【947】 ? 小野 善康 『不況のメカニズム―ケインズ「一般理論」から新たな「不況動学」へ』 (2007/04 中公新書) ★★★?

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絶賛している人も多い本だが、素朴な疑問も。

不況のメカニズム.jpg 『不況のメカニズム―ケインズ「一般理論」から新たな「不況動学」へ (中公新書)』 ['07年]

 経済学における「ケインズ派」と「新古典派」の論争はいつまで続くのやらという感じですが、本書は、サブタイトルにあるように、ケインズの『一般理論』を解体し、新たな「不況動学」を構築するのが目的であり、「新古典派」の唱える「市場原理主義」については、不況下に苦しむ人びとをさらに苦境に追い込むとしてハナから批判していますが、一方、ケインズの『一般理論』にも誤りがあったとしています。

 新古典派によれば、不況は供給側の原因(生産力の低さや価格・賃金調整の不備)で起こるのであり、生産力が低いままで、更に物価や賃金が下がらなければ、商品は売れず雇用は増えない。だから、不況から脱出するには、生産力を上げると同時に、価格と賃金を下げることが必要になってくる―と。

 これに対しケインズ派は、不況は需要側の原因で起こり、需要不足の下では価格や賃金が調整されても売れ残りや非自発的失業は残るため、企業が効率化や人員整理を進めれば、需要は更に減り、不況が深刻化する、そこでケインズ派は「人為的に需要を作って余った労働力に少しでも働く場を確保すること」が不況からの脱出策になる―と。

 著者は新古典派の考えには与せず、一方でケインズを、「需要不足の可能性に注目することによって、不況における政策の考え方に重要な示唆を与えたことにある」と評価しながらも、「結局ケインズは、物価や貨幣賃金が調整されても発生する需要不足を論証することには、必ずしも成功しなかった。さらに消費の限界を設定するために安易に導入した消費関数がケインズ経済学の中心的な位置を占め、無意味な乗数効果が導かれ濫用されて、金額だけを問題にする財政出動の根拠となった」と批判しています。

 著者によれば、ケインズの、「民間が行う消費や投資の決定に任せていては需要不足の解消は不可能であり、政府の介入によって投資を増やすしかない」という不況対策理論は、初めから需要不足を前提とする仮説に基づいている点で論理的欠陥があり、だったら本当に失業手当よりも公共事業の方がいいのか(「災害でも戦争でもいいから」とケインズは言ったらしいが)、投資が次々と連鎖的に新たな所得を生み出すというのは幻想ではないかとしています。

 ケインズ理論の誤謬検証を通じての新たな「不況動学」論として、著者の理論の展開は論理的にはカッチリしていますが(本書を絶賛している人は多いし、著者自身も「不況システム」の分析にかけては絶対的な自信がある模様)、机上論のような感じも...(この部分は専門的でやや難解。正しいのかどうかよく判らず、その意味では、自分には評価不能な面も)。
 公共事業は、失業という人的資本の無駄を減らすだけではなく、実際に有意義な物やサービスを生んだ場合にのみ意味を持つというのが著者の結論であり、「良い公共事業とよくない公共事業」論とでも言えるでしょうか。

 著者は、リフレ派のインフレ・ターゲット論を、「どのようにして人々にインフレ期待を持たせるかという肝心の点については、明確な方法がわからない」と批判していますが、著者の論についても「どのような公共事業が"良い公共事業"と言えるのか明確にわからない」ということが言えるのではないでしょうか。

 基本的には、『景気と経済政策』('98年/岩波新書)の続きみたいな感じで、その間に、小泉純一郎内閣('01‐'06年)の「構造改革」路線があったわけですが、"聖域"があり過ぎて、「構造改革」論の正誤を検証できるところまでいかなかった気がします。
 だから、こうして「ケインズ派」と「新古典派」の論争は続くのだなあ。

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