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江戸前期の「忘れられた国際人」雨森芳洲の業績と思想、生き方に迫る。
『雨森芳洲―元禄享保の国際人 (中公新書)』〔'89年〕 『雨森芳洲―元禄享保の国際人 (講談社学術文庫)』 〔'05年〕
1990(平成2)年度「サントリー学芸賞」(社会・風俗部門)受賞作。
雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう、1668‐1755)は、対馬藩で対朝鮮外交に当たった儒者ですが、「忘れられた国際人」と呼ばれるに相応しいこの人物の業績と思想を、本書では丹念に掘り起こしています。
芳洲には、①朝鮮語の語学者、②外交担当者、③民族対等の観点に立つ思想家、の3つの顔があり、また漢籍を能くし漢詩をこなす文人でもあります。
もともと新井白石と同じ木下順庵門下として朱子学を学び、26歳で対馬藩に就職しますが、白石が5代将軍徳川綱吉のもと幕府中枢で活躍したのに対し、芳洲は88歳で没するまで62年間、対馬島の厳原(いずはら、現厳原町)が生活の本拠でした。
同門の白石が政権の座についたことで、自身も幕府に引き立てられる望みを抱いていましたが、白石の失墜でそれも叶わぬ望みとなり、朝鮮外交で20年以上も活躍しましたが、54歳で現役を退いています。
在任中に朝鮮の外交特使である朝鮮通信使の待遇問題などで白石と対立しますが、そこで論じられる両者の国体論などはなかなか面白い。
考えてみれば、当時の日本というのは天皇と将軍がいて外国から見ればややこしかったわけですが、議論としては白石よりも芳洲の方が筋が通っている、それも、相手をやり込めるための議論ではなく、相手国・朝鮮の立場を尊重し、かつ日本の国体を、時勢によらず正しく捉えることで、国としての威信を損なわないようにしている、言わば辣腕家ではあるが、細心の配慮ができる人です(論争後も白石との友情は続いた)。
朝鮮通信使が相対する日本側の儒者や政治家の教養や芸術的資質を重視し、詩作の競争などを通じて相手のレベルを測っていたというのが興味深いですが、芳洲に対する朝鮮通信使の評価は高く、また、人格面でも大概の通信史たちが惹かれたようです。
それ以前に、まず、芳洲の中国語と韓国語の語学力に圧倒されたということで、確かに語学においてその才能を最も発揮した芳洲ですが、80歳を過ぎても自己研磨を怠らない努力家であったことを忘れてはならないでしょう。
地方勤務で終わった窓際族のような感じも多少ありますが、早くに引退しその後長生きしたことで、自らの思索を深め、それを書物に残すことも出来、それによって我々も今こうして、江戸時代前半に「誠心」を外交の旨とするインターナショナルな思想家がいたということ(韓国側にも彼を讃える文献は多く残っていて、'90年に訪日した韓国・慮泰愚大統領は、挨拶の中で芳洲の「誠信外交」を称賛した)のみならず、その人生観まで知ることができるわけで、1つの生き方としても共感を覚えました。
尚、江戸時代の朝鮮通信使の歴史や政治的意義については、仲尾宏氏の『朝鮮通信使-江戸日本の誠信外交』('07年/岩波新書)で知ることが出来、毎回数百名の通信使が来日し、その際には必ず大坂・京都を経て江戸へ向かったとのことですが、それを各都市ではどのように迎えたか、通信使の眼にこの3都市がどのように映ったかなどについては、同著者の『朝鮮通信使と江戸時代の三都』('93年/明石書店)が参考になりました。
【2005文庫化[講談社学術文庫]】