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読みどころは、「いじめ」問題にフォーカスした第1章か。
『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)』 ['08年]
著者によれば、現在の若者達は、「優しい関係」の維持を最優先にして、極めて注意深く気を遣い合いながら、なるべく衝突を避けよう慎重に人間関係を営んでおり、その結果、「優しい関係」そのものが、山本七平言うところの「空気」の流れを支配し力を持つため、その空気の下での人間関係のキツさに苦しみ、生きづらさを抱え込むようになっているとのことです。
全5章構成の第1章では、「いじめ」問題にフォーカスし、そうした「優しい関係」がいじめを生み出すとしていて、「優しい関係」を無傷に保つために、皆が一様にコミュニケーションに没入する結果、集団のノリについていけない者や冷めた態度をとる者がいじめの対象となり、一方で、対人距離を測れず接近しすぎる者も、空気を読めない(KYな)者として、いじめの対象になるとしています。
以下、第2章では、「リストカット」にフォーカスし、高野悦子の『二十歳の原点』と南条あやの『卒業式まで死にません』を比べつつ、若者の「生きづらさ」の歴史的変遷を辿り、その背後にある自己と身体の関係を探るとともに、第3章では、「ひきこもり」にフォーカスし、或るひきこもり青年が発した「自分地獄」という言葉を手掛かりに、「ケータイ小説」ブームなどから窺える、現在の若者達の人間関係の特徴、純粋さへの憧れと人間関係への過剰な依存を指摘し、そこから第4章の「ケータイによる自己ナビゲーション」へと繋げ、更に第5章で「ネットによる集団自殺」を取り上げ、それはケータイ的な繋がりの延長線上にあるものだとしています。
個人的には、第1章の「優しい関係」を維持しようする集団力学がいじめを生み出すとした部分が最もしっくりきて、陰惨ないじめが(被害者側も含め)"遊びモード"で行われるということをよく説明しているように思え、同じ社会学者の内藤朝雄氏の『いじめの構造』('09年/講談社現代新書)が、付和雷同的に出来上がったコミュニケーションの連鎖の形態が場の情報となり、それがいじめを引き起こすとしているのと共通するものを感じました(章後半の、若者はなぜ「むかつく」のかということについては、『いじめの構造』の方がよく説明されているように思う)。
但し、第2章以下で様々な社会現象を扱うにあたって、「優しい関係」というキーワードで全てを説明するのはやや無理があるようにも思われ、第2章の高野悦子と南条あやの「身体性」の違いの問題、第3章の若者が希求する「純粋性」の問題などは、それぞれ単独の論考として読んだ方がいいように思えました。
第4章の「ケータイによる自己ナビゲーション」は、博報堂生活総研の原田曜平氏の近著『近頃の若者はなぜダメなのか―携帯世代と「新村社会」』('10年/光文社新書) などに比べれば、社会学者らしい洞察が見られる分析ではあったものの、ここでも身体論が出てくるのにはやや辟易しました(「計算機も脳の延長である」とした養老孟司氏の『唯脳論』風に言えば、ケータイは身体の延長と言うよりもむしろ脳の延長ではないか)。
全体として章が進むにつれて、他書物からの引用も多くなり、それらを引きつつ、牽強付会気味に仮説と「検証」を組み合わせているような感じもしました(文章的には破綻しておらず、むしろキッチリしていて且つ読み易く、その辺りは巧みなのだが、類似する論旨の他書を引いても検証したことにならないのでは)。
まあ、こうやって仮説を立てていくのが、社会学者の仕事の1つなのでしょうが、検証面がちょっと弱い気もしました。
著者の頭の中ではしっかり整合性がとれているのだろうけれど、読む側としては、社会における若者そのものよりも、むしろ社会学者の若者観のトレンドが分かったという感じでしょうか。