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原発推進もオウムやテロと同じ世界破壊「信仰」?! 相変わらず、もやっとした感じの本。
『夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)』['12年]『文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える (NHKブックス)』['02年]『不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))』['08年]
自分のイマジネーションが著者に追いつかないのか、はたまた単に相性が悪いだけなのか、相変わらず、本当にもやっとした感じの本でした。
朝日新聞に掲載されていた比較文化学者の田中優子氏の書評によると、タイトルの「夢よりも深い覚醒へ」というのは、著者の師匠である見田宗介の言葉だそうで、悪夢から現実へと覚醒するのではなく、夢よりも深く内在することで覚醒するという意味だそうです。
著者によれば、阪神・淡路大震災とオウム事件は何かの終りであり、おそらく東日本大震災と原発事故は、その終わり始めたものを本当に終わらせる出来事であったとのことで、要するにこれらは、破局と絶望に一連の流れ上にあると。
9.11(テロ・アフガニスタン)と3.11(震災・原発事故)を同種の破局であるとして、進化論を持ち出してどちらも「理不尽な絶滅」であるとしているのは、震災とテロを一緒くたにして何だかハルマゲドンを煽っているっぽいなあという気がしたのですが、著者の論点は、まさにこの"同一視"に依拠しています。
著者が、9.11テロとそれに対するアメリカの反攻に内在する思想的な問題(ナショナリズム)を、「文明の衝突」というハンチントンの概念を援用して読み説いた『文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える』('02年/NHKブックス)を著した理由は、9.11テロが世界同時性を持ちながら、日本の知識人にとっては対岸の火事であって実存的問題にならず、著者自身も、社会学者としての無力感に見舞われざるを得なかったとのことからではなかったと思います。
そうした忸怩たる思いでいたところが、3.11によってやっと著者自身、「理不尽な絶滅」を実感することができたというところでしょうか。前著『不可能性の時代』('08年/岩波新書)に既にその傾向はありましたが、全ての事象を、この「理不尽な絶滅」へ強引に収斂させているという印象を受けました。
著者は、『文明の内なる衝突』において、イスラームやキリスト教の中にある資本主義原理を指摘する一方、「資本主義は徹底的に宗教的な現象である」としていましたが、本書では、世界を破壊する否定の力への信仰がオウムであるとすれば、原子力もまた、その破壊潜在力への「信仰」ではないかとしています。
「日本人の戦後史の中で、原子力は、事実上、神のように信仰されていた」とあり、原爆の恐怖を知って間もないはずの日本人が、活発な地震帯の上に50基以上もの原子炉を建設してきたことは、まさに「破壊への欲望」であり、これは、オウム、9.11テロと重なる―という論旨は、個人的にはかなり牽強付会に思えるのですが...。
マイケル・サンデルの「暴走機関車」の例え話から始まって、原発問題を倫理哲学的に考察し、後半はカント、ヘーゲルを持ち出し、イエス・キリストの思想を持ち出し、「神の國」と現実をいろいろ行ったり来たりしているのですが、これ、サブタイトルにあるように思想哲学の本だったのか―(だとすれば、ある程度の牽強付会はありなのか?)。