【2339】 ◎ 蓮實 重彦 『監督 小津安二郎 〈増補決定版〉』 (2003/10 筑摩書房)《『監督 小津安二郎』 (1992/06 ちくま学芸文庫)》 ★★★★☆

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読むと小津映画の世界に引き込まれていく。小津作品の解釈の深化に貢献した1冊か。

監督 小津安二郎 蓮實重彦 増補決定版.jpg 監督 小津安二郎 蓮實重彦.jpg監督小津安二郎 (1983年)』 監督 小津安二郎 ちくま学芸文庫1.jpg監督 小津安二郎 (ちくま学芸文庫)』(1992/06 ちくま学芸文庫

『監督 小津安二郎 〈増補決定版〉』(2003/10 筑摩書房)

 小津生誕百年にあたる2003年に刊行された本で、20年ぶりの〈増補決定版〉です。オリジナルの『監督 小津安二郎』の初版の刊行は1983年で、この時すでに佐藤忠男の『小津安二郎の芸術』('71年/朝日新聞社、'78年/朝日選書[上・下])やドナルド・リチーの『小津安二郎の美学-映画のなかの日本』('78年/フィルムアート社、'93年/現代教養文庫)は刊行されていたわけですが、以降、数ある小津作品論の中でも『監督 小津安二郎』はその中心的地位を占め続けてきたのではないでしょうか。

 著者はオリジナル版を著すにあたって、「あまりにも知られすぎた小津を小津的なものと呼び、それが小津の「作品」とどれほど異なるものであるかを具体的に明らかにしようとしました」とのことで、一方、〈増補決定版〉の方は、「いずれも、過去20年間に小津を何度も見なおし、そのつどあまりにも知られていない映画作家だと改めて実感させてくれたいくつもの細部に触発された言葉からなっており、文体にしかるべき変化が生じてはいるものの、同じ視点を踏襲しています。『監督 小津安二郎』の〈増補決定版〉は、『監督 小津安二郎』と同じ書物であり、同時にまったく異なる書物でもあるのです」としています(「『監督 小津安二郎』〈増補決定版〉はどのようにして書かれたか」より)。

 内容的には、オリジナルが第1章から第7章と序章・終章から成るのに対し、この〈増補決定版〉は「憤ること」「笑うこと」「驚くこと」の3章が書き加えられ、「序章+本文全10章+終章」という構成になっています。この他に、オリジナル刊行当初から、小津作品のカメラマンであった原田雄春への著者によるインタビューなどの付録があり、増補版全体では単行本で350ページ近いものとなっていますが、付録部分を除くと増補された3章を加えても250ぺージほどと、思ったよりコンパクト(?)だったかも(因みに、ちくま学芸文庫版はオリジナルの文庫化であり、加筆部分は含まれていない)。

 個人的に何となく大部な本であるというイメージがあるのは、文体がハイブロウで高踏的な印象を与え、読むのに骨が折れるという先入観があるためかもしれず、実際、これが映画に関する論考でなければ途中で投げ出していただろうと思われるフシもあります。その意味では、映画作品という、実際に語られている対象のイメージがハッキリあるというのは大きいと思います。また、著者は、敢えて、その目に見える表層から入って、次に作品間の共通項を探るなど、あくまでも目に見える映像や記号から小津作品を読み解こうとしているように思います。

 その着眼点と分析には、「ちょっと無理があるのではないか」と思われたりする部分もありますが、読む側はその指摘によって、そんな見方もあるのかと気づかされ(その過程において、先に挙げた先行する小津映画論を部分的に批判したりもしているのだが)、更にどんどん小津映画の世界に引き込まれていく―そうした力を持つ監督論であり作品論であるように思います。

秋刀魚の味 ラーメン屋.jpg 例えば、小津作品では、登場人物たちのかつての恩師だった元教師が、今は東京で料理屋を開業しているとのことで、「秋刀魚の味」('62年)の東野英治郎の中華そば屋然り、「一人息子」('36年)の笠智衆のトンカツ屋然り、「東京の合唱」('31年)の東京の合唱(コーラス)2.jpg斎藤達雄のカレーライス屋(「カロリー件」)然りであると。この指摘自体が面白いと思うのですが、そこから、なぜ「豆腐屋」などになるものはいなくて(小津自身のエッセイに『小津安二郎 僕はトウフ屋だからトウフしか作らない』('10年/図書センター)というのがあるが)、皆、「トンカツ屋」のような、勤め人に昼食を供するような料理屋になっているのかを考察していたりするのが興味深いです(正直、ここまで理屈付けするか―という印象も)。

 各作品論では、「その夜の妻」('30年)、「淑女と髯」('31年)、「非常線の女」('33年)、「風の中の牝雞」('48年)など、多くの映画評論家が失敗作とみなしていたり、評論することを避けて通ったりするような作品をも絶賛している点が特徴的であり、佐藤忠男も「風の中の牝雞」を絶賛してはいますが、それは「戦後の始まり」という時代との関連で評価しているのであり、それに対し、著者の場合は、小津作品という文脈の中で全てを評価しているという印象で、とりわけ「その夜の妻」「淑女と髯」が巷の評価に比べて相対的に高評価であるだけでなく、小津作品の中におけるその位置づけという意味でも重視しているのが興味深いです(著者が低い評価を下している小津作品は、前期作品・後期作品を含め皆無ではないか)。

晩春 1949 旅館のシーン.jpg晩春 壺.png 各論でいろいろと注目すべき点、実際、後の小津作品の見方に影響を与えた部分はありますが(後期の二世代同居家族を描いた小津映画に殆ど「階段」が出てこないのはなぜか、それは世代間の断絶を表しているのだとか)、やはり、終章「快楽と残酷さ」での「晩春」('49年)における笠智衆、原節子が泊まった旅館にあった「壺」は何を意味するのか、というのが、本書における評論的な1つの'クライマックス'かもしれません。アメリカの映画監督ポール・シュレイダーの、この壺は父と別れねばならない娘の心情を象徴する「物のあわれ」を表すとの評も、ドナルド・リチーの、壺を見つめる娘の視線に結婚の決意が隠されているとの分析もバッサリ斬り、非常に回りくどい言い方をしていますが、詰まる所、映画評論家の岩崎昶が、父娘の会話が旅館の寝床の上で交わされていることに注目して最初に提唱した、父に対して性的コンプレックスを抱いていた娘という構図に近い解釈になっているように思いました(この映画の隠されたモチーフとして、「父子相姦」があるというのは、その後多くの海外の評論家が指摘しており、また、それに対する反論も内外であるようだ)。但し、著者は、壺そのものには実は意味が無いとしており、この点が特徴的で―と、引用していくとキリがないのでやめておきますが...。

 作家の梶村啓二氏が『「東京物語」と小津安二郎―なぜ世界はベスト1に選んだのか』('13年/平凡社新書)の中で、「『東京物語』は小津の意図をはるかに超えた場所まで独り歩きし、到達していこうとする」と書いていたのを思い出しました。小津作品全般に渡って、そうしたことに最も貢献したものの1つが本書ではないかと思います。そのことによってより多くの人が小津作品を観るようになり、また、観て、頭を悩ますことになった(?)ということかもしれません。でも、観た者同士でお互いに意見を交わし合うというのは、別にプロの映画評論家レベルでなくとも楽しいことです。

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This page contains a single entry by wada published on 2015年11月 8日 15:59.

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