【2333】 ○ ピエール・デュラン (大塚幸男:訳) 『人間マルクス―その愛の生涯』 (1971/06 岩波新書) ★★★☆ (○ 大内 兵衛 『マルクス・エンゲルス小伝 (1964/12 岩波新書) ★★★☆)

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マルクスの愛の生涯、その情熱と幸福、悲惨と絶望を手紙や回想録から浮彫りに。

人間マルクス.JPG  マルクス&ジェニー.jpg KarlMarx_Tomb.jpg  マルクス・エンゲルス小伝.jpg フリードリヒ・エンゲルス.jpg
マルクス&ジェニー/マルクスの墓(ロンドン/ハイゲイト墓地) 『マルクス・エンゲルス小伝 (岩波新書 青版 543)』/フリードリヒ・エンゲルス
人間マルクス その愛の生涯 (岩波新書)

 本書は、カール・マルクス(1818-1883/享年64)の生涯をフランスのジャーナリストが追ったものです。サブタイトルに「その愛の生涯」とあり、また、本書の原題も"La vie amoureuse de Karl Marx"イェニー・マルクス.jpgであるように、カール・マルクスの愛情生活を徹底的に追ったものとなっており、マルクスが4歳年上の妻ジェニー(イェニー)をいかに愛し続けたか、その情熱と幸福、悲惨と絶望を、夫人や娘たちとの手紙や友人・知己の多くの回想録等をもとに炙り出しています。また、そうすることによって、マルクスの人間性そのものを浮き彫りにし、それが彼の膨大な仕事にどのように反映されたか推し量る貴重な資料にもなっています。
ジェニー(イェニー)・マルクス

 マルクスは、ベルリン大学卒業後、ケルンの「ライン新聞」の編集長になって政治・経済問題の論文に健筆を奮いますが、急進的な論調のためプロイセン政府の検閲に遭って新聞は発禁処分になり、それが原因で1849年にパリに追放され、ブリュッセルでの生活を経てロンドンに居住し、後半生をその地で過ごすことになります。このことは、生涯のかなりの部分を亡命者として過ごしたことなるとともに、本書を読むと、常に貧困と隣り合わせだったことが窺えます。ロンドンでの彼の運動と著作は、その後の世界の社会主義運動に大きな影響を与えることになりますが、生きていた間は、その名前すら一般の人には殆ど知られていなかったようです。

Marx+Family_and_Engels.jpg ジェシーとの間に生まれた2男4女のうち、成人を迎えることができたのは長女ジェニー(妻と同じ名)・次女ラウラ・四女エリナの3人だけで、あとは病気などで亡くなっており、家計が苦しく医者に診せる費用さえ十分に捻出し得なかったことも子ども達の早逝の一因として考えられるというのはかなり悲惨です(このほか更に、出生死の子が1人いた)。また、そうした苦境を乗り越えてきたからこそ、それだけ二人の愛は強まったとも言えるかと思います。

マルクスと妻ジェニー、次女ラウラ、四女エリナ、エンゲルス。

 一方で、マルクス家に献身的に仕え、マルクス夫婦と同じ墓地に埋葬されているマルクス家の女中ヘレーネ・デムート(マルクスの家のやり繰りが苦しい時は無償で働いた)が生んだ私生児フレディの父親が、実はマルクスであったということも、本書には既にはっきり記されています(本書の原著刊行は1970年。1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙から、ヘレーネの息子の父親がマルクスであることが確実視されるようになった)。

イェニー・マルクス.png マルクスの妻ジェニー(イェニー)は夫の不義に悩みながらもそれを許したようですが、封印されたこの一家の秘密は、その後家族に多くの抑圧を残します(この辺りは、フランソワーズ・ジルー著『イェニー・マルクス―「悪魔」を愛した女』('95年/新評論)に詳しい)。そして妻ジェニーは1881年の年末に亡くなり、悲しみに暮れるマルクスに、更にその1年後に長女ジェニーが亡くなるという悲劇が襲い、その2か月後にはマルクスも息を引き取ります。月並みな解釈ですが、やはり、マルクスにとって、妻と娘たちが生きるエネルギーの源泉だったということでしょうか(因みに、マルクス逝去の時点で存命していた2人の娘のうち、マルクスと「告白」遊びをしたりした次女ラウラは1911年に夫と共に自殺、四女エリナは1898年に恋人と無理心中して自分だけ亡くなっているが、これについては偽装殺人の疑いがもたれている)。
イェニー・マルクス―「悪魔」を愛した女

 本書によれば、マルクスは、ロンドン時代も夜となく昼となく読み、且つ書いて、膨大な著作を生み出したものの、それらは殆ど金にならず彼は絶望したとのこと、現実にそれは何年も家庭に「貧困」が腰を据えるという形で妻や子度たちの苦しめたため、彼はイギリスの鉄道会社に書記として就職しようとしたとのこと、但し、非常な悪筆のため採用を断られたとのことです(何度も彼の原稿の清書をした妻ジェニーは、マルクスの字をハエの足跡のようと言っている)。これは1862年頃の話ということで、『資本論』の第1巻が世に出るのはその5年後ですから、もし生活のために鉄道会社に勤めていたら(もしマルクスが達筆だったなら)『資本論』の方はどうなっていたでしょうか。

大内兵衛.jpg この他に、マルクスの生涯をその「仕事」よりに辿ったものに、大内兵衛(1888-1980)による『マルクス・エンゲルス小伝』('64年/岩波新書)があり、『ドイツ・イデオロギー』『哲学の貧困』『共産党宣言』『経済学批判』そして『資本論』といった著作がどのような経緯で成立したのかが、マルクスの思想形成の流れやその折々の時代背景と併せて解説されています。多少エッセイ風と言うか、著者は、「これは勉強して書いた本ではない。一老人の茶話である」とはしがきで述べていますが、「茶話」としてこれだけ書いてしまうのはやはり大家の成せる技でしょうか。

 前半3分の2がマルクス伝であるのに対し、後半3分の1はフリードリヒ・エンゲルス(1820-1895/享年74)の小伝となっています。個人的に印象に残ったのはマルクスの死後まもなくエンゲルスが旧友に送った手紙で、その中でエンゲルスは、「僕は一生の間いつも第二ヴァイオリンばかり弾いていた。これならば相手上手といったところまでやれたように思う。が、何といっても、マルクスエンゲルス.jpgという第一ヴァイオリンが上手であったのですっかり有頂天になっていた。これからはこの学説を代表して僕が第一ヴァイオリンを弾かねばならぬのだ。よほど用心をしないと世間の物笑いになるかもしれない」と書いており、並々ならぬ決意と覚悟が窺えます。『共産党宣言』はマルクスとエンゲルスの共作であるし、エンゲルスはマルクスの『資本論』執筆に際しても多くの示唆を与え続けていたとのこと、そのマルクスが亡くなった時点で『資本論』は第1巻しか刊行されておらず、『資本論』の第2巻と第3巻は、マルクスとエンゲルスの共著とも言え、『資本論』が完結を見たのはエンゲルスの功績が大きいようです。
フリードリヒ・エンゲルス(1820-1895/享年74)

マルクスとエンゲルスの銅像.jpg エンゲルスは実業家でもあり、マルクスのロンドン時代に彼はマンチェスターでエルメン・エンエルス商会の番頭として「金儲け」をし(本人の本当の関心は勉学にあったようだが)、その産物の一部をマルクスに捧げることでマルクスとその家族の生活を支える一方、自らも仕事の傍ら勉強に力を入れたとのこと、また、堂々とした体躯と奥深い知識と智慧で「将軍」などと呼ばれたりもしていたようですが(実際、軍事分野における造詣が深く、この分野の著作もあった)、ユーモアと社交性に富み、非常に魅力的な人物像であったようです。大内兵衛は本書で何度か、マルクス=エンゲルスの関係を「管鮑の交わり」と表現しています。
東ドイツ時代に建てられたマルクスとエンゲルスの銅像(ドイツ・ベルリン)

《読書MEMO》
●「告白」(ラウラからマルクスへの問いとマルクスの回答)(『人間マルクス』より)
最も高く評価する特質 ...... 一般には素朴、男性では力、女性では弱さ
性格の特徴 ...... 一貫した目的を追うこと
幸福とは ...... 闘うこと
不幸とは ...... 服従すること
最も赦しがちな欠点 ...... 軽信
最も嫌悪する欠点 ...... 奴隷根性
毛嫌いするもの ...... マーティン・タッパー ( 当時のイギリスの詩人 )
好きな仕事 ...... 古本屋あさり (あるいは本食い虫になること )
好きな詩人 ...... シェイクスピア、アイスキュロス、ゲーテ
好きな散文作家 ...... ディドロ
好きな英雄 ...... スパルタクス、ケプラー
好きなヒロイン ...... グレートヒェン ( ゲーテ『ファウスト』のヒロイン )
好きな花 ...... 月桂樹(laurel ... Laura=ラウラ)
好きな色 ...... 赤
好きな名 ...... ラウラ=ジェニー
好きな料理(Dish) ...... 魚(Fish)
好きな格言 ...... 人間に関することは何一つ私に無縁ではない(テレンティウス(ローマの劇作家)
好きな標語 ...... すべてを疑え

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