【2550】 ◎ 志賀 直哉 「剃刀」―『志賀直哉―ちくま日本文学021』 (2008/08 ちくま文庫) 《剃刀」―『短篇集 剃刀』 (1946/07 斎藤書店)/「剃刀」―『文豪たちが書いた 怖い名作短編集』 (2013/12 彩図社)》 ★★★★☆

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「怖い名作短編集」の中での筆頭格。普通の人の頭の中にある「異常」に働きかける作品。

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『短篇集 剃刀』(1946/07 斎藤書店)/『志賀直哉 [ちくま日本文学021]』['08年]/『文豪たちが書いた 怖い名作短編集

志賀 直哉 「剃刀」25.jpg 麻布六本木で床屋を営む芳三郎は名人との声も名高い。しかし、今日はひどい風邪で寝込んでいる。ちょうど祭の前の忙しい時期だが、人手が足りない。以前雇っていた源公と治太公を解雇したからだ。芳三郎も以前は彼らと同じ小僧だったが、腕が認められて親方の娘と結婚し店を継いだ。以来、源公と治太公は素行が悪くなり、店の金に手を出すようになったので、芳三郎は二人を解雇したのだ。祭日前の稼ぎ時でありながら体は思うように動かない。妻のお梅は夫の体を気遣って休ませようとするが、その気遣いが芳三郎の神経を余計に苛立たせる。更に、研磨の依頼をされた剃刀のキレが悪いと客から文句があり、熱で震える手で研ぎ直すがうまくいかない。そこへ一人の若者が髭を剃りにやって来る。若者はこれから女郎屋にでも行くらしい。芳三郎は若者の髭を当たり始めるが、きちんと研げていない剃刀ではいつものように剃れない。若者はそれには構わず、やがて眠ってしまう。芳三郎は泣きたいような気持ちになるが、若者の方は大きな口を開けて眠っている。その時、剃刀が引っ掛かり、若者の喉から血が滲んだ。それまで客の顔を一度も傷つけたことのなかった芳三郎は、発作的に剃刀を逆手に持つと、刃が隠れるまで深く若者の喉に刺した。同時に、芳三郎の体には極度の疲労が戻ってきた。立ち尽くす芳三郎の姿を、三方に据えられた鏡だけが見つめていた―。

 1910(明治43)年6月発行の「白樺」第1巻3号に志賀直哉(1883‐1971)が27歳の時に発表した短編小説。因みに1910年という年は、「白樺」の創刊年であり、志賀直哉はこの年「網走まで」を発表しています(1946(昭和21)年齋藤書店刊行の初期短編集には「剃刀」も「網走まで」も収められているが、「剃刀」の方が表題になっている)。

清兵衛と瓢箪・網走まで - コピー.jpg この短編は、齋藤書店版('46年)、ちくま文庫版('08年)のほかに、新潮文庫版『清兵衛と瓢箪・網走まで』('68年)などにも収められていますが、最近では『文豪たちが書いた 怖い名作短編集』('13年/彩図社)にも入っています(ネットでは橋爪功による朗読版が聴ける)。『文豪たちが書いた 怖い名作短編集』には、夢野久作「卵」、夏目漱石「夢十夜」、江戸川乱歩「押絵と旅する男」、小泉八雲「屍に乗る男」「破約」、小川未明「赤いろうそくと人魚」「過ぎた春の記憶」、久生十蘭「昆虫図」「骨仏」、芥川龍之介「妙な話」、志賀直哉「剃刀」、岡本綺堂「蟹」、火野葦平「紅皿」、内田百閒「件」「冥途」の15篇が収められていますが、"恐怖小説"と"幻想小説"や"怪異譚"がやや被っている感じで、結局「怖い」という意味での「筆頭格」と言うか、いちばん怖かったのはこの志賀直哉の「剃刀」だったように思います。

Book Bar.jpg この作品のテーマについては、ちょっとした「気分」に引き摺られて社会から逸脱してしまうことの怖さを描いたものである(荒井均氏)とか、或いはラストの鏡に注目し、殺人にまで至る心身の感覚を不合理として纏めてしまう客観性(紅野謙介氏)であるとか諸説あるようです。また以前に、FM J-WAVE の「BOOK BAR」(ナビゲーターは大倉眞一郎と杏)で、ゲストのシンガーソングライターの吉澤嘉代子氏が、「剃刀」は「男性器」の象徴だと思ったと言っていました。ホント色々な見方があって、読書会などで取り上げられることが多い作品ではないかと想像します。

異常の構造.jpg木村 敏.jpg 個人的には、主人公がもし本当にお客を殺害したのであれば、ある種、統合失調症(昔で言う精神分裂症)の気質の持ち主であったということではないかと思います。この病気(病質)の特徴は、「社会性」や「常識」といったものが失われることにあり、精神病理学者の木村敏氏はその著書『異常の構造』('73年/講談社現代新書)の中で、「常識」は世間的日常性の公理についての実践的感覚であり、分裂症病者はそれが欠落しているとしています。

 但し、木村敏氏は、「正常者」や「正常者の社会」を構造化しているものの脆弱さも指摘しています。これを個人的に解釈させてもらうと、人間というのはちょうど不確定性原理における量子のゆらぎのように、意識の瞬間々々においては「正常」と「異常」の間を行ったり来たりしているけれども、連続性において「正常」の方が「異常」の方よりもより多く現出するため、トータルで何とか「正常」を保っているということになるのではないかと思います(その点がまさに健常者を統合失調症の病者と隔てる垣根となる)。

 そう考えるとこの短編の怖さは、自分がこの芳三郎の立場に立った時、偶々そこで「異常」の方が現出し、芳三郎と同じような行動に出るのではないかという怖さ(不安)ではないかと思います。それはちょうど、高い所が怖い理由が、実は「誤って落ちる」可能性があるから怖いのではなく、「自ら飛び降りてしまう」可能性があるから不安なのであるというのと同じ理屈です。但し、普通の人(「正常」な人)は、そうした「異常」な(発作的・破滅的な)事態を頭の中で想像することには想像するけれども、行為としての実行には至らず、それはあくまでもイメージの世界に止まっているということであると思います。

 この作品はそうした普通の人の心の奥にある潜在的な「異常」に働きかけるものであり、作者はこの作品に一定のリアリティを持たせるために、この短篇を幾度か書き直したそうです。後に「小説の神様」と呼ばれるようになる作者のそうした注力の成果でもあるかと思いますが、例えば、客商売の人であれば誰もが経験しそうで感情移入しやすい、主人公のフラストレーティブな状況をごく自然に描き出している点は巧みであり、それだけに、終盤の主人公の「異常」な行為にまで読者は感情移入してしまうのではないかと思います。

剃刀images.jpg 振り返ってみて、剃られる側に立って想像しても怖い話かと思います。個人的には久しく床屋で顔を剃ってもらったことはないけれど、以前に床屋で剃ってもらっていた頃、その最中にちらっと「今この床屋さんが発狂したら...」と考えた怖い想像も後から甦ってきました。但し、この短編の怖さは、やはり自分がどこかの場面で、芳三郎と同じような行動に出るのではないかという不確実性に対する怖さ(不安)の方が上ではないかと思います。

 余談になりますが、顔剃りができるのが床屋、顔剃りができないのが美容室と区別するのは法律的にも原則は間違っていないそうですが、「化粧に付随した軽い顔剃りは行っても差し支えない」とされていて、顔剃りを売りにしている美容院も最近増えているようです。行きつけの美容師の人に言わせれば、床屋と美容院の違いはバリカンを使うか使わないかではないかとのことです。

【1946年単行本[斎藤書店(『短篇集 剃刀』)]/1968年文庫化[新潮文庫(『清兵衛と瓢箪・網走まで』)]/1992年再文庫化[ちくま文庫(『ちくま日本文学全集』)]/2008年再文庫化[ちくま文庫(『ちくま日本文学021志賀直哉』)]】

清兵衛と瓢箪・網走まで.jpg              CD



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和田泰明

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