【3034】 ○ 川島 雄三 (原作:川端康成) 「女であること (1958/01 東宝) ★★★★ (○ 川端 康成 『女であること (1961/04 新潮文庫) ★★★★)

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比較的原作に忠実に作られていた。久我美子が一番"キャラ立ち"している。
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女であること <東宝DVD名作セレクション>」美輪明宏 久我美子/原節子/香川京子『女であること (新潮文庫)

「女であること」3ni.jpg「女であること」9.21.jpeg 佐山家の主人・佐山貞次(森雅之)は弁護士、夫人・市子(原節子)は教養深い優雅な女性。結婚十年で未だ子供が無いが、佐山が担当する死刑囚の娘・妙子(香川京子)を引取って面倒をみている。ある日、市子の女学校時代の親友・音子(音羽久米子)の娘さかえ(久我美子)が、大阪から市子を頼って家出して来た。さかえは自由奔放で行動的。妙子は内向的な影のある娘で、父に面会に行くほかは、アルバイト学生・有田(石浜朗)との密かな恋に歓びを感じている。二人とも佐山夫妻に憧れているが、さかえは積極的、妙子は消極的。市子には結婚前、清野(三橋達也)という恋人があったが、ある時、佐山の親友の息子・光一(太刀川寛)から何年ぶりかの清野に紹介された。その後、佐山が過労で倒「女であること」kagawa1.jpegれた時、さかえは彼のために尽くし、急激に佐山を慕うようになる。全快した佐山と共に、さかえは彼の事務所に勤めることになり、市子の心は微妙にさやぐのだった。その頃、音子が上京し、清野のことも話題になったが、その彼女らの前に、佐山とさかえが清野の招きをうけ、彼に送られて帰宅するという一幕があった。一方、妙子は有田と同棲するために佐山家を出たが、妙子の心づくしにも拘らず、有田は彼女から去っていく。妙子の父の公判が開かれる前日、わがままを言って佐山に打(ぶ)たれたさかえは、その晩帰宅しなかった。市子は、佐山との生活での彼女の苦悩をはじめて夫に打明けたが、市子が思ったほど佐山はさかえに心を奪われてはいなかった。公判の日、妙子の父は佐山の努力で減刑になり、また、さかえは音子のいる宿で泊まったことが判り、市子は安堵する。が、それも束の間、佐山が交通事故で負傷する。幸いにも傷は軽くてほどなく退院した。退院祝いの日、多勢の見舞客のなかに、素直になったさかえを喜ぶ音子や、少年医療院への就職がきまった妙子もいた。だが何よりも佐山家にとっての喜びは、市子が身籠ったことだった。そこへ、京都の父の許へ行くというさかえが、別れを言いに来た。隣室の音子を呼ぼうとする市子をあとに、さかえは雨の中を逃げるように歩み去る―。

「女であること」ps.jpg 川島雄三の1958(昭和33)年監督作で、原作は川端康成が、朝日新聞の朝刊紙上に、1956(昭和31)年3月から同年11月まで251回にわたり連載した長編小説で、前半104回分が「女であること(一)」として1956(昭和31)年12月に新潮社から刊行され、後半は「女であること(二)」として翌年同社より刊行されています。

I『女であること』.jpg 田中澄江、井手俊郎、川島雄三の3人の共同脚色で、原作も会話が多く、名作ながら川端作品の中ではすらすら読めるタイプに属するものですが、ただし、文庫で680ぺージ近い長編、それをテンポ良く100分の映画に纏めたという感じです。ストーリー的にも、比較的原作に忠実に作られていたように思います(妙子の女友達が出てこなかったぐらいか)。

 森雅之演じる弁護士の佐山を巡って、原節子、久我美子、香川京子が演じる3人の女性のそれぞれの思惑が行き来しますが、映画では、久我美子演じるさかえの、周囲に波風を立てるお騒がせなキャラクターと、香川京子演じる妙子の、殺人犯の娘という宿命のもと何かと思いを内に秘めるキャラクターの、その両者の対比がより印象的でした。

「女であること」511.jpg「女であること」kiss.jpg  二人とも原節子(当時38歳くらいか)演じる市子に憧れていますが、とりわけ久我美子演じるさかえは、市子に同性愛的な思慕を抱いている風で(市子に接吻するシーンは原作通り)、それでいて佐山にも急速に接近していく、やや小悪魔的な面もある女性です(市子と彼女の昔の恋人・清野の再会の場もしっかり盗み見したうえで、光一に接近しているし)。

 佐山がそんなさかえを打(ぶ)つシーンは、原作では帰りの坂道を二人で歩いていて、さかえの暴言に怒った佐山が平手打ちをして、すぐに謝って彼女を抱き上げる風になっていますが、映画では、帰りのクルマ内で(原作では佐山は運転をしないことになっているのだが)、佐山にかまってもらえないさかえが勝手にブレーキを踏んでクルマを止め、川原へ逃げていくのを、追いついた佐山が、さかえに暴言を吐かれて彼女を平手打ちに。その後、河原で彼女に覆い被さるようになって―河原だからこうなるのだろなあ。因みに、森雅之と久我美子は前年の五所平之助監督「挽歌」('57年/松竹)では不倫関係の男女を演じています(当然、キスシーン有り)。

 さかえは(わがまま娘にありがちだが)佐山に打(ぶ)たれたことで、彼への思いは逆に頂点に。でも、市子のことも好きなので、佐山に打たれた瞬間に、「小父さまも、小母さまも好き...二人とも好きな時の自分は嫌い...」というアンビバレントな心情を吐露するに至ったのでしょう(原作はここまで"解説的"ではないのだが)。

「女であること」21.jpg 終盤に市子が身籠ったというのは、「雨降って地固まる」といったところでしょうか。ただし、原作もそうですが、映画もプロセスにおいてそうなることを示唆する描写がないので、何かしっくりこない気もします。とは言え、夫婦も危機を乗り越え(もともと、三橋達也よりは森雅之の方が渋いと思うけれどね。作者が川端であることを思うと、森雅之と久我美子の方が危なかった?)、香川京子演じる妙子も将来が見えて落ち着いたのかと思うと、後は、その団欒の輪に入れないのは、久我美子演じるさかえのみです。「違ったところで、違った自分を探し出したい」と言って駆け出していく彼女は、最後まで自分探しを続ける予感がします(ただし、最後のこのセリフも映画のオリジナル。原作は、ただ父に会いに行くと言っているだけで、映画はやや親切過ぎるくらい説明過剰か)。

「女であること」久我美子   1.jpg「女であること」kugao1.jpg キャラクターとしては、久我美子演じるさかえが一番"キャラ立ち"していたでしょうか。溝口健二監督の「噂の女」('54年/大映)で「日本のオードリー・ヘプバーン」と言われた彼女ですが(「ローマの休日」が1954年4月に日本で公開されるや、一躍ショートカット、所謂ヘプバーンカットが大流行した)、その4年後のこの「女であること」でも、ヘプバーンを意識して模しているように思いました。そのヘプバーンが大阪弁を喋るので、否が応でも久我美子は印象に残ります。

IMG_morimasauki.jpg「女であること」yokop.jpg「女であること」●制作年:1958年●監督:川島雄三●製作:滝村和男/永島一朗●脚本:田中澄江/井手俊郎/川島雄三●撮影:飯村正●音楽:黛敏郎●原作:川端康成●時間:100分●出演:原節子/森雅之/久我美子/香川京子/三橋達也/石浜朗/太刀川洋一/中北千枝子/芦田伸介/菅井きん/丹阿弥谷津子/荒木道子/音羽久米子/南美江/山本学/美輪明宏●公開:1958/01●配給:東宝●最初に観た神保町シアター(「生誕110年 森雅之」特集)(21-04-22)(評価:★★★☆)

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This page contains a single entry by wada published on 2021年5月23日 05:50.

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