「●く アガサ・クリスティ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1542】 アガサ・クリスティ 『杉の柩』
「○海外サスペンス・読み物 【発表・刊行順】」の インデックッスへ「●TV-M (クリスティ原作)」の インデックッスへ「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「●日本のTVドラマ (90年代~)」の インデックッスへ(「アガサ・クリスティ そして誰もいなくなった」)「●津川 雅彦 出演作品」の インデックッスへ
誤訳論争はあるが清水俊二訳の方が好みか。再読でも楽しめる("叙述トリック"探しで?)。
『そして誰もいなくなった (1955年) (Hayakawa Pocket Mystery196)』['55年・'75年('01年復刻版)/清水俊二:訳]『そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)』['03年/清水俊二:訳]『そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)』['10年/青木久恵:訳(装幀:真鍋博[1976年4月刊行のハヤカワ・ミステリ文庫初版カバーを復刻)]
英国デヴォン州のインディアン島に、年齢も職業も異なる10人の男女が招かれるが、招待状の差出人でこの島の主でもあるU・N・オーエンは姿を現さない。やがてその招待状は虚偽のものであることがわかったが、迎えの船が来なくなったため10人は島から出ることが出来なくなり、10人は島で孤立状態となる―。
『そして誰もいなくなった (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 1-1))』[清水俊二:訳]
1939年にアガサ・クリスティ(1890‐1976)が発表した作品(原題:Ten Little Niggers (米 Ten Little Indians) (改題:And Then There Were None))で、1982年実施の日本クリスティ・ファンクラブ員の投票による「クリスティ・ベストテン」で第1位になっているほか、早川書房主催の作家・評論家・書店員などの識者へのアンケートによる「ミステリが読みたい!」の2010年オールタイムベスト100の第1位、2012年実施の推理作家や推理小説の愛好者ら約500名によるアンケート「週刊文春・東西ミステリーベスト100」でも1位となっており(1976年創刊の「ハヤカワ・ミステリ文庫」の創刊ラインアップでもトップにきている)、クリスティの自選ベストテン(順不同)にも入っていて、クリスティ自身、インタビューで、自分でも最も上手く書けた作品であると思うと言っていたこともあります。
Collins Crime Club(1939)
この作品がよく読まれる理由の一つとして、10人もの人間が亡くなる話なのに長さ的には他の作品と同じかやや短いくらいで、テンポよく読めるというのもあるのではないでしょうか(しかも、後半にいくほど殺人の間隔が短くなる)。その分、登場人物の性格の描写などは極力簡潔にとどめ、心理描写も他の作品に比べると抑制しているように思います。まあ、あまり"心理描写"してしまうと「叙述トリック」になってしまうからでしょう。
AND THEN THERE WERE NONE .Fontana.1990
それでも、『アクロイド殺し』のようにストレートにではないですが、「叙述トリック」の部分があり、よく知られている箇所では、生存者が残り6名になった時、残り5名になった時、残り4名になった時にそれぞれの内面心理の描写の羅列があって、お互いが疑心悪鬼になっている様が描かれているのですが(どれが誰の心理描写かは記されていない)、4名になった時はともかく6名と5名の時は、この中に「叙述トリック」があると。但し、それが"ウソ"の心理描写になっていてアンフェアでないかという指摘があります(つまり、そのうちの1つは犯人のものであるから)。
ところが、これは実は一部に訳者の清水俊二(1906-1988)の誤訳があって、正しく訳せば、例えば残り5名になった時の5人の心理描写の内の問題の1つは、当事者それなりのあることを警戒する心理を描いたと解することができるものであり、クリスティが巧妙に(アンフェアにはならないように)仕掛けた「叙述トリック」に訳者の清水俊二自身が嵌ってしまったとする見方があります(但し、清水俊二訳は誤訳には当たらないという見方もある)。
清水俊二(右は戸田奈津子氏)
具体的には、清水俊二訳の1955年・ハヤカワ・ポケット・ミステリ版及び1975年改訂版、並びに1976年ハヤカワ・ミステリ文庫版で、残り5人になったときの各人の心理描写の3人目の中に「怪しいのはあの娘だ...」と訳されている部分がありますが、該当する原文は"The girl..."のみです(後に"I'll watch the girl. Yes, I'll watch the girl..."と続くが)。"The girl..."を「怪しいのはあの娘だ...」と訳してしまうと、この部分の心理描写は実は犯人のものであると思われるので、叙述トリックを通り越して読者をミスリードするものになっているという指摘であり、後の清水俊二訳('03年・クリスティー文庫版)ではこの部分は「娘...」のみに修正されています(この時点で清水俊二は15年前に亡くなっているわけだが)。因みに、2010年に清水俊二訳と入れ替わりにクリスティー文庫に収められた青木久恵氏の訳(表紙はハヤカワ・ミステリ文庫の1976年4月初版の真鍋博のイラストを復刻)では、この部分は「あの娘だな...」となっています。何れにせよ、"娘"のことを「次は自分の命を奪うかもしれない犯人ではないか」と怪しんでいるのではなく、「自分の計画を失敗に終わらせる原因となるのではないか」と警戒を強めているといった解釈に変更されているのが最近の翻訳のようです。
青木久恵氏による新訳はたいへん読み易いのですが(「インディアン島」が「兵隊島」になっているのはポリティカル・コレクト化か)、ちょっと軽い印象も受けます。青木久恵氏は、2007年に同じ早川書房の「クリスティー・ジュニア・ミステリ」の方でこの作品を翻訳していて、時間的な制約があったのかどうかは知りませんが、自身による前の翻訳が"底本"になっているような感じがしました。より現代にマッチした言葉使いを意識したということかもしれませんが、個人的には清水俊二訳の方が(誤訳論争の対象になってはいるものの)どちらかと言えば好みです。初読の際の"???"の状態のまま最後の方のページをめくる興奮というのもあったかと思いますが...。但し、この作品は、再読でも楽しめる("叙述トリック"探しで?)傑作であることには違いないと思います。
『そして誰もいなくなった (クリスティー・ジュニア・ミステリ 1)』
この作品は、ルネ・クレール監督の「そして誰もいなくなった」('45年/米)をはじめ、ジョージ・ポロック監督の「姿なき殺人者」('65年/英)、ピーター・コリンソン監督の「そして誰もいなくなった」('74年/伊・仏)、アラン・バーキンショー監督の「サファリ殺人事件」('89年/米)など10回以上映画化されていますが、何れも、小説の方ではなく、クリスティ自身が舞台用に書いた「戯曲」版をベースにしたり、それをまた翻案したりしているそうで、そうした意味では、小説の方はまだ映画化されていないとも言えます(但し、「10人の小さな黒人」('87年/ソ連)だけは、戯曲版をベースにしておらず、原作での設定や展開がほぼ改変無しで採用されているという)。
ルネ・クレール監督「そして誰もいなくなった」('45年/米) ★★★☆
〈主な映画化作品〉
・「そして誰もいなくなった」('45年/米)バリー・フィッツジェラルド、ウォルター・ヒューストン出演。
・「姿なき殺人者」('65年/英)雪山の頂上の館が舞台になり、ロープウェーが停止し孤立という設定に。
・「そして誰もいなくなった」('74年/伊・仏・スペイン・西独)ピーター・コリンソン監督。舞台が砂漠の中のホテルに。オリヴァー・リード、リチャード・アッテンボロー、シャルル・アズナヴール出演。
・「10人の小さな黒人」('87年/ソ連)クリミア半島オーロラ岬に実存する1911年築の洋館を舞台に撮影。
・「サファリ殺人事件」('89年/英)舞台がアフリカの大草原に。キャンプ場のロープウェーのロープが切断され孤立。
・「サボタージュ」('14年/米)アーノルド・シュワルツェネッガー主演。内容や設定などは全くの別物か。
(●2015年制作の英BBC版テレビドラマは、時代が現代に置き換えられていて、10人のうち数人の属性(過去に犯した殺人の方法や動機など)が微妙に改変されているが、ラストは「戯曲」に沿ったこれまでの映画化作品と違って、原作「小説」の通り全員が"いなくなる"ものだった。)
クリスティが自作を戯曲化したものでは、例えば戯曲「ナイルに死す」にはポワロが登場しないし、戯曲「検察側の証人」ではラストで小説にはないヒネリを加えるなど(ビリー・ワイルダー監督の「情婦」('57年/米)は戯曲に即して作られている)、小説からの改変が見られますが、この『そして誰もいなくなった』では、物語の中でも指摘されているように、"見立て殺人"のベースになっている童謡の歌詞の最後が「首を吊る」と「結婚する」の2通りあり、戯曲では「結婚する」の方を採用しています(改変するにしても歌詞に則っているのは立派)。
従って、戯曲版は小説と結末が異なり、最後に男女が一組生き残るわけですが、おそらく戯曲が上演される頃には小説の方はよく知られ過ぎたものになっていて、そこで新たな"お楽しみ"を加えたのではないでしょうか(戯曲に比較的忠実に作られているルネ・クレール監督の映画作品についても同じことが言える)。まあ、最後タイトル通り誰もいなくなってしまうというのは、謎解きする人がいなくなって舞台や映画では表現しにくいというのもあるのでしょう。
小説では、犯人が書き残し瓶に入れて海に流した手記が見つかったことによる後日譚風の謎解きになっているわけで、この犯人というのは、「神に代わって裁きを行う」"超越的"人物(ある種サイコ・シリアルキラー?)ともとれますが、裁きを行うという目的よりも、「誰にも解けない完全犯罪」を成し遂げるという手段そのものが目的化している印象も受け、そうした意味では、異常でありながらも、本格推理作家が創作上目指すところと重なる部分があるかもしれません。
【1955年新書化・1975年改訂(2001年復刻版)[ハヤカワ・ポケットミステリ(清水俊二:訳)]/1976年再文庫化[ハヤカワ・ミステリ文庫(清水俊二:訳)]/2003年再文庫化[ハヤカワ・クリスティー文庫(清水俊二:訳)]/2010年再文庫化[ハヤカワ・クリスティー文庫(青木久惠:訳)]】
「& Then There Were None [Blu-ray]」英BBC版テレビドラマ
「アガサ・クリスティー そして誰もいなくなった」(全3回)●原題:& Then There Were None●制作年:2015年●制作国:イギリス●本国放送:2015/12/26~28●演出:クレイグ・ヴィヴェイロス●製作:ダミアン・ティマー/マシュー・リード/サラ・フェルプス●脚本:サラ・フェルプス●時間:210分●出演:メイヴ・ダーモディ/チャールズ・ダンス/エイダン・ターナー/サム・ニール/トビー・スティーヴンス/ダグラス・ブース/バーン・ゴーマン/ミランダ・リチャードソン/ノア・テイラー/アンナ・マックスウェル・マーティン●日本放送:2016/11/27●放送局:NHK-BSプレミアム(評価:★★★☆)
2016年11月27日、12月4日、12月11日NHK-BSプレミアムで放送
Maeve Dermody(メイヴ・ダーモディ)
「And Then There Were None そして誰もいなくなった≪英語のみ≫[PAL-UK]」
《読書MEMO》
●2017年ドラマ化 【感想】 原作の本邦初映像化作品であるとのこと(監督は和泉聖治、脚本は長坂秀佳)。登場人物および舞台は現代の日本に置き換えられ、一部の人物の職業や過去に犯した殺人の方法、動機も変更されているが、BBC版と同じく、最後は原作「小説」の通り全員が"いなくなる"。そうなると、上述の通り、謎解きをする人がいなくなり、この問題をクリアするため、最終盤で沢村一樹演じる警視庁捜査一課警部・相国寺竜也が登場、彼がリードして捜査し(この部分はややコミカルに描かれている)、犯人が残した手紙ならぬ映像メッセージに辿りついて事件の全容が明らかになるという流れ。
2017年3月25日・26日の2夜連続ドラマの各冒頭で、3月14日に亡くなった渡瀬恒彦が出演した「最後の作品」であることを伝えるテロップが表示され、エンディングで「このドラマは2016年12月20日から2017年2月13日に掛けて撮影されました。渡瀬恒彦さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます」と流れる。クランクアップの1ヵ月後に亡くなった渡瀬恒彦は、実際に自らが末期がんの身でありながらドラマの中で末期がん患者を演じており、その演技には鬼気迫るものがあった。警部役の沢村一樹の演技をコミカルなものにしたのは、全体として"重く"なり過ぎないようにしたのではないかと思ってしまったほど。同じく和泉聖治監督により2018年には「パディントン発4時50分~寝台特急殺人事件~」、2019年には「アガサ・クリスティ 予告殺人」が制作された。
「アガサ・クリスティ そして誰もいなくなった」●監督:和泉聖治●脚本:長坂秀佳●プロデューサー:藤本一彦/下山潤/吉田憲一/三宅はるえ●音楽: 吉川清之●原作:アガサ・クリスティ●出演:仲間由紀恵/沢村一樹/向井理/大地真央/柳葉敏郎/藤真利子/荒川良々/國村隼/余貴美子/橋爪功/津川雅彦/渡瀬恒彦/ナレーション‐石坂浩二●放映:2017/03/25・26(全2回)●放送局:テレビ朝日