【1018】 ○ レオニード・ツィプキン (沼野恭子:訳) 『バーデン・バーデンの夏 (2008/05 新潮社) ★★★★

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ドストエフスキー夫妻の愛情の深さとドストエフスキーという人間が抱える闇の深さの対比。

バーデン・バーデンの夏ド.jpgバーデン・バーデンの夏.jpgバーデン・バーデンの夏』〔'08年〕Leonid Tsypkin.jpg Leonid Tsypkin (1926-1982/享年56)

Summer in Baden-Baden.gif 1982年に米国の雑誌にその冒頭部分が発表され、その後長く埋もれていた小説を、米国の女性作家(活動家としても知られる)スーザン・ソンタグ(1933‐2004)がロンドンの古書店で見つけて再発掘したもので、このドストエフスキーへのオマージュに満ちたこの小説の作者のレオニード・ツィプキン(1926-1982)は、ドストエフスキーが唾棄したところのユダヤ人であり、作家ではなく優れた病理学者でしたが、旧ソ連末期、息子夫婦が米国へ亡命したために要職を外され、自らは出国も認めらないという不遇の中でこの小説を書き、米国で発表された1週間後に亡くなっています。

leonid tsypkin summer in baden baden.jpg 物語は、ドストエフスキーの妻アンナの日記を携えた語り手の「私」が、冬のモスクワからレニングラードに汽車で旅する最中、アンナの日記にある、新婚のドストエフスキー夫妻のドレスデンからバーデン・バーデンへの旅を追慕するように再現する形で始まっており(国内と外国、冬と夏という対比になっている)、以後、主に「アンナ・グリゴーリエヴナ」の視点から、彼の地で借金を抱えた夫「フェージャ」が賭博熱に憑かれ、屈辱、怒り、後悔、懇願を繰り返す様が描かれていますが、どう仕様もないような夫に従順につき従うアンナの姿には、ドストエフスキー作品の登場人物を思わせるような慈愛が感じられました。

 章や段落(改行)が無く句点も極端に少ない文体で、しばしば作者の意識とアンナの意識が交錯し、時にドストエフスキーの意識に深く入り込むという凝った形式をとっていて、2人の愛情の深さとドストエフスキーという人間が抱える闇の深さ(彼が抱える矛盾の典型とも言えるが)を対比的に浮かび上がらせるとともに、ドストエフスキーへの作者の抗い難い想いと、全人類に愛を手向けた彼が、ユダヤ人だけは、まるでそれらの埒外にあるように無視し嫌ったということに対する作者の悩ましい感情が、相克的に奔出されています(ここにも、もう1つの"矛盾"がある)。

 小林秀雄『ドストエフスキーの生活』(角川文庫)の巻末のドストエフスキーの年譜によると、1867年夏、『罪と罰』を前年に完成させた46歳のドストエフスキーは、21歳の新妻アンナとバーデンに滞在しており、この旅はこの小説にあるように、2人の新婚旅行であるとともに借金からの逃避行でもあり、一発巻き返しを狙うドストエフスキーは、滞在先で賭博ルーレットに嵌まり込んだようです。

 小林秀雄は、バーデン・バーデンについては、この地でドストエフスキーがツルゲーネフと対立したこと以外はさほど注目していないようで、それは、この新婚旅行が結局4年間も続くドストエフスキーの海外生活の始まりであり、その後、ドイツ各地の滞在先で、同じような"愚行"を彼が繰り返しているからだと思われます。
 その間に『白痴』を書き上げ、『カラマーゾフの兄弟』の構想も得ているわけですが、この小説では、まだ書かれていない小説の登場人物を用いた描写が多くあるのが興味深かったです。

 ドストエフスキーはこの長期海外滞在を終えた後も何度かドイツに出かけていますが、ドイツで公開賭博が禁止になったため、やりようがなかったらしく(賭博業者は皆、賭博の独占市場となったモンテ・カルロへ移った)、彼の晩年の家庭生活の平安は、モナコの王様のお陰だと、小林秀雄は『ドストエフスキーの生活』の中でジョーク気味に書いています。

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