【979】 ○ 江川 卓 『謎とき「カラマーゾフの兄弟」 (1991/06 新潮選書) ★★★★

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「これしかない」と言われると反発を感じるが、著者の私見とみて読めば、推理小説を読むように面白い。

『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』.bmp謎とき『カラマーゾフの兄弟』.jpg謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)』 ['91年] 謎とき『罪と罰』1.jpg謎とき『罪と罰』 (新潮選書)』 ['86年]

 著者の名を広く一般に知らしめた『謎とき「罪と罰」』('86年/新潮選書)に続くもので、前著でドストエフスキーが用いた言葉や登場人物のネーミングなどの持つ二重性・多義性を、翻訳者らしく徹底的に分析してみせた著者は、本書においても、「カラマーゾフ」という名前の分析から始め、それが「好色・放蕩」を意味し、また、「カラ=黒」、「マーゾフ=塗る」で「黒く塗る」の意でもあるとしています。

 『謎とき「罪と罰」』では、主人公の名前に黙示録の「悪魔の数字」である"666"という字が隠れているといったまさに"謎とき"はしているものの、作中にロシア正教の儀式が重要場面で象徴的に織り込まれているのに、そのことにはさほど触れられておらず、加賀乙彦氏が「江川卓はまったくキリスト教信仰というものについての関心がない」と批判していますが、本書では、同じく言葉(字義)の分析を入り口としているものの、ドストエフスキーの宗教観にもかなり触れています(特にこの『カラマーゾフの兄弟』という作品は、ドストエフスキーの宗教観抜きでは語れないものであることは明らかなのだが)。

 「カラマーゾフ」という言葉は、父フョードルと長兄ドミートリイだけでなく、キリスト者アリョーシャにも係り、そのことから、「好色・放蕩」も「黒塗り」もアリョーシャにも密接に関係する言葉であり、更に推し測って、「(アリョーシャ=)黒いキリスト者」とは何を指すかといったことから、書かれるはずであった続編において、彼が本編最後に顔を揃える12人の少年"使徒"に囲まれて未来の教団(または秘密結社)の指導者として13年後に皇帝暗殺者となり"十字架に架かる"と、大胆に推論しています。

 但し、その核となる「(アリョーシャ=)皇帝暗殺者」という将来像は、海外の研究者の間でも唱える人がいて(埴谷雄高は、江川卓が本国ロシアに先駆けて―と言っているが)、それを著者は、日本人がスムーズに受け入れることが出来るように"翻訳"したとも言えるのかも知れません。

 何れにせよ、埴谷雄高みたいな大作家がこの「江川説」に痛く感応したりしたこともあってか、日本におけるカラマーゾフ研究の特徴は、この江川卓の自由奔放な(?)「謎とき」に過ぎなかった説が(考えられる反対意見を封印するような論調もあり)"正統"みたいになっている点で、結局、亀山郁夫氏なども、この江川卓の弟子筋の人であり、師匠の考えをベースに、いかにそれを乗り越えるかというのが、亀山氏自身のテーマになっているような気がします。

 個人的には、江川卓個人の考えとみて読めば、本書は推理小説を読むように面白く(「これしかない」と言われると反発を感じるが)、これに続く亀山氏の最近のカラマーゾフ論の一連の展開は、更にヒネリを加えている(師を乗り越えようとして?)分だけ、もっと推理小説的ですが、その結果かなりアクロバティカルなものにならざるを得ないと言うか、もしドストエフスキーがもう少し長生きして続編を書いたとしても「亀山説」は"実現可能性"に乏しいような気がしています。

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