2023年6月 Archives

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母と娘の葛藤と相克。ある意味、作者自身に近い作品でもあるのかも。

『イグアナの娘』1994.jpg『イグアナの娘」3.jpg 「イグアナの娘」ドラマ.png
イグアナの娘 (小学館文庫 はA 21)』['00年] TVドラマ「イグアナの娘」(菅野美穂)
イグアナの娘 (PFコミックス)』['94年]

 青島ゆりこは、長女・リカの出産直後からリカの姿が醜いイグアナに見えてしまい、どうしても愛することができずにいた。一方で、次女・マミは普通の可愛い人間の姿に見えるため、ゆりこはマミを溺愛し、リカにはますます冷たく接する。そしてリカ自身も、鏡に映る自分の姿がイグアナに見えるようになり、そのため母親にも愛されず、恋愛もできない、幸せになれないと思い込むようになってしまう。大学に進学したリカは恋愛し、卒業と同時に結婚し親元を離れ、幸せを実感する。やがて出産したが、自分の子供がイグアナではなく人間の姿に見えることで子供を愛することができないでいた。そのとき、突然の母の訃報を受け実家に戻ったリカは、母の死に顔が自分そっくりのイグアナであることに驚き、ようやく母を許すことができた―。

 「イグアナの娘」は月刊少女漫画雑誌「プチフラワー」(小学館)の'92(平成4)年5月号に掲載された50ページの短編作品で、本作品を表題作とするこの作品集は、他に「カタルシス」「午後の日射し」「学校に行くクスリ」「友人K」を所収。どれも悪くなく、どこか心理小説っぽくどこかファンタジックですが、やはり、「イグアナの娘」のインパクトが飛び抜けているでしょうか。

 母に愛されない娘と娘を愛せない母親の葛藤と相克の物語ですが、そう言えば最近では、湊かなえ原作、廣木隆一 監督の映画「母性」('22年/ワーナー・ブラザース映画)などは似たモチーフだったし、アカデミー賞を席巻した「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」 ('22年/米)なども詰まるところ母親と娘の相克がベースとなっていたわけで、これっていつの時代にもあるテーマなのだなあと。

 ただし、ある意味、作者自身に近い作品でもあるのかも。実際、作者は「私小説にいちばん近いのは『イグアナの娘』」と長嶋有との対談で語っています。

 作者の場合、2歳で絵を描き、4歳で漫画や本を読み始めたそうですが、母親が「漫画は頭の悪い子が読むもの」と叱るので、漫画を読むのも描くのも親に隠れて行っていて、母親にいつも「勉強しろ」と追いたてられ、成績の悪い子とは付き合うなとか、教科書以外の本は読んではいけないとか、姉や妹と比較されては四六時中怒られていて、成績の良くなかった作者は家にいるのが辛く、漫画家になり上京して独立住まいをするようになってからも、母親に対する反発は心の中に無意識にくすぶり続けたとのことです。

 「最初は自分では気づかなかったのだけど、デビューして2年目ぐらいに『あなたの作品って、いつもお母さんがいなかったり、死んだりするのね』って言われて、『あれそうなのかな?』って。それで、母親を登場させたくない自分の内面心理について振り返り始めたりしました」と本人も語っていて、親との関係を見つめるため心理学を勉強し始め、内なる親から解き放たれるために、'80年に親殺しをテーマにした『メッシュ』の連載を開始し、その流れを引き継ぎ、厳格だった母親との対立を基にして'92年に描いたのが本作品であるとのことです(Wikipediaより)。

 描くことでトラウマから自分を解放したという感じでしょうか。したがって、心理小説っぽい作品集の中でも、心理学的なメタファーが特に効いている作品かと思います(それにしても少女漫画でイグアナとは!)。

「イグアナの娘」ドラマ2.jpg 本作は'96(平成8)年4月15日から 6月24日、テレビ朝日系「月曜ドラマ・イン」枠で「イグアナの娘」として菅野美穂主演で放送されました(全11話)。初回視聴率7.9%と低調だったのが、最終回には番組最高視聴率となった19.4%を記録しており、初回と最終回の視聴率の差が2.45倍と2倍以上を記録した20世紀最後のテレビドラマになったとのことです(一部で話題になっているから取り敢えず観てみたら、意外と面白かったということか)。

「イグアナの娘」ドラマ4.jpg ドラマでは、青島ゆりこ(川島なお美)は実はイグアナ姫で、人間に恋して魔法使いに人間の姿にしてもらったというのは原作と同じですが、なぜ人間に恋したかというと、夫の正則(草刈正雄)がガラパゴス諸島に訪れた際に命を救ったウミイグアナが彼女だったという説明がされていました。原作にはその部分の説明が無く、イグアナ姫がいきなり魔法使いを訪ねて、「人間の王子様」に恋してしまったので人間の女の子にしてほしいとお願いするところから始まります。何故だろう。謎解き的要素を持たせたのか? それにしては、正則がガラパゴスに行ったり、ウミイグアナを救ったりする場面は原作マンがでは最後まで無かったなあ。

「イグアナの娘」●演出:今井和久/新城毅彦●脚本:岡田惠和●音楽:寺嶋民哉●原作:萩尾望都●出演:菅野美穂/岡田義徳/小嶺麗奈/佐藤仁美/山口耕史/小松みゆき/井澤健/榎本加奈子/川島なお美/草刈正雄●放映:1996/04~06(全11回)●放送局:テレビ朝日

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テーマ性、表現力もさることながら、「原潜国家」というコンセプトがピカイチ。

『沈黙の艦隊』1989.jpg  「沈黙の艦隊」2023.jpg
沈黙の艦隊 (1) (モーニングKC (192))』  映画「沈黙の艦隊」(2023)大沢たかお/玉木宏/江口洋介
沈黙の艦隊 全32巻完結(モーニングKC ) [マーケットプレイス コミックセット]
『沈黙の艦隊』32a.jpg 千葉県犬吠埼沖で、海上自衛隊の潜水艦「やまなみ」がソ連の原子力潜水艦と衝突し沈没、「やまなみ」艦長の海江田四郎二等海佐以下全乗員76名の生存が絶望的という事故の報道は日本に衝撃を与える。しかし、海江田以下「やまなみ」乗員は生存していた。実は、彼らは日米共謀により極秘に建造された日本初の原子力潜水艦「シーバット」の乗員に選ばれており、事故は彼らを日本初の原潜に乗務させるための偽装工作だったのである。アメリカ海軍第7艦隊所属となった日本初の原潜「シーバット」は、海江田の指揮のもと高知県足摺岬沖での試験航海に臨む。しかしその途中、海江田は突如艦内で全乗員と共に反乱を起こし、音響魚雷で米海軍の監視から姿をくらまし逃亡。以降、海江田を国家元首とする独立戦闘国家「やまと」を名乗る。さらに出港時、「シーバット」改め「やまと」は核弾頭を積載した可能性が高い事が発覚する。アメリカ合衆国大統領ニコラス・J・ベネットは、海江田を危険な核テロリストとして抹殺を図る。一方、海江田は天才的な操艦術と原潜の優れた性能、核兵器(の脅威)を武器に、自らの思想を喧伝し実現すべく、「やまと」を駆使して日本やアメリカやロシア、国際連合に対峙してゆくこととなる―。

沈黙の艦隊 全16巻セット 講談社漫画文庫
『沈黙の艦隊』全14.jpg 1988(昭和63)年(44号)から1996(平成8)年まで「モーニング」(講談社)に連載され、1990年に第14回「講談社漫画賞(一般部門)」を受賞した作品。2023年1月時点で紙・電子を合わせ累計発行部数は3200万部というからスゴイことです(初版の巻数は全32巻)。この度映画化され、今年['23年]9月に公開予定だそうです。

 この漫画がヒットした理由として、あとがきで時尾輝彦氏が、 ①日米安保や核など軍事問題から、国『沈黙の艦隊』全8.jpg連、軍産複合体など政治経済までを取り込んだ《高いテーマ性》、 ②「ピンガー」「アップトリム」「急速潜航」「有線魚雷」など軍事的専門用語を随所にちりばめ、さらに、孫子などの古典的戦略家の格言を適度に織り交ぜたセリフの《巧みな表現力》、 ③「原潜国家」「やまと保険」などの荒唐無稽な世界の《縦横無尽な創造力と骨太な構成力》を挙げていますが、要を得ているのではないでしょうか。個人的には③の「原潜国家」というコンセプトがやはり白眉と言うか、ピカイチだと思います。

 先に映画化された福井晴敏『亡国のイージス』('99年/講談社)が、この作品に似ているとよく言われますが、確かに同じ海上自衛隊のパニック映画ですが、『亡国のイージス』のストーリーは映画「ダイ・ハード」('88年/米)がベースで、盛り上がり部分は「ザ・ロック」('96年/米)に近いと言われています。「ザ・ロック」も個人が国家に立ち向かう話ですが、『沈黙の艦隊』みたいな国家に立ち向かう「原潜国家」というコンセプトとなると、これまでも無かったし、今後もちょっと真似できないだろなあという感じでしょうか。

「沈黙の艦隊」ナイフ.jpg ただし、まさに荒唐無稽であり、突っ込みどころも満載。1発しか原爆を持たない原潜国家が何千発もの原爆を有する大国と果たして「対等」に渡り合えるかとか、そうした疑問を抱き始めると物語の枠組みそのものが成り立たないので、そこは、荒唐無稽は荒唐無稽でよしとすべきかも(ほかにも、潜水艦の傷は深海の水圧で艦体が潰れる危険を招くのに、艦長の海江田が艦殻に「やまと」とナイフで刻んでいる点などが変だとされている)。

レッド・オクトーバーを追え!2.jpg 個人的には、トム・クランシー原作の小説『レッド・オクトーバーを追え (上・下)』('85年/文春文庫)で、レッド・オクトーバーが破壊されたとソビエトに確信させるため偽装する場面があって(映画「レッド・オクトーバーを追え!」('90年/米)ではこの部分が描かれていない!)、作者はこれなども参考にしたのではないかなと思っています。

「レッド・スコーピオン」の艦長ロブコフ.jpg「レッド・スコーピオン」の艦長ロブコフ2.jpgロッキー4 01.jpg ソ連の原潜「レッド・スコーピオン」の艦長ロブコフが、「ロッキー4 炎の友情」('85年/米)でドルフ・ラングレンが演じたロッキーの敵役のソ連人ボクサー、ドラゴのキャラそのままなのが可笑しいです(そのドルフ・ラングレンの主演作が、ソ連の特殊部隊兵士の活躍を描いた「レッド・スコルピオン」('85年/米))。
 
 ただ、こうしたお遊びはまだしも、写真家・柴田三雄(故人。もともと「non-no」の専属カメラマンだったのが、なぜか軍事写真家に転じた)の撮った写真を約50点無断でトレースして使ったりして訴訟問題にもなっていて、この騒動が起こるまでトレースが公然の秘密で黙認されてきたことにありましたが、さすがに50点は多すぎ(作者側が全面謝罪・補償した)。

サブマリン707.jpg 他にも、小澤さとる氏の同じく潜水艦漫画の『サブマリン707』や『青の6号』からの盗用もあるようで、ちょっと残念な気がします(『サブマリン707』の潜水艦の戦闘シーンは鮮烈な記憶があり、何となく似ていたシーンもあった気がするが、どの部分が模倣なのかはっきりはしない)。

 映画化については、昨年['22年]2月にロシアがウクライナに侵攻して以来、問われ続けている問題が「ロシアは核兵器を使うのか」ということであり、ある意味タイムリーなのかもしれませんが、映画化作品自体はあまり期待しすぎない方がいいかもという気もしています(まあ、観に行ければ行くかも)。

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大腸がんの実体験をリアルかつ緻密に描く。でも、どことなくほのぼのとした詩情。

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断腸亭にちじょう (1) (サンデーうぇぶり)

『断腸亭にちじょう 』.jpg 2023(令和5)年・第27回「手塚治虫文化賞新生賞」受賞作。

 2019年1月、ステージ4の大腸がんを告知された、ひねくれ漫画家39歳の闘病生活を描いたコミックエッセイ。がんを宣告されてからの不安や絶望感、大病院での検査の連続とひたすら長い待ち時間、抗がん剤の副作用など、作者の実体験による心身の変化を、リアルかつ緻密に描く―。

 小学館「サンデーうぇぶり」にて2021年11月28日より連載開始。昨年['22年]5月に単行本の第1巻(第1話~第10話)、今年['23年]5月第2巻(第11話~第19話)が刊行され、今月[6月]末、第3巻が刊行される予定となっています。

 この作者の漫画、どことなくほのぼのとした詩情があっていいです(第1巻の帯に「私小説ガン闘病記」、第2巻の帯に「詩的ガン闘病記」とある)。こういう雰囲気のがん闘病記って、漫画に限らず今まであまりなかったかも。

 でも作者は、ステージ4の大腸がんであるわけで、精神的にも肉体的にもぎりぎりのところで描いているのだろなあ。実際(詩情があるとは言ったが)切実な内容の作品でもあり、綺麗事はいっさい無いです。抗がん剤治療やその副作用は実に辛そうだし、何にでもすがりたい気持ちからか、代替医療を行う"怪しいクリニック"にも通ったりします。

 絶望し、何かに対して罵りたくなりながらも、一方で、どこか透徹した目で、時にユーモアを交え(かなりシニカルなものが多いが)、最終的に「読ませる漫画」に仕上げているというのは、結構スゴイことかもしれません(もしかしたら、描くことがセラピー的な効果をもたらしているのかも)。

 作者は「手塚賞」の授賞式には来ていましたが、手塚賞の社外選考委員のマンガ家の里中満智子氏(彼女も以前にがんを患った)から激励を受けたとし、「里中さんからエネルギーをビームのように貰いました」と感謝していました。ただし、授賞式の模様を映したネット動画では、選考委員まで会場で紹介されているのに対し、作者については、映像は公開されず、壇上での受賞挨拶は音声のみでした。

 「なんかすごい賞をいただいちゃって。過分な評価をされて、正直悪い気はしないというか、うれしいです」と切り出し、笑いを誘いましたが、大腸がんは肝臓に転移したとのことで、一方で、「連載当初は体調を心配してもらいましたが、放射線治療がうまくいって、手術から3年半がたって、今は健康に問題なく漫画が描けている状況です」と説明していました。

 「連載が続くこと=命が続くこと」みたいな感じになっていますが、何とか「寛解」で終わってほしいマンガです。

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乳がん治療記。強いなあ。「私の体のボスは私」。「あなた」に向けて書いたと。

『くもをさがす』.jpg『くもをさがす』c.jpgくもをさがす

『くもをさがす』p.jpg 2021年コロナ禍の最中、滞在先のカナダで浸潤性乳管がんを宣告された著者が、乳がん発覚から治療を終えるまでの約8カ月間を克明に描いたノンフィクション・がん治療記です。

 この本の印象は、帯に推薦文を書いている人が非常に的確に表現しているように思いました。引用させてもらうと、以下の通り。

・思い通りにならないことと、幸せでいることは同時に成り立つと改めて教わったよう。―ジェーン・スー(コラムニスト)

・読みながらずっと泣きそうで、でも一滴も泣かなかった。そこにはあまりにもまっすぐな精神と肉体と視線があって、私はその神々しさにただ圧倒され続けていた。西さんの生きる世界に生きているだけで、彼女と出会う前から、私はずっと救われていたに違いない。―金原ひとみ(作家)

・ 剥き出しなのにつややかで、奪われているわけじゃなくて与えられているものを知らせてくれて、眩しかったです。関西弁のカナダ人たちも最高でした。―ヒコロヒーさん(お笑い芸人)

 著者は、2015年、『サラバ!』で第152回「直木賞」を受賞しているだけあり、文章が上手いし、今回が初のノンフィクション(エッセイは書いている)とのことですが、以前(直木賞受賞前)読んだ著者の小説よりも面白かったかもしれません。

 著者が見て感じたもの―それは恐怖を引き起こすものであるのに、著者はどこまでもそれに凜として向き合っていて、強いなあ、いいなあ、と思いました。乳がんの治療の日々は、本来は辛いはずですが、現地の医師や看護師との遣り取りが関西弁になっているといったユーモラスな仕掛けもあったりします(著者は、あくまで「治療」であるとして、「闘病」という言葉を使わないようにしたという)。

 カナダと日本の治療の違いは興味深かったです。両乳房を摘出したのに、当日退院だなんて凄すぎ。カナダの医療は国民皆保険である上に、原則として患者の自己負担は無いようで、そうしたことと表裏関係にあるのかもしれません。

 因みに、著者は、2012年に結婚、2017年に第1子を出産していますが、2019年12月、2年間の語学留学として家族でカナダ・バンクーバーに転居し、2022年末に帰国し、現在は東京在住とのこと。この本の中では、子どもが体調を崩したことなどがちょっとだけ出てくるぐらいで、この辺りのプライベートなことがほとんど書かれていないのも本書の特徴かも。家族のことより猫のことの方が書かれています(笑)(でも、あとがきにはちゃんと夫と息子への謝辞がある)。

 性格的には根っからの大阪人であるとのことですが、小学5年生まで海外生活だったとのこと。「個」が強いと言うか、確立されている人なのだろなあ。両乳房を切断して即時に「再建しない」と決断したのも、遺伝的要因があることが判明したため予防的に両乳房を切除したという事情があったにしても、「私の体のボスは私」という強い信念があってのことだと思います。

 がん宣告を受けてから日記を書き始め、ほぼ同時進行でこの文章を書いたとのこと。最初は出版の予定はなく、誰に向けて書いているかも分からなかったものが、いつからか、これは「あなた」に向けて書いているのだと気づいた、どこにいるか分からない「あなた」に―というのも良かったです(最初から出版を目指していたのなら、もっとパターナルなものなっていたかも)。

《読書MEMO》
●西加奈子初のノンフィクション『くもをさがす』が28万部突破!「世界一受けたい授業 2時間SP」への出演決定!(2023年9月2日放送)
『くもをさがす』t.jpg

●<西加奈子>乳がん治療経験 「ありたい姿」や幸せのをかたちを捉え直す 桑子真帆アナと「クローズアップ現代」に(2024年1月16日放送)
西 加奈子 クローズアップ現代.jpg

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さらっと読めて、それでいて楽しかった。海外生活経験と大阪の遺伝子の融合。

『ごはんぐるり』.jpg『ごはんぐるり』文庫.jpgごはんぐるり (文春文庫)
『ごはんぐるり』

 2015年に『サラバ!』で第152回「直木賞」を受賞した著者による食エッセイで、「NHKきょうの料理」テキストの2008年10月号から2010年10月号、並びに「NHKきょうの料理ビギナーズ」テキストの2012年2月号から5月号に連載されたものに、大幅に加筆・修正を加えたものです。

 さらっと読めて、それでいて楽しかったです。〈小学生のときカイロで食べた卵かけごはんが、いままでで一番おいしかった〉と言うように、著者は父の赴任先だったイラン・テヘラン生まれで、その後エジプト・カイロに移り、小学5年生まで海外生活だったという経験の持ち主です。

 直木賞受賞作もそうですが、著者の小説は、どこまでがフィクションでどこまでが実際に著者が経験したことか分からない部分があります。もちろん他の作家でもそうしたことは大いにありますが、著者の場合、作者とも重なると思われる主人公のこともさることながら、登場人物として家族のことが書かれていたりして、それが気になって入り込めない部分がありました。

 その点、エッセイの場合は、最初から自分の経験を書いていることがはっきりしているわけで、そんなことを気にせずに読めて良かったです。自分は、著者の小説のあまりいい読み手ではないですが、エッセイとの相性はまずまずいいのかも(もちろん、著者の作品は小説の方が好みという人もいておかしくないが)。

 帰国子女が書いた食エッセイというと、どこかお高くとまっている印象を与えがちですが、〈なぜ大阪のおばさんは、いつもアメちゃん持っていて、絶妙なタイミングで「好きなん選び」と薦めてくるのか〉と言いながら、自身も性格的には根っからの大阪人であることを認めていて、さばけた感じがして好感を持てました。

 一方で、〈小説のなかで出会った未知の食べ物―アップル・ジェリーつき塩ふりクラッカー・グレイヴィーでとろ煮にしたマーモットの肉・そこに種が沈んでいる甘いレモネードとタフィー! それってどんな食べ物?と想像の羽をふくらませた日々〉といった具合に、多くの海外文学作品などから、食に関する記述を引いており、この辺りはさすが作家です。

 著者自らが希望して調理実習したというトルコ、セネガル、ベネズエラ、フィンランドの家庭料理の紹介は楽しかったし、と思えば、コンビニで買ったスナック菓子をがつがつ食べてお腹いっぱいになった話などもあって、食エッセイでこれだけ"幅広い"のは珍しいかもしれません。

 子ども時代の海外生活経験と大阪の遺伝子の融合とでも言うべきでしょうか。飾らずに食オンチを自認していて、〈夢は男子校の寮母になって、とんかつやしょうが焼きをがつがつ食べてもらうこと〉だなんて言っており、読んでいて肩がこらないエッセイでした。

【2016年文庫化[文春文庫]】

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「作品×時系列」という体系に沿った集中インタビュー。小説より面白かったかも。

大江健三郎 作家自身を語る (単行本).jpg大江健三郎 作家自身を語る (新潮文庫)2.jpg大江健三郎 作家自身を語る (新潮文庫).jpg
大江健三郎 作家自身を語る』['07年]/『大江健三郎 作家自身を語る (新潮文庫)

 今年['23年]3月に亡くなった大江健三郎(1935-2023/88歳没)が2006年、71歳の時に受けたインタビュー集で、作家生活50年を前にして、内容としては主に、これまでの自分の作品を時系列で振り返ったものであり、対話による「自伝」とも言えます(読売新聞映像部によるCS放送の連続番組として収録されたため、このインタビューは全5枚組のDVDになった)。

 2007年に単行本として刊行されましたが、2013年の文庫化に際して、2012年1月から2013年8月にかけて、東日本震災後の深刻な事態と並走しながら文芸誌『群像』に17回にわたって連載した『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』(2013年/講談社)を巡るロングインタビューを増補しています。

 よくあるバラバラのインタビュー集と異なり、「作品×時系列」という体系に沿った集中インタビューであり、読み易く、また、内容的にも貴重なものであり、興味深く読めました(もしかしたら、小説より面白かったかも。面白いから文庫化されたのでは)

 第1章で、自分が作家になるまでを自伝的に語り、以下の章で、作品を6期に分けて振り返るという全7章の校正ですが、改めて6期のうちの後半3期の作品は個人的にはほとんど読んでいないことに気づき、やや愕然としました。でも、世間的にもそうした傾向はあるのではないでしょうか。

 よって、自作への言及は、主に自分が読んだ作品を中心に読むことになりましたが、それでも、その作品が書かれた背景や当時の評価など、ああ、そうだったのかといった気づきはあったように思います。作品論についてここに書いていると「解説の解説」のようになるので書きませんが、個人的にはそれ以外のことでは、海外の作家との交流の思い出を語っているのが興味深かったです。

ペドロ・パラモ iwanami.jpg 例えば、メキシコの『ペドロ・パラモ』という、死んだ人間と生きている人間が同じ村に住んでいるような小説がありますが、メキシコに滞在した際に、作家が来るかもしれないということで連れていかれた店で、隣に座った老人がフランス語で語りかけてきて、「君はメキシコの小説家を知っているか?」と訊かれ「作品なら知っている。本当にいい小説なんだ」と説明したところ、「もしかしたら『ペドロ・パラモ』という小説じゃないか?」と言われ、「そうだ」と言ったら、「自分がその小説を書いた人間だ」と。その老人がファン・ルルフォだったのだなあ(笑)(文庫148-150p)。

 ドイツのギュンター・グラスとも『ブリキの太鼓』の邦訳が出るかで出ないかの頃に知り合っているし(文庫152p)(因みに、大江がノーベル文学賞受賞者を受賞したのは1994年、グラスは1999年)、ル・クレジオを日本ペンクラブの世界大会に招聘する手紙を書いたら、丁寧な返事を貰い、「君の短編が好きだ」と書いてあったけれど、内容から見て安部公房の『壁』のことだったというのが可笑しいです(ル・クレジオは2008年にノーベル賞を受賞)。大江がノーベル賞を貰った時もガルシア=マルケスから、安部公房が受賞すると思ったと率直に言われたと(文庫234p)(ガルシア=マルケス自身は1982年に受賞している)。

 そのほか、なぜ丸いめがねをかけているのかといった質問などもあって、「作家も学者も、だいたい丸いめがねをかけていると(笑)」。折口信夫、柳田邦夫、サルトル、ジョイスとか、と(文庫221p)。こうした遣り取りも結構あるのは聞き手が女性であるせいでしょうか。

 巻末に作家に対する106のQ&Aが付されていて、これもその人柄などが分かって楽しく読めました。井上ひさしのことを天才と評価しているなあ(Q33)。安部公房と一時期絶交したというのは本当だったのだなあ。でも、こちらも天才としてその作品は読んでいると(Q34)。ノーべル賞を受賞して困ったことも困らなくなったこともないと言っています(Q50)。

 全体を通して、こつこつ真面目に努力する人、自分の信念を曲げない人だなという印象を持ちました。でも、やはり、自分の作品の評価は気になるようですが、これは作家なら皆そういうものでしょう。

【3013年文庫化[新潮文庫]】

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「●「谷崎潤一郎賞」受賞作」の インデックッスへ

作者の前・後期の境目にあり両者を繋ぐ作品。"平面的"から"立体的"になった。

『万延元年のフットボール』00」.jpg
「万延元年のフットボール」 大江健三郎 純文学書下ろし特別作品 1967年11月』『万延元年のフットボール (講談社文庫)』['71年]『万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)』['88年]

 1967(昭和42)年度・第3回「谷崎潤一郎賞」受賞作。

 英語専任講師・根所蜜三郎と妻・菜採子の間に生まれた子には頭蓋に重篤な障害があり、養育施設に預けられている。蜜三郎のたった一人の親友は異常な姿で縊死した。蜜三郎と菜採子の関係は冷めきり、菜採子は酒に溺れている。蜜三郎の弟・鷹四は60年安保の学生運動に参加後に転向し渡米、放浪して帰国する。米国で故郷の倉屋敷を買い取りたいというスーパー・マーケット経営者の朝鮮人(スーパーマーケットの天皇)に出会い、その取引を進めるためだ。蜜三郎夫婦は、鷹四に、生活を一新する契機にしてはと提案され、鷹四と彼を信奉する年少の星男、桃子とともに郷里の森の谷間の村に帰郷する。倉屋敷は庄屋だった曽祖父が建てたもので、曽祖父の弟は百年前の万延元年の一揆の指導者だった。曽祖父の弟の一揆後の身の上については、兄弟で見解が違う。鷹四の考えでは騒動を収束させるために保身を図る曽祖父により殺されたとされ、蜜三郎の考えでは曽祖父の手を借りて逃亡したと。鷹四は曽祖父の弟を英雄視している。実家には父母は既に亡くなっており、戦後予科練から復員した兄弟の兄・S兄さんは、戦後の混乱で生じた朝鮮人部落の襲撃で命を落としていた。兄弟の妹は知的障害があり、父母の死後に伯父の家に貰われていったが、そこで自殺した。倉屋敷は小作人の大食病の女ジン夫婦が管理している。S兄さんの最期についても兄弟で食い違う。当時幼児だった鷹四は、朝鮮人部落襲撃時のS兄さんの英雄的な姿を記憶しているが、蜜三郎は、S兄さんは、騒動の調停の死者数の帳尻合わせで日本人の側から引き渡され殺された哀れな犠牲者だったと。村はスーパー・マーケットの強力な影響下にあり、個人商店は行き詰まってスーパーに借金を負っている。スーパーの資本で村の青年たちは養鶏場を経営していたが、寒さで鶏が全滅する。その事後策を相談されたことから、鷹四は青年たちに信頼され、青年たちを訓練指導するためのフットボール・チームを結成する。妻の菜採子は、退嬰的に一人閉じこもる蜜三郎から離れ、快活に活動する鷹四らと活動を共にするようになる。鷹四はチームに万延元年の一揆の様子などを伝え、チームに暴力的なムードが高まる。正月に大雪が降り、村の通信や交通が途絶されると、チームを中心に村全体によるスーパーの略奪が起きる。暴動は伝承の御霊信仰の念仏踊りに鼓舞された祝祭的なものだった。鷹四は菜採子と姦淫するようになったが、村の娘を強姦殺人したことから青年たちの信奉を失い、猟銃で頭を撃ち抜いて自殺する。自殺の直前、鷹四は蜜三郎に「本当の事をいおうか」と過去に自殺した知的障害のあった妹を言いくるめて近親相姦していたことを告白する。鷹四の破滅的な暴力の傾向は、自己処罰の感情からきていた。雪が止み、交通が復活した村にスーパー・マーケットの天皇が倉屋敷解体のために現れ、スーパー略奪は不問に付される。倉屋敷の地下倉が発見され、曽祖父の弟は逃亡したのではなく、地下で自己幽閉して明治初頭の第二の一揆を指揮・成功させ、その後も自由民権の流れを見守ったことが判明する。夫婦は和解し、養護施設から子供を引き取り、菜採子が受胎している鷹四の子供を産み育てることを決意、蜜三郎はオファーのあったアフリカでの通訳の仕事を引き受けることにする―。

 今年['23年]3月に亡くなった大江健三郎(1935-2023/88歳没)の長編小説で、作者の数ある作品の中でも最高傑作との呼び声が高く、また、ノーベル文学賞の受賞理由として挙げられた作者の5作品の中でも、特に評価が高かった作品でもあります(実際、ストーリーを振り返るだけで、面白い)。

 この作品を読むに際しては、同じくその5作品の1つである前作『個人的な体験』を先に読むといいと思います。『個人的な体験』の主人公・鳥(バード)も予備校の教員で、少年期よりアフリカに行くという夢を持ち続けていて、子が出生した際に頭部に重篤な障害があることが分かった際も、障害児の親となることから逃避して、アフリカへ行くことを思い描いていましたたが、ある時急に、子どもに手術を受けさせ、子どもを育てようと思い直します。このように、この作品と様々な点で、共通または対照的関係にあると言えます。

 そして、この作品は、『個人的な体験』と並んで(『個人的な体験』のところでもそう書いたが)大江文学の前期と後期の境目にあり、かつ両者を繋ぐ作品である言えます。文芸評論家的に言えば、前期の「人間像の提示」というモチーフが示されなくなり(『個人的な体験』にはまだそれが残っているか)、後期の「世界像の提示」というモチーフが同作から現れ、個人的に言わせてもらえれば作品が"平面的"なのものから"立体的"なものに変化したという印象です。

 ただ、これも言わせてもらえれば、大江文学のピーク時の作品であり(『<死者の奢り』から10年くらいでピークに達したことになるが)、それまで短い期間に何度も作風を変化させてきた作者が、ここに1つの完成形をみたのはいいけれど、その後の作品は、多分にこの作品のリフレイン的要素が強いものが多かったように思います(同じモチーフやテーマが何度も出てくる)。

 この小説が「空想小説」的なモチーフでありながら、一定のリアリティを持って読めるのは、作者の先祖に実際にこの小説に出てくる人物に似たような人がいたこと(長兄をモデルにした予科練帰りの登場人物はその典型)、作者が幼い頃、実家の使用人だった語り部のような老女から明治初期に地元で起きた一揆の話を聞かされていたこと、作者自身が自分の故郷を念頭に置いて、はっきりしたイメージを持ちながら書いていること、などがその理由としてあげられるのではないかということを、作者の死没を契機に、文庫解説並びに『大江健三郎 作家自身を語る』('07年/新潮社、、'13年/新潮文庫)を読み直してでみて思った次第です。

『万延元年のフットボール』.jpg『万延元年のフットボール』単行本.jpg【1971年文庫化[講談社文庫]/1988年再文庫化[講談社文芸文庫]】
 
  
 
「万延元年のフットボール」 大江健三郎 純文学書下ろし特別作品 1967年11月
 
 

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

講談社文芸文庫

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影響を受けている『ラスト・チャイルド』を超える広がりと奥行き(重み)。

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われら闇より天を見る』クリス・ウィタカー

『われら闇より天を見る』1p.jpg 米カリフォルニア州の海沿いの町ケープ・ヘイヴン。自称無法者の少女ダッチェス・ラドリーは、30年前に自身の妹シシーを亡くした事故から立ち直れずにいる母親スターと、まだ幼い弟ロビンとともに、世の理不尽に抗いながら懸命に日々を送っていた。町の警察署長ウォーカー(ウォーク)は、件(くだん)の事故で親友のヴィンセント・キングが逮捕されるに至った証言をいまだに悔いており、過去に囚われたまま生きていた。彼らの町に刑期を終えたヴィンセントが帰って来る。彼の帰還は町の平穏を乱し、ダッチェスとウォークを巻き込んでいく。そして、ダッチェス姉弟の身に新たな悲劇が降りかかる―。

『われら闇より天を見る』e1.jpg『われら闇より天を見る』e2.jpg 2020年8月原著刊(原題:We Begin at the End)で、2021年「英国推理作家協会ゴールド・ダガー賞」受賞作。日本では、2022(令和4) 年度「週刊文春ミステリーベスト10」(海外部門)第1位、宝島社・2023(令和5)年版「このミステリーがすごい!」(海外編)第1位、早川書房・2023年版「ミステリが読みたい!」(海外編)第1位、2023年・第20回「本屋大賞」(翻訳小説部門)第1位で、特に、年末ミステリランキングで4年間ほぼ1位を独占状態だった同じ英国ミステリ作家のアンソニー・ホロヴィッツの牙城を崩したのは大きいと思います(因みにホロヴィッツの新作『殺しへのライン』は「週刊文春ミステリーベスト10」第2位、「このミステリーがすごい!」第2位、「ミステリが読みたい!」第2位、「本格ミステリ・ベスト10」第2位)。

 主人公の13歳の少女ダッチェス・ラドリーのタフさが良かったです。言わないでもいい憎タレ口を叩いて、そのお陰でしなくてもいい苦労を抱え込んでいる面もありますが、弟ロビンを守ろうとする気持ちにうたれます(それが結果として逆効果になることもあるが)。いつも弟ロビンの傍に居ようとしますが、肝心な時に傍に居てやれなかったのは皮肉です。

 それと、姉弟を見守り続ける警察署長のウォーク。30年前、15歳だった姉弟の母スター・ラドリーとヴィンセント、今は弁護士になっているマーサ・メイと彼ウォークの4人の幼馴染はいつも行動を共にしており、その思い出から抜けきれない彼ですが、ヴィンセントが誤ってスターの妹シシーを車で轢いた際、ヴィンセントの車の痕跡に気づいて警察に証言したのも彼で、複雑な感情を抱いて生きています。しかも、誰にも秘密にしていますが、パーキンソン病という難病を患っています。

 ダッチェスとウォーク以外にも印象的なキャラクターが多く登場し、姉弟の祖父でモンタナの農場で暮らすハルや、新たな事件の容疑者とされるも否認することもなく、起訴され裁判にかけられても一切を黙秘したままで通すヴィンセントがそれに当たります。ダッチェスに何かと優しく接してくるハルの知人である優しい老婦人ドリー(実は凄惨な過去を抱えている)や、ダッチェスを慕い、彼女とパーティで踊ることを至上の歓びとする黒人少年トーマス(小児麻痺を抱えている)などもそうです。

 物語は邦題からも予測されるように、最後に姉弟にとってのハッピーエンドとなりますが、最後の1行により、それは実にほろ苦い終わり方となっています。加えて、そこに至るまでに、ある者は非業の死を遂げ、ある者は自死の道を選びます。とりわけこの物語を重いものにしているのは、ヴィンセント・キングの存在であり、すべてを諦めたかのように見える彼は、実は贖罪のために生きていたような人物だったのだなあと読後に思いました。

ラスト・チャイルド ポケミス.jpg 作者は、かつてロンドンの金融街でファイナンシャル・トレーダーとして働いていましたが、「アメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)」「英国推理作家協会イアン・フレミング・スチール・ダガー賞」W受賞作である米国ミステリ作家のジョン・ハ―トの『ラスト・チャイルド』(2010年/ハヤカワ・ミステリ)を読んで感動し、成功した弁護士であるハートが、妻子ある身で事務所を辞めて作家になる決断をしたと知り、昇進の道を自ら断って会社を辞め、スペインに移住して執筆に専念、2016年刊の『消えた子供 トールオークスの秘密』(2018年/集英社文庫)で、翌年の「英国推理作家協会ジョン・クリーシー・ダガー賞(新人賞)」を受賞しています。

 そう言えば、『ラスト・チャイルド』も、環境に負けない健気な心意気の少年が主人公で、ミステリと言うより"文学作品"的であり、この『われら闇より天を見る』と共通する要素があるように思いました。因みに、『消えた子供 トールオークスの秘密』も、ギャングに憧れる男子高校生マニーが主人公で、それがこの『われら闇より天を見る』では、中学1年生の女の子が主人公になっているわけです。

 また、作者はジョン・グリシャムやスティーヴン・キングなども愛読したそうで、確かにこの小説にも短いながらも法廷場面があるし、ひとつの町で怪事件が連続して起きる点はキングの小説と似ています。ただし、第1部でケープ・ヘイヴンを舞台にしていたのが、第2部ではモンタナへと舞台が移り、さらに第3部に入るとロードノヴェルの様相を呈してきて、その分広がりがあるように思いました。

 さらには、ヴィンセント・キングのキャラクターに象徴されるような奥行き(重み)もあり、個人的には米国作家であるフォークナー的な雰囲気を感じました。ただし、作者自身はイギリス人作家であるわけで、それがデビュー以来、一貫してアメリカを小説の舞台にしているのは、本人へのインタビューによれば、「アメリカは犯罪小説を書く作家にとって理想的な舞台だから」というのがその理由だそうです。確かに、この物語のスケールの大きさは、イギリスよりもアメリカがその舞台に相応しく、『ラスト・チャイルド』の影響も受けているとは思いますが(ジョン・ハ―トは原著に推薦の辞を寄せている)、個人的には、この作品はその上をいくのではないかと思いました。

《読書MEMO》
●メディア紹介
2022年
・8月16日 讀賣新聞「エンターテインメント小説月評」にて紹介
・8月18日 「北上ラジオ」にて紹介
・8月29日 Web「COLORFUL」にて北上次郎さんによる紹介
・9月1日 Web「翻訳ミステリー大賞シンジケート」にて紹介
・9月8日 「週刊文春」(文藝春秋)2022年9月15日号にて池上冬樹さんによる書評掲載
・9月9日 Web「ジャーロ」の「ミステリ作家は死ぬ日まで、黄色い部屋の夢を見るか?~阿津川辰海・読書日記~」にて紹介
・9月16日 「本の雑誌」2022年10月号にて吉野仁さんによる紹介
・9月17日 日本経済新聞・読書面にて千街晶之さんによる紹介
・10月4日 Web「日刊ゲンダイデジタル」にて紹介
・11月24日 PodCast「Hideo Kojima presents Brain Structure」にて小島秀夫さんによるご紹介
・11月25日 「ハヤカワミステリマガジン」(早川書房)2023年1月号にて「ミステリが読みたい! 2023年1月号 海外篇」第1位
・12月5日 「このミステリーがすごい! 2023年版」(宝島社)にて「このミステリーがすごい! 2023年版 海外編」第1位
・12月8日 CBCラジオ「朝PON」にて大矢博子さんによる紹介
・12月8日 「週刊文春」(文藝春秋)2022年12月15日号にて「週刊文春ミステリーベスト10 2022年海外部門」第1位
・12月10日 朝日新聞にて杉江松恋さんによる紹介

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