【2974】 ○ 坪内 祐三 『新書百冊 (2003/04 新潮新書) ★★★★

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読書案内を兼ねた"読書半生記"。人文専攻ネタ、松波信三郎ゼミネタで懐かしくなってしまった。

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新書百冊(新潮新書)』坪内 祐三(1958-2020)

 本書の著者で、今年['20年]1月に61歳で亡くなった評論家・エッセイストの坪内祐三(1958年生まれ)は、本好き、古本好き、神保町好きとしても知られていましたが、その著者が、自らの半生の折々に読んできた新書百冊を重ねて振り返ってコラムとして綴った"読書半生記"であり(エッセイとも言えるか)、新潮新書の創刊ラインアップの10冊のうちの1冊として刊行されています。

 タイトルから「読書案内」的なものを想像する人もいるかと思いますが、その要素もしっかり満たしていて、文中で取り上げた百冊の新書が、巻末に「百冊リスト」として章ごとに整理されています。ただし、その他にも多くの本を紹介していて、「新書百冊」にそれらを含めた約300冊の書名索引もそのあとに付されています。

 いい本を選んでいるなあという印象で、古本が多いせいか、岩波新書・中公新書・講談社現代新書の「新書御三家」が占める割合が高くなっています。「講談社現代新書のアメリカ文化物は充実していた」(第4章)というのは確かに。かつては岩波新書・中公新書・講談社現代新書の3つが、一般向け新書では絶対的代表格でリジッドなイメージがありました。

 自伝的エッセイっぽい印象を受けるのは、例えば第1章が「自らの意志で新書を読み始めた頃」、第2章が「新書がどんどん好きなっていった予備校時代」というふうになっていたりするためで、御茶ノ水での浪人生活を振り返り、「私が通っていた御茶ノ水の駿台予備校は、当時、単なる受験合格のテクニックではなく、もっと本質的な「学問」を教えてくれた。特に英文解釈の奥井潔先生の授業はいつも心待ちにした。教壇で奥井先生は例えばT.S.エリオットやポール・ヴァレリーの文学的意味について語ってくれた」といった下りは、その頃浪人生活を送り、駿台予備校で学んでいた人などは懐かしくて仕方がないのでは。

 と思って読んでいたら、「浪人時代の多読が功を奏して(?)」早稲田大学第一文学部に入学し、2年次の専攻分けで、学問の多様化を見据え、オール―ジャンルの学科の授業に出席できる人文専攻を選んだとのこと(本当は1時限目の授業や原書購読が無いことが理由であったとも)。実は自分も同じ大学・学部・専攻であり、そのことは以前から知っては知ってはいたものの、人文専攻を選んだ理由もほぼ同じであることを改めて知りました。

存在と無下.jpg存在と無 上.jpg さらに、第5章では、人文専攻のゼミで『存在と無』を読まされ、教官はその本の翻訳者の松波信三郎で、「全然歯が立たなかった」とありますが、自分も同じ頃このゼミを受けました。松波信三郎先生の講義は『存在と無』をものすごいスピードで読み下して解説するので、講義中にかなりの集中力を要したように記憶します。毎回の授業がそんな感じで進められ、それを丸々1年かけてやるのですが、『存在と無』そのものがかなり大部な本なので、結局、本の要所要所を押さえはするものの、全部は読み通せませんでした。

 松波信三郎先生は大男だったとのこと(そうだったかも)、躰の大小の違いはあるが風貌はサルトルに似ていたとのこと(言われればそうだったかも)。なんだか、早大一文(「第一文学部」という呼称は今は無い)ネタ、人文専攻ネタ、松波信三郎ゼミネタで懐かしくなってしまいましたが、著者の方は修士課程に進んだのだのだなあ。

 著者の社会人としてのスタートは雑誌「東京人」の編集者であり、その後次第に書き手としての本領を発揮していくことになりますが、ベースにしっかりした読書体験があることを改めて感じました。本書で紹介されている本には絶版本も多いですが、今はほぼネットの古本市場で入手可能です。それにしても、一方で1996年から「週刊文春」で「文庫本を狙え!」の連載を亡くなる前まで続けていて、こちらの方は文庫の新刊を追っていたわけですから、改めてスゴイなあと思います。

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