「●ふ 藤原 新也」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2544】 藤原 新也 『大鮃(おひょう)』
身体的な旅と精神的な旅の連動。ガン死を遂げた兄への想いなどを通して「祈り」を考察。
『なにも願わない手を合わせる』 ['03年/東京書籍] 『なにも願わない手を合わせる (文春文庫)』 〔'06年〕
四国霊場巡りから始まる写文集で、著者は父、母と肉親が他界するたびに四国の地を訪れてきたといい、今回は兄を亡くしての旅路。
『全東洋街道』('81年)も終着点は高野山だったし、いずれこの人は抹香臭い方向に傾倒していくのかなあと、表題のせいもあってやや固定観念で捉えてしまっていましたが、読んでみて、まさに「なにも願わない 手を合わせる」というこの表題こそ、本書が、「祈願」するという人間行為の「祈」と「願」を分かち、ただ「祈る」だけという行為の先にあるものを体感的に考察した試みであることを、端的に表したものであることに気づきました(思えば人は、手を合わせたら何かを願ってしまう習性があるかも。あるいは、願い事のためにしか手を合わせないということか)。
50代でガン死を遂げた兄との、幼い頃の犬を飼った思い出や、あるいは亡くなる直前の食事の思い出などは、読む者の胸を打ちます。
その他にも、さまざまな形で亡くなった死者たちへの想いは、それぞれに切ないものですが、死者というのは自分の心の中にいるものであり、本書は、自分自身の中にいる死者との対話といった趣があり、そして、それは、祈るという行為とも重なることなのだろうなあと。
そうした思い出を反芻することで、自らを浄化している自分がいる―、そのことを著者は冷静に捉えていると感じました。
四国霊場八十八ヶ所を"踏破する"といったものではなく、自分の過去に旅しているという感じでしょうか。ただし、"身体的な旅"と"精神的な旅"は連動していて、現実の旅においても出会いや発見があります。
暗い話が多いかというとそうでもなく、夫婦で四国へ旅に来た老女が途中で連れ添いに死なれ(やっぱり暗い?)、「寺で死んで本当にありがたかった。何から何までお寺さんがやってくれて、きれいさっぱり成仏でしたわ」なんてあっけらかんとしているはかえって面白いけれども、結構ホントそうかもと思わされたりしました。
後半、一部に、近年著者が追っている渋谷系の少女などを巡っての社会批評的なコメントが入ったりして、本全体としてのテーマがやや拡散的になったきらいがあるのが、個人的には残念。
【2006年文庫化[文春文庫]】