【2543】 ○ 吉村 昭 『仮釈放 (1988/04 新潮社) ★★★★

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映画「うなぎ」にかなり反映されている。川西政明の文庫解説にやや違和感を覚えた。

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『仮釈放』(新潮文庫旧カバー版)/『仮釈放 (新潮文庫)』 「うなぎ 完全版 [DVD]
仮釈放』(1988/04 新潮社)

 浮気をした妻と相手の男の母親を殺害し、無期懲役の刑を受けて服役していた元高校教師の菊谷は、服役中の成績良好ということで仮釈放されることになった。菊谷は16年ぶりに刑務所を出て、大きく変貌した社会の様子に困惑しつつも、保護司や身元引受人達の支えを受けて、徐々に社会復帰していく。他人に過去を知られることを恐れ、一生保護観察下に置かれることの苦しさを感じながらも、だんだんと仕事に馴染み、菊谷の気持ちも安定するようになった。 その一方で菊谷は、事件を振り返っても被害者への懺悔の気持ちは湧いてこず、殺人を犯した動機もはっきりしない。自分の内部に得体の知れぬものが潜んでいるように思え、自問自答しても答えを見出すことが出来ないでいた―。

 1988(昭和63)年に刊行された吉村昭(1927-2006)の書き下ろし長編小説で、中盤までは、長期にわたって刑務所にいた主人公が久しぶりに社会へ出ていく際に生じる戸惑いが克明に記されています。また、罪を犯した人間の社会復帰を無報酬で支える保護司という仕事も紹介されて、興味深く読むとともに、そうした仕事への作者の敬意を感じました。

うなぎ 05.jpg これらについては、今村昌平監督が第50回カンヌ映画祭でパルムドール賞を受賞した映画「うなぎ」('97年/日活)の中にも織り込まれていたように思います。「うなぎ」の元々の原作は吉村昭の短編「闇にひらめく」(『海馬(トド)』('89年/新潮社)所収)であり、「闇にひらめく」も妻の不倫現場を見て妻と相手の男を刺した男の刑務所から出所後の話です。「闇にひらめく」では男はヤスでウナギを突くウナギ採りに師事し、鰻屋を営むようになった男のもとへ、自殺未遂をした女性が転がり込んでくるという展開ですが、映画「うなぎ」で役所広司が演じた、服役8年後に仮出所した主人公が示す様々な不安や戸惑いは、むしろこの『仮釈放』から引かれているように思いました。

うなぎ 03.jpg 映画「うなぎ」では男はウナギ採りに師事して鰻屋を営むのではなく、理髪店を営みつつウナギを飼うことでそれを心の慰めとしますが、これは完全にこの『仮釈放』の主人公がメダカを飼う動機と同じでしょう(「闇にひらめく」には主人公が何か生き物を飼うという話は無い)。その他、主人公が犯した事件のあった当初、妻の不倫が何者からかの手紙によって発覚したことや、同じ刑務所の受刑者仲間だった男が主人公に接触することなども『仮釈放』からとられており、常田富士男が演じた保護司の人物像も『仮釈放』の保護司・竹林に近いように思いました。

 映画は最後、主人公が女を守ろうとして、あるいざこざから一旦また刑務所に逆戻りするという結末ですが(原作「闇にひらめく」にはこの結末はない)、主人公はその時点で精神的には恢復しており、将来に希望が持てるラストになっています(原作「闇にひらめく」もその意味では同じ)。しかしながら、この『仮釈放』で作者は、主人公が「第二の殺人」を犯してしまうという不幸で重い結末を用意しています。

 文庫解説の川西政明(1941-2016)は、主人公に悲劇の「原型」を見た思いがしたとしていますが、自分もそれに似たような思いを抱かずにはおれませんでした。但し、その解説によれば、主人公が妻を殺し妻の愛人に傷を負わせたことは情状酌量の余地があるが、なんの関係もない妻の愛人の母親を殺したことは許し難く、無期懲役の判決の要因がそこにあるにも関わらず、そのことに無感覚であること、また殺人そのものに無感覚であることに主人公に悲劇の源があるといった論調になっており、Amazon.com のレビューなどでも、「この小説の主人公にとっての罰は、二度目の殺人ということになるだろう。この罰は、彼が最初の殺人に対して罪の意識を持てなかったことの必然的な結果であった」といったコメントがあって、多くの賛同を得ているようでした。

 一方で、少数ながら、「他のレビューを見ると罪の意識や反省の有無について書かれているものが多く違和感を感じた」「因果応報を描いた話ではなく、人の心理に潜む救いようのない業について描いたもの」というものもあり、自分の印象もこれに近いものでした。主人公が、事件を振り返っても被害者への懺悔の気持ちは湧いてこなかったというのは確かですが、二度目に起きた殺人事件は、個人の性(さが)に起因する「宿命論」的悲劇と言うより、「運命の皮肉」がもたらした悲劇に近いような気がしました(「第二の殺人」の犠牲者は保護司が世話してくれた新しい妻だった)。そもそも、ここで描かれている「第二の殺人」は、(どう裁かれるかは別として)「殺人」と言うより「傷害致死」に近いのではないかと思います。

 川西政明はこの作品の主人公を、ドストエフスキーの『罪と罰』の極めて人間的な殺人犯ラスコーリニコフ(彼も金貸しの老婆と共に無関係な同居人まで殺害してしまったのだが)と対比させて、"人間の倫理的な底が抜け落ちている"殺人犯とし、その殺人には戦慄すべきものがあるとしています、また、この作品は早期に英語、フランス語、ドイツ語に翻訳されています。川西政明の解釈が正しいのかもしれませんが、個人的には主人公をそこまで断罪しきれないように思いました。

【1991年文庫化[新潮文庫]】

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This page contains a single entry by wada published on 2017年5月 5日 00:04.

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