【1744】 ◎ 木村 伊兵衛 『木村伊兵衛の秋田 (2011/01 朝日新聞社) ★★★★★

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「●「菊池寛賞」受賞者作」の インデックッスへ(木村伊兵衛)

没後47年。やっと成ったライフワーク写真集。失われようとする数多くの「日本」が見てとれる。

木村伊兵衛 の秋田 2.jpg木村伊兵衛 の秋田.jpg (28.8 x 24 x 4 cm)『木村伊兵衛の秋田』 ['11年]
「市場にて」(1953年2月・大曲市)/「青年」(1952年6月・秋田市)

木村伊兵衛 の秋田 農村の娘.jpg 木村伊兵衛(1901‐1974)の生誕110周年記念出版とのことですが、代表作「秋田」シリーズは、今まで『木村伊兵写真全集―昭和時代(全4巻)』('84年/筑摩書房、'01年改版)の内の第4巻として「秋田民俗」というのがあったり、或いは『定本木村伊兵衛』('02年/朝日新聞社)などの傑作選の中にその一部が収められていたりしたものの、こうした形で1冊に纏まったものはあまり無かったように思います(没後に非売品として『木村伊兵衛 秋田』('78年/ニコンサロンブックス、ソフトカバー)が刊行されている)。

 この写真集の監修をした田沼武能氏の解説によると、'52(昭和27)年に秋田に行って「これだ」と思うものがあったらしく、その後'54(昭和29)年にパリでカルティエ=ブレッソンに会ってから、秋田で撮影に一層弾みがついたとのこと、以来、'71(昭和46)年まで計21回、秋田に通うことになったとのことです。

(1953年8月・西木村)

 '50年に設立された日本写真家協会の初代会長に就任し、写真雑誌の投稿写真コンテストの選考・論評を通じてアマチュア写真の指導者としても第一線の現場にいて多忙であったことを考えると('55年に第3回「菊池寛賞」を受賞)、かなり精力的な活動ぶりと言えるかと思います。''

 特に多く撮られているのは、秋田通いを始めた最初の数年と、'58(昭和33)年から'63(昭和38)年の間のもので、田沼氏によれば、木村伊兵衛は秋田を撮り始めて2、3年した頃から写真集を作ろうと考えていたようだったとのことですが、結局、ライフワークとも呼べる作品群でありながら、在命中に写真集という形には成らなかったとのことです(それにしても、没後47年にしての刊行は待たせすぎ)。

木村伊兵衛 の秋田 おばこ.jpg 木村伊兵衛が指向していたものは、テーマがあっちこっちに飛ぶ「傑作集」ではなく、こうした1つの対象を突きつめた「作品集」だったんだろうなあ。"報道写真家"を目指し、またそのことを自負していたようだし。

 「秋田」訪問初期のものは人物のスナップ写真が多く、次第に人々の暮らしぶりや祭りの様子など周辺の生活風景を含めた写真が多くなっていきますが、この辺りにも「写真集」への意識が窺えます。

木村伊兵衛 の秋田 ベタ焼き.jpg

 田沼氏の解説の中に、フィルムのベタ焼き(コンタクト)が多数あり、傑作と言われる「板塀」や「青年」などの作品が、どのような流れで撮られ、どのフィルムが選ばれたかが分かるようになっていて、更になぜその写真が選ばれたのかまで考察していたりして、なかなか興味深いです。

「秋田おばこ」(1953年8月・大曲市)

 「秋田おばこ」は、この被写体の女性(モデル女性は実は農民ではなく、かと言ってプロのモデルでもなく、秋田在住の普通のお嬢さんだったとのこと)だけで30枚以上撮っているんだなあ(採用したのは1枚のみ)。

 撮影対象によって、自分が動いたり、定点観察的に撮ったりしていますが、基本的には(望遠を使用した場合でも)目の高さが基準で、どちらかと言うと初期のものの方がダイナミックかも(田沼氏も、撮影を始めた頃の意気込みが感じられると)。但し、トリミングは一切行っていません。

木村伊兵衛 の秋田 雪国.jpg 木村伊兵衛が"報道写真家"を目指すにあたって、「絵画」の領域に近いユージン・スミスを指向するか、「映画」のキャメラマンの領域に近いカルティエ=ブレッソンを指向するかの選択があったわけですが、木村自身"スナップの天才"と言われたように、元々素質的にカルティエ=ブレッソン型だったのではないでしょうか。

 「秋田」シリーズの初期のものに対しての当初の世の評価は「風俗的で、意見がない」というもので、木村自身(本心からそう思っていたかどうかは判らないが)「風俗写真の域を出ない」と言っていたこともあったようです。じゃあ「芸術写真」を撮ろうとしているのかというとそうではなく、あくまで「報道写真」を撮ろうとしていたのでしょう。但し、彼の作品は、「秋田」シリーズという作品群で捉えるとまさに「報道写真」の域を超えているわけで、ロバート・キャパなどマグナムの写真家らのように予めストーリーを練り上げて被写体に臨むのではなく、被写体の側からテーマやストーリーを滲ませるというのが、この人の特質でないかと思われます。

(1953年2月・大曲市)

「母と子」 秋田・大曲 1959年.jpg 昭和30年代と言えば、日本が高度成長期に入ろうとする頃、或いは、すでにその只中にいる時期であり、但し、それは都市部における胎動、または喧騒や混乱であって、この写真集の「秋田」においては、その脈音やざわめきがまだ聞こえてこない―「秋田」に定点観測的に的を絞ったのは、この写真シリーズの最大成功要因と思われ、この写真集を見る日本人にとっては、そこに、これからまさに失われようとする数多くの「日本」が見てとるのではないでしょうか。

「母と子」(1959年・大曲市)

 それらが、ただ甘いノスタルジーで語られるような牧歌的ものではなく、むしろ、農村の生活の厳しさを滲ませたものであるだけに、見る者の心に、その時代をその土地で生きた人々への共感と畏敬の念を喚起させるのかもしれません。

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