「●い 伊集院 静」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2169】 伊集院 静 『なぎさホテル』
作者が「先生」の思い出を熟成させて描いた渾身の作。人生の恩師へのレクイエム。
『いねむり先生』(2011/04 集英社)『いねむり先生 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)』漫画:能條純一
女優だった妻の死後、アルコール依存、ギャンブルに溺れ、壊れてしまったボクは「いねむり先生」こ出会い、"大きな存在"との交流の中で、再生を果たす―。
「小説すばる」(集英社)に2009年8月号から2011年1月号まで連載された作品で、2011年4月単行本刊行。作者は同じ年の7月単行本刊行の『なぎさホテル』の中で、自分は作家として自分の経験に全く関係ないところを起点に小説は書けないタイプであるといったことを書いていました。実際これまでも野球を素材にした作品など自分の経験をベースにした作品は多くありましたが、これは主人公の名前がサブローとなってはいるものの、ほぼ自伝的小説とみていいのではないでしょうか。作者が最も苦しんでいた時期に巡り合った「先生」色川武大とのかけがいの無い思い出を描いているように思えました。
作者の妻だった夏目雅子が亡くなったのが1985年9月11日で作者が35歳の時。作者が色川武大に出会ったのは、この作品には書かれていませんが、色川武大のエッセイによると作者の亡妻の命日だったとかで、その何年か後になります(おそらく一周忌?)。その日は夏目雅子ファンが某所に500人くらい集まっており、色川武大には挨拶だけにしてそちらへ出席する予定が、ほんの遊びでチンチロリンを始めたら負けが込んで席を立てなくなったということで、亡妻の命日に賭け事で"尻が長くなる"という作者の状況に色川武大は哀しみと愛着を覚え、作者に弟のような感情を持ち、やがてそれは恋人のような気持ちにまで発展していったということです(因みに、作者を色川武大に引き合わせたのは漫画家の黒鉄ヒロシ氏で、作中ではKさんとなっている。新幹線の車中で先生が富士山を見て先端恐怖症の発作を起こし、サブローが助けを求めて電話する相手がこのK氏)。
しかし、この作品はあくまで主人公サブローの視点から描かれており、主人公は「先生」に誘われるがまま、競輪場を巡り毎晩マージャンに明け暮れる「旅打ち」に出かけるわけですが、そうしたことを淡々と時にユーモアを交えて綴りながら、先生の人間的な奥の深さ、自らが抱える心と身体の闇(色川武大がナルコレプシーの持病があったことは有名)、自分に対する先生の優しさがじわーっと伝わってくるようになっているのがいいです(先生が主人公に再び小説を書くよう何度も勧める場面が、今日の作者の活躍を思うと感慨深い)。
この作品は能條純一作画で劇画化され、藤原竜也・西田敏行主演でテレビドラマ化(単発)もされていますが、やはり原作が一番いいのでは(漫画も読んでおらず映像化作品も観ていないため確証は無いけれど)。テレビドラマでは夏目雅子役の女優(波瑠)が出ており、藤原竜也と二人で夏目雅子の墓前に墓参りに行ったのが何かで報じられていましたが、原作では夏目雅子は登場せず、なぜこんないじくり方をするのか腑に落ちません(やはり視聴率狙いか。夏目雅子という人を直接的に売り物にしないというのが作者のポリシーであるはず。ドラマよりはコミックのほうがまだ良さそうか?)。
『いねむり先生 コミック 1-4巻セット (ヤングジャンプコミックス)』
物語で、サブローが先生と行動を共にしていく中で再生(恢復)していくところが、年齢の違いはありますが、色川武大が「阿佐田哲也」名義で書いた『麻雀放浪記』における〈ドサ健〉と行動を共にすることで成長していく〈ボヤ哲〉とダブっているように感じられるのが興味深かったです。和田誠監督の映画化作品ではそれぞれ鹿賀丈史と真田広之が演じています。因みに、色川武大が60歳で亡くなったのは1989(平成元)年4月で、映画「麻雀放浪記」公開はその5年前。映画「麻雀放浪記」公開の頃、作者は未だ「先生」に見(まみ)えておらず、2人の出会いが1985年9月に亡くなった夏目雅子の一周忌以降であるとすれば、一緒にいた時期はそう長くないことになります(2、3年か。それだけ密度が濃かったとも言える)。
色川武大パネル(遺品展にて)
終盤まで面白く読めましたが、ラストのサブローが先生の訃報に触れる場面では、読んでいるこちら側も思わずグッときてしまいました。それまで先生のことを淡々と描いていたことも含め、作者の"泣かせ"のテクニックだったのかとも思ったりもしましたが、やはりここはストレートに感動させられたことを素直に認めることにします。
単行本は、全く絵柄の無い表紙。そのことが却って、作者が20年余りの間に記憶(「先生」の思い出)を熟成させて描いた渾身の作品であり、また、人生の恩師へのレクイエムであることを物語っているように思いました。
【2013年文庫化[集英社文庫]】
伊集院静 2023年11月24日死去(73歳没)作家、作詞家
ワールドビジネスサテライト(2023年11月24日)