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小津安二郎初トーキー作品。人生の侘しさが漂い、「東京物語」の原点的なモチーフを含む。
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1923年の信州。生糸の工場に働く野々宮つね(飯田蝶子)は夫を早くに亡くし、一人息子の良助(少年時代:葉山正雄)と二人暮らしだった。小学校も終わり近いある日、担任の大久保先生(笠智衆)が訪ねて来て、良助が中学校に進むと聞いて喜んでいると言う。実はつねには良助を中学校に行かせる経済的目途が立ってなかったが、級長をして成績も優秀な良助のために必死で働くことに決める。これからの時代は学問がなければ出世はできないと大久保先生も言うし、彼自身も教師を辞めチャンスを求めて上京していく。それから十数年。良助は上の学校に進み、今は東京に暮らしている。つねは、久しぶりに息子の顔を見たいと上京することにする。1936年の東京。ようやく辿り着いた郊外の良助(日守新一)の家はぼろ屋で、隣の工場の騒音が喧しい。良助が結婚し、子供が一人産まれていたことも彼女にはショックだった。妻の杉子(坪内美子)は大人しく素直な女でつねは気に入ったが、市役所を辞めたばかりで今は夜学の教師をしているという良助は一体どうやって生計を立てているのか。実際、良助の給料は少なく、母親の突然の訪問で同僚から少しずつ金を借りる有様だった。翌日、つねは良助に連れられ近所の大久保先生の家を訪れるが、かつて希望に燃えた若者だった恩師は、今はトンカツ屋を細々と営んでいた。良助はつねを連れて東京見物に出掛けるが、散財の後給料日までどう暮らすかが気掛かりで、母親との夕食も屋台のラーメンになってしまう。一方のつねは、若くして人生を諦めているような息子を見てしっかりしろと叱責する。妻の杉子は自分の着物を売って良助に金を渡し、これでお母さんをどこかに連れていってあげてと言う。ところが貧しい隣家の息子・富坊(突貫小僧)が馬に蹴られたとの知らせが入り、幸い怪我は軽かったが母親のおたか(吉川満子)が治療費を払えず、見かねた良助は先のお金をおたかに渡す。息子の優しさを知ってつねは喜び、また誇りに感じる。貧乏暮らしでは常に互いに助け合う気持が必要なのだと言い、つねは信州に戻る。良助夫婦は鏡台につねが置いていったささやかな金を見つける。つねは、生糸工場に戻るが、仲間から東京のこと訊かれ、とても大きくて人が多かったと話した後、自分の息子も随分と偉くなったとつい言ってしまう。彼女は工場の外に出て思わず溜息をつく―。
1936(昭11)年9月公開の小津安二郎監督作で、サイレント映画を撮り続けた同監督の劇映画では初のトーキー作品(小津番のカメラマン茂原英雄が開発した「茂原式システム」の名が冒頭に出る)。茂原の妻であり本作に主演した飯田蝶子をはじめ、出演した女優の坪内美子、吉川満子らが夜食の炊き出しを行うというアットホームな撮影現場であったということですが、小津安二郎にとっても松竹キネマにとっても最後の「蒲田撮影所作品」となりました。
アットフォームだったという撮影現場の雰囲気はともかく、内容的には人生の悲哀というか侘しさが漂う作品でした。母親は子に人生の希望を託し、自らは身を粉にして働くが、それが子どもにとっては逆に重荷となることもあるのでしょう。この映画の母子はまさにその典型で、母親が、自分の息子が大人になって、自分で思い描いていたようにならなくて落胆するのは、それはそれで辛いけれど、その落胆した母親を見る息子の立場としては、それ以上に辛いものがあるかも。いや、母親の方は全てを息子に賭けてきたわけだから、やはりそっちの方が辛いか―とか、いろいろ考えてしまう作品です。終盤、息子の貧しい人への思いやりに触れ、それを喜び誇りに思う母親―という救いがありますが、それだけで無理矢理ハッピーエンドにしてしまわないところが、小津安二郎のエライところだったかもしれません。
母親が息子の出世ぶりを見たくて上京してみたら、息子は'しがない'夜学教師になっていたというモチーフ(最近では、夜学の先生からノーベル賞受賞者になった大村智氏のような人もいるが)は、後の小津作品「東京物語」('53年)で、笠智衆夫婦が上京して医者になった息子の山村聡の家に行くと、下町にこじんまりとした自宅兼診療所を構える町医者だったというモチーフと重なるし、上京した母親をどこか見物などに連れて行く必要に迫られるというのも「東京物語」と重なります。そういう意味では、「東京物語」の原点的なモチーフを含んだ作品とも言えるかもしれません(母親の急な状況で慌てさせられるというのは「大学は出たけれど」('29年)にもあった設定だが)。
更に、この作品で笠智衆演じる地元の学校で担任だった恩師が、今は上京してトンカツ屋をやっているという設定は、「東京の合唱」('31年)の斎藤達雄が演じる元体育教師のカレーライス屋然り、「秋刀魚の味」('62年)の東野英治郎が演じる元漢文教師の中華そば屋然りでした。「秋刀魚の味」の"瓢箪"先生こと東野英治郎の落魄ぶりは侘しかったですが、この作品では、笠智衆演じる「希望に燃える若い教師」の登場シーンが前半部分にあるだけに、今は一枚5銭のトンカツを揚げる店を細々と営み、妻(浪花友子)と共に次々と産まれた子供の世話に忙殺されているという落魄ぶりは、笠智衆の十八番とも言える老け役と相俟って、東野英治郎のそれとはまた違った意味で超絶した侘しさです。
笠智衆と主演の飯田蝶子とは、後に老人役で評価されることになるという点で共通し、飯田蝶子はこの時まだ40歳前でしたが、作品の後半では老女を自然に演じており(因みに、彼女が働く工場も14年前と今とで機械を入れ替えて撮影されているとのこと)、笠智衆に至っては当時まだ32歳、この時が初の老け役でしたが、前半部が若々しいだけに、後半部分は14年後にしてはちょっと老けすぎではないかという気もするぐらいの老けぶりでした(さすが40代で「東京物語」の老人を演じるだけのことはある?)。
息子・良助役の日守新一(1907-1959/享年52)は、その後、「父ありき」('42年/松竹)といった小津作品ばかりでなく、清水宏監督の「簪」('41年/松竹)、吉村公三郎監督の「象を喰った連中」('47年/松竹)などでも笠智衆と共演し、生活に疲れて覇気が無いサラリーマンを演じさせたら右に出るものはいなかったと言われました。その日守新一演じる良助が母親を連れて観に行った映画は「未完成交響楽」('33年/墺)でしょうか(1935年3月日本公開。そう言えば、良助の家の襖のポスターもドイツ映画っぽい。暮らし向きはそう楽でもない一方、部屋には洒落た外国映画のポスターが貼ってあるというのは、初期小津作品の定番)。映画を観ているうちに母親が寝てしまうというのは、小津安二郎の実体験のようにも思えてしまいました。
「一人息子」●制作年:1936年●監督:小津安二郎●脚本:池田忠雄/荒田正男●撮影:杉本正次郎●音楽:伊藤宣二●原作:ゼームス槇(小津安二郎)●時間:87分(現存83分)●出演:飯田蝶子/日守新一/葉山正雄/笠智衆/坪内美子/浪花友子/吉川満子/突貫小僧/爆弾小僧/加藤清一/高松栄子/加藤清一/小島和子/青野清●公開:1936/09●配給:松竹蒲田(松竹キネマ)(評価:★★★☆)
《読書MEMO》
●生野々宮つねの働く生糸工場の仕事風景が機械化により時代とともに変遷しているのが"背景的"に描かれているのはさすが。