【296】 △ 宮台 真司 『透明な存在の不透明な悪意 (1997/11 春秋社) ★★★

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神戸連続児童殺傷事件を発生直後に考察。持論へのやや強引な引き付けを感じる。

透明な存在の不透明な悪意.jpg 『透明な存在の不透明な悪意』(1997/11 春秋社) 宮台真司.jpg 宮台 真司 氏

 '97年に起きた神戸連続児童殺傷事件の「少年A」の逮捕直後に、著者がインタビューや対談を通じて事件を論じたものを1冊にまとめた"緊急出版"的な本ですが、起きたばかりの衝撃的な事件に対し、冷静に社会論的分析をしてみせる著者の"慧眼"に脱帽した読者も多かったかも。

 ただ個人的には、家族幻想の崩壊による社会の「学校化」とか、子どもの居場所が無い「ニュータウン化」社会とか、著者の持論を当て嵌めるのにちょうど良いケースだっただけではないかという気もします(持論への強引な引き付けを感じる)。
 「専業主婦廃止論」なども、そうした流れの中にあるかと思いますが、感覚的には言いたいことはわからないではないけれど、こうした事件を前にしたとき、あまり現実的な提案とは思えません。

 対談においても、吉岡忍氏が、「ニュータウン化」による"影の無い街"が、むしろ攻撃性や暴力性を露出するのかもと言えば、宮台氏は待ってましたとばかり「ダークサイドの総量一定論」を唱え、それにまた山崎哲氏(劇作家)のような人が、完成された街に育ったものには関与できる"現実の空間"が無く、「少年A」の犯罪はオウムの犯罪に通底すると続く...(113‐114p)。  
 こんな演劇論的な論筋だと、何でも"通底"してしまうのではないでしょうか。
 「ニュータウン化」論については、彼らの共感だけでなく、現実にその後も「ニュータウン」的な場所での少年犯罪などは起きていますが、マンションの機能的構造を見直そうという動きはあまり見られないようです。

 著者は、「酒鬼薔薇聖斗」が少年であることを想定できずに事件を"物語化"していた識者やマスコミを嗤い、彼をダーテーィヒーローにするなと言うけれど、その「犯行声明文」の文中の「透明な存在」という言葉が本書のタイトルにもなっているわけで、著者自身、「声明文」から受けた衝撃は大きかったのではないでしょうか。 
 「少年A」を「行為障害」と規定することは、著者の指摘どおり、「子供幻想」を温存するための社会的防衛機能が働いたのかも知れず、この「声明文」を改めて考察する意味はあると思いますが、そこから「子どもの自立決定・自己責任規制」論へ行くのは、著者独特の思考回路。

 著者は'92年からこのときぐらいまでは「ブルセラ・援交少女」肯定論を張っていましたが、豊富な社会学やサブカルチャーの知識とフィールドワークからの実感により、固定観念に囚われないユニークな視点を示す一方で、個人的には、論理の飛躍が多い人であるという印象が拭えません。

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