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半自伝的スラップスティック小説。カマーチョは、作者自身の一面のパロディではないか。

フリアとシナリオライター.jpg
フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ)』['04年]バルガス=リョサ VARGA LLOSA.jpg Mario Vargas Llosa

 法学部の学生の僕(マリオ)は、作家になることを目指しながら、ラジオ局でニュース担当として働いているが、両親が米国にいるため、祖父母の家に下宿ながら、ルーチョ叔父さんの家に出入りするうちに、ルーチョ叔父さんの奥さんの妹フリアを愛するようになる。一方、僕の勤めるラジオ局は、ボリビアから、ラジオドラマのために「天才」シナリオライター兼監督兼声優のペドロ・カマーチョを迎え、彼のドラマ劇は、その破天荒なストーリーによって、国民的人気を博することになるが―

Mario Vargas Llosa Julia Urquidi.jpg 2010年にノーベル文学賞を受賞したペルーの作家マリオ・バルガス=リョサ(Mario Vargas Llosa、1936-)が1977年に発表した作品で(原題:La tia Julia y el escribidor)、「半自伝的スラップスティック小説」とありますが、主人公のマリオは18歳、フリア叔母さんは32歳とのことで、実際にバルガス=リョサは19歳で14歳年上の義理の叔母フリア・ウルキディ=イリャネスと結婚しているので(後に離婚)、その時の周囲の反対をいかにして乗り切ったかという体験が、作品に反映されているように思います(但し、かなりスラップスティック風に脚色されている模様)。

Mario Vargas Llosa y Julia Urquid Illanes,París, 7 de junio de 1964

 18世紀のイングランドで、恋人同士が結婚について親からの同意が得られそうもない場合に、イングランドからスコットランドに入ってすぐの場所にあるグレトナ・グリーンで式を挙げて夫婦になるという「グレトナ・グリーン婚」というのが流行ったというのを本で読んだことがありますが、それを彷彿させるような2人の駆け落ち婚で、「式を挙げてしまえば勝ち」みたいなのが宗教上の背景としてあるにしても、そこに至るまでもその後も、なかなか大変そう。

 これはこれでドタバタ劇風でもあり面白いのですが、より面白いのは、1章置きに挿入されているペドロ・カマーチョのラジオ脚本で(主人公も小説を習作しているが、これはつまらない内容らしい)、結婚式の当日に倒れた妹を殺そうとする兄の話、巡回中に見つけた黒人を殺すように命じられた軍曹の話、強姦の罪で捕えられながらも無実の証として法廷で一物を切り落とそうとする男の話、ネズミ駆除に情熱を燃やす男と彼を憎み襲撃しようとする家族の話、等々、かなりエキセントリックな物語が、それぞれクライマックスで、"この結末は一体どうなるのか"という感じで終わっています。

 ペドロ・カマーチョの脚本は、やがて本来別々の物語の登場人物が混在してきたり、その職業が入れ替わっていたり、死んだはずの人間が生き返ったりとおかしくなってきて、何よりも物語の展開が、大暴動や大崩壊といった天変地異盛り沢山のカタストロフィ調になってきて、とうとう彼は精神病院に送られてしまいます(何年か後に主人公が彼と再会した時には廃人か世捨て人のようになっている)。

 訳者は解説で、未熟な作家としての「僕」を描くと共に、ペドロ・カマーチョをも「未熟な作家の鏡像」として描いているのではないかとしていますが、バルガス=リョサという作家は、毎朝タイプの前に座って何も書けなくても6時間は粘ると話していて、1日10時間を執筆に充てるペドロ・カマーチョとちょっと似ているかも(ペドロ・カマーチョは、この他に1日7時間を声優・監督業に費やす、まさに「過労死」ペースの仕事ぶりだったわけだが)。

 ペドロ・カマーチョの脚本は、脚本でありながら、この作品の中では小説のスタイルで書かれていて、文体も「僕の話」とさほど変わらず、また実際に面白く(重厚なスラップスティックとでも言うか)、その中の1つだけでも中編か長編になりそうな話が9本もこの作品に挿入されているというのは、作者自身がこうした物語のスタイルに関心があるということではないかと思ってしまいます(ラテンアメリカの文学作家で、推理小説やユーモア小説を書く人は多いが)。

 作者自身が、劇中劇の形を借りて楽しみながら書いているフシがあり、また、自分はこんな面白い話をいくらでも書けるんだぞーと見せつけられた感じもします(何しろ、国民的人気を博したという設定のドラマの話を、実際に書いてみせているわけだから、やはり自信ありなんだろうなあ)。

 「書く」ということについて「書いた」小説だと思うし、そう捉えるならば、ペドロ・カマーチョを作者はどう捉えているかというのが大きなテーマであるには違いなく、個人的には、作者は必ずしもペドロ・カマーチョを「未熟な作家」と断じ切っているようには思えず、むしろペドロ・カマーチョは、作者が自分自身の一面をパロディ化したような存在ではないかという気がしました。

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「穢れを知らない無垢な天使と肉感的な美の象徴であるヴィーナスが出会えばどうなるのか」

継母礼讃 (中公文庫).jpg継母礼讃 リョサ.jpg  Emmanuelle video.jpg 夜明けのマルジュ チラシ2.jpg 夜明けのマルジュ dvd.jpg
継母礼讃 (モダン・ノヴェラ)』「エマニエル夫人 [DVD]」「夜明けのマルジュ [DVD]
継母礼讃 (中公文庫)

Elogio de La Madrastra.jpg バルガス=リョサが1988年に発表した作品で(原題:Elogio de La Madrastra)、父親と息子、そして継母という3人家族が、息子であるアルフォンソ少年が継母のルクレシアに性愛の念を抱いたことで崩壊していく、ある種アブノーマル且つ"悲劇"的なストーリーの話。

candaules.jpg 当時からガルシア=マルケス、ホルヘ・ルイス・ボルヘス、フリオ・コルタサルと並んでラテンアメリカ文学の四天王とでもいうべき位置づけにあった作家が、こうしたタブーに満ちた一見ポルノチックともとれる作品を書いたことで、発表時は相当に物議を醸したそうですが、バルガス=リョサの描く官能の世界は、その高尚な文学的表現のため、どことなく宗教的な崇高ささえ漂っており、「神話の世界」の話のようでもあります。そのことは、現在の家族の物語と並行して、ヘロドトスの『史記』にある、自分の妻の裸を自慢したいがために家臣に覗き見をさせ、そのことが引き金となって家臣に殺され、妻を奪われた、リディア王カンダウレスの物語や、ギリシャ神話の「狩りの女神」の物語が挿入されていることでより強まっており、更に、物語の展開の最中に、関連する古典絵画を解説的に挿入していることによっても補強されているように思いました。

Candaules, rey de Lidia, muestra su mujer al primer ministro Giges, de Jacob Jordaens(「カンダウレス王室のギゲス」ヤコブ・ヨルダーエンス(1648)本書より)

Mario Vargas Llosa Julia Urquidi.jpg ただ、個人的には、バルガス=リョサの他の作品にもこうした熟女がしばしば登場し、また、彼自身、19歳の時に義理の叔母と結婚しているという経歴などから、この人の"熟女指向"が色濃く出た作品のようにも思いました。それがあまりにストレートだと辟易してしまうのでしょうが、「現代の物語」の方は、ルクレシアの視点を中心に、第三者の視点など幾つかに視点をばらして描いていて、少年自身の視点は無く、少年はあくまでも無垢の存在として描かれており、この手法が、「穢れを知らない無垢な天使と肉感的な美の象徴であるヴィーナスが出会えばどうなるのか」というモチーフを構成することに繋がっているように思いました。

Mario Vargas Llosa y Julia Urquid Illanes,París, 7 de junio de 1964

 しかし、帯には「無垢な天使か、好色な小悪魔か!?」ともあり、父親にとってこの息子は、好色な小悪魔であるに違いなく、また、継母が去った後、今度は召使を誘惑しようとするところなど、ますます悪魔的ではないかと...。「現代の物語」と、挿入されている「リディア王の話」(家臣に自分の眼の前で妻と交情するよう命じ、これを拒んだ家臣の首を刎ねた)とは、それぞれ異質の性愛を描いているように思えました。

 強いて言えば、「現代の物語」の方は、エディプス・コンプレックスの変型であり(バルガス=リョサ型コンプレックス?)、「リディア王の話」は、エマニュエル・アルサン(1932-2005)原作、ジュスト・ジャカン監督の「エマニエル夫人」('74年/仏)のアラン・キュニーが演じた老紳士マリオの"間接的性愛"のスタンスに近いと言えるでしょうか。性に対してある種の哲学(「セックスから文明社会の意味を取り除いた部分にしか、性の真理はない」という)を持つマリオにとって、エマニエルはそうした哲学を実践するにまたとない素材だった―。

エマニエル夫人 アラン・キュニ―.jpg エマニエル夫人 チラシ.jpg 華麗な関係.jpg 夜明けのマルジュ チラシ.jpg
「エマニエル夫人」の一場面(A・キュニー)/「エマニエル夫人」/「華麗な関係」/「夜明けのマルジュ」各チラシ

エマニエル夫人の一場面.jpg 「エマニエル夫人」はいかにもファッション写真家から転身した監督(ジュスト・ジャカン)の作品という感じで、モデル出身のシルヴィア・クリステルが、演技は素人であるにしても、もう少し上手ければなあと思われる凡作でしたが、フランシス・ジャコベッティが監督した「続エマニュエル夫人」('75年)になっても彼女の演技力は上がらず、結局は上手くならないまま、シリーズ2作目、3作目(「さよならエマニュエル夫人」('77年))と駄作化していきました。内容的にも、第1作にみられた性に対する哲学的な考察姿勢は第2作、第3作となるにつれて影を潜めていきます。その間に舞台はタイ → 香港・ジャワ → セイシェルと変わり「観光映画」としては楽しめるかも知れないけれども...。でもあのシリーズがある年代の(男女問わず)日本人の性意識にかなりの影響を及ぼした作品であることも事実なのでしょう。

華麗な関係 1976ド.jpg華麗な関係lt.jpg 同じくシルヴィア・クリステル主演の、ロジェ・ヴァディムが監督した「華麗な関係」('76年/仏)も、かつてジェラール・フィリップ、ジャンヌ・モロー、ジャン=ルイ・トランティニャンを配したロジェ・ヴァディム自身の「危険な関係」('59年/仏)のリメイクでしたが、原作者のラクロが墓の下で嘆きそうな出来でした。

「華麗な関係」('76年/仏)

夜明けのマルジュの一場面.jpg 同じ年にシルヴィア・クリステルは、ヴァレリアン・ボロヴズィック監督の「夜明けのマルジュ」('76年/仏)にも出演していて(実はこれを最初に観たのだが)、アンドレイ・ピエール・マンディアルグ(1909 -1991)のゴンクール賞受賞作「余白の街」が原作で、1人のセールスマンが、出張先のパリで娼婦と一夜を共にした翌朝、妻と息子の急死の知らせを受け自殺するというストーリー。メランコリックな脚本やしっとりしたカメラワーク自体は悪くないのですが、「世界一美しい娼婦」という触れ込みのシルヴィア・クリステルが、残念ながら演技し切れていない...。

「エマニエル夫人」●1.jpg「エマニエル夫人」●2.jpg 何故この女優が日本で受けたのかよく解らない...と言いつつ、自分自身もブームからやや遅れながらもシルヴィア・クリステルの作品を5本ぐらい観ているわけですが、個人的には公開から3年以上経って観た「エマニエル夫人」に関して言えば、シルヴィア・クリステルという女優そのものが受けたと言うより、ピエール・バシュレの甘い音楽とか(「続エマニュエル夫人」ではフランシス・レイ、さよならエマニュエル夫人」ではセルジュ・ゲンズブールが音楽を担当、セルジュ・ゲンズブールは主題歌歌唱も担当)、女性でも観ることが出来るポルノであるとか、商業映画として受ける付加価値的な要素が背景にあったように思います(合計320万人の観客のうち女性が8割を占めたという(『ビデオが大好き!365夜―映画カレンダー』('91年/文春文庫ビジュアル版)より))。
「続エマニュエル夫人」('75年/仏) 音楽:フランシス・レイ

A Man for Emmanuelle (1969) L.jpg バルガス=リョサの熟女指向から始まって、殆どシルヴィア・クリステル談義になってしまいましたが、シルヴィア・クリステルの「エマニュエル夫人」はエマニュエル・シリーズの初映像化ではなく、実際はこの作品の5年前にイタリアで作られたチェザーレ・カネバリ監督、エリカ・ブラン主演の「アマン・フォー・エマニュエル(A Man for Emmanuelle)」('69年/伊)が最初の映画化作品です(日本未公開)。
A Man for Emmanuelle(1969)

 因みに、「エマニュエル夫人」「続エマニュエル夫人」はエマニュエル・アルサンが原作者ですが、最後エマニュエルが男性依存から抜け出して自立することを示唆した終わり方になっている「さよならエマニュエル夫人」は、オリジナル脚本です。一方で、エマニュエル・アルサン原作の他の映画化作品では、女流監督ネリー・カプランの「シビルの部屋」('76年/仏)というのもありました。

シビルの部屋 旧.jpgシビルの部屋 pabnnhu.jpg 「シビルの部屋」のストーリーは、シビルという16歳の少女がポルノ小説を書こうと思い立って、憧れの中年男に性の手ほどきを受け、その体験を本にしたところベストセラーになってしまい、執筆に協力してくれた男を真剣に愛するようになった彼女は、今度は手を切ろうとする男に巧妙な罠をしかけて陥落させようとする...というもので、原作はエマニュエル・アルサンの半自伝的小説であり、アルサンは実際にこの作品に出てくる「ネア」という小説も書いている-と言うより、この映画の原作が「ネア」であるという、ちょっとした入れ子構造。映画化作品は、少女の情感がしっとりと描かれている反面、目的のために手段を選ばないやり方には共感しにくかったように思います。

エマニエル夫人00.jpg「エマニエル夫人」●原題:EMMANUELLE●制作年:1974年●制作国:フランス●監督:ジュスト・ジャカン●製作:イヴ・ルッセ=ルアール●脚本:ジャン=ルイ・リシャール●撮影:リシャール・スズキ●音楽:ピエール・バシュレ●原作:エマニュエル・アルサン「エマニュエル」●時間:91分●出演:シルヴィア・クリステル/アラン・キューリー/ダニエル・サーキー/クリスティーヌ・ボワッソン/マリカ・グリーン●日本公開:1974/12●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:三鷹オスカー(78-07-17)(評価:★★)●併映:「続・エマニエル夫人」(フランシス・ジャコベッティ)/「さよならエマニエル夫人」(フランソワ・ルテリエ)

続エマニエル夫人 ド.jpg続エマニエル夫人 vhs.jpg「続エマニエル夫人」●原題:EMMANUELLE, L'ANTI VIERGE/EMMANUELLE: THE JOYS OF A WOMAN●制作年:1975年●制作国:フランス●監督:フランシス・ジャコベッティ●製作:イヴ・ルッセ=ルアール●脚本:フランシス・ジャコベッティ/ロベール・エリア/ジェラール・ブラッシュ●撮影:ロベール・フレース●音楽:フランシス・レイ●原作:エマニュエル・アルサン●時間:91分●出演:シルヴィア・クリステル/ウンベルト・オルシーニ/カトリーヌ・リヴェ/カロライン・ローレンス/フレデリック・ラガーシュ/ラウラ・ジェムサー●日本公開:1975/12●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:三鷹オスカー(78-07-17)(評価:★☆)●併映:「エマニエル夫人」(ジュスト・ジャカン)/「さよならエマニエル夫人」(フランソワ・ルテリエ)
続エマニエル夫人 [DVD]

さよならエマニエル夫人1977.jpg「さよならエマニエル夫人」●原題:GOOD-BYE, EMMANUELLE●制作年:1977年●制作国:フランス●監督:フランソワ・ルテリエ●製作:イヴ・ルッセ=ルアール●脚本:さよならエマニエル夫人 dvd .jpgフランソワ・ルテリエ/モニク・ランジェ●撮影:ジャン・バダル●音楽:セルジュ・ゲンズブール●時間:98分●出演:シルヴィア・クリステル/ウンベルト・オルシーニ/アレクサンドラ・スチュワルト/ジャン=ピエール・ブーヴィエ/ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ/オルガ・ジョルジュ=ピコ/シャルロット・アレクサンドラ●日本公開:1977/12●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:三鷹オスカー(78-07-17)(評価:★☆)●併映:「エマニエル夫人」(ジュスト・ジャカン)/「続エマニエル夫人」(フランシス・ジャコベッティ)
さよならエマニエル夫人 [DVD]

UNE FEMME FIDELE 1976.jpgUNE FEMME FIDELE.jpg華麗な関係 チラシ2.jpg「華麗な関係」●原題:UNE FEMME FIDELE●制作年:1976年●制作国:フランス●監督:ロジェ・ヴァディム●製作:フランシス・コーヌ/レイモン・エジェ●脚本:ロジェ・ヴァディム/ダニエル・ブーランジェル●撮影:クロード・ルノワ●音楽:モルト・シューマン/ピエール・ポルト●原作:ピエール・コデルロス・ド・ラクロ「危険な関係」●時間:91分●出演:シルヴィア・クリステル/ジョン・フィンチ/ナタリー・ドロン/ジゼール・カサドジュ/ジャック・ベルティエ/アンヌ・マリー・デスコット/セルジュ・マルカン●日本公開:1977/05●配給:東宝東和●最初に観た場所:三鷹東映(78-01-16)(評価:★☆)●併映:「エーゲ海の旅情」(ミルトン・カトセラス)/「しのび逢い」(ケビン・ビリングトン)

夜明けのマルジュの一場面2.jpg「夜明けのマルジュ」●原題:LA MARGE●制作年:1976年●制作国:フランス●監督:ヴァレリアン・ボロヴズィック●製作:ロベール・アキム/レイモン・アキム●撮影:ベルナール・ダイレ夜明けのマルジュ 09.jpgンコー●音楽:ロベール・アキム●原作:アンドレイ・ピエール・ド・マンディアルグ「余白の町」●時間:93分●出演:シルヴィア・クリステル/ジョー・ダレッサンドロ/ミレーユ・オーディベル/アンドレ・ファルコン/ドニス・マニュエル/ノルマ・ピカデリー/ルィーズ・シュヴァリエ/ドミニク・マルカス/カミーユ・ラリヴィエール●日本公開:1976/10●配給:富士映画●最初に観た場所:中野武蔵野館(77-12-15)(評価:★★☆)●併映:「続 個人教授」(ジャン・バチスト・ロッシ)

NEA 1976_01.jpgシビルの部屋 新.jpg「シビルの部屋」●原題:NEA●制作年:1976年●制作国:フランス●監督:ネリー・カプラン ●製作:ギー・アッジ●脚本:ネリー・カプラン/ジャン・シャポー●撮影:アンドレアス・ヴァインディング●音楽:ミシェル・マーニュ●原作:エマニュエル・アルサン「少女ネア」●時間:106分●出演:アン・ザカリアス/サミー・フレイ/ミシュリーヌ・プレール/フランソワーズ・ブリオン/ハインツ・ベネント/マルタン・プロボスト●日本公開:1977/09●配給:日本ヘラルド映画●最初に観た場所:池袋・テアトルダイヤ(77-12-24)(評価:★★☆)●併映:「さすらいの航海」(スチュアート・ローゼンバーグ)シビルの部屋 [DVD]

【2012年文庫化[中公文庫]】

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「魔術的リアリズム」の真骨頂。『百年の孤独』の余韻を引いているような作品群。

エレンディラ サンリオ文庫.pngエレンディラ (1983年) (サンリオ文庫)エレンディラ ちくま文庫.jpgエレンディラ (ちくま文庫)

 14歳の美少女エレンディラは、両親を早く亡くし祖母に育てられたが、自らの過失による火事で家を焼き、その償いとして、祖母とテント生活の旅をしながら売春させられる。テントの前には男達が群がり商売は繁盛、祖母が1日に何十人もの客を取らせるため、エレンディラはボロボロになってしまうが、何度か逃げ出す機会があったものの、結局は自分から祖母の元に戻っていく―。(「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」

 ボリビアの作家、G・ガルシア=マルケス(1928-)が1978年に発表した作品集で、中篇「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」の他に、「大きな翼のある、ひどく年取った男」「失われた時の海」「この世でいちばん美しい水死人」「愛の彼方の変わることなき死」「幽霊船の最後の航海」「奇跡の行商人、善人のブラカマン」の各短篇6作を所収。

 民話や伝承のエピソードがベースになった作品が多く含まれているそうですが、「魔術的リアリズム」の作家と呼ばれるように、現実的なものと幻想的なものを結び合わせて、独特の神話的な作風を生んでおり、それが、砂漠とジャングルと海が隣接するボリビアの風土を背景にしたものであるだけに、なおさらにエキゾチックなイマジネーションを駆りたてます。

美しい水死人.jpg 「大きな翼のある、ひどく年取った男」で、地上に堕ちて着て、村人に奇妙な見世物のように扱われる、老いた"天使"を描いたかと思うと、「この世でいちばん美しい水死人」では、村に漂着した"土左衛門"の美しさを村の女達が賛美するという、ちょっと日常では考えられないと言うか、人々の日常の中に非日常、非現実がいきなり入り込んだような話が続きます。

美しい水死人―ラテンアメリカ文学アンソロジー (福武文庫)

 「大人のための残酷な童話」として書かれたそうですが、個人的には、「愛の彼方の変わることなき死」と「奇跡の行商人、善人のブラカマン」が面白かったです。

 「愛の彼方の変わることなき死」は、上院議員オナシモ・サンチェスが、選挙運動期間中に少女と淫行に及ぶというもので、彼は、そのことがスキャンダルとなり、6ヵ月と11日後に自らが死ぬことになることを正確に予知しながらも、まさに今、少女を傍に侍らせているのですが、自らの宿命に抗し得ない人物を描いているように思いました。

 「奇跡の行商人、善人のブラカマン」は、奇跡を起こすと言ってインチキ商品を売り歩く悪徳商人ブラカマンに師事したばかりにひどい目に遭う「ぼく」の話ですが、このブラカマンというのが、最初は単なるインチキ男に過ぎないのが、だんだんその行為が本当に超常現象的になってきて、「ぼく」にまで神のような力が備わってしまうというもの。

 この作家は、何だか、極端に常軌を逸した話が好きなんだなあ(それが面白いところでもあるが)。もう、こうなってくると、人間的にいい人だとか悪い人だとかいう道徳的なことは超越してしまい、また、あまりに乾いているため、悲惨さや残酷さといったものも超えてしまっている感じです。

 それは「エレンディラ」(Erendira)にも言え、エレンディラは、彼女を救おうとする美男子だがややひ弱な青年ウリセスとの恋に落ち、ついに祖母を殺そうとしますが、これが、大量に毒を盛った誕生祝いのケーキをまるごと食べても死なず(髪の毛は全部抜けるが)、こうなるともう魔女に近い。更に、爆弾でも死なず、鬘(かつら)が黒焦げになっているだけというのは、まるでカトゥーン・アニメのようなユーモア。

 最後は、ウリセスが肉包丁で祖母に止めを刺しますが、祖母の死を確認したエレンディラは何処かへ去って行き、ウリセスはただ泣くばかり―。
 エレンディラが自分を虐待し続けてきた祖母に、深層心理では深く依存していたことが窺え、神話的であると同時に、人間心理の本質を突いた作品でもあります(虐待被害者にとって、虐待者が同時に庇護者でもあるというのは、現実にもあるなあ)。

エレンディラ95.jpgエレンディラ 映画.jpgエレンディラ 映画チラシ.bmp 「エレンディラ」は、1983年にルイ・グエッラ監督によりイレーネ・パパス(祖母役)主演で映画化され、日本でも公開されましたが、チェックしていたものの見損なってしまい、今はビデオも絶版となりDVD化もされていないということで、やはり、こうした映画は、観ることが出来るその時に観ておくべきだったなあと今更ながらに思います。

エレンディラ 舞台.jpg蜷川幸雄.jpg '07年に蜷川幸雄氏により舞台化されていますが、オリジナルの「エレンディラ」の話に「大きな翼のある、ひどく年取った男」の話を織り込んで、ウリセスを天使にするという、相当に手を加えた脚色になっているようです(祖母役は嵯川哲朗)。

 「エレンディラ」の中にも、上院議員オナシモ・サンチェスや悪徳商人ブラカマンの名が出てくるように、これらの話がある土地で同じ時期に起きた出来事であるかのような構成になって、『百年の孤独』('72年発表)の余韻を引いているような作品という印象を持ちました(短篇については、これらの作品の何れかが『百年の孤独』に挿入されていても不自然ではないかも)。

エレンディラ VHS.jpg

 
 
 
 
 
 
 

 【1988年再文庫化[ちくま文庫]】

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幻想的な世界を描いて巧み。時に人生の哀感を、時に情念の凄まじさをも描く。

カルロス・フエンテス 『アウラ・純な魂 』.jpgアウラ・純な魂.gif カルロス・フエンテス.jpg Carlos Fuentes(1918-2012
フエンテス短篇集 アウラ・純な魂 他四篇 (岩波文庫)

aura.jpg メキシコの作家カルロス・フエンテス(Carlos Fuentes、ガルシア=マルケスと同じ1928年生まれ)の作品集で、1962年発表の中篇「アウラ」、同じく中篇「純な魂」他、初期の短篇4編(「チャック・モール」「生命線」「最後の恋」「女王人形」)を収めています。

 フエンテスは、父親が外務省勤務だったため、幼いころから国外各地を転々したとのことですが、そうした欧米の文化との対比で、祖国の文化を見つめ直す視点が作品の底にあり、その辺りがそれぞれの作品にどう反映されているかは、訳者・木村榮一氏の解説に詳しく書かれています。

 但し、そこまで読み取れなくとも、リアリスティックな不気味さと、現実と夢が混ざったような幻想性を併せ持ち、それでいて、時に人生の哀感を、時に人の情念の凄まじさを感じさせるような作風は、木村氏の名訳も相俟って大いに堪能することが出来、話の展開の旨さという点でも、短篇の名手とされるフリオ・コルタサル(1914-1984)に比肩するものがあるように思いました。

チャック・モール.jpg「チャック・モール」 タイトルは、古代インディオの遺跡に見られる人物石像のことで、溺死した知人の公務員の手記に、その男がある店でチャック・モールを購入したその日から、チャック・モールが次第に男の正気を蝕んでいく様が、シュールに描かれていたという話。
 木村氏は、この作品を深く文化論的に解説していますが、SF的な楽しみ方も出来るのでは。

「生命線」 それに比べるとこちらは、銃殺刑に処せられる4人のメキシコ革命軍兵士達の心の揺れを描いたものであり、ぐっと重さを増しますが、個人的には、コルタサルの「正午の島」を読んだ時と同様、本当にこの男たちは、一旦は脱走したのだろうか、男達が死ぬ直前に見た夢と解せなくもないと思ったりもしました。

「最後の恋」 成功し富を得た老人が、若い愛人を連れて海辺のリゾートに滞在しているが、老人の眼の前で、女は若い男と楽しそうに振舞っている―老人の若者への嫉妬と言うより、"若さ"への渇望と諦念が滲む作品で、老人の心理描写の細やかさが素晴らしいです(作者がこれを書いたのは30代前半)。

「女王人形(La muneca reina)」 青年が15年前の幼い頃に一緒に遊んだ少女アミラミアは、今22歳になっているはず。その淡くも切ない想い出に惹かれ、彼女のメモを頼りに、現在の住まいと思われる家を訪れるが、そこには棺に不気味に横たわる人形が。そして、再度の訪問で青年が見たものは―。
 文章も展開も素晴らしく、表題作2作に勝るとも劣らぬゴチック小説の傑作。

「純な魂」 兄ファン・ルイスと妹クラウディアは、かつて濃密な愛情で結ばれていたが、兄は過去を振り切るかのように欧州で暮らし、次々と入れ替わる恋人のことを妹に手紙で書き送る(但し、そこには、恋人と妹の同一視が見られる)。いよいよ、兄がある女性と結婚することになったその時、それまで寛容な母親のような態度をとっていた妹は―。
 木村氏の、欧州文明への傾斜とメキシコ的なものへの回帰を対比させた深遠な解説は別として、サイコススリラーとして読める作品では。

Aura / Carlos Fuentes.jpg「アウラ」 青年歴史家のフェリーペは、新聞広告で高報酬が目を引いた、老夫人の住む邸で彼女の亡き夫の著作を完成させるという仕事に就くことができたが、そのコンスエロ夫人邸には、老夫人の姪にあたるアウラという名の、緑の目をもつ美しい少女がいた―。

Aura /Carlos Fuentes (イメージ/スペイン)

Rosanna Gamson and Contradanza perform Aura by Carlos Fuentes.jpg 溝口健二監督の「雨月物語」('53年)にインスパイアされた作品だそうで、夫が60年前に亡くなったというところで「幽界譚だな」と分かるかとは思うのですが(但し、ラストに予期せぬ宿命的な結末が...)、夢と現実の混ざり合った部分の描写が巧みで(その多くはベッドシーン...)、ぐいぐい引き込まれました。この作品は、スペイン語圏では、映画化されたり(何種類ものイメージフィルムをインターネット上で見ることができる)、舞台・オペラ・舞踊として数多く演じられているようです(写真右:Rosanna Gamson and Contradanza perform "Aura" by Carlos Fuentes)。

 「純な魂」も「アウラ」も、女性の情念の凄まじさが滲み出ている傑作ですが、例えば「純な魂」が、欧州に出向く機内での妹クラウディアの、兄に対する心の中での語りかけで、「アウラ」が、青年フェリーペに対する「君は」という語りかけで、それぞれ終始貫き通されているという、語り口の旨さというのも感じました。

 「アウラ」イメージ・フィルム

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現実と非現実が入り混じった幻想的な作風の短編集。「正午の島」が良かった。

悪魔の涎・追い求める男.jpg悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)フリオ・コルタサル.jpg Julio Cortázar、1914-1984

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集.jpg 『石蹴り遊び』『遊戯の終わり』などの作品で知られるアルゼンチンの作家フリオ・コルタサル(Julio Cortázar、1914-1984)の短編集で、表題作2編は、1959年刊行の『秘密の武器』からの抜粋であるなど、作家の幾つかの短編集から訳者が10編を抽出して編んだものですが、どれも面白かったです。

 30歳代後半からパリに移住し、作家人生をフランスで全うしているので、作品もフランスが舞台になっているものが多く、やや他のラテンアメリカの作家とは毛色が異なる気もしますが、原著はスペイン語で書かれているため、"ラテンアメリカ文学"作家ということになるのでしょう。

 若い頃はエドガー・アラン・ポーに耽溺し、作家生活の初期にフランス文学に傾倒してフランスへの憧憬を抱きフランスに渡ったとのことですが、自らのエッセイでアルフレッド・ジャリのシュールレアリズムに影響を受けたと書いているように、現実と非現実が入り混じった幻想的な作風がこの短編集でも窺え、個人的には、安部公房、星新一、筒井康隆など日本の作家の作品を想起させるようなものもありました。個々に見ていくと―。

「続いている公園」 僅か2ページの短編。小説を読んでいる男がいつの間にか小説の中に...。アラン・ポー的、と言うより、このブラック・ユーモアは、むしろ星新一のショートショートみたいかなあ。

「パリにいる若い女性に宛てた手紙」 間歇的に口から子兎を吐き出すという奇病のため、女性から借りたアパート部屋が兎だらけになってしまうという、シュール極まりない男の話。安部公房みたいかなあ。だらだら手紙など書いていないで、早く病院に行った方がいい?

「占拠された屋敷」 兄妹の暮らす家が徐々に得体の知れない何者かに占拠され、仕舞いには2人は自分たちの家を追い出されてしまうという...。カフカ的な不条理の世界で、筒井康隆の作品にもありそうな...(筒井康隆の初期作品に「二元論の家」というのがあった)。コルタサルのこの作品の日本での初出は、早川「ミステリマガジン」1989年7月号。

「夜,あおむけにされて」 オートバイ事故に遭った男の、夢と現実の入り混じった臨死体験的な意識の流れ。すでにこの男が死んでいるとすれば、吉村昭の「少女架刑」だなあ、これは。

blowup3.jpg欲望 パンフ.jpg「悪魔の涎」 公園でふとしたことから男女を盗み撮りした男は、その写真の世界へ引きずり込まれる...。この作品は、ミケランジェロ・アントニオーニの「欲望」('66年/英・伊)の原作として有名ですが、ラストは、ジョエル・コーエンの「バートン・フィンク」('91年/米)と雰囲気的に似ているかも。「悪魔の涎」とは、ゴッサマー(晴れた秋の日などに空中を浮遊する蜘蛛の糸)のこと。
映画「欲望」('66年)

「追い求める男」 才能がありながらも薬物に耽溺し破滅に向かうサックス奏者(チャーリー・パーカーがモデルのようだ)を、ジャズ評論家で、彼の伝記作家でもある男の眼から、作家自身と対比的に描いた作品で、他の作品と異なり、オーソドックスな文芸中編であると同時に、ある種の「芸術家論」かなあ。

「南部高速道路」 高速道路で渋滞がずっと何カ月も解消しなかったらどうなるか。そこにやがて原始コミュニティのようなものが発生して...。ガルシア=マルケスに、「1958年6月6日、干上がったカラカス」という、乾季がずっと続いたらどうなるかという記事風の作品があったのを想起しました。因みにこの作品は、作家・池澤夏樹氏による個人編集の「世界文学全集 第3集」に収められている南北アメリカ、アジア、アフリカの傑作20篇の冒頭にきています。

飛行機から見た南の島.jpg「正午の島」 スチュワードの男は、いつも飛行機から正午に見えるある島に何故か執着し、ついに休暇を取ってその島を訪れ、仕事を辞めてその島に住んでもいいと思う。そして、その計画を実行に移し、島の生活にも慣れたところへいつもの飛行機が...。
 ラテンアメリカ文学らしくないと言えばそうとも言え、賛否割れそうな作品ですが、個人的には一番面白かったです。アンブローズ・ビアスの「アウル・クリーク橋の一事件」(ロべール・アンリコ監督の「ふくろうの河」の原作)みたいに、男が死ぬ直前に見た夢と解せなくもない...。

「ジョン・ハウエルへの指示」 演劇を観に来た評論家の男は、なぜかその劇の舞台に立たされ、ジョン・ハウエルという男の役をさせられる羽目に。そのうち半分以上ハウエルになり切ってしまい、人格分裂みたいな状況に...。
 シュールな悲喜劇ですが、人生ってこんな要素もあるかもと思わせる作品。

「すべての火は火」 ローマ時代と現代の2つの物語が並行し、やがて2つの話が、電話が混線するように、時空を超えて混ざり合っていく短編。筒井康隆みたい。

 ボルヘスと並んで、ラテンアメリカ文学における短篇の名手とされているようですが、どちらも幻想的かつ実験的な作品が多いという点では共通しており、ボルヘス作品が、加えて"高邁的(時に無意味に高踏的)"だとすると、コルタサルは、加えて"エンタテインメント的"であるように思いました。

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ノーベル賞作家の推理小説。日本の刑事ドラマと比較でエスニック感覚で興味深く読めた。

誰がパロミノ・モレーロを殺したか.jpg 誰がパロミノ・モレーノを殺したか.JPG 誰がパロミノ・モレーノを殺したか obi.JPG Mario Vargas Llosa.jpg Mario Vargas Llosa
誰がパロミノ・モレーロを殺したか (ラテンアメリカ文学選集 6)

誰がパロミノ・モレーロを殺したか  洋書.jpg ペルーの港町タラーラ付近で、串刺しにされ、睾丸を引き裂かれた惨殺死体が木に吊るされているのが発見され、町の警官リトゥーマは上司のシルバ警部補と犯人捜査にあたるが、殺されたのは、ペルー北端の都市ピウラ生まれで同地の空軍基地所属の志願兵パロミノ・モレーノという、歌が上手なロマンティック詩人風の青年であり、彼が「高嶺の花」と呼ぶ女性と最近、密会を繰り返していたことが分かる―。

 村上春樹をおさえて(?)と言うより、順当に2010年のノーベル文学賞受賞者となったペルーの作家マリオ・バルガス=リョサ(Mario Vargas Llosa、1936-)が1986年に発表した作品(原題:¿Quién mató a Palomino Molero?)。

緑の家 下.jpg緑の家 上.jpg かつて新潮文庫に入っていた中期の代表作『緑の家』(1966年発表)が、ちょうど岩波文庫で復刻気味に刊行された('10年8月)直後のノーベル賞受賞決定でしたが、複数の土地での物語が同時進行するという、壮大なスケールの作品『緑の家』は、ガルシア=マルケスにおける『百年の孤独』(1967年発表、'72年/新潮社)のような位置づけでしょうか(幾つもの挿話を繋いでいく手法は、最近読んだメキシコのフアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』(1955年発表、'92年/岩波文庫)とも手法的には似ている)。

 一方、この『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』は、推理小説仕立ての中編であり、ガルシア=マルケスで言えば『予告された殺人の記録』(1981年発表、'83年/新潮社)のような位置づけにあるように思えました。
 尤も、訳者解説によれば、チリの文学作家の何人かが、70年代以降、大衆的なジャンルに手を染める傾向がみられたとのことで(例えば、エル・ブイグの『蜘蛛女のキス』など)、バルガス=リョサも、当初は、ガルシア=マルケス研究に見られるように純文学・研究者指向であったのが、こうした作品も書くようになったとのことです。

 チリの作家に限らず、あの高邁なボルヘスにだって「死とコンパス」のような推理小説仕立ての作品があり、同じアルゼンチンのコルタサルにも、アラン・ポー風のミステリ作品がありますが、但し、『予告された殺人の記録』同様に、推理小説としての完結はしておらず、この作品もどうなるのかなと思って読んでいたら、まともに推理小説として(まるでサスペンス映画かドラマのように)完結しているので、それが逆に意外だったりして...。

Who Killed Palomino Molero?.jpg チリの田舎町の「刑事もの」という感じであるため、日本の刑事ドラマと比較でエスニック感覚で興味深く読めたし、ストーリーはそれほど複雑ではないですが、シルバ警部補が空軍大佐への面会を申し込み、大佐の態度から彼が事件に関わっていることを知るとともに、モレーノが「高嶺の花」と呼んでいたのが実は大佐の娘であり、この娘に妄想癖があるところから、ちょっとややこしくなるかも(レイモンド・チャンドラーやロス・マクドナルドのハードボイルドにあるパターンだなあ)。

英語版ペーパーバック(1988)

 1人1人の登場人物の描き方が簡潔ながらも丁寧で、キャラクターがそれぞれに際立っており、大佐やその娘、更にはその恋人の中尉などのエキセントリックなのもさることながら、やはり最も"キャラ立ち"しているのは、シルバ警部補でしょうか。捜査において、若いリトゥーマを唸らせるような、経験による鋭い洞察力を働かせたかと思いきや、食堂の女主人に対して好色な態度を示し、今度はリトゥーマを呆れさせる、この両面性が何とも人間臭かっただけに、最後は女主人にふられたうえに、事件を解決したがために左遷されるというのは、ちょっと寂しい後日譚のような気がしました。

 バルガス=リョサはフジモリ元大統領と大統領選で戦った人物でもあり、文学だけなく政治にも強烈な関心を抱き続けているわけで、チリの政治・軍部批判や、人種差別・社会的偏見に対する問題提起が作品に織り込まれるのは、ある意味では当然なのかも知れません。
 この作品が、エンターテインメントの形をとりながらも、必ずしもスッキリとした終わり方にならないのも、そのためでしょう。

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満90歳の誕生日に...。しっとりしたユーモアと明るく旺盛な生命力が感じられた。

わが悲しき娼婦たちの思い出.jpg  Memories of My Melancholy.jpg                   眠れる美女 川端.jpg
わが悲しき娼婦たちの思い出 (2004)』新潮社(2006)/英語版(2005) 川端康成『眠れる美女 (新潮文庫)

 新聞の名物コラムニストである主人公の「私」は、独身で馬面、醜男の老人ではあるが、50代までに500人超の娼婦を相手したツワモノ、但し、最近は永らくご無沙汰していて、90歳を目前にして、「満90歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしよう」と考え、密かに営まれる娼館の14歳の生娘の娼婦のもとへと通う―。

ガブリエル・ガルシア=マルケス .jpg 1982年にノーベル文学賞を受賞したコロンビア出身の作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928年生まれ)が2004年に発表した中編小説(原題: Memorias de mis putas tristes)で、2010年にノーベル文学賞を受賞したペルーの作家マリオ・バルガス=リョサ(1936年生まれ)の代表作『緑の家』も、並行する複数の物語の舞台の1つが娼館でしたが、南米の娼館って、ちょっとイメージしにくかったかなあ。
ガブリエル・ガルシア=マルケス

川端康成YO.jpg むしろ、この物語に出てくる娼館は、ガルシア=マルケス自身がこの作品を書く契機となった(冒頭にその一節が引用されている)川端康成の『眠れる美女』に出てくる、秘密裏に営まれる小さな娼家に近い感じでしょうか。主人公を手引きする女主人の存在も似ていますが、『眠れる美女』の女主人の方は何だか秘密めいた感じなのに対し、こちらはいかにも"ヤリ手婆(ババア)"という感じで、ユーモラスでさえあります。
川端康成

 同様に、この主人公自身にも、老人らしからぬ活気と、何とはなしにユーモラスな感じが漂い、娼家で少女を傍らに、ずっと昔に交流のあった女達のことを想うのは『眠れる美女』の江口老人と同じですが、江口老人が自らの女性遍歴を振り返りつつ、次第に自身の老醜と死を想ってペシミスティックな情緒に浸るのに対し、この物語の主人公は、老人特有の厭世的な気分に捉われているものの、娼家通いをする内に、だんだん元気になっていくような...。

 娼家に通い始めた最初の頃こそ、少女に指一本触れられないまま一夜を明かしたりしますが、『眠れる美女』の江口老人が最後まで少女を眺めるに留まっているのに対し(冒頭の引用にあるように、少女に触れてはいけないというのが『眠れる美女』の娼家のルールなのだが)、こちらはだんだんアクティブになっていき、当初の思いを遂げるとともに、"恋狂い"になってきます。

 江口老人の少女への接し方が、ネクロフィリア(屍体性愛)乃至アガルマトフィリア(人形愛)的であるのに比べると、こちらは、健全と言えば健全。でも90歳なんだよなあ。フィクションにしてもスゴイね。

 調べてみると、川端康成が『眠れる美女』を書き始めたのは60歳の頃で、江口老人は67歳という設定、一方、ガルシア=マルケスがこの作品を発表したのは76歳で、主人公は90歳、相手にする少女は何と14歳。ラテン系民族と日本人の気質の違い(肉食系 vs.草食系?)を感じます。

 この老人、少女との恋愛記を新聞の日曜版(!)に書いて好評を博したり、娼家で起きた有名人の殺人事件に巻き込まれ、行方をくらました少女のことを案じたりと、90歳にして、なかなか忙しそうです。

 そう言えば、『眠れる美女』の中にも、同じ娼家で有名人が亡くなり、女主人が事件を秘匿する手配をした挿話がありましたが、ここまで『眠れる美女』のモチーフをなぞっておきながらも、老人のタイプとしては、両作品の主人公はかなり異なり、この物語の主人公は、生へのエネルギーを充満させて91歳を迎え、更に100歳に向け明るく未来を見据えています(ラテン気質か)。

 少女娼婦相手ということで、フェニミズム的に見てどうかというのもあるかも知れませんが(メキシコの映画会社がこの作品を映画化しようとしたら、小児性愛や児童買春を美化することになるとして、市民団体が反対したそうだ)、個人的には、しっとりした(微笑ましい)ユーモアと明るく旺盛な生命力が感じられた作品でした。

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幻想短編集だが、前半部分は日本の純文学みたいで、後半は南米的。「六時に来た女」が面白い。

青い犬の目(単行本).jpg   青い犬の目(文庫).jpg        青い犬の目 1997.jpg
青い犬の目』['90年]/『青い犬の目―死をめぐる11の短篇 (福武文庫)』['94年]/スペイン語ペーパーバック(1997)

 しばらく前まで、自分が死んだものだと信じきっていたので、彼は幸せだった。死者という、動かしようのない状況に置かれているので、幸せなはずだった。ところが生者というものは、すべてを諦めて、生きたままで地中に埋められるわけにはいかないのだ。それなのに四肢は動かそうとしても、全く反応しない。彼は自分自身を表現できず、そのことが彼の恐怖を一層つのらせた。生と死の最大の恐怖だった―。(「三度目の諦め」)

 1962年に刊行されたガブリエル・ガルシア=マルケスの初期短編集(11編を所収)ですが、実際にこれらの作品が書かれたのは、1955年に刊行された短編集『落葉』とほぼ同じ頃のようです。

 冒頭の「三度目の諦め」は、7歳の少年の頃に死んでから、棺桶の中で生きる屍として成長し続けた男が、25歳となってこれ以上の成長しなくなると、それまで彼の面倒をみていた母親が面倒をみることをやめ、彼は自らの死をやっと受け容れるというミステリアスな話。

 死んでからも意識があるという設定は、吉村昭の初期作品「少女架刑」などを想起させられましたが、ガルシア=マルケスって最初の頃は、こうしたカフカ的な、乃至は、日本の純文学によく見られるような幻想的な、或いは意識過剰な作品を書いていたのだなあ(大江健三郎―村上龍―金原ひとみ・吉村萬壱 etc...といった流れに見られるような。吉村昭も初期は純文学系だったし)。

青い犬の目 ペーパーバック.jpg 文庫版の副題にあるように、以下、主に死をモチーフとした作品が続きますが、「青い犬の目」と言ってくれる男を捜している女と、そういう女を探していた「ぼく」との会話を描いた表題作「青い犬の目」を分岐点に、後半部分の作品は少し毛色が変わって、ホセのレストランに毎晩6時に来る女とホセとの会話を綴った「六時に来た女」などは、ヘミングウェイの「殺し屋」のみたいなハードボイルド・トーンで(これは"幻想短編"というこの短編集全体のトーンからも外れているが)、それでいてペーソスを含んだストーリーが面白かったです(結局、この話に出てくる女は男に何を頼んでいるかというと、○○○○作りなのだ)。

スペイン語ペーパーバック

 その他では、少年の時に馬に蹴られ頭がおかしくなって馬小屋に閉じ込められている黒人と、彼がいつも蓄音機をかけてあげていた精神異常の少女の繋がりを描いた「天使を待たせた黒人、ナボ」や、イシチドリに襲われて目が見えなくなった3人の男達の話「イシチドリの夜」などが、南米風の説話的な雰囲気の中にも切ないユーモアがあって、個人的には好みでした。

 最後の「マコンドに降る雨を見たイザベルの独白」などは、そのまま『百年の孤独』の中の一挿話としてあってもおかしくないトーン。
 それらの後半部の作品に比べると、前半部の作品は、いかにも「習作」という感じがしなくもないですが、ガルシア=マルケス研究者にとっては多分、前半の作品が「注目」なのだろうなあ。
 作品の性質的にも順番的にもその中間にある「青い犬の目」が、この短編集の表題になっているということなのか。

 【1994年文庫化[福武文庫(『青い犬の目―死をめぐる11の短篇』)]】 

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記者時代の小説っぽいルポルタージュ集。「杭につながれて四年」などはまさに奇譚。

幸福な無名時代.jpg 幸福な無名時代 文庫.jpg
幸福な無名時代 (NONFICTION VINTAGE)』['91年] 『幸福な無名時代 (ちくま文庫)』['95年]

 コロンビア出身の作家で、新聞記者出身でもあるガブリエル・ガルシア=マルケス(1928年生まれ)が、1958年当時、雑誌記者(特派員)として隣国ベネズエラの首都カラカスに滞在した際に遭遇した、ぺレス・ヒメネス独裁政権の崩壊と当時の民衆の生活に取材したルポルタージュ。

 作者の「ジャーナリズム作品全集」から13本の記事を抜粋して訳出されていますが、何れも、1958年の1月から8月までのほぼ半年間に書かれたものであり、この年のベネズエラは、1月の独裁政権崩壊後も、8月に今度は軍事クーデターの企てがあるなど、騒乱が続いていたようです。

 欧米の大手通信社の取材力や速報性に一雑誌記者としてはとても太刀打ちできないと考えたガルシア=マルケスは、客観報道は自らもそれら通信社のものを参照し、政変等で動きまわった政治家や司祭など、個々の人物に焦点を当て、人間ドラマとして記事を再構築することを意図していたようです。

 確かに、ポリティック・ダイナミクスで動く政変絡みの記事も、彼の手にかかると、1人1人の人物が関与した人間ドラマになる―しかも、この約半年の間でも、後になればなるほど小説っぽくなっていくのが窺えて興味深いです。

 但し、個人的により面白かったのは、政治事件を扱ったものよりも、社会的事件や市中の珍しい話を取り上げたものであり、「杭につながれて四年」などはまさにそう。
 妻と喧嘩して家を飛び出した若者が30年ぶりに家に戻った話で、家を出てから農園で出稼ぎ労働していたら、インディオに囚われ杭につながれて4年を過ごし、そこを逃れてからも各地を転々とし、戻ってみると、生まれたことも知らなかった子に孫ができていたという―何だか『百年の孤独』にありそうな話だなあ。

 「潜伏からの帰還」という、反政府革命のリーダーが、捕まった後、完璧な脱獄を遂げ、避暑地で悠々と日光浴をし、ホテルのダンス・ホールで踊り、豪華客船に乗り込んだと思いきや、今度は、映画館から出てきたりして、女性と民衆に助けられながら、逃げおうせてしまうという話もスゴイ。 
 何だか、こうした「事実は小説より奇なり」みたいな話が好きそうだなあ、この人。
 
 「1958年6月6日、干上がったカラカス」は、年初からの降水量の減少で貯水池の水量が減り続け、5月、6月に入っても雨は一滴も降らず、水不足により人々の生活が混乱する様を切実に描いていますが、この記事は実は4月に書かれていて、フェイクに近いある種「パニック小説」みたいなものであり、一方で、こうしたスタイルを通して、社会構造やインフラの問題点を浮き彫りにしているわけです。

 生活のために記事を書いているけれども、創作の方へ行きたくて仕方がない、むしろ、創作のトレーニングとして記事を書いている風が窺えるのが興味深いです。

 因みに、この頃は既に、彼の第1短編集『落葉』は発刊済みで、ベネズエラへの移住にはその印税の一部が充てられていたそうですが、後にノーベル文学書を受賞するこの作家の当時の暮らしぶりは、「時間はあるは金が無い」状態だったそうです(原題は「私が幸福で無名だった頃」)。

 【1995年文庫化[ちくま文庫]】 

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カットバック構成は見事。推理小説っぽさもあるが、謎が解けないところが「文学」的乃至「神話」的?

予告された殺人の記録00_.jpg予告された殺人の記録.jpg               予告された殺人の記録 新潮文庫.jpg
予告された殺人の記録 (新潮・現代世界の文学)』['83年] 『予告された殺人の記録 (新潮文庫)』['97年]

 カリブ海沿岸ボリビアの閉鎖的な冠婚葬祭。町をあげての婚礼は、衆人環視のカーニバルである。嫁入り前の妹を傷モノにされていた事実を突き止めた双子の兄弟は、妹の相手サンティアゴ・ナサールの殺害を宣言していた―。

予告された殺人の記録 1998.png 1981年にコロンビア出身の作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928年生まれ)が発表した中編小説で、『百年の孤独』のような幻想的な文学作品とは異なり、まさに「記録」文学のような文体であり、初期の『幸福な無名時代』に収められているルポルタージュ的作品の文体に似ていると思いました。もともと新聞記者から作家になった人ですが、『幸福な無名時代』に収められているものは1958年に発表された文章で、そこにまた回帰しているのが興味深いです。

スペイン語ペーパーバック(1998)

 〈わたし〉がかつて住んでいた田舎町で30年前に起きたこの事件は、〈わたし〉の友人サンティアゴ・ナサールが、犯人も場所も時間も殺害方法も動機に至るまで、その町の住人のほとんどに予め知らされていた中で、本人だけがそのことを知らされずに、兄弟にめった斬りにされ惨殺されたというもので、この事件を〈わたし〉が、当時の関係者や記録を調べ、何があったのかを明らかにしようとするという体裁をとっています。

予告された殺人の記録 映画.jpg 事件の経過を、5つの視座・視点で再構成しているため、カットッバック的にそれらが重なり、手法的には丁度、娯楽映画であるスタンリー・キューブリックの「現金に体を張れ」('56年)や、クエンティン・タランティーノの「パルプ・フィクション」('94年)を想起しました。

 確かに文学の世界でこの種のカットッバック手法はあまり使われていないように思いますが、この作品はある意味、エンタテインメントなのかも(本国でもこの小説は、作者の他の作品よりも大きな活字で出版されているらしい)。

 因みに、この作品自体も1987年にフランチェスコ・ロージ監督によりイタリア・フランス合作映画化されています(出演:ルパート・エヴェレット/オルネラ・ムーティ/ジャン・マリア・ボロンテ)。

予告された殺人の記録 2006.jpg 構成はとにかく見事。最後の最後に被害者の死の場面が出てくるのが衝撃的で、「腸に泥がついたのを気にして、手で落としたほどだったよ」というのが生々しく、これが語り部を通して語られることで、時間を超えた神話のような雰囲気を醸しているのが、いかにもガルシア=マルケスといったところでしょうか。

スペイン語ペーパーバック(2006)

 誰もがサンティアゴ・ナサールが殺されることを知っているにも関わらず、誰もそのことを彼に教えない、しかも兄弟達は、ホントは復讐殺人なんかしたくないのに誰も止めてくれないのでやらざるを得なくなってしまっている―というのは、まさに共同体の悲劇であり崩壊の予兆でもあるという、そうした点でも、作者の他の作品に繋がるテーマを孕んでいると言えるかも知れません。

 但し、個人的にはむしろ、推理小説的な面白さを強く感じ、もしもサンティアゴ・ナサールが加害者だとすれば、当然罪の意識はあろうかと思われ(元来いい人みたいだし)、全く疾しさも身の危険も感じること無く翌朝から町中へ出かけるとは考えにくく、一方、「傷モノにされた妹」は、当夜サンティアゴ・ナサールを加害者として名指ししつつも、何年もたってからの<わたし>の問いに対しては、何も語ろうとはしない―だから、この謎は解けないのですが、解けないところが「文学」乃至は「神話」なのかなあ(解けてしまえば「推理小説」そのものになってしまうのかも)。
 
 【1997年文庫化[新潮文庫]】 

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「男系/女系/非嫡子系」複合の家系小説? 構成力と無数の挿話が醸す不思議な力に圧倒された。

百年の孤独 新潮社.jpg百年の孤独 改訳版.jpg 百年の孤独 2006.jpg  Gabriel GarciaMarquez.jpg Gabriel Jose Garcia Marquez
百年の孤独 (新潮・現代世界の文学)』['72年]『百年の孤独』['99年]『百年の孤独』['06年]

百年の孤独 1976.jpg 1967年に発表されたコロンビア出身の作家ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928年生まれ)の代表的長編小説で、ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラの夫婦を始祖とするブエンディア一族が蜃気楼の村マコンドを創設し、隆盛を迎えながらも、やがて滅亡するまでの100年間を描いています。

"Cien Años de Soledad"(1967)

 寺山修司(1935-1983)が「旅芸人の記録」('75年/ギリシャ)の監督テオ・アンゲロプロス(1935-)との対談で、この小説を話題にして2人で盛り上がっていた記憶があり、「旅芸人の記録」の日本公開が1979年ですから、多分その頃のことだと思います。

 松岡正剛氏は、寺山修司からこれを読まないかぎりは絶交しかねないという勢いで読むことを勧められていたものの手つかずでいたのが、後になって読んでみてもっと早く読むべきだったと思ったそうです。
 今回が初読であった自分も、同様の後悔をしました(圧倒されるような海外文学作品に新たに出会えたという点では、ある意味で僥倖とも言えるが)。

百年の孤独 png 「マコンド」は作者が創作した架空の村ですが(時折出てくる実在の地名からすると、コロンビアでもカリブ海よりの方か)、こうした設定は、作者が影響を受けた作家の1人であるというフォークナーが、『八月の光』などで「ジェファソン」という架空の町を舞台にストーリーを展開しているのと似ています。

スペイン語ペーパーバック(1999)

 様々な出来事が、しかもその一片で1つの小説になりそうな話がどのページにもぎっしり詰まっていて、その中には、ジプシーが村に持ち込んだ空飛ぶ絨毯とか、洗濯物のシーツと一緒に風で飛ばされて昇天してしまった美人娘とか、死者と会話する子とか、かなりシュールな挿話も多く含まれています。

 この作品は、マコンドの100年を描いたという以上に、7世代に渡るブエンディア一族の物語であるように思われ、新開地での村の創設を思い立ったホセ・アルカディオ・ブエンディア(個人的には、セルバンテスのドン・キ・ホーテと少し似ているところがあるような気がした。妄想癖だけでなく、実行力がある点がキ・ホーテと異なるが)を皮切りに、次々と個性的な人々が登場します。

百年の孤独 ペーパーバック.bmp そして、その息子兄弟であるホセ・アルカディオとアウレリャノ・ブエンディア大佐(「長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになった」と冒頭にあり、『予告された殺人の記録』と似たような書き出しなのだが...)に代表されるように、マッチョで粗暴な一面と革命家としてのヒロイック資質が、更には一部に学究者または職人的執着心が、同じくアルカディオ乃至アウレリャノと名付けられる子孫たちにそれぞれ引き継がれていきます。

スペイン語ペーパーバック(2006)

 となると、一見「男系小説」のようですが、一族の男たちは、放蕩の旅に出て、或いは革命の英雄となって村に戻ってくるものの、晩年は抜け殻のような余生を生きることになるというのが1つのパターンとしてあり、一方、ウルスラを初めとする女性たちは、その子アマランタにしても、更に2世代下った姻族に当たるフェルナンダしても、むしろこちらの方が一族を仕切る大黒柱であるかのように家族の中で存在感を示し、その資質もまた、ウルスラ乃至アマランタという名とともに引き継がれていきます。

百年の孤独 jpg ウルスラが120歳ぐらいまで生きて、一族の歴史に常に君臨しており、そうした意味ではむしろ「女系小説」言えるかも知れませんが、更に、ピラル・テルネラというホセ・アルカディオとアウレリャノ・ブエンディアの第2世代の兄弟両方と関係して一族の家系に絡む女性がいて、この女性もウルスラと同じくらい長生きします。

スペイン語ハードカバー(2007)

 同じように第4世代のセグンド兄弟と関係するペトラ・コテスという女性が出てきますが(兄弟の兄の名はホセ・アルカディオ、弟の名はアウレリャノということで、ややこしいったらありゃしないと言いたくなるが)、ここにも一定のフラクタル構造がみてとれます(「非嫡子系」とでも言うべきか)。

 村に文明の利器を持ち込んだジプシー、メルキアデスの「一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる」という予言が当たったことを第6世代のアウレリャノ・バビロニアが知ったとき―。

 いやあ、凄い構成力。作者は、本書出版後に、「42の矛盾」を見つけたが再販でも修正せず、「6つの重大な誤り」については、誰一人それを指摘する人がいなかったと言っていますが、この辺りの言い草は、作者のユーモアある茶目っ気ではないかなあと(それを探そうとするフリークがいるかも知れないが)。

One Hundred Years of Solitude.jpg 細部の構成力もさることながら、ちょうどエミール・ゾラの『居酒屋』、『ナナ』、『ジェルミナール』などの作品群がルーゴン家、マッカール家など3つの家系に纏わる5世代の話として位置づけられる「ルーゴン・マッカール双書」のようなものが、『百年の孤独』という一作品に集約されているような密度とスケールを感じます(運命論的なところもゾラと似ている。ゾラの場合、彼自身が信じていた遺伝子的決定論の色が濃いが)

英語版ハードカバー

 よくもまあ、こんなにどんどこどんどこ奇妙な話が出てくるものだと感嘆させられますが、それらの1つ1つに執着せず、どんどん先に進んでいく―そのことによって、壮大な小宇宙を形成しているような作品とでも言うべきか。

ガルシア・マルケス.jpg 神話的または伝承説話的な雰囲気を醸しつつも、それでいて読みやすく、人の生き死にとはどういったものか、一族とは何か(大家族を扱っている点では、近代日本文学とダブる面もある?)といったことを身近に感じさせ考えさせてくれる、不思議な力を持った作品でもあるように思いました。

ガルシア・マルケス

 【1972年単行本・1999年改訳版・2006年改装版[新潮社]】 

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「死者の町」に来た若者。「おれ」自身の事実が明らかになるところが衝撃的且つ面白い。

ペドロ・パラモ 単行本.png ペドロ・パラモ iwanami.jpg  pedroparamo2007.jpg  Juan Rulfo.jpg Juan Rulfo(1917-1986)
ペドロ・パラモ (1979年) (岩波現代選書)』『ペドロ・パラモ (岩波文庫)』['92年]pedroparamo[2007]
"PEDRO PARAMO"(1966)
Pedro Paramo.jpg 「おれ」(フアン・プレシアド)は、母親が亡くなる際に言い遺した、自分たちを見捨てた父親に会って償いをさせろという言葉に従い、顔も知らない父親ペドロ・パラモを捜しに、コマラの町に辿りつくが、町には生きている者はなく、ただ、死者ばかりが過去を懐かしんで、蠢いているだけだった―。

 1955年にメキシコの作家フアン・ルルフォ(Juan Rulfo、1917-1986)が発表した作品で、ルルフォは、この『ペドロ・パラモ(Pedro Páramo)』(1955年)と、短編集『燃える平原(El llano en llamas)』(1953年)の2冊だけしか世に出しておらず、それでいて高い評価を得ているという希有な作家です。

 最初、「おれ」がコマラの町に入ったばかりのころは、何となく死者たちの"ささめき"が聞こえる程度だったのが、そのうち、死んで今はいないはずの人が出てきたりして、生きている人と死んでいる人が「お前さん、まだ、さまよっているのかい」みたいな感じで会話したり交わっているような町であるらしいと...それが次第に、町で暮らす人は全て死者であるらしいということが明らかになってきます。

 作品を構成する70の断片の中にある死者同士の会話などを通して、町のドンであったペドロ・パラモの狡猾で粗暴な一面と、スサナという女性を愛し続けた純な一面が浮き彫りになります。
 また、ペドロ・パラモには、「おれ」のほかに、ミゲル・パラモとアブンディオという息子がいて、ミゲル・パラモを事故で亡くしていて、「おれ」を最初に町に案内してくれたアブンディオも実は死者であった...。

 何だか、時代劇を観ていて、ある程度感情移入したところで、ふと、この人たちは、今は皆死んでいるんだなあという思い捉われる、そうした感覚に近いものを感じました。
 そして、この物語は、主人公である「おれ」自身が今どうなのかということが明らかになるところがかなり衝撃的で(面白いとも言える)、その辺りから、この「おれ」は誰に対して物語っているのか(それまでは当然、読者に対してであると思って読んでいたわけだが)、物語の読み方そのものが変わってきます。

 更に、物語の主体は、ペドロ・パラモであったりスサナであったりと移ろい、詰まる所、コマラという町自体が、物語の主体であることを印象づけるとともに、アブンディオが終盤に再登場することで、この話は時間的な円環構造になっていることを示唆しています(「死者」は直線的な時間には拘束されていないが、この円環からは抜け出せないということか)。

 訳者の杉山晃氏(1950年生まれ、スペイン文学者。氏の「ラテンアメリカ文学雑記帳」というWEBサイト(ブログに移行中?)は、色々な作家の作品を紹介していて面白い)の文庫版解説によると、1980年に行われたスペイン語圏の作家や批評家によるラテンアメリカ文学の最良の作品を選ぶアンケートで、この『ペドロ・パラモ』は、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』(1967年発表)とトップの座を分かち合ったとのことですが、長さ的には『百年の孤独』よりずっと短いけれど(『ペドロ・パラモ』は文庫で200ページほど)、印象に残る作品であることには違いありません。

ペドロ・パラモ 家系図.jpg 個人的には、片や「死者の町」コマラが舞台で、片や「蜃気楼の町」マコンドが舞台というのが似ている気がし(『ペドロ・パラモ』の方が発表は12年早く、その意味ではより先駆的かも)、また、片やペドロ・パラモという町のドンが登場し、片やホセ・アルカディオ・ブエンディアという族長的リーダーが登場するという、更には、そこに端を発する極めて複雑な家系図を成すといった、そうした類似点が興味深かったです(『ペドロ・パラモ』の方の家系図は、もう、何が何だかよくわからないくらい錯綜していて研究対象になっているようだ)。

 この作品は、メキシコの映画製作配給会社が、2007年にマテオ・ヒル監督により、メキシコのイケメン俳優ガエル・ガルシア・ベルナル主演で映画化すると発表しましたが、その後どうなったのか。『ペドロ・パラモ』はこれまでにメキシコ人監督によって3度映PEDRO PARAMO 1966 1.jpgPEDRO PARAMO 1966 2.jpg画化されていて、カルロス・ベロ(Carlos Velo)監督(1966年)、ホセ・ボラーニョス監督(1976年)、サルバドール・サンチェス監督(1981年)の何れの作品も日本未公開(主にメキシコとスペインで公開)ですが、1966年のカルロス・ベロ版はインターネットで観ることが可能です(オープニング・シーンに味わいがある)。

"PEDRO PARAMO" de Carlos Velo (1966)(英字幕入り・部分)
 Pedro Paramo video.jpg

 【1992年文庫化[岩波文庫]】

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「バベルの図書館」「円環の廃墟」など、カフカ的な作品が目白押しの短編集。やや難解?

ボルヘス 伝奇集  単行本.pngボルヘス「伝奇集」』['90年]ボルヘス 伝奇集 iawa.jpg 『伝奇集 (岩波文庫)』['93年]

 1960年代のラテンアメリカ文学ブームの先鞭となった、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges、1899-1986)の代表的短編集(原題:Ficciones)で、1941年刊行の『八岐(やまた)の園』と1944年刊行の『工匠集』を併せたものですが、全17篇の中では、「バベルの図書館」と「円環の廃墟」が有名です。

バベルの図書館.jpg 「バベルの図書館」(原題: La biblioteca de Babel )は、その中央に巨大な換気孔をもつ六角形の閲覧室の積み重ねで成っている巨大な図書館で(図書館職員だった作者自身が勤めていた図書館がモデルとされている)、閲覧室は上下に際限なく同じ部屋が続いており、閲覧室の構成は全て同じであるという不思議な構造をしています。

 蔵書は全て同じ大きさで、どの本も1冊410ページ、1ページに40行、1行に80文字という構成であり、本の大半は意味のない文字の羅列であって、全て22文字のアルファベットと文字区切り(空白)、コンマ、ピリオドの25文字しか使われておらず、同じ本は2冊とないということです。

 司書官たちは外に対する意識は無く(この図書館には出口がない)、生涯をここで暮らし、死ぬと中心の六角形の通気孔に投げ入れられ、そこで無限に落下しながら風化し、塵すらも無くなるといいます。

 主人公(ボルヘス?)は、この図書館を「宇宙」と呼び、図書館が無限で周期的であることが、唯一の希望であるとしていますが、個人的には、この図書館は何を意味しているのかを考えると際限が無くなり(「システム」とか「機構」といったものにも置き換えられるし、「都市」や「生命組織体」、更には「インターネット」にも擬えることは可能かも)、イメージとしては面白いけれど、やや茫漠とした印象も残りました。

円環の廃墟Ⅱ.jpg 作者に言わせると「カフカ的作品」とのことですが、それを言うなら、「円環の廃墟」(原題:Las ruinas circulares)もそれに近いように思われ、ここでは詳しい内容は省きますが(要約不可能?)、「城」とか「流刑地にて」に似ていて、夢の中で彷徨しているような作品です。

「円環の廃墟Ⅱ」星野美智子(リトグラフ)

 他にも、こうした不条理な作品が目白押しで、これらを1回読んだだけで理解できる人は、相当な読解力・抽象具現力の持ち主ではないでしょうか(自分はその域には達していないため、評価は"?"とした)。

borgesbabel.jpg 一方で、「死とコンパス」のような推理小説仕立ての作品もあって、これは、連続殺人事件を追う辣腕刑事が、事件現場であるA、B、Cの3地点と事件の起きた日時から、第4の殺人がいつどこで起きるかを推理し、現場にかけつける―という、何となく親しみやすいプロットで(アガサ・クリスティの『ABC殺人事件』みたいだなあ)、意外性もあります(この作品は1997年にアレックス・コックス監督・脚本、ピーター・ボイル主演のミステリとして映画化されている)。でも、形而上学的なモチーフ(味付け?)と一定のアルゴリズムへの執着という点では、この作品も「バベルの図書館」に通じるものがあるかな。

 因みに、国書刊行会の文学全集で、「バベルの図書館」シリーズと名付けられているものがあります。

 【1993年文庫化[岩波文庫]】 

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