2012年12月 Archives

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「心理学的」立場、「病跡学的」アプローチから、多様な異常心理に通底するものを探る。

あなたの中の異常心理 (幻冬舎新書).jpgあなたの中の異常心理 (幻冬舎新書)』〔'12年〕異常の心理学.jpg相場均 『異常の心理学』〔'69年〕

 著者は、「異常心理についてこれまで書かれたものは、明白な異常性をもった状態にばかり注目していると思う」「中身は、そっくりそのまま精神医学の病名の羅列とその解説になっているということが多い」としていますが、確かに、ここ何年もそうした傾向が続いているように思われ、一方「心理学」を冠した一般書は、対人関係のテクニック、困った性格の人との接し方といった実用書的なものが多くを占めるようになってしまっている印象を受けます。

 本書では、「異常心理」は精神障害に限ったものではなく、誰の心にでも潜んでいるものであるとし、健康な顔と異常な顔は一つの連続体として繋がっているとしたうえで、異常心理の原因、それらの根底に通じるものについて書いています。

 こうした切り口の本は、かつては、『異常の心理学』('69年/講談社現代新書)を著した相場均(1924‐1976)や、多くの心理学の啓蒙書を著した宮城音弥(1908-2005)など、書き手が結構いたように思いますが、臨床重視の傾向にある最近では、このタイプの精神医学の素養を持った「心理学」者はあまりいないのではないかと...(著者は東大哲学科を中退し京大医学部で精神医学を学んでいるが、宮城音弥は、京大哲学科卒業後にフランス留学し精神医学を学んでいる)。

 著者の得意とする著名人や文学作品・映画の主人公の生き方を引く方法で、異常心理を7つの類型で分かり易く解説しており、精神科医兼作家が書いた、いわば「文系心理学」の本かと(著者は小笠原慧のペンネームで書いた小説「DZ」で横溝賞を受賞している)。

yukio mishima2.jpgマハトマ・ガンジー.jpg 「完璧主義」の病理を説いた第1章で出てくるのは、何事においても完璧を求め努力した三島由紀夫(その完璧主義が彼自身を追い詰めることになった)を筆頭に、映画「ブラック・スワン」の主人公、東電OL殺人事件の被害者、極端な潔癖主義だったマハトマ・ガンジー(父の最期の時に肉欲に溺れていたことへの罪の意識から過剰に禁欲的になったという) 、ピアニストのグレン・グールドなど。

 誰にでもある「悪の快感」が、いじめや虐待、過食症や万引き癖、更には異常性愛に繋がることを説いた第2章では、悪の哲学者ジョルジュ・バタイユと、倒錯と嗜虐性をテーマにした作品を多く残したマルキ・ド・サドの違いを、その生い立ちや生涯から考察するなどしています。

1ドストエフスキー.jpg1夏目漱石.jpgバートランド・ラッセル.jpgjung.jpg 「敵」を作り出す心のメカニズムについて説いた第3章では、ドストエフスキーや夏目漱石などの文豪のエピソードが取り上げられており、幻聴や神経衰弱に悩まされたカール・グスタフ・ユングや、生涯にわたって女癖がひどかったというバートランド・ラッセル(平和活動家としての名声が高まるとともに、活動を共にする取り巻き女性をハーレム化していったという)の話も紹介されています。

 人間が正反対の気持ちを同時に持ち得る「アンビバレント」を解説した第4章に登場するのはシェークスピアの「リア王」で、自分の中にもう一人の自分がいる気がする「解離」などについて説いた第5章では、精神分析、心理分析の歴史を追って主要な先人たちの業績を紹介し、またまたユング登場。

オスカー・ワイルド.jpgニーチェ2.jpgHemingway.bmp 人形(ドール)しか愛せないという異形愛が、幼児期に母親から捨てられたという思いか原因であるとする第6章では、ショーペンハウアーや、同性愛の方へ傾斜したオスカー・ワイルド、そして再び三島由紀夫のことが出てきて、罪悪感は強すぎて自己否定の奈落に陥ってしまうことを解説した最後第7章では、幼い頃の父親の死と厳格な母親の教育の重みによって施された心の纏足から自らを解き放とうとして「神を殺した」ニーチェ、スランプと飲酒の悪循環でうつ病になったヘミングウェイが―。

 こうなると歴史上の人物の生涯を精神医学及び心理学的観点を追った、所謂「病跡学」の本かとの印象も受けますが、一方で、普通人で各パターンに当て嵌まる患者の症例なども紹介されていて、異常心理の底にある共通した要因を探る際に、その多くは幼児期や若い頃の体験などにあるため、成育歴が一般に知られている著名人をケーススタディの素材としているのかと思われます(読者の関心を引き易いというのもあるし、著者自身がそうした「病跡学」的アプローチが好みなのかとも思うが)。

 多くの異常心理から読み取れる人間の根源的欲求は、自己保存の欲求、他者からの承認欲求であり、それが損なわれると、端的な自己目的化や自己絶対視に陥って出口無しの自己追求に入り込むか、解離など自己分裂を起こすかでしか自己を保てなくなり、こうした閉鎖的回路に陥らない、或いは陥ったとしても、他者を介することでそこから脱出することが大切であるとしています。

 心理学のクラシカルなスタイルに立ち戻り(「病跡学」などは流行らなくなってもう何年も経つが、かつてはうつ病の先駆的権威である笠原嘉氏などもやっていた)、パーソナリティ障害など現代精神医学で使われる用語の使用を極力避けて書かれていて(「リビドー」など精神分析用語は出てくる)、久しぶりに「心理学」的立場から異常心理について書かれた本に出会ったという印象です。

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障害の体系というものを意識すると意外と難しいかも。中級以上向けの「入門書」?

パーソナリティ障害とは何か 講談社現代新書.jpgパーソナリティ障害とは何か (講談社現代新書)

 本書におけるパーソナリティ障害の各タイプの「個々の説明」は比較的分かり易かったのですが、所々突然難しくなる部分もあったりして、特に最初の方のパーソナリティ障害の「体系の説明」が難しかった...。

 そもそも、DSM‐Ⅳ(米国精神医学会の診断基準)に定義される10タイプの人格障害を、本書では以下の通りに組み直したと冒頭にあり、ごく簡単な説明のもとにこれをいきなり示されても、初学者にはどうしてこうした組み換えをしたのかよく分からないのではないかと思いました。

 A群:内面の感情や思考が重みを持ちやすいタイプ
  1.スキゾイド・パーソナリティ障害 (対象に呑み込まれる不安)
   (ⅰ)スキゾイド・パーソナリティ障害
   (ⅱ)スキゾタイパル・パーソナリティ障害
  2.サイクロイド・パーソナリティ障害 (強い一体化願望)
  3.妄想性パーソナリティ障害 (投影という防衛機制)
 B群:主観と客観とが混じりやすい対象関係を持つ
  4.反社会性パーソナリティ障害 (欠落した規範意識)
  5.境界性パーソナリティ障害 (見捨てられ不安)
  6.自己愛性パーソナリティ障害 (尊大な自己の背後)
 C群:外界の価値観を人格の中に組み込んで、存在のありようを外界と対峙させる
  7.回避性パーソナリティ障害 (恥の心理)
  8.強迫性パーソナリティ障害 (感情の切り離し)
  9.演技性パーソナリティ障害 (他の注目を惹こうとする心理)

 まあ、解説を進める上での前提であり、ことわり書であって、冒頭にくるのはやむ得ないし、本文を読んでいくうちに、著者の豊富な臨床経験に基づくカテゴライズであることは何となく掴めてくるのですが、こうなると専門家の数だけタイプ分けの仕方があるということにもなってくるような気がします。

 DSM‐Ⅳの分類にもとより難点があることは、多くの専門家が指摘していることであり、実際、他書ではまた違った「組み換え」や「復活」が見られますが、著者の分類で最も特徴的な点は、クレッチマーによって「循環気質(サイクロイド)」という名のもとに気分障害(躁うつ病)の病前性格として提唱され、現在はDSM診断体系で気分障害(双極性障害)の項に吸収されているサイクロイド・パーソナリティを、対象関係を得ると楽観的になり失うと悲観的になる人格として「サイクロイド・パーソナリティ障害」という呼び名で、人格障害の一類型として「復活」させている点かと思われます。

 著者によれば、サイクロイド・パーソナリティの人は身近に沢山いて、その性格類型を基盤にした気分障害、とりわけ双極性障害(躁うつ病)が注目を浴びるようになるにつれその意義は増し、DSM‐Ⅳにある「依存性パーソナリティ障害」も、その中核的ケースはサイクロイドではないかと考えるようになったとのこと(従って、著者の分類からは「依存性パーソナリティ障害」は除かれている)。

 著者は、パーソナリティ障害はパーソナリティの病気であるという考えのもとに「○○パーソナリティ」と「○○パーソナリティ障害」を区分していて、「○○パーソナリティ」であっても世の中に適合していくことができる、その道筋を本書で、簡潔ではあるものの具体的に示していて、その視点は参考になりました。

 サイクロイド・パーソナリティの捉え方も同じような視点からきていると思われますが、「入門書ほど書いた人の考え方が如実に表れる」ことの典型であるようにも思いました。

 「自己愛性パーソナリティ障害の特徴は、自己愛的な人の周辺で精神科患者が生産されることである」などの記述は腑に落ちるものであり(著者はこれを「自己愛性パーソナリティ障害代理症」と呼んでいる)、基本的には良書だと思いますが、体系というものを意識すると意外と難しいかも。中級以上向けの「入門書」?(最近、講談社現代新書のレベル設定がよく分からない)
 初学者は本書に止まらず、他の専門家が書いたものも読まれることお勧めします。

《読書MEMO》
●(参考)DSM-IV-TRによる分類
クラスターA
風変わりで自閉的で妄想を持ちやすく奇異で閉じこもりがちな性質を持つ。
1 妄想性パーソナリティ障害
2 スキゾイド・パーソナリティ障害
3 統合失調型パーソナリティ障害
クラスターB
感情の混乱が激しく演技的で情緒的なのが特徴的。ストレスに対して脆弱で、他人を巻き込む事が多い。
4 反社会性パーソナリティ障害
5 境界性パーソナリティ障害
6 演技性パーソナリティ障害
7 自己愛性パーソナリティ障害
クラスターC
不安や恐怖心が強い性質を持つ。周りの評価が気になりそれがストレスとなる性向がある。
8 回避性パーソナリティ障害
9 依存性パーソナリティ障害
10 強迫性パーソナリティ障害

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分かりやすい。しかし、境界性パーソナリティ障害と一口に言っても多種多様。

境界性パーソナリティ障害 岡田尊司1.jpg 境界性パーソナリティ障害 岡田尊司 2.jpg          ヘルマン・ヘッセ.jpg    中森明菜.jpg  飯島愛.jpg
境界性パーソナリティ障害 (幻冬舎新書)』     ヘルマン・ヘッセ/中森明菜/飯島愛(1972-2008/享年36)

 『パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか』('04年/PHP新書)という分かり易い入門書がある著者ですが、本書は、パーソナリティ障害の中でも近年多くの人が悩む身近な問題となってきていると言われる「境界性パーソナリティ障害」にフォーカスした入門書で、こちらもたいへん分かり易く書かれています。

 なぜ現代人に増えているのか、心の中で何が起きていているのか、どのように接すればいいのか、どうすれば克服できるのかなど、それぞれについて、必要に応じて事例をあげ、新書にしては丁寧に解説されているように思いました。

 本書によれば、境界性パーソナリティ障害においては、元々はしっかり者で思いやりのある人が、心にもなく人を傷つけたり、急に不安定になったり、自分を損なうような行動に走ったりと不可解な言動を繰り返し、時には場当たり的なセックスや万引き、薬物乱用や自傷行為、自殺にまで至ることもあるとのこと、「わがままな性格」と誤解されることも多いが、幼い頃からの体験の積み重ねに最後の一撃が加わって、心がバランスを失ってしまった状態であるとのことです。

 解説内容は概ねオーソドックスかと思いますが、第5章の「ベースにある性格によってタイプが異なる」という部分が、境界性パーソナリティ障害の多種多様性を示しており、この部分は研究者によって分類方法が若干異なるかもしれません。

 著者は、①強迫性の強いタイプ、②依存性が強いタイプ、③失調症の傾向が強いタイプ、④回避性の強いタイプ、⑤自己愛性が強いタイプ、⑥演技性が強いタイプ、⑦反社会性が強いタイプ、⑧妄想性が強いタイプ、⑨未分化型パーソナリティのタイプ、⑩発達障害がベースにあるタイプ―の10タイプを挙げています(多いなあ)。

 DSM‐Ⅳ(米国精神医学会の診断基準)で定義された10個のパーソナリティ障害の類型の中に、境界性パーソナリティ障害と並列関係で、強迫性パーソナリティ障害、依存性パーソナリティ障害、回避性パーソナリティ障害、自己愛性パーソナリティ障害、演技性パーソナリティ障害、反社会性パーソナリティ障害、妄想性パーソナリティ障害などがあることは周知の通りで、そういうのも含めて全部「境界性パーソナリティ障害」として説明してしまっている印象もありますが、DSM‐Ⅳが精神疾患の原因ではなく症状(エピソード)を基準としているため、このあたりはスペクトラム(連続体)としてみるか、相対的強弱でみるべきなのだろなあ。例えば、前の方で、「境界性パーソナリティ障害を自己愛の視点から理解すると、境界性パーソナリティ障害は、自己愛障害の一つのタイプ、つまり自己愛が委縮したタイプの自己愛障害として理解される」とあります。

 それぞれのタイプの説明は分かり易く、実際の患者例と併せて、外国の作家や俳優、日本の有名人の例が出てきて(それまでにもランボーや太宰治のエピソードが出てくるが)、それが理解の助けになっており、例えば、「強迫性の強いタイプ」でヘルマン・ヘッセ、「失調症の傾向が強いタイプ」でヴァージニア・ウルフ、「反社会性が強いタイプ」でジェームズ・ディーンなどといった具合。ヘッセについては、パーソナリティ障害の人をどう支えるかを解説した章で、彼がそれをどう乗り越えたかが書かれていて、結構しっかりフォローされているなあと。

 一方、「依存性が強いタイプ」で歌手の中森明菜の場合が、「演技性が強いタイプ」で'08年のクリスマス・イブに自宅マンションで孤独死しているところを発見された飯島愛の場合が取り上げられていて、実際に著者が診察したの?と異論も唱えたくなるものの、読んでみると結構これもまた"腑に落ちる"かどうかはともかく、ナルホドこういう見方もあるのかと―このあたりの作家性も含めた柔軟な解説が、著者の著書に固定読者がいる理由かも(最近、ちょっと量産し過ぎのような気もするが)。

 著者によれば、飯島愛は男性に裏切られ自殺寸前まで追い詰められた結果、もっとしたたかに生きようと、今度は逆に自分の魅力で男性を振り返らせ、手玉にとって、自分の尊厳を取り戻そうとしたのではないかと。したたかな生き方の内側には、拭いきれない寂しさや空虚感があって、明るさと影の対比が多くの人の共感を呼ぶのではないかとしています。

山口美江0.jpg 確かに、飯島愛のブログは亡くなって4年も経つのにいまだにコメントが付され続けていますが、う~ん、何となく共感する人が男性にも女性にも結構いるのかも。
 孤独死と言えば、元タレントの山口美江が今年('12年)3月に自宅で孤独死しているのが発見されたニュースを思い出しますが、何年か前に臨床心理士の矢幡洋氏が、彼女のことを「サディスティック・パーソナリティ障害」が疑われるとしていたのが印象に残っています。

 「サディスティック・パーソナリティ障害」は元ハーバード大学精神医学教授でDSM-Ⅲにおける人格障害部門の原案作成者セオドア・ミロンがパーソナリティ障害の1タイプとして入れていたもので、自己愛性パーソナリティ障害の攻撃が外に向かうタイプと変わらないとしてDSM‐Ⅳで削除されたもの。
 ミロンは、「反社会性パーソナリティ障害」に近いものとしていますが、実際、本によっては、「自己愛性」とグループ化しているものもあり、、矢幡洋氏の場合はそれをパーソナリティ障害の主要類型として「復活」させているわけです。

 DSMそのものも様々な変遷を経ており、その中の1タイプである境界性パーソナリティ障害だけで、著者の言うように10タイプあるとなると結構たいへんだなあと(尤も、パーソナリティ障害の中で境界性パーソナリティ障害がいちばん研究が進んでいるとのことだが)。

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下された判決に過ちがあったのではないか。死刑事件の真相を元裁判官が追っているだけに重い。

司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決.jpg司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決青春の殺人者  dvd.jpg青春の殺人者 デラックス版 [DVD]

 元裁判官である弁護士によって書かれた本書によれば、わが国で冤罪事件が後を絶たないのは、所謂「自白の呪縛」のためばかりではなく、日本の司法の特徴的な面が関わっており、それは、「日本の裁判官は、冤罪危険覚悟で有罪判決を下している」ためであるとのことです。

 日本の職業裁判官は、冤罪の危険領域を知りつつ、それでもなお自分の判断能力を頼りに、薄皮一枚を剥ぐように、或いは薄氷を踏むような思いで有罪・無罪を見極めようとしている、つまり一種の賭けをしているわけであって、そうやって死刑判決さえ出していると―。蓋然性のレベルであっても敢えて「無理に無理を重ねて」死刑判決を下すことがあるから、その内の一部が冤罪になるのは当然と言えば当然と言えると(賭けに全部勝つことはできないのだから)。

 本書では、こうした問題意識を前提に、死刑判決が出されているが冤罪が疑われる案件、有罪らしいが冤罪の主張がなされたことが影響して死刑判決となったと思われる案件、無罪判決が下された後に被告人が同種の猟奇殺人を起こした案件の3つを取り上げて、それぞれの事件及び裁判を、担当した弁護士へのインタビューなども含め検証しています。

 第1章では、'88(昭和63年)に起きた「横浜・鶴見の夫婦強殺事件」が扱われていて、第一発見者に死刑判決が出されたこの事件は、既に最高裁で被告人の死刑が確定し、現在、再審請求中であるとのことです。
著者は、裁判で犯人と第一発見者を区別することがいかに難しいかを説明しつつ、この事件の記録を様々な角度から詳細に検証した結果、被告人を犯人であると断定する確定的な証拠はないのではないか、即ち、証拠上は有罪とすることができないのではないかとし、権力機構の一員としての職業裁判官の思考方法がそこに影を落としているとしています。

司法殺人 元裁判官が問う歪んだ死刑判決2.jpg 第2章では、'74(昭和49)年に起きた「千葉・市原の両親殺し事件」が扱われていて、当件は、中上健次の小説『蛇淫』や、長谷川和彦の第1回監督作の「青春の殺人者」('76年/ATG)のモデルになった事件であり、ある家の22歳の長男が、女性との付き合いを両親に反対され、両親を登山ナイフでめった突きにして殺害した(とみなされた)事件。被告人は公判で「父は母により殺され、母は第三者により殺された」と冤罪を主張をしましたが、捜査中の自白の中に「秘密の暴露」(被疑者が真犯人でしか知るはずのない事項を自白すること)があったことが重視され、最高裁で死刑が確定し、こちらも再審請求中です。

「青春の殺人者」撮影の合間に談笑する水谷豊、原田美枝子、長谷川和彦、中上健次(本書より)

 著者はこの案件が冤罪である可能性は低いとしながらも、ほぼ同時期に起きた「金属バット両親殺害事件」で懲役13年の刑が宣告されていることと比較し、被告が冤罪を主張したことで、家庭内のいざこざに起因する同類の事件でありながら、量刑にこれだけの差が出たのではないか、このような量刑の決め方は、「被告人が無罪を主張したから(国家権力に反抗したから)、それで死刑にしてしまう」というのと同じではないかとし、判決に疑問を投げかけています。

 第3章では、'68(昭和43)年から'74(昭和49)年にかけて断続発生した、女性を暴行殺害し放火する手口の「首都圏連続女性殺人事件」が扱われていて、容疑者として逮捕された中年男性は、東京地裁で死刑の判決を受けたものの、東京高裁では、逮捕後の過酷な取調べが問題視され、自白の任意性が否定されて無罪とされ、検察も上告を断念し、逮捕から17年目にして無罪確定したという案件。被告人は冤罪犠牲者としてマスコミの注目を浴びますが、その5年後に女児殺人未遂で逮捕され、更に被告人の住む団地1階の庭から成人女性の頭部が見つかり、部屋の冷蔵庫から女性の身体の一部が出て、駐車場からは首なし焼死体が発見され、この猟奇事件の犯人として無期懲役が確定しています。
 一事不再理の原則により、「首都圏連続女性殺人事件」を無罪とした東京高裁判決が正しかったかどうかは永遠の闇へと追いやられてしまうのですが、17年間裁判で争ってきた被告人の弁護人自身が、著者のインタビューに答えて、無罪判決は客観的に見れば誤判であったと言わざるを得ないと述懐しています。

 下された判決に過ちがあったのではないか―死刑事件の真相を元裁判官が追っているだけに重く、実際いずれも考えさせられる判決ですが、個人的には、3番目の事件で著者が、「疑わしきは罰せず」は良くも悪しくも「灰色無罪」という考え方に通じるもので、必ずしも真っ白だから無罪というわけではなく、そのあたり「疑わしきは罰せず」と無実とは区別すべきであるとしているのが印象に残りました(この事件の高裁裁判官は、"消極無罪"で対応すべきところを、被告の17年間の拘留を労うなど"積極無罪"と取れる発言をしたとのこと。まあ、裁判官の心証としても"真っ白"だったんだろなあ)。

青春の殺人者 チラシ.jpg 論理の枠組みがしっかりしているだけでなく、文章も上手。2番目の「千葉・市原の両親殺し事件」については、事件の時代背景を描き出すのと併せて、長谷川和彦監督の「青春の殺人者」('76年)について思い入れを込めて描写していますが(著者は1959年生まれとのこと)、一方で、この映画により「青春の殺人者」のイメージの方が事件の裁判よりも先行して定着してしまったとするとともに、事件―原作―映画の3つの違いを整理しています。

 それによると、事件は市川市で起きたわけですが、この事件から着想を得た中上健次は舞台を自らの故郷に置き換え、リアリティとは無関係にひたすら感覚的に自身に引き寄せて、「路地」(被差別部落)の一面を切り取ったような情念の物語にしていると。実際の原の両親殺し事件の犯人は、千葉県屈指の進学校を卒業した若者で、大学受援に失敗して父親の出資でドライブインをやっていましたが、水準以上の知能の都会的青年だったとのことです。

青春の殺人者01.jpg 一方、実際に事件を取材した長谷川和彦監督は、事件と同じく舞台を都市近郊に戻し、その他の部分でも警察発表等に沿って事件の背景や経過をなぞるとともに、主役にTVドラマ「傷だらけの天使」で本格デビューして人気の出た水谷豊(当時22歳で事件の被告とほぼ同年齢)を起用することで、原作の土着的ムードを払拭するなど、より実際の事件に引き付けて映画を撮っているようです(タイトルバックでは「原作:中上健次『蛇淫』より」となっていたと思う)。

青春の殺人者031.jpg 著者によれば、映画と実際の事件で大きく違うところは、主人公が父親に交際を反対された相手女性(原田美枝子(当時17歳)が演じた)が主人公の幼馴染みになっている点と(実際は風俗嬢であり内縁の夫がいた)、事件では本人が裁判で冤罪を主張した点であるとのことで、映画は主人公が「殺人者」であることが前提となっているため、今の時代であれば人権侵害で問題になっているだろうと(一審死刑判決が出たのは事件の10年後で、裁判中は推定無罪の原則の適用となるため)。実際、裁判で被告は、この映画のイメージの世間への影響について言及し、自分は「青春の殺人者」ではないという訴え方をしたようです。

青春の殺人者21.jpg この「青春の殺人者」については、個人的にはやはりどろっとした感じで馴染みにくさがありましたが、今また観ると、長谷川和彦監の演出はいかにも70年代という感じで、むしろノスタルジー効果を醸し、主人公である息子が父親を殺したことを知って、どうやっ青春の殺人者 原田美枝子1.jpgて死体を隠そうかオタオタするうちに、それを見かねた主人公に殺されてしまう母親役(映画では近親相姦的に描かれている)の市原悦子(1936-2019/享年82)の演技が秀逸、そもそも出ている役者がそう多くはないけれど、主役の若い2人を除いて、脇は皆上手い人ばかりだったなあと。水谷豊には「バンパイヤ」('68-'69年)など子役時代もあったはずだが、この作品での演技は今一つ(滑舌はいいが、良すぎて演劇っぽい)、撮影時17歳の原田美枝子は、この時点では演技力よりボディか(しかしながら、水谷豊、原田美枝子ともそれぞれキネマ旬報の主演男優賞・主演女優賞を受賞している)。

長谷川和彦.jpg 長谷川和彦監督(当時30歳)は、この監督デビュー作で'76年の「キネマ旬報ベスト・テン」日本映画ベスト・ワンに輝いていますが、そもそもピンク映画のようなものも含めたシナリオ書きだった彼のところへ、自身の監督作を撮らないかと持ちかけたのはATGの方で、最初はそんなお堅い映画は撮れませんと断ったところを、好きに撮っていいからとプロデューサーに口説かれて撮ったのがこの作品だったとか。

 この人も東大中退のインテリなのですが(アメリカンフットボール部の主将だった)、この作品の後「太陽を盗んだ男」('79年/東宝)を撮っただけで、それから監督作が全く無いというのはどうしたんだろなあ。「青春の殺人者」がキネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれた際に、長谷川和彦監督自身は「他にいい作品がなかったからでしょう。1位、2位、3位、4位なしの5番目の1位でしょう。そう思っています」と言っており、この謙虚さは、これからもっとすごい作品をばんばん撮るぞという意欲の裏返しだと思ったのだが...。

「青春の殺人者」図2.jpg青春の殺人者(長谷川和彦).jpg「青春の殺人者」●制作年:1976年●監督:長谷川和彦●製作:今村昌平/大塚和●脚本:田村孟●撮影:鈴木達夫●音楽:ゴダイゴ●原作:中上健次●時間:132分●出演:水谷豊/内田良平/市原悦子/原田美枝子/白川和子/江藤潤/桃井かおり/地井武男/高山千草/三戸部スエ●公開:1976/10●配給:ATG(評価:★★★☆)
「青春の殺人者」p図2.jpg

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「犯罪神話」の誤謬や犯罪者の実態を解説。ポピュリズムと厳罰化、人はなぜ罪を犯すのかなどを考察。

2円で刑務所、5億で執行猶予.jpg 5億で執行猶予 小室.jpg
2円で刑務所、5億で執行猶予 (光文社新書)』['09年]

 第1編・前半部分「犯罪と犯罪予防」では、治安といった犯罪現象の分析や科学的な犯罪対策について書かれていて、"少年犯罪は凶悪化し、外国人犯罪も増加の一途を辿っている""日本の治安はどんどん悪化している"といった世間に流布されている「犯罪神話」について、データ分析をもとに、それが事実かどうかを検証しています。

 結局のところ、殺人などの凶悪犯罪は戦後からずっと減少傾向にあり、日本の治安は一貫して安全に保たれており、暴力犯罪という視点から見れば日本は世界で最も安全な国であること、少年犯罪も増加していないことを指摘するとともに、現在問題なのは高齢者犯罪の増加であるとするとともに、こうした「神話」の形成には、マスコミの事件報道の(ワイドショー的な)姿勢が大きく影響しているのではないかとしています。

 これまでもこうした「犯罪神話」の誤謬の指摘には触れたことがありますが、依然、こうした「神話」を根拠に「治安が年々悪化するのは、家庭の教育力が低下したこと、地域のコミュニティが希薄化したこと、なにより個人のモラルが低下していることが原因だ」と言って、本書にもあるように、道徳やモラルを重視した教育をすべきだとか、犯罪者の刑罰を厳しくすべきだという主張をする政治家や識者はいるなあと。

 犯罪を少しでも減らすためにはどのような対策が考えられるかを、米国で実施された防犯プログラムなどの効果を検証しながら、犯罪科学的観点から考察しており、著者の専門は犯罪学であると今更のように気が付いた?(本書を手にするまでは法律家かと思っていた)

 一方で、著者は法務省の矯正機関や保護観察所での勤務経験もあり、第2編・後半部分「刑事政策(刑罰)」では、そうした自らの経験を踏まえながら、刑務所に送られる犯罪者の実態を紹介するとともに、人はなぜ罪を犯すのかという犯罪理論につて考察しています。

 興味深かったのは、法律学や法律家が果たすべき役割とその限界について述べた節で、裁判では真実は明らかにならないとしている点で、著者は「法律家は、論理の組み立てでものを考える。そして、論理的な思考が科学的な思考だと勘違いしやすい」「法律家は、法律の専門家、つまり、問題を法的に処理する専門家であって、社会問題を解決する専門家ではない」としている点で、確かにそういうことなのだろうなあと思いました。

 結局、日本の司法官僚は刑事政策の専門家でもなんでもなく、一般市民と同じレベルでマスコミ世論の影響を受けポピュリズムに流されやすい傾向にあるということになるのかも。

橋下徹.png これは前半部分のマスコミ報道の在り方との問題とも関係してくるわけですが、光市母子殺害事件で、テレビ番組に出演して弁護団を非難し、視聴者に弁護士会への懲戒請求を呼びかけた橋下徹氏の言動が視聴者に支持されことが事例として紹介されており(但し本人は懲戒請求しておらず、江川紹子氏は、結局のところ逆提訴されるのを恐れたのではないかというようなことを言っていた)、彼はその後、大阪府知事選に立候補して知事になり、タレント弁護士から政治家へ転身したわけですが、こうした言動がその追い風になった面はあるかも。

 マスコミ報道によって世論が厳罰化する傾向は海外でも見られるそうで、国際比較上は、まだ日本の司法官僚は、官僚組織の一員としての性格が強い分、ポピュリズムには抵抗力があるそうです(著者はポピュリズムそのものを否定しているのではなく、むしろ健全なポピュリズムをどう形成するかが大事であるとしている。橋本氏型のポピュリズは健全と言えるかなあ)。

 著者も述べているように体系だった本ではないので、何となく纏まりを欠く印象も。但し、受刑者はその殆どが社会的弱者であり、刑務所依存症とでも呼ぶべき、刑務所でしか暮らせないような人もいること(刑務所から出所しても更生のための生活支援や就職支援の援助がなければ結局、刑務所に戻らざるを得ないこと)の指摘など、随所に考えさせられる個所はありました。

 犯罪学・刑事政策入門書といった内容に対し、ややずれを感じる本書のタイトルですが(確かに司法制度の在り方にも問題提起しているが、このタイトルでは「量刑相場」について書かれた本かと思ってしまう)、「これは編集者の助言によって広く本書を手にとってもらいたいという願いから付けられたものである。一見すると5億で執行猶予を批判しているような印象を与えるかもしれない。しかし、(中略)妥当な判決であるお肯定的に評価している」と、まえがきに申し添えられています。

《読書MEMO》
●ある意味、刑事司法手続は、98%の人が不起訴や罰金刑で勝ち抜けるゲームであり、受刑者は、その中で2%弱の負け組なのである。ただし、ここで重要なことは、負け組になる理由は、犯罪の重大性や悪質性とは限らないことである。

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「●幻冬舎新書」の インデックッスへ

「感情を揺さぶる証拠」が「衆愚」を招く危険性を、実証的に指摘。

量刑相場  法の番人たちの暗黙ルール1.jpg量刑相場  法の番人たちの暗黙ルール.jpg
量刑相場  法の番人たちの暗黙ルール (幻冬舎新書)』['11年] 

 個々の事件の刑は、刑法の定める範囲内で裁判官が様々な状況を考慮して決定するものであり、それを量刑というとのことですが、この量刑にも、基準と結果の関係を中心とした相場があるとのことで、元裁判官によって書かれた本書は、それを実際の判例に沿って分かり易く解き明かしたものです。

 例えば、道路で唾を吐いたとか、山で焚火をしたとか、往来でキャッチボールをしたとか、日常生活でありそうなことが、どういった刑罰に該当するかといった話から始まって、太った女性に「デブ」と言って侮辱罪で拘留された例や、ゴルフ場からロストボールを"大量"に持ち帰って窃盗罪で懲役10カ月の刑に処せられた例などが紹介されています。

 更に、重大事件では量刑相場はどのようになっているかを、殺人事件、傷害致死事件、現住建造物放火事件、強盗致傷・強盗致死事件、婦女暴行致傷・婦女暴行致死事件...といった犯罪の種別ごとにみていますが、同じ種別の事件でも、その内容の違いによって、それぞれに量刑相場があることが分かります。

 例えば、現住建造物放火事件であれば、衝動的な放火で焼死者なしの場合は懲役4年、衝動的な放火で1人焼死の場合は懲役10年、連続放火で焼死者なしの場合は懲役8~13年、連続放火で1人焼死の場合は懲役18~20年、連続放火で2人以上焼死の場合は無期懲役―といった具合に。

 こうなると裁判官は自身の考えに拠るというより、こうした基準をもとに刑の重さを決めていくことになるんじゃないかなあ。まあ「衝動的か計画的か」などの判断において何を証拠として重視するかといったところで、裁量の幅はそれなりにあると言えばあるし、執行猶予を付けるか付けないかなど、更に調整を効かせる部分もあることにはなりますが。

 平成10年以降から最近にかけての刑事事件の判例が殆どで、いろいろな凶悪事件が起きているものだとも改めて思いましたが、新聞記事で事件のことを覚えていても、判決がどうなったかということまでは、話題になった凶悪犯罪の判決を除いてはそう見るものではないから、たいへん興味深く読めました。

 但し、ちょっと以前であれば雑学ネタであるかのようなこうした内容も、裁判員制度が施行されている今日においては、我々一般人も大体の"相場感"を掴んでおいた方がいいのかも(勿論、万が一裁判員に選ばれた暁には、そのあたりは説明があるのだろうけれど)。

 あとがきで、「裁判員制度のもとで、これからは市民感覚を生かした新しい量刑判断が求められているわけですから、これまでの数字をそのまま基準にすることは意味がありません」とし、本書で示したかったのは量刑の全体像であって、これまでの数字をそのまま準用することは意味が無いと念押していますが、本職の裁判官だって、こうした相場に準拠して判決を下してきたのではないかなあ。

 読んでいて、こうした相場自体には概ね合理性があるように思われ、著者もその前提で解説をしているようであるし、むしろ、裁判員の方で、本書に解説されているような考慮すべき要素が、実際の裁判の場面で充分網羅されるか、均衡性が担保されるかということの方が個人的には気になりました。

 著者は、一点だけ、死刑か無期懲役かについては量刑相場で決める事柄ではなく、死刑の宣告はそれ以外の量刑と全く別次元の問題であるとしています(死刑は一瞬で命を奪うものであるから、自由を奪う期間の長さで刑を決める自由刑とは別物。無期懲役の一つ上に死刑があるわけではない―と)。

 この死刑に処するかどうかの判断問題については、著者の近著『死刑と正義』('12年/講談社現代新書)で、かなり深く突っ込んで扱っていますので、関心がある人にはお薦め
です。

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「死なないで」の有名人メッセージはむしろ有害であると。学級制度廃止は「短期的」解決策?

いじめ加害者を厳罰にせよ (ベスト新書).jpgいじめ加害者を厳罰にせよ (ベスト新書)』  いじめの構造.gif 『いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)』 ['09年]

大津市中2いじめ自殺事件3.jpg 前著『いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか』('09年/講談社現代新書)が、いじめの社会学的分析として評価が高かった著者が、'11年10月に起きた大津市のいじめ自殺事件が今年('12年)7月になって大きくマスコミで取り上げられるようになったのを受けて著したものです。

 大津の事件は特別のものではないとし、いじめ事件の発生メカニズムを、「市民社会モード」から隔離された「学校モード」の中で、仲間外れにされまいと大勢の「ノリ」や「勢い」に同調するところから起きると解明している点は、前著の流れを引くもので、前著より噛み砕いて書かれています。

 更に、いじめ隠蔽の構造とマスコミ報道について言及していますが、いじめの隠蔽構造は、東日本大震災に伴う福島第一原発事故で責任を回避しようとした原子力ムラと相似形であると述べているのは分かり易く、人の命よりも「教育ムラ」の安泰の方が優先されてしまっているということかと。ナルホド(「大津いじめ自殺事件」のその後の経緯は、まさにそのことを如実に物語っている)。

 本書で特に目を引いたのは、「大津いじめ自殺事件」に際してマスコミが、多くの有名人のコメントを報じ、「報道祭り」の様を呈したことを批判的に捉えていることで、そうした有名人を起用してコメントさせることは殆どの場合が有害であり、諸悪の根源が学校制度にあることから目を逸らし、いじめ問題を「心」の問題にすり替えることになっているとしています(あれ、当の子ども達は読んだのかなあ。大人のカタルシスになっているだけの気もするけれど)。

 著者は、とりわけ「死なないで」といったメッセージは、「警察に行く」など正義のため何をなすべきかという選択肢を超えて、いじめ被害者を逆に一気に「生か死か」という問題に追い詰めることになっており、そのようないじめ被害者に本来与えるべきなのは、「加害者は敵だ」というメッセージであるとしています。

 また、マスコミ報道も、「心の問題」にフォーカスするのではなく、「加害者はいかに処罰されるべきか」という社会正義をこそ報道すべきだと。但し、加害者に対し「あいつら、ムカつく」などと「特定」「晒し」を行うことは、これもまた、いじめを生み出す「群れ」と同じ「ノリ」で盛り上がっているに過ぎず、そうした「ネット愚民」になってはならないとも。

 いじめの解決策については、中長期的な解決策としては1つの学校に生徒を所属させる制度を廃止することを、短期的には学級制度の廃止と、「暴力系のいじめ」には学校への法の導入(法に基づいた加害者の処罰)をすべきだとしています。

 学級制度の廃止は前著でも提言されていたように思いますが、前著がいじめの社会学的分析が主だったのに対し、こちらは主張が前面にきていて、より明確で分かり易いように思いました。

 本書における著者の考え方には概ね賛同しますが、シカトする、悪口を言う、嘲笑するなどの「コミュニケーション操作系のいじめ」については司法の介入は難しいとなると、果たして学級制度の廃止が「短期的」解決策として実現可能なものなのかどうか、実際にそうした試みがなされているのか、却って孤立する子も出てくる可能性があり、そうした子どもを見つけてサポートすることも必要になるのではないか等々、やや考えさせられる点もありました。

 そうした試みや運動や行われれば、ある時期一気に拡がるかもしれないけれど、今のところあまり聞かない...。

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入門書としてまともだが、まとも過ぎてテキスト的で、インパクトが弱い。

いじめで子どもが壊れる前に.jpg  『いじめで子どもが壊れる前に (角川oneテーマ21)』 ['12年]

大津市中2いじめ自殺事件 1.jpg '12年7月、前年10月に滋賀県大津市で発生した中学生自殺事件が連日マスメディアで取り上げられるようになり(しかしながらこの事件、学校からも教育員会からも出てくるのは責任逃れ的な発言ばかりだなあ)、そのことを受けて刊行された一連の本のうちの1冊です。書いているのは「教育方法学」の専門家(この著者には、『ケータイ世界の子どもたち』('08年/講談社現代新書)などの前著がある)。

 現代のいじめの状況を俯瞰し、いじめとネット社会の関連をみるとともに(これが著者の得意分野?)、過去の8つのいじめ事件から、なぜそうしたことが繰り返されるのか、活かすべき教訓は何かを探っています。

 取り上げられているのは、今回の大津の事件と同じように「葬式ごっこ」があり、結果的に教師も加担した「中野富士見中事件」(鹿川裕史君自殺事件)('86年)、いじめか犯罪かが問題となった「山形県マット死事件」('93年)、事件後に全国に連鎖的にいじめ自殺を引き起こした「愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件」(大河内清輝君自殺事件)('94年)、同級生からの恐喝・暴行がエスカレートした「名古屋市五千万円恐喝事件」、いじめ被害者がホームページで校長に訴えた事件('99年)、20年前の中野富士見中の事件同様、教師がいじめに加担する形になった「福岡県中学生自殺事件」('06年)、ネット上のいじめが自殺に繋がった「神戸市高校生自殺事件」('07年)、学級崩壊といじめ自殺の因果関係が窺える「桐生市小学生自殺事件」('10年)―これらにしても、とりわけマスコミで話題になったものに過ぎず、氷山の一角なんだろなあ。なんとまあ、このような悲惨な事件が繰り返されるものだと。

 本書では更に、学校はどう変わっていくべきか、いじめを激減させる対策とは何かを整理し、発達障害といじめの関係や、親がわが子にいじめの兆候をみつけたらどうすればよいかについても書かれています。

 但し、どちらかというと、学校側にとっての「危機管理」としてのいじめ対策に重点が置かれているという印象も。著者の専門上、そうした視点にならざるを得ないのでしょうが。

 学校とは理想を語りたがる組織で、「みんな仲良く」などのスローガンが掲げられ、現実に他の子供たちと仲良くできない生徒がいても、こうした「言霊主義」のもと、いじめなどは話題にしにくくなりやすい、という指摘には一理あるように思いました。

 他にも書かれていることには参考になる部分もありましたが、包括的な内容を1冊の新書に盛り込んだため、個々のテーマの突っ込みが浅く、テキスト的になった気がし、子どものいじめに悩む親などが読んでも、それほど具体的な対処策・解決策が得られないのではないかなあと。

 前著『ケータイ世界の子どもたち』も、読んでいて「教育テレビ番組」を見ているような感じ、とでも言うか、あまりインパクトをもって伝わってこなかったのですが、本書も入門書としてはまともであるものの、まとも過ぎることからくる、そうした物足りなさがあります。

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三つの領土問題の異なる性格の分析は明快。解決案はやや歯切れが悪い。

日本の領土問題 北方四島、竹島、尖閣諸島.jpg日本の領土問題2.jpg
日本の領土問題 北方四島、竹島、尖閣諸島 (角川oneテーマ21)』 ['12年]

 かつてはソ連・ロシア相手に交渉をしてきた外務官僚であり、今は大学教授である東郷和彦氏(第二次世界大戦終戦時に外務大臣を務めた元外交官の東郷茂徳は祖父にあたる)と、昭和史研究家の保坂正康氏の対談で、その前に東郷和彦氏が、北方四島、竹島、尖閣諸島という三つの領土問題について、経緯や性格、ポイントを解説的に書いています(そう言えば、『日本の国境問題ー尖閣・竹島・北方領土』('11年/ちくま新書)の孫崎享氏も元外務省だった)。

 直接担当した北方四島問題は、交渉の歴史的経緯の経験的検証があって面白いのですが(四島一括返還に向けては、それを要求しないならば沖縄を領土化するというアメリカからプレッシャーがあったことを初めて知った)、竹島、尖閣諸島に関してはやや概略的かも。但し、解説及び対談を通して言えることは、三つの領土問題は、それぞれ国の立場によって性格を異にしているということであり、一括して論じるべきではないということです。

 例えば北方四島の本質は、ロシアにとっては経済・軍事的権益を巡る「領土問題」であるが、日本にとっては先の大戦末期のソ連から受けた屈辱を晴らし決着をつけるための「歴史問題」であると。

 一方、竹島(独島)問題は、韓国にとっては「領土問題」でなく、日本から受けた屈辱にかかわる重大な「歴史問題」であるが、日本にとって竹島問題は漁業権益をめぐる「領土問題」に過ぎず、そこには大きな温度差があると(日本人には韓国人があの島に特別の思い入れを持つ理由が理解できない)。

 そして、尖閣諸島問題は、最近までは、中国にとっても日本にとっても「領土問題」であって「歴史問題」ではなかったのだが、付近に海底油田があることが分かった1971年頃から中国が領有権を主張し始め、権益獲得のために「歴史問題」を持ち出し始めたと―。

 今、日本が実効支配しているのは尖閣諸島だけで、北方領土はロシアが、竹島は韓国が実効支配しているわけですが、この「実効支配」を覆すのはかなり難しいことのようです。ただ、これは日本にも言えることですが、今のように実効支配している側が「領土問題は存在しない」と言い続ける限り、この問題は解決に向けての進展をみるのは難しいだろうと。

 北方領土は日本にとっては「歴史問題」であるが、戦後の条約上は歯舞・色丹の二島返還論には一定の根拠があり、四島一括返還の困難さからみて、日本国内におけるその"呪縛"を解きほぐし、二島返還から交渉すべきであろうというのは、他の多くの論者も指摘している点であり、東郷氏は、そのことが国後・択捉問題の解決にも繋がっていくとしています。

 一方、竹島問題は、歴史的背景に関する日韓双方の主張に隔たりがあり、韓国には57年も島を実効支配してきた事実と根強い「独島憧憬」もあって、東郷氏は、まずは環境保全などの問題に絡めたアカデミックな交流などから始め、日韓の関係の良好化を図ることを提唱していますが、日本は竹島の主権を放棄して経済権益を守る協定案を結んではどうかとの意見もあるようです(後者の意見について、東郷氏は必ずしも賛成しないが選択肢の一つとしている)。

 また尖閣問題は、現実には資源問題であるが、歴史問題に転化される危険性があり、対談の最後に、これは「石油問題」だと割り切って、世界のエネルギー需要にも貢献することになる尖閣石油の共同開発をしてはどうかと提案しています。

 著者たちは3件ともに日本の領土であり、領土要求を決して取り下げてはならないとはしていますが、日本が現在置かれている、軍事力も経済力もあてに出来ないという国際環境を考えたとき、強気一点張りの、将来の展望のない領土神話を振り回すべきではなく、外交や民間の交流の在り方について真剣に考えるべきであり、北方領土の二島先行返還など可能なことを中心に、多様な選択肢を考えるべきであって、いかなる手段を通じて、いかなるタイミングで領土交渉を日本に有利に展開するかを考えるべきであるとしています。

 こうした現実的で柔軟な方策について真剣に議論することが望ましいとするのは、いかにも実際に交渉を担当してきた元外務官僚らしい意見であり、教えられる点、納得させられる点も多くありましたが、東郷氏自身の提案の中には漠としたものも多く、ニュートラルと言えばニュートラル、あまり歯切れが良くないと言えば良くないようにも思いました(北方四島の歴史的経緯の解説が明快なだけに、逆に提案部分にそれが目立つ)。

 分析が明快で、解決案はやや歯切れが悪いというのは、やはり官僚体質なのかな。田母神俊雄氏や西尾幹二氏みたいな、自分の思想ばかりが前面に出る評論家風になるのも困るけれど。

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「人の命を奪う自由」が裁判員という一般市民に委ねられたという現実を踏まえた良書。

死刑と正義 (講談社現代新書).jpg  『死刑と正義 (講談社現代新書)』['12年] 森 炎.png 森 炎 氏(略歴下記)

 極刑である「死刑」とは一体どのような基準で決まるかを元裁判官が考察した本で、近年の法廷では、凶悪事件において極刑でやむを得ないかどうかを判断する際に、「永山基準」というものが、裁判官だけでなく検察も弁護側も含め援用されていることは一般にも知られるところですが、この「永山基準」というのは、①犯罪の性質、②動機、計画性など、③犯行態様、執拗さ・残虐性など、④結果の重大さ、特に殺害被害者数、⑤遺族の被害感情、⑥社会的影響、⑦犯人の年齢、犯行時に未成年など、⑧前科、⑨犯行後の情状の9項目を考慮することだそうです。

 本書によれば、裁判員制度が始まる前の最近10年間(1999-2008)の死刑求刑刑事事件における死刑判決率は、「三人以上殺害」の場合は94%、「二人殺害」の場合は73%、「一人殺害」の場合は0.2%で(ここまでは、殺害被害者数が圧倒的な決め手になっていることが窺える)、「二人殺害」について更に見ると、金銭的目的がある場合は82%、金銭的目的が無い場合は52%であるそうですが、著者は、そもそも「永山基準」のような形式論理から「死刑」という結論を導き出して良いものか、という疑問を、共同体原理における正義とは何かといったような死刑制度の根源的(哲学的・道徳倫理学的・社会学的...etc.)意味合いを考察しつつ、読者に投げかけています。

 著者は死刑の意義(価値)を条件付きで肯定しているものの、価値化された死刑の議論を進めるにあたっては、その中に空間の差異というものがあるはずだとし、これを「死刑空間」と呼んで、①「市民生活と極限的犯罪の融合」(ある日、突然、家族が殺されたら)、②「大量殺人と社会的防衛」(秋葉原通り魔事件は死刑で終わりか)、③「永劫回帰する犯罪傾向」(殺人の前刑を終えてまた殺人をくりかえしたら)、④「閉じられた空間の重罪」(親族間や知人間の殺人に社会はどう対処すべきか)、⑤「金銭目的と犯行計画性の秩序」(身代金目的誘拐殺人は特別か)という5つの観点から、実際の凶悪事件とその裁判例を挙げて、人命の価値以外にどのような価値が加わったとき、死刑かそうではないかが分かれるかを示しています。

 しかし、その結論を導くには、これら5つの「死刑空間」ごとの事件の差異を見るだけでは十分ではなく、更に、「変形する死刑空間」として、A「被告人の恵まれない環境」、B「心の問題、心の闇と死刑」、C「少年という免罪符」、D「死刑の功利主義」という5つの視点を提起しています。

 5つの「死刑空間」はそれら同士で重なり合ったりすることもあり、更に、AからDの視点とも結びつくことがある―しかも、単に強弱・濃淡の問題ではなく、それぞれがそこに価値観が入り込む問題であるという、こうした複雑な位相の中で、死刑とすべき客観的要素を公正に導き出すことは、極めて困難であるように思いました(本書には、これまでの死刑判決の根拠の脆弱さや矛盾を解き明かし、最高裁判決を批判的に捉えている箇所もあったりする)。

 著者はこうした考察を通して、詰まるところ死刑の超越論的根拠はないとしていますが(多くの哲学者や思想家の名前が出てくるが、著者の考えに最も近いのはニーチェかも)、本書は、死刑廃止か死刑存置かということを超えて、そのことには敢えて踏み込まず、現実に死刑制度というものがあり、死刑は「正義」であり「善」であるという価値判断が成り立っているという前提のもと(但し、そこには"力の感情"が含まれているとしている)、今、従来は司法の権限であった「人の命を奪う自由」が裁判員という一般市民に委ねられたという現実を踏まえつつ本書を著していて、良質の啓蒙書とも言えます。

 裁判員制度がスタートして3年以上が経ち、この間、死刑判決は若干の増加傾向にあるようですが、犯罪及び死刑にこれだけの複雑な位相があるとすれば裁判官が悩むのは無理もなく、一方、市民裁判官である裁判員が、どこまでこの本に書かれているようなことを考察し、なおかつ、裁判官が提示する判断材料にただ従うのではなく、自らの価値判断を成し得るか、そもそも、裁判官がそれだけの「判断材料」を公正に裁判員に示しているのか、疑問も残るところです。

 最近、玉石混淆気味の講談社現代新書ですが、これは「玉」の部類の本。

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森炎(もり・ほのお) 
1959年東京都生まれ。東京大学法学部卒。東京地裁、大阪地裁などの裁判官を経て、現在、弁護士(東京弁護士会所属)。著書多数、近著に『司法殺人』(講談社)がある。

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謎多き生涯を、多くの証言等から再構築。映画の方はフーヴァーに寄り添っている感じだが...。

大統領たちが恐れた男 上.jpg 大統領たちが恐れた男 下.jpg 大統領たちが恐れた男.jpg  大統領たちが恐れた男 j.エドガー dvd.jpg 
大統領たちが恐れた男―FBI長官フーヴァーの秘密の生涯〈上〉 (新潮文庫)』『大統領たちが恐れた男―FBI長官フーヴァーの秘密の生涯〈下〉 (新潮文庫)』『大統領たちが恐れた男―FBI長官フーヴァーの秘密の生涯』「J・エドガー [DVD]
大統領たちが恐れた男 フーヴァー.jpg 1924年にFBI長官に任命され、1972年に亡くなるまで長官職にとどまったジョン・エドガー・フーヴァー(John Edgar Hoover, 1895 - 1972/享年77)の人と生涯の記録ですが、謎の多い彼の長官時代の実態を、多くの証言と資料から立体的に再構築しているように思われました。

大統領たちが恐れた男 j.エドガー.jpg 折しも、クリント・イーストウッド監督、レオナルド・ディカプリオ主演によるフーヴァーの伝記映画「J・エドガー」('11年/米)が公開され、この映画に対する評価は割れているそうですが、本書を読む限り、分かっている範囲での事実関係、或いはフーヴァーのセクシュアリティ(同性愛、異性装)など、ほぼ事実とされている事柄については、比較的漏らさずに描かれていたように思います。

・エドガー3.jpg 映画では、フーヴァーの、FBIの機能・権力を整備・改革・拡大していく才気に溢れた青年時代を、マザコンのために女性と上手く付き合うことが出来なかったその性癖と併せて描く共に、ケネディ兄弟に対する脅迫など自分の地位を守るために手段を選ばなかった最盛期、老いて権力にしがみつく亡霊のようになった晩年期が、ほぼ同じような比重で描かれていたように思います。

 しかし本書を読むと、政治家に対する脅しに関しては、映画で中心的に描かれていたロバート・ケネディ司法長官との対立に限らず、フーヴァーがケネディ兄弟の以前から、歴代大統領の私生活のスキャンダルも含めた極秘情報を使っていかに彼らを恫喝していたかが、様々な証言や資料を基に最も詳しく描かれていて、圧倒的なボリュームを占めています。

 例えば、映画では、ニクソンがフーヴァーの恫喝が通じにくい新しいタイプの大統領であったかのように描かれていますが、本書を読むと、ウォーターゲート事件の先駆けとなるニクソンの政敵への盗聴工作について、自らが実行部隊の責任者でありながら、それがホワイトハウス・マターであることの証拠を確保しておいて、後に自分を長官の座から追い落とそうとするニクソンを恫喝するネタにしていたことが分かります。

 さらに、映画では殆ど描かれていなかったマフィアとの黒い交際(フーヴァーは大好きな競馬で勝ち馬をマフィア関係者から事前に教えてもらうなどの優遇を受け、マフィアを取り締まることはFBIの管轄ではないとしていた)や、映画の方では控え目にしか描かれていなかった同性愛癖についても、様々な事実関係や証言を基に、かなり詳しく検証しています。

J・エドガー1.png 自らがFBIの副長官に任じたクライド・トールソンとの同性愛は、映画ではキス・シーンが1回ある程度で、あとは、フーヴァーのトールソンに贈った詩や、彼が異性との交際の意思をトールソンに伝えた際にトールソンが激昂する―といった象徴的な表現に抑えられていますが、二人が老齢に達して両者の肉体関係は終わったものの、その後もフーヴァー自身は若いゲイなどを相手に同性愛に耽り、女装癖も保持し続けていたことが、本書からは窺えます。

 映画の方は、脚本のダスティン・ランス・ブラックが「J・エドガーのような人物を映画に描くとき、その人物の衷心にあるものを読み取ろうとしないなどということは、私の脚本にはありえない」と述べているように、この女装癖についても、彼の最愛の母が亡くなった際に母親の服を纏うというセンチメンタルなトーンで描かれていましたが、これが老醜の男がベビードールを纏って少年愛に耽っているとなると、かなり一般のイメージが違ってくるのでは。

 本書では、彼のこうした性癖についても最後に簡潔に成育歴からみた精神分析学的な分析を行っていますが、それに加えて、彼が有名人のスキャンダルなどを執拗に追いかけた背景には、相手の弱みを握るためだけでなく、そうしたことをはじめ風紀に関する厳しい取り締まりを行うことが、自分の秘密を守ることに繋がると彼は考えたのだとの分析も示しています。

大統領たちが恐れた男 j.エドガー3.jpg 「犯罪とスキャンダルの摘発」「権力者への恫喝」「自らの性癖の隠蔽」の3つがトライアングルのような関係になっていたことを暗示している分、心理学的にみても本書の方が読みが深いと言え、また、このような人物が国の機関の最高権力者として居続けたことに対する問題提起もされています。

 こうしてみると、映画の方は、むしろフーヴァーに寄り添っている感じですが、とても寄り添えるような人物ではないような...。イーストウッドが撮ると、こうなるのだろうなあ。

 映画でフーヴァーを演じることを切望したというディカプリオの演技は、確かに頑張っているなあという印象はありますが、元々ブルドッグ顔で知られるフーヴァーをディカプリオが演じること自体が視覚的にハードルが高く、晩年期はメイクが濃すぎてゾンビのようで、かなりギャップを感じました(自伝のウソの部分を先に映像にしてしまっている点も気になった。これ、"禁じ手"ではないか)。

J・エドガー2.jpg 本書の原題 "Official and Confidential(公式かつ機密)"は、フーヴァーが収録したファイルの名前で、所謂この「フーヴァー・ファイル」には、有名人に対する恐喝や政治的迫害が記録されているとのことですが、本書にも映画にもあるように、長年にわたって彼の秘書を務めた女性(映画でナオミ・ワッツが演じた、フーヴァーが初めて女性に想いを打ち明け、結婚を断られた相手)が、フーヴァーの死後に、訃報に触れたニクソンがファイル回収のために配下をフーヴァーの屋敷に送り込む前に持ち出し、密かに処分したとのことです。
ナオミ・ワッツ(Naomi Watts1968- )[2012年]
大統領たちが恐れた男 j.エドガー dvd2.jpgナオミ・ワッツ.jpg「J・エドガー」●原題:J. EDG「J・エドガー」01.jpgAR●制作年:2011年●制作国:アメリカ●監督:クリント・イーストウッド●製作:クリント・イーストウッド/ ブライアン・グレイザー/ロバート・ロレンツ●脚本:ダスティン・ランス・ブラック●撮影:トム・スターン●音楽:クリント・イーストウッド●時間:137分●出演:レオナルド・ディカプリオ/ ナオミ・ワッツ/アーミー・ハマー/ジョシュ・ルーカス/ジュディ・デンチ/エド・ウェストウィック●日本公開:2012/01●配給/ワーナー・ブラザーズ(評価★★★☆)

 【1998年文庫化[新潮文庫(上・下)]】

《読書MEMO》
●NHK 総合 2023/03/06 「映像の世紀バタフライエフェクト#32―大統領が恐れたFBI長官」
0大統領が恐れたFBI長官.jpg
リンドバーグ愛児誘拐事件 | フーバーによる科学捜査 | FBIの誕生とフーバーの初代長官就任 | 電話盗聴を行うFBI | トルーマンによるCIAの設立 | 赤狩りの時代 | 公民権運動の弾圧 | レインズ夫妻によるFBI偵察と暴露 | フーバーの国葬 | NSCによる無許可の盗聴(語り:山田孝之)

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デザイナー用の資料集として使えるが、図鑑としても楽しめた。

サイン・シンボル事典3.jpgサイン・シンボル事典2.jpgサイン・シンボル事典.jpg
サイン・シンボル事典

 宗教関係、太陽や月、樹木や花や虫や鳥から、人間の手足など人体の部位や楽器、帽子や仮面など衣服・装身具、象形文字や占星術、人の身振りまで、様々なサインやシンボルの意味やそれらに隠されたメッセージを解説した本で、フルカラーの写真とイラストが2,000点以上と数は豊富です。

 神話と宗教、自然、人間象徴体系といった具合に大分類されていて、その中でさらに例えば宗教であれば古代宗教、ユダヤ教、キリスト教といったようにカテゴライズされているため、それぞれの分野の傾向というものが何となく掴めるものとなっています。
 
 読んでいても面白く、個人的にも気に入っているのですが、絵入りとしては点数が多い分、各アイテムの一つ一つの解説はそれほど深くなく、一通り読んでもそんなに頭の中に残らないかも。全部頭に入れば、文化人類学についてはかなりの博識ということにはなるのだろうけれど...(繰り返し読んでも面白いということは、前に読んだのを忘れているということか)。

サイン・シンボル事典4.jpg 「事典」とあるように、基本的には資料集的な使い方になるかな。広告デザイナーなどは必携かも。自分の使ったモチーフに自分も知らなかったネガティブな意味があったりすると、後でたいへんなことになったりするかもしれないから(結構、そうしたトラブルはあるような気がする)。

 手元にあるのは初版本ですが、'10年に『サイン・シンボル大図鑑』として同じ版元(三省堂)から改訳刊行されています(そっか、自分は図鑑として楽しんでいたわけだ。一応、文化人類的関心から読んだのが)。

 改訳版も内容は大体同じではないかと思われるのですが、Amazon.comの「よく一緒に購入されている商品」で旧版と改訳版がセットになっていていました。

 改訳版は『図鑑』と呼ぶに相応しく、ページ数が128ページから352ページに大幅増となっています(内容も変わったのか?)。今買うなら、新しい方ということになるのかもしれません。

【2010年改訳[『サイン・シンボル大図鑑』]】

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