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「ボランティアは石もて追われよ」。自分はまだそこまでの境地に達していないなあ。
『人間の覚悟 (新潮新書)』['08年]
生きているということは、自分に関する事柄について1つ1つ不可能性を認識していくことではないかと思われ、そうした意味では、ある程度の年齢を経れば、一定の諦念のようなものは否応なく身についてしまうのではないでしょうか。
但し、本書にあるように、「諦める」覚悟を持たなければならないとまで言われると、自分はまだまだそこまで達していないなあという気がします。
著者は、「諦める」は「明らかに究める」に通じるとしていることから、「諦める」覚悟を持つということは「明らかに究める」覚悟を持つということにもなり、やはり、そうした努力は継続しなければならないのかなあ。
但し、著者が言う「善意は伝わらないと覚悟する」「人生は不合理だと覚悟する」「国家や法律は守ってくれないと覚悟する」「統計などの数字よりも自分の実感を信じる」などといったことは、既に実感として身についてしまっている人の方が多いかも。
もともと著者のエッセイには、それこそ初期の「風に吹かれて」の頃からある種ペシミズムのようなものが漂っていたように思いますが、「資本主義は終焉の時期が来ている」はともかく、「躁から鬱の時代(下降していく時代)に入った」とか言われると、自身の加齢とともに、終末論的な色合いが強くなってきているような気がしなくもありません。
著者は昔、文化講演会などで話をさせられるのは苦手だと言っていましたが、本書などは、時事批評的な要素もあれば、お坊さんの法話的な雰囲気もあり、今ではこうした語り口がすっかり身についてしまった感じもします。
全体を通しての自分自身の読後感は、分かったような、分からなかったような、と言う感じであり、まだ自分は「覚悟」に至るにはかなり遠いところにいるのかも知れません。
但し、部分部分においては示唆に富む箇所もあり、とりわけ個人的には、「ボランティアは石もて追われよ」と書かれている箇所に共感しました(この部分についても、自らを振り返ってみれば、自分はまだそうした境地に達していないのだが)。
文中に朝鮮からの引き揚げ時のエピソードがちらりちらりと出てくるのが著者の最近のエッセイの特徴ですが、その中に、モーパッサンの『脂肪の塊』を想起させるものがあったのが印象に残りました(占領した側に女性を人身御供として遣わせるところ。戦争のごとに歴史は繰り返されるなあ)。
《読書MEMO》
●「ボランティアは石もて追われよ」
一九九五年に阪神淡路大震災が起きたとき、ボランティアとしてたくさんの人が被災地に向かいました。
若い人たちの中には、骨を埋める覚悟で行くという人もいるほど熱気があったのに、地震から二、三年も経つと、その人たちが私にこぼすようになったのです。「はじめは涙を流して喜んでいた人たちが、そのうち慣れて小間使いのように自分たちをこき使う」、「やってくれるのが当然という態度で、ありがとうの一言もない」など。
しかし私はこう思うのです。「それは君たちがまちがっている。そもそもボランティアというのは、最後は『石もて追われる』存在であるべきなのだから」。(中略)ほんとうに自らの身を投じて仕事をすれば、ついには追われるのが自然です。
最後にみんなから大きな感謝とともに送り出される、などと考えてはならない。「もう帰っていいよ」と言われたら、「はいそうですか」と帰ってくればいい。いい体験をさせてもらいました、ありがとう、と心の中でつぶやきつつです。そう覚悟してこそボランティアなのだと思います。(中略)それでもしだれかが、「ありがとう」と言ってくれて、もし相手に思いがつうじたなら、狂喜乱舞すればいいのです。