「●た行の現代日本の作家」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【593】 高橋 源一郎 『君が代は千代に八千代に』
『邪宗門』に繋がるテーマ。小説としてはさほど面白くなく、『邪宗門』のエンタテインメント性を再認識。
『堕落 (1969年)』/『堕落 (新潮文庫)』〔'82年〕/『堕落 (講談社文芸文庫)』〔'95年〕/『P+D BOOKS 堕落』['18年]
主人公の青木隆造は、かつて〈満州〉国建設に青春を賭けた男で、戦後は福祉事業団「兼愛園」の園長となり混血児の世話をしているが、「兼愛園」での業績が表象されたとき、彼の中で何かが"崩壊"し、施設の女性職員に次々と手をつけるなどして"堕落"の道を歩むこととなる―。
なぜ彼が表彰されたことを契機に自己崩壊したのかは説明されておらず、一方で、満州国において国家建設の幻想に破れ、妻や子を犠牲にしたことで、嚝野のようなイメージが彼の心を支配し、彼にとって偽善である奉仕活動の最中にも、その失った時間の痛みが彼の心を侵食していたという推測は成り立つのかも知れません。
共同体もしくは国家幻想に破れるというモチーフは、『邪宗門』('66年)に繋がるもので(本書単行本の刊行は『邪宗門』より後だが、発表は『邪宗門』執筆中の'65年)、国家が国家を裁き得るかという問題を提起しているように思えますが、夢破れた後も生き続けなければならなかった人間の内面に重きを置いている感じがします。
彼はその後、「兼愛園」を見捨て、さらには愛人までも裏切る―、こうした主人公の"堕落"の描き方には、硬質な筆致の中にもセンチメンタルなものが感じられ、"破滅の美学"という点でも『邪宗門』に繋がるものがあるように思えますが、彼を取り巻く女性ともども(もともと彼女たちは、意図して俗なる存在として描かれているようだが)、あまり好きになれない人物像でした。
今回が初読でしたが、"インテリゲンチャの苦悩"というやつなのか? 小説としてはそれほど面白いとは言えず(自分自身が"インテリゲンチャ"から程遠いためか?)、こうして見ると『邪宗門』という一見重厚な作品が、エンタテインメント的要素をふんだんに含んだものであったことが却って浮き彫りになったような気がしました。
【1982年文庫化[新潮文庫]/1995年再文庫化[講談社文芸文庫]】