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「終わりよければすべてよし」。「悲劇」と見るのには無理がある。
『ヴェニスの商人 (新潮文庫)』(福田恆存:訳)『ヴェニスの商人』 光文社古典新訳文庫 (安西徹雄:訳)〔'07年〕『ヴェニスの商人 (白水Uブックス (14))』(小田島雄志:訳)['83年]
新潮文庫(改装版)
1594年から1597年の間に書かれたとされているシェイクスピア(1564‐1616)の作品ですが、近年では、ユダヤ人高利貸しのシャイロックが苛められる話として有名かもしれません。
劇団四季で浅利慶太が日下武史をして〈受難者〉としてのシャイロック像を演出し「新解釈」と言われましたが、実は昔からそうした解釈はあり、本場ロンドンではシャイロックを一流の悲劇役者が演じる傾向が18世紀からあるそうです。
'04年に初めてハリウッド映画化され、それまで映画化されなかったのは、米映画界におけるユダヤ系の人たちの影響力の大きさのためだと思うのですが、シャイロックを演じたのはやはり大物俳優(アル・パチーノ)でした(マイケル・ラドフォード監督、ジェレミー・アイアンズ、ジョセフ・ファインズ共演)。
因みに、今年['07年]8月には、本場英国のロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの演出家グレゴリー・ドーランを招いて市村正親(シャイロック)、西岡徳馬(アントーニオ)、藤原竜也(バサーニオ)、寺島しのぶ(ポーシャ)の配役での舞台公演が予定されていますが、やはりテーマは「偏見」ということになるみたいです。
でもやはり、シェイクスピアの「ハムレット」「マクベス」「オセロー」「リア王」を生んだ「悲劇時代」の前にあった、彼の「喜劇時代」の作品であることに注目した福田恆存(1912-1994)の解題にもあるように、これを「悲劇」と見るのには無理があるような気がします。
福田 恆存 (1912-1994)
「クリスト教徒の血を一滴でも流したら、お前の土地も財産も、ヴェニスの法律に従い、国庫に没収する」(クリスト教徒...というのがミソですが)と言われて復讐を諦めたシャイロックが、「市民以外の者が市民の生命に危害を加えようとした罪科」で、結局財産を没収され、さらに生殺与奪権を当局に委ねられるのであれば、この裁判はもともと何だったのかと突っ込みたくもなりますが、意外と本人は(演じ方にもよりますが)あっさり引き下がり、証文の文言をタテに強気を張っていた人物が、同じ文言や条文に足をすくわれるというパラドックスが鮮やかだと思います。
何れにしろ、ユダヤ人に対する排斥感情が正論的に在った時代に書かれたものであることを頭に入れておくべきかも知れないし、時代背景を考え始めると、アントーニオーとバサーニオーの友情も、現代のものとは少し違うのではないかという見方(もっと"濃い"もの)も成り立ちます。因みに、グレゴリー・ドーランの演出も、バサーニオがポーシャに求婚する費用を作るため借金をするアントーニオは、同性のバサーニオを愛しているという解釈となっているようです。
悲劇だと決め込んで初めて映画や芝居でこの作品に触れた人の中には、最後のポーシャが「変装」や「指輪の行方」の種明かしをする"微笑ましい"場面が「余分だった」というような感想を持った人もいたようですが、「終わりよければすべてよし」というオプティミスティックな考え方がベースの明るい作品であるという解釈に立てば、この部分は構成上なくてはならないパートでしょう。どんどん「悲劇」化されていくことで、オリジナルとは違ったものになっていっている気がしなくもないです。
『シェイクスピア全集 (10) ヴェニスの商人 (ちくま文庫)』カバー画:安野光雅/『ヴェニスの商人 (1966年) (旺文社文庫)』
【1966年文庫化[旺文社文庫]/1967年再文庫化[新潮文庫]/1973年再文庫化・1982年改訂[岩波文庫]/2002年再文庫化[ちくま文庫]/2005年再文庫化[角川文庫(『新訳 ヴェニスの商人―シェイクスピアコレクション』)]/2007年再文庫化〔光文社古典新訳文庫〕】
《読書MEMO》
●舞台演劇「ヴェニスの商人」
演出:グレゴリー・ドーラン
出演:市村正親(シャイロック)、西岡徳馬(アントーニオ)、藤原竜也(バサーニオ)、寺島しのぶ(ポーシャ)