2021年9月 Archives

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コメディはしっかり作るべきところはしっかり作ってこそ面白くなるという見本。

珍説忠臣蔵 1953 - コピー.jpg[珍説忠臣蔵 ポスター.jpg 珍説忠臣蔵  1.jpg
珍説忠臣蔵 [DVD] STD-113
横山エンタツ/古川緑波/伴淳三郎/柳家金語楼

 松の廊下の一件にも懲りず、密輸、米の買占め、人身売売から高利貸と吉良上野介(伴淳三郎)の悪徳ぶりは輪に輪をかける有様に、江戸市民の怨嗟が高まる。浪人のアルバイト、辻講釈師の晴山(一竜斎貞山)は「赤穂の浪士が討入りでもしなけりゃ、講談にならねえや」と気を揉むが、果然、浪人達の地下活動は始まっていた珍説忠臣蔵  2.jpg。居酒屋、夜鷹ソバ売り、按摩、飴売り等々に身をやつして吉良邸を窺う一方、主謀の大石(古川緑波)は祇園で放蕩三昧の体(てい)を装う。美男子の珍説忠臣蔵  3.jpg自分に参った娘お艶(星美智子)の父が吉良邸出入りの大工頭梁・平兵衛(柳家金語楼)と知って色仕掛で邸の設計図を持ち出させた岡野(木戸新太郎)は、やがてお艶に真の愛情を感じた。吉良の悪徳いよいよ加わり、晴山が街頭演説でさかんにアジるものの、所詮は庶民の非力さ。そんな中、商人・亜茶兵衛(花菱アチャコ)の支援もあって、やがて討入りも迫り、岡野はお艶を訪れるが、一切を知った平兵衛は「もっと強く抱きつけ!」とお艶を煽るのだった。討入り成功。晴れ上った江戸の空の下で晴山は首尾整った赤穂義士伝を滔々として弁じ立てる―。

横山エンタツ(鴨坂辰内)・伴淳三郎(吉良上野介)/古川緑波(大石内蔵助)・相馬千恵子(苅藻太夫)
「珍説忠臣蔵」4.jpg 1953(昭和28)年公開の斎藤寅次郎監督作。古川緑波、伴淳三郎、柳家金語楼、横山エンタツ、花菱アチャコ、木戸新太郎、堺駿二、清水金一などの喜劇人が総出演しています。互いに共演の多い面子ですが、古川緑波、伴淳三郎、柳家金語楼、横山エンタツ、花菱アチャコらを一つの作品で観られるのは、この作品ぐらいではないでしょうか。

「珍説忠臣蔵」2.jpg川路龍子(浅野内匠頭を演じる役者)
伴淳三郎(吉良上野介を演じる役者)/田崎潤(不破数右衛門)

 ギャグのオンパレードながら、「仮名手本忠臣蔵」の話の骨格は崩していないのがいいと思います(浮橋太夫が苅藻太夫になっているのは講談をベースとしているためか)。冒頭、「松の廊下」が劇中劇として歌舞伎仕立てになっていて、吉良上野介を演じる役者が伴淳三郎。浅野内匠頭演じる役者が川路龍子。刃傷沙汰の場面で、現実のことに思えて憤った観客が舞台に上がって大暴れし、それが田崎潤演じる不破数右衛門でした。田崎潤はリアルタイムで見たのは、東宝のゴジラシリーズ(「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」('66年)のような自衛隊の司令官役が多かった)やNHKの「連想ゲーム」だったと思います。

花菱アチャコ(亜茶兵衛)/星美智子(お艶)/柳家金語楼(大工・平兵衛)
「珍説忠臣蔵5.jpg 横山エンタツは吉良の間者の役(加藤茶に雰囲気が似てるなあ)。一方、花菱アチャコ演じる義侠心の商人・天野屋利兵衛ならぬ天野屋亜茶兵衛は、「天野屋利兵衛は男でござる」ならぬ「何言うてまんねん。亜茶兵衛は男でござる」を連発。「南部坂雪の別れ」もあり(瑤泉院・花井蘭子、戸田局・清川虹子)、岡野金右衛門(木戸新太郎・通称キドシン)とお艶(星美智子)の「岡野絵図面取り」もしっかり織り込まれています(お艶の父親で大工・平兵衛役の柳家金語楼の演技とギャグが楽しめる)。

堺俊二(村松喜兵衛)[右上]/清水金一(清水一角)[左下]
珍説忠臣蔵図10.jpg 討ち入り場面も本格的で、腰元たちが応戦に出てくるのは忠臣蔵では珍しいと思われます。腰元集団に囲まれ苦戦するのは堺俊二演じる村松喜兵衛。また、清水金一(通称シミキン)演じる清水一角の二刀流での奮闘ぶりもなかなかのものでした。一方で、討ち入りの装束に野球選手のような背番号が入っていたり、討入りの間、大石(古川緑波)が屋台で悠々とそばを15杯も食べていたりするのが可笑しいです。上野介が米の買占めや高利貸しなど悪行を働いて江戸庶民を苦しめたというのが映画の設定で、その上野介「珍説忠臣蔵6.jpg(伴淳三郎が役者と本物の二役)が赤穂浪士を怖れて身代わりを雇い、それが冒頭の上野介を演じた役者ということで、討入りで最後に大石らの前に二人の上野介が引っ張り出されることになり(特撮を駆使)、どっちが本物かというお遊びもあります。

月丘千秋(てい)/清川荘司(間十次郎)
「珍説忠臣蔵7.jpg「珍説忠臣蔵8.jpg でも、前半部分で、浪士たちが密かに討入りを志す中、間十次郎(清川荘司)が病身の妻てい(月丘千秋)に本当のことを言えず、仇討ちなど今時流行らない、奉公先が決まったと嘘をついて、夫が亡君の仇を討つと信じていた妻がそれを裏切られた思いで、自分の子どもに「お前のお父様はもうこの世にはいません」というシーンはシリアスだったなあ(ここだけ観ると、全然コメディに見えない)。その分、ラストの討ち入り後の引き上げシーンでの十次郎と妻子の再会シーンはぐっとくるわけですが、このラストシーンは、その前に、大石と亜茶兵衛、岡野とお艶、戸田局と兄・小野寺十内の再会があって、最後に間十次郎と妻子の再会をもってきているところが上手いなあと思いました(その後、沿道の人に酒を振舞われ、がぶ飲みする不破数右衛門がちらっと見えたりする)。

野上千鶴子(おりう)
『珍説忠臣蔵』06.jpg野上千鶴子.jpg コメディはしっかり作るべきところはしっかり作ってこそ面白くなるという、その見本と言える作品でした。気軽に楽しめる佳作だと思います。花井蘭子(瑶泉院)、月丘千秋(間十次郎の妻・てい)、相馬千恵子(苅藻太夫)、市丸(一力の太夫)、川路龍子(浅野内匠頭)、深川清美(大石主税)、野上千鶴子(間者おりう)と美女がいっぱい出てくるのもいいです。戸田局役の清川虹子でさえキレイ(笑)。義士の一人・横川勘平役の田端義夫が江戸の町をギターで流し、エンタツ・アチャコのダラダラ漫才も少しだけ見られます。

珍説忠臣蔵 vjs.jpg「珍説忠臣蔵」●制作年:1953年●監督:斎藤寅次郎●脚本:八住利雄●撮影:友成達雄●音楽:服部正●時間:87分●出演:古川緑波/伴淳三郎/柳家金語楼/横山エンタツ/花菱アチャコ/木戸新太郎/堺駿二/清水金一/阿部九洲男/清川荘司/田崎潤/花井蘭子/月丘千秋/相馬千恵子/市丸/田端義夫/川路龍子/一竜斎貞山/清川虹子/野上千鶴子/中村是好●公開: 1953/01●配給:新東宝(評価:★★★★)
 
 

田崎 潤 in「ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘」('66年/東宝)
「ゴジラ・エビラ・モスラ 」図3.jpg

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主役がダメ。その勝手な演技に悩まされたマキノ省三自身も、この作品を失敗作とみなしていた。

忠魂義烈 実録忠臣蔵 1928.jpg  「実録忠臣蔵」01.jpg
Talking Silents10「実録忠臣蔵」「雷電」 [DVD]」伊井蓉峰(大石内蔵助)
 マキノ省三(1878-1929/50歳没)監督の1928(昭和3)年3月14日公開作。1910(明治43)年)に「忠臣蔵」を監督して以来、幾度となくリメイクし続けた同監督が、50歳を迎えるのを記念して作られたその集大成とも言われた作品「実録忠臣蔵」02.jpg。しかし、撮影終了後の同年3月6日、京都市上京区の牧野本宅で編集中に出火して大量のネガフィルムと牧野本宅が全焼、残存部分が編集されての封切りでした(討入りの場面は、同じキャストによるマキノ雅弘監督の「間者」より挿入)。太平洋戦争の戦禍で多くの日本映画のフィルムが四散消滅する中、松田春翠(1925-1987/62歳没)が発掘し、数本のポジフィルムより編集・復元、1968(昭和43)年、マキノ省三を偲ぶ40年忌と無声映画鑑賞会の10周年記念公開用に再製作されたものです(弁士:松田春翠)。

 忠臣蔵の定番の吉良上野介(市川小文治)が浅野内匠頭(諸口十九)の賄賂が少ないことに怒って、服装のことなどで何かと内匠頭をいたぶる様がじっくり描かれていて、松の廊下の刃傷沙汰まではなかなかいいのではないかと思って観「実録忠臣蔵」03.pngていました。内匠頭に切腹の沙汰が下ったことを告げる早馬が赤穂城へ向かう―と、ここまでが前編なので、前の方が相当に重いとも言えます。

 ところが続く後編、場面が赤穂城に切り替わり、大石内蔵之助(伊井蓉峰)が登場してからがダメで、当初、主役の大石内蔵助には實川延若や松本幸四郎をあてていたのが松竹の妨害で頓挫し、止むなく新派劇の俳優・伊井蓉峰を大石役としたそうですが、演技が時代がかっていて口をへの字に曲げるばかりの下手くそぶり。それにどう見ても大石のカリスマ性とは程遠い"悪役顔"で、「祇園一力茶屋の場」での芸妓らとの遊興シーンで、内匠頭の命日さえ忘れてその日に鍋焼きを食らう様は、本物の"バカ殿"に見えてしまいます(演技が上手いという意味でなく)。

嵐長三郎(嵐寛寿郎)(脇坂淡路守)/片岡千恵蔵(服部市郎右衛門)
「忠魂義烈 実録忠臣蔵」04.jpg 本作に脇坂淡路守(内匠頭に切られた上野介にわざとぶつかって服の袖に血をつけ、「紋所を血で汚すは」と一括、扇で上野介の額を打つ)の役で出演した嵐長三郎(のちの嵐寛寿郎)は、伊井を「うぬぼれ、度がすぎてますわ。ロケで金屏風立てて小便しよるんダ、アホクサイやら腹が立つやら、指差して笑ろうたら付人に見つかって告げ口された」「ここで思い入れあって大石泣くという芝居ダ。ちっとも泣かしまへん。ああ肝芸で心で耐えているんやなと見ていると、キャメラ・パンして離れてからクククーッ、と拳を眼に持っていきよる。写ってへんがな」と酷評し、自身がマキノプロ退社を決意した理由に、伊井の尊大さとそれを許した省三らスタッフの対応にあったと語っています。因みに、この作品にお目附・服部市郎右衛門(四十七士が仇討を成就して泉岳寺行こうとした際に、両国橋で行く手を塞ぎ、行き方を示唆)役で出た片岡千恵蔵も一緒にマキノプロを退所しているので、相当ひどかったのでしょう。

「忠魂義烈 実録忠臣蔵」05.jpg 伊井の勝手な演技に悩まされたマキノ省三自身もこの作品を失敗作とみなしていたらしく、牧野邸火事の際、「『忠臣蔵』は焼けて良かったと」と語ったとされています。代わって省三の妻・知世子が陣頭指揮を執り、残ったフィルムを編集させて、同月14日には公開にこぎつけたとのことです。

マキノ雅弘(大石主税)

 個人的評価は映像だけだと「×」ですが、1920年代の貴重映像であることや、当時18歳のマキノ雅弘が大石主税役で出ていたりする珍しさと、松田春翠の活弁が聴けるのが救いで「△」としました。

[実録忠臣蔵]-s.jpg「忠魂義烈 実録忠臣蔵」図1.jpg「忠魂義烈 実録忠臣蔵」●制作年:1928年●製作総指揮・監督:マキノ(牧野)省三●脚本:山上伊太郎/西条照太郎●撮影:田中十三ほか●時間:80分 / 64分(再編集版)●出演:伊井蓉峰/諸口十九/市川小文治/勝見庸太郎/月形龍之介/中根龍太郎/嵐長三郎(嵐寛寿郎)/片岡千恵蔵/片岡市太郎/杉狂児/中根龍太郎 /マキノ正博/小島陽三/松本時之助/中村東之助/小岩井昇三郎/山本礼三郎/金子新/市川小莚次/松村光男/荒木忍/川田弘道/菊波正之助/秋吉薫 /中田国義/若松文男/静間静之助/梅田五郎/守本専一/大味正徳/斉藤俊平/児島武彦/大谷万六/都賀清司/松尾文人/都賀一司/津村博/尾上松緑/藤井六輔/大国一郎/マキノ正美/児島武彦/嵐冠/染井達郎/松村光男/嵐冠吉郎/原田耕造/大味正徳/柳妻麗三郎/中村東之助/松本熊夫/西郷昇/南部国男/木村猛/森清/大谷鬼若/橘正明/嵐長三郎/星月英之助/矢野武夫/市川小文治/豊島龍平/小岩井昇三郎/東郷久義/佐久間八郎/英まさる/坂本二郎/沢村錦之助/武井龍三/天野刃一/八雲燕之助/鈴木京平/市川谷五郎/川島清/藤岡正義/牧光郎/有村四郎/小金井勝/松坂進/市原義雄/マキノ登六/久賀龍三郎/潮龍二/マキノ梅太郎/大谷万六/徳川良之助/守本専/荒尾静一/高山久/嵐冠三郎/尾上延三郎/玉木悦子/花岡百合子/石川新水/マキノ智子/松浦築枝/渡辺綾子/住ノ江田鶴子/三保松子/河上君江/水谷蘭子/岡島艶子/鈴木澄子/大林梅子/五十川鈴子/都賀静子/広田昴/玉木潤一郎/大岡怪童/大国一郎●公開: 1928/03●配給:マキノキネマ(評価:★★★)

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3時間43分の大作だが討ち入りシーン抜き。前半は忠義とは何かを問う論争劇、終盤は女性映画。

元禄忠臣蔵 前後編[VHS].jpg元禄忠臣蔵1941・42.jpg
あの頃映画 松竹DVDコレクション 元禄忠臣藏(前篇・後篇)<2枚組>」河原崎長十郎(大石内蔵助)/高峰三枝子
元禄忠臣蔵 前後編(全2巻セット)[VHS]
元禄忠臣蔵 松の廊下.jpg 浅野内匠頭(五代目嵐芳三郎)は江戸城・松の廊下で吉良上野介(三桝萬豐)に斬りつけたかどにより切腹を命じられる。さらに浅野が藩主を務める赤穂藩はお家取り潰しとなってしまう。赤穂藩では国を守るために戦うか、あるいは主君に殉じて切腹をするか、意見が真っ二つに分かれた。家老の大石内蔵助(四代目河原崎長十郎)は、幕府に城を明け渡すことにする。上野介を討つため、内蔵助は主君の妻である瑶泉院に別れを告げる。その他の赤穂浪士も家族と別れ、続々と大石のもとに集まった。討ち入りを終え吉良の首を討ち取った大石は、泉岳寺にある浅野の墓を訪れる。その後、大石ら浪士たちに切腹の命が下る―。

元禄忠臣蔵 前編・後編 0.jpg 1941年12月に前編が公開され、翌年2月に後篇が公開された溝口健二監督による3時間43分の大型時代劇。劇作家の真山青果(1878-1948)による新歌舞伎派の演目「元禄忠臣蔵」を、原健一郎と依田義賢が共同で脚色し、厳密な時代考証、実物大の松の廊下をはじめとする美術、ワンシーンワンカットの実験的手法を用いた流麗なカメラワークなどによって、それまでの「忠臣蔵もの」とは全く異なる作品に仕上げています。映画はいきなり江戸城内松の廊下で浅野内匠頭(嵐芳三郎)が吉良上野介(三桝萬豐)に斬かかる場面から始まります(まるで御所のようなセットのスケールの大きさ!)。事件後、上野介が沙汰無しで、内匠頭が切腹との御下知を伝える使者に対し、多門伝八郎(小杉勇)が、内匠頭が斬りつけようとした時に、吉良が損得のために脇差に手をかけなかったことを、侍として風上にも置けない人物だと批判しています(これは明らかに創作だろうなあ)。
 
元禄忠臣蔵 前編・後編6.jpg また、内蔵助(河原崎長十郎)を幼馴染みの井関徳兵衛(板東春之助)が訪ね、一緒に籠城に加えてくれと申し出る話があります。内蔵助は思うところがあってその申し出を拒絶し、家臣たちに対し開城を宣言します。その夜、内蔵助は帰宅途中で息子と共に自害した徳兵衛を見つけ、徳兵衛の死に際に、内蔵助はその本心を打ち明けます。

 さらに、上野介の首を取ろうとしない内蔵助に業を煮やし、富森助右衛門(中村翫右衛門)が上野介が徳川家の「御浜御殿」を訪れた際に討とうとするエピソードがあります。助右衛門が能装束(「義経記」の義経の姿)の男を上野介だと思って襲うものの、実はそれは後に六代将軍・家宣となる綱豊(市川右太衛門)で、綱豊は内蔵助の心中を察するよう助右衛門を諭します。そして、また、能舞台へと戻り、義経記の続きを舞います(カッコ良すぎ(笑)。上野介はその能を観る客の側だった。でも、がっちりした綱豊と爺さんの上野介を見間違えるかなあ)。実は、この作品は討ち入りの場面がないので、このシーンが本作の最大の立ち回りシーンになります(歌舞伎「元禄忠臣蔵」でも、この「御浜御殿綱豊卿」の場面は一番の見せ場のようだ)。

元禄忠臣蔵 前編・後編4.jpg 内蔵助は浅野家再興が正式に潰えると、時機到来とばかりに吉良邸に乗り込む準備をして、浅野内匠頭の未亡人・瑶泉院(三浦光子)に別れの挨拶に行きますが、外部に情報が漏れるのを怖れ、瑶泉院に本心を打ち明けられず、彼女の怒りを買ってしまう。密偵に悟られないよう、自分の詠んだ歌と称し、服差包みを瑶泉院に仕えるお喜代(山路ふみ子)に渡して去る。昼間の内蔵助の態度が気に掛かり眠れずにいた瑶泉院が服差包みを開けると中に連判状が―と、この「南部坂雪の別れ」は通常の「忠臣蔵もの」と同じですが、すぐそこに吉良への討ち入り成功の知らせが届き、画面は、討ち入りを果たして、泉岳寺の亡き主君の墓へ報告に向かう内蔵助ら義士一行に切り替わるといった流れです。

「元禄繚乱」('99年/NHK)主演:中村勘九郎
「元禄繚乱」1.jpg「元禄繚乱  99.jpg 討ち入り後、まだ45分くらい映画は続き、内蔵助が義士らが潔く切腹したのを見届けるところまでいきますが('99年のNHKの大河「元禄繚乱」(原作:船橋聖一/脚本:中島丈博)も中村勘九郎(五代目)演じる内蔵助が義士らの切腹を見届けるまでをやっていたなあ)、その間に最も時間を割いているエピソードが、磯貝十郎左衛門(五代目河原崎國太郎)とその許嫁おみの(高峰三枝子)の悲恋物語です。十郎左衛門への想いから吉良邸の情報を十郎左衛門に提供したおみのは、討ち入り後に蟄居を命じられている十郎左衛門に、その気持ち元禄忠臣蔵 前編・後編01.jpgが本心なのか吉良邸の情報が欲しかっただけなのかを確かめるため会おうと、身の回りを世話をする小姓に擬して接近しますが、内蔵助に女だと見抜かれます(高峰三枝子は誰が見ても女性(笑))。それでも、十郎左衛門の懐におみのの琴の爪が忍ばせてあることを知った彼女は喜び、これから切腹の場に向かおうとする十郎左衛門と最期の面会を果たします(こんなことが可能とは思えないが、ここはお話)。

元禄忠臣蔵 前編・後編10.jpg 討ち入りの場面がなく、セリフも堅苦しくてあまり人気のある作品ではないですが、前半は忠とは何か?義とは何か? 武士とは何か? をとことん問う価値観の「論争劇」的な展開であり、内蔵助が、浅野大学頭を立ててのお家再興願いが叶えば、仇討ちの大義がなくなることに苦悩する場面があったりします。一方、討ち入りシーンが無いまま迎えた終盤は、高峰三枝子演じるおみのにフォーカスした、溝口健二お得意の「女性映画」であったように思いました。

 この「論争劇」の側面と「女性映画」の部分が撮りたくて、溝口はこの映画を撮ったとの話もありますが(そう言えば「山椒大夫」('54年)も終盤は森鷗外の原作にはまったく無い政治劇になっていた)、そうだとすれば、討ち入りシーンは単なるアクションシーンということになるから、割愛してもいいという道理なのでしょうか。そこのところは個人的にはよく分かりませんが、溝口ファンなら一度は観ておきたい作品かと思います。

「忠臣蔵の恋~四十八人目の忠臣」('16年~'17年/NHK)主演:武井咲
忠臣蔵の恋2.jpg忠臣蔵の恋1.jpg また、この磯貝十郎左衛門と女性の悲恋物語は、諸田玲子が『四十八人目の忠臣』('11年/毎日新聞社)として小説に描いており、NHKの「土曜時代劇」枠で「忠臣蔵の恋~四十八人目の忠臣」('16年~'17年・全四十八人目の忠臣.jpg20回)としてドラマ化されています。「おみの」に該当する女性「きよ」は武井咲が演じましたが、「きよ」はこの映画で市川右太衛門が演じた後の6代将軍・徳川家宣の側室になり、7代将軍・徳川家継の生母・月光院となるという話になっています。すごく飛躍した設定だなあと思いますが、月光院の家宣の側室時代の名は「喜世(きよ)」であったとのことで、ただし、浅野家に関わった事実はないようです。『四十八人目の忠臣』では、浅野家と想い人であった礒貝十郎左衛門の仇討として徳川家将軍の生母となったという、ある種の復讐物語にしたのではないでしょうか。さらに、家宣の寵愛を得たきよは、男児(後の徳川家継)を産んだ褒美として、赤穂浅野家の再興と島流しとなっていた遺児たちの恩赦を願うという話で、つまり"48人目の忠臣"とは「きよ」こそがその人だということになります。小説は2012年(平成24)年度・第1回「歴史時代作家クラブ賞」の「作品賞」を受賞しています。

四十八人目の忠臣 (集英社文庫)
 
「元禄繚乱」991.jpg「元禄繚乱」●脚本:中島丈博●演出:大原誠 ほか●音楽:(オープニング)池辺晋一郎●原作:舟橋聖一『新・忠臣蔵』●出演:中村勘九郎/(以下五十音順)安達祐実/阿部寛/井川比佐志/石坂浩二/柄本明/大竹しのぶ/菅原文太/鈴木保奈美/京マチ子/滝沢秀明/滝田栄/宅麻伸/堤真一/中村梅之助/夏木マリ/萩原健一/東山紀之/松平健/宮沢りえ/村上弘明/吉田栄作(ナレーター)国井雅比古●放映:1999/01~12(全49回)●放送局:NHK

5代目中村勘九郎(大石内蔵助)/東山紀之(浅野内匠頭)/山口崇(大野九郎兵衛)/柄本明(進藤源四郎)・寺田農(奥野将監)
「元禄繚乱」東山ほか.jpg 「元禄繚乱」菅原.jpg菅原文太(肥後国熊本藩藩主・細川越中守綱利(内蔵介らがお預けとなった細川家の当主))
「元禄繚乱」00.jpg

宮崎あおい(矢頭さよ).jpg 宮崎あおい[左](赤穂浪士・矢頭右衛門七の妹・さよ)[当時14歳]

忠臣蔵の恋0.jpg忠臣蔵の恋4.jpg「忠臣蔵の恋~四十八人目の忠臣」●脚本:吉田紀子/塩田千種●演出:伊勢田雅也/清水一彦/黛りんたろう●音楽:吉俣良●原作:諸田玲子『四十八人目の忠臣』●出演:武井咲/福士誠治/中尾明慶/今井翼/田中麗奈/佐藤隆太/石丸幹二/大東駿介/皆川猿時/新納慎也/陽月華/辻萬長/笹野高史/平田満/伊武雅刀/三田佳子(ナレーター)石澤典夫●放映:2016/09~217/02(全20回)●放送局:NHK      
   
市川莚司(加東大介)/市川右太衛門/中村翫右衛門(右)/高峰三枝子
元禄忠臣蔵 前編・後編 12.jpg「元禄忠臣蔵 前編・後編」●英題:The 47 Ronin●制作年:1941・42年●監督:溝口健二●製作総指揮・総監督:白井信太郎●脚本:原健一郎/依田義賢●撮影:杉山公平●音楽:深井史郎●原作:真山青果●時間:(前編)111分/(後編)112分●出演:(前進座)四代目河原崎長十郎/三代目中村翫右衛門/四代目中村鶴蔵/五代目河原崎國太郎/坂東調右衛門/助高屋助蔵/六代目瀬川菊之丞/市川笑太郎/橘小三郎/市川莚司(加東大介)/市川菊之助/中村進五郎/山崎進蔵/市川扇升/市川章次/市川岩五郎/坂東銀次郎/生島喜五郎/山本貞子/(松竹京都)海江田譲二/坪井哲/風間宗六/和田宗右衛門/竹内容一/征木欣之助/梅田菊蔵/大川六郎/村時三郎/大河内龍/松永博/大原英子/岡田和子/(第一協団)河津清三郎/浅田健三/(フリー)三桝萬豐/島田敬一/(新興キネマ)市川右太衛門/加藤精一/荒木忍/梅村蓉子/山路ふみ子/(松竹大船「元禄忠臣蔵 前編・後編」ph03.jpg)高峰三枝子/三浦光子/(その他)五代目嵐芳三郎/山岸しづ江/四代目中村梅之助/三井康子/市川進三郎/坂東春之助/中村公三郎/坂東みのる/六代目嵐德三郎/筒井德二郎/川浪良太郎/大内弘/羅門光三郎/京町みち代/小杉勇/清水将夫/山路義人/玉島愛造/南光明/井上晴夫/大友富右衛門/賀川清/粂譲/澤村千代太郎/嵐敏夫/市川勝一郎/滝見すが子●公開:(前編)1941/12/(後編)1942/02●配給:松竹(評価:★★★★)

  
河原崎長十郎(大石内蔵助)
 

   
人情紙風船」('37年) 河原崎長十郎/中村翫右衛門/市川莚司(加東大介)
「人情紙風船」河原崎 中村.jpg「人情紙風船>」加東 .jpg

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プリミティブな「トク」の魅力。読み終えてすぐにまた読み返したくなるような作品。

加納大尉夫人・オンバコのトク.jpg 佐藤愛子の世界 (文春ムック).jpg
加納大尉夫人 / オンバコのトク』('18年/めるくまーる)/『佐藤愛子の世界 (文春ムック)』['21年]

 小村徳太郎は小村トメの息子で、小村トメはこの町では「オンバコ」と呼ばれているが、「オンバコ」がどういう意味なのか誰も知らない。その息子ということで「オンバコのトク」と呼ばれる徳太郎は、秋祭りで「東京から来た女」と出会い、酒を飲みながら素性を訊かれるうち、問わず語りのようにして家族のことを回想する。オンバコとの別れがあり、その死の知らせの後、徳太郎のアパートに、兄の英吉とその妻カズコが転がり込んで来る。英吉とカズコは仲がよかったが、徳太郎と英吉はよく喧嘩をし、カズコは徳太郎を怖がっていた。カズコはときどき何処かへ行ってしまうが、彼女は少し脳に問題があったらしく、男なら誰彼なく性交をしていたようだ。いつかまた突然消えては何処かで何かをしていたようが、そのうち英吉が死ぬ。残された徳太郎とカズコは喧嘩ばかりしているが、英吉の死後もカズコは時々いなくなり、見かねた婦人科の医師がカズコの子宮を取ってしまう。カズコの放浪が激しくなり、役場の人はカズコを精神病院へ入れるしかないと言い、いつの間にかカズコのことを気に掛けるようになっていた徳太郎は決断を迫られる―。

 「オンバコのトク」は、1981(昭和56)年「小説新潮」に掲載された作品で、北海道の片田舎に生きた一人の男の物語です。野の繁みで生まれたその男「オンバコのトク」こと徳太郎の、知的能力では他人に劣りながらも、不満や怒りを知らず、与えられた生を誠実かつ強かに生きるその生き様が、まるで説話のように簡潔で力強い文章で描かれています。

 徳太郎をめぐる話はスゴイ話ばかりですが、それらを通して、彼の、損得に左右されることない、天与の性に従って自然自在に生きる人間のプリミティブな活力が浮き彫りになっています。同時に、たいへん哀しい話でもあり、カズコが精神病院に入れられ、その後、転院する時の徳太郎とカズコの会話も切ないですが、ラストの母親の遺骨を引き取るために襟裳から阿寒まで自転車で行こうとする徳太郎も切ないです。

 本書『加納大尉夫人/オンバコのトク』は94歳になった作者が、「六十年の間、人生の浮沈に従って書いて来たもの(中略)の中に二篇だけ、これだけはいい、と思えるものがあって」として復刻したもので、個人的には「加納大尉夫人」は読んだことがありましたが、この「オンバコのトク」は初読でした。読んでみたら、「加納大尉夫人」よりこちらの方が良く、思わぬ拾い物をしたという感じです。

色川武大.jpg 作者のまえがきによれば、「小説新潮」に掲載された時は完全に黙殺され、後に色川武大だけが認めてくれたそうで、作者は以来、色川武大こそ、唯一、小説のわかる文学者であると思い決めているそうです(色川武大には阿佐田 哲也というもう一つのペンネームがあったなあ。伊集院静の博打の師匠だった)。

色川武大

 発表時に黙殺されたのは(以来、「オンバコのトク」を表題にした単行本もないが)、あまりに土俗的と言うかプリミティブで、比肩する作品が身近になかったからではないでしょうか(個人的には、ラテンアメリカ文学のガルシア=マルケスを想起した。また、カズコのような女性はつげ義春の漫画にも出てきそうな気がした)。

大黒座.jpg 徳太郎のモデルはあったのだろうし、おそらく「東京から来た女」というのが、そのモデルを取材した作者なのだろうなあというのが順当な想定かと思います。徳太郎が「映画見たいな」と言うカズコを連れて行ったウララ町(浦河町)の「大黒座」は、1918年創立の、現存する映画館では北海道で最古の映画館になります。

 「取材」に関しては、作者は本作品について、「書いては捨て、書いては捨て、やっと気に入る文体を見つけて仕上げた作品」と言っているだけなので、本当のところはわかりません。でも、文章にそれだけ苦心しただけあって、読み終えてすぐにまた読み返したくなるような作品でした。

 因みに、この作品は、自らが責任編集した「文春ムック」のオール讀物創刊90周年記念編集『佐藤愛子の世界』 ('21年6月刊)にも、直木賞受賞作「戦いすんで日が暮れて」、芥川賞候補作「ソクラテスの妻」などとともに収録されています。

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「何か間違っている」という憤りの感覚が、世人の心情を代弁してベストセラーになったのでは。

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九十歳。何がめでたい.jpg
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九十歳。何がめでたい』['16年]

 1923(大正12)年生まれの作者が92歳の時に刊行されたエッセイ集で、トーハン、日販の調べで2017年の年間ベストセラーの第1位となった本です(因みに、この年の第2位は『ざんねんないきもの事典』、第3位は『蜜蜂と遠雷』)。

九十歳。何がめでたい cm.jpg 218万部という数字も凄いですが(本書のテレビCMシリーズも放映された)、92歳でのベストセラーの第遠藤周作.bmp1位というのも最高齢記録だそうで、これだけけでも十分「めでたい」のではないでしょうか。このエッセイに出てくる「ソバプン」こと遠藤周作('23年生まれ)と同期、吉行淳之介('24年生まれ)、三島由紀夫('25年生まれ)より上だからなあ。

598510024.jpg 2000年に77歳で『血脈』で菊池寛賞を受賞しており、何だかこうした人生の「上がり」みたいな賞を受賞した人が、その17年後に年間ベストセラーの第1位の本の著者になるとは、誰も予測していなかったのではないでしょうか。

 本エッセイは、91歳から92歳にかけて「女性セブン」に連載したものが元になっていて、雑誌連載のきっかけは、88歳で最後の長編小説『晩鐘』を書き上げ(91歳で刊行)、断筆宣言していたところへ、編集者が何度も執筆のお願いに伺いやってきて、「90歳を超えて感じる時代とのズレについてならば...」ということで引き受けたとのことです。

 音が静かになって接近に気付けない自転車が危なくて困るとか、よくわからないスマホに、こんなものが行き渡ると「日本総アホ時代」が来るとか、「レジ袋はいりません」と声に出して言うのがどうして憚られるのかといった身近な事象に対する憤りや疑問があります。

 さらには、'15年に大阪・寝屋川市で起きた中学1年の少年少女殺害事件や、'16年に発覚した広島・府中市の中学3年生の「万引えん罪」自殺事件、'15年に最高裁で遺族側の逆転敗訴が確定した、道路に飛び出したサッカーボールを避けて転倒事故が起きた場合、ボールを蹴った子供の親は責任を負うべきかが争われた裁判等々、さまざまな事件・裁判についても言及しています。

 さらに、さらに、バイオリスト・高嶋ちさ子氏がゲームをしないとの約束を破った息子のゲーム機を壊したとして炎上した"ゲーム機バキバキ事件"から、橋下徹元大阪市長のテレビ復帰に至る件まで、ネットネタやテレビネタまで、コメントの対象は尽きません(ネットネタもおそらくテレビで知ったのだろうが)。

 ベースになっているのは、「おかしいのではないか」「何か間違っている」という憤りの感覚で、それがおそらくは、多くの人が言葉にできなかった心情を代弁するかのように物事の核心を言い当てていたため、高年齢層から若年層まで世代を超えた共感を集め、ベストセラーになったのでしょう。ただ、こうした「公憤」「義憤」ばかりでなく、「思い出ドロボー」(コレ、面白かった)のように過去に自分が他人に騙された経験なども綴られていて、自身は「読者代表」ぶっていないところがいいです。編集者によれば、著者は「満身創痍の体にムチ打って、毎回、万年筆で何度も何度も手を入れて綴ってくださいました」とのことですが(ワープロは使わないそうだ)、書くことが生きる活力にもなっているのではないでしょうか。

九十歳。何がめでたい  増補版文庫.jpg 実際、著者はこの後も書き続け、先月['21年8月]、本書の続編『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』を刊行。ここまで続くと思っていた人も少なかったのでは。ただし、この本の最後が「さようなら、みなさん」になっており、これが今秋98歳になる著者の「最後のエッセイ集」になるとして、今度こそ、との再・断筆宣言をしたようです。
九十八歳。戦いやまず日は暮れず』['18年]『増補版 九十歳。何がめでたい (小学館文庫 さ 38-1)』['18年]

 この『九十歳。何がめでたい』のあとがきも「おしまいの言葉」となっていますが、いったん「ここで休ませていただく」としながらも、その理由は「闘うべき矢玉が盡きたから」で「決してのんびりしたいからではありませんよ」としていて意気軒高、実際、この後に連載を再開するわけです。

 今回の断筆宣言については、近況インタビューが今日['21年9月10日]付けの朝日新聞(朝刊)に出てましたが、「書くのをやめて、残念に思うことあるけど」とも言っており、個人的には今回もまた再開して欲しい気がします。
2012.9.10 朝日新聞(朝刊)
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【2021年文庫化[小学館文庫]】

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戦争をめぐる哀しくも切ない話なのに、どこか逞しさを感じるユーモアもある。

光風社刊『加納大尉夫人』.jpg「加納大尉夫人」 ロマンブックス.jpg 「加納大尉夫人」角川文庫.jpg
加納大尉夫人 (ROMANBOOKS)』『加納大尉夫人 (1980年) (角川文庫)
加納大尉夫人 (1965年)』(「二人の女」「猫」「島」「加納大尉夫人」)

 大阪で指折りのメリヤス問屋の末娘に生まれた安代は、卒直な明るさを持つ娘であった。安代が女学校を卒業した年に、戦争が始まった。ある日、母に見せられた1枚の写真、それが海軍中尉・加納敬作であった。敬作のりりしさにあこがれた安代は、彼の妻になった。少女時代の延長のような稚なさの安代が、帝国軍人の妻らしくなりたいと努力し、緊張するほど、無邪気な失敗がくり返された。そんな妻を、敬作はいとしく思った。戦いは次第に苛烈さを加え、敬作の出征中に、安代は男の子を生んだ。そして半年の後に、敬作の戦死が伝えられた―。

 「加納大尉夫人」は、「文學界」の1964(昭和39)年8月号に発表され、1965(40年)2月光風社刊の『加納大尉夫人』所収作で(ほかに「二人の女」「猫」「島」を収録)、1969年9月講談社より刊行の『加納大尉夫人』にも所収。さらに、1971年1月講談社刊のロマン・ブックス『加納大尉夫人』として刊行されています(ほかに「猫」「山」「二人の女」を収録)。

 1964年下半期・第52回「直木賞」候補作ですが、作者が直木賞を獲るのは5年後の1969年上半期・第61回「直木賞」の『戦いすんで日が暮くれて』になります。因みに、この「加納大尉夫人」以前に、「ソクラテスの妻」が1963(昭和38)年上期・第49回芥川賞候補になっていて、さらに『加納大尉夫人』所収の「二人の女」も1963年下半期・第50回芥川賞候補になっているので、芥川賞候補からから直木賞候補にスライドしてきた作家と言えます。

 「加納大尉夫人」における、戦前に職業軍人と結婚したため、あくまで大尉夫人として生き、当然のごとく戦争未亡人とならざるをえなかった一女性の姿は哀しくも切ないですが、直木賞の選評では、木々高太郎が「依然として戦争私小説がある。僕は好かない」と述べており、これだけが落選理由ではないでしょうが、当時まだ似たようなモチーフの小説が多くあったのでしょうか。

 個人的には、この小説の特徴は、垣間見えるユーモアではないかと思います。安代が敬作のことを好きではなかったところ、敬作と子どもの隠れん坊遊びに付き合ったら、たまたま隠れた押し入れに敬作がいたのが、敬作のことを好きになったきかっけだったというのも面白いです。やはり、男と女って距離なのだろうなあ。押し入れを出て大笑いしたというのは、その時沸き起こった特別な感情を笑いによって抑制したと思われ、リアリティがありました。

 また、ある日、変な成り行きで発展家とでも言うべき川上夫人が敬作・安代の間に入って3人で寝ることになり、あとで夫人から、夕べ夫が彼女のお腹を撫でに来たと聞かされるのも、安代にすれば堪ったものではない話でしょうが、どこかユーモラスなところも感じられます。夫が「あの人が自分で導いていったんだよ。だが、それだけだよ。誓っていうよ。それ以上は何もしない」という言い訳も、生々し過ぎて言い訳になっていないような(笑)。

「加納大尉夫人」佐藤愛子.jpg木内 みどり.jpg 安代の醸すユーモラスな雰囲気には生への逞しさが感じられ、そうしたこともあってか、「安ベエの海」というタイトルでTBSの「ポーラテレビ小説」の第3作として、1969(昭和44)年9月から翌1970年3月まで放送されたりもしています。安代役は、一昨年['19年]急死した木内みどり(1950-2019/69歳没)。女優(NHK大河ドラマ「西郷どん」などにも出ていた)でありながら、反原発活動家としても活躍していた人です(個人的には、この人の出ていた伊藤智生監督の自主製作映画「ゴンドラ」('86年/OMプロダクション)が印象深かった)。この原作を、連続テレビドラマとして全156回に渡って話を繰り拡げられたのは、夫の戦死で未亡人となった安代が、戦後の混乱期をひたむきに生きる姿までを描いているためのようです。

加納大尉夫人・オンバコのトク.jpg また、近年になって作者が、「六十年の間、人生の浮沈に従って書いて来たもの(中略)の中に二篇だけ、これだけはいい、と思えるものがあって」として、『加納大尉夫人/オンバコのトク』('18年/めるくまーる)が刊行されています。1923年生まれの作者はその前書きで、この「加納大尉夫人」は「30代の終わり頃に書いた」と言っているので、構想は発表のその少し前からあったのか、それとも同人誌に先に発表していたのかもしれません(「文學界」には同人誌推薦作が掲載されることよくがあった)。

『加納大尉夫人/オンバコのトク』('18年/めるくまーる)

 直木賞の選考で最も強くこの作品を推したのが、小島政二郎(当時70歳)で、「一番面白いと思った」「話も面白いし、夫婦―殊に夫人の性格が活写されている、その活写の仕方の逞しさに魅力があった」とし、さらに、「この人の「ソクラテスの妻」が芥川賞でなく、直木賞へ提出されたら当然賞を与えられていたと思う」と述べていて、この人は作者のユーモアの資質を高く評価していたのではないでしょうか。5年後に『戦いすんで日が暮くれて』が直木賞候補になった際には選考委員を外れていましたが、松本清張が「ドライなユーモアで、塩からいペーソス」、水上勉が「佐藤さんのユーモアは、この人の心田のものであった」と強く推し、授賞が決まっています。


「ゴンドラ」1.jpg 木内みどりが出ていた「ゴンドラ」('87年)は、伊藤智生監督の自主製作映画で、伊藤監督が上村佳子という少女と出逢ったことが制作のきっかけとなったもの。あらすじは以下の通り。

「ゴンドラ」3.jpg 小学生のかがり(上村佳子)は、母れい子(木内みどり)と二人で暮らし「ゴンドラ」2.jpgている。ある日マンションに帰ると、飼っていた白文鳥が傷ついていた。その時ゴンドラ(足場)で、かがりのマンンョンの窓拭きをしていた良(界健太)は、かがりと一緒に動物病院へ行き、治療代を立て替えてやった。しかし、翌日かがりが病院へ行くと文鳥は死んでいた。彼女は児童公園へ行き文鳥を土に埋めようとするが、それをやめて家に持ち帰りブリキの弁当箱に死骸を入れ冷蔵庫「ゴンドラ」4.jpgへしまい込んだ。翌朝れい子はその死骸をゴミと一緒に捨ててしまった。悲しんだかがりは死骸を探し出し、家を出た。良はびしょ濡れのかがりを見かけるとアパートへ連れて行った。そして「もう帰るところがない」というかがりを数日、自分の故郷の青森へ連れて行くことにした。良の父親(佐藤英夫)と母親(佐々木すみ江)はかがりを歓迎してくれた。一方都心の警察では、れい子と別れた父(出門英)がかがりを捜していた。ある夜、良とかがりは海岸近くの洞窟で夜を過ごし、翌朝ゴンドラ(小舟)を出して文鳥の死骸を小さな木の棺を作って海へと沈めるのだった―。


「ゴンドラ」d.jpg いい映画でした。1986年に完成していましたが、劇場との上映交渉が上手くいかず、ただ評価は高くて、海外の映画祭で賞を受賞したのち、翌1987年10月に特別先行上映され、1988年に正式に公開されて、公開の30年後にあたる2017年、デジタルマスター版が渋谷・ユーロスペースなどでリバイバル上映されています。本作で借金を背負った伊藤智生監督は借金返済のため、「TOHJIRO」としてAV監督へ転身、最初は一時的なものと割り切っていたところ、出演する女優たちに「ゴンドラ」で描いた世界観と同じ景色を見たとして、以後も続けているとのことです。


「ゴンドラ」1986.jpg「ゴンドラ」5.jpg.gif「ゴンドラ」●制作年:1986年●監督:伊藤智生(ちしょう)●プロデューサー:貞末麻哉子●原案・脚本:伊藤智生/棗耶子●撮影:瓜生敏彦●音楽:吉田智●時間:112分●出演:上村佳子/界健太/木内みどり/佐々木すみ江/佐藤英夫/出門英/長谷川初範/鈴木正幸●公開:1987/10●配給:OMプロダクション●最初に観た場所:テ「ゴンドラ」6.jpgアトル新宿(88-04-16)(評価:★★★★)

ゴンドラ HDリマスター [DVD]
  
    
木内みどり in「ゴンドラ」('86年/OMプロダクション)
木内 みどり/ゴンドラ.jpg

【1980年文庫化[角川文庫]】

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「1シーン1カット」を多用した完璧な恋愛・人情ドラマ。途絶えていたのをスクリーンに復活させた「船乗り込み」。
「残菊物語」1939 p.jpg02『残菊物語』.jpg05『残菊物語』.jpg残菊物語02.jpg
あの頃映画 松竹DVDコレクション 残菊物語」花柳章太郎/森赫子
あの頃映画 松竹DVDコレクション 残菊物語 デジタル修復版」['16年]

残菊物語03.jpg 尾上菊之助(花柳章太郎)は養子ながら歌舞伎の名門、五代目菊五郎(河原崎権十郎)の後継者として苦労なく育ったが、それだけに上辷りな人気に酔っていた。この思い上った菊之助の芸を真実こもった言葉でたしなめたのは弟・幸三の若い乳母お徳(森赫子)であった。菊之助はお徳の偽りない言葉に感激、残菊物語04.jpg芝居にも身を入れるようになったが同時に二人の間には恋心が茅ばえた。だが明治の封建的な気風の中、菊五郎夫妻はお徳を解雇する。激昂した菊之助はお徳の行方を突止め二人は結ばれたが、菊之助は勘当される。菊之助は大阪劇壇の大御所・尾上多見蔵(尾上多見太郎)の許へ走り、そこで芸道に励むが、その頼る多見蔵に死なれ、地方廻りの小劇団に身を落さねばならなかった。長旅にお徳は胸を病み、苦難の日が続いた。菊之助の将来を案じた残菊物語09.jpgお徳は菊之助の親友・福助(高田浩吉)に菊之助の復帰を懇願、菊之助は勇躍、桧舞台に立ったが、その陰にはお徳が身を退くという犠牲が払われていた。菊五郎一行に加わり芸名上った菊之助の大阪初下りの日、お徳は菊之助と借りた按摩・元俊(志賀廼家辨慶)の襤褸屋の二階で重病の床に臥していた。その夜、知らせを聞いた菊之助に菊五郎は初めて、「女房に逢って来てやれ」と言い、菊之助はお徳にようやっと養父の許しが出たことを伝える。お徳は喜びつつも、晴れの船乗り込みに主役の貴方がいないのではと言い、菊之助は再び戻って船乗り込みに臨む―。

 1938(昭和13)年公開の溝口健二監督作で、溝口作品の中で、ほぼ全てが現存する数少ない戦前作品(146分中143分現存)です。1939年の「キネマ旬報ベスト・テン」の第2位作品で、溝口作品の中でも評価されている戦前の映画であり、1953年に長谷川一夫・淡島千景主演で、1963年に二代目市川猿之助・岡田茉莉子主演でリメイクされています。また、世界的にも、2015年度カンヌ国際映画祭クラシック部門でデジタル修復版が上映されるなどしています。

「残菊物語」1939es.jpg 実話を基にしているとのことで、さらに溝口演出の特徴である「1シーン1カット」を多用していることもあり、明治初期の歌舞伎界の舞台裏ドキュメン「残菊物語」1939.jpgタリーを観ているみたいな感じもします(もちろん当時の歌舞伎の表舞台も興味深い)。そうした技法を駆使すながらも、完璧な恋愛・人情ドラマとして成り立っており、これは村松梢風(1889-1961/71歳没、作家・エッセイストの村松友視の祖父)の原作がよく出来ているということではないでしょうか。リメイク版もほぼ同じストーリーであるというのは、いじるところが無いということではないかと思います。

淀川長治2.jpg 淀川長治はこの作品を、黒澤明の「羅生門」、小津安二郎の「戸田家の兄妹」と共に、自身の邦画ベスト3に本作品を挙げていたこともありました(「キネマ旬報」1979年11月下旬号)。個人的には、「人情物語」としてみると、小津安二郎監督の「浮草物語」('34年/松竹)と並んでベストになります。

zanngiku 花柳章太郎.jpg 尾上菊之助を演じた花柳章太郎(1894-1965/享年70)は、歌舞伎と新劇の間にあった「新派」の人気女形であった人で、それがこの映画では、専門の女形ではなく立役の(これまた専門ではない)歌舞伎役者を演じるということで大変な苦労があったようですが、この作品で二枚目としての新境地を開いたとのことです。晩年には新派からは元師匠の喜多村緑郎に次ぐ二人目の人間国宝に認定、文化功労者にも選定されています。また、「歌行燈」「鶴亀」「蛍」「大つごもり」などその代表作である10の芝居は「花柳十種」として選定されています(1961年「菊池寛賞」、 1962年度「朝日文化賞」(朝日賞)受賞)。

残菊物語 スイカ.jpg 多才な人で、着物衣装にも詳しく(専門の本を出している)、食通としても有名で(特に海苔、蕎麦、天ぷら、鮨、秋刀魚、つけ合せでべったら漬を好んだ)、中でも、本職以外の才能として際立っているのはエッセイストとしての才能であり、多くのエッセイ本を残しています。

 そうした花柳章太郎の経歴の中で、一つのターニングポイントとなった作品であると思って観るのもいいし、「1シーン1カット」の流れるような画面構成に着眼して観るのも愉しめるかと思います(菊之助がスイカを切るシーンが良かった。スイカを切るのはまだ撮り直しがきくが、リテイクがきかないようなシーンもいくつかあった)。

「残菊物語」1939 4.jpg船乗り込み.jpg そう言えば、ラストの「船乗り込み」ですが、当時(明治初期)は京都や江戸から役者や一座が大坂へ到着する際に行われていた儀式でしたが、1924(大正13)年に途絶えたのが、1979(昭和54)年に大阪道頓堀・朝日座で第一回公演「五月大歌舞伎」が開催されるにあたり、十七代目中村勘三郎が、歌舞伎公演を一般市民にPRするため55年ぶりに復活させています。今でこそ「七月大歌舞伎」公演前の恒例行事、また大阪の初夏の風物詩として広く知れ渡っていますが、この映画が作られた時は、途絶えてから10数年経っていたことになり、溝口がそれをスクリーン上で復活させたということになります。

「残菊物語」1939ド.jpg「残菊物語(殘菊物語)」●制作年:1939年●監督:溝口健二●製作総指揮・総監督:白井信太郎●脚本:依田義賢●撮影:三木滋人/藤洋三●音楽:深井史郎●原作:村松梢風●時間:100分●出演:花柳章太郎/高田浩吉/川浪良太郎/高松錦之助/葉山純之輔/尾上多見太郎/結城一朗/南光明/天野刃一/井上晴夫/廣田昂/富本民平/保瀬英二郎/伏見信子/花岡菊子/白河富士子/最上米子/中川芳江/西久代/鏡淳子/大和久乃/田川晴子/柴田篤子/秋元富美子/国春美津枝/白妙公子/(劇団より)河原崎権十郎/森赫子/花柳喜章/志賀廼家辨慶/柳戸はる子/松下誠/島章/中川秀夫/花田博/春本喜好/橘一嘉/(大船より)磯野秋雄/(新興より)嵐徳三郎/梅村蓉子●公開:1939/10●配給:松竹●最初に観た場所:シネマブルースタジオ(21-08-17)(評価:★★★★☆

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