【895】 ○ 芝 伸太郎 『うつを生きる (2002/07 ちくま新書) ★★★★

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「メランコリー親和型うつ病」というものを通して、"日本人という「うつ病」"を考える。

うつを生きる.jpgうつを生きる (ちくま新書)』['02年]日本人という鬱病.jpg 芝 伸太郎『日本人という鬱病』['99年]

メランコリー.jpg うつ病の中に「メランコリー親和型うつ病」という種類があり、これは、律儀、几帳面、生真面目、小心な、所謂、テレンバッハが提唱したところの「メランコリー親和型性格」の人が、概ね40歳以降、近親者との別離、昇進、転居、身内の病気などを契機に発症するものですが、職場での昇進などを契機に責任範囲が広がると、全てを完璧にやろうと無理を重ね、結果としてうつ病に至る、といったケースは、よく見聞きするところです。

 著者は、「メランコリー親和型性格」というのは平均的な日本人の性格特徴であり、和辻哲郎の『風土』など引いて、それに起因するうつ病というのは、日本の"風土病"であるとも言えるとして、これは、前著『日本人という鬱病』('99年/人文書院)のテーマを引き継ぐものです。
 また、日本の社会における「贈与」(ボランティア活動なども含む)とは、「交換」と密接に結びついていて(結局は、どこかで相手に見返りを要求している)、そうしたことが「うつ病の発生母地」になっていると。
 確かに、うつ病による休職者などは、会社に対して借りを作っていうような気分になりがちで、ある種の経済的な貸借関係の中に自らの休職を位置づけてしまいがちな傾向があるのかも。
 では、どうして日本人がそうした心性に向かいがちなのかを、本書では、文学、哲学、経済など様々な観点から考察し、貨幣論やマックス・ウェーバーの社会学にまで言及しています。

木村 敏.jpg 「メランコリー親和型性格」をキーワードに日本人論を展開したのは、著者の師であるという木村敏(1931- )であり、その他にも、中井久夫、新宮一成ら"哲学系"っぽい精神病理学者を師とする著者は、一般書という場を借りて、自らの思索を本書で存分に展開しているように思えます。
 うつ病本体から離れて、形而上学や日本人論にテーマが拡がっている分、一般のうつ病経験者などが本書を読んだ場合、どこまでそれに付き合うかという思いはありますが、これが意外と共感を呼ぶようです。
 それぐらい、「メランコリー親和型性格」というものを指摘されたとき、それが自分に当て嵌まると感じる人が、うつ病経験者には多いということなのかも知れません。

 そうした性格を否定するのではなく肯定的に捉えている点も、本書が共感を呼ぶ理由の1つだと思いますが(その点でタイトルの「生きる」に繋がる)、思考しながら読み進むことで、そうした自らの心性を対象化し、ものの考え方が良い方向に変容するという効果もあるのかも知れないとも思いました。

 個人的に興味深かったのは、不況(depression)とうつ病(同じく、depression)の相関についての考察で、「メランコリー親和型うつ病」というのは、返済不能な負債を負った際などに発症するものであり、会社で給与カットやリストラに遭ったりして発症するものではなく、折角昇進(昇給)させてもらったのに、それに見合った仕事ができていない、などといった状況で発症すると。
 だから、不況下では、それ以外の精神疾患は増えるかも知れないが、「メランコリー親和型うつ病」は減ると―。

 そんな機械的に割り切れるものかなという気もしますが(リストラした会社に対する負債は無いが、家族や援助者への負い目などはあるのでは?)、「メランコリー親和型うつ病」の特性を考えるうえでは、わかりやすく、また興味深い仮説かも知れないと思いました。

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