えます。

 著名な写真家による芸術家のポートレート集は数多ありますが(ピカソなどは数多くの写真家のモデルになっている)、やはり「アトリエにおける」というところに、巧まずしてドアノーの思い入れが込められているのっががいいです。
 
《読書MEMO》 
●収録芸術家たち
セザンヌ(画家),スゴンザック(画家),ギノ(彫刻家),エルナンデス(彫刻家),ガラニス(画家),ヴォジャンスキー(画家),ベラール(画家・舞台芸術家),ユトリロ(画家),デスピオー(彫刻家),フージュロン(画家),ワルシュ(画家),ポントレモリ(画家),ヴィユモ(画家),コルビュジエ(建築家),ユーゴー(画家),モーリス・デュヴァル(画家),エロー(蒐集家・人形作家),藤田嗣治(画家),ヴィヨン(画家),デュシャン(画家),フランソワ(画家),ピカソ(画家・彫刻家),ブラック(画家),ビュッフェ(画家),ドラン(画家),スタインバーグ(画家),セザール(彫刻家),モティ(画家),ラビス(画家),リオペル(画家),コルネイユ(画家),マッタ(画家),ユバック(写真家),ジャコメッティ(彫刻家),ロート(画家),ハイドゥ(陶器作家),ポリアコフ(画家),アルプ(彫刻家),フォンタナローザ(画家),キシュカ(画家),クリストフォロウ(画家),フォートリエ(画家),ラグランジュ(画家),佐藤 敬(画家),ラティエ(彫刻家),ブランクーシ(彫刻家),タンゲリー(彫刻家),ヴァザルリ(画家),イヴラル(キネティック・アーティスト),シェフェール(彫刻家),クルム(画家),シモン(画家),ジョーンズ(画家),ホックニー(画家),ヴォワザン(彫刻家),サックシック(画家),バゼーヌ(画家)

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「パリ」写真集として単体で一番纏まっている。588点をドアノー自身の文章と併せ贅沢に配置。

パリ ロベール・ドアノー写真集.jpg   ロベール・ドアノー47.jpg  ロベール・ドアノー131.jpg
(32.6 x 25.6 x 4.8 cm)『パリ―ロベール・ドアノー写真集

ロベール・ドアノー.jpgロベール・ドアノー210.jpg 以前に当ブックレビューでロベール・ドアノー(Robert Doisneau, 1912-1994)『パリ―ドアノー写真集(1)』('92年/リブロポート)を取り上げたら、その後暫くして本書が刊行されてしまいましたが、その間、'08年10月に日本橋三越でドアノー展があったりして、こうなる予感は当時あったような気がします(原著は'05年刊行)。今年('12年)は、ドアノーの「生誕100年記念写真展」が東京都写真美術館で3月から5月まで開かれていましたが(行こうと思いつつ遂に行けなかった...)、また新しい写真集が刊行されるのかなあ(この人の作品は40万点あるとのこと)。

ロベール・ドアノー301.jpg リブロポート版の124ページに対してこちらは393ページという圧倒的ヴォリューム、リブロポート版と重なる写真もあるものの、殆ど初めて見る作品であり、しかも、リブロポート版のような全集の内の一冊ではないため(全集の方は「パリ郊外」を撮った巻が別にある)、「パリ」という観点で見ると、単体でよりよく(一番)纏まっているという感じで、とてもいいです。

ロベール・ドアノー316.jpg 巻頭にドアノー自身によるエッセイ風の序文があり、また主だった写真には、雑誌などで発表された、これもドアノー自身によるキャプションがあって、中にはやはり短いエッセイ風になっているものもありますが、気のきいた文章も結構あって読むとなかなか面白く、この人、文章家でもあったのだなあと。

 ドアノーは、アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908‐2004)のような裕福な家庭の出ではなく、父親は配管工であったという庶民の出であり、最初はルノーに勤務して工場内の記録写真を担当していましたが、プリントの出来栄えにこだわるあまり遅刻が重なり、解雇されたとのこと。

ロベール・ドアノー335.jpg やがてヴォーグ・フランス誌などとフォトグラファーとして契約し、ファッション写真の仕事をしながら夜な夜なパリの街に出歩いて写真を撮っていたということで、ヴォーグ誌との契約からスタートしたところはヘルムート・ニュートン(1920-2004)に似ていますが、パリの街中を歩き回って夜のパリを撮影したところはブラッサイ(1899 - 1984)を思わせ、作品の雰囲気も、夜のパリを撮ったものはブラッサイに近いかも。

 但し、ブラッサイは異邦人の視点から、やや妖しげな娼婦や恋人達を多く撮りましたが、ドアノーは"庶民"に視線を合わせ、被写体の世界により身近に接しているという感じで、その分ユーモア乃至エスプリが効いていて、且つ、そこはかとない哀感が漂っていたりする作品が多いのが特徴でしょうか。第二次世界大戦中にはパリ解放時などの報道写真なども撮っていますが、そうした写真にも庶民の視点が窺えます。

パリ市庁舎前のキス.jpg 一方で、パリの恋人たちのキスの場面を捉えた代表作「パリ市庁舎前のキス」などが、被写体に予めモデルになることを依頼して撮った「演出作品」であったことが後に明らかになったのは有名な話です。

 でも、本書の表紙になっているアコーディオンの流しの女性などは、付されている文章を読む限りでは偶然の出会いであったようにとれ、その時その時に応じて、被写体になることを依頼したり(ドアノーなら気軽に声掛けしそう)、敢えてわざわざそうしたことをしなかったりしたのではないかなあ。

 30年代から80年代にかけての作品を収め、50年代のものが最も多いようですが、どの年代のものも良くて、この写真集で改めて、彼のユーモアセンス、庶民派感覚を見直しました。

 装丁は豪華で、588点もの写真を贅沢に配置、しかも、ドアノー自身のエッセイ風キャプション付きということで、一見一読、出来れば購入、の価値あり(この手の写真集は、定価無しの時価?)。

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50cm×70cm、重さ30kg、世界一巨大な写真集。 退廃的ムードは戦前のベルリン時代の面影?

Helmut Newton's Sumo.JPGsumo IMG_3537.JPGヘルムート・ニュートン sumo1-2.jpgHelmut Newton sumo.jpg 《横50 X 縦70 cm》(商品パッケージ(ステンレス製の専用テーブル付)の寸法: 120 x 80 x 15 cm)『Helmut Newton's Sumo』 (2000/01 Taschen)

Helmut Newton.jpg クールでエロティックな作風の中にも退廃的な雰囲気を漂わせるヘルムート・ニュートン(Helmut Newton、1920-2004)の作品集で、'99年までの代表作を網羅した"Sumo Book"としてタッシェン(Taschen)社から刊行され、ポートレート写真を掲載された100人以上の著名人がサインしたエディションNo.1は、'00年4月6日のベルリンでのオークションで、62万マルク(約3,200万円)で落札され、20世紀最高額の書籍となりました。

 縦70cm、横50cm、重さも30kg(総ページ数480ページ)もあり、世界一巨大な写真集と言われるもので、ステンレス製の専用テーブルが付いていますが、テーブルの上に載せたとしても、一度に真ん中辺のページを開くといったことは両手(両腕)を使わずには無理であり(15kgぐらいを抱えるのと同じ作業になる)、基本的には1ページずつめくって観賞することになるかと思います。

 ニュートンはベルリンの裕福なユダヤ人家庭に生まれ、早くから写真家を志すようになり、1936年からベルリンのファッション及び演劇専門の女性写真家エルセ・サイモン(通称イヴァ)の見習になりますが、その後ナチの迫害を逃れてシンガポールに渡り、1940年にオーストラリアに移り市民権を獲得しています(この間にオーストラリア人女性と結婚)。

ヘルムート・ニュートン sumo3.jpg ヴォーグ・オーストラリア版の仕事を皮切りに、1957~1958年にはヴォーグ・イギリス版と契約、1962年にパリに移りヴォーグ・フランス版の仕事がきっかけで実力が認められるようになり、その後60年~70年代にかけて、ヴォーグに限らず、マリークレール、エル、シュテルン、プレイボーイ各誌で活躍します。

ヘルムート・ニュートン sumo5.jpg 1971年に心臓発作を起こし、自分の身体のことを考えて雑誌やクライアントのプレッシャーを受けながら写真を撮ることを止め、自分の望む写真しか撮らなくなりますが、エロティシズムの中にもヨーロッパ上流階級の退廃的な雰囲気や潜在的な暴力を感じさせる、本書の大半を占めるそうした作品群は、戦前のベルリン時代の自身の体験が影響しているものと思われます。

ヘルムート・ニュートン sumo7.jpg フェティズム、男装の麗人、売春婦などをモチーフとしている作品が多いため、当初はポルノチックだとの評価でしたが、時代の変化とともにオリジナリティが評価されるようになり、70年代後半以降、徐々にアーティストとしての地位を確立していきます。

ヘルムート・ニュートン sumo4.jpg 80歳を過ぎても現役で活躍しましたが(広告用の商業写真も撮り続けた。この人の場合、芸術か商業写真かという区分けはあまり意味が無いように思う)、'04年にハリウッドで、自らが運転するキャデラックが壁に激突して事故死―、う~ん、50代初めの心臓発作で自身の身体を気遣うようになった彼が、83歳で自動車事故死したというのは、ヒトの運命はわからない...。

ヘルムート・ニュートン sumo6.jpg この写真集が日本で発売された当初の価格は約20万円で、一時かなりの高額になりましたが(もともと投機狙いでの購入した人が多かったのでは)、書籍というよりインテリアみたいな感じでしょうか。クオリティ面ではけちのつけようが無い完璧な写真集。あとは「好み」と「置き場所」の問題になるのでは。専用テーブルに常時置いておくとテーブルが斜めであるため、表紙が"自重"でほんの僅かですが右下方向にずれてきてしまうという現象が起きてしまいました。普段は平らな場所に保管しておくのがいいのかも。

 '09年には、"Sumo Book"10周年として刊行されたコンパクト・サイズのハードカバー新版が日本でも発売され、こちらも同じく約480ページですが、サイズは横26.7 cm、縦37.4 cmで、専用ブック・ホルダー付とのことです(商品パッケージの寸法:43.2 x 30.5 x 10.2 cm)。

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津波災害を撮ったグラフ誌の中では、その凄まじさにおいて一段抜けている。

巨大津波が襲った 3・11大震災.jpg 河北新報 巨大津波が襲った1.jpg     河北新報のいちばん長い日.gif
巨大津波が襲った3・11大震災―発生から10日間の記録 緊急出版特別報道写真集』(2011/04 河北新報社)/『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』(2011/10 文藝春秋)

岩手日報社 特別報道写真集.jpg '11年4月上旬刊行で、個人的には、かなり後になって大型書店で見つけたのですが、これまで見たどのグラフ誌よりも、津波災害の凄まじさ、恐ろしさを如実に伝えるものとなっているように思いました。

 とりわけ、宮古市の職員が市役所の5階から撮影したという、海岸沿いの国道に津波が押し寄せた瞬間の写真は、これほどはっきり津波と襲来を映したものは数少ないのではないかと思われ、この場面の前後26分間がビデオ撮影もされていて、「科学映像館」のサイトで公開されています(このシークエンスは、岩手日報宮古支局のカメラマンも同じ場所から撮影しており、『岩手日報社 特別報道写真集 平成の三陸大津波―東日本大震災 岩手の記録』('11年6月/メディア・パル)の表紙にも使われ、本編で連続写真として掲載されている)。

岩手日報社 特別報道写真集 平成の三陸大津波 東日本大震災 岩手の記録

 写真で津波の先端が隆起して見えるのは、高さ4メートルの防潮壁を今まさに乗り越えたことによるものであって、防潮壁があることによって、それを乗り越えた際に津波の勢いが増したようにも思えます。

 津波の高さには様々な測り方があるようですが(確かに厳密に"高さ"を規定するのは難しいと思う)、「東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループ」の資料によると、「津波が駈け上がった高さ」は、宮古市で39.2メートルとなっており、これは、大船渡市で記録した40.0メートルに次ぐものとなっています(調査機関・測定ポイント・測り方の違いによって数字は異なる)。

河北新報 巨大津波が襲った2.jpg この他にも、大津波が陸に押し寄せて家屋を飲み込む瞬間(名取市)や、一夜明けて壊滅的な被害を受けた町の様子(南三陸町)など、生々しい写真が多くあります。

 地元紙らしく、最後には、復興へ向けて皆で力を合わせ、前向きに取り組もうとする人々の姿もとらえていますが、本誌そのものが震災後10日間にフォーカスしているため、やはり、大部分を占める各地の被害の爪後を記録した写真が、ただただ重苦しく胸に迫ってきます。

 東日本大震災の報道写真集は、3月下旬に中央紙の系列出版社や出版局で、『復刊アサヒグラフ 東北関東大震災 2011年 3/30号』(3/23)、『サンデー毎日緊急増刊 東日本大震災 2011年 4/2号』(3/24)などのグラフ誌が刊行され、続いて、震災後1ヵ月を区切りとして4月下旬に、産経新聞社が『闘う日本 東日本大震災1カ月の全記録』(4/22)、朝日新聞社が『報道写真全記録2011.3.11-4.11 東日本大震災』(4/28)をそれぞれ刊行し、読売新聞社も『東日本大震災―読売新聞報道写真集』を4月下旬に刊行しています。

 この河北新報社のものは、解説記事を最小限に抑えて写真をメインに据え、それぞれの写真に簡単なキャプションを付すに留めていますが、それが却って写真の迫力、震災の凄まじさを如実に伝えるものとなっています。

 だったら他の「グラフ誌」も同じではないか、ということになりますが、やはり地元紙らしく、被災地の目線に立った写真が多いように思われ、これを撮影した際の記者やカメラマンの胸中を思うと、見ているだけで胸が詰まります。

 一方で、空撮写真も多く、被災時の地域の姿を記録しようという記者達の執念が感じられますが、後に刊行されTVドラマにもなった震災ドキュメント『河北新報のいちばん長い日―震災下の地元紙』(2011/10 文藝春秋)を読むと、震災当日は自社ヘリコプターが使えず、他社のヘリの末席にカメラマン1人だけが同乗させてもらって写真を撮ったとのことです。

 また、同書を読むと、当時の号外は協力社・新潟日報の支援を受けて発行し、翌日以降の朝刊の刊行も、記事取材・印刷ともに困難を極める中で成し遂げられたとのことで、取材には地元の利があったと思われがちですが、実は自分たちも被災しため大変だったようです(震災翌日から3日間のトップ紙面が本誌巻末に掲載されている)。

 雑誌「アエラ」が4月下旬に『東日本大震災 レンズが震えた 世界のフォトグラファーの決定版写真集』という増刊号を出しましたが、松岡正剛氏が、こっちの河北版の方が胸に迫る、というようなことを書いていたように思います。

 「悲劇」を有名写真家が撮ると「芸術」になってしまうことがあり、それがいいのか悪いのか、という議論は、報道写真家の間では、例えばナチスによるユダヤ人虐殺の悲劇乃至その爪後を撮った写真を巡っての論争などがあったように思います。

 松岡氏は、「アエラ」の有名写真家の写真は、その「悲劇」の部分を写真家自身が吸収してしまっているのではないか、というようなこととを言っていたように思いますが、この河北新報の写真は、記者やカメラマンが写すだけで精一杯で、「悲劇」を吸収しきれないまま次の現場に行き、またそこで「悲劇」を見るということの繰り返しの中で撮られたもののように思いました。

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没後47年。やっと成ったライフワーク写真集。失われようとする数多くの「日本」が見てとれる。

木村伊兵衛 の秋田 2.jpg木村伊兵衛 の秋田.jpg (28.8 x 24 x 4 cm)『木村伊兵衛の秋田』 ['11年]
「市場にて」(1953年2月・大曲市)/「青年」(1952年6月・秋田市)

木村伊兵衛 の秋田 農村の娘.jpg 木村伊兵衛(1901‐1974)の生誕110周年記念出版とのことですが、代表作「秋田」シリーズは、今まで『木村伊兵写真全集―昭和時代(全4巻)』('84年/筑摩書房、'01年改版)の内の第4巻として「秋田民俗」というのがあったり、或いは『定本木村伊兵衛』('02年/朝日新聞社)などの傑作選の中にその一部が収められていたりしたものの、こうした形で1冊に纏まったものはあまり無かったように思います(没後に非売品として『木村伊兵衛 秋田』('78年/ニコンサロンブックス、ソフトカバー)が刊行されている)。

 この写真集の監修をした田沼武能氏の解説によると、'52(昭和27)年に秋田に行って「これだ」と思うものがあったらしく、その後'54(昭和29)年にパリでカルティエ=ブレッソンに会ってから、秋田で撮影に一層弾みがついたとのこと、以来、'71(昭和46)年まで計21回、秋田に通うことになったとのことです。

(1953年8月・西木村)

 '50年に設立された日本写真家協会の初代会長に就任し、写真雑誌の投稿写真コンテストの選考・論評を通じてアマチュア写真の指導者としても第一線の現場にいて多忙であったことを考えると('55年に第3回「菊池寛賞」を受賞)、かなり精力的な活動ぶりと言えるかと思います。''

 特に多く撮られているのは、秋田通いを始めた最初の数年と、'58(昭和33)年から'63(昭和38)年の間のもので、田沼氏によれば、木村伊兵衛は秋田を撮り始めて2、3年した頃から写真集を作ろうと考えていたようだったとのことですが、結局、ライフワークとも呼べる作品群でありながら、在命中に写真集という形には成らなかったとのことです(それにしても、没後47年にしての刊行は待たせすぎ)。

木村伊兵衛 の秋田 おばこ.jpg 木村伊兵衛が指向していたものは、テーマがあっちこっちに飛ぶ「傑作集」ではなく、こうした1つの対象を突きつめた「作品集」だったんだろうなあ。"報道写真家"を目指し、またそのことを自負していたようだし。

 「秋田」訪問初期のものは人物のスナップ写真が多く、次第に人々の暮らしぶりや祭りの様子など周辺の生活風景を含めた写真が多くなっていきますが、この辺りにも「写真集」への意識が窺えます。

木村伊兵衛 の秋田 ベタ焼き.jpg

 田沼氏の解説の中に、フィルムのベタ焼き(コンタクト)が多数あり、傑作と言われる「板塀」や「青年」などの作品が、どのような流れで撮られ、どのフィルムが選ばれたかが分かるようになっていて、更になぜその写真が選ばれたのかまで考察していたりして、なかなか興味深いです。

「秋田おばこ」(1953年8月・大曲市)

 「秋田おばこ」は、この被写体の女性(モデル女性は実は農民ではなく、かと言ってプロのモデルでもなく、秋田在住の普通のお嬢さんだったとのこと)だけで30枚以上撮っているんだなあ(採用したのは1枚のみ)。

 撮影対象によって、自分が動いたり、定点観察的に撮ったりしていますが、基本的には(望遠を使用した場合でも)目の高さが基準で、どちらかと言うと初期のものの方がダイナミックかも(田沼氏も、撮影を始めた頃の意気込みが感じられると)。但し、トリミングは一切行っていません。

木村伊兵衛 の秋田 雪国.jpg 木村伊兵衛が"報道写真家"を目指すにあたって、「絵画」の領域に近いユージン・スミスを指向するか、「映画」のキャメラマンの領域に近いカルティエ=ブレッソンを指向するかの選択があったわけですが、木村自身"スナップの天才"と言われたように、元々素質的にカルティエ=ブレッソン型だったのではないでしょうか。

 「秋田」シリーズの初期のものに対しての当初の世の評価は「風俗的で、意見がない」というもので、木村自身(本心からそう思っていたかどうかは判らないが)「風俗写真の域を出ない」と言っていたこともあったようです。じゃあ「芸術写真」を撮ろうとしているのかというとそうではなく、あくまで「報道写真」を撮ろうとしていたのでしょう。但し、彼の作品は、「秋田」シリーズという作品群で捉えるとまさに「報道写真」の域を超えているわけで、ロバート・キャパなどマグナムの写真家らのように予めストーリーを練り上げて被写体に臨むのではなく、被写体の側からテーマやストーリーを滲ませるというのが、この人の特質でないかと思われます。

(1953年2月・大曲市)

「母と子」 秋田・大曲 1959年.jpg 昭和30年代と言えば、日本が高度成長期に入ろうとする頃、或いは、すでにその只中にいる時期であり、但し、それは都市部における胎動、または喧騒や混乱であって、この写真集の「秋田」においては、その脈音やざわめきがまだ聞こえてこない―「秋田」に定点観測的に的を絞ったのは、この写真シリーズの最大成功要因と思われ、この写真集を見る日本人にとっては、そこに、これからまさに失われようとする数多くの「日本」が見てとるのではないでしょうか。

「母と子」(1959年・大曲市)

 それらが、ただ甘いノスタルジーで語られるような牧歌的ものではなく、むしろ、農村の生活の厳しさを滲ませたものであるだけに、見る者の心に、その時代をその土地で生きた人々への共感と畏敬の念を喚起させるのかもしれません。

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モノクロ線画で描かれている点に、正確な形状へのこだわりを感じる。一級品。

イラスト・アニマル-動物細密・生態画集.jpg   アニマルイラスト967.JPG
( 27.8 x 19.8 x 4.8 cm)『イラスト・アニマル―動物細密・生態画集』(1987/08 平凡社)

アニマルイラスト2971.JPG 全534ページのかなり本格的な動物イラスト集(全てモノクロ)で、霊長類、哺乳類、鳥類、両生類・ハ虫類、魚類、さらには昆虫、甲殻類、軟体動物など、無脊椎動物も一部カバーしています。

 本書で動物画を描いている画家は、青山晃ほか15名に及びますが、更に監修者の方はとなると、今泉吉典(動物図鑑監修の常連だったなあ)ほか50名近くになり、正確さを期すことにウェイトが置かれていることが窺えます。

アニマルイラスト2972.JPG 量的な本格度もさることながら、「図鑑」ではなく「動物細密・生態画集」と謳っているように、全編モノクロで描かれていること(線画用の細い筆を使っていると思われる)が、却って正確な形状へのこだわりを感じさせます。

 画家の方も、近似種との相違点や、生態の特徴などを意識して描いているように思われ、むしろ、これだけ精緻なイラストを、たった16人で描き分けていることの方が驚きかも。

アニマルイラスト2973.JPG 本当に動物が好きな人、或いは、動物好きでそうした動物に関する知識を吸収中の子供などは、1ページ1ページめくって、自分の知識やイメージを確かめつつ、解説等を併せて読み、傍に親や友人、更には同好の士などがいれば、その生態を語り始める―といった感じになるでは。

 実際に、図書館で借りて、最初の霊長類のところを開くや否や、アイアイの手が描かれているのを見た子供に、これで木の臍にいるアリを掻き出して捕食するとの講釈を、早速受けました。

アニマルイラスト2974.JPG 「図鑑」ではなく「イラスト」、それもまさに第一級の「動物細密・生態画集」です。

 ホントのところは購入したいのだけど、やや値段が張るのが難点でしょうか。改訂は難しいとしても、復刻しないかなあ。学術上の問題か何かあって、できないのかなあ(古書になっても価格は安くならないんだよね、このレベルの本は)。

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各作品の初読、再読への契機になれば、ということか。

手塚治虫クロニクル2.jpg 『手塚治虫クロニクル 1968~1989 (光文社新書)手塚治虫クロニクル1.jpg 『手塚治虫クロニクル 1946~1967 (光文社新書)

 手塚治虫のデビューから22年間の間に発表された25作品の抜粋を収めた「1946~1967」年版の"上巻"に続き、その"下巻"に当たる「1968~1989」年版は、後半22年間に発表された23作品を、ほぼ年毎に1話ずつ掲載しています。

ブラック・ジャック.jpg空気の底 野郎と断崖.jpgきりひと讃歌 COM 上巻.jpg 収録作品は、『空気の底/野郎と断崖』('68年・40歳)、『火の鳥 鳳凰編』('69年・40歳)、『きりひと讃歌』('70年・41歳)、『ライオンブックス 百物語』('71年・42歳)、『ブッダ』('72年・43歳)、『ブラック・ジャック/アナフィラキシー』('73年・45歳)、『三つ目がとおる/めおと岩がくっついた』('74年・45歳)、『雨ふり小僧』('75年・46歳)、『ユニコ/ふるさとをたずねて』('76年・48歳)、『メタモルフォーゼ/聖なる広場の物語』('77年・48歳)、『未来人カオス』('78年・49歳)、『ドン・ドラキュラ陽だまりの樹001.jpg/なんちゅうかドラキュラ』('79年・50歳)、『鉄腕アトム/アトム対アトラスの巻』('80年・52歳)、『陽だまりの樹/腑分け』('80年・52歳)、『七色い野郎と断崖.jpgんこ/R・U・R』('81年・53歳)、『プライム・ローズ』('82年・53歳)、『アドルフに告ぐ』('83年・54歳)、『牙人/アマゾンの匂い』('84年・56歳)、『ブッキラによろしく!/夜明けのデート』('85年・56歳)、『ミッドナイト/ブラック・ジャック登場』('86年・57歳)、『グリンゴ』('87年・58歳)、『ネオ・ファウスト』('88年・59歳)、『ルードウィヒ・B』('89年・60歳)となっています。

 読み切りのものは、出来るだけ1話そのままを載せるよう配慮しているようで、冒頭に『空気の底』の「野郎と断崖」がきているのは渋いと言うか、嬉しいと言うか。但し、後半期になると取り上げるべき長編大作が多くなるので、その中でも1話完結のものはまだしも、『火の鳥』や『ネオ・ファウスト』のさわりだけ紹介されても...という感じはあります(中編で途中で話が切れるのも欲求不満になるけれど)。

「野郎と断崖」

 まあ、他の作品との時間的位置付けの確認という意味はあるかも知れませんが、結局、実際には、長編と短編を同時に描いたり、複数の長編を同時期に並行して連載したりしているわけです。『グリンゴ』、『ネオ・ファウスト』、『ルードウィヒ・B』の最後3作が未完ということは、長編を3作同時に連載していたということになり(スゴイね)、『ネオ・ファウスト』が"絶筆"ということになるようです。

 本書はどちらかと言うと("上巻"も含め)、手塚作品に久しぶりに触れてみたいけれど1作ずつ当たるのはちょっと...という人や、書店でふと目について懐かしさに駆られたという人に買われたのではないかな。

 若い人はどうなんだろうか。今、職業漫画とかややマニアックなものが全盛である一方、手塚作品のような大きな世界観を持った作品は少ない気がするけれど、そうした若い人を読者に引きこむ上では、本書の編集スタイル(悪く言えば、編集を半ば放棄したようなスタイル)はやや弱いかなという気もします。ただ個人的には、自分自身もこうして取り上げられた代表作の中にさえまだ読んでない作品は幾つもあり、それらの時間的位置付けを意識しながら(それが意識できるのが本書の良さか)、各作品に当たってみるのも、またいいかも知れないと思った次第です。

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怪奇画、怪獣画のイメージが強いが、美人画もいい。大正・昭和的なノスタルジー感がある。

石原 豪人『新装版 石原豪人(らんぷの本)』.jpg石原豪人08.jpg 石原豪人82.jpg 石原豪人29歳頃.jpg
新装版 石原豪人---「エロス」と「怪奇」を描いたイラストレーター (らんぷの本)』 /「宇宙巨人ジャイアン」[昭和42年4月9日「少年マガジン」ほか/「日本は沈んでいく!」[昭和48年9月「小学四年生」]/石原豪人(1923-1998/享年75)29歳の頃

石原豪人 らんぷの本.jpg石原豪人10.jpg 昭和40年代頃の少年雑誌には「大図解」というグラビアページがあり、「未来世界」「怪奇現象」「怪人」といったテーマで様々な絵が描かれていましたが、そうした挿絵画の常連画家だったのが石原豪人(ごうじん)でした。

石原豪人 (らんぷの本)』(2004)

石原豪人90-91.jpg 本書は'04年に刊行されたものの新装版で、表紙が「怪奇」に「エロス」が加わって、より豪人らしくなったのかな? いずれにせよ、この価格でこれだけ石原豪人の作品を見られたのはお得だったかも(その後、2017年に再度「新装版」が刊行された)

石原豪人20.jpg 作品を「怪人画」「妖怪画」「怪獣画」「幽霊画」「探偵小説の挿絵」「虚構世界」等ジャンル別に収め、解説を付していますが、スポーツ画や少女雑誌の挿絵などもあって、何でもござれだったんだなあと。

「マンボウ情報局」扉絵[「マンガボーイズ」平成6年9月]

 個人的にはやはり「怪奇画」「怪獣画」のイメージが強いのですが、美人画も良くて、それも、セクシー美女や芸能人の似顔絵に限らず、老若男女を問わず何を描いても色気があり、やはりこの人、振り返ってみればある種"天才"だったのだなあと。

 「林月光」の名でSM雑誌の挿絵も多く描いていて、それらも少ないながらもオミットせずに紹介されていますが(編者は美術館学芸員)、少年雑誌が「まんが誌」化し、「大図解」などの入る余地が無くなったために、こっちの仕事が多くなったという経緯があったのだなあ(彼自身、まんがにも挑戦しているが、1コマ1コマが細密過ぎて体力が持たず、続かなかったとのこと)。

石原豪人75.jpg 高度成長期が終わって、豪人のパワフル過ぎる絵が時代にそぐわなくなってきたという編者の分析もありますが、それが、昭和の終わりから平成にかけて、所謂"おたく"と呼ばれる人たちの間で再注目され、結局、最晩年まで現役で活躍しました。

「松虫」(神谷敬里(=栗本薫)/文)[「ジュネ」昭和54年8月]

 実際に本書にも、平成に入ってからの作品も結構ありますが、常に新境地を開拓しつつも、どの絵を見ても、昭和初期から30年代前半までの街頭紙芝居の絵の雰囲気をどこか保持していて、日本的(大正・昭和的)なノスタルジー感を秘めています。

 こんな絵を描いている人がどんな人柄で、どのようなプライベート生活を送っていたかというと、生真面目な職人気質で、家庭では子煩悩であったようです(自作の怪人衣装でコスプレして、息子の遊び相手をしている写真がある。編集者らと息子を連れて釣りに行った時は、自分はさっぱりだったが、息子のために釣れる場所を一生懸命探していたとか)。

 でも、仕事部屋に電話が2台あって、石原豪人と林月光で使い分けていたというから、ちょっと江戸川乱歩っぽく、また文才もあって、『謎解き坊ちゃん』という著作もあるという―「坊ちゃん」解釈にこだわりを持っていて、「登場人物全員ホモ説」を唱えた―何だか面白い人だなあ。

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