【1120】 ○ 松本 清張 『半生の記 (1966/10 河出書房新社) ★★★★

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清張作品は、少年期から壮年期までの彼自身が"社会"から受けたことへの"復讐"だった。

半生の記2.jpg半生の記 (1966年)半生の記.jpg半生の記 (新潮文庫)』(カバー絵:岸田劉生「道路と土手と塀」)

松本 清張 『半生の記』.jpg 今年('09年)は松本清張の生誕100周年で、1909年生まれということは太宰治と同じですが、41歳での作家デビューは、太宰の死の2年後のことだったのだなあと思うと、何となく感慨深いものがあります。

 本書は松本清張が50代半ば過ぎに書いた自伝で、雑誌「文藝」の'63年8月号から'65 年1月号にに連載されたもの。以前に、著者の推理小説を立て続けに読んでいた頃、その狭間に本書を読み、特に面白いわけでもなく、何だか暗くてパッとしなかったなあという印象に終わりました。
 あとがきにも、自伝を書かないかと雑誌『文藝』から勧められて「つい、筆をとったが、連載の終わったところで読み返してみて、やはり気に入らなかった。書くのではなかったと後悔した。自分の半生がいかに面白くなかったが分った。変化がないのである」とあります。
 ところが、今回読み直してみて、確かに暗いことには暗いが、内容的には興味深く読めました。

 作家デビューするまでを書いてくれと編集者から言われたそうですが、『西郷札』でデビューして『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を獲った話はあとがきで少し触れているだけで、本文中にも一応は、若い頃に芥川龍之介に傾倒して、志賀直哉などは面白いとは思わなかったなどという文学遍歴話も多少はあるものの、殆どは、家庭の極度の貧困による苦労や無学歴のために受けた差別、更に朝日新聞社勤務時代に入っても続いた正社員でないことで受ける差別や生活苦のことが主に綴られており(副業で箒の販売をやって凌いだ)、サクセスストーリーにならないまま終わっています。

 松本清張は小倉に生まれ(但し、本書では「私は広島で生まれたと聞かされた」とある)、高等小学校を出た後は川北電機に勤めるも会社が倒産し、その次に印刷屋で版下づくりに携わり、色々勤め先を変わって、最終的には朝日新聞社が西部本社を開設した際に、正社員ではなく雇員としてそこの広告部に入るのですが(結局、戦争を挟んで朝日新聞には20年勤務することになる)、広告デザイナー(と言っても派手なものでなく、地元広告主の新聞突出広告の版下を作る程度のものだが)としての仕事は性に合っていたみたいです。
 個人的には、自分自身も学生時代に本書を読み、後に広告会社に就職したこともあって、書いてあることが身近に感じられました。

 衛生兵として朝鮮で終戦を迎えた時、玉音放送が雑音で聞き取れず、「未曾有の戦局に一致して当たれということだ」と参謀長が訓示したという体験談なども単純に面白かったです。

 しかし今回読み直して興味深く読めた大きな理由は、松岡正剛氏が「おそらくは清張が決して言わなかったことがあったはずである。それは、清張の作品のすべてが、少年期から壮年期までの松本清張自身が"社会"からうけてきたあることに関する"復讐"だったということである」(『松岡正剛の千夜千冊』-松本清張『砂の器』)と書いていたことが念頭にあったためで、そのことに照らして本書を読むと、『砂の器』の和賀英良にしろ『黒革の手帳』の原口元子にしろ、どれも作者自身が投影されている面があることが本書を読んでよくわかる気がし、また、それは否定できないことであるように思えたからです(清張自身は、松岡氏が言うように、作品の登場人物と自身との関係に関するそうした捉え方を、最後まで否定し続けたが)。
 
 【1966年単行本・1992年新装版[河出書房新社]/1970年文庫化[新潮文庫]】

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