【1422】 ○ フリオ・コルタサル (木村榮一:訳) 『悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集』 (1992/07 岩波文庫) ★★★★ (◎ 「正午の島」―『悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集』 (1992/07 岩波文庫) ★★★★☆)

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現実と非現実が入り混じった幻想的な作風の短編集。「正午の島」が良かった。

『悪魔の涎・追い求める男』.JPG悪魔の涎・追い求める男.jpg  フリオ・コルタサル.jpg Julio Cortázar、1914-1984
悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集.jpg 『石蹴り遊び』『遊戯の終わり』などの作品で知られるアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル(Julio Cortázar、1914-1984)の短編集で、表題作2編は、1959年刊行の『秘密の武器』からの抜粋であるなど、作家の幾つかの短編集から訳者が10編を抽出して編んだものですが、どれも面白かったです。

 30歳代後半からパリに移住し、作家人生をフランスで全うしているので、作品もフランスが舞台になっているものが多く、やや他のラテンアメリカの作家とは毛色が異なる気もしますが、原著はスペイン語で書かれているため、"ラテンアメリカ文学"作家ということになるのでしょう。

 若い頃はエドガー・アラン・ポーに耽溺し、作家生活の初期にフランス文学に傾倒してフランスへの憧憬を抱きフランスに渡ったとのことですが、自らのエッセイでアルフレッド・ジャリのシュールレアリズムに影響を受けたと書いているように、現実と非現実が入り混じった幻想的な作風がこの短編集でも窺え、個人的には、安部公房、星新一、筒井康隆など日本の作家の作品を想起させるようなものもありました。個々に見ていくと―。

「続いている公園」 僅か2ページの短編。小説を読んでいる男がいつの間にか小説の中に...。アラン・ポー的、と言うより、このブラック・ユーモアは、むしろ星新一のショートショートみたいかなあ。

「パリにいる若い女性に宛てた手紙」 間歇的に口から子兎を吐き出すという奇病のため、女性から借りたアパート部屋が兎だらけになってしまうという、シュール極まりない男の話。安部公房みたいかなあ。だらだら手紙など書いていないで、早く病院に行った方がいい?

「占拠された屋敷」 兄妹の暮らす家が徐々に得体の知れない何者かに占拠され、仕舞いには2人は自分たちの家を追い出されてしまうという...。カフカ的な不条理の世界で、筒井康隆の作品にもありそうな...(筒井康隆の初期作品に「二元論の家」というのがあった)。コルタサルのこの作品の日本での初出は、早川「ミステリマガジン」1989年7月号。

「夜,あおむけにされて」 オートバイ事故に遭った男の、夢と現実の入り混じった臨死体験的な意識の流れ。すでにこの男が死んでいるとすれば、吉村昭の「少女架刑」だなあ、これは。

blowup3.jpg欲望 パンフ.jpg「悪魔の涎」 公園でふとしたことから男女を盗み撮りした男は、その写真の世界へ引きずり込まれる...。この作品は、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」('66年/英・伊)の原作として有名ですが、ラストは、ジョエル・コーエン監督の「バートン・フィンク」('91年/米)と雰囲気的に似ているかも。「悪魔の涎」とは、ゴッサマー(晴れた秋の日などに空中を浮遊する蜘蛛の糸)のことです。

映画「欲望」('66年)

「追い求める男」 才能がありながらも薬物に耽溺し破滅に向かうサックス奏者(チャーリー・パーカーがモデルのようだ)を、ジャズ評論家で、彼の伝記作家でもある男の眼から、作家自身と対比的に描いた作品で、他の作品と異なり、オーソドックスな文芸中編であると同時に、ある種の「芸術家論」かなあ。

La autopista del sur.jpgLa autopista del sur,200_.jpg世界文学全集 第3集.jpg「南部高速道路」 高速道路で渋滞がずっと何カ月も解消しなかったらどうなるか。そこにやがて原始コミュニティのようなものが発生して...。ガルシア=マルケスに、「1958年6月6日、干上がったカラカス」という、乾季がずっと続いたらどうなるかという記事風の作品があったのを想起しました。因みにこの作品は、作家・池澤夏樹氏による個人編集の「短篇コレクションI―世界文学全集第3集」に収められている南北アメリカ、アジア、アフリカの傑作20篇の冒頭にきています。
短篇コレクションI (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 第3集)

飛行機から見た南の島.jpg「正午の島」 スチュワードの男は、いつも飛行機から正午に見えるある島に何故か執着し、ついに休暇を取ってその島を訪れ、仕事を辞めてその島に住んでもいいと思う。そして、その計画を実行に移し、島の生活にも慣れたところへいつもの飛行機が...。ラテンアメリカ文学らしくないと言えばそうとも言え、ラテンアメリカ文学らしいと言えばそうとも言える(ドッペルゲンガーも魔術的リアリズムの系譜?)、賛否割れそうな作品ですが、個人的にはこの短編集の中では一番面白かったです。解釈は自由ですが、アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」(ロべール・アンリコ監督の「ふくろうの河」の原作)みたいに、男が死ぬ直前に見た夢のようなものだと解するのがスジなのでしょう。(この作品のPhilippe Prouff 監督による映画化作品"L'île à midi(La isla a mediodía、The Island at Noon)"(2014、38min)が2015年にフランスで公開された。)

「ジョン・ハウエルへの指示」 演劇を観に来た評論家の男は、なぜかその劇の舞台に立たされ、ジョン・ハウエルという男の役をさせられる羽目に。そのうち半分以上ハウエルになり切ってしまい、人格分裂みたいな状況に...。
 シュールな悲喜劇ですが、人生ってこんな要素もあるかもと思わせる作品。

「すべての火は火」 ローマ時代と現代の2つの物語が並行し、やがて2つの話が、電話が混線するように、時空を超えて混ざり合っていく短編。筒井康隆みたい。

 ボルヘスと並んで、ラテンアメリカ文学における短篇の名手とされているようですが、どちらも幻想的かつ実験的な作品が多いという点では共通しており、ボルヘス作品が、加えて"高邁的(時に無意味に高踏的)"だとすると、コルタサルは、加えて"エンタテインメント的"であるように思いました。

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