【1564】 ○ 上田 三四二 『無為について (1988/09 講談社学術文庫) 《(1963/05 白玉書房)》 ★★★★

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「詩による人生論の試み」。生死・男女を巡る思惟、時間に対する省察―面白かった。

1無為について.png無為について (講談社学術文庫)』['88年]上田三四二.jpg 上田三四二(1923-1989/享年65)

 兵庫県小野市出身、京都帝国大医学部卒で、結核の専門医として先ずその名を世間に知られ、歌人であり作家であり文芸評論家でもあった上田三四二(うえだ みよじ)の著作で(この人の没日は平成元年1月8日で平成の第1日目だった)、同じ講談社現代新書に『短歌一生』『徒然草を読む』などの著作も収められていますが、本書は人世論風エッセイ集です。

 「老年について」「壮年の位置について」「無為について」など25篇から成り、著者が言うように「美文」を意識して書かれていますが、「美文」そのものが目的では無く、学術文庫の帯には「詩による人生論の試み」とあります。

 主に生(性)と死を巡る"随想"乃至"思惟"と言えばいいのか、随所に詩人の物の考え方が浮き彫りにされていて、一方で、理系的な明晰且つ論理的思考も織り込まれているように思いました。

 しかも、一見達観しているように見えて、内実はかなり「性」「男と女」に関することで占められており、赤裸々な記述もあったりしますが、これは、オリジナルが、著者が39歳の時に刊行されたもの(1963年・白玉書房刊)であることによるのかもしれません。
 "赤裸々"と言っても、論理的美文調ですから、例えば以下のような記述になるのですが...(何だかいっぱい引用したくなってしまいそう)。

「衣服について」―ストッキングだけの脚を一方に置き、他方に爪先もあらわさぬ法官の寛衣をもってくると、奇怪さは後者において一段と著しい。性には退廃はあっても欺瞞はない。(中略)衣服は二つの典型を持つ。所与たる自然としての身体を、一層美化し明確にし認識をもたらすための衣服と、この自然形態たる首から下を、無視し隠蔽し忘却せしめるための衣服と。前者はほとんど女性に属し、後者は多くは男性のものである。(63p)

「ナルシスムについて」―女のなかに自己を確認し、鏡の中の自己を忘却することは男たるものの本意である。すべての男はこういう女への献身の中にその生涯を顕現するのだが、ただナルシストだけはちがう。(75-76p)

「愛と死について」―花嫁の美しい装いは、愛が全裸であることの羞恥が生んだ面はゆい智慧である。また棺をかざる錦繍は、死の絶対の孤独を隠蔽する甲斐なくおろかな祈願である。(83p)

「女性について」―(海水浴場で)一体女性は男性にくらべて、こういう解放的な雰囲気の中で一層自由に、快活に、そうして陶酔にいたるのはどうしてだろう。(中略)水の中の女性はほとんどニンフである。彼女等はクピオドの箭を望んで、その眼ざしはすでに酔っている。(95p)

「旅について」―道ゆく人がほしいままに口をつけ、泉はつねに新しい。そんな娼婦に私はいつか逢うときはないだろうか。(114p)

「記憶について」―子供の頬があんなに輝き、言葉がまるで光のようなのは、彼に人類の記憶というものがなからだ。彼は記憶を持たない、ただ遺伝質をもっている。(中略)過去は私の背後に電線のように続いているのではない。電柱のように並んでいる。電柱と電柱の間の記憶を私は持たない。その空間は私にとって死の空間であり、このおびただしい記憶の欠落の野のなかに、私の過去の傷ついた記憶―電柱だけが黒々と並んでいる。(153-154p)

「都市について」―ウェイトレスが私の前にコーヒーを置く。その腕は露わで、足は素足である。胸は、薄い制服の下で春の泉のように盛り上がっている。都市はいま春である。いや、常に春なのであろう。(中略)この巨大な有機体は快楽を目指す。そして札束は、快楽追求のための酸素であり、免罪符である。(169p)

「演劇とスポーツについて」―朝毎の新聞に、スポーツ欄だけがすがすがしい。なまの現実をはこぶ新聞の、ここだけが生活を遮断して、無用の営みのなかに爽やかな創意をくりひろげている。しかし活字は蒼ざめた模写である。だから人は実況放送に耳をかたむけ、テレビを通して競技場に侵入し、更にはスタンドの固い席に現身をはこんで、目のあたりに懸命な選手たちに声援を送るのである。(176p)

 最初の方の「壮年の位置について」の中に「老年の観念性は思い出という経験の実体によって重い。(中略)思い出は、冬のさなか、不意に薄衣を手にしたときの驚きに似ている。そして思い出の重さは、彼がかつての夏の日、なし得た行為の量如何にかかっている。壮年だけが、彼にとっての存在であったからだ」(23p)とあり、そうかもしれないなあと思いましたが、30代で書いているんだなあ、こんなことを。

 本書のタイトルとなっている「無為について」の中には、「無為のなかで、私はついぞ退屈した記憶がない」(32p)とあり、「私は書物によって倦怠から自由になり、無為をゆたかな閑暇にまで高めようとしている。これもまた妄執の一つであろう」(33p)としています。

 大病をしながらも晩年まで活発な評論活動を行った人ですが、本書はその大病をする前に書かれたものでありながら、すでに、生命や生きている時間というものに対する深い省察が見られ、また、読んでいてなかなか面白かったです。
 またいつか読み返すと、その時はその時で、また違った箇所を引用したくなるかもしれません。

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